咸錫憲 (ハムソクホン) におけるシアル思想の成立と展開 : 連載論文「聖書的立場から見た朝鮮の歴史」を中心に
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(2) 【目 次 】 序 論】 【 第 1章 :3・ 1独 立運動 の体験 と日本 留学期 (1919∼ 27年 )・ ………………………… 9 第 1節 :植 民地時代 の歴 史的な背景 ・‥‥‥………………………………………… 9 (1)3・ 1独 立運動とキリスト教界 の動 向 (2)成 錫憲 が体験 した301独 立運動 ・ 2節 :五 の 第 山学校で 学 び ……………………………………………………… 016 (1)五 山学校 と設 立者李承薫 (イ スンフン (2)柳 永模 (ユ ヨンモ)と の出会 い 3節 の :関 東大震 災 体験と内村鑑 三との出会 い ・…………………………… 24 第 ). (1)成 錫憲 が体験 した関東大震 災 (2)内 村鑑 三の関東大震災体験 (3)内 村鑑 三との 出会 い ・¨…………………………………………………………… 要約 的考察 ・……………・. 第 2章 :「 朝鮮 の無教会」としての活動期 (1927∼ 42年 )・ ……………………………. 36 38. 第 1節 :厳 しい時代 に教師として ・¨¨¨¨¨¨¨………………………………… 038 (1)五 山学校 の教師として (2)『 聖書朝鮮』編集 の動 向 第 2節 :『 聖書朝鮮 』の活動 と同人たち ・…………………………………………… 048 ヽ (1)『 聖書朝鮮』の活動 (2)『 聖書朝鮮 』の 同人 たち 第 3節 :柳 永模 と日本 の無教会との交流 0… ………………………………………… 63 (1)柳 永模 の寄稿論文 と古典研究 (2)矢 内原 忠雄との交流 0… ……………………………………………………………………………… 73 要約 的考察. 第 3章 :成 錫憲と 『 聖書 朝鮮』誌. 0‥. ………………………………………………………・. 74. ・……………………………………………… 074 第 1節 :寄 稿論文 と時代的 区分 ・¨¨。 (1)前 期 (1927∼ 33年 ) (2)中 期 (1934∼ 36年 ) (3)後 期 (1937∼ 42年 ) 第 2節 :連 載論文「聖書的 立場 から見 た朝鮮 の歴 史」・…………………………… 098 (1)連 載論 文 の構成 (2)論 文 の検閲削 要約 的考察 ・……………………………………………………………………………… … 105.
(3) 第 4章 :預 言者像 と民衆思想 の展 開 ・‥ ……………………………・¨¨・………… 0107 第 1節 :預 言者像 の 展 開 ・…………………………………………… …… …… …… … 107 (1)1928年 の「先 知者 」 (2)1931年 の「アモス書 」 (3)1934年 の詩「預 言者 」 第. 2節 :「 預言者 」と「民衆 」・…… ………………………… … …… …… … … …… … 0116. (1)内 村鑑 三 にお ける「預言者 」 (2)成 錫憲 の連 載論 文 にお ける「預言者 」と「民衆 」 要約 的考 察 ・…………………………………………………………… …… …… … … … … 129. 第 5章 :「 受難 の 女 王 」を中心とした 苦難 の 民衆 史観 ・…………………… …… … ¨ 0131. 「受難 の女 王 」・ ・ ・………………………………………………・ 131 第 1節 :連 載論文 と (1)連 載論文 における「受難 の女 王 」 (2)「 受難 の女 王 」の思想的な背景 第 2節 :「 受難 の女 王 」解釈 の推移 ・…………………………………………………・ 142 (1)1950年 代 :『 聖書的 立場 から見た朝鮮 の歴 史』期 (2)1960年 代 :『 意 味から見た韓 国の歴 史』期 (3)1970年 代 :民 衆化運動期 第 3節 :「 受難 の女 王 」とシアル 思想 ・………………………………………………… 154 (1)「 受難 の女 王 」の解釈 (2)「 受難 の女 王 」に秘 められた奥義 と苦難 の 民衆史観 要約 的考察 ・………………………………………………………………………………… 157. ・…… ・………・¨¨ ・………0-¨ ¨……………・…………………………0159 結 論】 …… 【. レ 年 表 …… … … … … … … … … … … … … …. >参 考文 献. 164. ・…………… …… …… … … …… … …… …… … 179.
(4) 【 序論 】 問題 の 所在 と研究方法. 【 問題の所在 】 今 日の韓 国プ ロテスタントネ 申学運動 の母体となつた 1930年 代 の代表的 な神学として、成錫憲 の土 着的 生命神学、朴 亨龍 (パ クヒョンヨン)の 根本 主 義神学、金在俊 (キ ムゼジュン)の 進歩主義的歴 史神 学、 鄭敬 玉 (チ ョンキョンオク)の 自由主義的実存神 学、そして李龍道 (ィ ョンド)の 聖霊論的信仰復興神学 の 5つ の流れ がある。その 中で、咸錫憲 (1901∼ 89年 )の 土着的 生命神 学 は、シアル 思想 と呼ばれ彼 「アル (せ は の歴史的経験 と実践 の 中で形 成 されたものである。シアル (州 せ)の「シロ は種子 、 から展開された「民衆 の神 実をあらわす韓 国語 で、転 じて「民衆 (peOple)」 をあらわす。この「民衆」 )」. )」. 学」は 1970年 代 か ら韓 国神学を代表する潮流 として 日本 に紹介された経緯 がある。 しかし、その生 み の親 である成錫 憲とその「シアル 思想 」はこれまで必ず しも十分 に注 目されること はなかった。神 学者 でもなく、牧師 でもない彼 が、韓 国教会史 の枠組み で重 要な人物 として評価 され るの は、彼 のシアル 思想 と実践が韓 国教会 はもちろん 、社会 に及 ばした影響力 の大きさをあらわし、 その土着的 な神学が評 価 されていることを示すものである。神 学 の考察 にお いては、悪 の問題や罪 の 問題 が論 じられなけれ ばならない。キリスト教神学 で一 番 の 問題 は、罪ある人間 がいかにして救わ れるのか という問題であり、この 問題を論 じる時に、神や霊性 の問題 が 出てくる。その時、人間 が神 と の 関係 の 中で 、立 体的 に論 じられるのである。というのは、宗教 の問題 は最終的 に悪や 罪 からの解 放 であり、そこで神 と人間との 関係 が論 じられることを通して、人 間 は神 に応 答する人 間 として 自立で きるのである。その意味 で、成錫憲 の前期思想 は神学 の範 囲で論 じられなけれ ばならない。特 に、本 論 文で扱う連載論文「聖書的立場から見た朝鮮 の歴史」の 中では、これまでの歴史を通 して朝鮮 とい う国 が犯した罪 から生じるその苦難 から立 ち上がり、神を見出す ことの可能性 が論 じられているからで ある。ところが 、その実践的な生き方 の影響力 が非常 に大きかつたために、前期 (1930年 代 )の 神 学 思想 は、今 日まで十分 に研 究されてこなかった。しかし、民衆神学者 の朴聖峻 (パ クソンジュン)が「民 衆神 学 の思想的背景として成 錫憲 のシアル 思想 があつた」と明らかにしたように、民衆神学 へ の理 解 を深 めるためには咸 錫憲 の思想 を理 解することがその鍵 となる。 さらに、21世 紀を生きる私たちにとつて成錫憲 の 土着的 な生命神学は多くの示唆を与えている。2 「報復 」という名 の下で殺傷を繰 り返えされるのを 1世 紀 の始まりを暴力的なテロで迎えた私たちは、 十年も見 てきた。しかし、未 だに戦争 とテロは終息していない。また、世界教会協議会 (WCC)は このよ 「暴力を克服す るプロジェクト」(DOV)を 推進 し うな現代 の世界的状況 の 中、2000年 からの 10年 間、 て来た。そんな中、成錫憲 の非暴力運動 が今 日を生きる私たちに示唆するものは何か。1950年 代 の 長期独裁政権と1960年 代以降 の軍事政権 の圧制 に対し、一 貫 して非暴力運動 を貫き、最後 には勝 利 したそのシアル思想の 中には、暴力を克服する思索 と実践 が秘 められていると言 える。 成錫憲は 1920年 代 に東京 に留学し、内村鑑 三 と出会 って多くの示唆を受 け帰国 した「朝鮮 の無.
