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年下げられ 19 歳となる [44]。

ドキュメント内 Taro-桃山町の年表 (ページ 104-112)

昭和19(1944)年- ・日本陸軍飛行場が安楽川村段・段新田の桃産地に計画され、各 ・昭和1921日、アメリカ軍がマーシャル群島に 208 地の国防婦人会や中学生・地元小学生らが大勢駆り出されて桃の 上陸、615日、サイパン島に上陸、77 日にサイ

樹を伐採・抜根[7]、2 年足らずで果樹園が潰され桃畑は姿を消すつぶ パン島の日本軍が全滅する[103,34]

[58] ・昭和19年、日本の戦闘機は飛び立っても帰還する燃

・調月村に米軍グラマン戦闘機の低空飛行があり、[日本の皆さん 料なく戦艦は重油不足で動けない状態となる。村々で 早く降伏するように]とのビラをまき、空襲警報で学校から自宅に は神社やお寺、山の松の大木を切って松ヤニ用燃料と 帰途、防空頭巾を被って道端に伏せた。妹/美恵子は津田家(ナベ して供出される[34]

屋)の枳殻の垣根に伏せて頭に刺が刺さり泣いた。この時大歳神社 ・からたち 1 月~5 月に至るアメリカ軍の重爆撃機B29 の日本 前の水田に爆弾が投下され大きな穴があいたが不発に終わった[編 襲来は472回、1万6858機にのぼる[34]

者記憶] 7 18 日、東条英機内閣が総辞職、陸将/小磯国昭

・岩出保健所を公会堂に開設[60] と海将/米内光政の連立内閣となり一億玉砕戦を唱え る。7 21 日、アメリカ軍がグアム島に上陸[日本史年表 ,34]

831日、台湾に徴兵制を実施、都市住民の田舎疎 開が進められ、国防婦人会では防空頭巾・モンペ姿で バケツリレーによる防火訓練・竹槍戦の訓練、応召兵 に贈る千人針つくりがすすめられ、人家・工場等の建 物の白壁/白塀の黒塗り作業に多忙となる[34]

・太平洋戦争における日本軍の戦況が日々悪化。昭和 191010日、米軍が沖縄を初空襲して以降、全国 主要都市が致命的な戦災を受けて焼け野原となる[58]

・同年1018日、男子18歳以上の兵役義務が定めら れ従軍看護婦の応召となり、同19日、神風特攻隊が編 成される[103,34]

昭和20(1945)年 ・31日、硫黄島の日本軍が玉砕、全滅。3月6日、国民勤労動 ・3月10日、アメリカのB29型重爆撃機279機が東

員令が公布され、那賀郡内では男女の大人は軍需工場に動員され、 京を襲い(東京大空襲)、10 万人が死亡、100 万人が家 各町村では老人と子供の社会となる[34] を失う[44]

・7月9日午後11時、アメリカのB2950機、和歌山市を空襲、3 ・3月14日、B29が大阪を大空襲、13万戸が焼失す 時間にわたり焼夷弾を投下して爆弾攻撃、家屋全焼 2 7 403 [44]

戸、死者1,102人、負傷者4,438人、和歌山城天守閣が焼失、陸軍24 ・4月1 日、アメリカ軍が沖縄に上陸、・4月5 日、ソ

部隊の作業中隊(隊長/栗栖中将)の兵舎も爆撃で全焼する[34] 連が日ソ中立条約を延長しない旨通告、6 21日、沖

・この頃、和歌山・大阪等の都会から毎日食糧を求めて多くの人 縄がアメリカ軍に占領される[103,34]

