表現の自由・名誉毀損・証明責任
一 は じ め に 二 京 大
・ 矢 野 事 件 判 決 の 批 評 三 名 誉 毀 損 罪 に お け る 真 実 性 の 挙 証 責 任 日 序 口 真 実 性 の 証 明 の 法 的 性 格 と 挙 証 責 任
m
処罰阻却事由説い 違 法 阻 却 事 由 説 り 二 元 説 口 小 括 四 民 事 名 誉 毀 損 訴 訟 に お け る 証 明 責 任
H
序口 民 事 名 誉 毀 損 法 に お け る 過 失 責 任 主 義 口 民 事 名 誉 毀 損 訴 訟 に お け る 証 明 責 任 五 結 び に 代 え て
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‑‑‑‑‑‑上 村
五
貞
美
セクシュアル・ハ 落語の三題噺のような表題の論文を執筆するに至った経緯について︑最初に述べておくことにしよう︒今から六年前の一九九三年に︑京都大学東南アジア研究センターの所長であった矢野暢教授が︑女性秘書に対してセクシュアル・ハラスメントを行ったとしてマス・メディアによって報道され︑世間の人の耳目を驚かせたことがあった︒この事件の一年前には︑最初の本格的なセクシュアル・ハラスメント裁判といわれた福岡での事件で被害者の女性の訴えが認められ︑
京都
大学
で︑
セクシュアル・ハラスメントそのものが大きな社会問題となっていた︒この事件はセクシュ
アル・ハラスメントがいわゆる普通の職場だけではなく︑研究教育の場である大学でも行われていた︑しかも天下の
その上︑著名な学者であった矢野氏によって行われていた︑
ラスメントヘの関心をいやが上にも高めるという効果をもたらした︒
結局︑矢野教授は辞職した︒今年(‑九九九年︶に入って︑女子学生に対してセクシュアル・ハラスメントを行っ
たとして︑広島女子大学では諭旨免職︑琉球大学では懲戒免職の処分が下された︒後述するように︑裁判において矢
野教授は女性秘書に対して強姦したと認定されたわけであるが︑
ことは︑後の二つの事件と比べて︑
は じ め に
ということも加わって︑
その矢野教授に対して何らの処分がなされなかった
いかにバランスを失していたかがわかるというものである︒
ところで︑事件はこれにて一件落着したわけではなかったのである︒
事件が発覚した年の次の年一九九三年一月二五日付の京都新聞の朝刊に︑京都大学人文科学研究所の小野和子教授
が京都新聞の求めに応じて執筆した﹁学者と人権感覚1
矢野元教授問題によせてー﹂という手記が掲載された︒
五四
表現の自由・名誉毀損・証明責任(上村)
五五
さらに同年二月二
0
日に京都府婦人センターで開催された﹁大学でのセクシュアル・ハラスメントと性差別を考えるセクハラは小事か﹂と題する文書を参加者に対して配布した︒矢
野氏は︑この二つの文書が自分の名誉を毀損したとして︑小野教授を相手取って︑
を東京地方裁判所に提起したのである︒(‑九九七年三月二七日に︑京都地方裁判所は矢野氏の請求を棄却する判決を
下した︒︶なおここで注意すべきことは︑矢野氏が小野教授に手記を依頼して掲載した京都新聞社を訴えなかった︑と
いうことである︒毀損された名誉の回復を真剣に求めるのであれば︑京都新聞社を相手取って損害賠償を請求するこ
とはもとより︑なによりも小野教授の手記に対する反論文の掲載を求めるべきであった︒﹁言論には言論を﹂の原則を
社会科学を研究する者は心得ておくべきである︒仮に小野教授に対する訴訟に勝利したとしても︑過去の裁判例から
すると︑賠償額はきわめて低額で︑弁護士費用にもならない位のものである︒その程度の金額によって名誉を回復し
ようとする企てはお門違いもいいところである︒ここで想起されるのはニューヨーク・タイムズ社対サリバン事件で
ある︒この事件において︑
C i t y C o m m i s s i o n e r
の地位にあったサリバンは︑意見広告を掲載したニューヨーク・タイ
ムズ社とこの意見広告に名前をつらねていた四人の黒人牧師を相手取って︑損害賠償訴訟を提起したのである︒後者
だけを訴えたわけではないことを確認しておきたい︒
ついでながら矢野氏が提起した訴訟は右の事件だけではなかったのである︒その他にも︑文部大臣に対して辞職承
認処分の取り消しを求めて提起した訴訟︒矢野氏から強姦とセクハラをされたとして元女性秘書を代理して︑京都弁
護士会人権擁護委員会に人権救済を申し立て︑そのことを公表した弁護士に対する一︑
000
万円の名誉毀損による損害賠償請求訴訟︒右の元女性秘書に対する五
00
万円の名誉毀損による損害賠償請求訴訟︒それに加えて︑矢野氏の
妻も元女性秘書に対して名誉を毀損された者の妻として自らの名誉も毀損されたとして五
00
万の損害賠償請求訴訟 シンポジューム﹂において︑﹁河上倫逸氏に答える
一
︑
000
万円の損害賠償請求訴訟を提
起し
た︒
訴えられた小野和子教授と元女性秘書の驚きと怒りがどれほど大きかったかは想像をこえるものがある︒確実な資
料にもとづいて矢野氏のセク・ハラ疑惑を告発する手記を︑新聞社の求めに応じて執筆したのは︑憲法ニ︱条で保障
された表現の自由の正当な行使である︒それなのに︑何故訴えられなければならないのか︒強姦にはじまるすさまじ
いばかりのセク・ハラを七年間もの長い間うけてきたことに対して︑
﹃ 京
いずれにしろ︑人権を侵害した当の 人権救済の申し立てをしたことが︑何故︑名誉
を毀損したとして訴えられなければならなかったのか︒この不条理さ︑この理不尽さをなんと表現すればよいのであ
ろうか︒矢野氏は︑何故︑民事の損害賠償請求だけではなく︑刑事告訴をしなかったのであろうか︒﹁加害者﹂に対し
て制裁を加えることが目的ならば︑むしろ刑事告訴すべきであった︒それをしなかったのは︑何故か︒矢野氏が検察
官に事情聴取されるのを嫌がったのか︑あるいは検察官が公訴を提起するには至らないであろうと判断したのであろ
うか︒それとももし公訴が提起されたならば︑矢野氏本人が証人として出廷しなければならない事態が生じるかもし
れ ず
︑
それを避けたかったのであろうか︒
結 局
︑
いずれなのかは推測の域を出ないが︑
加害者が︑自らを﹁被害者﹂だとして訴え出たことは︑濫訴のそしりを免れないであろう︒
