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エジプト 2012 年憲法の読解

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エジプト 2012 年憲法の読解

過去憲法との比較考察(上)

竹 村 和 朗

Reading the Egyptian 2012 Constitution

A Comparative Study with the Previous Constitutions of Egypt (vol.1)

TAKEMURA, Kazuaki

This paper presents a comprehensive Japanese translation of the Egyptian 2012 Constitution, originally written in Arabic, with annotated commentaries based on a comparison with previous Egyptian constitutions. The 2012 Con- stitution is an outcome of the Egyptian 2011 Revolution, the so-called January 25th Revolution, which overthrew the Mubarak regime that had lasted for three decades. Since the Revolution, constitution-making has been an issue of high political sensitivity. While many studies discuss its political implications, this study focuses on the constitutional text itself, reading it as a “document.”

Such an approach requires a careful interpretation and evaluation of the literal expressions adopted in the 2012 Constitution and pays attention to changes in the text and their origins.

This paper consists of two parts: Part I “General Introduction” and Part

Ⅱ “Translation and Commentary of the 2012 Constitution.” Part I is divided into three chapters. The first chapter is a genealogical survey of previous Egyptian constitutions. Since the first “modern” constitution in 1923, Egypt has witnessed constitutional enactments and revisions several times in the past nine decades. This chapter overviews the historical contexts of these previous constitutions and introduces their contents and characteristics.

The second is an overview of the composition of the 2012 Constitution.

Like other constitutions all over the world, the Egyptian 2012 Constitution is made up of articles and composed of parts, chapters, and sections. The combination of these various elements forms the structural features of this Constitution.

The third introduces three categories to distinguish similarities from differences in the literal expressions of the 2012 Constitution. Particular emphasis is put on a comparison with the 1971 Constitution, which the post- revolutionary 2012 Constitution was made to overcome. The three categories are labeled “preserved,” “changed,” and “new.” While “new” articles tend to Keywords: Egypt, the 2012 constitution, comparative constitutional law, January

25th Revolution, Arabic

キーワード : エジプト,2012年憲法,比較憲法,1月25日革命,アラビア語

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Ⅰ.はじめに

1. 「書かれたもの」としての2012年憲法

本稿は,「1月25日革命1)」の名で知られる現代エジプトの政治的大画期が生みだした「2012 attract much more attention, “changed” articles account for almost half of the total 236 articles. Moreover, these “changed” articles suggest constitutional changes that may not be obvious but that have important consequences in the future. This categorization is used as a benchmark for understanding the characteristics of the 2012 Constitution. It highlights the continuation and discontinuation of concepts and ways of thinking in the constitutional text.

Part Ⅱ provides an annotated Japanese translation of the 2012 Consti- tution; on each article are put the original Arabic text and a commentary with particular interest in its literary expressions. It also shows the articles of the previous constitutions, which have contents and themes related to the discussed article. By juxtaposing the translation and the original text, this paper intends to serve as a basic archive for those who are interested in the Egyptian 2012 Constitution and wish to pursue a comparative study of consti- tutional law.

〈第一部:全体解説〉

Ⅰ.はじめに

 1. 「書かれたもの」としての2012年憲法  2. 本稿の構成

Ⅱ.エジプト過去憲法の系譜  1. エジプト憲法前史

 2. 1923年憲法と1930年憲法  3. 1952~3年の声明と憲法宣言  4. 1954年憲法案

 5. 1956年憲法  6. 1958年暫定憲法  7. 1964年憲法  8. 1971年憲法

 9. 2011~2年の憲法宣言

Ⅲ.2012年憲法の構造  1. 編ごとの概要  2. 全体構成の比較

Ⅳ.2012年憲法の条文内容の三分類  1. 三分類の定義

 2. 三分類の分布

Ⅴ.おわりに 参考文献

付録:2012年憲法内容一覧表

〈第二部:資料本文〉

1. 凡例 2. 前文 3. 本文

1) 本稿では,「革命」thawraの語は,二つの意味で用いられる。一つには,2011年1月25日にはじまっ たとされる広汎な民衆デモのように,公権力への異議申し立てによる政治変動をもたらす現象を指 す。この用法における「1月25日革命」は,デモがはじまった1月25日からムバーラク大統領が 辞任した2月11日までの18日間という短期間を特に意味する。もう一つには,こうした民衆蜂 起や政権転換を起点とした,より長期かつ広範囲にわたる政治的・社会的変動を指す。先の用法に 対して,より長期を包含することになる。本稿では,これら二つの意味を区別するため,前者を括 弧付きの「革命」,後者を括弧なしの革命と表記する。これらの区別については,エジプト革命を 論じた[長沢2012: 31-48]や拙稿[竹村2013c]を参照のこと。

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年憲法」(正式名称は,「エジプト・アラブ共和国憲法」Dustūr Jumhūriyya Miṣr al-‘Arabiyya。

以下,2012年憲法,もしくは本憲法と表記する)の逐条訳および解説を行う資料論文である。

ここではまず,なぜ2012年憲法を扱うのか,どのような接近法や資料を用いるのか,につい て明らかにしたい。

2012年憲法の前文は,以下の一文によりはじめられる。

これこそわれらの憲法,1月25日革命の文書である2)

ここで「文書」と訳出した言葉は,「信じる,信頼する」を意味する動詞wathiqaから派生し

た名詞wathīqaで,公的証拠となる「記録」,公の取り決めを記した「公文書」などを意味する。

このシンプルな一文によって,2012年憲法は「1月25日革命」とわかちがたく結びつけられ た3)

しかしながら,このような自己定義とは裏腹に,2012年憲法の制定に至る道のりは,「革命 から憲法へ」というほど単線的なものではなかった。同憲法は,2011年1月の「革命」から 約2年の月日が流れるなか,さまざまな政治アクターが衝突と合意とを重ねながら作り上げて きたものである4)。同様に,2012年12月の新憲法公布から半年の間に,「革命から憲法へ」と の道のりが決して一方通行ではないことも明らかになってきた。2012年6月に発足したムル スィー大統領の新政権は,出身母体であるムスリム同胞団を優先する政権運営を行ったことで,

軍をはじめとするとする他の国内諸勢力と衝突し,社会内に不満を醸成させてしまった5)。こ の国内不和は,ついに2013年6月の「革命/クーデター6)」に撞着することになる。これに伴い,

2) 2012年憲法の前文より[al-Idāra al-‘Āmma li-l-Shu’ūn al-Qānūniyya 2013: 1]。本稿における 2012年憲法条文の引用は,国立出版局から出版された『エジプト・アラブ共和国憲法』による。

2012年憲法原文は,国民投票前に最終案が公示された際,エジプト国内紙の紙面および電子版で 公表され,その後もさまざまな出版社から小冊子等の形で発行されている。2013年現在,イン ターネット上においては,最高憲法裁判所の公式ウェブサイトで全文が公開されている。(http://

hccourt.gov.eg/Constitutions/EgyptConstitution1.asp,最終確認日2013年9月11日)

3) こうした「1月25日革命」への関心にもとづき,私はこれまで,2012年憲法の試訳[竹村2012a]

を発表し,章や条項の特徴を論じてきた[竹村2012b; 2012c; 2012d; 2012e]。私が2012年憲法に 興味を抱くきっかけとなり,また,最初期の私の拙い試訳[竹村2012a]を,自ら編集人を務める ウェブマガジンである『Asahi中東マガジン』に掲載することを快く許可してくださった朝日新聞 社の川上泰徳記者(現・同社中東アフリカ総局長)には,この場をかりて心より感謝を申し上げた い。川上記者との編集作業からは,自分に足りないものを非常に多く痛感させられた。ただし,試 訳の文責はあくまで私にある。また,2013年1月までに作り終えた試訳と,その後約1年かけて 書き直しをした本稿の翻訳とでは,多くの点で違いがあることも予め述べておきたい。

