• 検索結果がありません。

国 2

ドキュメント内 真宗研究23号全 (ページ 131-144)

遵 i

﹁聖徳太子略絵伝﹂というよび方については︑ことにわれわれ真宗のものにとりましては︑必ずしも適当でないか

とも思います︒その理由はいずれ申上げますが︑世間一般では︑そのように称されていますので︑いまはともかく略

絵伝という言葉を使ったわけであります︒御承知の方も多いかと存じますが︑最初に少し略絵伝の解説を申し上げた

いと

思い

ます

太子さまの御絵伝にはいろいろなものがあります︒何幅もある非常に膨大なのもありますが︑ただ一幅の簡単な御

絵伝もあります︒略絵伝というのは︑すなわちこの一幅のもので︑すでにあちらこちらのものが何点か知られており

ます

︒中

でも

長野

県上

田市

向源

寺所

蔵の

もの

は︵

三五

頁写

真︶

奈良の博物館その他でも展観されたことがあり︑割合に

知られています︒その構図は︑簡単に申しますと︑一番下の向って左に太子さま二才の時のお姿︑すなわち南無仏太

子がありまして︑その右に朝鮮から参りました日羅が太子さまを礼拝している絵があります︒その上には︑各属とし

て六人の侍臣が添えられ︑真向で︑髪を前方両方に長く垂れて柄香炉を斜めに持った太子ざまのお姿があり︑

その左

右の色紙型に銘文があります︒われ衡山を出で︑

日域に入り︑守屋の邪見を降伏して仏法の威徳を顕わす︑

という著

名な文であります︒すなわち仏法興隆のお姿であります︒なお︑その上方には︑

また

侍臣

が六

人並

んで

︑ 太子さまが

三十

五才

の時

に﹃

勝童

経﹄

の講義をなされたお姿という講讃太子像が描かれています︒さらにその上には︑源信和尚 や法然上人︑親驚聖人その他真宗の先徳の像があり︑最上部に銘文があります︒

要するに︑太子さまの絵図としては︑

南無仏太子と日羅の太子礼拝と仏法興隆の髪を垂れた太子︑さらに﹃勝重経﹄の講讃太子の四つであります︒

のそ

上 の先徳像はあるものもないのもあり︑稀には最下部に描いているものもあります︒

この向源寺のもの以外では︑こちらに近いところで申しますと︑

美濃の安福寺︑すなわち先啓師のお寺にもありま すし︑師の著書にも載せていますが︑大分剥落したところがあります︒

また富山県氷見の光久寺所蔵のものは剥落が

聖徳

太子

略絵

伝に

つい

聖徳

太子

略絵

伝に

つい

一 一 一 六

多い

けれ

ども

︑ よく知られています︒その他茨城県石神の願船寺所蔵の御影は︑

講讃太子といわれていますが︑他の 図もあって︑やはり略絵伝と申すべきでしょう︒

その外︑こちらに近い岡崎市満性寺に蔵する一一幅は︑講讃太子と仏 法興隆の垂髪太子の二図ばかりですが︑これは略絵伝の略抄とみるべきでしょう︒

なお︑この一幅には︑天文六年二 月﹁高田専修寺前住真智上人﹂が﹁聖徳太子法身尊形﹂という裏書を加えてありますのは︑

珍らしいと思います︒ま た茨城県笠間の光照寺所蔵の一幅には︑髪を垂れた太子はありませんが︑

講讃太子その他の図像がありますから︑こ れも略絵伝の一つの略抄でしょうし︑最下部に四人の僧尼を描いているのは二組の夫妻で︑

この一幅に関係ある道場 の坊主と坊守かと推定されます︒このように夫妻をならべあげるのは︑

武蔵の荒木門徒によくある例ですから︑少な くともこの一幅は荒木門徒と関係があるのか︑

と考

えら

れま

す︒

それはともかくとして︑以上のように略絵伝やその 略抄本がいろいろあるわけですが︑先年わたくしは︑福島県郡山市音路の太子堂に伝った一本︑これは只今は岡市円

寿寺 に保 管し てい るの を拝 見い たし まし た︵ 一二 六百 写真

Oこれは略絵伝として四場面を具備したもので︵克も︑垂髪太子

には 六巨 を描 かず

︶︑ 南北 朝ご ろの もの かと 思わ れま すが

︑保 存も よい ので す︒

しかしまだどなたも紹介されていません︒

そこで︑ある機会にこの一幅を紹介し︑略絵伝について少々書いたことがあります︒しかしその後︑その一文はいま

だ不充分であり︑何分急いで書いたために︑補訂を要する点もあることに気づいていました︒

ところがこの度当学 会でお話をする機会を与えられましたので︑あらためて﹁略絵伝﹂についての私見を申し述べ︑いろいろ皆様方の御

意見をうけたまわることができれば幸いだ︑と考えまして︑この題目をえらんだわけであります︒

さて︑以上申上げましたように︑略絵伝とは簡単な太子さまの御紅伝でありまして︑現存するのは年代的にはせい

ぜい鎌倉時代もごく末期︑南北朝から室町時代のもので︑それより古いものは知られていません︒江戸時代の親驚聖

人の御旧跡巡拝の案内書等には﹁略絵伝﹂として出ていますことは皆さま御承知のことと思いますが︑現代の学界で

はあまり問題にされていないようで︑先年︑奈良の国立博物館が聖徳太子絵伝の展覧会を催しましたが︑その時には

たしか向源寺所蔵のものと安福寺のものと︑二点か三点出品されていました︒しかしそれも番外という扱いで︑その

図録には載せられていません︒それで︑この略絵伝について書かれたものはあまりないようで︑僅かに奈良博物館の

菊竹淳一氏が﹁日本の美術﹄︵聖徳太子絵伝︶の中で言及されている外には︑

