• 検索結果がありません。

年の免相と比べ田方は分の高率にして、畠方が 5 分の低率 と定めている [勧学院文書,37-1,34] 。

ドキュメント内 Taro-桃山町の年表 (ページ 53-56)

慶長6(1601)年 527日付け興山応其上人書状、調月荘中勝助宛:其の方の事を ・浅野幸長、和歌山藩主となり、紀伊全体の検地を実

(安土桃山時代) 聞きたいと思い使者を送った。菊千代(孫)が手習いも精入れ安心 施[60]

だろう。この6、7日は当方も気分が良い。委しくは使者の喜四郎 ・5月21日付け徳川家康朱印状:高野山寺領21

から申す[高野山校倉文書,37-2,34] 石を寄付する。青巖寺は学侶に、興山寺は文殊院(行人

方)に所属させる。7500石は衆徒中(学侶)、2000石は青 巖寺(学侶方)とする。奥之院2000石、修理料1000石、

興山寺領 1000 石は行人方の知行とし、7500 石を行人 方領とする[高野山安養院文書,37-4,6-5,12-下,伊都郡誌,34]

慶 長 7(1602)年 ・3 月、高野山遍照院の覺榮が飯道寺に隠棲の応其上人に報告し ・4月18日付け木食應其書状、調月荘於駒宛て:度々

けいちよう かくえい はんどう じ

(後陽成天皇) た造営費見積:荒川荘川堤千5百石、三船神社修築453石、云 書状をもらったが、変わった事ないため返事しなかっ (安土桃山時代) [11-3,34] た。菊千代は必ず立派になるから、その心得すること。

410日付け木食應其上人書状、調月荘於駒宛て:紙袋三つ届 私は思いの外疲労している。この様子ではやがてこの いた。遙々見舞いかたじけない。菊千代のこと、どうかして当方 世を去る状態である。色々菊千代が我への心遣いは不はるばる が安心できるようにされたい。当方へのしつけは不要である。き 要である。今この書状も書きがたいのでただ一筆にと っと分別するようになるだろう。万事難しい事は嫌である[高野山校 どめた。追伸:意外に疲労しているので筆をおく[高野山

倉文書,37-2,34] 校倉文書,37-2,34]

慶 長 8(1603)年 ・416日、荒川荘の津田左京公が願主として神田三船神社の社 ・2月12日、徳川家康が征夷大将軍に任じ江戸幕府を

けいちよう

(江戸時代) 殿屋根の上葺きを修復[三船神社棟札銘,県史中世1,34]。津田左京は荒河刀弁と べ 開く[21,44]。江戸時代となる[21]

の後 胤こういん/荒川兵衛尉俊尊 14 代平野弾正左衛門俊光の弟[平野家文書 ・3月27日付け江戸幕府布告:百姓を無闇に殺しては

,37-3,23] ならぬ。たとえ罪科あっても百姓を搦め捕らえ、奉行から

所にて判決の上で罪を申しつける事[幕府法令上,近世法制度史 ,34]

慶長9(1604)年 ・荒川荘神田村の津田刑部(左京)に紀伊国主/浅野幸長から知行よしなが

400石を与えられる[津田家文書,6-3,34]

・12月16日、調月荘に地震被害あり[19]

慶長10(1605)年 ・7月付け高野山衆徒(学侶)中/寺領目録(抄):安良見村:460石、 ・8月付け荒川荘三船神社修復料覚書:本願は高野山 物成(年貢)216石48升、うち大豆508升。杉原村:高330石、 遍昭院/覺榮。下司(平野氏)・公文(奥氏):米1石ずつ。

物成1446斗、うち大豆646斗。勝神村:4176升、 本座衆: 2 斗ずつ。新座衆: 1 5 升ずつ。他所か 物成15315合、うち大豆9555合。遠方村:高142 ら来た衆:銭100文ずつ。人別:米2升ずつ出す[最上興山寺