4) そのなかでも最も重要なアクターは,軍,ムスリム同胞団,若者/革命諸勢力であった[cf. 長沢

2012; 鈴木2013b]。これらに加えて,「革命」後に政治の舞台に現れたサラフ主義者,新たな役割

を期待されるアズハルやコプト正教会,隠然たる影響力を発揮する司法界,そして政治活動を禁じ られた旧政権指導部である「解散された国民民主党幹部」fulūlなどの影響も指摘される。

5) すでに2013年2月の時点で,安定しない経済や治安への不安を背景に,ムスリム同胞団を中核と するムルスィー政権への反感がくすぶりはじめていた[竹村2013a; 2013b; 2013c]。

6) 2013年6月からの一連の出来事を「革命」thawraと呼ぶか,「クーデター」inqilābと呼ぶかは,

立場によって異なる。ムルスィー大統領の辞任を求めて,全国から2000万人を超える署名を集め たという「反乱運動」ḥamla al-tamarrudおよびこれを呼び水とした軍による大統領解任や同胞団 幹部の拘束を支持する者は,これを民意にもとづいた行動として,「6月30日革命」と呼ぶ。他方,

一方的に解任されたムルスィー大統領,自身の指導者を拘束されたムスリム同胞団およびこうした 軍の政治介入に反対する者は,これを「クーデター」と呼ぶ。これらの語の用法については,拙稿 を参照のこと[竹村2013d]。

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「革命」の産物であったはずの2012年憲法は,「同胞団の政府」ḥukūma al-ikhwānによる「同 胞団の憲法」dustūr al-ikhwānという烙印を押され7),修正すべき誤った憲法として,改正さ れることになった8)。2013年末現在,2012年憲法の大幅改正の最終案が提出され,2014年初 めには新憲法承認のための国民投票が予定されている。

このように―少なくとも現時点では―,2012年憲法の評価は上記のように定まりつつ ある。しかし,こうした評価は同憲法の内容検討を妨げるものではない。一つには,2012年 憲法は,たとえその内容が大幅に改められたとしても,それ自体が有する歴史的意義には変わ りがなく,その内容を検討する際には,最も重要な参照枠となるだろう。もう一つ,より重要 なことに,本稿は,2012年憲法をこのような政治的意義において評価するものではなく,こ れを「書かれたもの」として読むことを目的とするからである。

2012年憲法は,その起草段階から,政治学や憲法学の分野を中心に,学問的関心を集 めてきた。前者の代表としては,アメリカのジョージ・ワシントン大学中東研究所による POMEPS(The Project on Middle East Political Science)が挙げられるだろう9。後者は,

カイロ大学憲法学教授であるガーベル・ナッサール10)や著名な憲法学者ヌール・ファラハー トのような国内知識人の議論や著述に結実している。両者は,特に国内紙を舞台として,憲 法学的観点から精力的に2012年憲法の内容を議論してきた。これらの研究は,多くの場合,

2012年憲法における特定の条項に注目して,そうした条項が起草・修正された経緯を追い,

それを後押しした個人や勢力を明らかにし,彼らの政治的意図を解釈し,そうした条項の将来 の運用における社会的影響を論じるものとなっている。このような条項のなかで最も注目を集 めてきたのが,「シャリーアは立法の主要な源泉」と定める第2条,そしてこれから派生した

「シャリーアの定義」を示す第219条であった11

7) すでに2012年憲法の国民投票の頃から,これを「同胞団の憲法」と呼び拒絶する声が聞かれてい たが,その後半年間の政権運営における「失政」により,「同胞団の政府」はネガティブなイメー ジを得るようになっていった[竹村2013b]。「6月30日革命」の後には,街頭政治による抵抗を 続けるムスリム同胞団は,ついに「テロ組織」と呼ばれるに至った。

8) 2012年憲法の改正にあたっては,まず10名の有識者(裁判官や憲法学者)による「専門家委員会」

al-lajna al-khubarā’が結成され,改正案の草案が作られた後,社会内の諸集団を代表する50名か

らなる「50人委員会」al-lajna al-khamsīnによって草案が論議され,最終案が作成される二段階方 式がとられた。憲法改正の枠組みについては,拙稿を参照のこと[竹村2013e]。専門家委員会は 8月20日に草案をアドリー・マンスール暫定大統領に提出し,これをもとに,9月1日に結成さ れた「50人委員会」が審議を進め,12月3日にその最終案を大統領に提出した。マンスール暫定 大統領はすでに,2014年1月14,15日の二日間に,憲法改正案に関する国民投票を行うことを発 表している。

9) その研究成果の一つが『The Battle for Egypt’s Constitution』[POMEPS 2013]として,インター ネット上で頒布されている。同書の共同執筆者であり,POMEPSの牽引者の一人が,同大学政治 学部教授のネイサン・ブラウンである。ブラウンは,中東の立憲制度史研究で知られ,主著の『非 立憲世界における憲法』[Brown 2002]は,憲法学者のヌール・ファラハートにより『紙でできた 憲法?:アラブの憲法および政治権力』[Brāwun 2010]という題名でアラビア語にも翻訳されて いる。

10)ナッサールは,2012年憲法の起草段階では,外部から批判の声を上げる学者にすぎなかったが,

2013年9月にはカイロ大学学長に選出され,2013年10月には,2012年憲法改正のための「50人 委員会」の一人に選ばれ,一躍その名を知らしめた。

11)第2条の当該部分は,1971年憲法および1980年憲法改正で加えられ,現代エジプトにおけるイス ラーム規定を代表するものとして,広く議論を呼び起こしてきた[cf. 小杉1994; Lombardi 2006;

O’Kane 1972; Scovgaard-Peterson 1997; Maurits & Sonneveld 2010]。2012年憲法の起草におい ても論議を呼び,すでにいくつかの論考が発表されている[cf. Lombardi & Brown 2013; Parolin 2013; Amīn 2012]。

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こうした政治学的・憲法学的研究の意義は論を俟たないが,ここには一つ重要な視点が見過 ごされているように思われる。それは,2012年憲法が「書かれたもの」であるという点である。

2012年憲法は,内容と形式,成立方法の点において,近代エジプト史上,七番目に成立した 成文憲法に数えられ12),由緒正しい正則アラビア語によって記されている。冒頭の引用で示唆 したように,2012年憲法の直接の契機となったのは「1月25日革命」であるが,それを実際 に「文書」として書き記したのは,「書き手」(およびそれを支援する者)となった人々であっ た。2012年憲法の場合,「書き手」は憲法制定起草委員会であり,支援者はムルスィー大統領 らといえるだろう。憲法の政治学的研究は,こうした「書き手」の相関図を明らかにするもの であり,憲法学的研究は「憲法」というジャンルに固有の専門的見地からその内容を評価する ものである。

これらの研究に対し,本稿は異なる接近法をとる。それは,憲法のテクストそのものに注目し,

その文章表現を詳しく検討することで,憲法を「書かれたもの」として読み解こうとするもの である。憲法の「書き手」たちは,その各自がどのような思想や立場を抱いていたとしても,「憲 法」というジャンルのテクストに課される枠組みや制限のなかで,内容を定め,それを憲法に ふさわしい文章に仕立てあげなければならなかった。そこには,表現上の創意工夫があり,創 作に伴う「産みの苦しみ」があったはずである。憲法を「書かれたもの」と見なす視点とは,

文章に残された工夫を読み取り,それを適切に評価しようとすることを意味する。

このため,本稿では以下の三点に着目する。第一の点は,憲法文書が有する「歴史性」であ る。2012年憲法の起草委員会の内規に相当する「基本規定」al-niẓām al-asāsīによれば,起草 委員会の活動は,憲法の大分類である「編」に相当する内容ごとに,5つの「専門特別委員会」

al-lijān al-naw‘iyya al-mutakhaṣṣiṣaに委ねられていた。「専門特別委員会」の全活動規定の 第1条には,「1月25日革命およびその要求を守ること」,第2条には「過去の憲法文書,特 に1882年基本法,1923年憲法,1954年憲法案,1971年憲法,2011年3月30日付の憲法宣 言に依拠すること」と定められていた13)。つまりここでは,憲法が書かれる時代の精神を吹き 込むことと過去憲法との整合性の両方が求められていた。この点から,エジプトの過去憲法を 2012年憲法の読解における最も重要な参照枠とする。

