20 世紀カンボジアにおける言語政策
―正書法 と新造語をめぐる議論を中心として―
笹 川 秀 夫 † The Language Policies in 20th Century Cambodia:
Debates on Orthography and Coinage
Hideo Sasagawa
This paper tries to explore the process in which an ethnic Khmer language became the national one in Cambodia. In order to analyze this issue, activities and debates concerned with orthography and coin- age of the modern vocabulary are discussed.
The committee for editing a Khmer dictionary established in 1915 consisted both of the members who insisted etymological style of orthography and those who asserted phonemic style. A Buddhist monk Chuon Nat took initiative from 1926 and published the first Khmer language dictionary in 1938.
After the perfection of orthography based on etymological style in the dictionary, the
“Cultural Commit- tee
”began to create new vocabularies from 1947. Here again Chuon Nat assumed leadership with his best friend Huot Tat. Word formation of the Cultural Committee rejected Sanskrit-originated words created in Siam and preferred Pali language as elements of the modern vocabulary.
Against these activities, Keng Vannsak lodged a strong objection, and claimed that the Khmer lan- guage had to exclude as many Sanskrit/Pali-originated words as possible to expand primary education. In 1967 the National Assembly recognized Khmer as teaching language at schools, and a new educational magazine
Khemarayeanakam (Khmerization
)was launched. The followers of Keng Vannsak presented another way of coinage which seemed much easier, and advocated a new orthography. Even after the civil war, their new orthography had been employed in education and media. In 2009, however, orthography recurred to the dictionary.
Through a study of vicissitudes of language policies, we can understand the formation and develop- ment of Cambodian cultural nationalism. By the early 1960s, the Buddhist monks attempted to differen- tiate Cambodian modern vocabulary from Thai. Afterward, the advocates of Khmerization who had no longer learned the Thai language aimed at the
“purification
”and
“simplification
”of the Khmer language.
はじめに
1947
年5
月6
日,カンボジアで初めて公布された憲法は,その第2
条で「公用語は,クメール語と する」と規定している1。また,1979
年に成立した民主カンプチア人民共和国が社会主義の看板を下 ろし,1989
年4
月30
日に採択した「カンボジア国憲法」でも,第1
条で「公用語及び文字は,クメー ル語及びクメール文字とする」と定めている。さらに,国連カンボジア暫定統治機構の管理下での選† 立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部准教授 Associate Professor, College of Asia Pacific Studies, Ritsumeikan Asia Pacific University
挙後,
1993
年9
月24
日に採択された現行の「カンボジア王国憲法」も,第5
条で「公用語及び文字は,クメール語及びクメール文字である」としている[
Huot ca. 1998; Jennar 1995;
四本1999
]。カンボジ アは,クメール人が国民に占める割合が8
割ないし9
割とされることから,クメール語が公用語と定 められ,国語としての機能を果たすことは,一見すると当然のように思われる。しかし,国語の制定はきわめて政治的な営為であり,国民形成にあたって国語がもつ重要性は,あ またの事例で検討されてきた。フランス革命以降の国民形成と国民統合で,国語とされたフランス語 がすべてのフランス国民に共有されることが目指され,方言(あるいは「俚パ ト ア言」)と見なされた諸言語 が抑圧されてきたことは,よく知られている。近代日本における国語形成とナショナリズムの関係に ついても,
1990
年代後半以降,陸続と研究成果が発表されるようになってきた2。東南アジア大陸部 に限定しても,ナショナリズム研究と社会言語学の手法を用いた研究の接点は,いくつかの著作で模 索されている3。一方,カンボジア研究に目を転じると,国語研究の蓄積はほとんど存在しない。ペニー・エドワー ズの博士論文や著書[
Edwards 1999; 2007
]は,1930
年代から40
年代の雑誌や新聞を検討し,チュオ ン・ナート比丘が中心となって編纂されたクメール語辞典にも触れて[Edwards 2007: 249
],植民地 期のカンボジアにおける国語の成立に縷々言及している。しかし本稿で検討するように,近代語彙の 造語によって国語の内実を生みだす営為を論じるには,独立後の言語政策を詳しく分析する必要があ る。カンボジアにおける国語は,植民地期をもって完成したとはいいがたい。独立後の言語政策に関する数少ない先行研究として,クン・ソックの著作[
Khin 1999a; 1999b
]が あげられる。クン・ソックの論文[Khin 1999a
]は,1960
年代半ばから始まる「クメール化」の主張 を主な論点とし,当時「クメール化」の運動に関与した人物の手記を資料として用いるなど,参考に なる点も多い。ただし,「クメール化」以前のカンボジアにおける言語政策を代表する文化委員会の活 動にも触れているものの,文化委員会による造語の分析は見られず,また委員会設立の年代に誤りが 見られる4。そのほか,ポル・ポト政権以降での社会主義に関連する語彙を扱った著作[三上
1998; Picq 1984
] も,カンボジアを対象とした社会言語学の研究としてあげられよう。だが,こうした社会主義の用語 に先立って,植民地時代末期から独立後・内戦前の時期にどのような語彙が作られてきたかを検討し なければ,民族語としてのクメール語が国語としてのカンボジア語になった過程を明らかにすること はできない。そこで本稿では,まずクメール語辞典が刊行され,クメール文字の正書法が確立する過程をたどる。
つづいて,辞書の編纂に携わった僧侶らが参加した文化委員会の活動を取りあげ,
1940
年代後半の独 立準備期間から1953
年の独立後のカンボジアにおいて,フランス語からの借用語を置き換える近代 語彙がどのように作られてきたかを検討する。さらに,これら正書法や新造語に対するいくつかの意 見や反論を紹介し,現在にいたるまで国語としてのカンボジア語がたどってきた道程を明らかにする ことを試みる5。1.
