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昭和一九年九月卒業   文甲一  

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(1)

㈢ 

戦時回想記

 

平成二三年一二月二二日   記      

 

昭和一九年九月卒業   文甲一  

加藤文彬

  大陸に生を享けた私にとって﹁戦時﹂は︑太平洋戦争より余程前

から身近かな現実だった︒日本本土産の同年輩に較べても戦場に極

く近かったぶん︑戦争の恐怖︑戦場の狂気により敏感であったと言

えないだろうか︒

  大正十三年生まれの私の︑小学校から五高卒業までの修学期間は︑

奇しくもかの﹁十五年戦争﹂と殆ど付合する︒大正十年代初頭に生

まれた男子に戦死者が集中しているというのも道理であろう︒

  門田隆将の﹁太平洋戦争   最後の証言﹂に拠れば︑大正世代の男

子一三四八万人のうち︑戦死者はほぼ二〇〇万人︱若者七人に一人

の計算になるという︒つまり︑我々は官製投機家の詐欺を洞察する

には稚く︑軍人将棋の駒にするには格好の人身御供だったのか?

A 一戦中派の生い立ち

  級友矢野甲子男君︵二〇〇五年没︶同様︑一九二四︵大正十三年 は甲

きのえね

子︶年︑関東州大連市で出生︒

昭和三︵一九二八︶年︵三歳︶六月   ﹁満州某重大事件﹂ ︵張作霖爆 殺︶勃発

昭和六︵一九三一︶年︵小学校入学︶九月   柳条湖︵当時は﹁柳条

溝﹂の名で︶事件︑満州事変始まる︒

昭和七︵一九三二︶年一月   第一次上海事変

注1

二月   満州国建国宣言 九月   承認 五月   五・一五事件 昭和八︵一九三三︶年三月   熱河占領︑国際連盟脱退 昭和九︵一九三四︶年三月   満州国成立

四月   外務省﹁東亜新秩序の維持は日本の単

独権利であり︑ 他国は干渉すべきではない﹂

と宣言

昭和十一︵一九三六︶年一月   ロンドン軍縮会議脱退

二月   二・二六事件   十一月   綏

すい

えん

事件

注2

十二月   西安事件︵蒋介石軟禁︶

昭和十二︵一九三七︶年四月   官立大連第一中学校入学

七月   盧溝橋事件から日中戦争へ     通州事件 八月   第二次上海事変 十二月   南京占領︑中国の反日教育の最大テ

ーマは﹁侵華日軍南京大屠殺﹂であり︑そ

の犠牲者は三〇万人以上と言う︒

(2)

昭和十三︵一九三八︶年七月   張鼓峰にソ連軍侵攻︑日本軍苦戦

十月   広東・武漢占領 昭和十四︵一九三九︶年二月   海南島占領

五月   北満でノモンハン事件 八月   第二次ノモンハン事件起き一個師団

壊滅の大敗喫す︒

九月   ヨーロッパで第二次世界大戦勃発 昭和十六︵一九四一︶年   春  日ソ中立条約成立

十二月   真珠湾攻撃︑太平洋戦争勃発

注1  関東軍の意を受け︑参謀本部田中隆吉が工作︒海軍︑ついで陸軍を投入

するも︑中国軍の抵抗激しく︑我が損害多大︒第二次も口実構えて海・陸

軍が攻撃するも苦戦︑陸軍の南京攻略へ拡大し︑日中全面戦争に没入︒予

断甘き強引さは我が軍部官僚の得意技︒

注2  田中参謀指揮の関東軍部隊支援の内蒙古軍︵主席  徳王︶が綏 すいえん省に

侵入するも︑省長傳作義率いる中国軍に大敗︒真実の報道もとより皆無︒

  関東州は︑中国遼寧省南部︑大連・旅順の二港湾を含む租借地だ

った︒日清戦争で占領し三国︵露・独・仏︶干渉で返還︒東洋に不

凍港を求めたロシアが二五年期限で租借して市街・鉄道を建設する︒

その七年後︑日露戦争の結果︑日本が継承し︑租借期間も九九年に

延長させる︒ロシア名﹁ダルニー﹂を﹁大連﹂と改称して大陸経営 の基地とした︒   ここに本社を置いた南満州鉄道︵満鉄︶は︑イギリスの東インド 会社を範として明治三九年設立された植民地機関である︒鉄道のみ ならず撫順炭鉱・鞍山製鉄所等の鉱業︑自動車・電気・ガス・港湾 埠頭などの多角経営を行なった︒   行政機関︑関東州庁︵文官長官︶も初め旅順に︑昭和一二年以降 大連に移った︒   迂遠に似るが︑些か一九世紀末からの世界史に触れたい︒異郷に 生れた小中学生の私の殆んど與り知らぬことだったが︒曽て四大洲 にユニオン・ジャックを翻したイギリス︑モンロー主義もどこへや ら誠に好戦国なる合衆国︑太平洋への拡大を虎視するロシア︑更に は独・仏の列強がアフリカ蚕食を終えて清に触手を延べる︱貪婪な この白人世界のエゴイズムの前に︑ルーキー近代国家も触発された︒ 朝鮮の宗主国たる清国に自衛を名として挑んで勝ち︑朝鮮半島を窺 う陸軍大国に辛勝︒ 日清戦争で台湾と共に得ながら︑ 三国干渉︵露・

独・仏︶で失った遼東半島ほかの諸権益を獲得する︒

  欧米の植民地政策と異なる﹁原住民の利益重視﹂を指導原理と称

するも︑やがて﹁五族協和﹂ ﹁王道楽土﹂ ﹁大東亜共栄圏﹂等々のス

ローガンも空手形化していく︒

関東州や鉄道経営等の権益を保護する任務を果たすべく大正八

︵一九一九︶年に独立した植民地常備軍が関東軍だった ︒しかし

その実態は﹁権益の拡大﹂ ﹁中国国民革命への干渉﹂ ﹁対露・対ソ戦

略の策定﹂を専らにするものでしかなかった︒前掲年表中の﹁満州

(3)