第二の点は,憲法文書が有する「構造性」である。憲法,とりわけ「立憲的意味における憲 法」は,通常,「権利保障」と「権力分立」を不可欠の両輪とする14)。西洋近代により生み出 された立憲主義およびその体現たる憲法は,同じく西洋近代の産物である近代国家体制ととも に,いまや世界中に広まった。世界各国の憲法は,内容と構成の詳細において少しずつ異なり つつ,そのそれぞれのやり方において,立憲的特徴を定め,複数の編や章によって構成されて いる15)。エジプトの2012年憲法もその例外ではなく,編・章・節の三層構造によって構造化 12)何を「憲法」と見なすかについては,第Ⅱ章を参照のこと。ここでは,1923年憲法,1930年憲法,

1956年憲法,1958年憲法,1964年憲法,1971年憲法の六つを,成立した成文憲法として数えている。

13)2012年憲法起草委員会の専門特別委員会の活動規定は,全12条からなる。起草委員会の議事録お よび規定は,公式ウェブサイトで見ることができる。(http://dostour.eg/,最終確認2013年9月5日) 14)たとえば,憲法学者樋口陽一の定義を見よ[樋口2010:10-13]。芦部信喜は,近代憲法の特質を,「自

由の基礎法」,「国家権力の制限規範」および「最高法規」の三点から定義する[芦部2011: 9-11]。

後者の点は,法律の違憲判決の根拠となることから,現代的文脈において重視される[高橋2012:

25-26]。

15)日本語における世界憲法の紹介は,ヨーロッパ諸国や東アジアのものに偏りがちであるが,基本資 料として[宮沢1976]や[高橋2012]を参照のこと。中東諸国の憲法を原文から翻訳した貴重な 先例に,[財団法人日本国際問題研究所編2001]がある。

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されている。そうした構造は,第一の点で指摘した過去憲法の構造を受け継ぎつつ改変を加え たものでもある。このような点から2012年憲法条項の読解においては,ある条項が憲法のな かで与えられた位置性に注意する。

第三の点は,憲法文書における「可変性」である。ある憲法が論じられる際には,その憲法 で新たに加えられた「新規条項」に注目が集まることが多い。2012年憲法の論議においても,

前述の「シャリーアの定義」に関わる第219条やイスラーム研究教育機関であるアズハルを 定義する第4条,預言者への誹謗中傷を禁じる第44条などの新規条項が話題になり,それら をもって「イスラーム的憲法」と論評されることもある。しかし実際には,新憲法のすべてが 新規条項から構成されることはない。むしろその大半は,過去憲法の条項を部分的に改変・流 用し,出自の異なるさまざまな要素を組み合わせ,ブリコラージュしたものだといえる。この 点で注目すべきは,2012年憲法が乗り越えるべき対象とされた旧体制の憲法たる1971年憲法 との違いである。本稿では,1971年憲法との比較に重点を置きつつ,2012年憲法の表現や語彙,

文章構造の細かな変化を指摘する。

このように,本稿は歴史性,構造性および可変性の3点を視角として,2012年憲法を

「書かれたもの」として読み解こうとするものである。

2. 本稿の構成

本稿は全体を二部に分ける。第一部「全体解説」は,以下の三章から構成される。

まず,第Ⅱ章「エジプト過去憲法の系譜」では,過去二世紀にわたる近現代エジプト史上 に成立した憲法的文書の制定経緯とその内容,憲法に準ずる数々の声明や憲法宣言を概観す る。これは,「文書としての歴史性」に関わる第一の問題意識にもとづき,2012年憲法の比較 分析に必要な憲法文化を掘り起こす作業となる。この第Ⅱ章および本稿全体において過去憲 法を引用する際には,書籍出版公社による『エジプト憲法集:条文と文書:1866-2011』[al-

Shilq 2012],文化省傘下の文化宮殿機構による『エジプト憲法集』[al-Hay’a al-‘Āmma li-

Quṣūr al-Thaqāfa 2012],国立図書文書館による『20世紀のエジプト:政治文書選集(全2

巻)』[Ḥāmid & ‘Arab 2002a; 2002b],個人によるエジプト憲法史研究『エジプト憲法歴史道程』

[Zakī 2012]などに記載・転載された条文を参照した。

第Ⅲ章「2012年憲法の構造」では,2012年憲法の目次を示し,これに含まれる条項内容の 概略を明らかにする。その際,「憲法文書が有する構造性」に関わる第二の問題意識にもとづ き,編・章・節からなる憲法の構成に着目し,2012年憲法の構造的特性を明らかにする。こ の第Ⅲ章および本稿全体において,2012年憲法の条文を引用する際には,法律書公刊を担う エジプト国立出版局による『エジプト・アラブ共和国憲法(初版)』を参照した[al-Idāra al-

‘Āmma li-l-Shu’ūn al-Qānūniyya 2013]16)

第Ⅳ章「2012年憲法の条文内容の三分類」では,2012年憲法の条文と過去憲法との比較の 方法を提示する。「憲法表現における可変性」に関わる第三の問題意識を背景に,憲法条文の 16)なお,エジプトの刊行物によく見られることだが,2012年憲法および過去憲法の原文では,アラ ビア語の文字「ヤーウ」يの下点が省略され,別の文字「アリフ・マクスーラ」ىと区別されない。

これは,非アラビア語話者にはわかりにくいため,文意からヤーウと見なされるものは適宜そのよ うに表記した。本稿全体で用いられるアラビア語単語のローマ字転写は,原則的に,『岩波イスラー ム辞典』の転写法[大塚和夫ほか編2002: 10-12]にしたがっている。ただし,īyaをiyyaとするなど,

いくつかの例外を設けている。また,ローマ字転写は基本的に小文字で記されるが,法律や公式文 書として発布されたものは,名詞・形容詞・動詞の語頭を大文字にした。

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表現の変化を把握するための目印として,2012年憲法の条文を1971年憲法と比べて,(1)同 一もしくはわずかな表現の修正にとどまるものを「維持」,(2)重要な変化が加えられた,も しくは/および大幅な追加表現があるものを「変化」とし,(3)先例のない条項,もしくは既 存の条項に同じ主題が見られるが内容がまったく異なるものを「新規」とする三範疇に分類し た。また,本稿第二部「資料本文」の各条項には,この比較考察にもとづく解説を付し,関係 する過去憲法条項を記載した。なお,1971年憲法の理解においては,近代エジプト議会史を 専門とする池田美佐子による1971年憲法の邦訳[池田2001]を特に参照した。

この第一部「全体解説」の巻末には,付録として,2012年憲法の各条の編・章・節番号,

見出し,「維持・変化・新規」の三分類,関連する過去憲法条項の条番号を記した一覧表を付 した。見出しは,憲法原文には付けられていないが,索引の用のために私の独断により付した ものである。

第二部「資料本文」では,はじめに「凡例」を記す。続いて,2012年憲法の前文の日本語 訳とアラビア語原文を示し,一条ごとの日本語訳・アラビア語原文・解説・関係する過去憲法 条項のアラビア語原文を記す。2012年憲法は全236条と条数が多いため,前文から第2編末 の第81条までを本号に,第3編以降は次号に分けて掲載するものとする。

Ⅱ.エジプト過去憲法の系譜

第Ⅱ章では,まず,2012年憲法の読解において最も重要な比較対象となるエジプトの過去 憲法の系譜を提示する。通常,「憲法」dustūr17)とは,形式的な意味における「成文憲法」の ことであるが,ここでは,憲法に近い性格を有する「憲章」mīthāqや制定に至らなかった

