(江戸時代) を命令する[12-上,34]。
天保15(1844)年 ・12月2日、「弘化」に改元。こう か 弘化元(1844)年 ・この年、細野荘の各字で寺子屋を開始[49]。
こう か
(江戸時代)
弘化2(1845)年 ・2 月付け安楽川荘杉原村(額田)忠左衛門往来一札(証文)「杉原村 (江戸時代) 真言宗薬師寺、及び庄屋/俊蔵、国々関所・村々役人宛:四国巡礼 に出る忠左衛門は代々真言宗にて杉原村薬師寺の檀那(信者)であ る。依って国々の御関所は御構えなく御通し下されたい」[粉川町杉 原額田和美家文書,34]。
弘化3(1846)年 ・和歌山城天守閣が落雷によって焼失[60]。
弘化5(1848)年 ・2月28日、「嘉永」に改元。
嘉永3(1850)年 ・5月13日より三ヶ月間、雨降らず[60]。 ・根來寺大門、落成す[60]。
嘉永4(1851)年 ・愛媛県温泉郡興居島村由良の小林佐七氏が、嘉永 4
(江戸時代) 年攝津國東野よりモモ苗 500 本を購入して植栽したの
が最初。当時のモモは樽屋早生という大果品種であっ た。世人は佐七早生と命名し、全村に普及して興居島 モモと通称した[愛媛県果樹園芸史]。
嘉永7(1854)年 ・3 月、安楽川荘平尾の兵蔵が、上野村庄屋(奥氏)の認証を得て平 (江戸時代) 尾カルコ谷の奥氏の隠居田(年貢米 5 石 4 斗余、毛見ナシ)を永小
作とする請証を貰う[平尾・松嶋家文書,34]。
安政(1854-1860) ・安政元(1854)年6月15日、調月荘に地震被害[19]。大地震あり[60]。 ・安政元年 2年2 月7 日、日露通商友好条約締結、千
あんせい
年間 ・安政年間に百合山新四国八十八カ所が造営され参詣者多く一大 島列島は日本領土とする[44]。
(江戸時代) 霊域となる[47]。 同年12月、金属回収御触:海岸防禦の爲この度諸国寺
・安政6 年 5-6 月、安楽川荘の百姓、多くが紅花商いを申請する 院の梵鐘を以て大砲小銃に造り換える云々[岩出組大庄屋藤
[34]。 田家御用留帳,60]。
・安政 3(1856)年、(細野村で)婚姻等に依り住所変わる時は檀那寺 ・安政2年10月、幕府は蝦夷開拓者募集の御触[60]。
より寺送り(宗旨)一札を要す[49]。 ・同3年7月21日、初代アメリカ総領事ハリスが下田 に到着[44]。
安政4(1857)年 ・4月8日より8月16日まで降雨なし[60]。
(江戸時代) ・百合山新四国西参詣道に光明橋を架橋し弘法大師の大碑石を光 明橋詰めに建つ[47]。
安政5(1858)年 ・5月、新四国八十八カ所が描かれる[41]。 ・2 月 20 日、幕府(将軍徳川家定)が交易のため、手余
(江戸時代) ・この年、田仲荘竹房村紀ノ川南岸に餓死した百姓の冥福を祈り りの荒れ地・原野に櫨・ 漆 ・コウド・三つ叉・茶を植はぜ うるし 餓死人塚を建てる。天明・天保の大飢饉等大凶作により百姓は草 えて国産物を増産するよう指示する[幕府法令下,34]。 の根、木の皮を食べるなどの苦しみに陥り餓死したとある[34]。
・根來山四国八十八箇所、落成[60]。
安政6(1859)年 ・5 月 2 日付け高野山惣分(行人)役人/光明院通達:間作稼ぎとし ・1 月 13 日付け幕府(将軍徳川家茂)蝕達:神奈川・長いえもち (江戸時代) て百姓が紅花商いの鑑札を欲しい時は印紙にて申し出れば渡す[橋 崎・箱館の三港を近々に開港するに付き、この場所へ
本市清水菅野家文書,県史近世4,34]。 出稼ぎ、または移住して勝手に商売致してよいから希
