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一 O 九

ドキュメント内 真宗研究23号全 (ページ 116-119)

再説

西方

指南

抄の

編者

につ

いて

二 O

国九月十六日付御返事 同

つのとの三郎殿御返事

\ 一 一

国 法 語 十 三 問 答

的以降の書簡篇の配列の順序について確たる法則をみ出しえない︒しかし宛名の人々は親驚も法然膝下にあった時

から︑同信の人々として多少とも消息を知る人々であったに相違ない︒それぞれの書簡のかかれた年時はわからなく

ても︑念仏門に帰依した順序とか︑あるいはしよう如一房の事件のあった年時などの記憶があって︑親驚なりには配列

の順序があるのであろうと思う︒自由がおほご太郎夫妻へのものとして一連とされたり︑

⑤ 仰と連続されたり︑九条北政所宛の消息も国関と一括するなどしていて︑決して雑然とした史料の集積ではない︒ 一念義に関する書簡が由

ω

しかし右に示した分類ではなじまぬものもないではないから︑若干の説明を加えよう︒り公胤夢告は年代順を破る

が︑それが後からの追記であるためであることは先にのベた︒制葬家追善事は建久九年の日付をもつから︑仰七箇条

起請の前に配すべきであるが︑内容は遺書であるから最後に置いたと考えてよいであろう︒日開法語十八条が伝記篇に

組入れられているのはなんといってもなじまない︒しかしこれも次のように考えるなら一応の筋が通るであろう︒三

昧発得記・上人御夢想記と法然を権化の人として語るのであるが︑ここまで記してきで︑このような三味発得がなけ

れば往生は不可能という誤解が発生しはしないかという危倶が︑親驚の脳裏をかすめたのではないかと思う︒三味発

得の

法然

が説

くと

ころ

は︑

ただ﹁名号をとなふるほかは一切やうなきこと﹂を記しておかねばという気分が︑この法

語をここに挿入させたのであろうと思う︒

上巻奥書の日付の問題は︑公胤夢告とともに追記されたことによって謎がとけた︒内題訂正のことも一応の理解を 試みた︒このような追記・訂正は転写説をまっ向から否定するであろう︒

驚によって記入されたという判断が多少とも説得力をもつなら︑

西方指南抄のみが伝えるところの付記が親 すでに論証されている各所における大巾な省略のこ と︑分冊・左註などなどの親驚編述説の論拠に新たに加勢するところとなる︒

② ① 註

﹃真 宗研 究﹂ 一一 拙論

﹁西 方指 南抄 の編 者に つい てし 京都女子大学﹁人文論叢﹄一九拙論﹁法然上人説法事に

つい

て﹂

異本でこれらの付記がどう扱われているか︒ーについて

は四巻伝巻四・九巻伝巻八下・琳阿木巻八・古今著聞集

・拾 遺古 徳伝 が記 載す るが 付記 の部 分は 不載

2は

九巻 伝巻 三下 が伝 える が付 記は 不載

3は和語灯二了九巻

伝巻五下が伝える︒付記︑和語灯は不載︑九巻伝は同義

異文 を記 す︒

4︑

和語 灯一 七・ 四八 巻伝 巻二 九︑ 付記

︑ 和語 灯は 不載

︑四 八巻 伝が 内容 を歪 曲し たも のを 記す

5︑漢語灯一八・四八巻伝巻二九︑四八巻伝は付記の文

を消 息の 内容 とし て記 す︒

6︑

和語 灯一 五・ 九巻 伝巻 一一 一

③  再説西方指南抄の編者について

④ 

上・ 四八 巻伝 巻二 八︑ 付記 いず れも 不載

3で

類似 の文

を記載する九巻伝は元亨ころの成立で抄より六十余年後

の成 立で

︑ま た

4・5にかかわりのある四八巻伝は︑ず

っとおそく応安のころのもので明らかに指南抄を材料と して利用しているからこれら二書は異本として比較の対 照とならない︒とすれば抄にある付記は異本いずれもも たな いと ころ とい わね ばな らな い︒

﹃官

一︵

宗研

L一一一﹁真蹟本に見る親驚聖人のかなの用 法 ﹂

聞は和語灯によれば﹁熊谷入道へつかはす御返事﹂とあ

るが︑親驚はこれを九条殿北政所宛のものと理解してお り︑ この 消息 のみ をそ の見 出の もと に書 写し たも の︑ が専 修寺 にあ る︒

⑤ 

親驚

聖人

の太

子信

仰の

形成

と四

天王

親驚聖人の太子信仰の形成と四天王寺

武E

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