﹁ 正
﹁正
信念
仏偏
﹂と
﹁念
仏正
信傷
﹂
。
五﹁正
信偽
﹂︑
﹁念
仏正
信偏
﹂を
﹁文
類偏
﹂と
略称
する
︒ (1)
その形式と内容
その形式を窺うに︑侮文の長さは両備ともに六十行・百二十勾で︑宗祖は意図的に対応する形でこの倍文を製作せ
られたことは明らかである︒
その
内容
にお
いて
も︑
前分
二十
一一
行・
四十
四句
は依
経段
で︑
最初に総讃があり︑後分四十八行・七十六句は依釈段
で︑最後の二行・四句が結勧となっている︒そこで︑その内容上の異同を中心に︑比較し考察してみようと思う︒
倒その出典について
その
出典
は︑
一一
一口
うま
でも
なく
﹁正
信偽
﹂が
﹁教
行信
証﹂
行巻
末尾
にあ
るの
に対
して
︑
﹁文
類偽
﹂は
﹁浄
土文
類栗
林
V﹂
のほぼ中間に位置している︒普通︑前者を広文類︑後者を略文類と呼称する︒
﹁教
行信
証﹂
は一
二二
四年
︵元
仁元
年︶
聖人
五十
二才
の時
︑
常陸の稲田において起草せられたと伝えられるが︑完成の時期は定かでない︒
これ
に対
して
︑
﹁浄土文類緊紗﹂は一二五二年︵建長四年︶聖人八十才の時︑京都において初稿をみたといわれ︑建長七年聖人八十三
才の時︑完成したと推定されている︒しかし︑これには異論もあるようで︑両書完成の時期についての問題はさてお
き︑
聖人
の発
想と
して
は︑
﹁文類偏﹂が先で﹁正信偏﹂が後であるとの仮説をたててみたいと思う︒聖人が﹁文類偲﹂
としてまとめられた大綱を手がかりに﹁正信偽﹂を完成せられたのではないかと推論し︑両備を対比しつつ所見を述
べて
みよ
うと
思う
︒
題 号 に つ い て
その
題号
を窺
うに
︑
﹁文類偽﹂が﹁念仏正信偽L︑﹁正信偽﹂が﹁正信念仏偏Lとなっていて︑念仏と正信とが倒置
備L
いい
かえ
れば
︑ まず注目したい︒字義としては︑
﹁法を機に受ける相﹂︑念仏の大行を中心に述べられた偏文ではないかと思う︒これに対して︑
﹁法
を機
に受
けお
わっ
た相
﹂︑
換言
すれ
﹁念仏正信偽﹂は﹁念仏ノ正信偏﹂︑すなわち﹁念仏ニヨリ正信スル
して
いる
占川
に︑
﹁正信念仏偽﹂は﹁正信ノ念仏偽﹂すなわち﹁念仏ヲ正信スル備しであって︑
ば︑機の上にいただいた信心を中心に述べられた偽文であると思う︒﹂こにおける念仏とは︑真実の大行すなわち第
十七願︵諸仏称名の願︶をさし︑また正信とは︑真実の大信すなわち第十八願︵至心信楽の願・正定棄の機︶をさす︒
﹁文
類偏
﹂の
﹁念
仏一
一ヨ
リ正
信ス
ルし
とは
︑
れる﹁法のはたらき﹂に中心をおいた安心が述べられている借と思われる︒
信スル﹂とは︑本願力廻向によって廻施せられた真実信心︵第十八願︶に中心をおいて︑ 第十七願の﹁名号﹂から﹁信心しへ︑
さら
に﹁
称名
﹂
へと発展せしめら
これ
に対
して
︑
﹁正信備﹂の﹁念仏ヲ正
その涼である名号︵念仏︶
を感侃せられた偽文ではないだろうか︒
三
︑ 両 信
の 北 円 且 口 小
さて︑﹁文類偽﹂の背景として﹁浄土文類緊紗しの偽前の文をみるに︑はじめに教行信証の肝要を簡潔に述べた後︑
﹁爾者若往若還無レ有田一事非三如来清浄願心之所一通向成就一也応レ知﹂と総括し︑次いで﹁教行信証﹂総序の