辞書編纂,正書法の確立インド系の文字によって表記される東南アジア大陸部の諸言語は,正書法を確立するにあたって,
サンスクリット・パーリ語起源の語彙を語末の黙字まで綴る語源型と,可能な限り発音と綴りを近づ ける音韻型が選択しうる。タイは前者,ラオスが後者を選んだのに対し,カンボジアでは,
1938
年に 上巻が上梓された『クメール語辞典』によって語源型の正書法が確立するが,語源型と音韻型のいず れを選択するかは,20
世紀初頭から議論が重ねられてきた。こうした議論,さらには正書法のあり方 をめぐる対立,辞書刊行にこぎつけた経緯は,この辞書の第5
版にチュオン・ナート比丘が寄せた序文[
Chuon 1967
]と,ジョルジュ・セデスが『フランス極東学院紀要』に寄稿した辞書に対する書評[
Cœdès 1938
]で紹介されている。これらの文献に加え,本章ではカンボジア国立公文書館が収蔵する一次資料を参考にし,正書法確立にいたる過程を概観する。
19
世紀におけるクメール文字の綴りは,ある程度まで語源型を指向していたものの,サンスクリッ ト・パーリ語の綴りを正確に反映しておらず,古クメール語起源の語彙についてもひとつの語に複数 の綴りが用いられる状況だった。1878
年にエティエンヌ・エイモニエが刊行した『クメール語=フラ ンス語辞典』[Aymonier 1878
]は,それぞれの見出し語に複数の綴りを掲載している場合が多々見ら れる。こうした状況を改善するため,1904
年11
月23
日に公布されたカンボジア理事長官令72
号に よって,「クメール文字の修正に関する委員会」が設立された6。しかし,プノンペン市公教育局局長,カンボジア仏教界の多数派モハーニカーイ派の僧王タオンらが参加した委員会が,活発に活動してい た様子は資料からうかがえない。
1911
年9
月12
日に理事長官令が再度公布され,正書法確立とク メール文字のタイプライター開発のための委員会があらためて設立されるが7,正書法をめぐる議論 が本格化するのは,以下に述べる「辞書編纂委員会」においてとなる。1915
年9
月4
日の王令67
号により,辞書編纂委員会は設立された8。軍事・教育大臣ポン,ピアヌ ヴォン親王,ソティアルオホ親王,当時のカンボジアを代表する詩人オクニャー・ソットン・プライ チア・アンらが成員となり,1919
年11
月15
日の王令88
号で,チュオン・ナートとともにモハーニ カーイ派の改革9を主張していたフオト・タート比丘が成員に加わった10。ここで,語源型と音韻型,それぞれの主張の対立が顕著となる11。委員会の成員のうち,誰がどの ような主張をしたかを具体的に示す資料は残っていないが,パーリ語学習を重視する僧侶が語源型に 与したことは想像できる。一方,音韻型の唱道者は,新たな母音の記号を導入してでも,綴りを発音 に近づけることを主張した。対立の激化は委員会の機能不全を招き,ルイ・フィノー,ジョルジュ・
セデスといったフランス極東学院の研究者に意見を求めたものの,「どちらも利点あり」という玉虫色 の回答しか得られなかった[
Cœdès 1938: 317
]。状況を打開するため,
1926
年7
月19
日に王令53
号が公布され,辞書編纂委員会が提案した正書法 の可否を検討する委員会が設立されて12,チュオン・ナートがこの委員会の成員となった。委員会は8
月24
日と9
月8
日に会合をもち,語源型の採択を決定した[Ibid.: 319–320
]。音韻型を主張する人々 が納得していなかった様子が1926
年10
月28
日に催された閣僚評議会第511
回会合の議事録に記され ているものの13,チュオン・ナート主導のもと,語源型の正書法にもとづく辞書の編纂が進められる ことになった。1927
年11
月30
日,王令78
号によって辞書編纂委員会の成員があらためて任命され14,王立図書館 保存官および仏教研究所事務局長のシュザンヌ・カルプレス,チュオン・ナートらが成員となり,辞 書編纂作業が続けられた。そして1938
年7
月,『クメール語辞典』上巻が王立図書館から刊行された15。さらに下巻は,
1943
年2
月8
日付のインドシナ総督令によって王立図書館を併合した仏教研究 所16から同年12
月に刊行されて17,翌月から販売,配布された18。1967
年に出版された第5
版の序文で,古クメール語起源の語はアンコール碑文を検討して綴りを確 定したこと,サンスクリット・パーリ起源の語は語源にしたがって綴るべきこと,かつて音韻型の主 張にあった新しい記号は採用しないことなどをチュオン・ナートは述べている[Chuon 1967: kh
]。この辞書に見られる語源型の綴りこそが,第
7
章で論じるように「クメール化」の主張が綴りを変更 するまで,クメール文字の範例となった。1970
年7
月1
日には,国家元首令413-CE
号によって,この 辞書を「チュオン・ナート師の辞書」と公式に呼ぶことが決定した19。2.