某重大事件﹂ ﹁柳条湖事件﹂ ﹁上海事変﹂ ﹁熱河占領﹂ ﹁満州国独立﹂

﹁緩遠事件﹂ ︑全て関東軍の策謀に係わるものだった︒独断専行して

軍部中央を巻き込み︑統帥権を楯に不遜な干犯を繰り返しつつ︑民

主的政治システムを破綻させ︑ ﹁一五年戦争﹂ ︵昭和六年から二〇年

まで一五年間の戦争の総称︶の泥沼に祖国を没入させた元凶である︒

以下の関東軍参謀の名を御記憶の人々は少なくあるまい︒

  河本大作︑板垣征四郎︑石原莞爾︑田中隆吉など︑東条英機また︑

昭和一〇年関東軍憲兵隊司令官︑同一二年関東軍参謀長である︒彼

は既に昭和四︵一九二九︶年︑ ﹁満州問題の武力解決﹂ ﹁軍備の近代

化と対ソ戦準備﹂などを共通テーマとする﹁一夕会﹂を永田鉄山ら

と結成している︒

  軍部の政治的台頭に終始批判的だった最後の元老たる西園寺公望

の見識を︑近衛文麿・幣原喜重郎・広田弘毅・松岡洋右等の政治・

外交家は継承し得なかった︒ジャーナリストもまた軍部の独断に迎

合して為すところなかった︒皇族将帥また同罪である︒

  戦後︑ドイツと違って︑国内で戦犯法廷を開き得なかったのも当

然であろう︒

○  小学校期

  悲しいかな︑一五年戦争勃発時︑私は小学校一年生だった︒ニュ

ースの裏面を疑う知恵などある筈もない︒当時︑鉄道沿線や居留地

で中国・朝鮮匪

賊︵抗日ゲリラをこう呼んでいた︒ほかに馬賊︑稀

に海賊もいた︶の破壊・攻撃︑さらに鉄道員・一般人殺害が頻発し︑ 戦意を煽るためか︑被害現場の遺体を含む凄惨な写真の展示が各処 で行われた︒反対に我が軍・警の過激な対応は公開される筈もなか った︒例えば良質な無煙炭露天掘りの鉱山への放火ゲリラを支援し たとして約三千人の全村民を虐殺したという平頂山事件︵昭和七年 九月︶などは︑戦後程経て初めて知った︒撫順生れの山口淑子︵李 香蘭︶さんは当時小学生だったが︑惨劇の一部を目撃して大きな衝 撃を味わったそうだ︒私の場合︑さらに幼かったが︑満鉄社員だっ た父が出張先の奉天︵瀋

シン

ヤン

︶で︑城門に匪賊の生首が梟けられてい

るのを見て戦慄した︑と語るのを聞いている︒

  小学五年の冬の日︑忘れ難い父の姿があった︒大連日日新聞の朝

刊を拡げたまま ︑﹁日本が亡びる ! ﹂と青ざめた顔で呻いた ︒昭和

十一 ︵一九三六︶年 ︑﹁ 二 ・二六事件﹂を報じる ︑事件翌朝のこと

だったか︒父の嘆声の真意を︑当時は勿論解し得なかった︒

○  中学校期

  日中戦争突入後︑軍隊の往復︑また戦傷者︑遺骨の内地帰還が日

常の風景となって行く︒往還数度我が家に泊るうちすっかり見慣れ

た中年の応召兵がいた︒初めて宿泊した時のその人には︑慈父の温

容があった︒しかし︑前線から生還したその人の土産話は︑耳を蔽

わすものだった︒女性の柔らかい肉体を刺突貫通した時︑手元に伝

わる苦悶の戦慄を楽しむのだ ︑と言ったり ︑﹁気に喰わぬ上官へは

背後から弾丸が飛ぶ﹂と放言して憚らぬのだ︒眼光・表情とも子供

の目から見てさえ︑数ヶ月前とは一変した異様さを帯びていた︒

(4)

  当然協同すべき他県他地方の部隊間の不協和音さえ︑子供の耳に

慣れた︒例えば︑ 遊戯する彼等は意味も解せずに口遊んでいた︒ ﹁又

も負けたか︑八聯隊︵大阪︶ ﹂の如き︑忌々しき誹謗を⁝︒

  戦争の時代は︑中学五年間の軍事教練もより実践的な内容にした︒

毎週の正課の他に︑旅順・大連間の夜行軍︑金州・大連間の耐暑行

軍︵軽武装︶ ︑水師営飛行場守備隊での宿営・夜間訓練などがあった︒

軍命令で大連埠頭に集結する軍需物資 ︵弾薬 ・糧秣のほか ︑﹁一式

発煙筒﹂と記名した毒ガスもあった︶を徹宵警備したこともある︒

初め小銃装備と言われたが︑直前却って危険だからとて︑丸腰に替

り︑私共を不安がらせたものである︒

  四年進級前の春休みに︑もともと北京方面だった修学旅行が急遽

北鮮旅行︵長春︑朱乙︑羅津︑清津︑元山︑平壌︑金剛山︑京城︶

に変更された ︒冀

トウ

防共自治政府膝元での抗日反乱 ︵通州事件︶

で居留邦人が殺害された為だった︒

  こうした環境がこましゃくれた厭戦家︑臆病な反軍主義者を育て

たかと言えば︑そうではなかった︒むしろ︑人並み以上に戦争・戦

史などに関心を深めさえしたようだ︒

  ﹁少年倶楽部﹂の愛読者として ︑田河水泡の漫画で ︑野良犬 ﹁の

らくろ﹂が陸軍二等兵から大尉まで昇進するストーリーの中で︑実

際とは懸隔した内務班生活や訓練演習を空想した︒山中峯太郎の連

載物でも軍隊・戦争話を熟読した︒福島安正少佐のシベリア単騎横

断に胸を躍らせた︒軍事諜報員・横川省三のロシア軍後方での活動

と悲壮な刑死に涙した︒列強の軍備比較に眉を顰めもした︒何しろ 日清・日露戦争の遺跡に事欠かぬ土地である︒大連湾には︑日本艦 隊はもとより︑他の列強艦隊の来泊︑上陸も珍しくなかった︒   小学校下級の頃︑病欠の多い虚弱児だったが︑やがて父の自転車 伴走で海岸道路をジョギングするようになり︑中学に進むと低山歩 きを週末毎に楽しみ︑学校行事でも中距離走なら上位に入り得る体 ・脚力を養い得ていた︒それを頼んで旅順の日露戦跡を克く独りで 訪れている︒第三軍の白襷隊を寄せ付けなかったペトン堡塁に潜り 込んで︑効無き肉弾攻撃の挙句︑突如宙を踏んで落下し︑前後から の銃火に挟撃された我が突撃隊員の驚愕と無念を想った︒本土から 急送した二八糎要塞砲が二〇三高地を主目標に︑そこの占領後はそ こを越えて市街地︑更に港内のロシア艦隊に巨弾を降らせ続けた昔 日を偲んだ︒東鶏冠山︑二龍山堡塁の占領︑コントラテンコ少将の 要塞砲撃による戦死を最後に︑露軍が白旗を揚げることになった︒ その敗因の第一はかの巨砲だった︒大和魂だけでは勝てないとの戦 訓を辛勝帝国軍部は後世に伝えねばならなかったのだ︒   ヨーロッパで第二次世界大戦がはじまる前年︑張鼓峰で侵略を企 てたソ連はヨーロッパ戦局で後背を脅かされて一旦退いたが︑翌年 舞戻って︑ノモンハンで一度ならず︑二度も我が軍を敗った︒死傷 一万余とは言え︑決定的な敗北だった︒身の程知らずの強引さで挑 発にのり︑機械化装備・輸送力・情報力の劣悪さを暴露した挙句︑ 制空権も剥奪されたのが原因だ︒日本陸軍はそこから教訓を得るど ころか︑責任を転嫁して︑前線指揮官達に自決を強いている︒

  日清戦争での黄海海戦・威海衛攻略︑日露戦争時の日本海海戦の

(5)