(5) 教会」の一人であつたことから、日本との関わりは深 いものがある。国を愛すること(ナ ショナリズム)と キ リスト教との間で迷つていた青年成錫憲は、不敬事件を経験 し、東京で聖書研究会を開いていた内村 鑑 三に出会い、毎週その研究会に仲間たちと通うようになった。この時期を振り返り、成錫憲は「人間 としての成熟という点では、まだまだ程遠 い時であつたけれども、私はその時までに、民衆 (シ アル)と しての結実の種は、心に植 え付けられていた」と、内村との出会いを通して物事を考える思想 の土台 がこの時期を前後して築かれたことを明らかにしている。 そのような成錫憲の前期思想は、 『 聖書朝鮮』(1927∼ 42年 )に 掲載された論文を読むことで知るこ とができる。1970年 代の個人誌 『 シアレソリ(`シ アルの声 'の 意)』 にはその後期思想 があらわれている が 成錫憲が神学界にあまり知られてないのは、彼 の 『 聖書朝鮮』時代の思想がないがしろにされ、 1、. だけが取り上げられたことにその原因があると言える。 後期思想である 『 シアレソリ』 『 聖書朝鮮』に掲載 された成錫憲 の論文を理解することなく 『 シアレソリ』を読むことは、彼 の思想を理解 したことにならない。 それゆえ、本稿では咸錫憲の初期思想を代表する 『 聖書朝鮮』とその連載論文「聖書的立場から見た 朝鮮 の歴史」(1934∼ 35年 )を 中心に全体的な思想 の流れを捉 えることで、その思想 の核 心となるもの を導き出し、彼 の主張点を考察する。. 【研究史 】 (1)日 本 の研究 数少ない 中でもこれまでの先行研究として、内本 す鑑 三の研 究者である佐藤全 弘による 『 成錫憲 の 基本思想 』を紹介した 『 全体は多様 の統 一 』という冊子 が挙 げられる。その 中で 、佐藤 は 日本無教会 の立場 か ら内村鑑 三と咸錫憲 の聖書研 究と民族理解 、その預言者 的姿勢を取り上 げ、成錫憲を「苦 「多用なイデ オ ロギーを克服 した人 」として包括 的に捉 えている しか であり、 悩する民衆 の思想 家」 2。. し、本格 的な成錫憲研究とは言 えず 、韓 国 のガンディー と呼ばれる成錫憲 の思想を 日本 に紹介 した 文章 に留まっている。 本格的な成錫憲研 究として、石井智恵美 による優れた成錫憲 の論 文 がある。彼女は、成錫憲 の無 その 教会信仰 の受容 と離齢・離脱 をめぐる思想転換と無教会との論争を論 文「咸錫憲 のシアル 思想 。 基礎形成 期 」の 中で詳細 にまとめた. 3。. その 中で、彼女 は咸錫憲が受容 した無 教会信仰 を3つ に分 け、. 第 1に 神絶対 中心主 義・教会主義 の否 定、第 2に 朝鮮的 なもの 、第 3に 歴 史と結 ばれた信仰であると 認識 している。. 1在 仁植 (司 嘔召 ;チ ェインシック)「 成錫憲q初 期 神学思想 研究 :『 聖書朝鮮』 社赳 詈舎 中心ユニ『 」教授論 業』第 8号 、ソウル神学大学発行 :SeOd、 1997年 、245頁 。 Oll. 2001年 6月 。 佐藤全弘「全体は多様の統一『 」咸錫憲の基本思想』 、. 石井智恵美「成錫憲のシアル (種・民衆)思 想 。 その基礎形成期―無教会信仰 の受容と離脱」 『 キリスト教 史学』第 57 集、日本キリスト教史学会、2003年 7月 、142頁 ..
(6) また 、成 錫憲 と無 教会信 仰 との配齢 を次 の ように取 り上 げてい る。第 1に イエ スより苦難 を負 う人 を 強調 、第 2に 神 の「真 」の 強調 、第 3に 東洋 思想 の影 響 、第 4に イエスと私 の 人格 の 関 わり、人 間 の 自 主性 へ の 問題 に対 す る疑 問、そして、第 5に 贖 罪信仰 へ の 疑 間 である。自由意 志 を持 つ 道 徳 的な人 間 として贖罪 はどの ように成 り立 つ のか とい う疑 間 であり、具 体 的 には「自分 は歴 史 的イエスを信 じる ので はない。信 じるのはキリストである。彼 はイエ スにお いてだ けでなく、私 の 中にもある。そ のキリスト を通 してイエスと自分 は一 つ とい う体験 に入 ることができる。それ ゆえ、歴 史的イエスが我 が罪 の 身代 わりになって死んだといって感 謝 に思 うことは 、一 つ の 自己 中 心的な感 情 であるだ けで 、道 徳 的 に高 い境 地 にはなり得 ない。それ によっては罪 がなくなることはないか らである」とい う立 場 を 1970年 に述 べ ている また 、石 井 は無 教会 との論争 につ いてもわ かりや す くまとめて いる。成 錫憲 と無教 会 主 義 4。. につ い て論 争 を繰 り広 げた人物 として、韓 国 の 無教 会 では慮 平久 (ノ ピョンク)が いる。彼 は咸 錫 憲 が柳 永模 の東洋 思想 の影 響 を受 け、伝 統的な贖罪信仰 を否 定 し、イエスの み がキリストであると信 じる信 「宗 教 の 混乱 」とい う論 文 で 反駁 した。それ に対 する成 錫 憲 の指 摘 は 、 仰 をも否 定 したことに対 して 、 「本 」が基 準 になれず 、キリスト教 の教 義や 知識 に硬 直 した それ は宗 教 混合 主 義 ではなく、聖 書 とい う 態 度 を取ることで 、宗教 の 自己絶 対化 を生 み 出す危 険性 につ ながり、それ がツト 他 主 義 を招 くとい うこ とであった。「キリスト教 は偉 大。しかし 『 真 』はもつと偉 大 」とい う言 葉 にあらわれ てい るように 、宗教 を. 超 えて貫く神 の真を強調 した。同じく、日本の無 教会 との論争も高橋 二郎 との「贖罪信仰」についての 論争 であった。高橋も慮平久と同様 、成錫憲 の「宗教 は一 つ である」とする主張に贖罪信仰 が欠落し ていると指摘 した。そこで 、高橋 と成錫憲 の二人 が直接 、会 つて 2時 間 ほど話 し合 った結 果 、神観 と贖 罪信仰 にお いて一 致 できない点はあるものの 、成錫憲がキリスト者 としてのアイデ ンティティー を保 つ ていることを確認 した. 5。. 石井 智恵美 がその論文 で主 張 したの は、次 の点である。すなわち、成錫憲 は無教会を離脱 して以 後もその 自主独 立精神を徹底 して追及 した。「宗教 が 自分を絶対視する課題 を克服 しようとしたJ点 」に お いて、今 日の宗教多元主義 の先駆 けとも言 える。こうした咸錫憲 の問題提起 は「シアル 思想」の萌 芽となった。1970年 の民主化闘争 の時代 に、非暴力的抵抗運動 の指導者 として、歴 史 の 中に生きる 信仰者 として、これらの思想 が展 開されたと石 井 は指摘 した。 石井 の優れ た先行研 究を受 け、本論 文で考察する論題 を明らかにす るため、次 の2点 を挙 げたい。 「成錫憲 のシアル 思想 の萌芽期」という際 の、年代的 区分 についての 問題 である。石井 はそ 第 1は 、 の年代的なことを明示しない代わりに、そのタイトルが示す「無教会信仰 の受容 と離脱 (1953年 )ま で の時期」をシアル 思想 の基礎形成期 、すなわちシアル 思想 の萌芽期 と見なしている。ところが、その 論文 で主に取り扱 った成錫憲 における宗 教 多元 主義 の論題 は、もちろん無教会離脱後 に思索され たものであるが 、その離脱 直後 から長 い年 月をかけて論議 されていることに注 目しなけれ ばならない。 石 井 がその論文 で示 した無 教会主義者 との論争 (慮 平久 との場合 は、1953年 4月 と 1978年 の成錫 憲 の文章を引用 )及 び 対談 (高 橋 二郎との場合 は、1980年 12月 の文章 )も 同 じことが言 える。これら の論争を石井 が示 す「シアル 思想 の基礎形 成期」に入ると見るなら、いわゆる「成錫憲 におけるシア 4成 錫憲 ネ 『 申の足に蹴られて』、伯裁出版社 :SeOul、 1994年 、38頁 (原 文 『 シアレソリ』1970年 4月 号 5高 橋二郎「苦難の韓国民衆史」世界の福音』、新地書房、1982年 、401頁 (原 文は 『 十字架の言葉』、1980年 )。. 『. 号に掲載されたものである)。. 12.
