再説
西方
指南
抄の
編者
につ
いて
二 O
国九月十六日付御返事 同
つのとの三郎殿御返事
\ 一 一
国 法 語 十 三 問 答
的以降の書簡篇の配列の順序について確たる法則をみ出しえない︒しかし宛名の人々は親驚も法然膝下にあった時
から︑同信の人々として多少とも消息を知る人々であったに相違ない︒それぞれの書簡のかかれた年時はわからなく
ても︑念仏門に帰依した順序とか︑あるいはしよう如一房の事件のあった年時などの記憶があって︑親驚なりには配列
の順序があるのであろうと思う︒自由がおほご太郎夫妻へのものとして一連とされたり︑
⑤ 仰と連続されたり︑九条北政所宛の消息も国関と一括するなどしていて︑決して雑然とした史料の集積ではない︒ 一念義に関する書簡が由
ω
しかし右に示した分類ではなじまぬものもないではないから︑若干の説明を加えよう︒り公胤夢告は年代順を破る
が︑それが後からの追記であるためであることは先にのベた︒制葬家追善事は建久九年の日付をもつから︑仰七箇条
起請の前に配すべきであるが︑内容は遺書であるから最後に置いたと考えてよいであろう︒日開法語十八条が伝記篇に
組入れられているのはなんといってもなじまない︒しかしこれも次のように考えるなら一応の筋が通るであろう︒三
昧発得記・上人御夢想記と法然を権化の人として語るのであるが︑ここまで記してきで︑このような三味発得がなけ
れば往生は不可能という誤解が発生しはしないかという危倶が︑親驚の脳裏をかすめたのではないかと思う︒三味発
得の
法然
が説
くと
ころ
は︑
ただ﹁名号をとなふるほかは一切やうなきこと﹂を記しておかねばという気分が︑この法
語をここに挿入させたのであろうと思う︒
結
び
上巻奥書の日付の問題は︑公胤夢告とともに追記されたことによって謎がとけた︒内題訂正のことも一応の理解を 試みた︒このような追記・訂正は転写説をまっ向から否定するであろう︒
驚によって記入されたという判断が多少とも説得力をもつなら︑
西方指南抄のみが伝えるところの付記が親 すでに論証されている各所における大巾な省略のこ と︑分冊・左註などなどの親驚編述説の論拠に新たに加勢するところとなる︒
② ① 註
﹃真 宗研 究﹂ 一一 拙論
﹁西 方指 南抄 の編 者に つい てし 京都女子大学﹁人文論叢﹄一九拙論﹁法然上人説法事に
つい
て﹂
異本でこれらの付記がどう扱われているか︒ーについて
は四巻伝巻四・九巻伝巻八下・琳阿木巻八・古今著聞集
・拾 遺古 徳伝 が記 載す るが 付記 の部 分は 不載
︒
2は
九巻 伝巻 三下 が伝 える が付 記は 不載
︒
3は和語灯二了九巻
伝巻五下が伝える︒付記︑和語灯は不載︑九巻伝は同義
異文 を記 す︒
4︑
和語 灯一 七・ 四八 巻伝 巻二 九︑ 付記
︑ 和語 灯は 不載
︑四 八巻 伝が 内容 を歪 曲し たも のを 記す
︒
5︑漢語灯一八・四八巻伝巻二九︑四八巻伝は付記の文
を消 息の 内容 とし て記 す︒
6︑
和語 灯一 五・ 九巻 伝巻 一一 一
③ 再説西方指南抄の編者について
④
上・ 四八 巻伝 巻二 八︑ 付記 いず れも 不載
︒
3で
類似 の文
を記載する九巻伝は元亨ころの成立で抄より六十余年後
の成 立で
︑ま た
4・5にかかわりのある四八巻伝は︑ず
っとおそく応安のころのもので明らかに指南抄を材料と して利用しているからこれら二書は異本として比較の対 照とならない︒とすれば抄にある付記は異本いずれもも たな いと ころ とい わね ばな らな い︒
﹃官
一︵
宗研
究
L一一一﹁真蹟本に見る親驚聖人のかなの用 法 ﹂
聞は和語灯によれば﹁熊谷入道へつかはす御返事﹂とあ
るが︑親驚はこれを九条殿北政所宛のものと理解してお り︑ この 消息 のみ をそ の見 出の もと に書 写し たも の︑ が専 修寺 にあ る︒
⑤
親驚
聖人
の太
子信
仰の
形成
と四
天王
寺