四つの民事訴訟において矢野氏夫妻の請求はいずれも棄却された︒それを契機にして︑小野和子教授が
大・矢野事件
I
キャンパス・セクハラ裁判の問うたものー﹄という書物を上梓された︒筆者も贈呈を受け︑一読
したところ︑筆者の論文が準備書面に引用され︑書証として提出されていることを知った︒また小野教授の執筆した
文書の内容の真実性を証明するために︑元女性秘書が証人として矢野氏から加えられた強姦とセク・ハラの事実につ
いて証言をしていたことを知った︒元女性秘書が親告罪である強姦罪で矢野氏を刑事告訴したのであれば︑証言台に
(5 )
立つこともセカンド・レイプとして覚悟の上であろう︒しかし本件のような場合に︑被告に事実の真実性の証明責任
五六
表現の自由・名誉毀損・証明責任(上村)
をおかしているかもしれない︒ご海容を乞う次第である︒ を
負わ
せ︑
そのうえ訴訟の当事者ではなく被害者である第三者に︑公開の法廷において強姦とセク・ハラの事実につ
いて証言させることは著しく正義に反するのではないであろうか︒
五七
そしてもしこの元女性秘書が証言をせず︑真実性
が証明されなかったならば︑矢野氏が勝訴していたのであろうか︒もしそうであったならば︑憲法で保障された表現 の自由にとって由々しき事態である︒民事訴訟法上の証明責任の分配の問題は︑憲法の表現の自由にとって決して無 関係ではなく︑研究に値する重要な問題であることに気づかされた︒そういうわけで筆者は︑証明責任に焦点を当て
て︑表現の自由と名誉毀損の問題を論じてみようと考えるに至った次第である︒
これまで右のような視点から表現の自由の問題が考察されることはほとんどなかったといってよい︒とはいえ︑堀 部政男教授は︑
い﹂
と︑
かつて︑﹁表現の自由の問題を論ずる場合に︑証拠法上の問題をとりあげることはあまりないが︑これ
が童要な問題であることはいうまでもなく︑また︑被告人の責任が軽いほど︑表現の自由が保護される度合いも大き
(6 )
その重要性を指摘したことがあった︒
表現の自由について最も精力的に研究成果を発表してきている松井茂記教授も︑名誉毀損の民事訴訟に関して︑﹁通
常の不法行為訴訟であれば︑原告は被告の故意・過失を証明すべきものとされようが︑なぜかここでは原告にそのよ うな証明責任は課されていないようである︒なぜか被告の側で過失がなかったことを証明しなければならないと想定 されているからである﹂︵傍点引用者︶と述べているが︑筆者はこのなぜかを民事訴訟のみならず刑事訴訟に関して
も追究しようとするものである︒
本稿において刑事訴訟に関しては挙証責任︑民事訴訟に関しては証明責任という概念を用いるのは︑それぞれの学
界でそれらの概念が用いられることが通例だからである︒本稿のテーマは筆者の専門外にもわたるために思わぬ誤り
判決は名誉毀損が成立するか否かについて︑従来の判例の判断の枠組みにしたがった︒すなわち︑名誉毀損を事実 以下において判決の概要を紹介することにする︒ クハラ事件が列挙されている︒なお︑渡辺和子﹃キャンパス・セクシュアル・ハラスメントー調査・分析・対策j参照︒学校におけ 本稿執筆中の一九九九年三月一八日付の朝日新聞は︑﹁進む大学のセクハラ対策﹂という記事を報道したが︑これには一九件のセ
るセク・ハラは小学校にまで蔓延している︒門野晴子﹁スクール・セクシュアル・ハラスメントー踏みにじられる子どもの性と生﹂
参照
︒ ( 2 )
ニューヨーク・タイムズ事件については︑376
U .
S .
264︑堀部政男﹁名誉・プライバシーと表現の自由﹂﹁講座現代の社会とコミュ ニケーション3言論の自由﹂所収一八七頁以下︑塚本重頼﹁英米法における名誉毀損の研究﹂二九七頁以下︑松井茂記﹁
Ne
w Y o r k T i m e 判決の法理の再検討﹂民商法雑誌︱一五巻︱一号︑佐伯仁志﹁プライバシーと名誉の保護︵s 4
.完
︶﹂ 法学 協会 雑誌 一〇 一巻 一
一号二七頁以下︑山口茂樹﹁名誉毀損法における事実と意見︵一︶﹂都立大学法学会誌三五巻一号参照︒
( 3 )
小野和子編・著﹁京大・矢野事件﹂インパクト出版会︒
( 4 )
上村貞美﹁人権としての性的自由と強姦罪﹂香川法学七巻三・四号︒
( 5 )
セカンド・レイプというのは︑作家落合恵子の造語である︒
( 6 ) 堀部政男﹁表現の自由と人格権の保護﹂伊藤正巳編﹁現代損害賠償法講座2名誉・プライバシー﹂所収一九頁︒
( 7 )
松井茂記﹃﹁マス・メディアと法﹂入門﹂︱二五頁︒
訴訟が提起された平成六年三月一八日の約三年後の平成九年三月二七日に︑京都地方裁判所は矢野氏の請求を全面
的に棄却する判決を下した︒
( 1 )
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京大・矢野事件判決の批評
五八
表現の自由・名誉毀損・証明責任(上村)
の有
無で
ある
︒
の手によって裁かれることになるであろう︒﹂ さ
ん 最高裁判例︵昭和四一年六月二三日︶にしたがい︑
﹃ 伝
聞 ﹄
五九
ではない︒﹂という部分のこと︶の内容の真実 の摘ホによる名誉毀損と意見ないし批評による名誉毀損に分けた︒事実の摘示による名誉毀損の免責要件については︑
の理論を採用した︒摘示された事実が真実で
あ る
︑
いわゆる﹁相当性﹂
ないしは真実であると信ずるに足りる相当な理由がある場合には免責されるとするものである︒意見による名
誉毀損についても︑最高裁判例︵平成六年︱二月ニ︱日︶にしたがって︑﹁公平な論評﹂の範囲内である限り︑名誉毀
判決は争点を三つに分ける︒第一の争点は︑小野和子教授が公表した文書における次の事実の記載部分の内容が︑
﹁東南アジア研究センターは勤務環境調査改善委員会を設置し︑矢野元教授のセクシュアル・ハラスメントといわれ
るものについての調査を行った︒そして三件の比較的軽微なセクハラの事実が出てきたのだが︑その過程で浮かび上
一人
の女
性の
︑
レイプに始まるすさまじいまでのセクハラの証言であった︒﹂
﹁こんななかでたった一人︑京都弁護士会人権擁護委員会に申し立てをしたのが︑研究者の道を歩み始めた甲野乙子
︵申
立書
の仮
名︶
である︒数年にわたるセクハラの生々しい証言は︑