大勝の甘い夢醒め切れず巨砲巨艦主義や見敵必殺主義︵電波探知機

脆弱の裏返し︶から脱却できなかった海軍もお粗末だった︒ R A D

A R 技術は日本が先鞭をつけたが︑科学の基礎研究への投資に渋い

体質から︑外国に買い取られたと聞いたのは謬伝だったか︒武器・

弾薬・糧秣の補強を確保するシーレインの維持が成らぬ原因に︑当

初成功した蘭印の石油資源を精製施設の不備︑陸海軍間の分捕り合

戦で殆ど活用せずに終ったのは︑連合艦隊の石油備蓄一ヶ月分で開

戦した無謀さとも︑唯呆れ果てるばかりだ︒

  第二次大戦勃発は︑中学四年生として厳冬の校庭朝礼で校長訓示

で知った︒ざわめく学友の胸中は様々だったろうが︑私は覚えてい

る︒ ﹁あゝ日本は必ず敗ける﹂と背筋の凍る思いで打ち震えていた︒

B 龍南︵二年半︶

  東京の府立三中と肩を並べる進学校だった大連一中からは昭和一

七︵一九四二︶年春一浪で柔道部主将だった森興彦氏はじめ十一名

が受験して十名合格した︒英語テストの時︑小生前列の受験生の背

中に︑最後の一頑張りの証拠か︑枯芝が貼り付いているのを数えた

覚えがある︒

  既に修学年限の短縮︑文科生の徴集猶予解除と︑時局は険しくな

りまさるばかりだったが︑教養と自由を重んずる学園には︑なお軍

国主義の世潮に抗する意気があった︒

  添野校長をはじめ先生方︵教授陣︶がそうであった︒配属将校の 深草大佐までも︑である︒   かの﹁査閲事件﹂が起きたのも当然だったが︑これに就いては五 高記念館による調査とその集約が正鵠を得ていると思うので︑付言 しない︒   河原畑先生の英語授業には扱

しご

かれた︒中学時代︑それなりの自信

があったのだが︑ 迚

とて

も及びじゃなかった︒ 〝

David  Copperfi eld

〟の

晦渋な語彙に取組む辞書引きには真実音を上げた︒それが後々大い

に役立ったのだが⁝︒思想統制の厳しい時代に﹁皇紀二六〇〇年な

んて嘘っぱち﹂と断言される西洋史の松本先生も立派だった︒赤丸

に眼を剝いたこともあったが︑それぞれ特色のある先生方に恵まれ

た学習生活が忘れられない︒

  温和な風貌・語調で万葉集を講述される上田英夫先生は︑当時最

も親しみを覚えた方だった︒勘違いかもしれぬが︑病身の夫人を介

護して家事もこなす主夫でおいでだったかに記憶している︒

  私は中学四年ごろから古今︱新古今︱万葉と興味を移して古典詩

歌を愛し︑戦後なお命あらば国文学学究たるべき夢を抱いていたの

で︑忽ち上田ファンになったが︑学友の多くは聴講に熱心ではなか

った様だ︒一学期末の授業中︑彼等の居眠り姿が気懸かりで仕方が

ない︒最前列に坐って︑真前の先生の視界を狭

せば

めたいと思った︒そ

んな魂胆通ずるあてもなかったが ︑﹁ これぐらいの温度 ︑まだまだ

我慢できる程度です⁝ ﹂︑ややあって ﹁いやー ︑そうは言っても熊

本はやはり暑いですネェ⁝﹂と︑額の汗を拭われる先生だった︒だ

からとて︑盆地特有の蒸し暑さにへばる生徒を咎められることはな

(6)

い︒反応不足の折に﹁ところで加藤君なんぞは︑この歌どう考えら

れますかね?﹂と丁寧なお訊ねあることもあった︒

  阿蘇道場での座禅に始まり︑試胆会︑阿蘇登山︑ボートレース︑

球技大会︑球磨川下り︑武夫原タンツ⁝寮行事の数々に加え︑勤労

動員も経験した︒阿蘇高原また天草島での援農作業︑北九州小倉の

日鉄圧延工場での工員生活等あった︒北九州は戦争色最も濃い処で︑

空襲警報を度々聞き︑幾度も宿舎から燃える夜空を見た︒防空壕退

避時︑生徒の誰よりもサイレンに怯える先生もおいでだった︒工場

地帯︑対空陣地の凄惨な爆撃被害も実見している︒不安に耐えるた

めにも作業の暇に﹁罪と罰﹂や﹁カラマゾフの兄弟﹂等を貪り読ん

だ︒その間に黄疸にかかり入院したが︑その折投与された葡萄糖が

貴重品だと聞いて驚いた︒何もかも欠乏していたのだ︒

  ○  学徒出陣

  そして学徒出陣の時︵一九四三年︶を迎える︒第一陣は大正十二

年︵一九二三︶生まれの人々だった︒最も印象深い出征者の一人が

森興彦先輩だった︒熊本駅頭に見送りに行った私共は鹿児島行の発

車間際︑今まで談笑していた穏和な顔が突然歪み︑バラバラと大粒

な涙を溢れさせたのに気付いた︒一瞬呆気にとられた私共もいつか

咽び哭いていた︒共感するものは何だったろうか︒学業︑学問への

道が非情な戦乱によって断絶される憾み︑とでも言って置こう︒遅

れ先立つ違いはあっても︑自他共に同じ宿命の中にいた︒勇者らし

からぬ涙ゆえに一層その人柄が懐かしく︑哀惜の念深いのである︒   外地生まれという共通点で︑クラスを越えて親しくなった白山進 敏君︵文甲二︶も征った︒名簿には﹁消息不明﹂となっている︒彼 とはその伯母さん︵?︶の営む別府の温泉で一泊して︑別盃を交わ した︒敗戦の混乱で︑別府との連絡もつかず︑戦後の彼については 全く消息不明で︑以下に記す噂も何時︑誰から得たか覚束ない︒噂 とは︑白山君がインドネシアで八月十五日を迎えたが復員の間なく︑ 請われて直後の独立戦争に協力して陣歿した︑というものである︒ 誠実な人情家だった人柄から︑あり得る生きざまだろう︑とうなづ く同級者もいるが確かでない︒今となっては︑より確実な消息を得 るのはもう無理なのだろうか?   学徒出陣の年は戦局の悪化が急激に進んだ時期だった︒東方で五 月アッツ島全滅し︑南方で六月ミッドウェー海戦︑さらに三次のソ ロモン海海戦に敗北して制海権を失い︑翌年二月撤退するも戦病・ 餓死者多く ︑﹁餓島﹂の名を刻んだ ︒前線は後退し ︑本土周辺の海

域に米潜水艦の脅威が迫ってもいた︒

○  特甲幹合格

  昭和十九年春︑私は本籍地︵北海道函館市︶で徴兵検査を受けた︒

途中立ち寄った帝都の食事情はひどかった︒ 果物 ︵西瓜 ・ 枇杷など︶

は豊かだし︑麺類ならいつどこでも食べられる熊本とこうも違って

いようとは⁝︒雑炊一杯の為︑国民食堂には︑顔色青い人々の長い

行列ができていた︒

  さて︑凾館公会堂前で︑私は赤恥を掻かねばならなかった︒体力

(7)

