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昭和一八年文甲一組入学   昭和二〇年卒業 二〇一五年六月二六日聞取  

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三、聞き取り

㈠  三根健策

昭和一八年文甲一組入学   昭和二〇年卒業 二〇一五年六月二六日聞取  

1  進路選択・入試

ご出身は横浜ですか。

  私の父が熊本医学専門学校出身なんです。 今の熊本大学医学部。佐賀の百姓の四男坊 なんです。佐賀では上に行こうとするとや っぱり熊本ということで、五高と熊本医専 を受けて、二つとも合格したんです。本人 は五高へ行きたかったんだけど、五高三年、大学三年、合計六年、 そんなに学費は出せないと、祖父から言われて、やむなく熊本医専 に入ったんです。熊本医専を卒業してすぐ海軍に入りましてね、海 軍の軍医で第一次世界大戦にも参加して、北はカムチャッカから西 はインド洋、南は南洋群島、あっちこっち駆けずり回って、最後は 駆逐艦の軍医長をして、大正一四年に軍縮があったときに海軍を降 りて、横浜の掖

えき

済

さい

会

かい

病院という船員相手の病院に入ったんです。そ の時、私は母のお腹の中で佐賀から横浜まで行って、この世に出て みたら横浜だったということです。それで中学卒業まで横浜にいて、 神

じん

中

ちゅう

(横浜一中)から五高に入ったというわけです。

五高を志望した理由を教えてください。

  中学校(神中―横浜一中)で英語を習ったのが山田先生で、その 先生は五高卒業だったんです。それからもう一人、五高の先輩で、 万葉の大家犬養孝先生に国語を習いました。それで五高はいいなと、 そういう思いがありました。私の両親は佐賀でしたから、行くなら 熊本がいいかなと。九州の地が呼んだのかもしれませんね。私が五 高を受けると言ったら、父が喜びましてね、当時、熊本城のそばに 研屋旅館があって、そこに宿を取ってくれました。研屋には一人で 泊まっていました。二週間泊まって、試験を受けました。一次試験 を受けて、合格発表のあとに二次試験があるまで、ちょっと時間が 空いていて、その間中ずっと研屋で豪遊していました。それで下通 りあたりや辛島町とか、あの辺りをうろうろしていましたから、お 前は贅沢だって言われていましたけどね。

  中学からはもちろん何人か一緒に受けに来ました。文科では僕一 人しか入らなかったですけど、理科では小

こ

見

み

君というのが理科の一 組、中学で二級上の二宮さん、背の高い バ スケットの名手、この三 人で来たんです。来た時に、たまたま熊本県知事だったのが横溝さ ん。 神 中 の だ い ぶ 先 輩 で し た ね。 そ れ で、 挨 拶 に 行 っ た ら、 「 し っ かり勉強しろよ」って言われました。それは昭和一八年の三月のこ とでした。だから、やっぱり五高に来てよかったなと思ったんです よ。一高に行っていたら、友達がたくさんいたけれど、五高は私一

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人でした。どっちがよかったのか、今はわかりません。でも、後悔 はしていません。

文科、理科の選択についてお聞かせください。

  僕 の 父 は 習 学 寮 に 来 た 時、 「 理 科 に 替 わ れ、 理 科 に 替 わ る と 軍 隊 に行かなくてすむから」と言っていました。でも、右から左に聞き 流していましたね。私なんかはずぼらな ほ うだから、何にもしない で運命のままに流されていたら、とんでもない目に遭いました。私 の兄は特攻で戦死しているんです。残念だったですね。私の四つ上 で、大正一〇年生まれ。今生きていれば九四歳です。ものすごく頭 がよくてね、中学の勉強なんか何にもしないんです。何もしないで ズンズンあがっていって、いつ勉強しているのかなと思うぐらい勉 強しないんですよ。音楽が好きだったので音楽学校に行きたいと、 今の東京芸大ですね。それで今度は父と大喧嘩、大変な騒ぎになり ました。私がまだ中学校一年の時でしたから、よく覚えています。 私の伯父が中に入って、冷静に戻って佐高に入れと、父の出身が佐 賀ですからね。それで折り合って九州に行って、三年間頭を冷やし て、それで東大の法学部に入って帰ってきたんです。その喧嘩たる や大変なものでした。兄はピアノをやりたかったんです。だから、 ピアノの鍵盤を紙に描いて、一所懸命ピアノを弾くまねをしていた ようです。ピアノなんて買ってもらえませんからね。兄の一つ下の 姉がよく見ていたらしいんです。何で特攻に行ったんだと悔やんで いました。そういう話は日本中どこにでもころがっていますけどね。

2  学校生活

入学されたのが昭和一八年の四月ですね。授業はいかがでしたか。

  一年生と二年生の一学期まで授業は通常どおりでした。入学した 時、文科はそのままで四クラスですけど、理科は二クラス増えて六 クラスでした。当時は、理科を充実しなきゃいかんということで多 くなったんです。文科は甲が三クラスで、四組は乙でした。文甲一 組、二組は普通の課程でしたが、文甲三組が「古典組」でした。ち ょうどあの時代古典騒ぎがありました。日本の古典を習わなきゃい かん、日本の古を知らなきゃいかんという、そういう時期でしたか ら、ドイツ語の時間に変えて、古典組は古典を勉強させられたんで す。確か三組はドイツ語を勉強していないんじゃないのかな。一組 と二組はいつも一緒に授業をすることが多かったですけどね。

代返についてのエピソードを聞いたこ と もあります。

  あんな狭い所で代返したらすぐわかるんですけど、先生も先生、 生徒も生徒であまり気にしていない…まぁ気にはしていたんでしょ うけどね。僕等のクラスで長井君というのがいましてね。中川原君 に、 「な」で続いているから代返を頼んで授業をさぼったわけですよ。 中川原君が「長井です。 」って言うと、 先生が「君、 本当に長井か?」 っ て。 そ う し た ら「 長 井 で す。 」 っ て。 そ の 先 生 は 長 井 君 を よ く 知 っているんですよ。長井君はその先生のところに行ったりしていた

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ので、長井の顔を知っているんですよ。それをまた頼む方も頼む方 だ け ど、 頼 ま れ る 方 も 澄 ま し た 顔 で「 長 井 で す。 」 な ん て 言 う も ん だ か ら、 「 本 当 に 長 井 か?」 な ん て、 押 し 問 答 し て い ま し た け ど ね。 まぁ、大人のやり取りをしていましたね。それから成績を貼り出す んですよ。その頃になると、みんな大丈夫か、大丈夫かなんて。赤 丸がついていたりすると大変ですからね。その辺は割に厳しかった ですね。

  阿蘇に道場がありましてね、授業の一環として阿蘇道場に行きま した。飯島先生も一緒でした。麦飯を食べて座禅を組んで、農作業 をしたりしました。それから阿蘇には農家に泊まり込みで農作業に も行きました。稲刈りをしたり暗渠排水の工事で何回か行きました。 結局、授業はあったんですけど、そんなことで時間を取られました ね。

部活はなにかされていましたか?

