四 元 1 1
見聞 集の 糸へ ン という顕著な事実がある︒根拠としては⑧右表のごとく幾度も改訂された行巻を除くと︑信巻から化巻本へと次第に
B型
が多 くな り︑ ついに化巻末では全くA型が見出せなくなる︑
⑥行巻に顕著であるが︑明確に後に書改一訂正された
と判明する部分はすべてB
型で あっ て︑ 少くとも訂正前がB型で訂正後がA
型である部分を見出すことはできないと いうことをあげることができる︒A−B
型は︑坂東本前期筆跡部分において一種の定型化された楢書体的筆跡と言え るので︵例えば見聞集・唯信抄共に見られる﹁経﹂なる略体は坂東本ではわずかに三個しか見えず︑
その 他は
﹁鰹
﹂ を用いている︑筆の遅速による変化ではない︒従って︑坂東本書写中に︑聖人の﹁糸へン﹂書様の﹁型﹂が変化した ものと見るべきである︒この点見聞集では表出のごとく書始めと書終りの変化を見出せるとは言えず︑反対に唯信抄
では
A型は見出せぬのである︒先述のごとく︑これ等資料の書写の接近性を考慮するならば︑見聞集←坂東本←平仮 名唯信抄という書写の順を考えるのが自然であろうと思われるのである︒
更に第三の根拠として﹁那﹂をあげることができる︒見聞集及び坂東本前期筆跡部が八十三歳以後の筆跡に連続す
るB
型なるに対し︑平仮名唯信抄が
A型なるよりすれば︑後者がむしろ観経弥陀集註に接続するものという考え方も 成立するが︑次の点において事実は逆であると考えられる︒
⑧先述のごとく︑坂東本化巻末大集経部分及び大般浬繋
を含
めて
A型であり︑坂東本前期筆後再びA型にかえったと考えられる︑ 平仮名唯信抄に近接した信徴上人御釈
⑬ ⑥坂東本前期筆跡部化巻末五六頁上欄外の 経書写への時間的距離が観経弥陀経集註へのそれよりずっと近いと推定され︑
後の付注がA型となっており︑この付注の﹁幅﹂字の﹁出﹂がまだA
型で
︑表
のご
とく
︑
﹁出
﹂が
相当
早く
B型に変
化したと考えられるよりすると︑この付注は化巻末書写後まもなく付せられたものと思われ︑その点よりして︑
﹁ 那 ﹂
は化巻書写後まもなくA型にかえったと判断され︑唯信抄のA型は以後大般浬繋経に至る線上のものと考えるのが白
然である︒この事実よりしても︑見聞集←坂東本←平仮名唯信抄の執筆順を想定するのが正当であろうと思われるの
であ
る︒
以上三種の字について論証したわけであるが︑特に﹁修﹂において︑書写時期の接近を考慮する時︑平仮名唯信抄
を見聞集より先の執筆とすることは︑あまりに複雑な早急な変化を認めなければならぬこととなり︑事実は反対であ
ったと考えるのが正当であると思われるのである︒同時に︑右の論一証過程が明らかにしたごとく︑坂東本前期筆跡部
分がその二真跡の聞に執筆されたものなること換言すれば︑坂東本前期筆跡部は平仮名唯信抄より先に執筆された
ることが認定され得るのである︒
現存形態による論一正
r一一、
一
、ーー』
浬繋経ノlトは︑最初一面五行平均十一字詰であったものが︑途中より六行が普通となり︑最後の三面は七・
七・八行となり︑字詰も十四字平均となる︒
これ
は︑
できるだけ紙面を節約せんとする意図を現わしている︒このこ
と自体は平仮名唯信抄との先後関係の証拠とはならないであろう︒しかし唯信抄の方を見ると︑浬繋経ノ1トの途中
で唯信抄そのものの書写は終り
一日
一書
写年
時等
の奥
書が
付さ
れる
わけ
であ
るが
︑
その後聖覚法印関係の漢文記事が
坂東
本﹁
教行
信証
﹂成
立時
期再
考
九五
坂東
本﹁
教行
信託
﹂成
立時
期再
考
九六
書き継がれ︑最初の表白文の第一面は平均十五字︵最初の二行は十六字︶詰であるのに︑
次第
に十
三字
平均
とな
り︑
但馬親王返書より更に少なくなり︑最後の二面は十字平均となる︵行数は六行で不変︶︒
これは明らかに記事面を引
き延そうとする聖人の意志を現わしているとしか考えられぬ︒唯信抄の方が最初に書かれたとした場合︑
かかる用紙
の無駄使いは理解できぬ︒結局浬柴経ノl
トが先に書写され︑それをも生かしながら︑表裏共まとまった一冊のノ
I
トにするため︑紙面の不整合を解消せんとする意図によるものと考えられるのである︵勿論︑浬繋経ノ
l
ト側
面の
に ある﹁或人夢﹂の記事など検討しなければならぬこともあるが︑未考の点もあり︑今は省略する︶︒
この﹁光明﹂の二字の左に各﹁次紙に記す﹂旨
の線が引かれ︑現存形態で五枚後の白紙の一一にこのこ線を受ける線に続いて﹁光明者名不覇劣﹂と用紙の右端に付注
オト担内オト回
H Z
されている︒現存状態でこの用紙の前紙も白紙であり︵この白紙と袋綴連続でなかったことは︑共に裏面がより滑ら r一品、
−
L一一浬J経繋
ノ
l
トの最後が﹁光明者不購劣乃至﹂で終っているが︑
かな
紙質
なる
こと
で判
明す
る︶
︑
わざわざ白紙一枚を隔てて注記する理由はないのでこの注は少くとも現存状態に
