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( 1403 )年 ・7月付け高野山衆徒契状:高野山寺領へ守護不入と定める

ドキュメント内 Taro-桃山町の年表 (ページ 34-40)

おうえい

[11-4,34]

応永14(1407)年 ・6 24 日付け高野山大集会衆分評定:荒川荘の月領 30 人供は

おうえい がつ よ

(室町時代) 最近有名無実である[11-6,34]

6 25 日付け高野山衆分評定事書:荒川荘 30 人月領供料につ き来月10日以前に検注する旨、高野山学侶諸衆から事書を賜った が、今に無沙汰である。来月の10日中に必ず沙汰されたい[11-6,34]

・10月23日付け高野山衆分集会評定:安楽川荘の月領30人供を 学侶にて早急に処置されたい[11-6,34]

・10 28 日付け高野山学侶大集会評定:安楽川荘を検注するこ [11-6,34]

・平安時代からの荒川は応永年間になって安楽川おうえい [11-1,37]の字が使 ・川の氾濫から名付いた荒川を忌み嫌い安心安楽の川はんらん われるようになる。しかし応永 17 年の文書[11-3]に荒川荘高田村と を願い安楽川と改称か。荘内を流れる紀ノ川と石榴川こう だ ざ くろがわ あり神田村を指すとみられる。この時代以降は「安楽川」・「荒川」 は度々氾濫を繰り返し災害に悩まされてきた。こう だ

「安楽河」が混在して使われる。

応永17(1410)年 ・1128日、僧/明祐が荒川荘高田村の田地1 反を4600文に ・高田村は神田村を指すか。

て高野山勧学院へ売る[11-3,34]

応永20(1413)年 ・この年の安楽河庄大検注帳:禅田村とあり善田村を指す[16] ・応永20(1413)年、荒川本荘下司給、公事銭分田切符(抄)

おうえい あ ら かわ ぜん だ むら おうえい

(室町時代) ・6 12 日付け高野山諸衆免状:荒川荘上田村(神田村)の課役を :荒川本荘下司給こう だ 3分の2。中田300歩、地主平野殿、

免除する11-3,34」。水害で荒れた。

・6月26日、僧有宗が安楽川荘 楠 木垣内が焼失したと起請ゆうそう くすの き [11-8,34]。作人/彦九郎。下田 140 歩、調月塚、地主/中殿、作人/

7 28 日付け僧/道金起請文:給分の公事銭のこと、根本(根本 同。下田240歩、地主/城殿、作人/衛門三郎。下田1 領主:中世、荘園制で未開地を開発して領主となった者 21)御支配 反60歩、地主/城殿、作人/衛門三郎。下田1100歩、

の切符を逸失したので、存じている分の員数を注進する。荒川荘 黒川村、地主/高野山修禅院、作人/僧良願[平野家文書,高野

島田の免(免除)は 1 100 文、秋の所当は 5 反、また伊勢の森巫 山勧学院文書,県史中世1,34] 子供賃は9反である[11-8,34]。伊勢の森は市場の神明神社のことか、

さすれば市場の神明神社はこの頃に出来たことになる。

・7 30 日付け荒川荘見阿弥/太郞二郎連署起請文:荒川荘安養けん あ み 寺・善田村円福寺、大原村の智賀堂云々[11-8]とあり、善田村・大 原村の初出。・大原は龍門山の西南の原なる故大原村と名付く[6] 桃山町大原の地名由来。

・8 7 日付け荒川荘荘官/百姓等申状(上申状):荒川荘の大井(用 水路)を間すこと、ただ 3 年間は大井を返上し昔のとうに畠を田に開発 する[11-7,34]

816日、荒川荘の福王寺・極楽寺の領田の反畝を平野氏に授 ける[13,34]

8月付荒川荘大井(用水路)奉行証文:大井は早急設営云々[11-7,34] 荒川荘の大井は上田村(神田村)の石榴川からの水路を云うか。こう だ ざ くろがわ

・応永20年、安楽川大井この時既に開けり[47]

応永 24(1417)年 ・6 21 日付け荒川荘良義房/里房免許:荒川荘上野村の良義房 応永23(1416)年、細野荘垣内に極楽寺を建立す[6,49]

(室町時代) 里房、岡垣内は高野山上・山下の公事公役を課さない所にして、

応永15621日に諸役免除済みである[岡家文書,37-7,県史中世1,34] 応永29(1422)年 ・野田原処垣内の五輪塔銘「応永□□年 大忠一結泉」は「楠木正