  私はグライダーをやっていました。私の同期では、間野君がわり にうまかったですね。帯山練兵場にグライダーの艇庫がありまして ね、そこでよく飛ばしていました。まだまだ初歩の段階でしたけど ね。でも一八年はまだ良かったですね。高校生活を満喫とはいえな いけれど、送れていましたね。昭和一九年とは、一年違うだけで中 身はずっと違います。昭和一九年になると徴兵適令が二〇才から一 九才になるし、それに学徒出陣ということもありましたからね。昭 和一八年と一九年ではがらっと変わりましたね。それ以前の人から すれば、一八年はきつかったぞという方もいらっしゃるかもしれま せんけども。とにかく、日ごとに戦時色が強くなりました。

3  習学寮

習学寮は、も と も と は二人部屋でしたが、この時期は三人部屋にな っていましたね。

  三人部屋でしたね。六畳に三人いたのかな。机を三つ並べて、も ういっぱいいっぱいでしたね。寝る時は布団を敷いて、押入れは一 つありましたね。三人分入れていたのかな。部屋は一寮、二寮、三 寮は一緒で、四寮は広い部屋があったんじゃなかったかな。だから 四寮は人数も多かったですね。

食糧事情はいかがでしたか。

  熊本は東京、大阪に比べたらまだ良かった。カライモも十分にあ り ま し た。 五 高 の 隣 に、 ど う い う 字 だ か は 分 ら な い け ど、 「 リ ン ト クの饅頭」って言って、カライモの饅頭屋がありましてね。ですか ら、それ ほ どひもじい思いをしたということはないですね。寮の食 事の内容が変わったなという記憶はないですね。まだ気にはならな かったですね。麦飯になったのかな、でも量的には心配なかったで すね。三食だけじゃなくて、もっといろいろ食べていました。これ は違法なんですけどね、土曜日になると全寮制度ですから、熊本の 出身の人達は家に帰るんですよ、そうすると帰るのにちゃんと手続

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きする人もあれば、そうでない人もあるから、寮のご飯が余るんで すよ。だから二度飯と称して、一回食べて、もう一回食べるという 不届きなことをしたりして。二度飯はもともと禁止なんですが、そ れは黙認されていました。

寮歌は上級生から伝えられたのですか。

  毎晩ではなかったですけど、一週間に何回かは寮歌練習をやりま した。

寮歌を歌うのはどんな時でしたか。

  自然発生的ですね。 逍遙歌なんてありますからね。 「椿花咲く」 は、 みんな街に出る時に歌っていったり、帰って来るときに歌ったりと いうような感じで歌っていましたね。ストーム形式で歌うのは「武 夫 原 頭 」。 食 事 の 後 に、 食 堂 の 椅 子 を 片 付 け て 食 堂 の 中 を 輪 に な っ て踊ってまわっていました。時間にしたら一時間じゃきかなかった んじゃないかな。ファイヤーストームは、やったというのは覚えて いない。もう、火は燃せなかったんじゃないかな。でも武夫原で輪 になって歌うのはやりましたね。寮生はやるんですよね。朝早くか ら 起 き た り し て …。 「 武 夫 原 頭 」 は 数 あ る 寮 歌 の 中 で も、 私 は 一 番 じゃないかと思います。一高の寮歌もいいんですけどね、二高、三 高のよりもね、これをやるには、やっぱり「武夫原頭」が一番です ね。私の中学には応援歌がありましてね、それが「武夫原頭」の節 をそのままとっているんですよ。だから、五高に行って寮歌練習の 時に、何だ俺の中学と一緒じゃないかと思った。僕の中学は、神中 で、 Y 校という横浜商業学校というのがありましてね、毎年その Y 校と陸上競技の定期戦をやっていたんです。その時に歌う歌がいく つかあるんですけれども、その中の一つが五高の「武夫原頭」から とっていたんですね。もちろん歌詞は別に神中式のに作ってあるん ですけどね。節はそのまんま。これはいい歌だということでとった んでしょうね。それを中学の一年生からずっと歌っていますから、 何だ、中学のと一緒じゃないかと。世の中は面白いものだなと思っ て。一緒ということは知らなかったですね。五高という名前は、山 田先生や犬養先生によく聞いていましたが。 この時期、習学寮では禁煙談義が盛んでしたが。   中学を卒業してすぐ、煙草を覚えました。五高に入る時はまだ一 八歳ですから未成年です。当時は二〇歳まではいけなかったはずで す。ところが教室ではみんなスパスパ吸うんですよ。でも習学寮で は禁煙だったんです。習学寮の中では吸っちゃいかんと。それでも 隠れて吸っていました。中であろうと外であろうと吸い出したら吸 っちゃうんですよね。時々見回りが来ると、ワーッと窓を開けて煙 を出したりなんかして、大騒ぎしていました。でも、僕はつかまっ た覚えはないですね。それから教室ではオープンでした。二〇歳過 ぎた人もいましたから、その人たちは大ぴらですし、教室は禁煙じ ゃなかったです。授業中はダメですけども。

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熊本の街には行かれていましたか。

  まだ一八年は上通、下通まで行きました。映画も見ました。古い 映画というか、あの当時は『格子無き牢獄』とかね。それが一番印 象に残っていますね。酒を飲むことは自由にはできなかったですね。 だから街に出てお酒を飲んだというのはないです。街でなにかを食 べたっていうのはあるけど。チャンポンぐらいですかね。今のよう なのじゃなくて、具ばっかり。肉もね「犬の肉だ」なんていろいろ 言われながら、食べていました。喫茶店でコーヒーは飲んでいまし たね。喫茶店「ガル ボ 」にはよく行っていました。本屋は、同級生 の樋口君が金龍堂の次男坊なんですよ。あの頃、本が手に入らなか ったでしょう。だからうらやましい限りでしたね。彼は入学試験の 時の一番ですからね。文甲一の級長でしたね。よく出来ましたしね、 剣道も強かったし、文武両道でしたね。済々黌の出身でした。 ボ ー トレースもまだありました。よかったですね。

4  教練

中学校の時は教練は厳しかった と 聞いていますけど、五高に入って からの教練はいかがでしたか。

  覚えていますよ。みんないい加減です。配属将校には直接は習わ なかった。私等の組は生徒に森山さんという宮崎出身の生徒で中尉 の身分の人がいたんですよ。その人がいるから他の先生も遠慮しち ゃって、森山さんでだいたい済ませちゃうんですよ、その授業は。 文甲一に限っては森山さんが先生みたいなもんですよ。年齢もすっ と上ですね。我々よりも八歳ぐらい上じゃなかったかな。だから教 練に関する限りは我々は便利だったんですよ。教練でしごかれたと いう事もなく、 「森山さん、森山さん」って。ラッキーでした。