第二の争点は︑本件文書の事実記載部分︵﹁決していわゆる
性の有無及び本件手記の事実記載部分︵右に引用した部分のこと︶
第三の争点は︑左記の論評部分の相当性の有無である︒ がってきたのが︑ 真実であるか否かである︒ 損の責任を問わないものとするものである︒
それが事実であるかどうか︑やがて法律家
の内容を真実であると信ずるに足りる相当な理由
﹁自らの過去を暴くことになる不利益をも覚悟して申し立てに踏み切った彼女の決断の重さに感じ入るばかりであ
﹁矢野元教授は女性の人格の尊厳を犯したばかりでなく男性自らの人格をも卑しめたのである︒﹂
一連のセクハラが︑女性の人格の尊厳を犯すとともに︑矢野氏自身の人格の
第一の争点について︑裁判所はさまざまな証拠にもとづいて︑矢野氏の甲野乙子に対するレイプとセクシュアル・
ハラスメントの事実を認定し︑事実記載部分が真実であるとの証明がなされた︑
裁判所は︑第二の争点のうち︑﹁決していわゆる﹃伝聞﹄
的軽微なセクハラの事実が出てきた﹂という部分については︑これを真実であると信ずるに足りる相当の理由がある︑
と判
示し
た︒
第三の争点である論評部分については︑前提となっている事実記載部分を真実ないし真実と認めるに足りる相当な
理由があるとした上で︑その論評としても通常人ならば持ちうるであろう合理的な論評の範囲を出るところはない︑
と認
定し
た︒
以上により︑被告の行為は原告の名誉を違法に毀損したとの責任を負うものではない︑
本判決が採用した判断枠組みは︑従来の判例のそれと全く同じで目新しさはない︒この判断枠組み自体について問
題がないわけではなく︑それについては本稿の第四章で論じることにする︒それはともかく︑この判断枠組みを認定
した事実に適用して︑名誉毀損による不法行為は成立しない︑と判ホしたのである︒本判決の中で特筆に値すると思
われるのは︑第一の争点に関して次のように事実認定した部分だと判例時報は指摘している︒﹁強姦の被害者が意に反
した性交渉をもった惨めさ︑恥ずかしさ︑ 尊厳を卑しめるものであった︑
そして自らの非を逆に責められることを恐れ︑告発しないことも決して少
と主張したいのである︒﹂
﹁私はこれらの事実経過にもとづいて︑ る ︒ ﹂
と判
示し
た︒
ではない﹂という部分は真実であり︑﹁そして三件の比較
として請求を棄却した︒
六〇
表 現 の 自 由 ・ 名 誉 毀 損 ・ 証 明 責 任 ( 上 村 )
( l
)
( 2 )
なくないのが実情であって︑自分で悩み︑誰にも相談できないなかで葛藤する症例︵いわゆるレイプ・トラウマ・シ
ンドローム等︶も︑つとに指摘されているところであるから︑原告と性交渉をもった直後あるいは原告の研究室を退
︵仮名・元女性秘書のこと︶
本稿のテーマである証明責任が︑原告と被告のいずれに課されたのかを判決文からは読み取ることは著しく困難で
﹃京
大・
矢野
事件
﹄
r.
ノ
が原告を告訴しなかったことをもって原告との性交渉がその意に反し
という書物の中に︑被告の訴訟代理人をつとめた弁護士の植木壽子氏が︑﹁表現の自
由と名誉毀損﹂と題する論稿を執筆しておられる︒この論稿は本判決に対する唯一の批評であるが︑これを読んでは
﹁事
実の
真実
性﹂
の証明を軸にして訴訟を進行させ︑
その証明責任を被告側に負担させ︑元女性秘 書を証人として申請するように勧告したことを知ることができた︒被害者の感情に配慮しない裁判所の訴訟指揮の不
当さに腹立たしさを憶えた︒それと同時に﹁我が国では︑判例上﹃公平な論評﹄
実性︑真実相当性についての立証責任は︑依然として損害賠償請求を請求される側被告に負わされている︒最近まで
は︑名誉毀損訴訟がアメリカに比べて少ないこともあって︑学説・判例共に︑
れていない﹂という指摘に接した︒これは筆者にとってきわめて有益な指摘であった︒そこで証明責任の分配という
視角から︑表現の自由と名誉毀損の問題について考察することを思い立った次第である︒
判例 時報 一六 一二 四号
︱
10
頁以
下︒
原告
の氏
名は
︑ど
うい
う理
由か
らか
︑乙
山太
郎と
いう
仮名
にな
って
いる
︒
植木
壽子
﹁表
現の
自由
と名
誉毀
損﹂
小野
和子
編・
著﹃
京大
・矢
野事
件﹄
所収
二六
一頁
︒
じめて︑裁判所が ある︒前記の たものではなかったということはできない︒﹂ 職した直後に甲田
この点について突っ込んだ議論がなさ の法理はとり入れられているが︑真
周知のように昭和二二年に刑法に二三
0
条の二の規定が追加された︒事実の公共性と目的の公益性が認められる場合に︑﹁事実の真否を判定し︑真実であることの証明があったときは︑これを罰しない﹂とするものである︒この規定
が追加されたのは︑明治二六年制定の出版法と明治四二年制定の新聞紙法が廃止されることにともない
︵昭
和二
四年
五月二四日廃止︶︑これら二つの法律に規定されていた事実の真実性の証明による免責規定が消滅してしまうためであ
った︒したがって︑これは﹁両法の廃止にともなう補正修復を眼前にして行われた︑立法化措置にすぎない﹂のである︒
奥平教授によれば︑﹁新聞紙法・出版法の全廃により︑この例外措置をも失くしてしまったら︑真実の証明を許さない
•.••
二三
0
条の原則だけが支配することになる︒それは困るという法律上の関心︵あえていえば︑内閣法制局的な問題関心︶から︑二三
0
条ノニが考案され挿入されたとみるべきである︒立法者はこのことによって︑表現の自由にかんし. . . .
.
戦前にはなかったなにかを積極的に新しく創設するという意欲をもっていたとは思えない︒旧法律規定の積みかえと
いう意識だったと考えられる︒﹂
( 3 )
出版法と新聞紙法は名誉毀損とその免責事由について次のように規定していた︒
出版法三一条文書図画ヲ出版シ因テ誹毀ノ訴ヲ受ケタル場合二於テ其ノ私行二渉ルモノヲ除クノ外裁判所二
. . .
於テ専ラ公益ノ為ニスルモノト認ムルトキハ被告人二事実ノ証明ヲ許スコトヲ得若之ヲ証明シタルトキワ其罪ヲ 曰
序
名誉毀損罪における真実性の挙証責任
I ‑
ノ
表現の自由・名誉毀損・証明責任(上村)
新聞紙法四五条
新聞紙二掲載シタル事項二付名誉二対スル罪ノ公訴ヲ提起シタル場合二於テ其ノ私行二渉ル
. . .
