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第 4章 :預 言者像 と民衆思想 の展 開

第 1節 :預 言者像の展開

第4章では連載論文の執筆期から成錫憲が思索していたシアル思想 の核心となる「預言者 」 について考察する。東京師範学校卒業後の

3日

目に無教会の内村から洗礼を受 けた成錫憲 は、内村の預言者像 に触発され、聖書の理解を深めていつたことがわかる。ここでは、内村の預 言者像 はどのようなものであったかを考察 した上で、成錫憲の連載論 文 にお ける「預言者 」と

「民衆」言及 に焦点を当て、シアル思想の成立と展開にどのように結びついたかについて言及 する。

「預言者とは何か?」の議論は、預言者の社会的位置、教えの内容、そして行為などといった 社会 的要素 には、あまり関心が払われなかった。その代わり、「預言者 はどのようにして預言者 になるのか?」「預言者は、どのような社会層から召集されたのか?」または、「預言者の支持集 団は何であつたのか?」「預言者の言葉に耳を傾けたのは誰であり、預言者の言うことを聴衆は どのように理解 していたのか?」が注 目されて来た。マックス・ウェーバは、「イスラエル王国時代 の預 言者 を(一つ の社 会層 の出ではない)、 政 治 的先 導者(pditたal demagogues)や 批 評 家 (pamphleteers)の役割 を担う、部族連合 の古い規範を基 に倫理的な教えを練 り上げていた人で ある」との見解を示 した。すなわち、「預言者 はカリスマ的権威を持ち、社会的に承認 された職 務ではなく、ただ並ならぬ個人的資質 によつて正 当化された社会を安定させるよりは、むしろ不 安定 にさせる働 きをした人」であつたと評価されているt

このような預言者像 について言 えば、内村鑑 三と無教会 に連なる人 々が、預言者研 究 に注 目していたことは周知の事実である。例えば、内村 は個人誌『 聖書之研 究』(1901年 3月 号)の 中で、「預言者 は神 に代わりて語る者なり。天 に口なし。人をして言わしむ。神 はその聖 旨を人 に伝うるに、預言者の心と口を用いたまえり」と、預言者を神の代言者として理解 していた2。

内村鑑三の預言者研究に触発された成錫憲が、『 聖書朝鮮』創刊翌年の 1928年 に寄稿 した

「先見者3」と、1931年の預言者「アモス書」講角翠、そして第2回 冬季講習会の 1934年に発表さ れた詩文「預言者4」を通して、成錫憲の預言者像がどのように展 開して行つたかを考察する。

J.ブレンキンソップ(著)樋口進(訳)『旧約聖書の歴史』、48頁(Berger,948‑949;Emmett and Parsons,75‑76

;D.little, Max Weber and the Comparative Study of Religious Ethics,"■ 2,1974,5‑40を参 照)。

内村鑑三(著)山本泰次郎(編)『内村鑑三信仰著作全集(第14巻)』、教文館、148頁 。

預言者は、しばしば「先見者(ナービー)」と呼ばれていた。(W.ツィンマリ『 旧約聖書神学要綱』、154頁)。

第66号(1934年 7月 )には、第2回冬季聖書講習会の成による詩文『 預言者』を李賛甲が書き下ろした文と 共に連載論文「六.地 理的に決められた朝鮮史の性質」の2つが掲載されている。また、同じ詩が第75号の 成錫憲の連載論文「十二、受難の二百年(二)」の下段に再掲載されている。

(1)1928年

の「 先 知 者5」

この論文の中には、聖書 に出現した預言者 について概論的なことが述べられている。第1に、 旧約聖書は預言者 の歴史と言えるほど、預言者 はイスラエル民族の歴史の中軸を成 していると 咸錫憲 は述べている。イスラエルの歴 史 は神 の救いの歴 史であるが、人の側から見ると、それ は神 に反抗 し続 けてきた歴史であり、エデンの園以後、堕落の歴史と言うこともできる。一方、神 の側から見れ ば、人 々が悔い改めと救いのために努力して来た歴 史と言うこともできる。そのこ とを私たちに知らせ 、神 に立ち返るよう、悔い改めを促す役割をしたのが預言者 であったと説い た。

第2に 、預言者 の名称であるが、ギリシャ語で預言者を意味するプロペテス(π ρ O φητ η∂は、

「予め言う人」「(誰々の代わりに)言う人」という意味があり、ヘブライ語のナービーには、「予め 見る人」「沸騰する者」という意味がある。神のみ声を聞き、その声 に対し黙ってすますことので きない様 子がうかがえる表現である。

それでは、預言者たちの人となり、実際の生活 はどうであつたのか。どのような性格の人であ ったのかを理解するために、聖書の中の預言者 について言及されている箇所からもとめてみよ う。預言者 の特色を挙 げると、第1に、預言者 は神 の人であつた、長 いイスラエルの歴 史の中で、

