第 2章 :「 朝鮮 の無教会」としての活動期 (1927〜 42年 )
第 3節 :柳 永模 と矢 内原忠雄 との交流
(1)柳 永模の寄稿論文と古典研究
『 聖書朝鮮』に柳永模の論文が掲載されるようになつたのは、帰国した成錫憲が親友の金教 臣に自分の尊敬する師、柳永模を紹介したことが契機となっている。柳永模は35年間、大韓基 督教青年会連盟(YMCA)で聖書研究を指導した。トルストイに深い影響を受けた柳永模は、無 教会主義的な立場を固守し、45才でソウル市内から山へ居を移し、田畑を耕しながら思索活動 を続け、
51才
からは一 日一食、および断色(解婚)を実行した。1955年以後は、日記『 多夕 日 誌』を書き続ける傍ら、東洋の古典である『 老子』のハングル翻訳を行つた。柳永模が説く宗教95『聖書朝鮮』第2号,1927年 10月 ,2告.
多元主義 に関しては異なる見解を持つ金教 臣であつたが、金教 臣は柳永模 を成錫憲以上に慕 い、尊敬し、柳永模 に朝鮮無教会のアドバイスを得ていた。
柳 永模 は、毎年年 末年始 にかけて行われていた『 聖書朝鮮』が主催する冬季講習会で、独 自の東洋思想 を取り入れた講義を行つている。成錫憲も雑誌 同人の一人として、かつての五 山 学校 の師である柳 永模 と誌友たちと共 にこの講習会 に参加 していた。成錫憲が『 聖書朝鮮 』に 連載論 文「聖書的立場から見た朝鮮 の歴史」を連載 し、それらについて講演 していた時、柳永 模も同じく冬季講習会で、東洋思想 について講義を行っている。冬季講習会期 間 中、成錫憲 は柳永模 が説く東洋思想 に思想的な触発を受 ける。
柳永模 の東洋古典や仏教経典を用 いて聖書を解釈する方法は、『 聖書朝鮮 』とその読者 に 少なからず刺激を与えることになった。それ以後、『 聖書朝鮮』も積極的 に儒教や仏教研 究を行 ない、それらの研究に注 目している様子がうかがえる。その根拠として、第43号(1932年8月 )に
は、下榮泰(ピョン・ヨンテ)の英語 著作『 祖先崇拝 に対する私の態度(My Attttude Toward Ancestor Worshゎ)』が紹介され、第95号(1936年 12月)には、佐藤得 二の『 仏教の 日本的展開(岩波書店)』
が次のように紹介されている。
「基督教徒の立場で仏教を論じたもの。さながら、単に基督教徒 として我 田引水的主観論で なく仏教 専門家の校 閲を経た学究的所産である。仏教 は東洋人である私たちの旧約である ため基督者 は誰 しも深 い関心を持つべきであろう。著者 曰く、『 本 書は各所 に於 いて仏教 の 教理も信徒の経験も基督教のそれと大差なきことを示す。キリストの教えに優れるところあらば、
そは無論本書に論ずる以外の所 に求めざるべからず』」96。
柳永模 は「表 2‑5」 が示すように、成錫憲が連載論文を執筆した頃、無教会の冬季聖書講習会 で、「荘子の思想」と「仏教思想 と基督教」を主題 に講義を行なつている。注 目すべきは、『 聖書 朝鮮』に掲載された多くの論文のタイトルが、「ルターと神秘主義との関係」や「ダンテの性格」な ど、神 学的であり、欧米文学であったりしたのに対 し、柳永模 は既 にこの時期 に東洋思想 に基 づく彼独 自の思索を展開していることである。
「表2‑5」 冬季聖書講習会 における咸錫憲と柳永模 の講義
開催 日時
咸
錫
憲
柳 永模 の講 義
講 義 執 筆
第 1回
(1933年1月 3〜5日) 朝鮮 の歴 史 荘子の思想
2回
(1933.12.30〜34.1.5)
朝鮮歴 史 にあらわ れた朝鮮 の使命
仏教思想 と 基督教 3回
(1934.12.29‑35.1.4)
聖 書 的 立場 から 見た世 界歴 史
聖書的立場から 見た朝鮮歴 史
96『聖書朝鮮』第 95号,1936年 12月,裏表紙.