モノヲ除クノ外裁判所二於テ悪意二出テス専ラ公益ノ為ニスルモノト認ムルトキハ被告人二事実ヲ証明スコトヲ
許スルコトヲ得其ノ証明ノ確立ヲ得タルトキハ其ノ行為ハ之ヲ罰セス公訴二関聯スル損害賠償ノ訴二対シテハ其
真実性の挙証責任は被告人が負担するとする現在の判例・学説の源流をたずねると︑
りつくことができるように思える︒この法律の規定を素直に読めば︑挙証責任は被告人にあるように思える︒しかし︑
戦前︑小野清一郎博士は次のように主張していたのである︒﹁然るに従来学説上右の規定を以て法律上の推定を設けた
るものとし︑而して其の反證に付ては被告人に立証の責任を負わしめたものと為す学者が少なくない︒﹂﹁⁝反対の立
証あるまで虚偽の事実を摘示したと推定する必要なく︑
,
.ノ
この二つの法律の規定にたど
また事実の証明を許すということは刑事訴訟法に於ては要す
るに被告人の證拠調の請求を許容するという意味以外ではあり得ぬのであって﹂﹁いずれにしても此の学説は不当であ
ると思ふ﹂と︒戦後においても︑小野博士は︑﹁旧法制下の下において︑事実の不真実であることの法律上の推定があ
るものとし︑出版法三一条および新聞紙法四五条は被告人にこの法律上の推定をくつがえすための反證を許すもので あると解する学説が多かったが︑私はこれに対して刑法二三
0
条は何等かかる法律上の推定をしていない︑とを主張﹂されていたことを想起する必要がある︒ というこ
また名著﹃名誉権論﹄で博士号を授与された宗宮信次博士は︑民事名誉毀損訴訟においては︑﹁毀損事実が真実なる
こと︑公益の為にせること等を証明する責任は︑被告にあり﹂とされていたが︑﹁刑事二於テハ︑刑事訴訟ノ職権主義
実体的真実発見主義ニョリ︑裁判所ハ被告ノ主張立證ヲ侯タズ︑進ンテ之ヲ調査樹酌スベキモノナリ﹂と主張してい
ノ義務ヲ免ル 免ス損害賠償ノ訴ヲ受ケタルトキモ亦同シ
tr) 真実性の証明の法的性格と挙証責任
一応犯罪として成立し︑単に処罰され 刑法二三
0
条の二は事実の公共性と目的の公益性に加えて事実の真実性が証明されたときは罰しない︑るが︑この規定の法的性格をどのように解釈するかについて︑刑法学界では実にさまざまな学説が提唱されており︑
まさに百家争鳴の感すらする︒門外漢である筆者がそれらの学説についてコメントする能力もなければ必要もない︒
ここでは当事者のいずれが挙証責任を負うことになるのか︑
(7 )
こと
にす
る︒
という問題関心からそれらについて言及するにとどめる
前田雅英教授によれば︑これらの学説は︑細かく分類すれば九つに︑大きく分類すれば三つに分けることができる
(8 )
とす
る︒
処罰阻却事由説
この節は犯罪は成立するが処罰はされない︑すなわち刑罰は科されないとするものである︒立法当時の政府の解釈であり、初期の最高裁(昭和三五•五・七刑集十三巻五号六四一頁)の採用した立場であると解されている。
この説を支持する人は少なく︑最高裁も後述するように判例を変更した︒この説は犯罪としては成立するが︑三つ
の要件を充足すれば︑何故︑処罰されないのか︑その根拠なり政策的理由について明らかにしていない︒そしてなに
よりもこの説が表現の自由よりも名誉の保護の方を原則的に優越させている点が最大の問題である︒たとえ事実の公
共性︑目的の公益性︑事実の真実性という三要件を充足する表現であっても︑
(
⇒
(6 )
たの
であ
る︒
六四
と定めてい
表現の自由・名誉毀損・証明責任(上村)
(イ)
おいて︑根本的に誤っているといえよう︒
六五
いわゆる﹁相当性﹂理論を刑 ないだけであるとする解釈は︑憲法ニ︱条で表現の自由を保障していることを適合しない︒憲法の精神を尊重するならば、正当な表現の自由の行使ー三要件を充足する表現活動こそまさにそれに該当する—_Lと認められる限り、犯
もっともこの処罰阻却事由説にもメリットがある︒この説によれば︑真実性の挙証責任を負うのは被告人である︒
(9 )
﹁この見解は︑なぜ被告人が事実の真実性について立証責任を負うのかという点の説明としては適切である︒﹂という
のは︑この説によれば︑犯罪の成立要素について挙証責任を負うのは検察官であって被告人ではないから︑﹁疑わしき
は被告人の利益に﹂という刑事訴訟の原則とは︑矛盾しない︒次に述べる多数説とされる違法阻却事由説が︑真実性
の挙証責任を被告人に負わせていることに比べれば︑この点についてだけはこの説の方が優れているといえる︒
いえ︑挙証責任に関していかに優れていようとも︑後に裁判で真実性が証明された名誉毀損的表現を犯罪とする点に
違法阻却事由説
この説は︑刑法二三
0
条の二を名誉毀損の例外的許容規定であると解し︑違法性が阻却されるから犯罪は成立しな( 1 0 )
い︑とする︒通説ないし多数説である︒
最高裁は﹁夕刊和歌山時事﹂事件判決︵昭和四四年六月二五日︶において︑﹁事実が真実でない場合でも︑行為者が
その事実を真実であると誤信し︑
とは
その誤信したことについて︑確実な資料︑根拠に照らし相当の理由があるときは︑
犯罪の故意がなく︑名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である﹂と述べ︑
法上初めて採用した︒この判決がどのような理論構成をしているかについては見解が分かれているようであるが︑違 罪は成立しないと解釈しなければならない︒
ではなぜ立法者がそのような規定を設けたのかということについて︑数は少ないが刑法研究者がその見解を述べて
いるので︑少し長い引用になるが︑その主張に耳を傾けることにしよう︒
( 1 3 )
まず最初に︑町野朔教授のきわめて含蓄に富んだ見解から見てみることにしよう︒
﹁﹁真実ナルコトノ証明アリタルトキハ﹄という文言から明らかなように︑真実性の立証責任は被告人にあるという いるのではないかと思われる︒ 法阻却事由説を採用した︑という結論においては違いがない︒
この説は広く支持されているが︑難点が︱つある︒後述するように︑この説は真実性の挙証責任は被告人にあると
いい換えれば違法阻却事由の存在が真偽不明の場合でも犯罪
が成立することになる︒そのことは﹁疑わしきは被告人の利益に﹂という原則︑ないし無罪推定の原則に抵触するの
ではないか︑という問題が生じるのである︒犯罪の成立要件︑すなわち︑行為が構成要件に該当し︑違法かつ有責で
あることの挙証責任は検察官側にあり︑その証明に成功しなかったならば犯罪は成立しないのが原則である︒