クメール語とタイ語の借用関係クメール語とタイ語の歴史的な関係は古く,アンコール時代の古クメール語の語彙がアユタヤに伝 わり,現在でもタイ語にクメール語からの借用語が多々見られることは広く知られている。クメール 語には動詞に接中辞を挿入して名詞を作る造語能力があるのに対し,タイ語にはこうした機能はな い。したがって,たとえばタイ語の「歩く」
/dǝǝn/
と,接中辞を含む名詞形/damnǝǝn/
(「行幸」など の意)は,それぞれクメール語の「歩く」/daǝ/
とその名詞形/dɔmnaǝ/
(「旅行」「いきさつ」などの 意)の借用語である。クメール語とタイ語の交流は,やがて影響関係を逆転させた。クメール語がタイ語からの借用語を 多用することになったのに加え,
18
世紀までにクメール語の統語論(syntax
)もタイ語から影響を受 けるようになった[Huffman 1973: 507; Jacob 1993: 42
]。その結果,古クメール語>タイ語>クメー ル語という借用関係を示す語彙も存在する。たとえば,古クメール語の“trvāc
”「警護する」がタイ語 に取り込まれ,ตรวจ
となるが,タイ語では末子音c
が/t/
音になるため,クメール語で再借用された際,
្រតរ /truot/
と末子音がt
で綴られるようになった。古クメール語の語彙が現代クメール語にそのまま伝えられていたならば,この語は
្រត� /truoc/
となるはずである20。加えて,近代語彙でもタイ語からクメール語への借用関係が観察される。たとえば現在,カンボジ ア王国政府の公官庁が発布する文書のレターヘッドには,一行目に
្រពះរជ្ណណច្ររ
「カンボジア王国」,二行目に
ជត សា肤 ្រពះមហា្ក
「民族,宗教,国王」と記されている。植民地期の文書で「カンボ ジア王国」という語は្រក�រកមក�ជធិប
と記されていることから21,រជណ
「王国」という語が近代語彙の ひとつであることが分かる22。この語は,英語の“kingdom
”に相当する語彙として,パーリ語āṇā
と サンスクリットのcakra
を合成し,タイでラーマ6
世王が造語したราชอาณาจักร
に由来する[冨田1997: 1270
]。19
世紀半ばから20
世紀初頭,カンボジアの王族や僧侶らはタイ文化,タイ語の強い影響下にあった。そのため,フランスがもたらした近代的な概念をクメール語に訳す際,シャムでサン スクリット・パーリ語を用いて造語した近代語彙が参照されたと考えられる。
ただし,カンボジアの人々がこうした語彙をタイ語起源であると認識しているか否かは,タイ語の 学習経験や知識の有無による。後述の通り,文化委員会による新造語が普及した結果,サンスクリッ ト・パーリ語を使用したカンボジア独自の近代語彙も多数存在することから,近代語彙に関するタイ 語との共通性や影響関係を知るには,かなりの程度まで両言語に精通している必要がある。ここで,
東南アジア大陸部においてサンスクリット・パーリという古典語が果たしてきた役割に関して,東ア
ジアにおける漢語との類似が指摘しうる。韓国では,
1946
年6
月に国語浄化委員会が設置され,日本 語からの借用語を排除することが目指された。この委員会の活動を通じて,日本語からの借用語であ ることが容易に判断できる語彙,すなわち漢字で書けない語,漢字の訓読みが含まれる語,当て字で 書かれる語は,韓国語の「純化」という目的から使用しないことが定められた。しかしながら,漢字 を音読みにする日本語の語彙,すなわち和製漢語は,日本語からの影響であることが判断しにくい。そのため,「運転」「映画」「鉛筆」といった語彙が韓国語に残存する結果となった[鄭
2003: 237–250
]。東アジア,東南アジアとも,ナショナリズムの影響を受けて,隣国からの文化的な影響が声高に語ら れなくなる場合が多い。しかし,古典語を用いた近代語彙は,もともとその古典語やそれにまつわる 宗教などの文化を共有していることから,実際の起源を判断しにくくする効果をもつ。したがって,
必ずしも良好な関係にない国々で,古典語を用いて造語された共通の近代語彙が使われる場合も多 い。
カンボジア王国政府のレターヘッドに見られる語句では,「王国」に加えて「民族,宗教,国王」と いうスローガンも,シャム国王ラーマ
6
世が国民形成,国民統合を推し進めるために多用したもので あることが知られている。管見の限り,カンボジアにおける「民族,宗教,国王」というスローガン の初出は,1949
年に『カンプチェア・ソリヤー』誌上で文化委員会による新造語の連載が始まるにあ たって,小説『パイリンのバラ』の著者として知られるニョック・タエムが寄せた序文である[Nhok
1949: 243
]。さらに翌年,彼は『民族,宗教,国王』という題の書籍を上梓している[Nhok 1950
]。ニョック・タエムは僧籍にあった
1918
〜1930
年にシャムへと留学し,その留学時期はラーマ6
世王の 治世と重なる。ただし,自身の著作のなかでニョック・タエムは,このスローガンがタイからの影響 であることには触れていない。1940
年代前半,タイ=仏印戦争の影響を受けて以降,カンボジアとタ イの文化的な差異が強調されるようになり,カンボジアの出版メディアでタイからの文化的な影響が 声高に語られることは少なくなった[笹川2006: 195–198
]。ニョック・タエムの沈黙も,こうした流 れのなかで理解できる。ほかに近代語彙の例としては,太陽暦(グレゴリオ暦)の月の名あげられるが,タイ語と綴りが共 通する月の名,相違する月の名,双方が見られる。植民地期のカンボジアでは,太陽暦の月の名を表 わす際,フランス語の“
Janvier, Février, Mars, etc.
”をクメール文字で表記していたが,1940
年代後半 から黄道十二宮にもとづく月の名に変更した。クメール語雑誌『カンプチェア・ソリヤー』誌は1947
年5
月刊行の第19
巻第5
号から月の名の表記を変更し,後述の文化委員会が同誌に連載した新造語の 一覧表は,連載3
回目にあたる1949
年7
月の第21
巻第7
号に新しい月の名を載せている23。表1 タイ語とクメール語における太陽暦の月の名の対応関係と、それぞれの語源
対応関係 語源 対応関係 語源
1月 T=K S=P 7月 T≠K T<S, K<P
2月 T=K S=P 8月 T≠K T<S, K<P
3月 T=K S=P 9月 T≠K T<S, K<P
4月 T=K S=P 10月 T=K S=P
5月 T≠K T<S, K<P 11月 T≠K T<S, K<P
6月 T=K S=P 12月 T≒K S=P
1947
年以降にカンボジアで使用されるようになった新しい月の名を,タイ語と綴りを比較し,かつ それぞれの語源がサンスクリットかパーリ語かを整理すると,表1
のような結果が得られる。1
月,2
月,3
月,4
月,6
月,10
月はタイ語とクメール語の綴りが一致し(表1
では等号で表記),12
月は両 者の綴りがほぼ等しい。しかし,もともと語源となったサンスクリット・パーリ語が共通の語彙を使 用しているため,タイ語とクメール語がそれぞれサンスクリット・パーリ語のいずれを語源としてい るかを知ることはできない。一方,
5
月,7
月,8
月,9
月,11
月は,タイ語とクメール語の綴りが一致せず(不等号で表記),タ イ語はサンスクリット,クメール語はパーリ語を語源としている。したがって,タイ語とクメール語 の綴りが等しい,もしくはほぼ等しい月の名についても,タイ語はすべてサンスクリットを,クメー ル語はすべてパーリ語を語源としていることが理解できる。カンボジアにおける近代語彙は,タイ語の影響を受けつつも,太陽暦の月の名に見られるように,
必ずしもタイ語の近代語彙をそのまま借用しているわけではない。カンボジア独自の近代語彙も数多 く存在し,こうした独自の造語を担ったのが,僧侶らを中心的なメンバーとする文化委員会だった。
3.