「憲法案」mashrū‘ al-dustūr,国権が停止された特殊状況下において軍隊が発表する「声明」

bayānや超法規的立法措置としての「憲法宣言」i‘lān dustūrīなど,さまざまな憲法的文書を

考察対象に含めている。

1. エジプト憲法前史

19世紀初頭から近代国家体制が広がりはじめた中東地域において,エジプトは,トルコや イランと並び,最初期に近代化を進め,近代憲法を採用した国として知られている。ただし,

エジプトにおける憲法の起源については,専門家の間においても若干の意見の相違が見られる。

19世紀前半にオスマン帝国のエジプト州総督に就任したムハンマド・アリーは,独自の富 国強兵策を導入し,帝国からの事実上の独立を勝ち取った人物であり,近代エジプトの「国 父」と見なされる。このムハンマド・アリーによって1837年に発布された「統治の書」al- Siyāsatnāmaは,最初の「憲法的文書」wathīqa dustūriyyaと表現されるが[Zakī 2012: 18],

その具体的な内容はほとんど知られていない。

エジプトにおける憲法の萌芽の一つとされるのが,1866年の「代議制諮問評議会」majlis 17)アラビア語の単語dustūrは,もとはペルシア語で「権力を行使する者」すなわち「執政官」や「(ゾ

ロアスター教徒の)僧侶」を意味していたが,近代になるとフランス語のdroit constitutionnelの 訳語としてアラビア語の語彙に加えられた[Lewis et al. 1991: 638]。19世紀初頭にフランスに留 学したリファーア・タフターウィー(Rifā‘ā al-Ṭahṭāwī)は,留学の際に触れたフランス1830年 憲法について,『純金の精錬』Takhlīṣ al-Ibrīzという題名でアラビア語の抄訳を出版した際,フラ ンス語のLa Chartéをアラビア語で表記したal-sharṭaを用いた[al-Shilq 2012: z]。「憲章」を意 味するこの語は,現在ではmīthāqというアラビア語起源の言葉に代わっている。

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shūrā al-nuwwābの設立法である。ムハンマド・アリーの孫にあたるヘディーヴ18)・イスマー イールは,スエズ運河を開通させ,カイロに西洋式の新市街を整備した近代化推進者として知 られるが,1866年に勅令を下し,「代議制諮問評議会」を設立した19)。エジプト書籍出版公社 が出版する『エジプト憲法集』[al-Shilq 2012]では,この評議会設立法が最古の憲法的立法 として収録されている。ただし,この議会法の意義は研究者の間でも意見が分かれており,「中 東で最初の憲法的立法だった」[al-Mitwallī 2002: 1]と高く評価する者がいる一方で,「その 意義は当時から疑問視されていた」[al-Shilq 2012: z],または「現在知られている意味におけ る憲法ではなかった」[Zakī 2012: 23]と見なす者も少なくない。

こうしたなか,しばしばエジプト憲法の先駆と見なされるのが,1882年制定の「基本法」

al-Lā’iḥa al-Asāsiyyaである20)。この1882年基本法は,1881年の「ウラービー革命21)」後に 草案が準備され22),当時の君主であるヘディーヴ・タウフィークによって調印された。全53 条から構成され,議会の役割を期待された「代議評議会」majlis al-nuwwābの権限や構成が 定められた。1866年の代議制諮問評議会法に続き,君主の権限を狭め,権力の監視と分立を 目指したものであった。

この「ウラービー革命」は,同年,スエズ運河に利権を有するイギリス軍がエジプトを占領 したことで幕を閉じることになる。占領後,1882年基本法は停止され,その代わりに,翌1883 年にイギリスの意向を受けた新政府により「組織法」al-Lā’iḥa al-Niẓāmiyyaが発布された。

2. 1923年憲法と1930年憲法

これら19世紀後半の諸法律に対し,エジプトにおける最初の近代憲法として,広く憲法学 者の間で認められているのが「1923年憲法」である[cf. Fikrī 2007: 10]。これは,エジプト 近代史上初の全国的な民族主義運動として知られる「1919年革命」thawra 1919の後に成立し たもので,「国王の命令」al-amr al-malakī,すなわち勅令によって公布された23)。ここでいう

「国王」malikとは,1922年2月28日に成立した「王国」al-malakiyyaの君主を指す。これは,

18)「ヘディーヴ」khidīwとは,オスマン帝国の属州であるエジプトの「総督」wālīであったムハン マド・アリー一族が,同地の世襲統治権を得たことを意味する称号で,通常「副王」と訳される。

1867年にイスマーイールが正式にこの称号を得た。爾来,1914年のイギリスによる保護国化に至 るまで用いられた。

19)全18条からなるその設立法は,正式名称を「ヒジュラ暦1283年第二ジュマーダ月12日(西 暦1866年10月22日)にヘディーヴ〔・イスマーイール〕からイスマーイール・バーシャー・

ラーギブ閣下に下された代議制諮問評議会の設立および議長任命の高貴な勅令」al-Amr al-Karīm al-Ṣādir min al-Jānib al-Khidīwī fī 12 Jumādā al-Thāniyya Sana 1283 h (22 Uktūbir Sana 1866 m) ilā Sa‘āda Ismā‘īl Bāshā Rāghib ‘an Ta’sīs Majlis Shūrā al-Nuwwāb wa-Ta‘yīn-hi Ra’īsan la-hu という[al-Shilq 2012: 3]。イスマーイール・ラーギブは当時の外務大臣に相当し,同評議会の設 立から1868年末まで議長を務めた[ibid.: 3, ff2]。この勅令には,同日に発布された全61条の「代 議制諮問評議会の範囲と組織規則」Ḥudūd wa-Niẓāmnāma Majlis Shūrā al-Nuwwābが付属して いた[al-Shilq 2012: 4]。

20)この1882年基本法は,通俗的に「1882年憲法」とも呼ばれるもので,前述の2012年憲法起草委 員会内規の第2条に挙げられた,参照すべき過去憲法のリストのなかにも含まれていた。

21)狭義の「革命」の一つで,近代エジプトの民族主義運動のメルクマールとして,「ウラービー革命」

thawra al-‘urābiyyaと呼ばれる。かつては,「オラービーの乱」などと呼ばれていた。

22)この1882年基本法の原案となったものとして,1879年にシャリーフ内閣によって準備された「国 民法」al-Lā’iḥa al-Waṭaniyyaが知られている[Zākī 2012: 27]。

23)その正式名称を,「1923年4月19日付,エジプト国家の憲法体制を制定する1923年42号勅令」

al-Amr al-Malakī Raqm 42 li-Sana 1923 bi-Waḍ‘ Niẓām Dustūrī li-l-Dawla al-Miṣriyya al-Ṣādir fī 19 Ibrīl Sana 1923といい,官報には同年4月20日に掲載された[al-Shilq 2012: 101]。

(9)

前述のムハンマド・アリー朝が1882年のイギリス軍占領および1914年の第一次世界大戦勃 発による同国保護国化を経て,戦後に独立を許されたものであった。ムハンマド・アリー朝の 後継者を戴く立憲君主制をとることから,1923年憲法は「欽定憲法」の一つといえる。実際 その前文は,「われらエジプト国王は」naḥnu malik miṣrと呼びかける。

全170条からなるその内容は,前述の議会法と異なり,西洋の近代憲法,とりわけ立憲君主 制をとる1831年ベルギー憲法の形式を採り入れ[cf. 松本弘2004],「権利章典」と「権力分立」

の両輪を含むものとなっている(その目次は図1を参照)。第2編「エジプト人の権利および 義務」に含まれる21の条項が,「権利章典」に相当するといえる。ここには,法の下の平等,

住居の不可侵,所有権の不可侵,財産没収刑の禁止,通信の秘密,信教の自由,思想の自由,

教育の自由と義務,集会権,結社権など,古典的な自由権が含まれていた。

この1923年憲法においては,元来イスラームの信徒共同体を指すummaの語は,領域国家 的なナショナルな共同体である「エジプトの共同体」,すなわちエジプトに固有な「国民/民族」