検査は三十 ㎏ の

たわら

俵運びだった︒五十 m 程前方がゴールだったが︑競 争相手が悪過ぎた ︒波止場の 〝やん衆

しゅ

〟︵荷揚げ夫︶である ︒合図

で飛び出す彼等鉄砲弾に対する︑こちら朴訥学徒は荷が肩から辷る

は落ちるはの無様さで完敗だった︒それでも第一乙種合格だった︒

  戻った九州では︑もう一つの兵隊検査が待っていた︒私は︑大陸

の生徒時代から︑第六師団の武名を知っていた︱﹁最も凶暴な日本

軍隊﹂という中国側からの定評の形で︒だから六師団管轄下の予備

士官学校に入校する気は毛頭無かった︒他の予備士なら良いのでは

なく︑この無意義・無謀な戦争でどうでも兵隊になれとなら︑一般

部隊に新兵で入り︑人殺しの下手な二等兵になりたい︑と思ってい

た︒   ﹁特甲幹﹂受験は ︑例の査閲の後 ︑職を解かれた配属将校殿への ︑

臍曲り学徒せめての償いのつもり︑必ず不合格になる確信があった︒

そのうえで︑七師団北海道傘下のどの部隊かに入る算段だった︒

  八月︑佐賀中で受験した時︑勤労動員中の過労が原因との黄疸が

治ったばかり︑まだ眼が黄色味を帯びていた︒それと結果がどう繋

がったかは知らぬが︑試験官の質問は眼の色から始まる︒軍医中佐

だとか︑穏和だが風格ある人だった︒師範系の学生が私の前だった

ので︑軍人勅語を流暢に暗誦するのが聞こえていた︒私はと言えば

五カ条言い果せれば上等と言うお粗末さ︒将校生徒志願者にふさわ

しからぬ対応を続けながら︑この紳士軍医の顔色を窺ったが期待す

る渋面が一向に現われぬどころか︑応酬を楽しむかの様でしかなか

ったではないか︒私は完敗して︑熊本で軍衣を纏う破目となった︒ 仕方なく︑母校︵五高︶で諸手続きを終えると大陸へ戻って身辺整 理にかかった︒   ありふれた出征風景がそこにもあった︒愛国婦人会の前掛姿と小 型日章旗と萬歳と出征者の決意表明と⁝ ︒﹁真っ平御免﹂だった︱

〝死んでゆくぞと勇ましく〟なんて ︒出発当日 ︑私は大連中心街の

映画館で二本立ての名画を観た ︒﹁楽聖ベートーベン﹂と ﹁ブルー

グ劇場﹂ ︒そしてぎりぎり間に合って帰り着き︑ ﹁ 皆さん︑お元気で︑

行って参ります﹂ぐらいの挨拶で凌いだものの︑両親から大目玉を

喰った︒  

C 兵歴⁝敗戦まで

昭和十九︵一九四四︶年九月   第五高等学校卒業︵文甲一︶

十月一日   東京帝国大学文学部入学 ︵国文学科︶

   同日   兵役のため休学   大連から内地へ取って返すと︑東京本郷へ直行して︑大学の入・

休学手続を済ませる︒再び立ち戻る日はあるまい︒学部事務室の外

に並ぶ講義テーマと指導教授名を記した立看板を巡覧してから︑歯

噛みしつつ銀杏並木の間をゆっくり本郷通りへ出た︒東京から熊本

までは︑当時一寸した長旅だった︒

  その朝︑子飼橋際の松雲禅院︵在学中の下宿︶で赤酒の別盃を傾

けて出発した後︑坪井町辺りの床屋に寄って︑娑

婆の髪を丸刈りに

してもらった︒当時︑国鉄駅員も熊電の運転手も皆女性︑床屋もそ

(8)

うだった︒それに不満は無かったが︑散髪中︑空襲警報のサイレン

が鳴りだしてから︑女主人が剃刀持ちながら︑一寸した物音にもひ

どくびくついたのには大閉口だった︒そして︑城内への坂道を踏み

しめて行った︒

昭和十九︵一九四四︶年十月十日   熊本陸軍予備士官学校入校

︵区隊名金剛隊︶

       命  陸軍特別甲種幹部候補生        命  陸軍伍長 昭和二十︵一九四五︶年二月一日   命  陸軍軍曹         五月五日   熊本陸軍予備士官学校   卒業        任  陸軍曹長        任  陸軍兵科見習士官        任  将校勤務        命  広島軍管区配属        五月七日 命  中国四十七部隊配属

注3

       ︵広島市中国軍管区司令部︶

       中国四十七部隊到着︵鳥取市︶

       命  第二中隊配属 ︵三宅隊三宅中尉︶

      七月一日〜二十日   第三期編成幹部要員教育

注4

       ︵広島市中国軍管区教育隊︶

        演習地   幼年学校跡︑ 東練兵場︑ 工兵隊

etc

      八月一日 命  中部二八六三部隊第二中隊編成掛

注5

       命  中部二八六三部隊第二中隊附

      八月六日    広島に原子爆弾投下

注6

      八月十五日   終戦   大詔       八月二十三日 命  陸軍兵科少尉予備役編入 ︑所謂

ツダム少尉﹂ ︵写真参照︶

      九月六日    命  解員除隊︵一般下士官・兵は 2  

 

注3  ﹁中国四十七部隊﹂は鳥取聯隊である︒広島市には中国軍管区司令部

第二総軍司令部があり︑総司令官は畑俊六元帥だった︵全国を第一︑第二

(9)

に分かつ︶と思う︒

注4  ﹁第三期編成﹂とは︑旧軍最後の動員計画︒

注5  ﹁中部二八六三部隊﹂は︑連合国軍の日本海側上陸を阻むべく︑山口県

川棚温泉付近の海岸に配置されるはずの独立混成大隊だった︒辛くも米軍

のシャーマン型中戦車を撃破し得る四十七粍重速射砲数門を最強の装備と

する歩兵大隊だが︑一九歳の新兵と再召集された傷痍兵を含む構成である

上に︑兵数だけの九九式歩兵銃は充当されていなかった︒その最新の小銃

には︑床 しょうび尾鉄も遊 ゆうていおおい底覆も無かった︒だから鳥取砂丘での訓練後の銃器の手

入れは大変だった︒

    しかも︑二十発の連射ができる敵の自動小銃に対して︑こちらは一発ご

とに槓 こうかん桿を操作しなければならぬ単発銃なのである︒

    序でながら演習地だった鳥取砂丘から見下ろす日本海上でも︑陸軍の特

攻艇が猛訓練を続けていた︒制空権ない中でどうやって敵艦艇に肉薄し︑

体当たり雷撃を果たし得るというのだろうか?

注6  第三期編成幹部半数が私共同様の特殊訓練を受けていた︒しかしその全

てが原爆の犠牲となったと思われる︒兵科見習士官とは別に旅団司令部に

出張していた見習医官は︑隣接する己 市の実家に立ち寄って︑妹二人の

死傷を確認し︑憔悴し切って帰隊した︒広島からの帰隊者は他にはいない︒

その時点で私は︑二つに一つの生命を拾っていたことになる︒

    その三日後︑長崎に投下された原子爆弾により︑級友中島驥君︵隠れ切

支丹長老の直裔 えい︑今秋帰天︶は家族十人を一度に喪っていた︒

○  熊本陸軍予備士官学校

  平成一九︵二〇〇七︶年十月十日︑第五高等学校開校一二〇周年 記念大会が熊本大学で開催され︑夕刻から全国五高会記念大会︵祝 宴︶ ︵ホテル・キャッスル︶があった︒

  奇しくもその六十三年前︑私はホテル・キャッスルの真前に聳え

る熊本城内の陸軍予備士官学校に入校している︒昭和十九年十月十

日のことだ︒

  記念大会の翌日午後︑私は戦後初めてその学校跡を訪れた︒昔日

熊本城二の丸広場の石碑

(10)