文化委員会の設立文化委員会が設立された目的は,政治的な独立が意識されたことを契機に,言語も「独立」が目指 され,フランス語からの借用語を置き換えて,クメール語の近代語彙を整備することにあった。第二 次世界大戦期のフランス領インドシナは,
1940
年6
月22
日にフランス本国がナチス・ドイツに敗北 し,翌7
月10
日にヴィシー政府が成立したことで,日本とヴィシー政府の二重統治下に入った。その 後1945
年3
月9
日,日本軍が「明号作戦」によってフランス領インドシナ軍を武装解除し,12
日,日 本軍政下の名目的なものながら「カンプチア王国」の独立が宣言された。同月24
日に公布された王令(
Kram
)13
号は「文化委員会」を設立し,第1
部門として国民文化,第2
部門として外国文化を扱うこ とを定めた。設立の目的として,5
月14
日からの新学期にクメール語を教授言語とすること,科学・技術に関するクメール語の語彙を作成すること,教科書を編集・出版し,古典書籍を選別すること,
外国人の著作を翻訳し,外国文化を普及すること,以上
4
点が王令に述べられている24。また,同日付 の勅令(Kret
)24
号によって文化委員会の成員が任命され,国民文化部門は仏教研究所のチャープ・ピンが,外国文化部門は国民教育省プロパガンダ局長で小説家としても知られるクム・ハックが事務 局長に就任した25(表
2
)。しかし,こうして創設された文化委員会は,日本の敗戦とフランスの再植民地化によって,目立っ た成果を世に問う前に解散せざるをえなかった。
1945
年12
月14
日,「カンプチア王国」の独立が取り 消され,翌1946
年8
月19
日には,王令212
号により文化委員会設立に関する王令が撤回された26。た だし,フランスの統治がインドシナで回復されたとはいえ,1946
年1
月7
日,フランス=カンボジア 暫定協定が調印され,フランス連合内での内政自治が承認された。その結果,言語政策もカンボジア 王国政府が独自に策定できる余地が生まれ,1947
年11
月21
日,王令383
号によって国民教育委員会 を設立すること,第1
部門として文化委員会,第2
部門として教育委員会を設置することが決められ た27。1947
年12
月16
日,国民教育大臣令(Prakas
)3235
号によって,文化委員会の成員が任命された28。表2 文化委員会の成員(出典:カンボジア官報各号)◎が副議長,○が成員
氏名 所属・肩書き 1945 0324 1945
0827 1947 1216 1956
0105 1957 0202 1958
0102 1961 0308 1962
0103 1963 0930 1964
0225 1964 0907 1965
0312 1966 0831 1968
0314 Kret
24 Kret 221
Pr
3235 Pr 3 Pr
368 Pr 24 Pr 659
Pr 28
Pr 2925
Pr 640
Pr 2980
Pr 1078
Pr 2460
Pr 554
Chap Pin 仏教研究所 ○ ○
Ouk Mauth トリピタカ編纂委 ○ ○
Menh Nakry トリピタカ編纂委 ○ ○ ○
Tin Ruot トリピタカ編纂委 ○ ○
Oum Peou 教員 ○ ○
Chhim Soth 教員 ○ ○
Tim Prak 教員 ○
Kim Hak 教育省 ○ ○
Ung Tong Phkar 教員 ○
Chuon Nat 僧侶 ◎ ◎ ◎
Huot Tat 僧侶 ○ ○ ○ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
Tep Ou 僧侶 ○
Sau Hay 僧侶 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Van Sadum 僧侶 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Pang Khat 僧侶 ○ ○ ○ ◎ ○ ○ ○ ○
Martini [François?] 宗教大臣顧問 ○
Ieu Koeus 国会議長 ○
Thonn Ouk 閣僚評議会官房 ○
Nou Hach 内務大臣秘書 ○ ○ ○
Niek Nou 儀典課長 ○
Chhim Krasem 仏教研究所 ○
Nhok Them 仏教研究所 ○
Pou Um シソワット高教員 ○
Tchoum Tuoth プノンペン市職員 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Ponn Supheach 僧侶 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Chea Uom 公教育局長〜
国会議員
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Yim Venn 宗教省職員〜
初等教育視学官
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Sam Thang 財務省職員 ○ ○
Ray Buc 情報省職員 ○
Pen So プノンペン視学官 ○
Chum Tuot 観光課 ○ ○ ○
Svay So ○
Chau Sau 国立銀行 ○
Meas Yuth ジャヤヴァルマン
7世博物館
○
Tan Kim Yuon
[Huon] 水道森林局 ○ ○
Chau Seng 師範学校 ○
Pheng Kanthel プノンペン衛生局 ○
Ho Tong Lip 農業学校 ○
Ouch Venn ○
Sam Thang 官吏ヴォレアモン
トライ
○ ○
ここで選出された人物は,
1945
年3
月当時の成員とは全員が異なる(表2
)。文化委員会の議長は歴代 の教育大臣が務めることとなり,実質的な権限は副議長にあったと考えられる。そして,初代の副議 長にはチュオン・ナートが就任し,フオト・タートも成員となった。その後,1950
年代から60
年代を 通じて文化委員会の成員はしばしば交代が見られるが,ほぼ常時チュオン・ナートもしくはフオト・タートが副議長を務めている。
彼らが委員会で重要なポストに就いた理由として,その語学力があげられる。青年期に彼らが語学 力を伸ばした経緯は,
1969
年9
月25
日のチュオン・ナート入寂を機に,フオト・タートが執筆した『わが良き友』という題の回想録に詳しい[
Huot ca. 1970: 2
]。1911
年ごろから,両者はモハーニカー イ派の総本山であるプノンペンのウンナローム寺に止住し,親交を深めた。当時のカンボジア仏教界 では,フランスによる植民地化から数十年を閲していたとはいえ,タイ語を学び,シャムに留学して パーリ語の学習を進めることが一般的だった。そのため,二人は僧房で隠れてフランス語の学習を開 始し,最初はクメール人,のちにフランス人の先生からフランス語を習った[Ibid.: 4