として読み替えられていた[白井1985]。これにもとづき,第3編「諸権力」の冒頭23条は「す べての主権の源は国民にある」jamī‘ al-sulṭāt maṣdar-hā al-ummaと規定した。これは,国民 主権の原理を明示し,絶対君主制から立憲君主制への移行を体現するものであったといえるだ ろう。

この1923年憲法の実質的な権限の多くは,君主たる国王に与えられていた。立法権は,国 王および二院制の「議会」al-barlamānに属すものとされ,税制に関わる立法は国王と議会下 院のみに限られていた。法律の成立には,議会の決議と国王の承認の両方を必要とし,国王に よる公布を通じて有効となった。行政権は,国王に属し,国王の下位に大臣が置かれていた。

議 会 は, 上 院 で あ る「元 老 院」majlis al-shuyūkhと, 下 院 で あ る「代 議 院」majlis al-

nuwwābの二院から構成される。元老院は,議員の4割が国王任命で,残りの6割が選挙によっ

て選ばれ,その立候補要件には財産規定や政府の要職経験者であることが含まれていた。他方,

代議院は,完全に民選の議会で,住民6万人につき一人の代議士選出などの規定が定められて いた。上院議長は国王による任命,下院議長は議員による互選であった。

第3編第4章では「司法権」が,第5章では当時の地方議会に相当する「県議会および市議会」

が定められた。第4編「財政」と第5編「軍隊」は,それぞれ条数は10を超えない程度である が,一つの「編」を構成していた。また,第6編「一般規定」と第7編「結びの規定および暫 定規定」もそれぞれ10条程度から構成された。結果的に,編の数が7つと多い。

この近代エジプト史上初の立憲体制は,国王の強い権限を中心としつつ,議会にも相当の 権限を認めていた。この憲法は,王権の抵抗により改正が企てられ,結果的に「1930年憲法」

前文 第1編「エジプト国家およびその統治体制」(1)

第2編「エジプト人の権利および義務」(2-22) 第3編「諸権力」

 第1章「一般規定」(23-31)

 第2章「国王および大臣」

  第1節「国王」(32-56)   第2節「大臣」(56-72/56-73)  第3章「議会」(73/74)

  第1節「元老院」(74-81/75-79)   第2節「代議院」(82-89/80-84)

  第3節「両院の一般規則」(90-119/85-118)   第4節 「合同機構における議会会議の諸規定」

(120-123/109-112)  第4章「司法権」(124-131/113-120)

 第5章「県議会および市議会」(132-133/121-122) 第4編「財政関連」(134-145/123-134)

第5編「軍隊」(146-148/135-137) 第6編「一般規定」(149-159/138-148)

第7編 「結びの規定および暫定規定」

(160-170/149-156)

1.エジプト1923年憲法の目次(括弧内は条数,スラッシュ後の数字は1930年憲法の条数)

(10)

が成立した。これは,「権利章典」にはほとんど手をつけず,議会に対する王権の優位を定め るために内容を改めたものである。1930年の勅令により公布された欽定憲法で24),前文は「わ れらエジプト国王フアードⅠ世は」naḥnu Fu’ād al-awwal malik miṣrと呼びかける。

1930年憲法においては,全体の構成には手が加えられず,内容的にも第2編まで変わらない。

国王と議会の権限を定める第3編には,所々に変更が加えられた(前掲図1を参照)。たとえば,

1923年憲法28条では「税制の立法権は国王と代議院に」とされていたが,1930年憲法28条 では「財政の法律提案権は国王のみにかぎる」と変えられた。その他,国王による議会の解散 権限などの新規条項を加えることにより,議会権限の制限と国王権限の強化が企てられた。

こうした国王による権力濫用に対し,国内の政治諸勢力は激しく反発し,結果的に,1930年 憲法の施行からわずか4年後の1934年10月には,1930年憲法の「施行の無効化」ibṭāl al-‘amal を定める勅令が25),翌1935年12月には1923年憲法に戻す勅令がそれぞれ発布された26)。こ れ以降,1923年憲法は長らくエジプトの憲法の座にあり続けた。

3. 1952〜3年の声明と憲法宣言

このような1923年憲法にもとづく憲法状況は,1952年7月23日を境に大きく変化していっ た。この日は,かのナセルJamāl ‘Abd al-Nāṣirが,若手将校の秘密組織「自由将校団」を率いて,

後に「1952年革命」として語られるようになるクーデターを実行した日である27)。このクー デターが「革命」になるまでに発せられた一連の「声明」や「勅令」,「憲法宣言」は,今回の 革命と憲法の関係を考察するうえでも重要な資料になるため,ここでその流れを示しておきた い28)

最初に出されたのは,クーデターを実行した軍将校らによる声明であった。この声明では,

パレスチナ戦争の敗退の原因が国の指導部に蔓延する「政治腐敗」al-fasādにあったと述べら れ,その「浄化」taṭhīrのために軍の一団が行動を起こしたことが伝えられた29)。続いて,7 月26日の正午12時を期限とした王位の禅譲および同日午後6時を期限とした出国を要求す る「警告」indhārの文書が発せられた30)。この警告にしたがい,ファールーク国王は,息子へ 24)その正式名称を,「1930年10月22日付,エジプト国家の憲法体制を制定する1930年第70号勅令」

al-Amr al-Malakī Raqm 70 li-Sana 1930 bi-Waḍ‘ Niẓām Dustūrī li-l-Dawla al-Miṣriyya al-Ṣādir fī 22 Uktūbir Sana 1930といい,官報には同年10月23日に掲載された[al-Shilq 2012: 179]。

25)その正式名称を,「1934年11月30日付,1930年70号勅令による憲法体制の無効化を定める,エ ジプト国家の憲法体制に係る1934年67号勅令」al-Amr al-Malakī Raqm 67 al-Ṣādir fī 30 Nūfimbir Sana 1934 bi-Sha’n al-Niẓām al-Dustūrī li-l-Dawla al-Miṣriyya bi-Ibṭāl al-‘Amal bi-l-Niẓām al-Muqarrar bi-l-Amr al-Malakī Raqm 70 li-Sana 1930という[al-Shilq 2012: 211]。

26)その正式名称を,「1935年12月12日付,エジプト国家の憲法体制に係る1935年118号勅令」al-Amr al-Malakī Raqm 118 al-Ṣādir fī 12 Dīsimbir Sana 1935 bi-Sha’n al-Niẓām al-Dustūrī li-l-Dawla al- Miṣriyyaといい,官報には同年12月13日に掲載された[al-Shilq 2012: 213]。

27)その背景には,国王・議会・イギリスのいびつな三角関係による政治の混迷,不完全な独立,第 一次中東戦争におけるエジプト軍の痛烈な敗退があったといわれる。この戦争は,エジプト国内 では「パレスチナ戦争」ḥarb filasṭīnとして知られ,前線で戦っていたナセルら若手将校の間に,

「欠陥のあった兵器」al-asliḥa al-fāsidaをもたらす政治腐敗への怒りを引き起こした[cf. ナセル 1956:10-13]。

28)2011年革命と1952年革命を比較する視点は,近現代エジプトの社会経済史を専門とする長沢栄治 のエジプト革命研究[長沢2012]に多くを負っている。

29)その正式名称を,「1952年7月23日付,革命司令評議会からエジプト人民への声明」Bayān Majlis Qiyāda al-Thawra Yawm 23/7/1952 ilā al-Sha‘b al-Miṣrīという[al-Shilq 2012: 221]。

30)その正式名称を,「革命からファールーク国王に向けた譲位の警告」al-Indhār al-Muwajjah min al-Thawra ilā al-Malik Fārūq bi-l-Tanāzul ‘an al-‘Arshという[ibid.: 222]。

(11)