(7) ル 思想 の基礎形成期 (萌 芽期 )」 はかなり長く、むしろその思想 の形成期 と言うよりは展 開期 として捉 えることができる。 第 2は 、石 井 の論文は 日本 の無教会との 関係 から述 べ られているが、咸錫憲 におけるシアル 思想 の核 心とも言える「シアル 」(民 衆 )が 、基礎形 成期 にどのように形 成 されたかについては論 じられてな い。これまで成錫憲を論じる際、無教会的な側 面 が取 り上げられて来た傾 向にある。. (2)韓 国の研究 成錫憲研 究を内村鑑 三との比 較を通 して韓 国の積極的 に行 つている一 人 に梁賢恵 (讐 嘔司;ヤ ンヒョ 「成錫憲と内村鑑 三の `二 つ ンヘ)が いる。彼女 は論文「成錫憲 における内村鑑 三の無教会的土壌 」と の J'」 にお いて、内村 の無教会的な預言者像 と二つの Jに 触発 された成錫憲 が、自主独立的に民族 的 アイデンティティー として受容 し、創造的な 自画像を具体化 していつたことを論 じている 梁賢恵 が 6。. 指摘する無教会的な土壌 は何か。それ は、神 と人間を直接結 ぶことにより、この世 に独立的な 自我 と して立 つ神 に対 しての「依頼的 な独 立 」であり、この世に対する「自主独 立 」的 で預言者 的な素養 であ った。それは、自由 0独 立の批判 的で抵抗精神 を体得 し、実践することであつた。そこで成錫憲が見 「自ら苦難を負う創造的な受苦者 」という自画像 であったとする結論 を導き出している。し 出したのは、 かし、梁賢恵 の論文 には 『 聖書朝鮮 』(1930年 代 )に 掲載 された成錫憲 の論文 を論ずる際、雑誌発行 の時代的経過 に十分着 日していない側 面 がある。 梁賢恵 による先行研 究に敬意を表しながらも指摘 しておくべきもう一つの点は、成錫憲と内村 にお 「成錫憲と無教会 ける思想 の相違 が明確 に論 じられてない点である。その論 文タイトルが示すように、 主 義 の土壌 」、及び「咸錫憲と内村 の `二 つの J'」 では、具体的な思想 が明確 にされないまま結論 が 導き出されている。というのは、成錫憲 の 晴 J造 的な受苦者」と内村 の「苦難」は、両者 を理解する上で 鍵 となるべき研 究 上の論 点であるにもかかわらず 、内村 の苦難 思想 と成錫憲 のそれはどのような関わ りがあるのカサヒ較 されていない点があるからである。 韓 国では、成錫憲 のシアル 思想 が柳永模 (♀ 電ニ ユヨンモ)の シアル 思想 とどのように相違 している かについて論 じたものが 目立つ。シアル 思想 はもともと成錫憲 の生涯 の師と言 える柳永模 によつて命 「柳永模 の思想 が成錫 名 されたものであり、それを実践し伝播 したのは成錫憲であつたからである。 憲を通 して実を結 んだ」という点 にお いて、二 人 の関係 は師弟 関係 以 上の意味を持 つ が、柳永模 と 「柳永模 が保守的 成錫憲 における思想 の相違 について、民衆神学者安柄茂 幡 可乳 アンピョンム)は 、 な儒教 の思想で近代史を生きた人であるの に対し、成錫憲 は近代史と現代史 を生きており、内村鑑 三の影響を強く受 けながらも、東洋思想 に関 しては柳永模 によつている点 に咸錫憲 の独 自性 がある」 「成錫憲 の宗教観 にお いて、柳永 という的確な評価 をしている _方 で 、姜敦救 け 計 カントンク)は 、 7。. 梁 賢恵 (讐 嘔司 ;ア ンヒョンヘ )「 咸錫憲 における内村鑑 三の無教会 的土壌」 『 創 造と批評』:SeOd、 2001年 秋 号、298 ∼ 314頁 。. 成錫憲記念事業会 (編 )『 ■J量 人卜 せ舎 癸O卜 J(成 錫憲の 安価茂(せ 可干 ;ア ンピョンム)「 シアル思想と 和思想」 思想を探して 、せ?l社 ;ソ ウル、2001年 、56頁 51五. )』. ..
(8) 模 についての言及 が一 切 見られない」と批評 している しかし、このことは成錫憲が柳永模 の思想を 8。. 土台 にしていることは周知の事実とし、咸錫憲 の独 自の思想 を生み出す ことに力を注 いだためであつ たので はないか と思われる。本論文では、成錫憲 の初期思想 (1930年 代 )を 中心に述 べ るため、柳永 模 と成錫憲 の思想 的な相違を論ずるよりは、成錫憲 と柳永模 との思想的な影響 関係 がどうであつたか に焦点を当て論ずる。というの は、成錫憲 においてシアル思想が展 開されるの は、柳永模 が民衆を 「シアル 」と提唱 しはじめた 1958年 以降 のことであり、本論 文はそれ以前 の時期 に焦点をしばつて論 じているからである。 成錫憲研 究そのものについては、成錫憲と共に民衆化運動を担 い 、刑務所 で3年 間を過 ごした組 「成錫憲 のシアル 思想 の土台は 織神 学者朴在淳 (■ 刈金;パ クゼスン)を あげることができる。朴在淳 は、. 1930年 には既 に形 成されていて、1950年 代 の贖罪 を新たに解釈す る時期を経て、1970年 代 から本 格的 に展 開されていつた」と指摘 している また、本論文 で論ずる「産み の苦 しみをする女」については、既 に池明観 (パ 可也 チミョンクァン)が 注 9。. 目し、研 究論 文を発表している. 10。. 「咸錫憲 には苦難 の現実 にお いて、なお新 その論文 で池明観 は、. 郎 の王 は必ず来るという 『 メシア思想』が存在 し、それは藤井武 にも共通 に見られるテー マである」と 「産み の苦 しみをする女」をモチーフに自国像を捉 えた点にお 指摘 している。確 かに、そのタイトルと いて、藤井武 の思想 を成錫憲 のそれと比 較 して論 じたのは画 期的な試 み であつた。その論文 が契機 となって 1988年 に成錫憲は「連載論文 『 聖書的 立場 から見た朝鮮 の歴 史』は藤井武 の 自国像 から示 唆を得ている」と認 めた。しかし、成錫憲 の民衆観 に即して言えば 、この「産み の苦 しみをする女」は 「共同体」)と しての「受難 預言者 を指す「メシア思想 」と解釈 されるよりは、苦難を負う群れ (「 民衆」、 の女 王 」思想 と解釈 されるべ きではないだろうか。 ところで、近年 、咸錫憲 の「受難 の女 王 」モチ ーフについて注 目している学者 がいる。成錫憲 に出会 つたことで鉄道公 務員を辞職 しイギリスに留学 して、咸錫憲 についての博 士論文を仕 上げた金晟秀 11。 その論文 の 中 (4月 十;キ ンソンス)で ある。彼 の英語論 文 のタイトル は、“ Queen Of Suffering"で あつた. で、金 晟秀 は成錫憲を西洋思想 と東洋思想を融合させた人であり、神 の都市 (国 )を この地上 に生きた 人として捉えている。しかし、その金晟秀も咸錫憲 の「受難 の女 王 」を旧約聖書 のイザヤ書 53章 2∼ 5 節 における「苦難 の僕」として取り上げているのである12。. 8姜 敦救 (を 岳千 ;カ ントク)「 柳永模の宗教思想の系譜と宗教思想的意義」 ° l子 摯スせ 卜41♀ 可■― ・ 71仝 l計 (柳 永 『じ l―. 模の東洋思想と神学)』 、韓国神学研究所、2002年 、舎出版社 :SeOul、 368頁 。 9朴 在淳 (亘卜司舎 ;パ クゼスン)の 成錫憲研究としては、著書 『 生のシアル :魂 を明 『 開かれた社会のための民衆神学』、 の から シアル かす思索の光、生命を生かす命のシアル』 取り上げた論文「韓 などがあり、最近は 思想を生命神学 側面 の の い 立に向けての思 の め、 生 生命神学 索を行つて 樹 を行 韓国 宣教史、聖書論に関する論文を含 国 命神学 模索」 がある。 いる。日本でよく知られているのは論文「イエス運動と食膳共同体 :貧 しい者よ、あなたたちは幸いである」 10池 明観 (バ・Jせ ;チ ミョンクァン)「 成錫憲の朝鮮歴史に対する一考察 :藤 井武の 日本史観との比較を中心に」 『 輸林 日本学研究』、翰林大学出版部:SeOd、 1996年 。 H金 晟秀 (4■ キ ;キ ンソンス)は 、成錫憲を「西洋思想と東洋思想を融合させた人である」と評価し、英文の博士論文 「Queen Of Suflb五 ngJを ハングルで翻訳した著書 を出版している。 『成錫憲評伝 ;ネ 申の都市と世俗都市の狭間で』 12金 晟秀 咸錫憲評伝』 2003年 :SeOul、 60頁 、 、 せり出版社 。 『.