]。さらにパーリ 語のみならず,大乗仏教を含めた仏教全般の理解にはサンスクリットを学ぶ必要があると感じ,寺を 訪れたインド人のピーナッツ売りにサンスクリットとデーヴァナーガリー文字の知識があると聞い て,この人物に師事した[Ibid.: 5
]。1922
年,プノンペンのパーリ語学校が高等パーリ語学校へと改組され,ハノイに本部を置いていた フランス極東学院が運営に携わることが決まった29。フランス極東学院のルイ・フィノーはプノンペ ンに赴き,僧侶をハノイに留学させ,帰国後に同校で教鞭を取らせるという案を各方面に伝えた。プ ノンペンの国立公文書館には,フィノーの提案を受けて,1922
年2
月11
日にカンボジア理事長官府第2
局が,ハノイに留学させる僧侶2
名の推薦を軍事・教育大臣に求めた書簡が残されている30。また,氏名 所属・肩書き 1945 0324
1945 0827
1947 1216
1956 0105
1957 0202
1958 0102
1961 0308
1962 0103
1963 0930
1964 0225
1964 0907
1965 0312
1966 0831
1968 0314 Kret
24 Kret 221 Pr
3235 Pr 3 Pr
368 Pr 24 Pr 659 Pr
28 Pr
2925 Pr 640 Pr
2980 Pr 1078 Pr
2460 Pr 554
Meas Saem 元最高裁判事 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Mau Say 会計検査官 ○ ○ ○
Keng Van Sak 教員 ○
Khieu Komar 教員 ○
Thao Kun 教員 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Tep Yok 会計副検査官 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Eng Soth 裁判所長 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Ros Ho 教員 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Hell Samphar クメール作家協会 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Meas Chheng 情報省 ○ ○ ○
Sien Khandy ネアック・チアッ
ト・ニユム紙
○ ○ ○ ○ ○
Aum Leng Eang 教員 ○ ○ ○ ○ ○ ○
Khuon Chhiek 農業・食料技術者 ○ ○
Soeur Kean 国営ラジオ局長 ○ ○ ○ ○
Dy Rang 宗教省 ○ ○ ○
Oeur Kim San 王立芸大教員 ○
表2 つづき
フオト・タートの回想録によれば,フィノーが高等パーリ語学校校長のタオン比丘に人選を依頼し,
チュオン・ナートとフオト・タートが推薦されたという[
Ibid.: 37–39
]。1922
年から1923
年にかけ て,両名は極東学院でフランス人の東洋学者に師事し,パーリ語,サンスクリット語のほか,ヴィク トル・ゴルベフ(Victor Goloubew
)からインド仏教史,レオナール・オルソー(Leonard Aurous- seau
)から中国仏教史を,フィノーからは古クメール語とアンコール碑文の読み方を学んだ[Ibid.:
47
]。かくしてサンスクリット・パーリ語,フランス語,古クメール語に通暁していたのに加え,チュオ ン・ナートとフオト・タートの伝記から,両名がタイ語やラーオ語の会話能力も身に着けていたこと が知られる31。こうした語学力が,文化委員会の副議長としての職務のなかで存分に発揮されたであ ろうことは想像に難くない。
「民族,宗教,国王」というスローガンに関連して先述したニョック・タエムも,
1947
年12
月16
日 付の国民教育大臣令3235
号で文化委員会の成員に任命されている。1903
年6
月22
日,当時シャム領 だったバット・ドンボーン32州ソンカエ郡スヴァーイ・ポー村で生まれたニョック・タエムは,1918
年に沙弥として出家し,シャムへ留学した。1930
年,カンボジアに戻るまでシャムで僧籍にあり,パーリ語の国家試験も複数回にわたって受験・合格している。帰国後は仏教研究所のトリピタカ編纂 委員会に参加し,
1938
年に還俗したものの,仏教研究所の仕事を継続,『カンプチェア・ソリヤー』誌 の編集長となった。1942
年から1946
年まで仏教研究所の事務総長を務め,この間1943
年に発表した 小説『パイリンのバラ』は1958
年から中等教育の教材として用いられた。1946
年,仏教研究所を辞 職して,リセ・シソワットで教職に就き,1950
年から1957
年は教育省に勤務した[Jacob 1996: 76–
77; Khing 1993: 54–56
]。こうして獲得されたタイ語,パーリ語といった語学力,文学や教育に関する知識が,ニョック・タエムを文化委員会の成員に選出した理由としてあげられよう。
僧侶や仏教研究所関係者に加え,
1947
年に文化委員会の成員に任命された人物には数名の政治家も 含まれている。そのうち注目に値するのは,言語学者としても名高く,民主党の指導者として国会議 長の立場にあったイアウ・カウフである。イアウ・カウフは1905
年,シャム領バット・ドンボーン 州ソンカエ区で生まれ,タイ語の知識も身につけていた。同州のコンダール寺,公立小学校,プノン ペンのシソワット中学で勉学を重ねたあと,1925
年から1927
年にはハノイの商業学校に留学した。1940
年,植民地人民代表議会に選出されて政治と関わるようになり,1945
年,日本軍政下での「独 立」時には経済省副大臣に就任した。1946
年,シソワット・ユッテヴォン殿下が結成した民主党に参 加し,1947
年7
月17
日のユッテヴォン党首の急逝によって民主党党首に就任した。同年に著書『ク メール語』を刊行しており,その内容は第5
章で検討する。1948
年1
月から1949
年には国会議長を務 めたものの,1950
年1
月14
日,党大会の場に投げ込まれた手榴弾により暗殺された[Corfield and Summers 2003: 168–169; Ieu 1947: kh-ch
]。かくして40
代半ばで夭折した人物ではあるが,1940
年代 後半の独立準備期間を代表する政治家であり,著書『クメール語』が現在でもカンボジアで広く流通 していることから,国語が成立する時期のカンボジアを代表する言語学者の一人であるといえる。4.