おうえい

(室町時代) 成四世津田春行。応永二十九年三月卒、葬を阿良河、法号:大忠あ ら かわ 一結泉、阿良河に葬る。紀州津田家の元祖」[松原正勝氏安楽川系図]

応永30(1423)年 ・應永三十(1423)年調月庄分田切符[11-5,34]:一、御社御精進供料、 ・10 13 日付け鞆淵千楠丸(下司/平野範景の子)書状 (室町時代) 上一反八十歩、浮田坪/狭三、地主/御社田、作/衞門。下半二十歩、 :高野山年領宛て:集会のため高野山へ登ったところ、

ハヤマ谷/狭七、地主/僧寺、作/富岡殿。一、天野夜燈料:一反半 去月24日暁に新方国の面々(守護/畠山満家の家来)塩谷

二十歩、上・半四十歩、中・三百四十歩、日置田坪/狭二宛、地主 父子兄弟4 人、杉原父子 2 人、調月荘の新五郎、安良

・観音寺・作同。中一反、下久米田坪/狭五、地主/東殿、作/同。 見村の在地家来、その他 230 人余が共謀して武具を 下大三十歩、石田坪、狭三、地主/下殿、作/彦三郎。下一反 帯び、百姓の牛 13 匹を押し取り宿所へ乱入された 小三十歩、同坪、狭八、地主/中殿、作/五郎太郎。下三百歩、下 [11-4,34]

久米田坪、狭二、地主/国分殿、作/覺円。下半二十歩、下久米田 ・(左の注)切符は、租税などを割り当てる文書[21] 坪、狭二、地主/中殿、作/五郎太郎。下三百歩、湯屋本坪、狭三 上・中・下は田地の等級で上田、中田、下田のこと。

地主/鞆淵殿、作/藤若。下二反九十歩、添田坪、狭四、地主/中 大、半、小は、田地の面積で、大は二百四十歩。半は 殿、作/彦三郎。下大二十歩、石田坪、狭四、地主/中殿、作/孫三 一反(三百六十歩)の半分の百八十歩。小は百二十歩の 郎。下三百二十歩、オウサノ坪、狭三、地主/押領使、作/彦九郎。 こと。 (きょう)は狭、畝町とも記し、田地の区画・以上、上分・半四十歩。中一反三百四十歩。下八反九十歩。分米 枚数のこと。作は、作人(耕作者)を示す。

(年貢米)三石六斗一升九合六夕。 ・地名に付いた「坪」とは、一段低くなっているとこ 一、山上執行分(高野山執行分) ろを、壺に見立てて呼んだもので「壺」とも書く[21] 下大五十歩、松本坪、地主/岡殿、作/同。中六十歩、河田坪、地 度重なる貴志川の洪水で、耕土が流失して一段低くな 主/日前寺、作/助太夫。上一反百歩、同所、地主/勧学院、作/林殿。 った場所をさしたものとみられる。

上一反五十歩、ハカマタ坪、狭八、地主/新堂、作/井上殿。上小 また「石田坪」は、現在、稲葉垣内の中西良三氏宅 三十歩、同所、狭七、地主/大日寺、作/道仏。上大十歩、藤田坪、 の西側辺りで、古くは大道と呼ばれた旧県道を、なべ 狭五、地主/理趣三昧田、作/岡殿。中大、同所、狭六 地主/東殿、 や(津田家)の西側から南進して、突き当たりから南西 作/道永。下三百歩、石田坪、狭三、地主/中殿、作/祢宜。中三百 側である。かつて、度々堤防が決壊したとされる曾池 二十歩、掘町坪、地主/東殿、作/孫太郎。下大二十歩、久米田坪、 の濁流が溢れ、石ころまみれの土地だったと云う。現 狭二、地主/中殿、作/五郎太郎。中大四十歩、カマトノ坪、狭四、 在、大西孝氏が耕作している水田周辺を云う。

地主/鞆淵殿、作/衞門太郎。下半四十歩、ハヤマ谷、狭六、地主/ 添田坪は添田集落と石榴川との間とみられる。オウ 富岡殿、作/同。下大三十歩、上池田坪、地主/国分殿、作同。 サノ坪は、稲葉集落の西方、稲葉団地とその西辺りで、