査閲事件は記憶にありますか。

  これは大問題だったんです。山口少将というのが講演に来まして ね、 バ カなことを言ったから、みんなで大笑いしたんですよ。それ から、その年の査閲の時に、意地悪されたかなんかでね。あれはひ どい目にあいましたよ。五高の配属将校をされておられた深草大佐 が飛ばされちゃってね、満州だったかな。添野校長も満州に行かさ れ て、 「 五 高 卒 業 生 は 軍 隊 に 入 っ て も 将 校 に さ せ な い 」 と い う よ う なことを言われました。山口少将がどう怒ったかというのはわから ない。誰もわからない。人に聞くと、ああだとか、こうだとかは言 うけれど、その話が全部違うんですよ。だから真相は何だろうかな と思うんだけど。覚えているのは講演した時に笑ったんですよね。 それで「五高生はけしからん」という事になったんじゃないかと。

  このあと査閲に来たのが山口少将で、査閲は武夫原でありました。 もういろんな訓練をやりました。それは全体じゃなくて、クラス毎 にやったように思います。どうも、あまり記憶が定かではないんで すよ。

  この問題はずいぶん騒がれましたが、私が久留米の連隊に入った 時は、その話はありませんでした。だから六師団ではそうだったか

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もしれないけど、一二師団までその話ははいってないんですよ。だ からそれ ほ ど心配することはなかったんだろうと思うんですけど。 だけど、その時は「もう俺はだめだ」って萎れた人がいましたけど ね。

5  勤労動員

三菱長崎造船所に勤労動員に行かれたのは何月だったでしょうか?

  昭和一九年の六月末か七月です。一学期が終わって二学期には教 室には入らなかったので、七月には行っていたかもしれませんね。 文科はみんな長崎だったと思います。理科は佐世保に行っていまし た。私たちの学年、クラスは昭和二〇年三月までいました。先生は 時々見回りに来られるだけで、常駐はしておられなかったですね。 常駐していたことになっていたかもしれませんけど。たまたまその 頃の長崎造船所の技師長だったか工場長だったかは古賀さんという 五高の先輩だったんです。三菱の社長にもなられたんじゃないかな。 だから五高生にも特にというわけじゃないけど、相談にのってくれ たと思います。だから非常に親しみ深かったですね。   朝は八時から作業でした。寮で五時起きして、対岸まで行って。 寮 が 小 ケ 倉 寮、 「 こ が く ら り ょ う 」 っ て 言 っ て い ま し た ね。 大 き い 寮でしたよ。二〇万人ぐらいいたんじゃないかな。徴用工と学生と。 別の学校からも生徒が来ていました。そこでは授業とか学問的なこ とは全くありませんでした。 どのような作業をされていたのでしょうか。   長崎造船所には、大きな船台が四つありまして、第一船台では戦 艦「武蔵」を作ったんです。第一船台は海軍がずっととっていまし てね、私等が行った時は航空母艦を造っていました。その航空母艦 も戦争には間に合わなかったんじゃなかったかと思います。私たち は主として第二船台で油の輸送船、 A 型戦標船一万トン級のオイル タンカーを造っていました。私は造る部分の穴あけ作業をしていま した。当時は鉄板と鉄板は電気溶接の部分もありますけど、電気溶 接じゃなくて鉄板の端っこに穴を開けて、反対側も穴を   開けて、 それを合わせて ボ ルトで締めるわけです。それで、私等は穴を開け

文科上級生長崎出動壮行会  昭和19年7月13日

松尾徹(昭和19年入学)アルバムより

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る作業をしていました。圧搾空気で高速ドリルを回して、自分の体重をかけながら、鉄板に穴を開けていくんですね。力と技術がいりますよ。それから、船台で鉄板が重なる部分の穴がなかなか合わないんですよ。そういうところを“さらう”って言うんですけど、合わせるように、ボルトが通るようにするようなことをやっていました。きつい作業でした。一番きつい作業は、ボルトを熱して潰していく作業です。リベットは体格ががっしりした連中がやらされていましたね。

  材料もだんだん少なくなってきまして、私等が造っている一万トン級のオイルタンカーは外板一二ミリと言っていましたけど、普通のところは八ミリの鉄板でしたから、「魚雷一発で真っ二つですよ」なんて言っていました。造って何になったのかなぁなんて思いますけどね。リベットできちんと締めると、本当は水漏れしないはずなんだけど、注水試験をまずやるんですよね、そうすると、あっちからもこっちからもジャージャー漏るんですよ。それでも、ちょっとした水漏れはしばらくすると錆びついて漏れなくなるんです。どうしても漏れてしょうがないところは、もう一度リベットを焼き切って、もう一度締めなおすという事をやっていました。まあ、学生が造る船だからろくなもんじゃないですよ。それでも一端の穴あけ工になりました。戦後は穴あけ工なんて職業は無くなっちゃったんです。全部電気溶接になって、穴を開ける必要がないんです。

  私等がいる間に、一一月になったらレイテでやられて、長崎造船所で造った船なんでしょうね、駆逐艦が前半分ふっとばされて、後 ろ向きに入ってきたり、時々潜水艦がいつの間にかシュッと顔を出したりというようなことがありました。それから、浅い喫水のトヨタのエンジンを載せて、高速で走り回るような小さな船を、これは特攻兵器だと言っていましたけど、そんなのも作っていました。捕虜も来ていましたし、学生もそうですけど、甲板のあちこちに穴が開いているので、そこから下に落ちて死んだ人もいました。船を造っている現場は危険な現場でした。船の舷側で作業をやるわけですからね。すごいですよ。なるべく学生にはそういう所では作業をやらせないんだと言うんですけれど、どっこいそれが、船が出来ないんでずいぶん危険な作業もやりました。修羅場でしたね。でも、この次がまた、これ以上下はないという修羅場でした。6  学徒出陣

一八年入隊された方の壮行会が講堂でありました。

  壮行会は全員で出たと思いますよ。歌も出来ましたしね。我々の頭の中には常に軍隊の事がのしかかっていましたからね。重しがね。それで、「あー、いよいよか」っていう事ですよね。

勤労動員の途中で、学徒出陣で軍隊に入隊されましたね。

  そう、途中からでした。一二月にみんな休みを取って田舎に帰るんですが、私はみんなが帰って来てから休みを取ればいいやと思っていたところへ召集令状が来たんです。一月一〇日に久留米に入隊

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ということになりました。当時、長崎に行っていましたから、長崎 に伯父からの連絡が来たわけです。それで、もう日がないものです から一月五日ぐらいに長崎を発ちました。長崎に残っていた連中は 五・六人だったと思うんですけど、長崎駅で武夫原頭をやったんで すよ。そしたら、憲兵が詰めていましてね、この時勢を何と考える ということで、僕はそのまま汽車に乗って行っちゃたんですけど、 後の連中は警察と話し合いになったんじゃないかな。そんなような ことで別れました。それが昭和二〇年です。体力手帳を持ってこい ということだったので、長崎から熊本に寄りました。その頃習学寮 には誰もいませんでした。先生も一人いたかな。五高は深閑として いましたよ、当時は。まあ、一月でしたから休みということもあっ たんでしょうけどね。これが我が母校かと思うと…。