文化委員会による新造語文化委員会によって作成された新造語は,
1949
年4
月から1951
年5
月まで33と,1961
年1
月から1963
年4
月までの2
度にわたり,仏教研究所が刊行する『カンプチェア・ソリヤー』誌で公開された。公開の方法は,フランス語と新造語の対照表を掲載するというものである。本章では,これら新造語 の語源を個別に検討し34,サンスクリット,パーリ語,クメール語,タイ語,フランス語,英語から の借用語の割合を計測する。そして,シャムで作成された近代語彙が,どの程度までクメール語に影 響を与えているか,クメール語独自の近代語彙を作成することが目指されたか否かといった問題を検 討する。
『カンプチェア・ソリヤー』誌に連載が始まった
1949
年4
月号は,1947
年5
月6
日に公布されたカン ボジア王国憲法で使われているフランス語の語彙をクメール語と対照しており,以後の連載には,委 員会の会合がもたれ,クメール語の語彙が確定した期日が記されている。その期日から,連載された 語彙対照表は,1945
年3
月24
日に初めて設立された文化委員会によるものではなく,1947
年にあら ためて設立され,チュオン・ナートもしくはフオト・タートを副議長とする時期以降の活動記録であ ることが分かる。ここで,
1949
年4
月から1951
年6
月までの連載1
期目を分析した表3
と,1961
年1
月から1963
年4
月までの連載2
期目を分析した表4
の表記について略述する。K
=T
は,文化委員会が採択したクメー ル語の語彙がタイ語と語源を同じくし,かつ綴りが等しいこと,K
≒T
は綴りがほぼ等しいことを示 す。クメール語とタイ語はいずれも語源型の正書法を採用したが,ときに語源と若干異なる綴りを用 いる場合があり,同語源でも綴りが少々異なる場合がある。K
=T
の下位分類は,語源がサンスクリッ トであればS,
パーリ語ならばP,
サンスクリットとパーリ語の語彙を組み合わせている場合(たとえ ば,前述のราชอาณาจักร
「王国」)はS
+P
と表記する。既述の“trvāc
”のように,古クメール語がタイ 語を経由して現代クメール語で再借用された場合はK
>T
>K,
インド起源ではないタイ語の語彙がク メール語で借用されている場合はT
>K
とする35。タイ語とは語源が異なる語彙を文化委員会が採択している場合は
K
≠T
と分類し,その下位分類と して,古クメール語が現代クメール語に伝わっている場合はK,
クメール語とサンスクリットもしく はパーリ語との複合語はK
+S, P,
フランス語からの借用語はF,
英語からの借用語はE
と表記した。1947
年からの連載当初は,憲法に現れる語彙に加え,行政や法などに関する用語が数多く紹介され ている。こうした行政や法という分野では,植民地化の早い時期から,クメール語でも近代語彙が必 要とされてきた。そのため,王族や僧侶にタイ語を理解する人物が多数存在した19
世紀後半から20
世紀初頭にかけて,タイ語での造語が借用され,定着している場合も多かった。文化委員会は,こう してタイ語から借用された語彙を排除しておらず,連載初期にはタイ語と共通・類似する語彙の割合 が高くなっている。その後,連載
4
回目(1947
年8
月号)の軍事関係の語彙,連載6
回目(同年10
月号)の教育関係の 語彙などから,タイ語とは異なる語彙(K
≠T
)が増えていく。そして,太陽暦の月の名に見られるよ うに,サンスクリットよりもパーリ語を語源とする語が約3
倍と多い。また,クメール語とサンスク リット・パーリ語を組み合わせた語彙(K
+S, P
)が,1,847
語のうち450
語と最多であり,そのクメー ル語以外の要素もサンスクリットよりパーリ語を多用する傾向が見られる。これらの傾向は,クメー ル語とタイ語が共通の語彙を使用している場合(K
=T
)に,S
=P
が最多,次にS, P
という順であるの と比べて,きわだった対照をなしている。表3 文化委員会による新造語(1)(出典:Kambuja Suriya, 21(4), Avril 1949–22(6), Juin 1951) 巻号年/月頁K=TK≒TK≠T 分野 SPS=PS+PK>T>KT>KSPS=PT>KKK+S, PSPS=PS+PFE 21(4)1949/04244–25443521239001621240001947年憲法の語彙 21(5)1949/05341–34474800000031277112100法律,行政 21(7)1949/07508–514422200035034124345030太陽暦の月名,行政 21(8)1949/08582–588624014210016247138100軍 21(9)1949/09675–6819711117530018188286310行政,産業 21 (10)1949/10735–7444643044500244882461080教育 21 (11)1949/11825–838556019181327575280330行政,倫理,言語学 21 (12)1949/12906–912214001240018252169210農業,商業 22(2)1950/0285–943133322502264142552110学術,行政,医療,植物 22(5)1950/05329–33231800132001115442240服飾,文学,建築,行政 22(6)1950/06412–416100001130018311132150政治,職業 22(7)1950/07493–499238242751020378257400職業,気象,行政,教育 22(8)1950/08581–58424101513001521362140教育 22(9)1950/09657–660347000020015114125000教育 22 (10)1950/10731–735430012260028132124110教育 22 (11)1950/11825–82822000423108131137400法律,軍 22 (12)1950/12901–9042231027420717672300言語,文化 23(1)1951/0110–1301110611009196141400政治,職業 23(2)1951/0291–940120011203914253020行政 23(3)1951/03193–197212316101010156173230数学,外交,軍事 23(5)1951/05368–37230830403001562146880家政学,外交,学術 計685310719146348746143114509233389525401847