シ キ イ デ レ パ 品
﹁慶
哉愚
禿仰
惟樹
一一
心弘
誓仏
地一
流一
一情
難思
法海
﹁嘆
レ所
レ聞
慶レ
所レ
獲云
々﹂
と
文にあたる遇法のよろこびを披涯し︑
述べて︑以下往生論註を引いて知思報徳の志をあらわし帰敬せられる︒備の後にはコ二問答等ほとんど信心の問題に
﹁正
信念
仏偏
﹂と
よ
ω仏
正信
偏﹂
玉
﹁正 信念 仏伺
﹂と
﹁念 仏正 信偏
﹂
五
ついて︑問答形式によって真実信心を開顕せられる︒末尾に﹁信楽受持難中之難云々﹂と極難信の法であることを
示し
︑
つづいて最後に︑一二世諸仏出世の本意を顕示して無上の信心を勧められる︒
︵こ こは
﹁正信偽﹂においては
大略侮文の中に取り入れられているoU以上︑倍前備後の説相を通して﹁文類倍﹂をみるとき︑教行証の三法門︵行
中摂信︶に据わりをおいて︑旧間後に真実信心の展開としていわゆる信別聞の構成をせられたように思われる︒如来
の大行︵名号︶から衆生の信心・称名へと躍動してやまない相を︑﹁念仏から正信へ﹂と示して題号とぜられたので はな いだ ろう か︒ これ に対 して
︑
﹁正信偏﹂の背景たる﹁教行信証﹂においては︑行巻一部に真実の大行を明かし︑他力一乗海釈に
﹁凡 就一 一誓 願一 有一 一真 実行 信﹁ 亦有 二方 便行 信﹁ 乃至 大無 量寿 経之 宗致
︑他 力真 宗之 正意 也﹂ と︑ ここ つい て述 べた 後︑ 徳の
志を 表わ し︑
に信を出して真実の行信の不即不離なることを表わし︑真実信心を強調せられる︒
﹁爾 者帰 ニ大 聖真 言一 間二 大祖 解釈 一信 一一 知仏 思深 遠一 云々
﹂
ついで︑往生論註によって知思報
と製作の真意を表白せられる︒
刀己フて
祖
がこの偏をもって行巻を完結せられるということは︑行巻一部の総まとめであると同時に︑信巻へと展開せられる緒
であり﹁教行から信証への四法門の肝要ここに極まれり﹂といえよう︒正信こそ︑宗祖己証の法門で︑往相信心の
願︵第十八願︶によって成就せられた他力の信心の謂であって︑おのずから称名念仏せしめられるというところから
﹁正信念仏偏﹂と題せられたものと思われる︒
四 総 讃︵ 帰敬 の伺
︶ 最初の一行︵﹁文類偏Lでは一旬︶を総讃といい︑﹂こに偏文全体の立場が明らかに示されていると思う︒
﹁文 類偏
L
では
﹁西 方不 可思 議尊
﹂と
︑
われわれの信仰の対象である阿弥陀仏が︑心もことばも絶えた﹁不可思
議尊
﹂で ある と︑
﹁讃阿弥陀仏偽﹂から引用して讃仰せられる︑仏徳讃嘆の一句をもって始まる︒衆生をして帰命せ しむ る﹁ 西方 の不 可思 議尊
﹂︑ ここに如来から衆生へのはたらきが表出せられている︒
これ に対 して
﹁正 信仰 向﹂ は
﹁帰命無量寿如来︑南無不可思議光﹂と︑﹁帰命﹂・﹁南無﹂の帰敬文をもって始まる︒
行巻に﹁南無之言帰命乃
その用である光明無量を後にして讃嘆せられる︒
阿弥陀仏の体である寿命無量を先にし︑
至帰命者本願招喚之勅命也L
とあり︑如来から衆生へ廻施したまう大信であるけれども︑
説相としては︑衆生から如
来への絶対帰依を表白せられたものといえよう︒
こう して
︑
﹁文類偏﹂から﹁正信備しを対比してみるとき︑大行から大信への展開とみることができよう︒