の王位禅譲を命じる勅令を発布し31),自らの帆船に乗って地中海の彼方へと去っていった。

この7月26日の王位禅譲は,同日付の三つの関連する声明および文書を伴っていた。一つは,

幼いアフマド・フアード王子の国王就任を定めた文書で,これには,内務・外務・軍事大臣を 兼任していたアリー・マーヘル首相ら主要閣僚による署名が付されていた32)。もう一つは,同 じくマーヘル首相から国民に向けて発表された声明で,ファールーク国王から王子への王位継 承を発表するものであった33)。最後の一つは,内閣が幼王に代わり国事を務めることを定めた 文書であり,同じくマーヘル首相ら主要閣僚による署名が付されていた34)。これらの文書は国 王の退位を実現させたが,君主制という体制を残し,国事の運営は既存の政治家に委ねられる ことになった。

この状況を変える一歩が踏み出されたのは,軍隊総司令官の名により1952年12月10日に 憲法宣言が発表されたときであった35)。軍はこの憲法宣言のなかで,「革命の目的が国王の退 位のみでなく」,既存の憲法にかわる新憲法の制定,すなわち「国民を諸権力の真の源とする 新たな憲法」の制定にあったことを明言し,その達成に近づくための第一歩として1923年憲 法の「失効」suqūṭを宣言した。

この憲法宣言の一ヶ月後,新たな憲法宣言が同じく軍隊総司令官の名により発表された36)。 そのおもな目的は,外国支配からの脱却を目指した1919年革命を頓挫させた政党政治を批判 し,これを正すため政党を解散させること,および「健全で立憲的な民主的統治を樹立するま で」,三年の移行期間を設けることにあった。さらにこの移行期間について,一ヵ月後に出さ れた新たな憲法宣言のなかで「11条の統治原則」を定めた37)。ここでは,立法権を内閣に認め,

行政権を内閣および大臣に認める一方で,革命司令評議会がこれら諸権力の上に立ち,革命体 制の保護とその目的達成のため必要な措置をとり,大臣の任免を行うことが宣言された。

この四ヶ月後,革命はさらに新たな段階へと歩を進めた。1953年6月18日に発表された新 たな憲法宣言において,ついに王制の廃止と共和制の樹立が定められたのである38)。この憲法 31)その正式名称を,「アフマド・フアード王子への禅譲に係る1952年第65号勅令」Amr Malakī

Raqm 65 li-Sana 1952 bi-Tanāzul al-Malik Fārūq ‘an al-‘Arsh li-l-Amīr Aḥmad Fu’ādという[ibid.:

223]。

32)その正式名称を,「アフマド・フアードⅡ世のエジプトおよびスーダン国王就任」Tatwīj Aḥmad Fu’ād al-Thānī Malikan li-Miṣr wa-l-Sūdānという[ibid.: 224]。

33)その正式名称を,「ファールーク国王の王位禅譲について内閣総理大臣からエジプト国民に向けた 声明」Bayān Ra’īs Majlis al-Wuzarā’ ilā al-Umma al-Miṣriyya ‘aqiba Tanāzul al-Malik Fārūq ‘an al-‘Arshという[ibid.: 225]。

34)その正式名称を,「エジプト国民の名による内閣の憲法的国王権限の統括」Tawallī Majlis al-Wuzarā’

Sulṭāt al-Malik al-Dustūriyya bi-Ism al-Umma al-Miṣriyyaという[ibid.: 226]。

35)その正式名称を,「(1923年憲法の失効に係る)軍の運動組織を率いる軍隊総司令官による憲法 宣言」I‘lān Dustūrī min al-Qā’id al-‘Āmm li-l-Quwwāt al-Musallaḥa bi-Ṣifat-hi Ra’īs Ḥaraka al-Jaysh (bi-Sha’n I‘lān Suqūṭ Dustūr 1923)といい,官報には1952年12月10日に掲載された

[ibid.: 227]。

36)その正式名称を,「軍隊総司令官兼軍の運動指導者からエジプト人民に向けた,政党の解散お よび3年の移行期間の設定に係る憲法宣言」I’lān Dustūrī min al-Qā’id al-‘Āmm li-l-Quwwāt al-Musallaḥa bi-Sifat-hi Ra’īs Ḥaraka al-Jaysh ilā al-Sha‘b al-Miṣrī bi-Sha’n Ḥall al-Aḥzāb al-Siyāsiyya wa-Taqrīr Fatra Intiqāl Muddat-hā Thalātha Sanawātといい,官報には1953年1月 17日に掲載された[ibid.: 229]。

37)その正式名称を,「軍隊総司令官兼軍の革命指導者による移行期間における統治体制に係る憲法宣 言」I‘lān Dustūrī min al-Qā’id al-‘Āmm li-l-Quwwāt al-Musallaḥa wa-Qā’id Thawra al-Jaysh bi- Sha’n I‘lān Niẓām al-Ḥukm athnā’a Fatra al-Intiqālといい,官報には1953年2月10日に掲載さ れた[ibid.: 231]。

(12)

宣言では,1952年革命の大義とムハンマド・アリー朝の失政が指摘され,以下の三ヵ条の決 定が述べられた。第一に,王制は廃止されること。第二に,共和制が樹立され,初代大統領に 革命司令評議会議長のムハンマド・ナギーブ元帥が任命されたこと。そして第三に,残る移行 期間においては前述の統治体制が適用されるが,最終的には人民によって新憲法が制定され,

新たな大統領が選出されること,というものであった。こうして,1952年にはじまった政治 変動はついに「革命」と呼ばれるものとなり,それに見合う新たな憲法を制定する道へと歩み はじめた。

4. 1954年憲法案

さて,1956年1月16日,ナギーブ元帥率いる革命政権は,1952年革命後初の正式な憲法 として「1956年憲法」を制定した39)。一方,これに先立ち,別の内容・構成による「1954年 憲法案」Mashrū‘ Dustūr Sana 1954と呼ばれるものが,1954年夏に作成されていた。

この憲法案は,1953年に結成された50人の著名な政治家や知識人からなる「憲法制定起草 委員会」によって作り出された草案である。アリー・マーヘル首相を委員長とする正式な憲法 起草委員会であったが,革命司令評議会はこの草案の自由主義的内容を疎んじ,これを廃棄し,

委員会も解散させてしまった。そして大統領府直轄の新たな起草委員会を設立し,革命司令評 議会の指導による新たな憲法案を作り上げた。そうして国民投票にかけられ,9割を超える賛 成多数により成立したのが,現在「1956年憲法」と呼ばれるものである。1954年憲法案の内 容は長らく不明とされていたが,2001年に作家サラーハ・イーサーが原文を発見し,著書『ゴ ミ箱に捨てられた憲法』[‘Īsā 2001]で公開したことにより,広く世に知られることとなった。

こうした経緯から,1954年憲法案には前文がなく,憲法末尾に記される施行日も空欄のま ま残されている。全体構成(図2を参照)を見ると,1954年憲法案は,1923年憲法を相当程 度踏襲したものといえる。1923年憲法との構成上の違いは,地方行政に関わる部分が新たに 編にされ,第4編「地方統治機構」となったこと,第7編「憲法最高裁判所40)」が新設された こと,第9編「一般規定」が一つに統合され,第8編「憲法改正」が新たに編として独立した ことが挙げられる。

構成上最も大きく変化したのは,第3編「諸権力」である。1923年憲法の第3編「諸権力」

では,「一般規定」と「国王および大臣」が先に置かれていたのが,1954年憲法案では,「議会」

が先に置かれ,それに続いて「大統領」ra’īs al-jumhūriyyaが導入された。このとき,従来「国 王」の章に置かれていた「大臣」の節は,「大統領」の章に続く独立した章となった。議会に ついては,1923年憲法体制と同じく,「代議院」と「元老院」から構成される二院制をとって いた。ただし,1923年憲法では「元老院」が優先されていたのに対し,1954年憲法案では「代 議院」が先に置かれるなどの変化も見られる。ここには,議会下院を中心とした政治体制の構 想が見出されるだろう。

38)その正式名称を,「革命司令評議会による王制の廃止と共和制の宣言に係る憲法宣言」I‘lān Dustūrī min Majlis Qiyāda al-Thawra bi-Sha’n Ilghā’ al-Niẓām al-Malakī wa-I‘lān al-Jumhūriyyaといい,