・5 月-6 月、安楽川荘加和村・小路村・上野村・遠方村・市場村 望する者は、その港の役人へ引き合わすように致すこ
・安良見村・杉原村の百姓34人が、それぞれ承認を得て高野山年 と[幕府法令下,34]。
領代に紅花商い鑑札の下付願いを出す[勧学院文書,県史近世4,34]。 ・12 月 15 日付け高野山惣分役人廻し文:高野山寺領 村々の地士・庄屋宛て:村々で石高持ちの百姓にて 80 歳以上の男女に養老銀を与えるから調べて名前を届け ること[かつらぎ町山崎菅野家文書,県史近世4,34]。
安政7(1860)年 ・3月18日、「万延」に改元。
万延元(1860)年 ・4 月 18 日付け高野山惣分役人/舎那院回文:高野山寺領大庄屋 ・12 月 23 日付け高野山惣分役人/密蔵院回文:村々の (江戸時代) ・庄屋宛て:紅花売買の鑑札を望む者は印紙にて高野山の役人宅 大庄屋宛て:世上一同に米穀、諸品が高値につき、老 へ申し出ること。 冥 加金(雑税)はみよう が きん 1 駄に付き金だ 3 歩ずつ在地の取 人・小者(小百姓)にて ぎ(稼ぎ)が出来難く、末末の者桛かせ 締役(地士)へ差し出す事[橋本市清水萱野家文書,県史近世4,34]。 が喰い事に差し支え難き儀の様子と聞く。その村々に て身元相応の者から成るだけ扶助すること。その上で も行き届きがたい分は難渋人の名前を調べ、高野山の 役人へ届け出る事。そうすれば粥でも与える[橋本市清水萱
かゆ
野家文書,県史近世4,34]。
万延2(1861)年 ・2月19日、「文久」に改元。
文久元(1861)年 ・9 月付け高野山行人方興山寺役人/密蔵院通達:高野山寺領村々 ・12 月 16 日付け高野山惣分役人/密蔵院通達:高野山 (江戸時代) の地士・庄屋宛て:砂糖・芍薬・米穀売買・質屋・綿・木綿・古 寺領村々の地士・庄屋宛て:近年来の百姓は一同に農 着・綛(紡いだ糸を巻取る道具)・油・紺屋・造酒船の株(権利)免許 事に励まず商人気分となり大変困った事である[かつらぎ
かせ
を与えられている百姓の名前を高野山役所へ報告する事[かつらぎ町山 町山崎菅野家文書,県史近世4,34]。
崎菅野家文書,県史近世4,34]。
・10 月 12 日付け高野山惣分役人/密蔵院通達:高野山寺領村々の 地士・庄屋宛て:紅花の作付けは当分の間禁止する[かつらぎ町山崎菅野 家文書,県史近世4,34]。
文 久 3(1863)年 ・3 月付け高野山年領坊通達:高野山寺領村々役人宛て:高野山 ・高野山が天 誅 組の来山に備え地士を招集、安楽川荘、
ぶんきゆう てんちゆうぐみ
(江戸時代) 学侶衆を親とする仕法講と云う名の頼母子講を設営したから、銭 調月荘の地士らも登山する[12上,34]。
を拝借したい百姓は村役人、及び総代が加判した拝借手形をつく ・調月観音経堂の観音像厨子の裏に墨書銘:「西観音修 り高野山内の担当役僧へ願い出る事[高野町下筒香区有文書,県史近世4,34]。 補厨子新造立 施主/稲葉藤蔵・稲葉平七。文 久 三(1863)ぶんきゆう 年拾弐月」、稲葉藤蔵・稲葉平七は稲葉藤蔵通 諄 の後いな ば とうぞうつうじゆん
裔。
文久4(1864)年 ・ ・2月20日、「元治」に改元。げん じ
元治元(1864)年 ・6 月付け高野山惣分役人/光明院通達:高野山寺領村々の地士・ ・4月8日付け幕府(将軍徳川家茂)蝕達:田地へ桑を植
(江戸時代) 庄屋宛て:他国米の買入を許可する[橋本市清水萱野家文書,県史近世4,34]。 えてはならぬ。五穀を廃し蚕を専らに致してはならぬ[幕