時代 が変わり、人が変わっても、常 に変わらない預言者の特色 は、徹頭徹尾 、神の人であつた ということである。彼 らは 自己の名誉のためではなく、神のみ 旨のため、神 の意志を世界 に宣ベ 広めるために生きる人であつた。個人的なことを尊重する現代人 には、自分の意志より神 の意 を尊重するのは一見難 しく感 じられるだろう。しかし、自由に自主的に生きようとする人は、いつ の間にか文化の奴隷 になり、哲学の奴隷となり、欲望の奴隷となり、私欲的な自我の奴隷となっ てしまう。人が何かの奴隷 とならないためには、ただ一人 に属する必要がある。義 、愛、真理で ある神 に頼るのである。本 当の預言者 は、学校 を出たからといつてなれるものではない。それ は 神学校卒業生が皆、本 当の牧師になれると言い切れないのと同じである。

第2に 、預言者 は義の人であつた。悪 に対し、とことん戦い抜く人である。第3に 、預言者 は真 理と勇気を併せ持つ人であつた。第4に 、預言者 は愛国者である。平安がないのに平安である と言う偽預言者でなく、感情 に頼って預言する者でもない。全能の神の意志 に自分の国を委 ね るのが愛国者である。第5に 、預言者 は義の人であると共 に、来るべき福音のためにその土台を 築き、それを告 げ知らせる「愛の人」である6。 っまり、1928年 の「先知者(預言者)」には、聖書に 見られる預言者の一般的な特色 に、内村 による「愛国者」としての預言者像が加 えられている。

さらに、『 聖書朝鮮』の同人たちが共通して内村を「預言者」のモデル として受 け入れていたこ とにも注 目する必要がある。内村の死後 、間もなくして発行された『 聖書朝鮮』(第

19号

1930 5咸錫憲「先見者」

『聖書朝鮮』第 3号,1928年 1月 .第4号,1928年 4月.後にハングル版の全集第11巻『千司 鋼せユ 到月■(恐れず叫びなさい)』に収められている。

6成錫憲「先知者」『聖書朝鮮』3号,1928年 1月 .第4号,4月

.

8月

)の中で宋斗用 は、「内村先生のその熱い獅子魂は、私の魂を取り込みイエスに力強く 投 げて下さつた。それゆえ、内村先生は私の洗礼者ヨハネである」と、内村 自身を現代 に生きる 預言者 の一人 と考えた7。 内村が執筆を通して 日本社会 に向け発 した言葉の力と、聖書研 究会 を通して若 い青年たちに伝えた福音が、いかにメッセージ性 に富みインパクトの強いものであっ たか、推測できる。

(2)1931年

の「アモス書 研 究 」 (第 28029号、1931年 5。6月)

「アモス書研究」は、第28号と29号の2回に分 けて掲載され、野人アモス、その時代 、アモス の預言 、その宗教思想 、アモスと現代から成 り立っている。「アモス書研 究」の掲載 は、編集者 が金教 臣に代わってから1年ほど経った時期である。

金教 臣は編集者後記 に、「1931年4月 1日 (水)、 午前 中、成錫憲が五 山からソウル に上京 し て来た。成錫憲 は私が雑誌編集 を担 当して一年経た時、重大な危機 に直面した時も訪れてく れた。雑誌編集を継続 して行く中で、どのような困難が待ち伏せているかわからないが、雑誌 に 対 して 自分たちのやるべき義務 を果たして行くことで二人 は意気投合 した」と書かれている。こ のことから、おそらく成錫憲はこの時、5・6月 号に掲載される文章「アモス書」を持つて来て、『 聖 書朝鮮』の未来のことを共 に相談していたと思われる。また 4月 6日 (月)金教 臣の 日記 には、

「第27号を発行。教師の仕事を持ちながらの編集なので、年度末と新学期などで忙 しく発行 が遅れたことが記されている。雑誌を市内の各書店 に配達すると、『 これでも雑誌なのか』『 売 れない雑誌など…・』といつも言われる。時 には、屈辱的な言葉までかけられる。そう言う彼 ら も、同じ民族であり、キリスト者 という看板を掲げている人 々だ」。

この叙述から、『 聖書朝鮮 』は、キリスト教界 において必ず しも歓迎されていなかったために、こ の時期つまり雑誌創刊後

5年

目になったこの頃にも、雑誌発行 には金教 臣が想像していた以 上の苦悩があつたことが伺える。

ここで本題 の預言者アモスに戻り、多くの預言者の中で成錫憲がこのアモスを選 び、説いた 理 由を考えたい。まず第1に、アモスが職 業的な預言者ではなく、他 の職 業を持つた一般人で ありながら、神からの直接的な召命 により、預言者としての使命を果たしている点である。第2に、 職 業的な預言者 による牽制 に屈することなく、それ に対抗 しながら使命を果たしている点 にお いてである。成錫憲はカールハイムの言葉を引用し、アモスを