(9) ところが、実際、咸錫憲 は 『 聖書的立場から見た朝鮮 の歴 史』(1950年 、第 1版 )を イザヤ書 66章 ∼9節 の「産み の苦 しみをする女」を引用して結んでいる. 13。. 8. このイザヤ書 65∼ 66章 にはイスラエルの. 究極 的な未来 が示され、新約聖書 の「ヨハ ネの黙示録」における「新 しい天と地」という主題 が 同 じよう に述 べ られている。イスラエルの祭儀儀式 における犯 罪を辛らつ に指摘した後 (イ ザヤ 65:1∼ 7)、 「残 さ れた者」を通して行 われる救 いの歴史が描かれている(イ ザヤ 65:8∼ 16)。 そこでイスラエルの民は神 の 選 ばれた者 (15節 )で あり、神 の僕 (13∼ 14節 )と して描 かれている。ところが、このイザヤ書 66章 の「産 み の苦 しみをする女」の 引用 が含まれ た 『 聖書的 立場 から見た朝鮮 の歴 史』(1950年 :第 1版 、1954 年 :第 2版 )が 、タイトル を替 え、キリスト教的土壌 から抜 け出 した思想 を述 べた 『 意味から見た韓 国の歴 史』(1962年 、第 3版 )以 降には、イザヤ書 66章 8∼ 9節 の「産み の苦 しみをする女」の 引用 は削除され ている。 ここに本論文 が提起する問題 の所在 がある。というの は、咸錫憲 の「産み の苦 しみをする女」のモチ ーフがシアル 思想 の核 心 部分 になっているにもかかわらず 、咸錫憲 が連載論文 で取り上げる「受難 の 女 王 」思想 として一 貫 して取り上げられて来なかつたからである。それ は、池明観 がその思想を展 開 し ていく中で 、独 自に打ち出した「残 された民」思想 についても同じことが言 える。ヨハ ネの黙示録 では 、 「産み の苦 しみをする女」が産み落としたメシアは、受難を受 けた後 に神 の栄光 のもとにひき上げられ 、 「残された民」が最後 まで迫害 に立ち向かう場面 が描 かれている。その姿 は、まさに成錫憲 の連載論文 に描かれた「受難 の女 王 」の姿そのもので はないだろうか。本論文はこうした点に論 旨の焦点を当て る。. 【研究方法 】 本稿 では 、成錫憲 (1901∼ 89年 )の 論文 の 中で 、主に 1930年 代 に焦点を当て、その神学思想 を近 現代史 の 中で捉 えることを目標 とする。この時期 の神 学思想 の交流史をたどることは、植 民地時代 の 栄華 と挫折 、抑圧 の痛ましい記憶 が未 だ癒 されていないため、その歴 史研 究は始まつたばかりである。 研 究方法としては、歴史的な考察を基 に宣 教論的考察 を進 めていく方法を取る。ここで宣教論 的な考 察 を行 うということは、本稿 の研 究 が単なる思想 的な比較 に終 らないで本稿 を通して得 られた思想 的 な結論 を今 日の 宣教論 的な視 点 に立 って振 り返ることにその最終 的な意義 が置 かれているということ を指す。また、研 究資料 としては、本稿 の副題 が示 す通り、 『 聖書朝鮮』誌連載論 文「聖書的 立 場 から 見 た朝鮮 の歴史」(1934∼ 35年 )を 用 いることにする。 連載論 文が著書化 されるまでの経緯 は 次 の通 りである。成 錫憲 の連載論 文は 『 聖書朝鮮 』事件 で 「された。ところが 、幸 いにも何 冊 かは焼却 雑誌 関係者 と読者 たちが捕 われた際 、す べ て没収 され焼 去 を免れた。韓 国解放後 に検察庁 の倉庫 の 中で 、あるい は古書店街 で 、あるい は読者 の隠 れ部屋 で残 されたものを探し出し、 『 聖書朝鮮 』全 158号 をそろえることに成功 した。その一セットは独 立記念館 に 13成 錫憲 聖書的立場から 見た朝鮮 の歴史』、星光文化社、1950年 (第 1版 )、 286頁 。なお、このイザヤ 66章 8∼ 9 『. 節 の「産みの苦しみをする女」は 1954年 (第 2版 )に は 302頁 に収められている。.
(10) 寄贈 され、もう一セットは 『 聖書 朝鮮 (影 印本 )』 (1982年 )製 作 の原本 となった。 その後 、解放 直後 に無 教会 の慮平久 (ノ ピョング)が 刊行 していた個人誌 『 聖書研 究』に成錫憲 の連 載論文「聖書的 立 場 から見た朝鮮 の歴史 」が再録された。再録後 の 1950年 4月 、星 光文化社 から単 「聖書的 立場」が固守 されている。検 閲削除 行本 として刊行された。事実上 の初版本 (1950年 )で は、 「解放」(1945年 )に ついての歴史的回顧が付 け力日 された部分が復元 され、 えられた。第 2版 (1954年 、 星 光文化社 )は 、増補再版として 1950年 6月 から 1953年 まで起 こつた韓 国戦争 などの叙述 が追加 さ れた。そして、第 3版 (1962年 、一 宇社 )か らはタイトル を 『 意 味から見た朝鮮 の歴史』に変更され 、多く の部分 が改訂 された。また、1963年 には同 じ第 3版 が崇義社 から刊行された。第 4版 (1965年 、第 一 「歴 史 が与 出版社 )で「シアル 」という表現 が初 めて用 いられている。4019、 5016事 件を加 えると共 に、 える教訓」 も最後 に追加 された。一 方 、第 5版 は三 中堂から刊行 されたが、その 内容 は第 4版 とほぼ同 一である。第 5版 の特徴 は、第 4版 で用 いた「シアル 」が一 般的な「民衆」に変更された点である。そし て、この第 5版 が 1983年 ■■ (ハ ンギル)社 から刊行 された 『 咸錫憲全集』(全 20巻 )の 第 1巻 として出版 「シアル 」 された。1965年 以降に行われた講演および著述では、 も同 じ意味合 いを持 つ用語 も「民衆」 として使われるようになった。これらのことを踏 まえながら、本稿 では 1930年 代前後 の成錫憲 の歴史認 識 とその思想 を検討 するために 『 聖書朝鮮 』に連 載 された論 文を主 に用 いながらも、検 閲削除 された 部分 については 1950年 に刊行された事実上 の初版 (星 光文化社 )を 通して復元す ることにする。. 【 論文 の 構成 】 序論 第 1章 :301独 立 運動 の 体験 と日本 留 学期 (1919∼ 27年 ) 第. 2章 :「 朝鮮 の無教 会 」としての活 動期 (1927∼ 42年. ). 第 3章 :咸 錫憲と 『 聖書 朝鮮』誌 第 4章 :預 言者像 と民衆思想 の展開 第 5章 :「 受難 の女 王 」を中心とした民衆史観 結論 本論 文 は次 のように構 成 され ている。序論 では 、成 錫 憲 につい ての 先 行研 究 を概観 し、そ の 成 果 と 課題 を述 べ 、問題 の所 在 を明らか にした上 で 、本研 究 の 目的と研 究方 法 につ いて言 及 す る。第 1章 で は 、成 錫 憲 にお ける3・ 1独 立 運 動 の体験 と日本 留学期 につ いて考 察す る。第. 1節 では 、植 民地 時代. の歴 史 的な背 景 を301独 立 運 動 が起 こった原 因 とそ の 動 向を中 心 に 、主 としてキリスト者 たちがどのよ うな行 動 を示 したか につい て述 べ 、咸 錫 憲 の 体験 を明らか にす る。 そして 、第 2節 では 301独 立 運 動後 に編入 学 した五 山学校 で の 学 び を取 り上 げた学校 の設 立 者 李 承 薫 (イ スンフン)と 、成 錫 憲 の一 生 を通 して 師 でありつ づ けた柳 永模 との 出会 い につ い て述 べ る。第 3.
(11) 節 では、五 山学校 卒業後 、日本 に留学をしたことで経験 した関東大震 災について、成錫憲 自身 による 回顧 に言及する。そして、内村鑑 三の震 災体験 とその論 点 について触れる。ここでは特 に、内村 の弟 子藤井武が著した一 次文献を引用 しながら、震 災における内村 との相違を論ず る。藤井 は、咸錫憲 の 連載論文「聖書的 に見た朝鮮 の歴 史」の 中で 、その 日本史観 が取り上げられた人物である。その藤井 の 自国観 が転換 した契機 がこの 関東大震 災であつたことを明らかにする。その後 、成錫憲 にとつて内 村 との 出会 いがどのような意義をもつものであったかを論ずる。 「朝鮮 の無教会」を名乗 り、活動 した時期 (1927∼ 第 2章 では、東京 高等師範学校卒業後帰 国 し、. 42年 )を 考察する。第 1節 で、母校五山学校で歴史教師として働く傍ら、 『 聖書朝鮮』同人として活躍 した成錫憲の働きとその苦悩 について述べる。第 2節 では、 『 聖書朝鮮』の活動を3つ (伝 道旅行、冬 季聖書講習会、聖書研究会)に 分け考察 した後、 『 聖書朝鮮 』の同人の中で 3人 の主たるメンバーを 取り上 げ、その主な活動と共に 『 聖書朝鮮 』に掲載された彼らの論文を振 り返ることにする。そして第 3 節では、 『 聖書朝鮮』同人たちと親交があつた柳永模 と矢内原忠雄との交流 について論 じる。特に、矢 内原忠雄 の個人誌 『 嘉信』の読者たちによる朝鮮 の無教会への関心と献金について取り上げる。 続く第 3章 では、第 1節 で成錫憲が 『 聖書朝鮮』に寄稿 した論文の掲載時期 を前期、中期、後期 に 分け、その原文の内容を日本語に翻訳 し、それぞれの時期における寄稿論文の特徴を明らかにする。 第 2節 では連載論文「聖書的 立場から見た朝鮮 の歴史」の 中で、検閲削除された部分はどのような内 容 のものであったのか、1950年 の著書 『 聖書的立場から見た朝鮮 の歴史』と照らし合わせ明らかにす る。 「民衆」思想 の展開を明らかにする。第 1節 では、 第4章 では、成錫憲における「預言者」像と 『 聖書 朝鮮』に掲載された、時期 の異なる3つ の「預言者」について論 じた文章 (1928年「先見者」、1931年 「アモス書」、1934年 詩文「預言者」 )を 取り上 げ、その内容と思想 の推移を明らかにする。第 2節 では、 内村鑑三における「預言者」 像 とどのように関わつているかについて論 じた後 に、連載論文「聖書的立 場から見た朝鮮 の歴史」の中で `預 言者 'と `民 衆 'は どのように言及されているのかを明らかにする。 第 5章 では、第 1節 で「受難 の女 王」と成錫憲 のシアル思想 がどのように関連 しているのかを明らか にし、成錫憲の連載論文の中で「受難 の女王」が引用されるようになつた経緯を論ずる。第 2節 では咸 「受難 の女王」のモチーフが、1950年 代の 錫憲 が民主化運動を推進 していく中で、 『 聖書的立場から 期、そして 1970年 代 の民主化運動期 見た朝鮮 の歴史』 期、1960年 代の 『 意味から見た韓国民衆史』 「受難 の女王」をヨハネの黙 に分け、どのような思想 の推移 が見られるかを明らかにする。第3節 では、 示録 の「残された民」を中心に解釈 し、本論文が一貫して取り上げる咸錫憲のシアル 思想 の核 心とな 「民衆観」を従来の孤独な預言者ではなく、苦難を共にする群れ (共 同体)と しての つた「預言者」 像と 解釈 を論じていく。 そして結論 においては、本論文全体を要約 した後に、咸錫憲のシアル思想が持つ 21世 紀的な意 義 について考察することにする。.