・11 月、調月荘山ノ上(上ゲ)に、垣内の住人らが順調な雨を祈願 府法令下,34]。 して石燈籠を建立。石灯籠は高さい し ど う ろ う 2 ㍍程で、遙か東方の高野山には る
向かって拝むようになっている。正面には「常夜燈」と刻まれ、じ ょ う や と う
側面には「高野山弘法大師」、一方の側面に「元治子年十一月建之」こ う ぼ う た い し げ ん じ ね
と彫られ、石灯籠の基壇には建立当寺の「世話人、與七・直楠・い し ど う ろ う き だ ん
平治郎」の名前がみえ、「三垣内中」とある。三垣内は上げ集落の 前垣内・後垣内・池の上垣内をさしている[山下重良調べ]。
元治2(1865)年 ・4月7日、「慶応」に改元。
慶応元(1865)年 ・閏 5 月付け高野山惣分役所通達:高野山寺領村々宛て:この度 (江戸時代) 紀州藩主徳川茂承様が第二次長州征伐の総督として御進発に付き、もちつぐ
その御用途金を格外の心得を以て上納する事[かつらぎ町山崎菅野家文書,県 史近世4,34]。
慶応2(1866)年 ・尊皇攘夷論者の森田節斉(吉田松陰/久坂玄瑞の師)が幕府から狙 ・7 月 13 日付け高野山惣分役人/妙観坊回文:高野山 (江戸時代) われ大和國五条、栄山寺近くの住居から安楽川荘荒見村の地士/北 寺領村々の地士・庄屋宛て:時節柄、村々に於いては 長左衛門宅に身を寄せる。ここで森田塾を開く[12-下,34]。 男女が集まり、踊り興業などは決して致してはならぬ。
各人が慎み、酒宴・会合などを致してはならぬ[橋本市清 水萱野家文書,県史近世4,34]。
・11 月 25 日付け高野山惣分役人/妙観坊通達:高野山 寺領村々の地士・庄屋宛て:米穀高値につき外国米を 買い求めてよい[かつらぎ町山崎菅野家文書,県史近世4,34]。
慶応3(1867)年 ・10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還、
(江戸時代) 武家政治が終焉[21]。
・8月21日、明治天皇即位。
慶応4(1868)年 ・この年以降、神田御船神社・調月大歳神社等に併設の神宮寺が ・1 月 15 日付け高野山惣分役人/妙観坊通達:高野山
けいおう
(明治天皇) 破却される。 寺領村々の地士・庄屋宛て:この度京都(鳥羽、伏見)
にて戦争があったため、落ち武者(敗北した幕府方)が 多く所々に分散の様子と聞く。このような者が寺領内 へ入り込めば隠さず早速高野山興山寺役所に訴え出る 事[橋本市清水萱野家文書,県史近世4,34]。
・3月28日、維新政府から神仏混淆を禁じる神仏判然 (分離)令が太政官布告で発令[12-下,103]。宗教界が大混乱 となる[34]。
・慶応4(1868)年9月8日、「明治」に改元。
明治元(1868)年 ・細野荘円明寺に戸長役場を置く。初代戸長に峯の西垣内亀五郎 ・9 月、高野山へ維新政府から太政官布告あり、高野
氏[8,49]。 山の学侶方(多分)・行人方(惣分)・聖方(非事吏)の三派
を廃止、学侶方の青巖寺を金剛峯寺と改称、高野全山 が協和し学侶方法度に従うこととなり、行人方の興山 寺、及び聖方の大徳院が廃寺となる[伊都郡誌,那賀郡誌下,34]。
・岡山県真庭郡湯原村の藤島好太郎氏が明治元年に桃 を植えたのが岡山桃の始まりで、明治 9 年、上海・天 津両種の導入を契機に各地に栽培され初め、新品種の 導入・育成・発見が相次ぎ、土壌、気象立地とも適合 し、(昭和46年現在も)桃主産県の地位を維持している[岡 山の果樹園芸史,14]。
明治2(1869)年 ・3 月 23 日、全村に小学校を置くことになる[19]。・8 月、那賀・ ・1 月、金札と銭札の交換:金 1 朱を銭 600 文と交換