刑事訴訟法の学説の中には︑違法阻却や責任阻却の事実等についての挙証責任を被告人に転換するべきである説も
あったが︑支持は広がらなかった︒被告人に挙証責任を負わせると︑被告人は罪を犯したからではなく︑訴訟のやり
方が拙かったがために処罰されることになるからである︒したがって違法阻却事由の存在は︑被告人ではなく検察官
側が挙証しなければならないはずである︒にもかかわらず︑違法阻却事由説を採用している学説の中には︑真実性の
( 1 2 )
挙証責任は被告人が負うとするものがかなり多いように思われる︒しかもこの結論だけが述べられているだけで︑ど
ういうわけかその根拠なり理由なりについては明示的に述べられていない︒筆者の推測では︑おそらく刑法二三
0
条••••••••
の二の﹁真実であることの証明があったときは︑これを罰しない﹂とする規定の文字の用い方がその決め手になって するが︑そうすると真実性が証明されなかったときは︑
六六
表 現 の 自 由 ・ 名 誉 毀 損 ・ 証 明 責 任 ( 上 村 )
のが現行法の態度である︒すなわち︑積極的に真実であることが証明されず︑真偽が不明であれば被告人は処罰され
る︒﹃疑わしきは被告人の利益に﹄という刑事訴訟の大原則に反するこのような事態は︑事実の真実性を含めた二三〇
条ノニの各要件が存在しても︑二三
0
条一項に該当する行為がある以上︑れて
いる
︑
したがって︑摘示事実が真実であるかもしれない場合に処罰したとしても何ら不当ではない︑
方を現行法がとっているとみるのでない以上︑
前提が妥当であるかについては相当の疑問があるのは事実である︒﹃虚偽デアルコトノ証明ナカリシトキハ之ヲ罰セ
ズ﹄としていない刑法二三
0
条ノニは憲法ニ︱条︑同三一条に違反するという見解は︑十分に成り立ちうるであろう︒﹂( 1 4 )
次に田宮裕教授も︑同じく被告人に挙証責任が転換されている理由について︑次のように述べている︒
﹁違法阻却事由説に立てば︑
きは被告人の利益に﹄
六七 一般的には法文 それを犯罪として処罰することは本来許さ
という考え
正当化されないであろう︒名誉毀損罪の犯罪性についてのこのような
﹃疑わしきは被告人の利益に﹄の原則の例外たる理由を︑まった<説明できないのかと
いうと︑必ずしもそういうわけではない︒すなわち︑立法者は︑この原則をあくまでも貫くというメリットと名誉の
保護の必要とを秤量して︑後者を優位におくという決断をしたとも解しうるからである︒つまり︑名誉の保護のため︑
真偽不明の場合まで処罰しようという立法政策をとったのだともいえる︒挙証責任とは︑真偽不明な場合をどちらの
つまり可罰的とするか不可罰的とするかの問題であるから︑挙証責任の転換︑
の例外を認めることは︑真偽不明を処罰する︑というだけのことである︒ つまり﹃疑わし
とくに名誉毀損は︑
事実の真否を問わず罰するのが原則であるから︑真偽不明の場合を処罰しても︑処罰範囲の画定方法として必ずしも 挙証責任の分配について︑法文の言葉の使い方を基準にするのは︑後述するように民事訴訟法学では法律要件分類
説と呼ばれ︑通説である︒すなわち︑本文は原告に︑但書は被告に証明責任があるとするのである︒ 不合理とはいえないであろう︒﹂ 不利益に判断するか︑
の言葉の使い方を基準にするのが正しいとしても︑真実性の挙証責任を被告人に負担させることが許されるであろう
か︒﹁疑わしきは被告人の利益に﹂という原則は憲法三一条の適法手続主義の内容に含まれると解されるから︑もし刑
法 ニ
︱ ︱
1 0
条の二の真実性の挙証責任が被告人にあると解釈されうるのであれば︑合憲的限定解釈を加えてそのような
違憲の部分を切り捨てる必要がある︒その可能性がないのであれば︑被告人に真実性の挙証責任を負わせた刑法二三
戦後の刑法改正のおりに︑田宮教授の主張するように︑立法者は真偽不明の場合でも処罰するという政策を本当に
選択したのである︑と解釈できるであろうか︒もしそうであるならば︑松井茂記教授が主張されるように︑﹁刑法二三
( 1 5 )
0
条は︑過度に広汎であるがゆえに憲法ニ︱条に反し︑文面上無効だと﹂いうことになろう︒この改正によって︑刑法二三
0
条は刑罰が一年以下から三年以下に引き上げられただけであって︑他の部分はそのままである︒そして新たに二三
0
条の二が追加されたのである︒同時に作成された条文ならともかくも︑いわばパッチ・ワークのように後から追加された条文の場合に︑立法者は挙証責任の所在のことまで念頭において条文の構成や
言葉の使い方を考えたのであろうか︒それはともかくとして︑後から追加された条文を根拠にして挙証責任の所在を
決めるのはなにか奇妙な感じがしてならない︒
挙証責任が被告人に転換されていると解釈するその他の根拠としては︑沿革上の理由と外国法の例が指摘されよう︒
本節の冒頭で述べたように︑出版法と新聞紙法には免責事由が定められていたが︑その挙証責任は︑素直に読めば︑
被告人にあると解釈されるし︑またそのような運用がなされてきたようである︒しかし右の二つの法律は︑明文で﹁被
告人二事実ノ証明ヲ許スコトヲ得﹂と定めていたのに反し︑刑法ニ︱︱
‑ 0
条の二は︑﹁真実であることの証明があったと
きは﹂︑と規定しているだけで︑両者の間には大きな違いがあるように思われる︒したがって︑戦前の旧二法において
0
条の二は違憲ということになろう︒六八
表現の自由・名誉毀損・証明責任(上村)
被告人に挙証責任があったから︑戦後も同じように︑というわけにはいかない︒
六九 またフランス法や英米法では︑真実であることを被告人が証明すれば免責されるとされていたが︑後述するように︑
アメリカでは一九六四年のニューヨーク・タイムズ社事件以降変化してきていること等を考え合わせれば︑外国法の
いずれにしろ︑﹁被告人に挙証責任を認め得るのは︑その趣旨が条文の上で明らかであり︑しかも︑法の適正手続の
( 1 6 )
限界を超えない場合に尽きる﹂として︑松尾浩也教授は︑具体的に次のように述べている︒
﹁このような挙証責任転換の実質的な理由は︑検察官にとっての﹃立証困難﹄であるが︑それだけで転換規定を正当
化することはむろん許されない︒もし恣意的な立法をすれば︑憲法の定める適正手続の要求に反し︑無効とされよう︒
転換規定が合憲とされるためには︑第一に︑要証事実のうち検察官が証明する部分から︑被告人が挙証責任を負担す