(12) 第 1章 :3日 1独 立 運動 の 体験 と日本 留学期 (1919∼ 27年. ). 第 1節 :植 民地 時代 の歴 史的な背景. (1)3・ 1独 立運 動 とキリスト教界 の 動 向 1919年 3月. 1日 に起きた. 301独 立 運動 は 、その「首謀者」と見なされた「民族代表」と呼ばれる人 々. が宗教人 によつて構 成 されていて、そ の半数 をキリスト教徒 が 占めていたことが 、総督府や 日本キリス ト教界 に大きな衝 撃を与えた. 1。. 韓 国キリスト教 は、福 音を受容 し宣 教を始 めた時 期 に、日本 の侵 略と. 支配を体験 した。 それでは 、この. 3・. 1運 動 はどのようにして起こつたのか ?一 般的 に 301運 動 の背景 には、第 1次 世. 界大戦終戦後 のアメリカのウィルソン大統領 による民族 自決論提唱や パ リ平和会議 の開催などの国際 情勢 の変化 と動きがあつたというのが通説であるが. 2、. 高圧 的な総督府 の「武断政治」の必然的結果で. ある、とする見方も当時からあつた。このような見解 を後押ししているのが 1919年 5月 に発表されたアメ リカ・キリスト教連合会東洋 問題委員会 の報告書 である。 それ によれ ば 、3・. 1運 動 が起きた直接 の原 因 は、万国平和会談 で論議 された、いわゆる民族 自決. の理念 とか 、大韓帝 国の皇帝 (高 宗 の死亡 )の 崩御 ではなく、①韓 国人 の独 立 に対する期待 ② 日本 の厳 しい軍政 と横 暴 ③ 民族性抹殺 へ の危機感 ④ 司法機 関 と行政機 関 における韓 国人 の排 除及 び 差別 ⑤賃 金 、教育、法 の適応 における韓 国人 の差別待遇⑥言論 、集会 、結社 へ の 自由剥奪 ⑦ 宗教 の 自由制 限 ③韓 国人 の海外旅行 と留学禁 止 ⑨ 土地略奪 ⑩ 公娼制度及 び麻 薬放任 ①満 州 へ の韓 国人強制移 民 ⑫ 日本人 へ の優遇 と韓 国人 に対する搾 取 があつたために起きた運動であつ た、と指摘 している. 3。. これら直接 的な原 因 に加 え、301運 動 が起きた重要な背景として、1910年 代 に国 内外で絶えず繰 り 広 げられた独 立運動 家 たちの活躍 があつたことも特記す べ き事である。国内 は、日本 の過酷な圧制 に より団体活動 が一切不可能な状況 であつたために、主に秘密結社 という形 で独 立運動 が持続 された。 新 民会 の残余勢力をはじめとする独 立義軍部 、大韓光復会 、朝鮮 国権 回復 団、天道教救 国団、松竹 結社 隊、韓英書院 の学生 秘密結社 、朝鮮 国民会などが組織され活動 した。 国外 では 、海 外 に亡命 した人 々 を中心に、海外 の韓 国人 が結集 して独 立を準備 するといつた外 交 活動 が活発 に展 開 された。間島 に武 官学校 が建てられ 士 官を養成 したのをはじめ、アメリカでも朴龍 万を中心に国民軍団が組織 され 、組織 的な軍事訓練 が実施 された。その他 にも、中国では新韓革命 党 、新韓青年党などが組織される一 方 、各 々の国 に海外韓 国人会 が組織され、海外韓 国人 の 自治と. 1川 瀬貴也、植民地朝鮮の宗教と学知 (帝 国日本の眼差しの構築)』 、青弓社、2009年 、90頁 。 『 2慣 錆度「301運 動の社会史」韓民族独立運動史研究』、乙酉文化社、1985年 、292∼ 313頁 。 『 3関 庚培(訳 301運 動の秘史 (7)」『 基督教思想』、1966年 、7月 号、100∼ 103頁 (ア メリカ・キリスト教連合会東洋問 )「. The 題委員会による3・ 1運 動に関する報告書《. Korean S■ uationl》. )。.
(13) 独 立運動 が展 開されていつた。 一 方 、国内では 1915年 には「布教規則 」が制定・公布され、宗教干渉を余儀 なくされた。この規則 により、布教者 には資格 証 が要求されるようになり、教会や布教所 の設 立と移転 には総 督 の許 可が必 要 となった。教会 の伝道集会 、祈祷会 、礼拝 にお い ても集 りを妨 害 し、警官 を派遣 して説 教や祈 りの 内容 について厳 しく追究され 、宗教 出版物も徹底的な検 閲を受 けることになつたのである。このような キリスト教 の規制 は、教育界 にお いても行われた。それまでミッション系 の私 立 学校 は、その学風 として 日本 の一方 的な統制 に従 わず 、民族 的で、反 日的な傾 向が強かつた。日本 はこれ らの学校 に統 制 と 「改訂私 立 学校規則 」を公布 し、学校 における礼拝 と宗教教育を 監督を強化する目的で 1915年 に、 「改訂私 立 学校規則」 公布 の結果、それまで 829校 あ 禁 止し、使用言語も日本語とするよう強要 した。 つたミッション系 の私 立 学校 が 、3年 後 である 1918年 末 には、その半分 にも満 たない 323校 になり、30 1運 動進行 中の 1919年 5月 末 には 298校 だけが残こるようになつた. 4。. ところが 、日本 総督府 は 、キリスト教界 にこのような規制 を行 う一 方で、神 道や 日本組合教会など、 いわ ゆる日本的宗教を支援 、奨励 し、韓 国の民族的宗教勢力を弱 める試 みも併行 して行 つていた。そ 「鮮人伝道 の危機 」という記事を書 いて、渡瀬 常吉 に組合教会 の朝鮮布教 のあり方をただ のような中、 した佐藤繁彦 は、 「余輩 は朝鮮 の統治を単に本 国 の立 場 からのみ しないで鮮人 の為 にも深く顧慮す る所があつて、真 に彼等をして言 匠歌せ しめる統治とならんことを願ふ のである。その点から言 へ ば 、鮮人を頑 迷視 し、 何 時迄も武 断的態度を続 け、否な益 々威圧 を強くするといふ やうな方針 は、若 しもそれ が事実 であ るとすると、非常な憂患 の種 になることを疑はぬのである」 「鮮 人を頑迷視」し続 ける武 断政治そのものを批判 し、3・ 1運 動 は武断政治そのものが 引き起 と言 い 、 しかし、組合教会首脳部 の渡瀬 は 、301運 動 を日本統治 の失政 が原 因 と いうよりも、天道教徒 と外 国人宣教師 が主導する朝鮮 キリスト教 によつて引き起 こされた「暴動」であると 「もともと排 日の気性 が 高かった天 道教徒 に、朝鮮 人 キリスト者 が煽動 された」という見解 を 見なした。 こしたとする見解 を示 した. 5。. 組合教会 の渡瀬 は、次 のように示している。 「 一 体朝鮮 の耶蘇教 は吾人がからみると、未 だ基 督教 の真 生 命を握 つ ては居ない。0… …・而して、 ユダヤ教 的 の形式と、偏狭なる愛国 心とを養成 したのであるから、天道教 の如き迷信 団 と提携する ことを厭 はないのである。それ に二 人 の仏教徒も加 つ て居るのである。若 し真 に基 督 の生 命 が活躍 して居れ ば 、今度 の如き騒擾 に関与する筈 がないのである。此 の点に於て朝鮮 の耶蘇教 が如何 に 不徹底 にして、基督 の真精神 に遠 いかが分る。………同 じく基督教徒ではあるが 、我 日本組合教会 員 の態度 は 自ら之に異なって居る。日本組合教会 は内地人 と協力 して布教伝道 に従事 して居る一 団であれ ば 、今 回 の事件 に関与せないの は当然であると思ふ人もあらうが、併 し其 の朝鮮 を愛する ことに於ては、他 の朝鮮 人と異なる処はなく、又た独 立てふ 事を殊 更に厭 ふのでもない。それである. アメリカ長老会海外宣教部文書(Korea,Reli」 ous Educadon Controversy,Japanese Colonial Government)(韓 教歴史研究所 『 韓国キリスト教の歴史 Ⅱ』、27頁 韓哲暖、 『 日本の支配と宗教政策』(朝 鮮近代史研究双書)、 未来社、1988年 、65∼ 67頁 。 )。. 10. 国基督.