石、物成63668合、うち大豆2978升。細野村:高405 文書,県史中世1,奥家文書,37-7,34] 石、物成1931斗、うち大豆6163升。善田村:1238

8升、物成6375升、うち大豆24石。野田原村:高175石、

物成147 718合。長谷村・猿川村・真国村を合わせて那 賀郡の物成9500[11-6,34]

慶長13(1608)年 ・11 25 日付け高野山学侶方年領下知状、高野山学侶支配寺領 ・10月1日、応其 上 人、飯道寺(甲賀市水口町)にて死おう ご じようにん はんどう じ (江戸時代) 中宛て:当年の駿河夫(家康の居城/駿河城造営人足)は、那賀郡荒 [11-2,13,37-7,34]。・高野山に興山寺を創建、秀吉の高野攻

見村・杉原村、真国荘、伊都郡花園荘の四カ所から一人ずつ、合 めを和議で救った名僧[21] わせ4人を出すから、去年のように7000石寺領へ勘定(割当て)す

ること[11-5,34]

12 3 日付け高野山学侶方領駿河夫銭算用触状(抄)、荒川荘荒 見村・杉原村・遠方村・勝神村・善田村・野田原村・細野村、な 23か村宛て:駿河夫(代)銭の上納を命じる[11-5,34]

慶長15(1610)年 ・慶長十五(1610)年、(奥)出羽守并嫡子/杢之助、大坂の陣出馬、

奥杢之助ハ元和元(1615)年大坂落城之節、討死ス[11-3]

慶長17(1612)年 ・8月6日付け徳川秀忠触達:バテレン(キリスト教)門

徒は禁制とする。煙草吸うこと禁断とする。牛を殺す こと制禁とする[幕府法令-上,34]

慶長18(1613)年 ・6月付け紀州検地高目録(抄):高野山寺領21千石を除く紀州 ・6月付け紀州検地帳(抄):高野山寺領を除く那賀郡の 検地惣高376562586合、惣村数1075村。うち、 村数158箇村、検地惣高6954795 高野山寺領を除く那賀郡内村数158村、惣検地高69547 合。段村の検地高15246[有田郡広川町柳瀬・石川家文

795合、小物成(年貢)計9122合。下田中荘段村の 書,県史近世 1,34]。[この年には那賀郡荒見村・杉原村・勝 検地高15246合、上田中荘高野村検地高162995 神村は高野山寺領荒川荘に属していたことを示す[34] 合、小物成515合。上田中荘勝神村検地高98688

合、小物成39[海南市重根間藤家文書,県史近世3,34]

慶長19(1614)年 7月付け京都方広寺大仏殿供養人足注文:荒川荘神田村 10人、杉 ・10 月付け高野山学侶方寺領免相(年貢率)目録(抄):めんそう

原村22人、遠方村10人、野田原村10人、黒川村10人、調月荘19 荒(休耕)、川成(洪水で川原になった荒地)を除く荒川荘 人、荒見村32人、ほか合わせ人足400人出すこと[11-3,勧学院文書 善田村89分。遠方村88分・畠67分。阿良

,37-1,34] 見村88分・畠61分。杉原村87分・畠67

1025日、調月荘に地震被害[19] 分。細野村88分・畠7割。野田原村9割・畠72

・大阪冬の陣起こり、根來寺衆徒の一団、大阪の陣に加勢する[60]。 分。勝神村85分・畠59[勧学院文書,37-1,34]

・11 月、家康が全国の大名を召集し大坂城を攻囲(大 坂冬の陣)。翌月、外堀を埋める条件で和議を結んだが、

約束に反して内堀までも埋め立てた[21]

慶長20(1615)年 ・216日付け高野山碩学領荒川荘百姓八名起請文:高野山碩学 ・4 6 日、家康が諸大名に大坂攻めを命じ、26日、

への年貢を請け合い申す事。昨年分の上納米 100 石は今日から以 豊臣方の軍勢が郡山城を包囲し落城させる[44]

ドキュメント内 Taro-桃山町の年表 (ページ 53-56)