  熊本から帰る途中で兄のところに寄りました。私の兄が佐賀の目

め

達

た

原

ばる

というところで訓練を受けていたんです。飛燕という戦闘機の 訓練を受けていると聞いていたもんですから、もう今生の別れだと 思って、面会に行きました。それで一晩小城の伯父の家で一緒に飲 んで、それで兄とは別れたんです。それがもう永の別れでした。

  戦時中で、いつ召集されるかわからない状況ですから。どこで徴 兵検査を受けたのか、はっきりしないんです。私の記憶では五高の 体育館で受けたように思うんです。昭和一九年の四月ぐらいだった と思うんですけどね。

  このときは、満一九歳でした。年齢が一年繰り下がったんですよ。 昭和一九年の二月に。その前に高等学校の在学年限三年を二年に短 縮させたわけですよね。ですから、五高始まって以来の一番勉強し なかった、勉強出来なかった学年なんです。実際に教室で勉強した のは一学年。一学年はどうやらこうやら、途中で農村へ勤労奉仕に 行ったりはしましたけど、まあまあ三学期間教室で勉強しました。 二年になったら一学期の一九年の四、五、六月と三か月間だけは、 本館の教室で勉強しました。それで六月末か七月に入った頃と思う んですけど、私等文科は長崎造船所に動員されました。それからみ んな、ぼつぼつ、ぼつぼつ召集がかかって、軍隊に入って行きまし たね。   あの当時は、陸軍は陸軍で、海軍は海軍で学生を呼び寄せようと いうことで、陸軍の場合ですと、特別甲種幹部候補生という制度を 作って、短期間ですぐ少尉に任官できるようなシステムにして、そ れ の 試 験 を 受 け さ せ た り、 そ れ か ら 特 別 操 縦 見 習 士 官、 「 特 操 」 と 言っていましたけど、その制度を作って学生を呼んだり、海軍は海 軍で予備学生を。我々の学年も予備学生には年齢は達しなかったん ですけど、予備生徒という制度がありましてね、それも下士官から 早くに任官するような制度で、私等のクラスでも一人それに行って、 何 と か 候 補 生 に な り ま し た。 野 口 君 と い う ん で す け ど、 「 大 和 」 に 乗り組んでいたんです。ところが鹿児島沖で、 「お前等はまだ若い」 ということで、その連中は降ろされたんです。それで生き延びたん です。そういう連中もいました。

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入隊されたのはどこの隊ですか。

  連隊区司令部というのが陸軍にありましてね、私は両親が佐賀だ ったもんですから、佐賀連隊区司令部から召集されました。私自身 は昭和一九年の暮れに召集令状が私の本籍の伯父の所へ来まして、 昭和二〇年一月一〇日に久留米の歩兵第四八連隊、当時は西部一四 八部隊と言っていましたけどね、そこへ入隊になりました。私は甲 種合格だから逃げようがない。そこの第三機関銃中隊というところ に入れさせられて、だいぶ鍛えられましたね。

久留米で訓練を受けられたんですね。

  私は軍関係の学校の試験とか一切受けないで、そのままじーっと してたもんですから、一つ星で初年兵、陸軍二等兵で入りました。 二等兵というのは、これより下はいないんですよ。厳しいですよ。 それに学生あがりですからね。また幹部候補生の試験なんか受けた らすぐに上にいくから、今のうちにいじめとけというんで、とにか くやられましたね。

  久留米の高

こう

良

ら

台

だい

という訓練所があるんですよ。機関銃は、一般の 歩兵部隊が持つ軽機関銃とは違って、九二式重機関銃といいまして ね。靖国神社の遊就館の入り口のところに陳列してあります。九二 式重機関銃はチェコスロ バ キアの機関銃(チェコ機銃)と並び称さ れる名器というか、非常に性能が高いんです。大陸の戦闘で非常に 威力を発揮したんですね。それだけに今度は敵の目標になるという わけで、撃つと位置がわかるでしょう。場所がわかったら、そこに いつまでもいると潰されますから、ぱっと撃って、すぐに陣地移動 しなければならない。それを匍匐で、第四匍匐のまま銃

じゅう

手

しゅ

二人で、 イチ・ニ・サン、イチ・ニ・サンで重機を移動させるんですよ。そ の時に顔をあげると、 「お前戦死」って。それの訓練のくり返しでね。 これが一番参りましたね。   何よりすごいのは重機関銃、五五キロありました。脚の部分が二 七.五キロ、その上に乗ってる銃身が二八キロ。普通に行軍すると きは四人で担ぐんです。ちょっと長い距離の行軍では、分解搬送と 言って銃身と脚の部分を分解して、銃身と脚を二人で持って、普通、 四人銃手がつきますから、あとは部品を持って行軍するんですけど ね。担いでいくのは、終いには痺れてきますからね。まあまあ、な んとか歩けばいいんだけど。もっと長い行軍になったら馬に乗せる んです。だから重機関銃中隊は馬を持っているんです。厩当番とい うのがあって、私は都会育ちだったから扱ったことがないですから、 これが大変だったですね。厩当番が順番に周ってきましてね、一晩 馬と一緒に寝るんです。そういうような慣れないことを、学生上が りの星ひとつで、一番下だからやるんです。馬の手入れ、これが大 変なんです。馬に水を飲ませることを水潅って言って、飲んだ量を 量るんです。どこで量るかというと、馬の喉に手を当てて、馬が水 を飲むと喉仏が ゴ クんと動くんです。それを一つを数えるわけ、そ れで一度に四〇〜五〇飲ませなければいけない。そうじゃないと疝 痛といって馬が腹痛を起こすんです。それで水潅記録があって、そ れが厩当番の役目なんです。それが大変な…馬ってなかなか飲まな

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いんですよ。連れて行こうとしても連れて行くのが大変で、なかな か飲まない。それをなだめすかし飲ませて、それを水潅記録に書く んです。どうしても飲まないときは、嘘の申告とかをやると、その 時に限って馬が腹痛をおこすんですよ。そんなことがありますから、 あまり嘘は書けない。こんな苦労もやってみなければわからない。 でも重機関銃中隊に入れられたらしょうがないんです。

  それに毎夜毎夜いじめが入ります、しごきが。夜、寝ているとこ ろ を 起 こ さ れ て、 「 初 年 兵、 一 歩 前 へ 」 な ん て 言 っ て、 や ら れ る わ けです。本当は昭和二〇年の初めには指令が出ていて、そんなこと はやっちゃいかんということになっていたんです、建前は。ところ が、現地ではそんなの行き届きませんからね。夜な夜なやられるわ けですよ。

それは入隊されてからずっ と 続いたんですか?