(14) の に尚ほ彼等 に走らないの は、基 督教其 のものの 見解 が全然異なつ て居るからである」. 6。. 「騒優」に加 わらなかった組合 このように渡瀬 は、朝鮮人 キリスト者を「ユダヤ的 」で「不徹底」と批判 し、 教会員を賞賛 している。こうした組合教会 の「御 用性 」を示す史料 として、301運 動 の鎮圧 にあたつた 朝鮮 軍参謀部 が 1919年 7月 に提 出 した報告書「宗教家ノ活動及 有為 ナル 宗教家ノ保護」がある。そこ 「耶蘇教。日本組合基督教会ヲシテ積極 的二活動 セシムルヲ要 ス今 回ノ騒擾 二際 シ 同教会 ニ では 、 属 スル 教徒 二 万人 中騒優 に参加 シタルモノー 人 モナシ之ヲ以テ見ル モ如何 二宗教カ ノ偉大 ナルヲ知 ルヲ得 ベ シ」、と組合教会 に対して、最大級 の賞賛 が述 べ られている。 ところが、3・ 1運 動 が起きた 2年 後 の 1921年 、組合教会 は「年次総会」 で朝鮮伝道部 を廃 止 し、朝 鮮 での所属教会を分離独 立させ 、朝鮮会衆基督教会を決議 している これは事実 上 、組合教会 の朝 7。. 鮮伝道撤廃 を意 味するものである。組合教会 による朝鮮伝道撤廃 の最大原 因 は、301運 動を契機 に、 朝鮮 人信者 が組 合教会を大量 に離脱 したことにあつた。301運 動前年 の 1918年 末 には、58の 教会 、 信者 数 14,128(う ち 日本 人 587)人 8を 数 えていた組 合 教会 の信 者 は、1921年 には朝鮮 人信者 が 2,955人 と、約 五 分 の一 にまで激減 していたのである. 9。. 日本 の植 民地下 のこのような弾圧 と迫害 の 中でも、韓 国教会 は成長 し、組織化された。1912年 に長 老会 総会 が組織 されたのをはじめとして、日本 と中国など海外 韓 国人 が居住する地域 に、韓 国人教 職者 を派遣する海外 宣教事業を始 めた。やがてキリスト教界 の機 関紙や神学雑誌 が創 刊されるように なり、1915年 に長老会とメソジスト教会合 同機 関紙 として 『 キリスト教新報』力鴻 J刊 されたのをはじめ、メ ソジスト教会 の 申学世界』(1916年 )、 長老教会 の 申学指南』(1918年 )な ど神 学専門誌創刊 により 『ネ 『ネ 韓 国教会 の質的な成長 がもたらされた。 各教派間 の合 同及び交流も活発 に行われるようになり、1918年 にはソウル 中央 YMCA会 館 で長老 「朝鮮イエス教長 0監 連合協議会」を創 設 した。301運 動 に前後 して 会 とメソジストの各代表 が参加 し、 行 われたこのようなキリスト教界 の教派 間交流 は、エキュメニカル運 動 の精神 と合 い通 じるものがあると 解釈す ることができる。また、教会組織 が発達すると共 に教会員 の数も増加 した。301運 動 の前年度 で ある 1918年 の統計 によれ ば、長 老教会 の会員 が 16万 人、メソジスト教会 の会員 が 3万 人 で 、その他 の小さな教 派も併 せると20万 人を超 えていた. 10。. このような歴 史 の 中で 、韓 国キリスト教 は抗 国民族運動勢力 の一つ としてそのアイデ ンティティを確 立していったのだが11、 1919年. 3・. 1運 動 から 1945年 の 8015韓 国解放 に至るまでの時期 が、まさにそ. の抵抗 と受難 の時期 であった。. 301運 動 の直接 的な発端 は 、活動 が 自由で国際情勢を把握 しやす い 国外 で活躍 していた独 立 運 動家たちによつてもたらされた。第 1次 世界 大戦が終結を迎えるにつ れ、この機 会を独 立の機 にしよう. 6川 瀬 『 新人』、1919年 『植民地朝鮮の宗教と学知』、115頁 (渡 瀬常吉「朝鮮騒擾事件の真相と其の善後策」. 5月 号、 新入社、537∼ 541頁 )。 7川 瀬 『植民地朝鮮の宗教と学知』、91∼ 93頁 。 8川 瀬 『 朝鮮二於ケル宗教及享祀一覧 (昭 和元年十二 『 植民地朝鮮の宗教と学知』、79頁 (朝 鮮総督府学務局宗教課 月末調)』 朝鮮総督府、1928年 、44、 55頁 )。 9川 瀬 『植民地朝鮮の宗教と学知』、96頁 。 10韓 国基督教歴史研究所 韓国キリスト教の歴史Ⅱ』、28頁 。 H韓 国基督教歴史研究所『(編 )『 韓国キリスト教の歴史Ⅱ』、基督教文社 :SeOul、 1991年 、23頁 。.
(15) と、積極的な活動を繰 り広 げた。中国上海では 、1918年 新韓青年党 の代表 であった呂運 亨が 、中国 を訪 問 していたアメリカ大 統領特使 クレーン (CoReCrane)を たず ね 、パ リ平和会議 へ の韓 国代表派遣 「韓 国 の独 立 に関する陳情書」を平和会議議長 とアメリカ大統 領 に伝 達する に対する協力を要請 し、 よう依頼 し、運動資金を集 め、金奎植 をパ リに派遣 した。 一 方 、アメリカで活動 していた大韓人国民会も 1918年 12月 13日 、ニューヨー クで開かれた弱小 民 族 の独 立 同盟会年次総会 に出席 し、民族 自決 主義原則 に基 づ く弱小民族 の独 立 を決議 した。このよ うなアメリカでの独 立運動が、日本で発刊されていた英字新 聞に報道 されたことにより、在 日韓 国人留 学 生 の独 立運動が刺激を受 けた。1910年 代 の在 日韓 国人留学 生は、朝鮮 キリスト教青年会 と朝鮮留 学 生 学友会を中心に結束していた. 12。. 第 1次 世界大戦 の終戦とアメリカで行われている独立運動 の動. 向に接 した在 日韓国人留学 生は 、1918年 の 12月 29日 に行われた留学 生 学友会忘年会 と 12月 30 日に行われた東西連合雄弁大会で、独 立 問題 を議題 に討論 を重ね 、独 立運動を展 開することで合意 した。. 1919年 1月 6日 、朝鮮 キリスト者青年会館で再び雄弁大会を開催 し、10人 の実行委員を選 出 して 独 立 運動 の実践計画を建て、独 立 宣言書を 日本政府 、各 国公 館 、貴族院、衆議院 に送ることを決定 した。留学 生たちはあらかじめ 、宣言書 の草稿 を宋継 白に持たせて国内 に派遣 した。そして、予 定通 り2月 8日 青年会館 に 400名 が集 まって独立宣言書を発表した。このような在 日留 学 生たちの決起 が、 国 内における 301運 動 に決定的な影響を与えることになったのである。国外 の独 立 運動 の流れと緊密 に関連 し、国内で初期 に 301運 動を組織化したの は宗教指導者 と学 生であった。学 生団は初 め学 生 単独 の独 立 示威 運動を計 画 していたが 、天道教・キリスト教・仏教 の連合 を準備 していた宗教界から 誘 いを受 け、これ に合流 する形 となった。 決起 日を 3月 1日 に決め、宣言書に署名する民族代表を教団別 に決 めた後 、天道教 の晋成社 で 、 宣言書約 21,000枚 を印刷 し、各地 に配布 した。独 立 宣言 の場所 は、パゴダ公 園 と決められていたが、 予期 しない事態を憂慮 した朴熙道 の提案 に従 い、前 日に泰和館 に変更された。このことで当 日、宣言 書 に署名 した民族代表 の宣言式と市民・学生 の 宣言式 の場所 が異なることになった。このため 、若干 の混乱があつたものの、それぞれ独 立 宣言式を予定通 り行 い 、学 生・市民は独 立 万歳示威 に突入 し、 民族代表たちは通報を受 けて出動した 日本 の警察 に逮 捕 された。同じ日に、独 立 宣言式と万歳示威 はソウルだ けでなく、事前 に組 織された地方各地でも起 こり、急激 に全 国 に拡大された。万歳示威 は、 初 めキリスト教 と天道教 の勢力 が強 い地域からはじまり、3月 中旬頃 には全国に及んだ。こうした万 歳 示威 は、主 に教 師、学 生 、宗教者など、知識 人 が先導 して、一 般民衆 が参加するのが一般 的であつた。 農 民や 労働者 たちで構 成 された民衆 は、万歳示威 に参加 することで歴 史変革 の 主体 として成長 して いき、彼 らの 中からも指導者 が現れた。このことで 3・ 1運 動 の過程や 、それ以後 の 1920年 代 の労働運 動 と農民運動 が活性化されて行き、民衆 の成長 がもたらされた. 13。. ひとまず 、301運 動 の教会史的な考察 から言うと、韓 国キリスト教 は福音受容 の初期 段階 にお いて、 既 に 日本侵 略 の抵抗勢力として位 置 づ けられていたことがわかる。そのため 301運 動 の 中でキリスト教 12韓 哲暖・蔵田雅彦 (訳 )『 韓国キリ スト 教の受難と 13『. 抵抗』、新教出版社、1995年 、34頁 。. 韓国キリスト 教の受難と抵抗』 、35∼ 36頁 。 12.