を偲ばす物は︑二の丸広場の一隅にひっそりと蹲る横一 m ︑高さ八

十 ㎝ 程の略長方形の石碑あるのみだった︒

  青黒い碑面は先ず﹁熊本城二の丸由来記﹂とあって略年表が続き

﹁昭和六十一年九月吉日   熊本市﹂で終わっている ︒碑石の側面に は﹁寄贈   元熊本陸軍教導学校・元熊本陸軍予備士官学校有志︑熊

本県立第二高等学校同窓会﹂の刻字がある︒由来記より摘記すると︑

ここに明治八年︵一八七五︶歩兵第十三聯隊が置かれる︒翌九年︑

神風連の乱おこり︑十年西南の役に鎮台将士が籠城する︒大正十四

年聯隊移転︑昭和二年︵一九二七︶熊本陸軍教導学校が置かれ︑十

八年編成改編により熊本陸軍予備士官学校と改称︒昭和二十年閉校︒

その後︑国の特別史跡に指定され︑県立二高の創立・移転を経て︑

昭和四十七年︵一九七二︶熊本城二の丸公園として整備された︱と

ある︒   碑前に佇むと︒前方南側に大・小天守ほかの櫓や長塀が連なり︑

頭を巡らすと嘗ての営庭には亭々たる楠の大樹が卓立する︒

  だが私は昭和十九年秋から翌年初夏へかけての七カ月余の日々を

終生忘れ去りはしないだろう︒行幸坂脇の草地がガス戦闘の演習地

となり︑私は防毒マスク︑防毒服を着けて匍

匐しつつ︑掻き分ける

草の葉が茶褐色の糜

爛性︵イペリット︶の毒液でベットリ濡れてい

たのをはっきり覚えている︒マスク・服を脱いだ後︑除毒剤を塗布

した部位を摩擦し過ぎて 皸

あかぎれ

のように掌や甲に血を滲ませる神経質

な候補生もいた︒窒息性のホスゲンは仮設幕舎内に充満させたとこ ろへ︑マスクを装着して出入りする形で体験した︒   これは校内での実習だったと思うが︑黄色火薬や制式信管を用い てのタ弾

だん

けい

の爆雷組立てもあった ︒ 対戦車攻撃や構築物破壊の

ために手造りするものだ︒

  修業期間の短さからか︑ 極端な詰め込み教育だった︒ 作戦要務令・

性病予防法・救急法・地図法・諜報知識・最新戦況・戦術等の座学

もあれば︑銃剣術・格闘術・蘇生術等の実習訓練あり︑各自携行の

軍刀の試刀ともなる巻藁斬りもあった︒

  巻藁斬りは︑誰しも初体験だったろう︒刃が立たぬ為︑斬り込め

なかったり︑刀身を曲げるケースが多く︑剣道体験者ならぬ人にそ

の結果が偏だった︒用心のためやや過分の力が加わり台座を少し傷

付けたが︑私の刀︵吉野朝期︑二尺三寸五分︑反り少ない豪刀︶は

見事両断して︑何の狂いもなかった︒

  入校前に知るところは︑かの﹁大本営報道部発表﹂で︑過大な戦

果と軽微な損害を伝え ︑﹁撤収﹂も ﹁転進﹂も敗北とはならない

しかし︑制海・制空権を失い︑武器・弾薬の補給絶え︑食糧も現地

で調達するほかない前線に派遣される下級将校の卵に事実を隠蔽し

ては教育も訓練もあったものではない︒校内には敗報ばかりの最新

の戦況が届き︑対応が試される︒一般に米地上軍の前線は︑このよ

うに想定されている︒

  まずは︑地下足袋履きの忍びやかな歩行音もキャッチする候敵警

戒器︵習ったままの名称︶が間隔短く配置されている︒その後方に

軍用犬を使った偵察警戒線が拡がり︑黒人兵が配置され︑更にその

(11)

後方に白人兵が待機する︒異常を探知すると︑探照灯が白日さなが

らの光芒を放って前面を照らし続けて︑熾烈な銃砲火を誘導する︱

この米国軍に対応せよ︑という訳である︒

  特甲幹を志願させ︑その一期生︵二期生まではいた筈︶を扱

しご

き始

めた軍部にはこんな目論見があったろう︒

  日頃︑ミリタリズムは反対と言い︑軍人を虚仮あつかいするイン

テリ共︑勉強だけは得意だろうから︑即成教育はできるだろう︒召

集予備将校では対応不可能な対米戦闘の場にどんどん送り出して

﹁消耗品﹂となってもらおう︱くらいのコンプレックスや怨念が底

流していただろうと妄想するが如何か?

  だが戦局の進展は彼等の予想より速やかだったから︑結句︑特甲

幹出身見習士官は本土決戦に転用される破目になったものと考える︒

  さて︑学校内の座学での一場面であるが︑私は特進

4

将校︵この名

4

称が正確だという自信はない︒軍学校に在籍することなく︑兵から

昇進したの意味︒乞御批正︶少佐の﹁軍人勅諭﹂講義に際して︑こ

う抗議した︒

  ﹃現役の陸軍大将が内閣総理大臣となるのは︑ ﹁軍人は政治に関せ

ず﹂と言う勅諭の聖旨に背くことにはなりませんか?﹄と︒真に責

めらるべきは︑この練度優れた古兵中の古兵ではなく︑この現実を

許した政治家︑認証した天皇でさえあったろうが︑私は︑かの瑞邦

館事件の二の舞を演じてしまったのである︒一瞬にして凝然たる教

官と同輩候補生の姿があった︒

  話が変わるが ︑校内のどの建物にだったか ︑﹁遺品室﹂があった ︒ 当校卒業生で︑日中戦争の間に戦死した人々の物だった様だ︒片側 のレンズが欠損した双眼鏡や︑左右とも貫通して走らせた放射状の 亀裂に茶色がかった染みを留める近眼鏡があった︒   私共は羨ましげに頷き合った ︒﹁これはいい ︒うんもすんもない

だろう﹂それにしても︑二発の狙撃弾が同時に命中するとは驚き入

った︒   営庭を舞台のこんな情景も忘れ難い︒在校中︑唯一度の面会日だ

った︒肉親・家族が建前だったろうが︑私の面会相手は︑下宿の主

たる禅僧であり︑長男の幼児を伴っている︒何十組もの面会が同時

進行している中で︑やや隔たった処に︑候補生から引き離された数

十人の面会人たちが一塊りでいる︒食品を差し入れようとして見咎

められたのだ︒厳しい事情の中で工面したものが仇になり︑悄然と

しているのは気の毒だったが ︑他人事ではなかった ︒〝和尚さん〟

はそれに気付きながら動じない︒背中の幼児が腕を延ばして私の帽

子を掴み取った︒と︑和尚さんは息子の手から取り返して︑私の頭

に被せ直したのだが︑寸前微妙な手

づま

を演じていた︒面会を終えて

営舎に戻った私は錠前ある小さなロッカー︵秘密手簿と反省日記を

納める︶に帽子の中身だった小ぶりの餡入り饅頭数個を隠さねばな

らなかった ︒さて ︑どう処分したものか ? 公案一つ ︑﹁ 作

磨生﹂と

突き付けられた心境だった︒

  食べ物にからむ演習地でのこんな思い出もある︒一日の猛訓練に

疲労し切った我々が﹁記念碑まで匍

匐﹂を命じられて四苦八苦した︒

  健軍練兵場だったか︑それより北方︑渡

鹿

ろく

の時だったかは判然と

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しないが︑誰かが塹壕の盛り土の中に野

蒜を見付け︑その発見が忽

ち伝わった︒薬盒︵弾入れ︶に摘み入れて帰営したまでは良かった

のだが︒   重労働の毎日︑空腹感あって当り前だが︑それとは別に入校以来

の禁酒生活の中で ︑﹁味噌汁にいれて ︑あのピリ辛さを⁝ ﹂と言っ

た味覚の上の欲求不満が募っていたのだろう︒迂頂天になって︑当

然の成り行きを不図失念していたものか?