る部分への推認がある程度の合理性を持っていること︑第二に︑被告人が挙証責任を負担する部分を除去して考えて
も︑なお犯罪として相当の可罰性が認められることの二点が問題となる︒既存の転換規定のうち︑刑法典中の両規定
はいずれも第一の点はやや疑わしいが︑第二の点で辛うじて是認される︒﹂右の両規定というのは同時傷害犯を定めた
二
0
七条と二三0
条の二のことである︒( 1 8 )
右のような様々な主張にもかかわらず︑真実性の挙証責任を被告人に負わせることには憲法上強い疑義があり︑反
( 1 9 )
対論も少なくない︒
まず第一に︑犯罪の成立要素について被告人に挙証責任を負わせることは︑事実の真偽不明の場合にも処罰するこ
とになるから︑﹁疑わしきは被告人の利益に﹂の原則に抵触し︑憲法三一条の適法手続主義に違反する︒
第二に︑正当な表現の自由の行使に対して萎縮効果
( c h i
l l i n
g
e f f e
c t )
をもたらす︒刑事訴追されて法廷の場で自ら 例は補強にはならない︒
側に責任が課されるが︑ の責任において真実性の証明ができなければ刑罰を科せられるかもしれないという危険を覚悟した上でなければ表現できないことになる︒このことは表現活動にとって好ましくない自己抑制を強いることになる︒
そこで真実性の証明を違法阻却事由であると解する学説の中には︑真実性の挙証責任は検察官にあるが︑ただ被告
人には英米法上のいわゆる証拠提出責任が課せられているのである︑と主張するものも少なくない︒証拠提出責任と
﹁一応の証拠を提出することをいい︑ともかく︑証拠を出せば責任を免れ︑反対当事者がさらに実質的挙証責任をは
たす必要があることになるのである︒証拠提出の責任の導入により︑
ことから生ずる無責任な主張の濫用による手続の混乱を抑制しうることになり︑他方では︑例外的であっても︑実質
的挙証責任の転換を認めることから生ずる訴訟のやり方が拙かったために処罰されるという不合理を除去しうること
( 2 0 )
にな
るの
であ
る︒
﹂
庭山英雄教授も︑﹁従前︑挙証責任分配論で被告人に挙証責任ありとされた場合は︑それを証拠提出責任ある場合と
解すれば︑﹃疑わしきは被告人の利益に﹄の原則との衝突を避けることができると思われる︒ー略ーこの場合︑被告人
一応の証拠の提出で足りるから︑
と解釈すると違憲になるから︑ それほど負担ではない︒また︑この責任を果たせば︑相手
方に実質的挙証責任が課されるという仕組みであるから︑﹁疑わしきは被告人の利益に﹄の原則に反するということに
( 2 1 )
もならない﹂として︑この理論の導入を提唱されている︒
証拠提出責任を導入すべきであるとする右の議論は︑刑法二三
0
条の二を被告人に挙証責任を負わせた規定であるその違憲部分を切り捨てる一種の合憲限定解釈のテクニックであるといえよう︒
かつて最高裁は︑昭和三
0
年︱二月九日の判決において︑刑法二三0
条の二の規定は真実性の挙証責任を被告人に いうのは︑刑事訴訟法学の説明によると︑一方では︑被告人は主張責任だけを負うとする
七〇
表現の自由・名誉毀損・証明責任(上村)
負わせたものである︑
七
( 2 2 )
と明言した︒その後︑最高裁が判例変更したかどうかは明らかではない︒下級審においては︑
( 2 3 )
︵2 4
)
いわゆる『月刊ペン』事件の差戻後の第一審判決と控訴審判決において、真実~が証明されていないとして、被告人
に有罪判決が下された︒ということは︑真実性の挙証責任は被告人にある︑という見解を両判決が採用したというこ
この説は刑法二三
0
条の二が違法阻却事由と処罰阻却事由と合わせて含んでいると解するもので︑近時の有力説で
ある︒刑法︱︱︱五条の法令による行為を援用する見解と︑援用しない見解とがある︒
アメリカにおいては︑かなり以前から﹁名誉毀損の憲法化﹂ないし﹁憲法的名誉毀損法﹂なるものが提唱されてい
る︒阪本昌成教授によれば︑﹁憲法学にとっての課題は︑名誉の憲法上の根拠づけよりも︑名誉の保護にあたって表現
( 2 5 )
の自由を規制する国家行為の憲法上の限界を画すること﹂が︑﹁名誉毀損の憲法化﹂の意味である︒
( 2 6 )
﹁憲法的刑法学﹂を提唱する平川宗信教授は︑﹁憲法的見地から名誉毀損罪の問題を論﹂じる﹁憲法的名誉毀損法﹂
の理論にもとづき︑大要次のように主張する︒
憲法を考察の出発点とするならば︑刑法上違法でなければ表現の自由が認められるというこれまでの議論は本末転
う﹃虚名保護の限界﹄
ない
︶
倒である︒そうではなく︑﹁憲法上表現の自由が認められるならば刑法上処罰されるべきではなく︑免責が認められる︑
ということでなければならない︒したがって︑事実の真否に関する免責の問題は︑どこまで虚名の保護が必要かとい
•••••••••
の問題としてではなく︑憲法上どこまで表現の自由の保障が優先し︑どこから名誉︵虚名では
( 2 8 )
の問題としてとらえられなければならない︒﹂
(ウ)
の保護が認められるかという﹃表現の自由の限界﹄
とに
なる
︒
元
説
表現の自由は憲法によって優越的地上を与えられているが︑その中核的な機能は︑﹁公的問題に関する討論・意思決
定に必要・有益な情報の自由な流通を確保すること﹂である︒この機能を果たさせるためにある言論を保護すること
が必要であると解される限り︑それは名誉の保護に優先することになる︒したがって︑﹁他人の名誉を侵害する言論も︑
それを保護することがこのような情報の自由な流通を確保するために必要な限りでは︑正当なものとされなければな
され
た言
論は
︑
らない︒言論が違法とされ刑罰が科せられるのは︑かような必要がない場合に限られる﹂︑というのが︑基本的な視点
( 2 9 )
である︒そのためにはたとえ真実でなくとも事実の真実性を一応推測させる程度の相当な合理的根拠にもとづいてな
( 3 0 )
正当な言論として保護する必要がある︑と︒
右のような憲法的視点に立って︑平川教授は︑刑法二三
0
条の二は︑違法性阻却事由と客観的処罰阻却事由の二つを合わせて規定したものであると解釈する︒
まず第一に︑事実の真否との関係で違法性が阻却されるのは表現の自由を確保するためであるから︑憲法ニ︱条の
規定にその基礎があると解される︒﹁そして︑憲法が名誉の保護に優先して言論の保護を要求し︑市民に発言の権利を
与えている限りにおいて︑そのことに基づいて︑言論の違法性が阻却されると解される︒かように考えるならば︑違
. . . .
.