(16) が他 の 民族運動勢力 と連帯 して積極的な闘争を繰 り広げたのは 、ある意味にお いて 当然 のことであっ た。その結果 、教会 は莫大な被 害を被 った。けれども、被害を被 ったために、韓 国キリスト教 は「民族 の 宗教」として位置 づ けられるまでになった。この時期を生きた人 々は、この 3・ 1運 動 にどのように関 わつ たかによって、各 々の人生に大きな影 響 を与え、時代 に翻弄された。. (2)成 錫憲 が体験 した3・ 1運 動 これまで 、成錫憲 における思想 の土台となった. 3・. 1独 立運動 の背景 となったものは何であったのか. 301独 立運動 に関わるキリスト教 の動向について考察した。ここでは、その考察を基 に成錫憲 にとつて 「最初 の社会運動 へ の参与」となった 3・ 1運 動 は、どのような出来事であつたかを見ていきたい。 成錫憲は 1901年 に韓 国 の最西北端 、龍川 の人里離れた海辺 に生まれ 、早くからキリスト教 の教育 を受 けて育 った。当時 は 、開花 の意気 込み にあふれた時 代 だつたので 、大人も子供も教育 に熱 心で あつた。ところが 、191o年 、物 心 ついた lo才 の時、日本 が韓 国を併合 し、国 が滅 んだ。山河 は今まで 通 りの 山であり、河なの に、人 間 にしてもあの 自衣 を着 た同じ民なのに、突然 、この 日から自由がなく なってしまった。そのことを成錫憲は次 のように振 り返 っている。 「併合 された民 の悲 しみとは、国 の名 前を「大韓」と言う代 わりに「朝鮮 」と言 わなけれ ばならないこと である。太極旗 を降ろし、日本 の旗 を描かなけれ ばならないことであった. 14。. 「日本を自分 の 国 とは思. いもしないの に、口ではわれ らは 日本 国民 だと言 い 、日本語 を国語だと言 い 、日本人を見れ ば 、心 中では憎 み つつも、表 面 では「ありがとうございます 」と言わなけれ ばならない。牧師も、神 父も、教 師も、自分 が最も愛 し、敬 う父 、子 ども、師匠、弟子 、こうした見えす いた、あからさまなウソをつ かね ばならなかった。これが、韓 国人 が真実を守 り切れなかつた罪 の報 いであつた」 と幼 い成錫憲 は感 じていた また、次 のようにも綴 つている。 「日韓 併合 の 日、成錫憲 は叔 父が何人か の村人 たちと礼拝 堂 に入 り、涙を流 しながら亡 国 の嘆きと 15。. 共 に、いつの 間 にか祈るのを見た。大 の大人たちがこれ ほどまでに嘆き悲 しむ 姿 を見て、自分も涙 「祖 国」とは何なのかを考えさせ られたの は、これが最初であったし、祈 りというものを本 当 していた。 に聞 いたのもこれが初 めてだった」. 16。. このような歴 史的な経緯から、成錫憲 にとって国 へ の思 い と宗教 的な思 い は、表裏 一 体 のものになっ ていた。彼 は生涯 を通して、国を思うことにおいて政治的 ではなく、宗教的 であつたことを念頭 に置 か なけれ ばならない。 や がて. 14才 になった成錫憲は公立の普通学校 に通うようになった。当時 の「公 立学校」と言 えば、. 親 日派 が通うところだと軽蔑 されていた状況 の 中で 、成 錫憲 は村 で最初 に公 立 学校 に通 つた人であ. 14■ 月嘔「. ニ』社召Xl1 ■■七 せ■ユ『 」子 4パ 01型 =嘲 =ユ 1991年 、65頁 )。 『 死ぬまでこの歩みで』、新教出版社、 15成 錫憲 死ぬまでこの歩みで 、新教出版社、81頁 『 』 。 16成 錫憲 死ぬまでこの 歩みで』、新教出版社、21∼ 44頁 。 『. 13. 4■ ,■ dス ト 小杉剋次〈 訳〉 著〉 ,1988嘔 ,102告 (成 錫憲〈.
(17) つた。成錫憲 の父 は 、最期 まで 日本側 につ くようなことはなかったが 、息子を公 立 学校 に通わせたの である。というの は 、彼 は成錫憲 に将来 、医学を勉 強させ ようと考えたからであつた。当時、京畿 (キ ョン ギ)高 等普通学校 と平壌 (ピ ョンヤン)高 等普通学校 の 出身者 は、京城 医学専門学校 に無試験で進学で きる特典があり、成錫憲 の父 は息子が 医学専 門学校 に進 学 し有名 な専門医になって、世 に貢 献する ことを夢見ていたか らである. 17。. その後、16才 になって、彼 は平壌高等普通学校 に入学 した。もしその二年後 に 3・ 1運 動 が起 こらな けれ ば 、成錫憲 はこの学校を卒業 していたであろう。もし、そうなっていれ ば 、医学を勉 強 していたは ず である。もともと、成錫憲 は民族意識 の強 い家庭 に生まれ 、民族 主 義 を背景 としたキリスト教 主義学 校 で初等教育を受 けたのであるが 、公 立の普通学校 で 2年 、高等学校 で 3年 を過ごすうちに、そうい った精神を忘れてしまい、ひたす ら世俗 的な立 身 出世主義的思 い しか持たなくなってしまつた。また、 官 立 高校 2年 の時、病気 の母親 の懇願 により1才 年 上の女性 、黄得順 と結婚 した。 ところが、301運 動 の際、親戚 の兄成錫殷 が帰郷 し、学 生運動を指導 した。彼 は以前 、東京 に留学 し、平壌 の崇徳 学校 の教師 になっていた。そのような関係 で 、成 錫憲 はピョンヤン高校 内での連絡係 りを引き受け、独 立宣言文を前 の晩 のうちに崇実学校 の地下室に行 つて受け取り、当 日、ピョンヤン警 察署 の前で、ばら捲 いたのである。喉も渇 かんばかりに「大韓独 立 万歳. !」. と叫び、手足をね じりあげ. る日本 人巡査 をふ り切 り、足蹴 にされても、踏 まれるままにまかせ 、そして立ち上がった。どうしてそん な勇気 があったのか 自分でもわからないと本人 が回顧 している通りである。彼 が配布 した「3・. 1独 立 宣. 言文」は、次 のような内容であつた。 「 我 らはここにわが朝鮮 の独 立 なること、および 朝鮮 人 の 自主民なることを宣言するものなり。これ をもつて世界万国に告 げ、人類平等 の大義を明らかにし、これをもつて子 々孫 々 に告 げ、民族 自存 の政権を永久 に所有せ しめるものなり。………これ天 の明命なりて、時代 の大勢なり、全人類共存共 生 権 の正 当なる発動なれ ば 、天 下 のなにもの といえどもこれを阻 止 抑制す ること能 わざるものなり。 旧時代 の遺物なる侵略主義、強権 主義 の犠牲となり、有史以来累千年 にはじめて異民族束縛 の痛 苦をなめてここに十年 、わが生 存権 の奪 われしこと幾 ばくなりしか。精神的発展 の損なわれ しこと幾 ばくなりしか。民族 的尊栄 の毀損 され しこと幾 ばくなりしか。新鋭 と独創 、もつて世界 文化 の大潮流 に寄与 貢献する機 縁を失 いしこと幾 ばくなりしか。ああ旧来 の抑欝 を宣揚し、現下 の苦痛を脱 し、将 来 の脅威 を除き、民族的良心と国家的廉恥と正 義を起 死回生 奮起 せ しめ、各個人格 の正 当な発展 を遂 げ、かわいい子弟 に屈 辱 的財産を遺与せず 、子 々孫 々の永久完全なる慶福 を迎えんとす べ き ・……。 か 、最大 の急務 は民族 の独 立 を確 立することなり 」 18。. ところが 、この独 立運動後 に人 々 は大きな犠 牲を払わなけれ ばならなかった。3・ れた回数 1,542回 、参加人数 202万 人で、服役者数 が. 1運 動 の集 会 が開か. 4万 7千 人、死亡者数 7,509人 、負傷者数. 10,006人 となつている. 19。. 17文 大骨 (モ Ell晋 ;ム ンデコル)「 成錫憲の生涯、企画連載. 」 スト 卜 せ(素 の人 『詈仝司dモ (deuL。 五一 ⑨ :0卜 早項三 〇 一 times)』 :Seod、 2010年 10月 27日 。 18韓 国問題キリ スト 者緊急会議 (編 )『 韓国民主化闘争資料集 (1973∼ 1976年 )』 、新教出版社、8頁 。 19韓 国問題キリスト 者緊急会議 (編 )『 韓国民主化闘争資料集』、9頁 (朴 殷植 『朝鮮独立運動之血史』、平凡社 )」. )。. 14.