々が買い出しに来る。衣類等を持ってサツマイモ・ダイコン・柿 ・57日、同盟国ドイツが無条件降伏[日本史年表,34] などと交換して帰る。しかし、道端や船戸駅で巡査が荷物を検閲 ・6 23 日、国民義勇兵法が公布され、男子 15歳以 し取り上げられることが多いと聞いた。また、夜暗くなると船戸 上60 歳までが軍隊に徴兵され、女子17 歳以上は従軍 駅の手前の道沿いで追剥ぎ強盗が出没、和歌山から帰りに買い求 看護助手として入隊。6月28日、和歌山市湊の陸軍24 めた物を押し取られ、上衣まで脱がされ取られた[寺前熊次治談]。・畠 部隊に大勢の人々が徴兵され兵舎が満員となり近くの 作物の盗み取りが頻発、サツマイモ・柿・ジャガイモ・大根が夜 青年学校・隣保会館・国民学校講堂を兵舎の代用、入 中に盗まれた。所によっては自警団を組織して夜警見回りをした 隊しても銃や飯盒、軍靴、巻脚絆の支給はなく、戦闘

[34]と云う。 帽と軍服だけで地下足袋を履き水筒は竹筒[34]

11 月、選挙法が改正され婦人参政権が認められ、有権者は 25 86日、広島に、89日、長崎に米軍の原子爆弾 歳から20歳に、被選挙権は30歳から25歳に改められる[日本史年表 が投下され壊滅的な被害[21,58]。広島では11月までに原

,34] 爆で14 万人死亡、5 年後の1950 年までに24 7000

・12 29 日、アメリカの占領政策の1 つ、第一次農地改革とし 人に。被爆者は 36 万人以上と見込まれ、長崎では 12 5 町歩以上の小作地を小作者に解放、小作料は物納から金納に 月までの死者は8万人以上[44]

変えよと指令が出る[日本史年表,34] ・8月9日、ソ連軍が日本に開戦する[日本史年表,34]

・終戦以降、軍隊から復員し我が家に帰った人々は荒れ果てた農 ・8月15日正午、昭和天皇、ポツダム宣言を受諾する 地を復旧し、稲作をしながら藷作りの畝間に桃や柿の苗木を植え 旨のラジオ放送、満州事変以来15年間にわたる戦争は、

て果樹園の再興に取り組む。しかし農家で出来た米は一部自家用 日本軍の敗戦となり戦争が終結[21,34]

を除き総て政府に供出させられた[58] 817日、ベルリン郊外のポツダムで米英ソの首脳 が会談、同25日、日本の無条件降伏・植民地返還・戦

犯者の処分・日本の民主化等を軸としたポツダム宣言 を発表、中国の蒋介石も同意する[日本史年表,34]

・8 20 日、東京に G.H.Q(総司令部)が設置され、マ ッカーサー司令官による占領政策が実施される。

・8 23 日、ソ連軍が日本人 50 万人のシベリア抑留 の指令を発する[44]

昭和21(1946)年 ・128日、新制中学校を新設、小学校6ヶ年、中学校は3ヶ年 ・2月17日、金融緊急措置令・臨時財産調査令が公布

が義務教育と決定[新聞報道,34]。翌 22 年、荒川中学校・奥安楽川中 され、預金の支払停止、新円との切り替え、預金封鎖 学校が発足。調月村には中学校が出来ず荒川中学校に通うことと によるインフレ防止策がとられる。3 3 日、物価統

なる[34,58]。発足した荒川中学校は校舎がなく、安楽川小学校の講 制令が施行され、食糧管理のため農地所有者に家族保

堂を間仕切りして授業があり、学生は新校舎建設のため紀ノ川の 有米麦が定められ、サツマイモの供出が義務づけられ 川原に石ころや砂利を拾いに出かけたり、山で伐った丸太を担ぎ る[103,34]

に行った。校舎が出来た時、南庭にヒマラヤスギの苗木を植え付

けた[山下重良] 5 月1日、改正選挙法で初の国会議員総選挙が行わ

・この年初めて細野村の家々に電灯が灯る[8] れ婦人議員が登場。

64日、米の配給は大人121勺とされる[34] 113日、日本国新憲法公布、翌2253日に

・12月21日、南海地震。マグニチュード8.0、死者行方不明者1 施行[21]。新憲法により地方自治法が制定され、県知事 330人、家屋全半壊3 5 78、津波による流失1451 は公選、改正民法は男女同権の相続法、独占禁止法が

[44]。地震は夜明けに起こり、裸足で慌てて外に飛び出すと、庭先 制定される[日本史年表,34] にモミガラを焼いて広げた上に霜が白く光っていた。稲妻が走り

里山では雉の啼く声が響いて屋根瓦がガラガラと落ちた。それ以 来、木造の我が家は障子や襖が完全に閉まらなくまった。

昭和22(1947)年 ・農業協同組合法施行[21]により、安楽川村・奥安楽川村・調月村 ・3月、アメリカ教育使節団の勧告により教育基本法、

・細野村の各産業組合が農業協同組合となる。 及び学校教育法が制定され、4月からアメリカ式の6.