わた くし は知 りま せん

︒ そ れ に は こ の

ような御絵伝がどうして成立したのか︑ということを述べられているのであります︒簡単に申しますと︑略絵伝の成

立について考うべきものは茨城県の上宮寺に蔵する絵巻形式の略絵伝で︑優秀な作品として著名でありますが︑その

巻頭の序に︑太子の仏法興隆の恩徳を謝するために肝要を抜き出す︑

とあ って

十四の場面が描かれています︒

とこ

ろで︑天王寺に二幅の御絵伝があります︒その第一幅には太子さまの前生語が描かれております︒残る一幅には太子

聖徳 太子 略絵 伝に つい て

聖徳

太子

略絵

伝に

つい

一二

さまの日本の御事績を描いているのでありますが︑それは太子さまの御生涯全体ではなく︑十二の場面ほどでありま

す︒御誕生から南無仏太子に始まりまして︑桃の花よりも松の緑を喜ばれた話その他から崩御まで︑十二場面ありま

すが

これは先の上宮寺の絵巻形式のものと大体同様であります︒そして根底には真宗思想があります︒すなわち親

驚聖人の﹃皇太子聖徳奉讃﹄とほぼ一致いたします︒また石川県小松の正雲寺にあります御絵伝は天王寺本と少し内

容が

ちが

いま

すが

やはり真宗的でありますというより︑一層真宗的になったところがあります︒太子さまが十六歳

の時に用明天皇の御病気平癒を祈願して三宝を供養されている絵がありますが︑それは髪を両肩から前へ垂れた真宗

に行

われ

た太

子御

影で

日羅・妹子・馬子・恵慈・学膏・阿佐太子等を添えてあります︒この十六歳の条は︑孝養像

か︑

守屋

討伐

の太

子か

ちょ

っと

わか

りか

ねま

すが

ともかくこれは真宗内で行われた形で︑こうした御影が出てく

るのは一一層真宗的であるといえます︒すなわち太子の膨大な御絵伝を真宗において圧縮し要約されたものと思われま

す︒こうして縮少されてでき上ったのが略絵伝である︑と説明されているのであります︒

以上

はご

く概

略で

すか

ら︑

詳しくは菊竹さんのお説を直接御賢願います︒あまり広く並意していませんので︑略絵伝の成立に関する研究は︑右

のような見解以外に存じません︒わたくしは以上申しました菊竹さんのお考えもたしかに一説だとは思います︒し

かしこのようにだけしか考えられないものでしょうか︒実は︑わたくしはこれとは別な考えをもっていますので︑こ

れからそれを申上げてみたいと思います︒

御承知のように︑親驚聖人には太子さまに関する文献が沢山あります︒

和讃

では

﹃正像末和讃﹄所収の十一首を

初め

七十五首・一百十四首と三種あり︑

伝記

には

﹃上

宮太

子御

記﹄

また﹁尊号真像銘文﹄には太子御影に加えら

れた銘文として︑朝鮮の日羅と阿佐とが︑太子さまを観音さまの化身として礼拝した二文を掲げて注釈されています︒

このように沢山あります聖人の太子関係の文献を大別してみますと︑

そこに二つの太子観が窺われます︒その一つは︑

太子さまを観音さまの化身として仰がれている面であります︒﹃尊号真像銘文﹄所載の二文や十一首の太子和讃がそ

れであります︒ことに︑十一首和讃には︑太子は矢の如く母の如くいっくしみ給うて正定爽の身にならしめ給うた恩

徳を讃えられていましていわば超歴史的な太子さま

いいかえると太子さまを宗教的に尊仰されておられます︒こ れは︑聖人の太子尊崇の根本的な面で︑三種の御和讃の中でも十一首が最も格調が高いと思われます︒

しかし聖人に

は︑こうした観音の化身として太子を仰ぐという面とは︑またちがった一面があります︒たとえば﹃上富太子御記﹄

は当時の太子さまに対する歴史的常識であった﹃太子伝暦﹄等による太子伝であります︒

これは明かに太子御生涯の

事蹟を扱ったものです︒七十五首と一百十四首の太子和讃も同様歴史上の太子を讃仰したものであります︒この長篇

の二種の太子和讃が聖人の作か︑どうか︑ということは︑先年の連合学会で問題とされましたが︑いまはそのことに

は触れず︑従来どおり一応聖人の作と考えておきます︒以上述べましたように︑聖人の太子讃仰には︑宗教的な面と

歴史的な面との二つが見られるのでありまして︑このことはいまとくに注意しておきたいと思うのであります︒

それでは︑親驚聖人には何故にいま申しましたように二種の太子観の文献があるのでしょうか︒

このことは︑嘗て

ある席で申したことがあるのですが︑聖人御在世のころには︑太子さまの仏事法会があったのではないか

とい

うこ

とで

す︒

﹃聖徳太子内因長茶羅﹄という書は正中二年すなわち鎌倉時代最末期の識語があるのですが︑

それには︑聖

人が太子さまの仏事を行われたと解釈できるところがあります︒また石川県松任本誓寺の太子絵伝は室町時代の作で

すが︑その終に︑聖人が太子御影の前で仏事を行われている絵があります︒

これ等は聖人遷化の後はるかに歳月を経

たものですが︑聖人が太子さまの仏事法会を営まれたという伝承が古来存したことを示すものと思われます︒そうし

たことを念頭において︑聖人の著述に歴史的な太子︑その生涯の御事績をとり扱った文献があることを注意しますと︑

聖徳

太子

略絵

伝に

つい

一 一 一 九

ドキュメント内 真宗研究23号全 (ページ 131-144)

関連したドキュメント