  その夜︑熟睡中の私共は︑竹刀を手にした教官に叩き起こされた︒

手箱の中から野蒜の束が引出され︑綺麗に折り畳まれていた軍衣袴

も忽ち突き崩されて行った︒ ﹁品性下劣﹂ と惨めな叱責を浴びた挙句︑

深夜の清掃・整頓作業とはなった︒対面往復ビンタの罰もあったろ

う︒私には︑もっと陰湿な制裁を受けた経験がある

  射撃訓練を終え︑帰校を前に服装・装備の点検をした時︑私は塗

油紐一本︵銃腔を拭浄するため︑スピンドル油を滲ませた布片を付

けるもの︑綿の撚

り紐の一端に真鍮製の錘

おもり

が付いている︶を紛失し

ているのに気付いて申告した︒候補生達が使用する装具には廃棄品

と言っていい古びたものが少なくない︒将校になる連中だから間に

合わせでいいと言うのか︒この場合︑長年の使用で伸び切った止め

革が薬盒︵弾入れ︶の蓋を支えきれなかったのだ︒

  早速全員での捜索を命じられたが︑最前まで這い回った草深い中

からはついに出てこなかった︒ ﹁勅諭﹂ の講師だった教官は︑ 私を ﹁切

磋琢磨してやれ﹂と命じた︒同僚に正対して立つ私に一発づつビン

タを噛ますのだが︑仲間を殴打したくない手心が加わる︒その躊躇 を見た教官が﹁こうやるんだ﹂と︑その候補生に情け容赦ない手本 を浴びせる︒   皆を苦悩させる因を作ったことを詫びる想いで︑私は目顔で﹁手 加減するな!﹂と訴えた︒数十発の衝撃は仲々のもので︑殴り倒さ れる醜態を教官に見せまいと踏ん張るのが精一杯だった︒その後︑ 数日は歯が噛み合わず殆んど食べられないというおマケもつく︒歯 が内側を傷付けるからだ︒   内務班生活と初年兵教育を体験する為︑久留米の聯隊に数日過ご した折︑タチの悪い﹁古

兵﹂が新兵︵時には新任下士官︑見習士官

までもと聞いた︶いびりする実態を実見したり聞いたりしたが︑こ

の教官もこうした環境に育てられた軍隊式マゾヒストだったろう︒

  特甲幹合格は誤算だったが︑既に士官候補生となった以上︑人後

に落ちぬ知識・技能を身につけて︑一日でも長く生き延びられる精

兵を育てたい︱が︑新たな夢だったが︑これでは尋常な卒業などあ

り得まい︑との不安も兆していた︒

  ところが︑金剛隊の同僚で︑戦後年賀状の交換を欠かしたことの ない ﹁戦

友﹂ ︵その人の用語︶がいる ︒その文面に ﹁いつも模範的

だった﹂に類する往時の私への修辞がある︒今度の回想記でも︑彼

の記憶に補われる事屡々だったが︑納得がいかないので︑敢えて過

褒の訳を訊ねた︒その回答はこうだ︒

  ﹁小生が ︑貴兄から気合を入れて貰ったのは ︑大矢野や十鹿

しくは渡鹿︶の演習場へ行く途中など︑よく励まされていました︒

小生︑昭和十九年の十二月頃から︑翌年の卒業の頃まで︑左足に潰

(13)

瘍ができて︑痛みに耐えながら学校生活を送った記憶があります﹂

  その気合は﹁ S ︵頭文字︶!兵

児たれるな!元気を出せ!﹂と言

ったものだとも︒

  私自身︑他の候補生の支えになっていた覚えなど全くないのだが︑

そんな当り前の言動で励まされ︑慰められる程︑誰もが心身ともに

傷つきながら耐え忍ぶ毎日だった事は納得が行く︒私の気合も実は

己れ自身への掛け声でもあったろうから︒

  訓練の実相を再現すべく︑今一度引用する︒

  ﹁射撃訓練の時 ︑小生の使っていた軽機関銃の栓子がたまたま折

れて ︑﹃天皇陛下の器物を毀して ︑天皇陛下に謝れ ! 掃 除が不十分

だからこんなことが起こるのだ!﹄と︑市川少尉から頭を脚で蹴ら

れ︑鉄兜が吹っ飛んだ︒ ﹂

  この文面に少々驚いた私が︑その市川少尉に対する彼の真情を質

すと︑ ﹁あの叱責は当然だと思っている︒含むところなど全く無い﹂

と言う︒納得が行った︒市川少尉は一番若い教官で︑一・二年前に

この予備士を卒

えていたのだろう︒東京下町育ちと覚しく﹁真っ直

ぐ︑真っ直

ぐ﹂で知られていた︒心情的にも候補生に近く︑秘かに

我々を庇い続けてくれた様だ︒彼の叱責やビンタが先任教官の制裁

に先立つことで我々が受くべき衝撃を多分に柔らげていたと思う︒

  射撃訓練と言えば︑私には些か自慢めいた体験がある︒小学一年

で近眼鏡をかけ始めた私は︑小学四︑五年の頃﹁ダイアナ﹂という

ドイツ製の強力な空気銃を買ってもらい︑ペーチカの煙突に寄る雀

をはじめに︑近郊の小鳥や野鳩等を標的にして︑父親の酒

しゅこう

肴に供し ていた︒乱視混りの強度の近眼は矯正視力で︑〇.八程だったから 独特の照準法を工夫していた︒目標が偽装した敵だった場合︑どこ まで通用したものかは︑本物の敵に一発も撃ったことがないから判 らない︒   植木射撃場だったろうか︒山中にあり︑谷越しの斜面に据えられ た炭俵が標的だった︒それとも大矢野原演習場だったか︒十一年式 軽機関銃の一連射︵二十発︶を全員で初体験した︒立ち替る射手の 誰もが︑標的の周辺に派手な土煙を立てている︒それが当然の射撃 効果かと見守る内に︑自分の順番が巡って来た︒一種快感めいた震 動が右肩に伝わる︱アッと言う間だったが︑愕然として立ち上り︑ 唇を噛んで報告した︒   ﹁弾着不明であります﹂

  教官の言葉は意外だった︒

  ﹁馬鹿野郎 ︑貴様のは全弾命中だ ︒着弾が炭俵の向こうだから見

えんのだ︒据銃が良いからだ﹂

  今日も陸上自衛隊の演習地となっているらしい大矢野原では晩秋

と厳冬の候と二回宿営演習があったとは︑前述 S 氏の証言するとこ

ろ︒   別に十九年 極

ごく

月の下旬頃 ︑別府市西の山地

注7

でも廠舎に数泊して

夜間戦闘を含む訓練があったと思う︒

  私の記憶は厳寒の中︑夜行列車で豊肥線を東に向かう姿に始まる︒

夏の衣袴のままだったか︑右手で支える三八式歩兵銃︵当時最新の

銃は九九式︶が冷たかった︒別府駅頭で愛国婦人会の湯茶接待を受

(14)