4回
(1935.12.30〜36.1.5) 基督教史
(1934.2〜35。 12)
また、『 聖書朝鮮 』に掲載 された柳永模 の文章からは、
2つ
の特色が表われている。第 1は 、 1933年頃には「故菫皇基整雁先生」「湖岩文一平兄」など故人を追慕する文を書くことにとどま つていたものが、1937年 になるとエッセイ形式の文を書いているJ点である。第2に、初 めは本名 を使っていたが、1941年以降は 自分の号である「多夕齋(タソクゼ)」、またはペン・ネームの「基 督僕(̀キリストの僕'の意)」を名乗つて論文を掲載しているノ点である。それまで、『 聖書朝鮮』関係者や冬季修養会で、仏教や儒教の古典を通して聖書を解釈する 講義を行なうことに専念 し、自分の思いを文章化することに消極的であつた柳永模 が積極 的に 投稿を始 めたのは、1940年代 に入つてからである。彼をそのように促 したものは何であろうか ? その答 えは、彼 が置かれていた時代的背景から読み取ることができる。その頃は、第2次 世界 大戦 に向けて 日本 が植 民地政策 を強硬 に推進 し始 めた時期 であつた。そうした中、『 聖書 朝 鮮』を刊行することは、どれほど骨が折れる仕事であつたろうか。それは主筆の金教 臣が 日本の 友人片 山に宛てた 1938年 1月 1日付ハングル書簡から推測することができる。
「第 108号(1938年 1月 )の編集 を終え出版許 可願を朝鮮総督府警察局 に提 出したのは、
1937年 12月 15日 の午前
9時
半頃であつた。同 日午後、警察局から電話があり、新年 号の 巻頭 に『 皇国臣民誓詞』の一言を掲載せよとの命を受けた。このような官憲の強い干渉の下で 編集 を続 けなけれ ばならないのなら、いっそう廃刊 してしまおうかとさえ考えた。しかし、本誌 が朝鮮 で唯一の聖書雑誌であることを考えると、そうすることもできない。結局のところ、自分 が折れることにし、命令された誓詞を掲載することにした」97。この時期 は『 聖書朝鮮』にとって、日本 の政治的圧力がより強められた「受難 の時期」であったこ とがわかる。この苦難の時期 に、柳永模 はあえて自分の原稿を寄稿 したのである。1942年 5月 には、いわゆる思想的な理 由で、『 聖書朝鮮』の関係者
13人
が警察 に囚われ、『 聖書朝鮮』は 閉刊 に追い込まれるようになった。発刊 当時10人
を上回つていた執筆者 は、主筆の金教 臣の 他 、柳 永模 、成錫憲など数 人 に減少 した。これ ら一連のことは、柳 永模 が政治的な弾圧 という「時期的な潮流」に逆らい、以前 にも増して精力的に執筆活動を行なつたことを表わしている。
柳永模 の「抑圧 に対する思想 的抵抗であった」と考えることができる。平常時 には無名 に生きな がら、困難な時期 には、勇敢 に不義 に立ち向かう柳永模 の勇気ある行動こそが、真 の「預言者」
の姿であると言える98。 彼 らも「時代の子」として、当時のキリスト教 に課せ られた課題から免れる ことはなかった。いや 、むしろ柳永模 はその「至急な課題 」に応えようと、積極的に臨もうとしてい た、と見なすことができる。また、これ らのことで、内村鑑 三 に触発 された成錫憲の「預言者 」像 97新堀那司、前掲書 、75〜76頁。
98「ャハゥェの霊」は、預言者 に所有され理念 的に解釈 された知的な精神性 というのではない。それは師士や 王の場合のように、預言者を圧倒 し、実際の 日常生活では不可能であつた行動へと駆 り立てるヤハウェの力 の現象を意味する。(W.ツィンマリ(著)樋 口進(訳)『旧約聖書神学要綱』、日本基督教団出版 局、2000年、 157頁)。