  初年兵で下がいないからね。入ってから何カ月間かに一期の検閲 というのがありまして、それが済んだら有資格者は試験を受けなき ゃいけない。それで、幹部候補生の試験を受けさせられたわけです。 それが六月ぐらいだったと思う。だから一月に入って六月まで星一 つですね。それで幹部候補生、これは大した試験じゃないから受か りますよ、それで受かると、星が三つになって座

ざ

金

がね

って言ってまし たけど、金色の星形の小さな金具を付けるんですよ。それで、上等 兵になるんです。幹部候補生になると学生の身分になるんですよ。 学生の身分というのは予備役になるので、現役から予備役になって、 位はあがるわけですね。それで、もう一回、二次試験がありまして、 それに入ると伍長になって予備士官学校に入るんです。連隊を離れ てね。久留米にも予備士官学校がありましたから。おそらく、世が 世であればそっちに行ったと思うんですけれども、その前に終戦に なりました。だから私は、座金の付いた上等兵という事で終戦にな ったんです。終戦になって今度は軍隊もやめますよね、その時に退 職金が出たんですよ。ところが、座金の付いた上等兵というのは学 生の身分ですから退職金が少ないんです。そこで、ポツダム上等兵 という事で、座金をはずして現役の上等兵ということにして、それ で上等兵の退職金をもらって、それで私は帰って来たんです。だか ら、私等の友達でもポツダム少尉になったのが結構いるんですよ。 だからポツダム何とかというのには、みんな八月一五日付でそうい うことで水増して退職金を払ったわけですよね。国家に対しては相 すまぬことなんですけどね。 他の地域への移動はありましたか。   途中で宮崎に行ってるんです。我々は後で聞いた話ですけど、一 月一〇日に入った連中は台湾要員だったんです。すぐ台湾に行くは ずだったんです。ところがその時になったら敵の潜水艦がうろうろ していて、制海権はもちろんありませんし。それよりも本土防衛だ ということになったわけですよ。だから急遽内地で、久留米の四八 連隊は宮崎に陣地をつくっていたんですね。一期の検閲が済んでか ら四、五、六と三か月ぐらい行っていましたね。今でもありますけ

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ど清武町という、宮崎から都城に行く途中のところにあるんです。後で見たらアメリカ軍もあそこの海岸が上陸予定地だったんですね。だから、もうちょっと戦争していたら、あそこでドンパチやったわけです。だから、あそこで手を上げてよかったんですよね。でも本当はもっと早く上げてなくてはいけなかったんですよ。四月の末にドイツとイタリアが降伏したでしょう。三国同盟だったんだから、日本もそこで手を上げとけばよかった。そこで手を上げてとおけば私の兄はね、兄は私より四つ上なんです。東大を仮卒業になって学徒出陣、昭和一八年一二月一日に大村の四六連隊に入りまして、志願したか、させられたかで、特別操縦見習士官になって、それで知覧から沖縄に出撃して、戦死したんです。特攻ですね。五月の一七日に死んでいるんですよ。だから四月に手を上げていれば僕の兄貴は死なずに済んだんじゃないかなと今だに思っています。

他に入隊された方の消息はご存知でしょうか。

  私等は帝国陸軍の一番最後の兵隊。これ以上下はいないという兵隊でした。でも、みんな五高に来るような人だから、軍関係の学校もしくは経理学校だとか、樋口君は経理学校に行く予定だったんですよ。その前に終戦になりました。彼は大正一五年三月生まれだから、まだ軍隊には入らなかったけど、入る前に終戦になりました。私等のクラスは、かなりの人数が軍隊に行きました。ついこの前亡くなった日本学園の副校長をやっていた同じクラスの白川君は、小倉中学出身で、大村に入って即日外地・北支へ配属、それが一一月。 そういう人も多かったですよ。二月に入った児玉君も満州に行きました。白川君は一一月に召集されて、すぐに北支へ連れて行かれました。彼は本当に苦労しています。初年兵の教育で、中国人を縛っておいて、銃剣の稽古台にということやらされたらしいですよ。この話は、話したがらないんですよね。彼は国家というものが信じられなくなって共産党に入って、ずっと共産党で。ついこの前亡くなりました。児玉君も喋りたがらなかったですよ。ソ連の戦車が頭の上を通り過ぎて、タコツボというのを掘らされて、その中に特攻の、我々は「チビ」って言ってましたけど、中に青酸を入れた弾丸があるんですよ、それを持って敵の戦車が来たら飛び込めと命令されて、ガーッと来ると、この次だ、この次だと思いながら、彼は飛び込めなくて捕虜になったんですからね。それでシベリアに連れて行かれて。そういう話はなかなか聞きづらいですよ。なかなか本当のことは言えない。  僕等が昭和一八年に入った文甲一、英語の甲類の一組。樋口君やなんかもそうなんですけどね。我等のクラスでは戦死したのが三人いまして、一人は宮崎君といって、習学寮で私と同室だったんですけど、これは熊本の連隊に入りまして、すぐ満州に連れて行かれて、それから先が分らないんです。分らないんだけれども帰って来ない。一人息子でね、親父さんが八幡製鉄所に勤めていたんですけど、尋ね人の時間というのがありましたね、あれにずーっと出していたが結局分らずじまい。未だに分らないんですけれども、おそらくソ連のどこかに、シベリアあたりに連れて行かれて、どこかで死んだん

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だと思うんですけどね。それが小倉中学出身の宮崎君。もう一人は、都 と甲 こう君で熊中出身。都甲君はいつ入ったかはわからないんですけど、私より早くにどこかの連隊に入って、輸送船で沈められて戦死しているんです。それからもう一人、升田君。大分の何中学だったかな、私と同室だったんですけど、剣道が強くてね、中国の桂林に飛行場があったんですよ、それを潰せという桂林作戦というのがあって、その途中で戦死しているんです。だから我々のクラスでは行ったのはたくさんいるんですけど、戦死したのは三人ですね。その他にシベリアに連れていたれたのは、児玉君。これは東京都の教育長なんかやった男ですけどね、小倉の野戦重砲部隊というのがありましてね、大きな大砲を使う部隊に召集されて、すぐに満州に連れて行かれた。それで、ソ連がやって来て、すぐ捕虜になって山林伐採でシベリアに連れて行かれ、途中で痩せて栄養失調になって、昭和二一年か二二年に帰って来た。その後都庁に入って、それで教育長までやって、辞めてからはどこか学校の先生になってね。六〇代で死にました。仲がよかったんですけどね。その他、軍隊に行ったのは何人かいるんですけど、僕も全部は覚えてないんですよ。

も と も と は国の指導者を育てるための高等学校に行かれている方で、

そういう経験をされた方がたくさんいらっしゃるんですね。

  もうそこまで追い込まれていたんですね。一六年の一二月に始めたことが、そもそもの失敗の始まりですね。しびれを切らしてアメリカの作戦に乗っかったんですね。やむを得ず、こっちが先に手を 出した。だから向こうは「パールハーバー…」と。それは仕組まれたんですよ。でも、先に手を出していますからね、それが弱みでしょう。それと、三国軍事同盟、組んだ相手が悪かった。ヒットラーとムッソリーニ、あれが途中で手を上げたから。

当時、 「勝つ」 と 思われていましたか。死を覚悟されていましたか。

  もう全然。勝つなんてとてもじゃない。もう生きて帰れるとは思ってなかった。悩むもへちまもない。悩む暇がない。それは法律で決まってますからね、男は。軍隊とはそういうものだと、男子たるものは行かなきゃいけない。まして、私は甲種合格だから、決まったようなもんですからね。あんな格好で戦争が終わるとは思ってなかったからですからね。

7  終戦

八月一五日はどこにいらっしゃいましたか?