(18) 3・. 1運 動 の後 、しばらくは戒 厳令 が 出されたが、それも落ち着き、通 つていた平 壌官 立 高校 生徒 の. 殆 どが復学 した。こうして、そのまま郡 20の 書記 になり、郡守 、警部 になり、医者 、弁護 士 になつていっ た。家 でも大 人たちは学校 に戻るように言 つたので 、一 度風 呂敷包 みを抱 えて、平壌 に出たものの 、 成錫憲 は校 門を通 つて 中 に入ることはできなかった。一 緒 に運動 に参加 した友人 の 中 には、行方も分 からない者も出ていたので 、彼 らを裏切ることができなかつたのである。自分 の罪を認 めて、通学する の は嫌 で 、自分 の 中 にある「真理」を曲げることが 出来なかったのである。神が成錫憲 に与えた使 命 と は 、そのようなもので はなかつたからであろう。その時から、成錫憲 の人 生 は、まつたく別 の方 向へ と向 かい始 めた。3el運 動 は 、歴 史 の流れを変えるほどの大事件であつたと同時 に、成錫憲 の生涯 にとっ ても一大 転機 をもたらす事件 となった。成錫憲 は、何 になるのか 分 からないが 、とにもか く官 立 学校 に 「官」は 、敵 になる。体制的志 向を余儀 なくされる 復 学 して医者 になることは、や めることにした。以後 、 官 立 高校 を中退 した彼 は 、その時 か ら「官」なるものを極 めて警戒 し、また批判 して生きる在 野 の人と なつたのであった21。 その 間、漠然 とではあるが 、成錫憲 は失 つたものもあつたが、何 か 大きなものを発 見 した。それから 約 2年 間、咸錫憲 にとって苦難 の 日々が続 いた。ぼ―っと水平線 の 向こうを眺め、泣く日が多くなり、よ 「真 理」を求 め探す者 にのみ与えられる恵 み く妻 と寝床 で泣き明かした、と言われる。その苦 しみ は、 であった。生きる意味を求 め探 して泣くということは、誰もが経験するもので はないか らである。 このような意 味からすると、韓 国史を揺るがした彼 の連載論文 『 聖書的 立場 から見た朝鮮 の歴 史』は、 事 実、成錫憲が生きて来た苦 難 の産物であったということができる。しかし、成錫憲 はその苦難 をも神 からの愛 であると信 じていた22。 「独 立 万歳」の声 は、始 めのうちは、とどまることができなかったが 、次 第 に消えていき、日本 の抑圧 の 下 で生きて行 かなけれ ばならない現実 だけが残 つた。しかし、301運 動 が 当時、教会 で流行していた信 仰復興集 会 のように、終 わるとうら寂 しさが残る感 情的祭 りではなか つた、と成錫憲 は断定している。というの は、3・ 1運 動 は、その後も決 して物寂 しさを感 じることはなかっ たし、興奮 した後 でも、民衆 は落胆 することがなかつたからである。3・ 1運 動を回顧 して成錫憲はこう語 つている。 「301運 動 がなかつたら、私 はまことの人 になれ ぬ まま、人生を終わったことでしょう。………大したこ となどない私 としても、もし、301運 動 の洗礼を受 けることがなかったならば 、深 い覚醒 の境 地はとも か くとして 、人 生 と歴 史 に対す る正 しい方 向感 覚 まで持 つことはできなか ったであろうと思 うので す。………私だけでなく、その 当時、青春時代を送 ったす べ ての同胞がそういう思 いではなかつたか と考えるのです。………時代 の精神 とは、それほど大切 なものなのです。それ は満 潮 のようなもので あり、暴風 雨 のようなものです し、地震 のようなものであります 。‥……時代 が揺れれ ば、その 中のす べ てのものが、影響を受 けないわけにはいきません。それと同 じように、時代 が揺れれ ば 、そこに生 きるす べ ての人 間 の心が 、存在 の核 心 に触れるような影響を受 けるものです 。私 は、その経験 を感. 20行 政区域の単位。日本の村や面に値する 。 21小 杉剋次「あとがき」成錫憲 死ぬまでこの歩みで』 新教出版社、436頁 、 。 『 22文 大 「咸錫憲の生涯、企画連 骨 載⑩ :咸 錫憲、成錫憲の道場、五 山」 『 dedsontimes』 、2010年 12月 22日 。. 15.
(19) 謝 してお ります 」. 23。. 301運 動 は成 錫 憲も言及 しているように 、そ の 時代 を生きた人 々 をす べ て巻き込 む暴風 雨 であり、地震 のようなもので あった。3・. 1運 動 は 、表 面的 には失敗 だと言 えば 失敗 である。しかし、それ を知 りながら. も民衆 は 、志 気 を無 くしたわ けではなか った。民衆 が 落 胆 したのは 、む しろ、ず つと後 のい わゆる 日本 の 文化 政 治 の 下 で 、社 会 の裕 福 な階 層 と指 導者 が 、民衆 を 日本 に売 り渡 し、日本 の 資本 家 と妥 協 し て手 を握 り、金 儲 けをし、何 とか 出世 しようと企 んだことであり、そ こか ら民族 の 分 裂 が始 まった 、と成 錫 憲 は見ていた。 後 に、成 錫憲 は. 3・. 1運 動 を韓 国史 にお い て一 大 エ ポックであったと振 り返 つてい る。それまで の歴. 史 は 、政治 家 の歴 史であり、支配者 の歴 史であり、英雄 主義 の歴 史であった。しかし、この 301運 動 以 後 、種 である民衆 の歴 史 が始 まつた。民衆 自らが 目覚 めて実行 す る、とい う民族 自決 主 義 の 下 に展 開 された運動 であつたのである。成錫憲 にお い て、301運 動 は単なる独 立 運 動 で 終 わらなか った。「真 「真 理 」を成 す ための 戦 いであつた 、と言 う。実際 、咸 錫憲 の 思想 、哲 学 、宗教 の 底 は 理 」を守る戦 い 、 「シアル (民 衆 )」 であり、 「シアル (民 衆 )」 に由来 しているが 、そのシアル は 、彼 が 唯 一 信 頼 していた 「真 理 」力も 出てい ることがわかる。そ の 意 味で、咸 錫憲 の 301運 動 は、国家 主義 の 次 元 でも愛 国 の 次 元 でもなく、民衆 に出 会 い 民 主 闘争 に 目覚 めた契機 となつてい るの である。初 めて体験 した民衆 運動 である301独 立 運 動 を咸 錫憲 は「民衆 が一 つ であるとい う意識 を持 ったところにその意 義 がある」と捉 えて いるのである。つ まり、3・ 1独 立 運 動 の 際 、成 錫 憲 には民衆 とい う種 が 芽 を出し始 め 、そ の芽 生 え があつたからこそ、独 立 運動 当時 の熱 が去 ってからも失 望す ることなく、それ 以後も講 演や 教 育 に情 念 を注ぎ民衆 の 芽 の成長 を促 す ことができたのである。それ らのことを通 して、成 錫憲 は「政治 とは心 低 くして民衆 にまで 降 りた時 にこそ 、成 功す るものだ 」とい う信 念 を持 つ ようになつた24。 3・. 1独 立 運動 を通 して成 錫憲 はそ の 胸 に「民衆 」の 芽 が植 えられたと見ることができる。自分 自身 が. 民衆 であることを「体験 」してこそ 自覚す ることができたのであり、民衆 である自分 を告 白するようになつ たのである。それ 以後 、民衆 と分離 された私 (成 錫憲 )、 民衆 でない私 (成 錫憲 )は 存在 しなくなったと 考 えられ るのである。そ の「底 」を「天 」だと信 じ、その信 仰 を守 り、民衆 の 中で民衆 と共 にして行 った の である。. オ サ ン. 第 2節 :五 山学校 での 学び イ ス ン フン. (1)五 山学校と設 立者李承 薫. 301運 動 に加 担 したことで 平壌 官 立 高等 学校 の 中退 を余儀 なくされた成 錫憲 は 、悩 んだ 末 にそ の 2 23■. 「私が経験し ト召♀ 関東大震災」 召嘔「嘲フ 『 子舎呵外パOl社 書ユニ』社召Xl1 4■ ,239-240告 (日 本語訳では、 た関東大震災『 」死ぬまでこの歩みで』、新教出版社、332頁 に収められている)。 24成 錫憲 死ぬまでこの歩みで』 の 133∼ 134頁 。日本語版は新教出版社の 95∼ 98頁 。 韓国語版は■dス ト 『. 16.
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これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ
自発的な文の生成の場合には、何らかの方法で numeration formation が 行われて、Lexicon の中の語彙から numeration
一︑意見の自由は︑公務員に保障される︒ ントを受けたことまたはそれを拒絶したこと
総合的考察 本論文では,幼少期から調理にたずさわるこ
1970 年に成立したロン・ノル政権下では,政権のシンクタンクであるクメール=モン研究所の所長 を務め, 1971 年
なお︑本稿では︑これらの立法論について具体的に検討するまでには至らなかった︒
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