官報には1953年6月18日に掲載された[ibid.: 233]。

39)その正式名称を「1956年1月16日付,エジプト共和国憲法」Dustūr al-Jumhūriyya al-Miṣriyya al-Ṣādir fī 16 Yanāyir 1956といい,官報には1956年1月16日に掲載された[ibid.: 277]。なお,

この1月16日は,前述の1953年1月の憲法宣言により定められた「三年の移行期間」の最終日 にあたる。

40)後に1971年憲法に記載され,現在の同名の機関となった「最高憲法裁判所」al-maḥkama al-dustūriyya al-‘ulyāとやや異なり,「憲法最高裁判所」al-maḥkama al-‘ulyā al-dustūriyyaと呼ばれていた。

(13)

第2章「大統領」は,1923年憲法の「国王」を代替するものである。国王が有していた下 院解散権,首相・内閣任命権,公務員任免権,宣戦布告権,条約締結権などの権限の多くが大 統領に引き継がれた。他方,世襲制から民選に変わったことにより,大統領の立候補要件や選 出方法,任期満了に伴う選挙,不在時の上院議長による代理,非常時の法令制定権などの規定 が新たに加えられた。

もう一つ,1923年憲法から条数を大きく変えたのが,第2編「権利および義務」である。

ここに収められた条数は,1923年憲法の計21条に対し,1954年憲法案では計48条と倍増した。

新たに加えられた権利は,大きく二つに分類される。一つは,国による安全の保障,裁判を受 ける権利,弁護権,裁判や訴訟における個人の権利など,個人の適法な扱いを求める権利である。

もう一つは,相続権,民間資本の保障,国民経済体制の規定,生活保護,国有化に対する補償,

労働権,労使関係の調整,退職者の保護,女性と若者の雇用促進,職業別組合の権利,税制と 社会的公正,貯蓄の推進,家族・母子の保護など,国が社会に対して保障する「社会権」や国 を主体とした「経済体制」に関わる権利である。これら大幅な権利の増加や議会を中心とした 政治体制の構想が,同憲法案が「ゴミ箱に捨てられた」理由の一つなのかもしれない。

5. 1956年憲法

1952年革命後初の正式な憲法となった1956年憲法は,国民投票で承認されたものとして,

最初の「民定憲法」であったといえる。実際に1956年憲法に付された前文では,「われらエ ジプト人民は」naḥnu al-sha‘b al-miṣrīと呼びかけられ,1923年憲法および1930年憲法にお ける「われらエジプト国王は」naḥnu malik miṣrと比べて,君主制から共和制への移行が明 示されている。

全体構成の点では,1954年憲法案や1923年憲法と異なり,全5編の構成に整理された。第 4編「諸権力」に多くの規定が集められた一方で,かつて独立した編であった「軍隊」や「地 方行政」は章や節に格下げされ,「財政」や「憲法最高裁判所」,「憲法改正」なども編ではな くなった。また,かつての憲法で第2編「権利および義務」となっていた部分は,第2編「エ ジプト社会の基本的構成要素」と第3編「権利および義務」に二分された。この「構成要素」

muqawwimātという語は1956年憲法で初めて用いられ,その後の憲法に受け継がれていった。

内容面において1956年憲法を特徴づけるのは,第1編「エジプト国家」に含まれる3つ の条項である。第1条は国の政体やその特徴を述べるものであるが,1923年憲法1条「政 府は世襲王制で代議制の形態をとる」ḥukūmat-hā malakiyya wirāthiyya wa-shakl-hā niyābī

(前文なし)

第1編「エジプト国家およびその統治体制」(1) 第2編「権利および義務」(2-49)

第3編「諸権力」(50-51)

 第1章「議会」(51)   「代議院」(52-56)   「元老院」(57-60)   「両院の一般規則」(61-88)

 第2章「大統領」(89-111)  第3章「大臣」(112-121)  第4章「司法権」(122-131)   「国家評議会」(132-135)

第4編「地方統治機構」(136-149) 第5編「財政問題」(151-166)

 「会計院」(167-173)

 「経済評議会」(174)  「労働最高評議会」(175)

「自然資源および公的施設に係る諸評議会」

(176-178)

第6編「軍隊」(179-186)

第7編「憲法最高裁判所」(187-193) 第8編「憲法改正」(194)

第9編「一般規定」(195-203)

2.1954年憲法案の構成

(14)

や1954年憲法案1条「政府は共和制の議会代議制である」ḥukūmat-hā jumhūriyya niyābiyya barlamāniyyaと比べ,1956年憲法1条は「それは民主的な共和国である」wa-hiya jumhūriyya

dīmuqrāṭiyyaと簡潔に規定するだけであった。「代議制」という用語が抽象的な「民主制」に

代えられたことが,議会政治体制の骨抜きを暗示しているようにも見える。

1956年憲法1条には,後の憲法に受け継がれていく,「エジプト人民はアラブの共同体の一 部である」とする一文が加えられている。「エジプト人民」al-sha‘b al-miṣrīは,1956年憲法 の前文において新たに国の主体となった者たちであるが,その彼らが「アラブの共同体」al-

umma al-‘arabiyyaの一部であることが明言された41)。2012年憲法では,ここに「イスラーム

の共同体」al-umma al-islāmiyyaが加えられることになるが,いずれにせよ,1956年憲法こ そが,エジプト人民の「アラブ性」定義の出発点なのである。

1923年憲法と1954年憲法においては,第1編は第1条のみで構成されていたが,1956年憲 法ではここに二条が加えられた。その第2条では,「国民主権/主権在民」al-siyāda li-l-umma の原則が述べられる。この原則は,1923年憲法や1954年憲法案に存在しなかったものではな い。前者では第3編「諸権力」の冒頭第23条に「すべての権力の源は国民にある」jamī‘ al-

sulṭāt maṣdar-hā al-ummaとされ,後者でも同じく第3編「諸権力」の冒頭第50条に「主

権は国民にあり,それはすべての権力の源である」al-siyāda li-l-umma, wa-hiya maṣdar al-

sulṭāt jamī‘anと規定されていた。1956年憲法では,この「国民主権」の条項の場所が,従来

の第3編「諸権力」冒頭から第1編「エジプト国家」へと移された。王権制御のための原則を 共和制における国家統一の原則に流用したともいえるだろう。

1956年憲法でもう一つ第1編に加えられたのが,「イスラームは国教とし,アラビア語は公 用語とする」という国教・公用語規定である42)。この条項も,それ以前の憲法に存在しなかっ たものではなく,1923年憲法の第9編「一般規定」の冒頭第149条,および1954年憲法案の 第10編「一般規定」の冒頭第195条に,まったく同じ文言で収録されていた。そこでは,「首 都はカイロとする」「法律は官報に掲載する」といった一般的な原則と並置されていたため,

一般的な意味において,国教や公用語を定める条項であったと考えられる。しかし,1956年 憲法において第1編に移動されるや,この規定は「国民主権」に比肩する,国家統治の重要原 41)前述の通り,al-ummaの語は,元々はイスラーム教の信徒共同体を指す概念であったが,近代に おいては「ネーション」nationと置換されうる「想像の共同体」を表す語として用いられる。本稿 では,多くの場合,ウンマを「国民」や「共同体」と適宜意訳して訳出している。この点で,2012 年憲法で導入された「イスラームの共同体」は,アラブが有する地域性の枠を超え,本来の意味に 近い属人的な共同体を示している。

42)このときには,後に「憲法2条問題」として知られる「シャリーアは立法の源泉とする」という文 言はまだ含まれていなかった。この一文を加えたのは,サダト大統領が定めた1971年憲法である。

前文 第1編「エジプト国家」(1-3)

第2編「エジプト社会の基本的構成要素」(4-29) 第3編「権利および義務」(30-63)