3千

年前のプロテスタントと呼ん でいる。そして、第3に、神 の義を何より求めた人であるということである。

内容を概略すると、イエス・キリストが生まれる700年前、西洋でギリシャ文化が始まり、ラテン 民族 が大ローマ市の礎を築き、東洋で春秋 の乱世が始まりかけた時に、イスラエルのベテル市 場 に、粗末な格好をした一人の男が現われた。「イスラエルの民よ。主はシオンからほえたけり、

7宋斗用「恩師内村鑑三先生」『聖書朝鮮』19号,1930年 8月.

エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き、カルメルの頂は枯れる」と言つたア モスであった。記録 によると、彼 はイスラエル人ではなく、その南にあるユダヤ地方のテコヤ人で、

イスラエル に恐ろしい預言をするために召された人であつた。「テコヤの牧者の一人であつたア モス」と聖書 に記されている通り、彼 は牧者であった。また、彼 自身、「私は本来、預言者のノ自`子 でもなく、牧者であり、桑を栽培する者である」と語つた。つまり、彼 はイスラエルのために預言を したが、職業的な預言者ではなかった。また、世襲的な預言者 の家 に生まれたのでもなかった。

ただ、羊を飼 う者であり、一方で桑の木を栽培する者であつた。言わば、農夫であり、野人であ つた。この野人 に神の命令が下つた。イスラエルのために神の恐ろしい代言を語る者 になるしか なかった。彼 は野人であつたためすべてが、実生活を通 しての体験であつた。そのため、彼 の 宗教 は独特だつた。その言葉 は 自由で剛直で素朴で飾 らず熱烈だつた。神から直接託 宣を頂 いたので、誰も恐れなかった。むしろ、人 々が彼を恐れた。教権 に頼らない 自由者であり、素人 伝道者 であった。だから、彼は徹底していたと言うこともできる。真理の第1の特徴 は、徹底的な ところにある。妥協的なものが真理 になることはない。

ところが、宗教や世俗で発展を終え勢力を得た者 は、必ず現状維持を主張する。現状維持 を必要とすると共 に、彼 らにとって徹底的なものほど危険なものはない。このことから、既 に

3千

年前から、教権 と自由信仰者の間に圧力が存在 していたことがわかる。しかし、どのような戦い が待 ち伏せていたとしても、その勝敗 は既 に決められている。アモスは羊飼 いの一人で、自然 の中で育った。春 には、花がエホバの神の栄光を表わし、夏には林で泣く鳥が摂理の恵みを賛 美した。彼 は 自然 の中で、神 の力を知り、その栄光を知り、その御 旨の深いことを知った。「神 は 自然 を造 り、悪魔は都会を作った」という諺 は、ある意味において真理である。しかし、アモスは 知識 のない人ではなかった。彼 は歴 史を通して、国家と文化の興 亡交替を知 り、それを通 して 神 の摂理を理解 していた。アモスの預言 内容を見ると、彼が祖 国ユダヤとイスラエル はもちろん、

隣国の歴 史 に精通していたことがわかる。また、現代の多数の学者たちの研 究により、アモス書 はアモス自身 によって書かれた原文が大部分であるとの見解 が一般 的なので、彼 が文章 にも 相 当通 じていたことがわかる。

それでは、神 はどうしてテコヤの野人をその飼 っている羊の群れから遠 くイスラエル に送 り、

彼 らを怒 らせたのか?アモスがイスラエル に行つて 目撃した光景は、どのような光景であつたの か?なぜ 、神 はイスラエル に対し、聖なる怒 りを発せ られたのか

?愛

の神 は絶えず待 ち続 け、

彼 らが立ち返ることを願 い、色 々な方法で彼 らの反省 を促 し、警戒された。しかし、それ にもか かわらず 、イスラエル は罪を重 ねたのである。では、イスラエルが犯した罪 とは何か?それ は、

「銀を受け義を売り、靴一足のために貧しい者を売つた」ことである。また、義人を虐待し、賄賂 を受け、城 門で貧 しい者を踏みつけた。ナシル人 に酒を飲ませ、預言者 に預言するのをや めさ せた。神 の義で生きていた彼 らが、義を捨てた。公 の義が地 に落ちると、厳格な家庭 で育った 彼 らの男女の道徳が乱れ、親子が一人の女と交わつた。これが当時のイスラエルの社会状況で あった。

アモスにおいては、すべての国々と生命と時間、全宇宙のすべてのものは、「神 の義」と一つ