第 2章 :「 朝鮮 の無教会」としての活動期 (1927〜 42年 )
第 1節 :厳 しい時代 に教師として
(1)五 山学校 の教 師として
東京の師範 学校 は、教 師 になる志を持つた 日本の秀 才が集まったところであり、留学生成錫 憲 は、優 秀な成績でその師範学校を卒業している。在学 中、成錫憲が内村鑑三の聖書研 究会 に通つて身 に付けた「聖書的終末観」に基づいた聖書の読み方は、「民族の苦難を克服して希 望を見出すためには、その時代の道徳 的堕落を悔い改めるべきである」という考えであった。
1928年春 、東京 高等師範学校を終え、教員 の資格を得て帰 国した成錫憲は、母校 の五 山 学校で「歴史」と「修身」を教え始めた。初めの2年間は「歴史」を教えたが、それから10年後の 1938年 までは「修身」の教師として若い青年たちを教えた。
それまでの授業カリキュラムでは、母 国語及び漢文の時間は、校長の裁 量によつて任意 に増 減 が許されていたものが、1930年から当局は従来の露骨な武力政治を改め、「文化ノ発達、民 カノ充実」という文化政治のスローガンを掲 げた。同化政策を推進 しく民族の上部階層 の一部 を買収 し、支配 にさしさわりのない若千の出版物 、結社を許す という分断的な支配政策を行使 するようになったのである1。
植 民地教 育強化 のため、学校での母 国語 の科 目に対する廃止令が出されたが、五 山学校 はこれ に屈せず、ハングルで授業を強行していた。咸錫憲も当局が指導する日本史 に代わり、
朝鮮 史の授業を行っていた。次の表 2‑1は 、日本支配期 における朝鮮人学校の週毎の教科課 程を学校別 に表 したものである。「普通学校」の場合で言うと、日本語教育が週 当たり10時 間行 われた反面、母国語である朝鮮語 は漢文を入れて、週 に 5〜
6時
間だつたことがわかる。日本 語教育が強要され、母 国語教育がないがしろにされていく状況を読み取ることができる。それ に、朝鮮語 および漢文の時間は、校長の考えにより任意 に増減 が許 されていたため、実際 は規定 より少なかったとされる。歴 史・地理 に関しては、「普通学校」にはそれらの科 目がなく、「高等普
1朴慶植
『 日本帝国主義の朝鮮支配(上)』、青木書店、1973年、200〜201頁。
通学校 」にはあったが、それも日本 と世界の歴 史・地理が中心であり、朝鮮 の歴 史および朝鮮 地理 は全く教えられなかった2。 このように学校教育から、徐 々に朝鮮の言語・歴 史・地理が抹殺 されて行ったことがわかる。
「表2‑1」 朝鮮人学校教科課程 (毎週時間表)3
普通 学校 高等 普通学校 女子高等普通学校
学 年 1234 1 2 3 4 1 2 3 修 身 1111 1 1 1 1
日
本 語 10 4 8 7 7
朝 鮮 語 および漢 文 6 6 5 5 4 4 3 3 2 2 2
歴 史 2
地 理 と合 せ て
22
地理 と合せ2
地 理
理 科 2 2 4 3 4 3 2
実業0家事 と合せ4 4
実業または、家事 2345
裁 縫 お よび 、手 芸
さて、『 聖書朝鮮』同人が帰国した1920年代の後半のキリスト教界 は、301運動を通して国の 独 立を成 し遂 げることが出来なかったことで、教会の中に挫折感 が漂い、その挫折感 を克服す るために、彼岸主義の傾 向があらわれ始めていた。それが 1930年代 になると、当時の韓 国の 歴 史学界 は 日本 の植 民地史観 に対抗する民族 主義史観 と唯物史観 が主流 を占めながらも、
植 民地の朝鮮 では 自分たちの歴 史を教えることが許されず 、当局から日本 の歴 史を教 えるよう にと指導されていた。成錫憲 はそのような中でなおも、朝鮮 の歴 史を教え、朝鮮 の歴 史 につい ての思索を続 けていた。
「私は、5、 6年前から中学生 に歴史を教えるようになった。どうすれ ば若い胸 に栄光の祖 国の 歴 史を抱かせることができるかと、努力 してみた。しかし、ムダであった。………あるものと言え ば、圧迫であり、恥であり、分裂であり、失墜の歴 史だけだ。公正な 目で見てもそうである。そ れは実に耐えられない悲しみである」4。
歴 史 に関する施策を重ねた結果得た結論 は、希望とはほど遠 い悲しみの歴 史であり恥の歴 史 であったので、学生たちに希望を与えることができず 、苦悩の思索を続 けた。この頃、彼 は教育 と歴 史、宗教の3つ を統合する夢を持っていたと言われる5。 生きている命だけでなく、物事すベ 2朴慶植 、前掲書、153頁 。