第4編「諸権力」

 第1章「国家元首」(64)  第2章「立法権」(65-118)  第3章「行政権」(119)   第1節「大統領」(120-145)

  第2節「大臣」(146-156)

  第3節「地方行政」(157-166)   第4節「国家防衛」

   「国家防衛会議」(167-168)    「軍隊」(169-174)  第4章「司法権」(175-183) 第5編「一般規定」(184-191)

第6編「経過規定および結びの規定」(192-196)

3.1956年憲法の構成

(15)

則の一つに祀り上げられた。この意味において,1956年憲法は,「アラブ」のみならず「イス ラーム」を国家の自己定義に用いた初めての憲法といえる。

構成上の変化としては,第2編「エジプト社会の基本的構成要素」が新たに編をなしたこと が挙げられる。ここに含まれる全26条は,その大半が1954年憲法案の第2編「権利および 義務」に由来し,いわば「国家が保障する権利」である。1956年憲法で初めて採用された規 定は,小規模農業者の保護,地主小作関係の調整,公有財産の不可侵,文民の称号設立の禁止 などであり,これらには1952年革命後の農地改革や身分法の廃止が関係している。

第3編「権利および義務」のなかには,1923年憲法に記された「自由権」の諸規定に加えて,

1954年憲法案にあった「裁判や訴訟に関わる権利」が示された。保健・医療の権利と社会秩 序を守る義務は,この1956年憲法で初めて採用されたものである。

第4編「諸権力」では,章の構成が以前と大きく変わっている。冒頭の第1章「国家元首」

ra’īs al-dawlaでは,「大統領は国家元首である」と述べられた。この条項が置かれた場所には,

かつて「すべての権力の源は国民にある」とする「国民主権」の規定があったが,これは前述 の通り,第2条に繰り上げられた。つまり,「国民主権」が抜けた部分に「国家元首」の規定 があてられたことになる。

第2章「立法権」にも,重要な構成上の変化がいくつか見られる。章題は,かつての「議 会」al-barlamānから「立法権」al-sulṭa al-tashrī‘iyyaに変えられた。続く第3章においても,

1954年憲法案でそれぞれ単独の章を構成していた「大統領」や「大臣」が,一つの「行政権」

al-sulṭa al-tanfīdhiyyaにまとめられた。「司法権」al-sulṭa al-qaḍā’iyyaはもともと一つの章で あったので,ここに,エジプトの憲法史上初めて,三権分立が表現されたことになる。ただし,

「国家元首」が三権の前に置かれているため,「国家元首たる大統領」がこれら三権の上に君臨 する体制を暗示しているともいえる。

第2章「立法権」は,内容的にも若干の変更が見られる。議会は,従来の二院制から一院 制に変更され,上院・下院の個別権限や共通規定を記した節がなくなった。議会の名称も,従 来の憲法において用いられていた外来語のbarlamānから,majilsという評議会や会議など合 議体一般を示す名詞を用いた「国民議会」majlis al-ummaに変更された。この国民議会には,

かつての「代議院」majlis al-nuwwābが有していた下院的権限と性格が与えられており,議 員はすべて普通選挙で選ばれることになっていた。

第3章「行政権」は,第1節「大統領」,第2節「大臣」,第3節「地方行政」,第4節「国家防衛」

からなり合計111条を含む,長大な章である。このように膨れ上がった理由は,「行政権」の 名の下に,従来個別の章や編を形づくっていた「大統領」や「大臣」,「地方統治機構」,「軍隊」

などを集合させたためである。これにより,三権分立の形式は整えられたが,大統領により統 括される「行政権」に多大な権限が集中する中央集権的体制の基盤も形づくられた。大統領の 規定や権限は,1954年憲法案とそれほど変わらず,大統領が大臣を任免する典型的な大統領 制を示している。その他,第4節の「軍隊」の条項において,軍は「人民の所有物」milk li-l-

sha‘bという表現が初めて用いられた。

第6編「経過規定および結びの規定」では,この1956年憲法の可否を問う国民投票を1956 年6月23日に行うこと,同日に大統領選挙を行うことが定められている。この大統領選挙に より,ナセルが1956年憲法体制下初の大統領に選ばれた。

(16)

6. 1958年暫定憲法

1952年革命は1956年憲法を生み出したが,その施行期間はわずか二年に過ぎなかった。前 述の通り,1956年憲法は「エジプト人民はアラブの共同体の一部である」と定めたが,ナ セルは実際にこのアラブ統一への道を邁進していった。その最初の結実が,1958年2月1 日のエジプトとシリアの「統一」al-waḥdaによる「アラブ連合共和国」al-Jumhūriyya al-

‘Arabiyya al-Muttaḥidaの設立である。同月21日,エジプト・シリア両国において,アラブ

連合共和国成立の可否および大統領選出を問う国民投票が行われた。その結果,アラブ連合は 承認され,ナセルがその初代大統領に選ばれた。直後の2月24日,ナセルはシリアを訪問し,

ダマスカスやアレッポにおいて市民の熱烈な歓迎を受けたという[Zakī 2012: 222-223]。

同年3月5日,ナセルは滞在中のダマスカスで,アラブ連合共和国のための「1958年暫定憲法」

al-Dustūr al-Mu’aqqatを発表した43)。全73条からなるこの暫定憲法は,末尾の第73条が述 べるように,「アラブ連合共和国の最終的憲法が人民による同意を得るまで」,暫定的に施行さ れたものと考えられていた。前文は付されておらず,憲法起草委員会による草案の作成や国民 投票を経たものでもない。条数も,200条前後を有する1923年憲法や1956年憲法と比べて,

73条と少ないため,これはむしろ「憲法宣言」に近いものであったといえるかもしれない。

全体構成の点では,先行する1956年憲法の構成と非常によく似ており,最低限の条項だけ を盛り込んでいる。この1958年憲法において注目すべきは,全2条からなる第1編「アラブ 連合国家」al-dawla al-‘arabiyya al-muttaḥidaである。国の政体を表す第1条は,自らを「主 権を有する独立した民主的共和国」jumhūriyya dīmuqrāṭiyya mustaqilla dhāt siyādaと規定 する。興味深いことに,第2条は,1956年憲法のような「国民主権」や「国教・公用語」規 定ではなく,「国籍」al-jinsiyya,すなわちエジプト・シリアの連合国家を構成する国民の国 籍という実務的な規定であった。議会は,エジプト側の名称を用いて,「国民議会」majlis al- ummaと呼ばれる。アラブ連合共和国の憲法であるにもかかわらず,「アラブの共同体」al-

umma al-‘arabiyyaに関する規定は見られない。全般に,アラブ連合の理念を語る部分に欠け,

実務的な条項のみを急遽集めたものであるようだ。

7. 1964年憲法

アラブ統一に向ける第一歩であったアラブ連合共和国は,結成から約三年半後の1961年9 月28日,シリアの連合離脱により決定的に潰えた。この時期,エジプト国内では,政治的・

思想的なソヴィエト共産圏への接近が進み,「アラブ社会主義」al-ishtirākiyya al-‘arabiyyaや

「社会主義へのエジプトの道」al-ṭarīq al-miṣrī ilā al-ishtirākiyyaをめぐる論争が繰り広げられ,

43)その正式名称を,「1958年3月5日付,アラブ連合共和国の暫定憲法」al-Dustūr al-Mu’aqqat li-l- Jumhūriyya al-‘Arabiyya al-Muttaḥida al-Ṣādir fī 5 Māris Sana 1958という。官報には同年3月 13日に掲載された[ibid.: 311]。

(前文なし)

第1編「アラブ連合国家」(1-2) 第2編「社会の基本的構成要素」(3-6) 第3編「公の権利および義務」(7-11) 第4編「統治体制」

 第1章「国家元首」(12)

 第2章「立法権」(13-43)  第3章「行政権」(44-58)  第4章「司法権」(59-63) 第5編「一般規定」(64-67)

第6編「経過規定および結びの規定」(68-73) 4.1958年暫定憲法の構成

参照

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