けた後︑地獄温泉巡り︱叉銃休憩・警戒等の行軍演習︱を行って演

習地に到り︑遭遇戦の想定での夜間演習があった︒山歩きが得意な

私の帯革を掴む同僚達を先導して山道を辿る時︑遥か下に谷川の瀬

音を聞いた覚えがある︒

  朧げな記憶ばかりだが︑実包を使った援護射撃︵予備士に砲隊は

無かったとすれば重機だけの︶の下︑攻撃前進したのもここだった

かと思うが︑地名は思い出せない︒その癖︑ここでの宿営中︑五高

同期の他区隊の候補生

注8

が腸捻転を発病して急逝したとか︑重機区隊

の一人が自ら大腿部に銃創を負って捕えられた︑とかの事実の舞台

でもあったらしい︒更に前述の夜間訓練とは別の日︑これも夜間訓

練の間の仮想敵に指名され︑凍

てついた大地に腹這って軽機を構え︑

その鉄部の冷たさに身震いした後︑大量の痔出血で半ば失心の状態

を味わったのも︑ここでの出来事だったかと思う︒その後︑熊本陸

軍病院に運ばれ︑大晦日あたりに外痔核手術を受けた︒別府から熊

本へ︑では遠すぎる気もするが︑これは今や確かめようもない︒

  虚弱児だった幼少期から脱腔の気味はあったが︑それで医者に診

てもらうことも︑ましてや入院治療の経験などない︒高所の厳寒が

原因だったに違いない︒短い︵そして︑自ら縮めた︶病院生活の中

で︑一般に外科病棟の患者の入れ替わりが早いと気付く︒若い兵隊

の治癒が早いので︑次々軽症病棟に引っ越す︒反対に内科病棟には

古株が多い︒

  入院当初︑隣のベッドに居た少年整備兵は︑宮崎で米機の機銃掃

射を浴び︑背中から腹へ貫通されて︑毎日膿塗れになる包帯を交換 してもらっていた︒母親らしい老婆が付添っている︒腹這いの姿勢 で寝起きするのだから︑この二人何とも気の毒だったが︑数日で私 の病室が移った ︒﹁痛いほど早く治る﹂と手荒らな手当てを自慢す

る軍医少佐の言葉通り︑手術後の回復は速やかだった︒市川少尉引

率の金剛隊員が駈足訓練の軽装で見舞いに来てくれた︒その時︑大

矢野原演習地での宿営訓練の日程を知った︒私は早速看護婦長︵准

尉相当で︑上官だった︶に退院の希望を申告した︒尚早だと言われ

たが︑食い下がって許可された︒昭和二十年の歳明け早々だった︒

  完治以前の体調には辛かったが︑演習参加は果たせた︒大矢野原

から帰校の途について直ぐ︑区隊長が近付き︑馬上から呼びかけた︒

﹁小銃は軍人の魂だから自分で持て︒ 他の装具は重機隊の馬で運ぶ︒

弱り目に︑この心遣いは有難かった︒南方で重傷を負い︑歩行困難

で常に馬上の姿だった中佐は︑四国の大名家の裔と聞いた︒

  前年サイパン島が陥ちてから︑本土爆撃が本格化し︑暮には東京

初空襲があったと知っても︑熊本ではその空襲は卑近な脅威ではな

く︑訓練・実習に汲々たる毎日だった︒あれは一月だったか二月初

めだったか︒私共五高出身者に軍服の面会者が訪れた︒文甲一名簿

に﹁消息不明﹂

注9

と記されている田才鮮次郎君だった︒陸軍少尉の肩 章をつけ︑航空士官のバッジを光らせていたようだ︒彼の齎

もたら

したの

は硫黄島上空を偵察飛行して得た最新情報だった︒米艦船に四周隈

なく包囲された孤島の運命は明白だった︒聞き終えて暗然たる私共

を残して颯爽と立ち去った︒間もなく硫黄島全滅が伝えられる︒

  四月末だったろう︒私は夢を見た︒母親の青ざめ切った顔だった︒

(15)

私を見詰める眼差しは哀しげだったが︑一言も口はきいてくれない︒

眼が覚めた︒暗い居室には軽い鼾が聞こえるばかりだ︒不安が脳裏

に蟠るようだが強いて瞼を閉じた︒後日知ったが︑我が弟妹四人の

中︑二男までが既に軍籍︵私が長男︑二男は海軍兵学校︶に在る上︑

三男までが母親の嘆願を聴き入れず南鮮︑鎮海の海軍築城︵海軍史

最初の︶部隊に志願入隊が決まった日だったらしいのだ︒文甲一同

級の中島驥君も長崎に原爆が投下された時︑無言の母親を夢見てい

た︒強い怨念は時空を超えるものらしい︒

  卒業より一ヶ月程も前だったか︒歩調高らかに営門を抜け︑今日

の演習地目指して御幸坂を下りかけた我々は︑忽ち鮮麗な光彩と馥

郁たる芬香の中に没入していった︒

  咲き満ちて未だ一枚も散らさぬ桜花が頭上︑左右︑前後を埋め尽

くした︒同僚等しく同じ思いだったか否かはいさ知らず︑私は自ず

まなじり

を決し喘ぐばかりの感銘に涙滲むのを覚えた ︒日本人独特の

感傷なのだろうか︒兎も角︑暫くはこの恍惚に身も心も委ね切って

いた︒   興奮の漸く退くにつれて ︑当時も ︑﹁これは本然の己れにはそぐ

わぬ気の迷いだ﹂と思い返している ︒﹁万朶の桜か襟の色⁝散兵線

の花と散れ﹂と続く軍歌の魔力や桜花の妖気の故かとも考えたが︑

あの時ほど満開の国花に幻惑されたことは曽てない︒

  前々から予告されてはいなかったが︑予備士官学校卒業の日が来

た︒防諜の為とかで︑車窓をカバーした列車は︑不思議な停車や速

度の加減を繰返して︑熊本を離れて行った︒北へ向かい︑南を目指 し︑私共は夫々の配属先に運ばれた︒昭和二十年五月五日のことで ある︒

注7  別府市北西部十文字原陸軍演習場

注8  同期︵昭和一七年入学︶文乙の濱田義道氏︒昭和一九年一二月一一日急

注9  戦後生存と判明︒

○  中国四十七部隊配属

  鳥取の聯隊での初年兵教育にあたって︑こんな情景があった︒演

習出発を前にして︑何気なく営舎内に戻った時︑二段寝台の上段に

居残っている兵がいる ︒﹁練兵休か﹂と聞いたが返事がない ︒思わ

ず﹁出発だ︒一刻も早く整列に加われ!﹂と引き摺り下ろした︒振

り返りもせず︑再び営庭に出て間もなく︑その兵も隊伍に入り︑そ

の日の訓練は何事なく済んだ︒続く毎日も同じで︑あの兵の事は念

頭から離れ去っていた︒

  数日過ぎた将校食堂で私は問われた ︒﹁あのやーさん ︑よく手懐

けたな﹂と言う︒先任将校である︒こちら︑キョトンとしたので笑

い声が起こった︒将校連も古兵もやくざ出身兵を敬遠していたらし

い︒向う見ずの見習士官の一喝が転機でやあさんの突っ張りが抜け︑

皆と一緒の訓練に馴染んでしまったのかも知れない︒将校連に一目

置かれるようになったのは妙である︒内務実習のために配属されて

(16)

いた士官学校生徒の服装違反を注意して驚きを買ったこともあった︒

当然のことを当然のように言って意外とされるのが︑八方破れな学

徒兵の武勇譚と言うものか?