表4 文化委員会による新造語(2)(出典:Kambuja Suriya, 33(1), Janvier 1961–35(4), Avril 1963) 巻号年/月頁K=TK≒TK≠T 分野 SPS=PS+PK>T>KT>KSPS=PT>KKK+S,PSPS=PS+PFE 33(1)1961/0157–580100000000714345830気象,植物 33(2)1961/02204001001010026150210植物,商業 33(3)1961/03290000001000040681010植物 33(4)1961/04416010000001065243100気象,医療 33(5)1961/05529011003000012653000医療(外科),植物(科) 33(6)1961/06666000000010023472030植物(科),岩石 33(7)1961/07782000000000031580040岩石 33(8)1961/08897000000110004343020商業 33(9)1961/091019012001000020252120美術,生物学 33(10)1961/101124001001001033151030生物学,船舶 33(11)1961/111292011000000096103000船舶,医療 34(1)1962/0147000001010063022200医療,人間関係 34(2)1962/02203001001000075050020医療,宝石 34(3)1962/03314000000020003210000法律 34(4)1962/04437000000010054130000法律 34(5)1962/05566000000000036020100法律 34(6)1962/06685002000000006020000法律 34(7)1962/07791010000010047000000法律 34(8)1962/08938010000100057010000法律 34(9)1962/091028–10290101001000417120000法律 34(10)1962/101143–11451000000011730210000法律 34(11)1962/111254–12570130012210734240200法律 34(12)1962/121384–138700210011003242132300法律 35(1)1963/0155–581010032001735440200法律 35(2)1963/02185–1881302002100840030000法律 35(3)1963/03284–2851120030001112030000法律 35(4)1963/04397–398010100010019000000法律 計414175016101343107286481012722210698
同様の傾向は,連載第
2
期に入ってもつづく。タイ語と共通する語彙は第1
期と比べて極めて少な くなり,クメール語独自の語彙が数多く提案されている。独自の語彙を作成するにあたって,連載第1
期と同様,サンスクリットよりはパーリ語が多用される傾向にある。また,クメール語とサンスク リット・パーリ語の複合語(K
+S, P
)が最多となっており,それらの複合語にも難解なパーリ語起源 の語が頻繁に用いられている。こうした難解さは,のちに「クメール化」の唱道者から批判を浴びる 一因となっていく。以上,連載第
1
期および第2
期に提示された語彙の分析から,文化委員会はクメール語における近 代語彙の造語に際して,クメール語をタイ語から差別化することを目指したと結論づけられる。タイ 語では近代語彙の作成にサンスクリット起源の語がしばしば用いられたのに対し,文化委員会はパー リ語を多用し,タイ語とは異なる近代語彙を数多く提案した。文化委員会による新造語は,すべてが 定着したわけではないものの,現在にいたるまでクメール語がパーリ語起源の近代語彙を多用してい ることの説明となる。そして,前述のようにチュオン・ナートやフオト・タートらが文化委員会の主 要なメンバーであり,ニョック・タエムもまた僧籍に入った経験とタイ語の知識をもっていたことか ら,サンスクリット・パーリ語のみならずタイ語を知る僧侶と元僧侶が,文化委員会による近代語彙 の作成に際して重要な役割を果たしたと考えられる。5.
正書法と新造語に対する反応チュオン・ナートらが中心となって進められた正書法の確立,近代語彙の作成に対しては,ときに 異論や反論も現われた。本章では,まずイアウ・カウフの著書『クメール語』を,つづいてイアウ・
カウフの死後に民主党の指導者の一人となったケーン・ヴァンサックの主張を取りあげる。
上述のとおり,イアウ・カウフは
1905
年にシャム領だったバット・ドンボーンに生まれ,タイ語の 知識があったことに加えて,そのクメール語も同地の方言を母語としていた。20
世紀初頭のカンボジ ア西北部の方言は,中部平野の方言では発音されない語末の/r/
が有音だったこと,/i
ə/
と/é
ə/
が弁別 的であったことを特徴とする[Ieu 1947: 9–12
]。辞書編纂委員会には,やはりバット・ドンボーン出 身の文筆家オクニャー・ソットン・プライチア・アン36が参加しており,西北部出身者だからこそ判 断できる語末のr
の有無は,彼の知識や理解にゆだねられていた[Cœdès 1938: 316
]。そのため,同じ 西北部方言を母語とするイアウ・カウフも,語末のr
の有無や/i
ə/
と/é
ə/
の区別などの点では,チュオ ン・ナートの辞書に見られる正書法を批判していない。一方,具体例はあげていないものの,チュオ ン・ナートの辞書には綴りの誤りがあることを指摘し,辞書とは若干異なる綴りを採用すべきである と主張している[Ieu 1947: 4
]。しかしながら,辞書は規範であり,規範にしたがわなければ国語は成 立しないこと[Ibid.: 18
],たとえ辞書が間違っていても,その規範にしたがうべきであることが述べ られている[Ibid.: 19
]。この『クメール語』という著書は,タイ語との共通性について多くの紙幅を割いている。クメール 語とタイ語との共通性は,まずシャムがクメール語を借用したこと,共通する宗教を信仰しているた め,ともにパーリ語からの借用が多いこと,
16
世紀末にシャムの攻撃を受けて王都ロンヴェークが陥 落して以降,シャムがクメールに「ことばを返した」ことに由来するという[Ibid.: 25–26
]。そして,タイ語からの借用語[
Ibid.: 270
]と,古クメール語がタイ語を経由して再借用された語彙[Ibid.: 275
]について,具体例をあげて解説している。タイ=仏印戦争の影響により,タイからの文化的な影響が 明示的に語られることが少なくなった
1940