下三百二十歩、歳神谷、狭四、地主/高畠殿、作/八郎二郎。 幹線排水路までの土地をさしている。

中一反三百五十歩、歳神谷、狭七、地主/東殿、作/彦二郎 左近。 「ハカマタ坪(きょう)八 地主/新堂 作/井上殿」

下一反四十歩、歳神谷、狭三、地主/上村殿、作/彦次郎。 とある井上殿は、井上垣内の井上源吾をさしていると 中一反七十歩、船橋坪、狭二、地主/勧学院、作/孫太夫。 みられる。ハカマタは袴田とみられ、袴とは稲の茎を 以上、上分三反半十歩、中五反大二十歩。分米(年貢米)六石一斗 まとい覆う苞をさし、肥沃な泥土が流入して稲が出来

三夕。 過ぎ、収穫の少ない田地をさしている。

一、三供僧一・観明房 また当時の地主に、日前寺、大日寺、勧学院がみら

中一反大三十歩、松崎坪、地主/国分殿、作/同。下三百二十歩、 れる。日前寺は稲葉段にある寺堂で、今は小さなお堂 同所、地主/岡殿、作/同。上一反、楠田坪、地主/彦八、作/同。 であるが、もとは庵主さんと呼ばれた尼僧が寺の本尊/

下小五十歩、クヌキ本坪、地主/菅井殿、作/彦九郎。下半三十歩、 大日如来像を祀っていた。大日寺は、いまも添田集落 松本坪、地主/中殿、作/衞門次郎。中三百歩、河田坪、地主/岡殿、 を除く調月住民の菩提寺である。

作/同。上一反半五十歩、同所、地主/中殿、作/衞門[11-5,34] 地主の勧学院は、北条時宗が高野山内の僧侶の勉学

・修練のための道場として、高野山金剛三昧院境内に 建立したが、後の文保二(1318)年、後宇多法皇の院宣 によって、現在の位置に移されたという勧学院の直属 農地だったのであろう。

地主の「中殿」は、この時代の調月における

地主の代表格だったとみられ、「中殿」は、城の段(壇)

に居住していた中屋敷の当主で、「岡殿」は中殿の別[12]

とある。

応永32(1425)年 ・4 25 日付け伊都郡天野郷丹生社一切経会段米(臨時田租)日記たんまい (室町時代) :荒川荘神野村(賀和村)35升、神田村16升、上野村29 升、野田原村3斗、善田村19升、黒川村135合、調月

3斗など、合わせ235647夕を収納する[11-4,34] ・応永35(1428)年427日、「正長」に改元。

正 長 2(1429)年 ・高野山検校荒川荘分田支配切符:上田(神田村)60 歩、上村(賀和

しようちよう こう だ こうむら

(室町時代) 村)地主/定使、作人/祝(神主)。中田 30 歩、上田村、地主/与太(俗

別当)、作人/衛門。中田180歩、上田村、地主/三船社与太、作

/祝(神主)[11-5,34] ・正長2(1429)年95日、「永享」に改元。

永 享 4(1432)年 ・6 月付け高野山々下田麦本支配:領所・下司・公文・刀禰・定

えいきよう

(室町時代) 使ら、都合、麦1897[11-7,34]。水田裏作麦。

8 13 日付け荒川荘三船社与太(俗別当)職免状:氏長者/岡長盛 に三船社与太職を免許する。銭(免許料)5 貫文を収納する[岡家文書,県 史中世1、37-7,34]

嘉吉元(1441)年か きつ ・7 月、橋口隼人正友重(藤原=赤松氏一族)が河内国から調月荘の ・調月荘の稲葉藤蔵の先祖は弘仁はしぐちはやとのかみともしげ こうにん 7(816)年以来、6 (室町時代) 稲葉藤蔵宅に来て後に高野山に逃げ込む。将軍足利義勝が諸将に にわたって高野山領(調月の稲葉)に住んだいな ば とうぞう あしかがよしかつ [23]

命じて赤松満祐を討つによる[あかまつみつすけ 12-下,13] 稲葉段の地名起源。

嘉吉2(1442)年 1 7 日、赤松丹信(播磨國守護/赤松満祐一族)が大勢を率いて ・820日、奈良並ビニ紀伊国大風雨、二十日ヨリ二 (室町時代) 高野山に乱入する。浪人/橋口隼人正友重、畠山羽二郎(尾張國守 十五日マデ大風雨、大洪水、前代未聞ノコトドモナリ[水