  第三期編成幹部要員教育の名で広島へ赴く時︑岡山大空襲があっ

た︒列車は途中で停車し︑危険を避けるため︑地方人︵軍隊語で一

般社会人をこう称する︶は降車させ︑軍人だけを乗せて徐行しつつ

岡山駅に着いた︒爆弾に直撃された駅舎は破片の山となり︑死体が

埋まったままという構内には異臭と煙が漂っていた︒当てもなく山

陽本線の下り列車の到着を待つばかりだった︒

  広島での三週間の間に︑一両日の休日があったらしい︒同僚二︑

三名と市内を遊歩した記憶がある︒私共を特甲幹出身と看て取り︑

自分達より進級が早いのが気に喰わぬと言い掛かる見習士官に囲ま

れた事もある︒そんな内輪揉めの余裕ある戦局であったろうか︒そ

ういう輩に限って︑第二総軍司令部所在地にふさわしく︑大・小部

隊の司令部の多い市内の︑その司令部前をわざわざ往来して︑老兵

歩哨の捧げ銃

つつ

の敬礼を楽しんでいるのだ︒破廉恥とはこの事だ︒老

兵達の持つ小銃は最新の九九式でも︑旧来の三八式でもなく︑何と

日露戦争の鹵穫品たる長大かつ糞重い露軍小銃だったのだ︒それを

捧げ持つために老歩哨の腕が軋み︑重さに引かれて前傾するのが見

えないのか︒職業将校の選民意識も噴飯物だが︑予備将校の志操も

酷いものだった︒

  私は市内中島町辺りの眼鏡店を訪ね︑二対の眼鏡を注文した︒一

対は通常のもの︑もう一対は防毒マスク用の特注品︑いずれもレン ズはツアイス製だった︒   広島から帰隊の後︑八月一日から新設部隊の編成が始まった︒四 十七部隊で受取った人員を鳥取市東部の小学校へ引率するのが手始 めだった︒部隊営門を出て間もなく︑私は﹁駆け足﹂を命じ︑数百 米行かせてみた︒懸念した通り隊列が整うまでに暇がかかった︒先 頭の少年兵と後尾の老兵とが大きく離れてしまったからだ︒前年︑ 十七歳以上で兵役編入となった未成年兵は兎も角︑元傷痍軍人まで 駆り出されるとは何事かと︑腹煮え返る思いだった︒何も彼も末期 状態だった︒   重機の楠隊にいた吉里和己君︵文甲一︶は知覧基地近辺の水際陣 地にあり︑金剛隊同僚の S 氏は島根県浜田市の聯隊附として初年兵

教育に当たっていたと聞くが︑同様の事態にどう対処していたもの

か?   広島から︑注文の眼鏡が出来たと知らせて来た︒郵送が難しいの

か受取りに来い︑とある︒新設部隊編成に着手している身には無理

な話だが︑これから広島へ赴く仲間がいるので︑その一人に託した︒

  遂に﹁強力な新型爆弾﹂が投下され︑数日にして﹁原子爆弾﹂と

報道される︒広島の旅団司令部に派遣されていた見習医官と衛生下

士官が相次いで帰隊しても︑一ヶ月前の私共同様に広島の元幼年学

校︵教育隊︶に出張していた同僚達は遂に還らなかった︒

  そして︑敗戦︵終戦︶の日︑昭和二十年八月十五日を迎えたので

ある︒

(17)

D 貶められた世代

  敗戦の日で筆を擱

く心算の私の脳裏になお蟠る思い出があった︒

あの日の夕方あたりから街に楽しげな音曲が蘇っていたが︑父母と

二人の妹の残る旅大地区にソ連空艇部隊が侵入して惨害を拡げてい

るとのデマに悩む私だった︒脱力状態に陥った上級士官が頼めぬの

で︑常任週番士官を買って出︑小学校駐留を幸いに歌謡鑑賞・カラ

オケを企画し︑特産の二十世紀梨を提供したりした︒一方︑軍服姿

での外出が厭で堪らなかったが︑如何な公務に迫られてだか︑敗戦

数日後︑建物疎開の跡荒涼たる鳥取駅近辺で︑既にモンペを脱した

老婆に声を掛けられた︒

  ﹁兵隊さん︑本当に御苦労さんでございました︒ ﹂   無言で挙手の礼を返して行き違ったばかりの背後で︑恥じるかの

ように︑寧ろ独り言つかのように漏らしたではないか︒

  ﹁でも︑勝って下さりゃよかったに⁝﹂

  心臓が狂奔した︒今に到ってなお一脈の勝機あるかのように︑無 垢の市井人を瞞着し得ていた絶対権力に心底からの罵

を浴びせた

かった︒何の聖戦だったろう︒どこが神国だったと言うのか︒下級

たりとも敵味方の身命を賭する戦闘を指揮すべき将校を教育するの

に﹁ハーグ陸戦法規﹂の一端をも講ずることなかった癖に︑まとも

な自決に脅えた勲章だらけの戦争屋は︑臆面もなく﹁戦陣訓﹂を押

しつけ︑ 歴史的ファース︵ f a r c e ︶とも名付けたい﹁一億玉砕﹂

をよくも謳い上げてくれたものだ︒   冗長蕪雑な拙稿を︑以下の最新情報の紹介で終えたい︒

  最新 ︵平成二三年師走︶ の某週刊誌に一九六六年生れの小説家 ︵本

稿冒頭に掲出︶と一九五八年生れのノンフィクション作家の対談が

載った︒要点はこうなるだろう︒

1 ︑生きる意義を持たぬ今の若者と違って︑働く喜びを知る大正世

代は︑多くが無念の戦死を遂げたが︑生残者は敗戦のどん底から

奇跡の復興を成し遂げた︒しかも︑ ﹁戦争=悪﹂故に﹁軍隊=悪﹂

なる類型化による非難に対しても不満 ︑言い訳を口にせず ︑﹁立

派な明治人﹂ と対照的に戦後の歴史の中で ﹁貶められてきた﹂ ﹁他

人のために生きた世代﹂だ︒

2 ︑諸悪の根源は軍官僚であり︑現代の霞ヶ関官僚と体質は同じく︑

部下に出撃を命じても責任は取らぬ︒海兵出のエリートで特攻に

加った者は稀で︑多くは後方の安全地帯に身を置いた︒真珠湾攻

撃の源田参謀・南雲中将も︑命を惜しんで決定打たる第三次攻撃

を回避した︵仰天の新史実で資料が知りたい程だ︶ ︒

  開戦記念日に絡めた記事だろうが︑日頃疎縁の週刊誌の珍しい内

容だった︒なお︑こんな逸話も語られていた︒

  学徒出陣壮行会の前夜︑東京商大︵現一橋大︶の学寮ストームで

人々は酔い泣きつつ︑寮歌を唱い踊っていた︒と︑その塀の外にキ

ャンドル持って讃美歌を歌う津田塾の女学生達の姿があった︒ペン

を剣に持ち替える若者へ︑せめてその無事を祈る願いだった︒やが

て塀内外の全員の﹁海行かば⁝﹂の大合唱になったと言う︒

  我々には六十余年の時空を越えて胸の詰まる情景である︒

参照

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