めい じ
伊都両郡の高野山寺領は堺県に属することとなり安楽川荘、調月 し金1 歩を銭2 貫400 文と交換、金1両を銭9貫600 荘、細野荘が堺県に編入される[伊都郡誌,16]。 文と交換する[12-上,34]。
・那賀郡民政局、岩出に設置[60]。 ・10月7日、交代兵の制となり、士農工商の別なく20
・(那賀郡田中組)段村の(堀内)爲左衛門氏が百合山に初めて温州苗 歳男子を徴兵することとなる[12-上,34]。 を植える[47]。 ・12月24日、農工商人の帯刀禁止[12]。
明治3(1870)年 ・4 月 1 日、高野山寺領は五条県に編入され、荒川荘、調月荘、 ・9月19日、平民の氏称(苗字)が許される[12-上,103,34]。
細野荘が堺県から五条県に移る[16]。
明治4(1871)年 ・7 月、廃藩置県により紀州藩が和歌山県となり、11 月1 日から ・7月14日、明治政府が藩を廃止して地方の統治を中 紀州高野寺領も和歌山県に属す。那賀郡の上野村・市場村・小路 央集権下の府と県に一元化(廃藩置県)[21]。
村・賀和村・神田村・大原村・善田村・黒川村・野田原村・脇谷 ・8月28日付け太政官布告:穢多・非人の呼称は廃止え た ひ にん 村・勝神村・遠方村・杉原村・荒見村・調月村・細野村・根來窪 とするから今後は身分職業とも平民同様とすること[法
村・峯村・中畑村・垣内村・四郷村・勝谷村・円明寺村・高野村よ ごう かち や 令全書448号,12-上,34]。
・段村・段新田村が成立[17]。この時、安楽川の名称消える。 ・9月7日、政府から田畑勝手作許可令が出され米穀
・庄屋制の廃止に伴う安楽川荘当時の庄屋・役人:市場村庄屋/竹 以外の作物を自由に作れるようになる[法令全書,大蔵省47
中竜助、年寄/奥弥九郎・室谷周助。賀和村庄屋/林謙之輔・年寄/ 号]。
乾亀之進・柳本重二郎。神田村庄屋/磯七郎右衛門・年寄/松山管 ・10月3日、宗旨人別帳が廃止される[法令全書,34]。 吾・津田勇助。小路村(旧行人方修理領)庄屋/田端新左衛門・年寄/ ・この年、那賀郡に強風あり被害甚大[12]。 田中儀右衛門。小路村(旧学侶方碩学領)庄屋/片山善四郎・年寄/永
長三郎兵衛。上野村庄屋/城四郎兵衛・年寄/坂中周三郎・堀定八。
・庄屋制廃止に伴う旧紀州藩領田仲荘南の庄屋・役人:段村・新 田村の庄屋/堀内仙右衛門、肝煎/山名利八、蔵庄屋/藪内重左衛門
[47]。・11月の那賀郡内の諸物価:炭1 俵13銭5 厘、木綿1反40 銭、塩1貫目2銭4厘、醤油1升7銭、砂糖1升7銭、鶏卵1個3 厘、牛肉1斤10銭、麦1升2銭5厘、米1升3銭4厘[12-上,34]。
明治5(1872)年 ・村民は20歳以上男子は3年間の兵役を義務づけ。ただし官吏・ ・3 月、神社仏閣の女人禁制を廃止する太政官布告が
国立学校生・戸主・嗣子・独子・独孫・こ しゆ し し どく こ どくそん 270円納税者は兵役免除 出る[12-上,34]。高野山の女人禁制は明治39年迄続く[34]。
[12-上,34]。・庶民の次男・三男坊は分家や養子となって兵役を免れた ・4 月付け太政官布告:今後、僧侶の肉食・妻帯・蓄
[58]。 髪は自由とする[12-上,34]。
・細野村円明寺戸長役場にて戸籍を作成す[49]。 ・4 月、郷長(もと大庄屋)を戸長と改め庄屋を廃止し副 戸長とする[12-上,34]。
・8 月 3 日付け太政官布告:学制を制定し学区制によ り小学校 4 年間を義務教育とする。としたが小学校 4
年間は月50銭の授業料を取り、寺院や民家を仮用した