  久留米にいまして、幹部候補生だけ集まって演習していました。直接は玉音放送は全然聞いていない。訓練から帰って来たら、どこかで放送があったらしいと、誰が言うともなく言っていました。終わったという事は聞いたんです。その後、デマが飛んでね、敵が大牟田に上陸するから迎え撃てと、偽の命令が出た。それで慌ててみんな準備していたら、それは間違いだというようなひと騒ぎもありましたね。だから、いろんなデマが飛びましたね。そのうちに、み

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んな復員になったんです。

本当に終わった と 実感されたのはいつでしたか。その と きの気持ち はどうでしたか。

  八月の一五日には終わったと。これで生き延びたというのが実感でしょうね。残念ではあるけれども終わったという感じで。負けたという事だからですね。まぁ、勝ち戦とは思えなかったからですね。勝つとは思わなかった。私の兄貴なんかも、「なんで始めたんだ」ということをさかん言ってました。ぜんぜん違うじゃないですか。

戦争についてその後考えたこ と はありますか。

  国力が違う。そんなところを相手にして戦争する馬鹿があるかというような感じでした。それをまた実感したのが、私がアメリカに行った時ですね。ニューヨークに行く時に、当時はまだ日本の飛行機はサンフランシスコまでしか入れなかったので、ユナイテッドエアラインにサンフランシスコで乗り換えて、シカゴに行って、ニューヨークに着くという感じでしたから。そしたら、まぁ大陸のあの広さ、とにかく行けども行けども畑というか平地が広がっているわけですよ。こんな国を相手に何で戦争をしたのかという実感を持ちましたね。日本だったら、すぐ日本海に出るでしょう。いくら大和魂があっても、精神だけではとてもじゃない。アメリカに行っていろんな人と喋ったりしてて、日本もいい製品を持っているのに何であんな事になったんだと言うアメリカ人もたくさんいたわけですよ。 反日本じゃない人もいるわけですからね。  本当に悪夢としか言いようがない。あれは陸軍が引っ張ったからでしょうね。それに海軍がつられて。私が小学校年生の時に二・二六事件があって、それからじわりじわりと軍国の方へ傾いてましたからね。8  卒業後

  軍隊に入っている時に、伯父から東大入学の連絡受けたと、連絡が来ました。それで、何か申告しなきゃいかんかなと思って、人事担当の下士官のところに申告にいきました。そしたら「貴様は生きて帰る気か」と言われて、説教されました。大学は僕の兄が東大法学部を出ていましたから、それと同じようなのでいいということで父が申告したのか、東大の法学部でした。全然知らなかったんですけど、軍隊に入っている間に東大に入学して、いつの間にか五高は卒業していたわけです。

  一〇月に帰ってきたら、本当はすぐ東京に行って復学すればよかったんですが、父に今頃東京に行ったら飢え死にするぞって言われました。親父が横浜で医者を開業してたんですけど、患者さんの紹介で静岡県へ疎開というか、無医村に行っていました。そこから東京へ行こうとしたんですけど、今頃東京に行くと飢え死にすると言われ、切りのいいところでというので、翌年の昭和二一年の四月から復学しました。四月から三年間法学部で勉強して、二四年の三月

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に卒業しました。

  そして住友に入りました。当時は、住友は財閥称号禁止令がありまして、例えば、住友銀行は当時、大阪銀行という名前に変えさせられていたんです。それは昭和二七年にポツダム勅令廃止になって、財閥称号禁止も解除されたんです。戦前に名乗っていた会社名に戻る、すなわち大阪銀行が住友銀行に戻るというのが無条件で保護されたわけです。ところが、戦前は住友は商事会社はご法度だったんで、住友商事というのは戦前にはなかったんです。それで住友を名乗ろうとすると、少しでも早く出す先願主義が原則になる。競争になるわけです。私等の会社が、当時は日本建設産業という名前だったんです。日本建設産業というのは土建屋さんみたいでしょう。それは別に土建屋をやろうと思ったんじゃなくて、「日本を建設する」と、当時の流行言葉であったわけです。日本を建設する「日本建設」だけじゃなんだからと、産業を付けて、昭和二〇年にスタートしていたんですね。それが住友商事に名前を変えようと。そしたら先願主義だから行政区で分れていまして、東京の日本橋に、明日法律が通るだろうという前の日から徹夜で詰めて、それで競争に負けないようにという事でやったらしいんですけどね、誰も来なかったって。当時、住友商事なんて名前が知れてないから。それで無事、住友商事に名前を変えたわけです。それが昭和二七年のことです。

戦後の交流で印象に残っているこ と はありますか。

  韓国の殷仁基君とは一番初め入った時に同室だったんです。彼は 三国と名乗らされていたから、名前の順でね、三国、三根ですから。あれが日本の政策の間違いのもとなんですよね。あの恨みがどうも、韓国と台湾の違いは大きいですね。ずいぶん日本も反省しているはずなんですけど、それがなかなか彼らに通じないんですよね、残念ながら。まあ、わかっている人はわかっている。殷君なんかもわかっている方で、「そのうちによくなる」って言うんだけど、なかなかシコリが…。彼は日本軍に入っているんですよ。満州に行って、満州で終戦になったようです。彼は、名前の通り中国のほうから来ている。韓国でも中国寄りの方です。今、木浦にいます。彼は、年は私よりは二つぐらい上なので、もう九二歳ぐらいになっています。今も元気ですよ。彼は非常に仲良しで、ずっと文通しています。五高のとき、同級生とは夜な夜なみんなとだべったりして。あの一年一学期でしたけど、充実していましたね、本当に。いつ軍隊に引っ張られるかわからないから、やれるときにやろうという感じで。密度は濃かったですね。

五高について思うこ と を教えてください。

  いま振り返ってみても、私は五高に行ってよかったなと思っています。別天地だったかもしれない。

  高等学校がなくなったのは残念ですよね。五高の歴史の中で、私等の学年ほど勉強しなかった、勉強出来なかった学年はないですね。ほんと三分の一しかできていないんです。それだけが残念です。二年も一学期だけでした。でも、そんな短い付き合いでもクラスの連

