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石を完納する。この米を以て慶長 18 年分の未進に差し引 ・荒川荘から出陣した奥杢之助が家康軍に敗れ戦死、

ドキュメント内 Taro-桃山町の年表 (ページ 56-59)

・11 月、家康が全国の大名を召集し大坂城を攻囲(大 坂冬の陣)。翌月、外堀を埋める条件で和議を結んだが、

約束に反して内堀までも埋め立てた[21]

慶長20(1615)年 ・216日付け高野山碩学領荒川荘百姓八名起請文:高野山碩学 ・4 6 日、家康が諸大名に大坂攻めを命じ、26日、

への年貢を請け合い申す事。昨年分の上納米 100 石は今日から以 豊臣方の軍勢が郡山城を包囲し落城させる[44]

・5 8 日、幕府が下田港の守護と諸船出入りの監督 のため下田奉行を置く。幕府が明船以外の外国商船の 寄港地を長崎と平戸に限定する。キリスト教の渡来を 禁じる[44]

元和5(1619)年 ・調月荘の岡孫太郎(中氏の別家)が地士を銘じられる[6-1,34] ・紀伊国主/浅野長 晟 が安藝/備後国(42ながあきら 6千石余)へ

・荒川荘の津田九大夫元重(平野孫八の子)が切米 50 石を賜る。平 移封となり、徳川頼宣(家康の10子:18歳=駿河/遠江 野久太郎が切米50石を与えられる[平野家文書,37-7,34] 50 万石)が紀伊国(37 万石余)と伊勢国(17 万石余)を

・細野村に大飢饉、字中畑に於いて餓死数男女実に二十五名に及 加えた555千石の初代紀州藩主となる。安藤帯刀直 ぶ。中畑阿弥陀寺境内に供養碑あり。碑の銘に、「元和五年己十一 次・水野淡路守重仲が補佐役を勤める[12-上,34]

月 南無阿弥陀仏 不食人数男女二十五名」[49]とあり、現在は阿弥 ・1222日付け幕府触達:人を 拐 かし売った者は死かどわ 陀寺が廃寺となり道路沿いに移されている。 罪とする。人を買い取り、さらに売った者は 100 日の 入牢、及び過銭とする。人売り買い宿を久しく致して いる者は死罪とする。人の売買仲介は死罪とする。長 年の年季奉公を禁止する[幕府法令-上,34]

元和6(1620)年 ・2 5 日、荒川荘野田原村の百姓が雨山を論争し、藩領丸栖村 ・11月27日付け高野山学侶方中老僧申状:京枡(標準

の百姓と共に和歌山役所へ訴える。このため821日、高野山碩 桝)が不統一である。一定とすべきである[勧学院文書

学衆が書き付けを以て道理を上申。訴えた百姓らは平伏して去る ,37-1,34]

[13,勧学院文書,37-1,34]

元和7(1621)年 ・11月14日付け高野山青巖寺(学侶方)法印/快盛等九寺僧寄進状、

高野山南院(学侶方)左学頭/全秀宛て:那賀郡安楽川荘内の脇谷村 を南院本尊の仏供燈明料に永代寄進する。依って田畠を開発次第 に年貢を収納されたい[11-5,勧学院文書,37-1,34]

元和10(1624)年 230日、「寛永」に改元。

寛永元(1624)年 ・南龍公(初代紀州藩主徳川頼信)、段村に至り妙法壇にて安藤 忠 ・一説に寛永2年から新田を開墾[47]とする。

かんえい とくがわよりのぶ あんどうちゆう

(後 水 尾天皇)ご みずの お 兵衛に「この地新田となすべき地なり、開墾すべし」と命じ、寛 ・寛永べ え かんえい 3(1626)年、紀州藩主/徳川頼宣が安藤忠兵衛に (江戸時代) 永元年から初めて開墾し新田となる。段村・新田村、古は紀ノ川 命じ、田中組南の壇村を開墾させる[6-1,34]