3.3.4の新学制となり、9 年間の義務教育、男女共 学が確定される[103,34]

・4 5 日、新選挙法により縣知事、町村長の選挙が 実施される。

・4月25日、衆議院議員選挙が行われ社会党143名、

自由党131名、民主党121名、協同党29名、共産党4 名、諸派25 名、無所属13 名となり、社会党・民主党

・協同党連立の片山哲(社会党)内閣が成立。片山内閣 は、米の配給公団の設置、労働基準法・児童福祉法・

生活保護法を制定し、労働省を設け GHQ の指示によ り国家公務員法を制定する。経済白書を出し健全財政

・耐乏生活を国民に求め、月給 1,800 円を基準とし、

食糧増産を説き、石炭・鉄鋼の増産を必要として傾斜 生産方式を推進する[103,34]

・8月、農薬取締法が制定される[27]

1119日、農業協同組合法施行[21]。・農産種苗法が 成立、種苗名称登録制度が発足[15]

・熊本県宇土郡浦村の枝森一新氏が、羽田式2サイク ルエンジン付き動力噴霧機を導入し、みかん園40㌃で 使用した。またみかん園40㌃に約120㍍の真鍮管によ る定置配管施設を取り付けた[枝森一新氏談,14]

昭和23(1948)年 ・4 月、那賀郡に男女共学の県立 3 高校が発足、県市町村に公選 ・敗戦で疲弊し自立経済力を欠く日本経済は、「竹馬の による教育委員会が設けられる。県立粉河高校は旧県立粉河高等 脚経済」と評され、国民は「筍生活」に耐えねばなら 女学校の校舎を、県立那賀高校は旧紀北農業学校を使用、県立大 なかった。アメリカは、学校給食を奨励しアメリカ産 成高校は旧県立野上高等女学校を使用する[教育要覧,34] 牛乳・アメリカ産パンを小学校生に支給するため、対

・紀北農業学校を改め、那賀高等学校が開校[60] 日借款 5 億ドルを許可する。炭鉱の国家管理を巡って

・農薬取締法が制定され、殺虫剤として砒酸鉛・砒酸石灰・砒酸 対立があり、210日、片山内閣が総辞職する[103,34] 鉄・除虫菊・デリス・硫酸ニコチン・マシン油・ソーダ合剤・松 ・3月10日、民主党と社会党の連立による芦田均内閣

脂合剤・うんか駆除油剤・青酸クロルピクリン・DDT・珪酸化ナ が成立、中道政治、修正資本主義を唱え、石炭、鉄鋼 トリウム。殺菌剤として硫黄亜鉛・無機銅・有機水銀・石灰硫黄 の傾斜生産方式と外資導入を図る。学校では積善教育 合剤・硫黄・過酸化水素・ホルムアデヒドが登録される。これら の名称で同和教育を推進し、中学校では社会科の授業 は戦前からの農薬である[佐藤清/現在農業,14] が開始される[103,34]

・4 4 日、GHQ が日の丸国旗の掲揚を許可する。8 15日、大韓民国成立の式典あり、99日、朝鮮民 主主義共和国成立が宣言される。11 13 日、東京極 東軍事裁判にてA級戦犯の東条英機ら7 名が死刑、16 名は終身禁固刑となる[103,34]

1019日、第二次吉田茂内閣(自由党)が成立、以降 第五次吉田茂内閣が昭和 29 12 7 日まで続く

[103,34]