法性が阻却される言論は︑憲法によって市民に与えられた権利を行使したものであり︑それゆえ違法性が阻却される
ということができよう︒これは︑
( 3 1 )
というべきである︑と︒
を認め処罰が阻却される︑ まさに︑最高法規たる﹃憲法による行為﹄であり︑﹃法令による行為﹄﹂︵刑法三五条︶
第二に︑合理的根拠なしに事実を摘示して名誉を毀損した場合にも︑刑法二三
0
条の二は事実が真実であれば免責と解している︒
平川教授は挙証責任についても新しい見解を提唱しておられる︒平川教授によれば︑違法性阻却事由は﹁相当の根
七
表現の自由・名誉毀損・証明責任(上村)
るからではないであろうか︒ 拠﹂であり︑﹁真実性﹂法の原則どおり︑検察官にある︒ただし︑﹁真実性﹂の挙証責任は被告人に転換されている︑
﹃相
当の
根拠
﹄
の挙証責任とは別に考えなければならない︒﹁相当の根拠﹂
の存在を証明できなかった場合には︑被告人が﹁真実性﹂
の違法性は阻却されることになり︑﹃真実性﹄の立証の成否はたかだかその違法性阻却が二三
0
条の二によるか三五条
( 3 3 )
ので
ある
︒
によるかを区別するにすぎない﹂
( 3 4 )
刑法三五条の法令による行為を援用しない二元論の代表的論者として︑野村稔教授を挙げることができる︒三五条 を援用しない学説は﹁名誉毀損の憲法化﹂を意図せず︑単に刑法の解釈論に焦点を絞って議論する点において︑平川 合理的根拠にもとづいて事実を摘示し名誉を毀損した場合には︑真実性の証明の有無にかかわらず︑違法性が阻却
され︑名誉毀損罪は成立しないとする︒
そして軽率に事実を摘示して名誉を毀損した場合であっても︑真実性の証明
に成功すれば︑名誉毀損罪は成立するが︑処罰は阻却されるとする︒
真実性の挙証責任については︑野村教授は被告人が負うが︑
であるとする︒ 教授等の見解と決定的に異なる︒ 察官が
七
︱つの条文の中に違法阻却事由と処罰阻却事由 の不存在の挙証責任は︑刑事訴訟
とする︒要するに︑﹁検
の立証に成功してもしなくても行為
ただし証拠の優越の程度の証明で足りると解釈すべき
挙証責任の所在について同じ二元論でありながら平川教授との違いがでてくるのは︑結局︑憲法的視点が欠けてい
この二元説は︑田宮教授によって︑﹁現行法の説明としては︑理論上もっとも難点のすくないものというべきであろ
う﹂と評されているが︑同時に次の二つの点において問題があると批判されている︒第一に︑﹁真実であることの証明
があったとき﹂という文言と正面から衝突するということ︑第二に︑
│ ︶
( 3 6 )
という二つの異質の自由を読みこむことは︑不自然であるということである︒
( 3 7 )
佐伯仁志教授も平川説に対して︑次のような批判を加えている︒﹁事実の真実性を表現行為の憲法的価値にとってニ
次的なものであるとする憲法論にも︑疑問がある︒本来︑表現行為の受取手である国民にとって重要なのは真実の情
報を享受することである︒﹂﹁重要なのは︑真実の主張であって︑虚偽の主張が保護されるのは︑このような真実の主
張を抑制しないために︑やむをえずいわば政策的に保護されるにすぎない︒事実の真実性を表現の自由にとって二次
的なものとする見解は︑逆立ちした議論といわざるを得ないように思える﹂と︒
果たして︑国民が真実の情報のみを享受することが重要であって︑真実でない情報は表現の自由にとって重要でな
いといい切れるのか︑疑問が残る︒この点について︑平川教授が次のように述べているのは︑
( 3 8 )
い る
﹁おもうに︑真実でない情報の流通をも保障することの必要性・有益性は︑次のような点にあるといえる︒ ︒
ま ず
︑
きわめて含蓄に富んで
﹃自己検閲﹄を防止し︑討論を可能にするためには︑誤った言論をも許容することが必要である︒人間に誤謬
は不可避であるから︑誤謬を禁じたならば︑市民は﹃自己検閲﹄を強制され︑自由な討論は成り立たなくなる︒
( I
略
また︑討論というもの自体︑矛盾する言論の存在︑すなわち正しい言論に対する誤った言論の存在を予定するもの
であるまいか︒すなわち︑討論の生命は︑矛盾する言論の弁証法的立場による新しい見地への到達にあるといえよう︒
( I
略 ー
︶
さらに︑言論が誤りであったとしても︑その提示と自由な討論は︑それと矛盾する意見の再考と再吟味を強い︑
七四
そ
の意見が支持されるべき理由についてのより深い意見と︑その意味のより十全な認識とをもたらす︒誤った言論は︑
表 現 の 自 由 ・ 名 誉 毀 損 ・ 証 明 責 任 ( 上 村 )
辞も不可避なのであり︑表現の自由が またアメリカ連邦憲法裁判所が︑
自由な討論における避けられない必要悪として消極的に是認されるにとどまらず︑自由な討論に有益なものとして積
( 3 9 )
阪本教授も虚偽の情報の有用性について︑次のように述べているのも示唆に富んでいる︒
﹁もっとも︑真実の公表だけが表現の自由の名に値するというわけでは決してない︒虚偽事実の公表も︑表現として
固有の価値をもつのではないか︒
ら︒
また
︑
の思
想は
︑
というのは︑事実は虚偽との対比のなかでくっきりと浮かび上がるものであろうか
︵ア︶真偽判定は困難な業であって︑虚偽の公表は表現の自由にとって不可避ではないか︑
その微妙な真偽の判定こそ︑思想の自由市場に委ねたのではないか︑
いとしながら︑他方虚名を保護することに︑疑問はないか︒﹂
七五 ︵イ
︶表
現の
自由
︵ウ︶片や虚偽事実の公表を保護しな
ニューヨーク・タイムズ社事件判決において︑自由な討論においては︑誤った言
﹁生きのびるために必要な空間﹂を持たなければならない以上︑誤った言辞も
保護されなければならない﹂と述べているのは︑意味深長である︒
また︑違法阻却事由説と二元説の主張者の中で真実性の挙証責任が検察官側にあるとする説に対して︑町野教授は
( 4 0 )
次のような批判を加えている︒
﹁真実性の誤信について相当の理由があれば︑名誉毀損罪の構成要件該当性ないし違法性が阻却されるという学説の
なかには︑相当の理由の不存在については検察官が立証責任を負うとするものがあるが︑そうなると︑事実の公共性︑
目的の公益性が肯定された場合には︑被告人は事実が真実であることを積極的に立証しなくとも︑検察官が︑行為時
に存在した事実が虚偽であることを推定させる証拠︵これは︑全部とはいえないまでも︑
ての証拠と同じであろう︶ 極的に是認しうる面があるといえよう︒﹂