の中なり[6] ・紀伊藩初代藩主/徳川頼宣の重臣:安藤帯刀直次・水

・高野山学侶方衆評/寺領免相(年貢率)目録(抄):荒川荘善田村: 野淡路守重央・三浦長門守爲春・久野丹波守宗俊・水 田方85分、勝神村:田方83分、勝屋村:田方85分、 野太郞作・安藤忠兵衛・渥美源五郎等、百30[60] 円明寺村:田方87分、細野村:田方87 分、野田原村:田

88分、遠方村:田方89分、杉原村:田方89分、安 良見村:田方89[勧学院文書,37-1,34]

寛永2(1625)年 ・安楽川の桃栽培の始まりは寛永2 年頃と聞いた[昭和46年頃、段新田 ・この頃の新田村に桃を栽培した記録は無いが開墾し

かんえい かんえい

(江戸時代) 宮村信太郎氏談,14] ながら一部に桃を植えたか。

・高野山寺領荒川荘の五十地士:津田半右衛門・平野四郎兵衛・

平野段右衛門・奥松之助・津田九大夫・城四郎兵衛・奥孫四郎・

城万五郎・坂中勝之丞・津田作之丞・山本角左衛門(杉原村)[6-1,34]

寛永3(1626)年 ・新田村に薬師寺を開基す[8] 612日付け荒川荘中法度条々:博奕宿あれば、荘

かんえい ばく ち

(江戸時代) ・8月、安楽川荘中宛行状、安楽川荘小林/奥殿:慶長(1615)年中、 官に伺い打ち殺す。博奕の報告者には褒美として銀100 奥源太郎(重俊)殿が(大坂夏の陣から)御帰国の節、木食應其上人様 目を与える。与太職(三船神社俗別当/岡氏)・宮(三船神 の御直筆書、及び覺榮様(応其上人の弟子僧)の御添え状が安楽川 社神主/有井氏)ら、21人署名[岡家文書,37-7,34]

荘中に在った。この度、高野山学侶方御年領様から仰せ渡しがあ り、1 通を安楽川荘に保存して置き、覺榮様の御添え状を奥家へ 届けることになった。奥家は先規の通り山林・竹林・諸役は御免 除にて神社(三船)の事は往古の通り諸事を守られたい[ 奥 家 文 書 ,37-7,34]

寛永4(1627)年 ・10月4日、調月荘に地震被害[19] (江戸時代)

寛永10(1633)年 7 18 日付け幕府蝕達(抄):人の売買は一切禁止す

(江戸時代) る。男女を抱え置く年紀奉公は10ヶ年までとすること

[幕府法令上,34]

寛永17(1640)年 ・11 21 日付け高野山興山寺免状:調月荘野口九兵衛宛て:高 ・野口九兵衛は調月大歳神社の神主。

(江戸時代) 30 石を与え諸役を免除する。惣分(行人)への奉公に益々油断なけ れば相違ないものである。知事[野口家文書,37-7,34]

寛永18(1641)年 ・2 月、藩主徳川頼宣、百姓らに申し聞かす条々(抄):

(江戸時代) 切支丹(キリスト教)禁制を通達する[南紀徳川史10,34]

寛永20(1643)年 ・3 11 日付け幕府蝕達(抄):酒を一切造ってはなら

(江戸時代) ぬ。煙草を一切作ってはならぬ。田畑は永代売買して

はならぬ[幕府法令上,34]

8 26 日付け幕府蝕達(抄):田に木綿を作ってはな らぬ。畑に油用として菜種を作ってはならぬ[幕府法令上 ,34]

寛永21(1644)年 ・10 月付け高野山学侶方衆評/寺領免相(年貢率)目録(抄):那賀郡 ・12月16日、「正保」に改元。

(江戸時代) 内の田方。荒川荘善田村84分、勝神村7 割、勝屋村(勝谷村)7 7分、円明寺村72分、細野村73分、野田原村89分、

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