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中とは最後まで、命絶えるまで付き合いをやっているんです。今で も。大学だけで付き合った人は非常に少ないんです。やっぱり高等 学校ですね。

  五という数字もいい数字ですよ。僕は軍隊で上等兵が「お前どこ の学校だ」と聞いた時に、 「五高だ。 」と言ったら、 「どこの五高か?」 と言うから、 「五高といったら日本に一つしかありません。 」と言っ たら、そこでまた、生意気な奴だと言ってやられて、しばらく食事 が出来なかったですね。 「熊本です。 」って言っとけばよかったんで すが、 「日本に一つしかありません。 」って言ったもんだから、やら れたんですよね。でも、つい言ってしまったんですよね。

文科上級生長崎出動壮行会のときの壮行歌  昭和19年7月13日 

松尾徹(昭和19年入学)アルバムより

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㈡  用害澄之助

昭和一八年理甲四組入学   昭和二〇年卒業 二〇一五年六月二四日聞取  

1  学校生活

入学試験について

  一次試験の発表の後、二次試験、合格発 表となります。一次試験のとき父に熊本に 連れて行ってもらい、私は旅館に最後まで 泊まりました。口頭試問のとき、なぜ五高 を受けたか聞かれ、 「剛毅木訥ですから。 」 と答えました。すると、 「それは、旺文社の本を見たからか。 」と言 われました。当時の受験雑誌です。 「はいそうです。 」と答えました。 これなら大丈夫だと思いました。落ちる者にそんなことは聞かない だろうと。後で競争率は理科が八倍、文科が一三倍と聞きました。

授業について

  昔は高等学校に入りますと、帝国大学に皆入れます。定員が ほ ぼ 同じなんです。だから定期試験で落ちてドッペる人や、自分で一学 年を二回やる人もいるわけです。いずれは大学を出てそれぞれの専 門に進んで、お国に尽くす。そういう意味では今の受験勉強のよう に、競走や詰め込み主義という雰囲気はないし、のんびりしたとこ ろがありました。かと思うと体操の時間は厳しかったです。体力が あり、健康でなければ、十分な能力が発揮できない。だから体を鍛 えるため、柔道、剣道も厳しかったです。   授業は、午前二科目、午後一科目(一科目二時間弱)だったと思 います。英語の和田先生の授業では、生徒が順番に当たって、一ペ ージくらい読んで訳します。時間中一〇人くらい当たるんです。僕 の時に限って、一〇人どころか一二、一三人くらい当たりそうにな っ て、 「 こ れ は い か ん 」 と 他 の 人 が 訳 し て い る の を 聞 か な い で、 自 分が当たりそうなところだけ一所懸命訳しました。当たったとき、 読 む こ と は 出 来 た け ど、 訳 は 半 分 ま で し か 出 来 な く て、 「 そ こ ま で し か や っ て い ま せ ん。 」 と 言 っ た ら、 和 田 先 生 が「 そ う か そ こ で 寮 が 消 灯 に な っ た か。 」 と 言 わ れ て 授 業 は 終 り ま し た。 寮 は 一 〇 時 に 消灯になります。勉強する人は、一〇時以降は廊勉といって、廊下 だけは明かりがついているから、そこで勉強していました。   昭和一八年から、だんだん戦争の形勢が悪くなって、先生方はそ ういう情勢は御存知だったと思いますけど、和田先生は、英語の勉 強よりも将来のために文学だとか哲学だとかなんでもいい、身につ けた ほ うがいいというようなことを勧められました。全体がそうい う雰囲気でした。高等学校は教養だけで、専門の授業はないですか ら。大学に行ったら、教養の勉強をしなくてもすぐに専門の勉強で 外国の本も読めるように基礎学力を三年間(私の年次だけ二年)で つけるということです。

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部活動について

  いろんな部に誘われました。体力に自信がなかったので、自動車 部に入りました。自動車の運転ではなく、自動車がどうして動くの か、機械のメカニズムを勉強しました。古いトラックが一台か二台 あって、それを分解しては組み立て、分解しては組み立てていまし た。ただ、僕は自動車部に一年しかいなかったんです。学校の自治 のための総務という役職があるんですが、クラスから一人ずつ出な ければならなくて、なってくれといわれて、二年の時に総務に移り ました。でもその時は、いろんな学校内の行事をする余裕はなく、 名前だけでした。

2  習学寮

習学寮の組織

  一年生は全寮制です。二年生、三年生で寮に残るのは寮長や班長 の役員で、熊本市内に家があっても一年生は寮に入らないといけな かった。家があるからと言って認めると全寮制がくずれますから。

  寮 棟 は 四 つ、 一 部 屋 は 三 人( 四 棟 は 五 人 )、 そ れ ま で 二 人 だ っ た のが三人になりました。寮長が一寮に一人、その下に班長が四人。 ただ四寮だけは食堂があったので二人、全部で役員一八人です(も っ と 少 な か っ た か も )。 入 っ た 時 は 三 年 生 が 寮 長 で、 二 年 生 と 一 年 生が班長でした。一年生の班長はドッペった一年生だったんです。 役員寮生によって自治的な運営が認められていました。 行事   金峰登山は四月にありました。朝四時頃出発して、上熊本を通っ てどこをどういったかわかりませんが、昼までに金峰に上って向こ う側に降りて、帰ってきました。阿蘇登山は五月、一泊で行きます。 そういう年中行事が決まっていました。僕らの前の年の阿蘇登山の 時、 バ スを止めて バ スの周りをぐるぐる踊りだし、勢い余って二人 が バ スの上に登って天井を壊し、警察が来ました。それで僕らのと きは、踊るのはいいけど、天井に上がることはまかりならんという ことになりました。   「

不 知 火 燃 ゆ る 」 に 出 て く る 不 知 火 が 八 代 の 沖 に 出 る と い う の で、 それを見に一〇人程でこっそり寮を抜け出して行きました。それは 鹿児島本線の八代駅の手前の駅です。でも出なかったんです。習学 寮の日課は、朝六時に起床し、点呼があって、掃除して、食事が始 まるのが七時半、それまでは自由に勉強します。夜行列車に乗って、 熊本駅から走って帰ってきた記憶があります。

  何の記念日か覚えていませんが、年に一、二回寮に先生方が来ら れて、一緒に食事することがありました。開校記念日は一〇月一〇 日で全員が講堂に集まりました。中学校のような始業式とか終業式 とかはなかったと思います。

寮歌   寮に入ったその日の晩から棟ごとに中央廊下に集まって、寮歌の 練習をしました。全部の寮歌を順番に練習します。それを毎日、一

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月ぐらい続きました。毎年代表作が一曲作られていましたし、運動部の曲もありますから、相当な数になります。一つの曲を一回では覚えきれません。何回も順番に歌って練習しました。