五 依 経 段
ω
弥陀の本願を明かす段この段は両傷の表現が相当異なっている︒
まず﹁文類偽﹂は﹁法蔵菩薩因位中L
以下︑如来の因位と本願成就を述べるに︑極めてわかりやすく端的に述べ てお られ
︒る ついで︑仏身の不可思議であることを︑
﹁寿命延長・慈悲深遠・智慧円満﹂と表わし︑さらに仏土の不
可思議を﹁清浄微妙無辺利乃至超途十方諸仏国L
と示 して
︑ 真実報土の荘厳功徳を讃嘆せられる︒
つづ いて
﹁普
放
難思無碍光し以下光明摂化と
﹁名 声麻 酔不 十間 方
L
の一句で名号摂化を示される︒総じていえば︑
﹁文 類偽
﹂は 誓﹁ 願L
﹁報 仏報 土﹂
﹁光明名号しと︑如来の果上の摂化無窮であることを開顕せられたものである︒
これに対して﹁正信偏﹂は︑
﹁法 蔵菩 薩因 位時
﹂以 下︑ 如来の因位と本願成就を﹁文類偏﹂より詳しく述べ︑法蔵 菩薩の発願から選択摂取を﹁観見シテしと表わし
﹁重誓名戸聞十方﹂と名号成就をもって総括せられる︒
次に︑衆
﹁正 信念 仏偏
﹂と
﹁念 仏正 信偏
L
五
﹁正
信念
仏燭
﹂と
﹁念
仏正
信偶
﹂
五回
生救済の縁となる十二光を並列して﹁一切群生蒙光照﹂とまとめられ︑最後に︑衆生救済の因は名号成就・信楽成就
の本願にあることを明示せられる︒すなわち︑﹁本願名号正定業︑至心信楽願為因﹂と︑真実大行たる第十七願より︑
真実の大信第十八願を出して︑
﹁正
信用
問﹂
の肝
要を
まと
めら
れた
ので
ある
︒
つづ
いて
︑
衆生救済の果である真実証
︵第十一一願︶を﹁成等覚証大浬梁必至滅度願成就﹂と示して︑真実の行信の証呆を明らかにせられたのである︒総じ
てい
わば
︑
﹁正信偽﹂は︑本願・名号から光明摂化︑さらには真実の行信を明示せられた点で︑
﹁文
類偽
﹂の
依経
段
をいっそう具体化して︑衆生救済の道を開顕せられたものであるといえよう︒
ω
釈迦の勧信を明かす段この段は︑表現のみならず︑内容的にもかなりの相違点がみられる︒
まず
﹁文
類偽
﹂で
は︑
﹁弥陀仏日普照耀﹂以下心光常護の益からコニ有生死之雲晴︑乃至一如法界真身顕﹂と当
益を
一示
し︑
つづ
いて
﹁発信称名光摂護亦獲現生無量徳﹂と現益を明らかにせられる︒さらに︑﹁諸仏護念L等小経の
イ カ ン ガ セ
y
ノ ヲ タ ダ ズ ベ シ
﹁如何疑一一惑斯大願﹁唯信一一釈迦如実言こと勧信せられ意をうけて︑大経流通分の﹁特留止経﹂をあげ︑最後に︑
るの
であ
る︒
これ
に対
して
﹁正
信用
向﹂
では
︑
﹁如
来所
以興
出世
唯説
弥陀
本願
海﹂
と︑
まず釈尊出世の本懐である大経の意を起点
にして真実信心の大益を示し
﹁不
断煩
悩得
浬繋
﹂
﹁凡
聖逆
詩斉
廻入
L
以下
︑
心光常護・横超悪趣の益等を述べられ
る︒さらに︑正定衰の機をたたえて︑観経流通分の﹁是人中分陀利華﹂と表わし︑そして最後に︑真実信の難信であ
ることを強調して結んでいられる︒
両偏
を比
較す
ると
き︑
﹁文類偽﹂には対句的表現が多く︑宗祖の宗教的体験が名文となって泉のごとくほとばしり
ヲ ヌ
νパ
uy
タマフ﹁発レ信称名光摂護﹂や︑衆機ひとしく救済せ出ているように忠われる︒たとえば︑当益から現益に転ずる所︑