5 男)、稲葉藤蔵、及び寺僧が防戦する。赤松満祐が戦死。浪人 害統計]。

衆に褒賞として調月荘・東貴志荘・山東荘に屋敷と田地を与える

[13,6-5,12-下,34] ・嘉吉425日、「文安」に改元。

文安2(1445)年 ・12月18日付け高野山月領30人評定事書:荒川荘野田原村の年

(室町時代) 貢減少を糾明したところ公文(奥)による隠し田あり。銭 3 貫文の 科料とする[11-5,34]

文安4(1447)年 1214日付け荒川荘野田原村番頭/藤内起請文:高野山月領30 1218日付け高野山月領30人評定:荒川荘野田原 (室町時代) 人への年貢米として、当年分4 29 升を金剛峯寺へ納入して 村の高野山年貢の減少は百姓の年貢納入不足ではなく、

いる。他に公文方へ2 5 斗を取られた。この他には少しも百姓 公文の田地隠しにある。公文と百姓の訴えにより、来 へ年貢を強要致さない[11-5,34] 年は田畠を調査する[11-5,34]

文安5(1448)年 ・8 7 日付け高野山小集会評定事書:荒川荘野田原村の高野山

(室町時代) 月領30人への年貢についての田畠調査は、当年は厳重に実施すべ きであるが、風雨(害)が意外に多いと噂あるため来年まで延期す

[11-4,34]

1117日付け荒川荘公文代書状:高野山30人月領房宛て:30 12 26 日付け荒川荘公文/奥氏書状、月領 30 人宛 人月領房への年貢8 石に 1 石増して寺納せよとの沙汰に従うよう て:公事銭を精一杯百姓に申しつけて上納するが、当 努めるが、5斗増までが限度である。1石増しを止めるよう集会に 年分は扶助(減額)されたい[11-5,34]

て検討されたい[11-5,34] ・文安6(1449)年728日、「宝徳」に改元[21]。

宝徳2(1450)年 12 3 日付け荒川荘野田原村公文代書状、高野山 30 人月領宛 (室町時代) て:作人/彦太郎はちようさん逃 散する。月領30人年貢を皆納する[11-5,34]

1226日付け荒川荘公文代書状、高野山30人月領宛て:公事 銭(夫役の代銭)を精一杯百姓に申しつけて皆納する。皆納の請取 り証あってこそ百姓が安堵する。皆納の請取証なければ、百姓が 計会(貧困化)し逃散しかねない[11-5,34]

けいかい

宝徳3(1451)年 6 26 日付け荒川荘野田原村公文代書状、高野山 30 人月領宛 ・123日付け荒川荘野田原村公文代公事銭皆納状、

(室町時代) て:御公事銭は去年は600文の目減り銭15文を納める。田役の番 高野山 30 人月領へ:30 人月領への公事銭は、この前 頭給は田地荒れにより、一切御公事銭は無い。詳しくは番頭が説 に納めた。現作5270歩、うち2120 歩は、内々 明する。皆納の請取証を給わりたい[11-5,34] に東の作人/彦太郎が逃散した爲、懸け銭は232文。残 340 文を納める。この他に(未納)は一切無い。皆納 の請取証を給わりたい[11-5,34]。

宝徳4(1452)年 6 25 日付け荒川荘公文代書状、月領 30 人宛て:公事銭を百 ・12 26 日付け荒川荘公文(奥氏)書状、高野山30 (室町時代) 姓に催促したが、日照りにて田植え出来ないので困っている。ま 月領宛て:公事銭は精一杯申しつけて納める。現況で 2500文を納める[11-5,34] は貧乏の百姓は小屋住まい致さねばならない。まず、

・6月29日付け荒川荘野田原村公文代公事銭皆納状、30人月領へ 瘠せた土地の開発をされて、百姓を扶持(援助)頂きたふ ち

:5反240 歩の料足(費用)572文を上納する。皆納の請取状を給わ い[11-5,34] りたい[11-5,34]

・7 16 日付け安楽川荘百姓等言上状、高野山 30人月領坊宛て

:先度、30 人公事銭につき御使の下向を受け恐れ入る。御使に委 細を申した通り、あまりにも当地が貧乏の事につき、8 月まで待

ドキュメント内 Taro-桃山町の年表 (ページ 34-40)