  寮歌は独特なもので、覚えるまでは音痴でたいへんでした。たくさんある中で、やはり代表は「武夫原頭」と「椿花咲く」です。「武夫原頭」を歌う時は、巻頭言があります。巻頭言の最後には「剛毅木訥のうた、武夫原頭に草萌えて、アイン、ツバイドライサー」と言って寮歌が始まっていました。食堂で全員が集まって歌う時もありました。武夫原踊りをしながら、たくさんあるテーブルの周りをぐるぐる回ります。テーブルの上まではのぼりません。寮対抗の水泳大会、クラス対抗のマラソン大会等、そのたびに寮歌と応援歌を歌いました。戦後、開校記念日の前夜祭では提燈行列があり、街の中でも歌いました。「椿花咲く」も「武夫原頭」も先輩の作ですが、寮歌としては最高だと思っています。

  このころ、ファイヤーストームはできませんでした。廊下でストームというか、武夫原踊りはしました。

食事について

  その時分、食事はうどんが中心です。ご飯は一日一杯食べるかなという調子なんです。熊本で一番助かったのはから芋です。食料不足だから、食べられるものは何でも食べました。校内で畑を作ったということはなかったです。量はそんなに減っていませんでしたが、質は落ちたと思います。

熊本の街

  楽しみは、土曜日(午后)、日曜日に街に出かけることでした。本屋に行ったり、喫茶店に入ったり、上通・下通を歩き、江津湖や水前寺公園に行きました。  「

また負けたか八聯隊」と、大阪の連隊は弱い弱いと言われていましたが、仙台の第二師団や熊本の第六師団は強かった。その都市に二高や五高のナンバースクールがあったわけです。森の都とはいわれていましたが、熊本の街は軍都という雰囲気は感じられませんでした。

  熊本には、医科、工業、経済等専門の上級学校がありましたが、高等学校の生徒は尊敬されているというか、特別扱いのように思いました。無茶もしているんです。子飼橋から帰る夜の間に店の看板をずらしてみたりという武勇伝も聞きました。それでも学生に対する雰囲気がいい街だなと感じていました。

3  勤労動員

佐世保海軍工廠

  理科は、昭和一九年の一〇月一日から二月末まで四ヶ月間、佐世保の海軍工廠に行きました。文科は一九年の六月ごろに長崎の造船所に行きました。

  横須賀、呉、佐世保、舞鶴、四つ海軍の港がありました。軍港には、軍艦の新造、損傷を修理する工場があります。しかし、その頃

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修理が主で新しい船を作る余裕はありませんでした。船を作る作業にはいろいろな職種があります。僕ら動員学生は、リベット・溶接・取り付けの三つに分れました。当時の造船では、リベット打ちは花形の職種といわれ、技・体力が最高に必要でした。技は未経験ですが、力仕事に自信がある者が応募しました。技は年季のはいった職工さんが手助けしました。意気込はよかったのですが、体力がついていかず、次第に休む人が多くなり、多い時は半分以上が休む状態があったと聞きました。それでも出勤したものが頑張り、進捗率は落ちなかったそうです。五高は出勤率が悪いといわれましたが、結果は上々で表彰を受けました。

  僕は取り付けのほうに回りました。取り付けは船台から進水するまで進捗にあわせて、組み立てをします。いろんな仕事をするんですが、あまり力がいらないんです。細かい仕事と電気溶接の援助が必要ですので、目を保護するためにカバーしていました。

  船が戦闘で海洋に出たら、日曜日はありませんから、工廠も毎週休みということはなかったと思います。ずる休みもありますけど、病気にかかったというより、疲れです。寮で寝ているしかないのです。今まで、学生の自由な身分から、時間が拘束されて、なれない仕事をやっていますからね。体力的にはまだ弱いところがあったんでしょう。

  引率の先生は、交代でこられたと思います。理科は六組で、理甲が四組、理乙が二組。文科は四組で文甲が三組、文乙が一組でした。各組には主任の先生が決まっていましたので、そういう先生方がず っとこられたのか、あるいは交代したかだと思います。

動員先の生活

  佐世保海軍工廠の寮に入りました。寮の中では学校生活のようなことは何もやらなかったと思います。朝、食事して、歩いて山を下って工廠に着き、残業があるときは残業して帰るという生活でした。食事の時間は決まっているので、遅れると食べられない。帰りは途中で寄り道して遊びに行くところもない。退庁後は素直に寮に帰りました。  寮には動員で鹿児島県の中学生と専門学校の生徒が先に来ていました。その時分は規律、規律といって締め付けがきつかったんです。ところが、高等学校の生徒が来て、いろいろ文句を言うんです。何も理屈に合わないことは言っていない。それで漸次改善されていきました。先着の生徒たちが喜んでくれました。それと寮長が大学の造船科を出た技術将校で大尉だったと思います。先輩にあたるわけです。意志の疎通がよかったと思います。僕らは四ヶ月しか居ませんでしたが、寮の雰囲気がころっと変わったというようなことを聞きました。他の学生と一緒だったときは、そういう意味ではリーダー的な存在になっていたんではないかと思います。  昭和二〇年正月元旦の早朝、かけ足に行きました。寮からどれくらい走ったか判らないけれど下駄をはいて走った者がいました。僕も走りました。寮長も走って感激してくれました。思いもよらない経験でした。寮長は平時なら普通の造船会社に入っていたと思いま

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すから。その方は千葉県出身で、終戦後千葉県に住んでおられるところへお世話になった人達が挨拶に行ったと聞きました。

  高等学校の特権といいますか、マントを着て通勤する生徒がいました。工廠の入り口で止められます。軍人はいつもきちんと制服を着ています。やっぱり歩哨がみると異様に思えたんでしょう。マントを脱いだかどうか知りませんが、マントは先輩から引き継いだ大事なものです。

  僕のクラスに上野君(大分中)、木下君(小倉中)がいました。二人とも海軍工廠でリベット班にはいり、大学は造船科に入りました。僕は二年間いっしょに生活して、二人を五高生の中の五高生だと思っていました。義理も人情もあるような豪傑。海軍工廠に行って船をやって二人とも造船科に入った。僕は海軍工廠に行って、造船科より土木科に入りました。昭和二〇年四月、終戦前に大学に入学しました。本当に僕らの年次だけが高等学校二年間で動員も長かったです。

  最後に短い二年間の高等学校の生活、特に寮生活での先輩、上級生の御指導、伝統の寮歌、武夫原踊り、いろんな行事や味わった経験が自分の人生に大きな影響を与えたことに感謝しています。

理科生、文科惣代壮行会  昭和19年9月22日  松尾徹(昭和19年入学)アルバムより

各寮惣代 右から一寮栗原惣代、二寮針尾惣代、三寮樋口惣代、四寮惣代橘高惣代

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