大部分事実の虚偽性につい
を提出して︑被告人に誤信の相当性がなかったことの立証をしない以上︑不可罰というこ
とになる︒これは︑被告人が真実性の立証責任を果たさない以上処罰を免れないという二三
0
条ノニの趣旨を事実上無意味にするものであって︑立法論的には好ましいことであるとは思われるが︑解釈論的には無理である︒﹂
町野教授や野村教授のように︑刑法二三
0
条の二を真実性の挙証責任は被告人が負うが︑足りるとする規定である︑と解釈することは︑これまた一種の合憲的限定解釈なのではないであろうか︒﹁合理的な疑
いをこえる﹂程度の立証を被告人に負わせることは違憲の疑いがあるので︑
りると解釈しているのではないだろうか︒そうであるならば︑
が負わされているのであると解釈することも可能である︒もとより合憲的限定解釈を加えずに︑被告人に挙証責任を
負わしている刑法二三
0
条の二は憲法三一条に違反し︑無効であると解釈する方が筋は通っているが︒佐伯仁志教授は真実性の証明は違法性阻却事由であるが︑それでも挙証責任を被告人に転換されることは許される
( 4 1 )
とする︒その理由として︑被害者の名誉の保護と証明上の困難
l
たとえば被害者の行状を調査し︑結果としてプライバシーを侵害する—ーーを指摘する。そして、「被告人の挙証責任は、証拠の優越で足りるとしてはじめて、その合憲
性が肯定される可能性がある﹂と主張する︒この点において︑
しかし︑果たして被害者の名誉の保護と証明上の困難が︑﹁疑わしきは被告人の利益に﹂という刑事訴訟の大原則に優
真実性の証明の法的性格に関する学説の中で︑二元説︑
( 三
ヽ
J
ヽ括
越するものであるか︑については強い疑義が残る︒ その証明は証拠の優越で
その部分を切り捨てて︑証拠の優越で足
もう一歩進めて被告人には前述のように証拠提出責任
理由づけは異なるが︑結論は町野教授と同じである︒
とりわけ平川説が刑法解釈論上で︑最も優れたものである
か否かについて︑門外漢の筆者には判断する能力に欠けているのでなんともいえない︒しかし︑憲法研究者にとって
七六
表現の自由・名誉毀損・証明責任(上村)
( 1 ) ( 2 ) ( 3 )
憲法的名誉毀損法の視点から発想する平川説が︑最も魅力的であることはいうまでもない︒その理由は次の二つであ 第一に︑表現の自由と名誉の保護との衝量を憲法的視点から適切に行っていることである︒平川教授は︑表現の内
( 4 2 )
容を二つに分け︑次のように述べている︒﹁市民が民主的自治を行う上で知る必要があり市民の知る権利が認められる
事実に関しては︑表現の自由が名誉の保護に優先すべきことになる︒
利を保障するために必要な場合には︑
ない︒しかし︑
損罪として処罰されることが許される﹂︑と︒これはアメリカの憲法訴訟上︑﹁定義づけ衝量﹂
( d e f
i n i t
i o n a
l
b a
l a
n c
i n
g )
と呼ばれるテクニックを用いたものである︒名誉毀損的表現やわいせつ表現などの表現の内容を規制する立法の合憲
( 4 3 )
性を判断する基準として高い評価を与えられているものである︒
第二に︑本稿の直接の問題関心である挙証責任の分配についても︑平川説は魅力的である︒たしかに平川説におい
ても他の学説と同じように︑﹁真実性﹂
犯罪の成否に直接関係がないとする点で決定的に異なるし︑
く評価できる︒ る ︒
それが人の名誉を毀損する事実であっても︑
その事実の公表を禁じても市民の正当な知る権利の保障に支障のない場合には︑事実の摘示を名誉毀
の挙証責任を被告人に負わしている点は共通しているが︑﹁真実性﹂
奥平康弘﹃憲法裁判の可能性﹂
奥平康弘・前掲書一六八頁︒
清水英夫﹃法とマス・コミュニケーション﹄
一六
七頁
︒
七七
それゆえ︑このような市民の知る必要・知る権
その公表は許容されなければなら
一四三頁以下に戦前における名誉毀損法について詳しく述べられている︒ の証明が
﹁疑わしきは被告人の利益に﹂の原則に抵触しない点は高
( 4 )
小野清一郎﹁刑法に於ける名誉の保護﹂四九八頁︒
( 5 )
小野清一郎﹁名誉と法律j
四七
頁︒
( 6 )
宗宮信次﹁増補名誉権論﹂三七六頁︒
( 7 )
光藤景咬﹁口述刑事訴訟法中﹂︱二六ー︱二八頁は︑簡にして要を得た学説の整理がなされており有益である︒
( 8 )
前田雅英﹃刑法各論講義﹂一五九頁以下︑﹁刑法演習講座﹂二五二頁以下︒
( 9 )
平野龍一﹃刑法概説﹂一九六頁︒
( 1 0 ) 福田平﹁注釈刑法⑥﹂三七四頁以下︑中森喜彦﹃大コンメンタール刑法第9巻j五四頁以下︒大谷寅﹁刑法講義各論第四版補訂版﹂
一五
八頁
以下
︒ ( 1 1 )
判例時報四五三号︒(12)福田平•前掲書三六八頁、中森喜彦・前掲書五一頁、大谷寅•前掲書一五六ー一五七頁、団藤重光「新刑事訴訟法綱要七訂版」ニ
三九頁︑﹃刑法と刑事訴訟法との交錯﹂八0頁︑平野龍一﹁刑事訴訟法の基礎理論﹂一四一頁︑高田卓爾﹁刑事訴訟法︹二訂版︺﹂ニ0九頁︑松尾浩也﹁刑事訴訟法下新版﹄二四頁︑福井厚﹁刑事訴訟法講義﹂二九五頁︑田宮裕﹃刑事訴訟法﹂︱︱
1 0
二頁︑青柳文雄﹁挙
証責任﹂﹃刑事法講座第六巻﹂所収︱︱八七頁︒
( 1 3 )
町野朔﹁名誉毀損罪とプライバシー﹂﹁現代刑罰法大系3個人生活と刑罰﹄所収三三一頁︒
( 1 4 )
田宮裕﹁表現の自由と名誉の保護﹂﹃現代刑法講座第五巻現代社会と犯罪﹄所収一八九ー一九0
頁 ︒ ( 1 5 )
松井茂記・前掲書一五四頁ー一五五頁︒
( 1 6 )
松尾浩也﹁刑事訴訟における挙証責任﹂上智法学論集創刊号二九二頁︒
( 1 7 )
松尾浩也・前掲書二四ーニ五頁︒
( 1 8 )
佐藤幸治教授も︑﹁一般に挙証責任は被告人にあるとされていること︑および違法性阻却事由説によれば犯罪の成否不明のままに
処罰されるという事態が生ずる点はやはり憲法論的に検討さるべき課題を残していることが指摘されねばならない﹂と述べている
が︑憲法学からの数少ない貴重な指摘である︒芦部信喜編﹃憲法
I I 人権①﹂五0
八頁
︒ ( 1 9 )
清水英夫教授は︑﹁一般に記事の真実性の証明責任は被告人にあるとされているが︑いやしくも虚偽の事実として起訴した以上は︑
ほんらいその事実の真実性の証明責任は検察官側にあるというべきである﹂と述べているが︑これはきわめて常識的な見解であろ
七八