年代にあって,このように冷静に語源を分析する姿勢は,カンボジア文化の語り方の多様性を示すという点で貴重である。
また,サンスクリット・パーリ語からの借用語についても多くの説明を加え[
Ibid.: 230–240
],3
言 語の綴りを対照する表を掲載している[Ibid.: 240–254
]。ただし,この表に掲載された語彙は近代語 彙とは見なしえず,文化委員会の活動に先立って,19
世紀半ばから20
世紀前半にシャムで作られた近 代語彙が流入したことには言及していない。イアウ・カウフは1947
年に文化委員会の成員となった が,1950
年に殺害され,『クメール語』以外の著作が残っていないため,文化委員会の活動について の意見は不明である。辞書を規範と見なすイアウ・カウフとは異なり,チュオン・ナートの辞書や文化委員会による新造 語に強く異議を唱えたのが,イアウ・カウフと同様に民主党議員としての経歴をもつケーン・ヴァン サックである。これまでに言及してきた人物が世代,僧侶という立場,出生地などの理由からタイ語 を解したのに対し,
1925
年9
月19
日,コンポン・チナン州コンポン・レーン郡コンポン・ベーン村に 生まれたケーン・ヴァンサックは,フランス語こそが知識人の条件とみなされるようになった時代に 教育を受けた人物である。リセ・シソワットを卒業した1946
年8
月からパリに留学,1948
年から1950
年まではロンドン大学SOAS
にてクメール語を教え,1951
年にソルボンヌで文学学士号を取得 した。1952
年からマルクス主義文献の講読会を招集し,のちのクメール・ルージュ幹部らもその勉強 会に参加していた。同年にカンボジアに帰国してからは,リセ・シソワットで教鞭を取りつつ,民主 党に参加した。1955
年,民主党の指導権を掌握するが,同年9
月13
日から10
月10
日まで,ソーム・サリーとスム・ヴァーに対する暗殺容疑で逮捕された。シハヌック政権の翼賛組織サンクムが結成さ れて以降は政界を離れ,
1958
年に国立教育学研究所教授,1959
年には王立プノンペン大学およびシハ ヌック仏教大学の教授に就任し,教育,文学などの分野で後進に強い影響を与えるようになった。1970
年に成立したロン・ノル政権下では,政権のシンクタンクであるクメール=モン研究所の所長 を務め,1971
年9
月からパリのユネスコへと派遣されて以降はカンボジアの地を踏むことなく,フラ ンスに活躍の場を見出した。1974
年10
月から1975
年4
月12
日まで在仏クメール共和国公使を務める も,4
月15
日にポル・ポト政権が成立して帰国が不可能となり,以後はパリに在住して執筆活動をつ づけて,民主カンプチア(ポル・ポト政権)およびカンプチア人民共和国(人民革命党政権)を批判 する文章を発表している[Corfield and Summers 2003: 197–198; Khing 1993: 71–72
]。2008
年12
月,パリで客死した際には,フン・セン首相が演説で哀悼の意を表明した[
Anonymous 2008
]。1964
年に出版した著書『新語作成の根本原理』でケーン・ヴァンサックは,文化委員会とは異なる 新たな造語法を主張している。既存の辞書,文法書の問題点として,古クメール語への回帰を志向し ていること,サンスクリット・パーリ語を模倣していることをあげ,「国民的なものを失い,インドに 追随することの危険性」を指摘する。そして,現代クメール語にもとづいた造語法が必要であると述 べ,名指しはしていないもののチュオン・ナートを批判する序文を著わしている[Keng 1964: 1
]。チュオン・ナートの辞書を使用してきた経験に加え,
1961
年3
月8
日から文化委員会に参加し37,自 ら委員会における造語作成のあり方を体験したことも,批判の理由としてあげられよう。ケーン・ヴァンサックが唱道する新たな造語法は「クメール化
េខមរនីយកម�
」と名づけられ,サンスクリット・パーリ語を語源とする語彙を現代クメール語に置き換えることを主張している[
Ibid.: 433 ff.
]。ただし,この「クメール化」という語自体がパーリ語を語源としており,サンスクリット・パー リ語をまったく使わないという主張ではない。また,ケーン・ヴァンサックの著書は,もはやタイ語 が知識人の条件とは見なされなくなった世代に属す人物の作品ということもあって,タイ語からク メール語への影響を排除するか否かは問題視されていない38。以上のように,チュオン・ナートの辞書や文化委員会による新造語に異論を唱えた人物は,いずれ も民主党の議員として政界で活躍した経験をもつ。こうしたことから,言語政策の制定や国語の形成 がきわめて政治的な営為であり,言語と政治の関係を分析する必要性は,カンボジア研究でもやはり 重要と認められよう。そのなかで,イアウ・カウフの著書は
1967
年に再版され,内戦後の現在でも容 易に入手可能なものの,著者の早逝もあって後継の人々に大きな影響を与えてきたとはいいがたい。一方,ケーン・ヴァンサックによる「クメール化」の主張は大きな影響を与え,
1967
年からの教授言 語のクメール語化,新たな語彙の提案,正書法の改革につながっていく。教授言語の変更を提案したのは,ケーン・ヴァンサックの教え子たちを中心とした教員,視学官ら である[
Khin 1999a: 302–302
]。1957
年ごろから,フランス語を教授言語とする中等教育が地方でも 徐々に拡充された結果,フランス語に堪能な教員の不足,生徒の語学力の低下が懸念されるようにな り,教員や視学官に危機感が広がっていた[Ibid.: 294–295
]。クン・ソックの論文は,こうした教員や 視学官として,王立芸術大学学長ホン・トンハックហង្ ធន់ ហា㷜
39,クメール語・文学教育視学官ロッ チ・プラエンឡ�ច ែផ�ង
,歴史教育視学官トラン・ギア្រតា ង
40,英語教育視学官コン・オーンKong Orn
らの名をあげている[Ibid.: 300
]。1966
年,コン・オーン,ロッチ・プラエン,トラン・ギアらは私 的に会合をもち,教授言語の「クメール化」について議論した。議論の成果は,中等教育局長カエウ・チャエム
Keo Chèm
を通じて国民教育大臣ヴァン・モリヴァンVann Molyvann
に上申された。1967
年7
月10
〜13
日の第23
期国民議会で教授言語の「クメール化」に関する議題が上程,採択され[Ibid.:
301
],1967
年9
月18
日付の国民教育大臣令2294
号によって,1967
年度の教育で「クメール化」を実 施すること,中等教育では1973
年度までに「クメール化」を完成し,高等教育では1974
年度から開 始することが発表された41。6.
教育雑誌『クメール化』教育雑誌『クメール化