が、東洋的な思索を試 みるようになるのである。柳永模 のそうした姿に連なった結果、成錫憲が 存在 した、と考えられる。「シアル思想」のシアルという言葉は 1958年に、柳永模が講義の中で
「民」という意味で初めて用いたものであった。本来、「シアル」という言葉は、「人間の本来の面 目、純粋な本質、人格の底 にあるもの」といった意味あいを持つている。それを咸錫憲は、「吹け ば飛ぶようにノJヽさな粒 であるが、命 をはらんだ宇宙的に大きなもの、極小と極 大が一つとなつた もの」、として「シアル」を用 いるようになったのである99。 残 された 日記や講義記録 、テープなど から、柳永模がキリスト教をどのように理解していたか考えてみよう。
柳永模 のキリスト教理解 の特徴 は、第1に、「父なる神」に重点が置かれたキリスト論だ、という ことである。柳永模 がトルストイの影響 により、「神」中心の信仰 に心酔していたことは既述の通り である。1937年 、柳永模 は金教 臣が主催する聖書研究会で、ヨハネによる福音書3章 16節を 用いて「子なるイエスは師 と仰ぐべき存在であるが、神 として拝むべき存在ではなく」、「私たち 皆が神 の独 り子である」という独 自の理論を打ち出した。
第
2に
、儒教の「父子有親」思想をキリスト教の「ネ申論 とキリスト論」の脈絡で解釈 している。柳 永模 は、儒教の性理学、仏教の禅 、道教の街学 に通じ、聖書は線を引き、注を入れながら、精 読した。儒教の核 心は「孝」の「父子有親」思想である。その意味でイエスの「十字架上での死」は、「父子有親の完成であると見なすことができる」と同時に、「イエスによる親孝行の極地であ る」と認識 していたЮO。 こうした柳永模 の「父子有親 」思想 は、主にキリスト論 に関するものである。
主客が一体となり、一つ に統一され、「私一イエス(父なる神)」と表わすことができる。言わば、
キリスト教の東洋的解釈である。
第
3の
特徴 は、ハングルを使ってその意 味を解釈する方法を通し、韓 国独 自のキリスト教思 想 を展 開したことである。これは、これまでの柳永模研究が主 に東洋思想 に重きが置かれてい たため強調されることが少なかったが101、 東洋 古典の研 究を通 して意味を深 く思索 して来た「反 骨精神 」あふれる柳永模 にとつて、国を失い言葉まで失う寸前であった当時、母語であるハング ルの持つ意 味を提 え、その意 味をキリスト教的 に解釈 し直すことは、自然な成 り行きであつたと 言える。ハングルを通して深くその意味探求したこととして、『 聖書朝鮮』第 157号(1942年 2月)に掲載された柳永模 自身の信仰遍歴を告 白的 に綴つた「
38年
ぶりに信仰へと」を挙げることが できる。その主な内容 は、1905年に入信したものの、その2年
後最愛の弟を亡くしたことで、仏 教や儒教の「思想的な救い」を求めていたその 38年 後、ようやくキリスト教信仰を確信するように なったというものである。その後、短い神学的な4つ の思索(「主と私」、「御言葉通り信じる(無条 件 降伏)」、「信仰 に入つた者の歌」、「抜け殻 は死んだ肉である」が加 えられた。その中で、「肉 身を脱ぎ捨て、神 と共 に、神 の中に入つた私 は、もはや存在 している間、御言葉 によつて宇宙 が広がり、『 光』が『 体』となつた者(ヨハ1:4)としての 自覚を持つて生きて行くことができる」という99成錫憲「シアル」「シアルの声」『考える民でこそ生きられる』、新教出版社、1991年、9〜26頁 。 100金興浩,李正培(■)『多夕柳永模鋼 東洋思想斗 神学』,舎そせスト:Seoul,332告.
101李正培(Ol■■1;イチョンペ)「せ訓 世界観斗 柳永模―°lせ詈神学」『韓国改新教前衛土着神学研究』
,大韓基督教書会:L SeO」 ,2003年 ,227‑261告.