昭和24(1949)年 ・英国で開発の 2,4-D が水田除草剤として市販され、以後手作業 ・昭和24(1949)年331日付け県立高等学校教諭の初

の田の草取りから解放される[34] 任給は月給4,460円、巻きたばこ12本入り「ピース」120 円で、サラリーマン生活は困窮の日々であった[34]

・安楽川村最上では水田も井戸も池の水を利用していたが、初め ・同年423日、1ドル=360円の単一為替レートが て井戸を堀り、自家用井戸が普及し始める[34] 決まる[44]

4月、シベリヤに抑留されていた人々の帰国が多くなる。101 ・戦争直後アメリカ軍が持ち込んだ DDT がシラミな 日、毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立[日本歴史年表,34] どの防疫に初めて用いられ農業用殺虫剤としても利用 された。DDT 1971 5 月に農薬登録が失効[農薬取締 法]

・この頃からEPN乳剤が輸入され果樹の害虫防除に普 [58]

昭和25(1950)年 ・9 3 日、ジェーン台風が関西を襲い死者 336 人、家屋倒壊 1 ・6月25日、朝鮮戦争が起こる。日本がアメリカ軍の

5000[44]、稲の倒伏・果樹の落果・倒木等、被害甚大。 基地化し、国歌「君が代」の復活が許され、警察予備

・11 1 日、那賀郡 23 町村組合立の国保那賀病院が田中村打田 隊が創設され、対中国輸出禁止令が出る。朝鮮戦争に

に発足[34,60]、地域住民の拠点病院となる。 よる軍需生産景気[特需ブーム]が起こる[103,34]

昭和26(1951)年 ・9月、和歌山県果実農業協同組合連合会(果実連)設立[27]。安楽川 ・825日、桃の「倉方早生」・「布目早生」が種苗登くらかた ぬの め

・調月・奥安楽川・細野の各村農協が組織会員となる。 [14]

・農業委員会、発足[60] 9 8 日、吉田茂を全権としてサンフランシスコ対

・ルース台風上陸[60] 日講和条約が調印される。参加国 52、中国の招待はな

10月1日、細野村が海草郡に編入される[7]。那賀郡東野上町・ く、インド・ビルマ・ユーゴスラビアは参加拒否、ソ 中野上村・南野上村・北野上村・小川村・志賀野村・下津野村・ 連・ポーランドは調印を拒否。同寺に日米安全保障条 上神野村・猿川村・長谷毛原村・真国村・細野村が海草郡に編入 約に調印する[103,34]

され、同年に猿川村が国吉村と改称[17,34] ・有機燐製殺虫剤「ニッカリンT」が国産化[27]

・この頃以降、果樹園の害虫防除にEPN乳剤が普及[58] ・農薬取締法で殺虫剤に、EPN・ルビーアカヤドリコ バチ(天敵)、除草剤として塩素酸塩が登録される[14]

・塩化ビニールフィルムが登場、その後野菜の育苗や 促成栽培のトンネル被覆に活用され、さらにハウスへ 栽培へと発展[15]

昭和27(1952)年 ・この頃からパラチオン剤(ホリゾール)が桃の害虫防除に使用さ ・7 18 日、弥生時代の遺跡から発掘された 2000

れ卓効あげる。しかし昭和46年に一般使用が禁止[農薬取締法] 前のハスの実が開花。発見者の大賀博士の名を取って

・安楽川村の農家数769 戸(うち専業494戸)、田102 3反余・ 大賀ハスと命名[44]

1093反。葉煙草の栽培が盛んとなり桑畑が姿を消す[17] ・この年、パラチオン・メチルパラチオンが農薬登録[農

は た ばこ

薬取締法]

・県は果樹振興五ケ年計画を策定、戦争で荒廃、減反 した栽培面積と生産量の復興を目指す[27]

・福島市飯坂町平野字壇ノ東で遠藤金弥氏は、昭和 27 年から同28年にかけて灯火の種類と果樹害虫の誘殺数 を調査、同29 年から31 年にわたって主としてブラッ クライトの効果を検討した結果、ナシヒメシンクイム シの被害軽減には役だつが、ハマキムシ類を誘導し僅

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