綴じ
られ
た後
のも
のな
ら守
さる
こと
は明
確で
ある
︒
この注の﹁光﹂字はノlト部分の筆跡と異なるので︑ノート部分と
同時の記入とは考え難いのであるが
親驚聖人がかなり早くより使用しておられる︵大般浬喋経要文﹀のであり他の
字も
ノ
l
ト部分と同じ聖人の筆と考えられる︵坂東本真巻前期筆部に同様な注がある︶︒
そし
て
この注は右述の白
紙一枚を別としても︑なお四枚を隔てて︑新しい用紙に記さねばならぬほど分量のあるものではないので︑聖人が他 の部分で行われているごとく貼紙等で用は足りたと思われ︑
またふさわしくもあったと思われる︒従って︑この後に
すぐ記すごとき簡単な場所の一不し方はこの用紙のすぐ裏面等に記すつもりの故だったと考えられ︑
平仮名唯信抄が先
に書写されていたものとするならば︑
聖覚法印関係記事の紙の裏が使用されていたはずであろうと思われる︒それな のに︑全くの白紙のしかも裏面の右端に記されていることは不思議である︒結局︑浬梨経ノ
lト終了時にはノl
ト最
後の裏は白紙で︑この段階では唯信抄は書写されていなかったと考えられるのである︒聖人は︑このノlトの袋綴を
切り開いて唯信抄を書写するに当り︑わずかの記事しか書かれていない付注の用紙をそこから離して︑最後の遊び紙
として注をも生かして綴じられたのではないかと推定されるのである︒
以上論証した形態上の点を坂東本教行信証前期筆跡の見聞集に極似するという事実に照応させるならば︑平仮名唯
信抄が坂東本前期筆跡部執筆後に書写されたということも当然の結論となろう︒
お わ り
平仮名唯信抄の書写が坂東本前期筆跡部執筆より後であるという結論は︑坂東本教行信証成立時期にのみ限定して
も︑様々な展望を聞かせてくれる︒今その二点を記しておく︒
r、園
一
」」
坂東本自身は一度は教巻の最初から化巻末まで短期間に順を追って書かれたものと考えられるが︵その途中
で多少の改訂が特に行巻で推定されぬわけではない︶︑それでも化巻末終了までにはやはり年余の月日を要したので
はあるまいかと思われる︒それから幾つかの訂正書改が行われたであろう︒書改部分を含めて前期筆跡と認定される
部分の執筆から幾つかの字について変化の見られる平仮名唯信抄書写の文暦二年六月までは︑おそらく二︑三年の隔
るの
であ
る︵
この
点で
︑
従って坂東本の最初の染筆は親驚聖人六十J六十一歳頃ではなかったろうかと推定す
@ 坂東本化巻本八八頁上欄外注による古田武彦氏の坂東本成立時期の推定と一致することとな りがあったろうと思われる︒
る︒氏は近著︿わたしひとりの親驚﹀で更に考察を加えておられる︶︒
,−、
−
L守 ーJ
坂東本前期筆跡が六十一歳以前と考えられるならば︑筆跡変化表の状況から考えても化巻末大集経引用部分
︵並びに真巻貼紙部分︶が尊蓮書写の寛元五年︵聖人七十五歳︶以前の切継なることは︑ますます確実性を増すことと
坂東
本円
教行
信証
L成
立時
期再
考
九七
坂東
本﹁
教行
信証
﹂成
立時
期再
考
九八
なり︑この尊蓮書写以前に現教行信証の本文はほぼ成立していたとする筆者の推両は︑
より
根拠
を得
たと
考え
る︒
最後に︑実は筆者は︑平松令三氏の御芳情により︑高旧派真門の理解ある許可をいただき︑見聞集拝覧の機会を得
たにもかかわらず︑あまりの不用意伎に︑ついに本論証にかかわる決定的根拠とすべき物証を得られなかったことを
報告する︒まことに申しわけなく︑弁解の余地はないのであるが︑以上の記述に利用し得たことの他に︑次の点を報
告して多少の報思としたい︒
⑧
用紙自体の表裏は︑紙質そのものから断定し得べきものではない︒確かに平仮名唯信抄書写面がより滑らかな紙
の多いことは事実であるが︑逆と思われる場合もあり︑例えば先述の付注部分の用紙︑﹁見開集﹂なる表題紙︵般舟
讃書写用紙を裏返したもの︶も︑より滑らかと思われる面なのである︒
⑮
今日の綴端と反対の側に三つ穴があることはすでに報告されていることであるが︑しかしこれは袋綴を切り開い
て再利用せんとする時点であけられたものではなく︑両ノl
ト書
写後
なる
こと
は︑
ω
両面の記事共にこの穴による運筆障
害の
形跡
が見
られ
ぬ︑
ω
先述のごとく両ノlト書写後に付されたはずの﹁見聞集﹂表題紙にも同じ穴があることで断
定さ
れる
︒
@
先述の付注用紙等で観取されることであるが︑虫損︑雛の状態が現存の綾様では一致しない点よりして︑現存形
態に到るまでに幾度かの綴変えの行われたことは明らかである︒
なお︑今後調査するとすれば︑次の方法が決定的に有効であろうと思う︒
⑧
用紙の繊維の連続状態を十分に検査する︿肉眼程度では根拠を得なかった︶︒
⑮
用紙の織による筆墨への影響を丹念に点検する︒
最後に拙論発表の機会を与えられたことに感謝の意を表したい︒
︵昭
和五
一二
・一
0
・一
一一
一稿
了︶