3朴慶植、前掲書、153頁(弓削幸太郎『 朝鮮の教育』)。
4成錫憲
『 苦難の韓国民衆史』、新教出版社、1993年 、70頁。 5金朝年(召乙嘔;キンチョウエョン
)「嘲■ 21利 フ1011■召■書 せLI■ (対談21世紀に成錫憲に出会う)」,
てを生命 として見ていた。歴 史と文化までも一つの生命 として理解 し、歴 史も成長すべきであり、
文化 、国家までもが成長 しなけれ ばならないと考えていたのである6。
ついに成錫憲は、聖書朝鮮社が主催する第2回冬季講習会 (1933年 12月 30日 〜1934年 1月 5日)において、朝鮮の歴史に関する講演を行つた。その反響は非常に良く、冬季講習会 が終わった 1934年2月 号の『 聖書朝鮮』に、連載論文「聖書的立場から見た朝鮮の歴 史」(1934 年 2月 〜 1935年 12月)を掲載するようになる。この論文は、成錫憲の歴 史観 を代表するもので あると共 に、それを聞いて読んだ人 々に歴史の作 り手としての使命 と自覚を促す画期 的な論 文 であつた。当時の歴 史解釈 の多くは、韓 国史の中で主張すべき点は、その不滅の民族魂 であ るとしう見解を持つていた。日本の御用史家たちは、朝鮮 民族 は 自らその運命を切り開く勇気と 力を持たず 、その宿命から抜け出すこともできない存在として解釈 していた。朝鮮人学者たちに よる主体的・愛 国的歴史叙述を「妄説」、「人心を惑わす害」のあるものとして、朝鮮総督府は 日 本 の学者 を動員 し、歪 曲した朝鮮 史を編纂すると共 に、「国魂論」を提唱した朴殷植(パクウンシ ク)の『 韓 国痛史』(1915年)などの歴 史書を発禁処分とし、自主独 立の伝統、文化を排 除してい った7。
このような動 向の中で、成錫憲 は『 聖書朝鮮 』に連載論 文を掲載することにより、大きな反論 を提起 した。彼 は、歴 史の過ちを率直 に認 め、神 の前 に民族 が悔 い改める時、朝鮮 民族 の前 には希望の未来が開かれると説 いたのであった。ある面、韓 国史の否 定的な側面を強調 したよ うにも見える。道徳 的な反省 とその反省の行為が伴う限り、民族 の未来 には希望が約束されて いると考えた。このことに関して、慮明植 に 可生 バ ョンシク)はその著書で「民族の苦難 を自分の 痛 みとして受 け入れ、悩む
30代
の鋭い良心の知識人が、歴史家として、またキリスト者 として、祈 り、自問 自答する中で、ついに到達 した結論 が、苦難 史観 であった。その史観 の 中心 には、
民族が位 置付 けられているので、民族主義史観であると言うことができる。意 図的でなかつたに しても、成錫憲 は 自らの民族主義志向を和らげるため、摂理史観 、もしくは苦難史観 という外装 が必要であつたからかも知れない」と鋭 い指摘をしている8。 このような成錫憲の五 山学校での思 索を「帰 国と同時 に、成錫憲が既 に柳永模や 内村鑑 三から抜 け出ていた」と解釈する研 究者も いる9。 このような主張は、『 聖書朝鮮 』創 刊を通 して同人たちが各 自の問題 意識を持 ち思索を 進 めていつたことを考えれ ば、それぞれの思索が始まつた時期であると言うことはできる。そのよ うな中で咸錫憲は、冬季講習会での講演を通して連載論文「聖書的立場から見た朝鮮 の歴 史」
を見 出していつたのである。しかし、成錫憲の中で独 自的で 自主的な取り組込みが始まつたの は、内村死後の 1930年代後半、特 に連載論 文「聖書的立場から見た朝鮮 の歴史」を著してか らであると見るのが妥 当である。
成錫憲が内村 との出会 いによつて「聖書的」立場から歴 史を著すようになつたことに関して、
『 詈仝司d暑(deulsori一times)』:Seoul,1月 28日.
6金朝年
,前掲書,1月 28日.
7朴慶植 、前掲書、162頁 。
8慮明植
『 ■州■ ■ス1響フl(再読、成錫憲)』,人間斗 自然社:SeOul,1997年.
9文大骨「成錫憲鋼生涯企画連載翻朝 フlヨ咀利①)」『 詈仝司型暑(dedsontimes)』、2011年 5月 25日.
最近 、東京高等師範学校 の同期生文錫俊(ムンソクジュン)との比較が論 じられている。成錫憲 は 主 に歴 史教 師を養成 していた文科 1部 に進学し、純粋学 問の研 究よりは研 究された学問の再 解釈 とその伝達 により大きな関心を持ち歴史教師としての訓練を受 けた。一方、文錫俊 は 1894 年 生まれで成錫憲より
6才
年上であり、文科 1部 の丙組であつた。帰国後 、彼 は民族運動 に関 わり同じく朝鮮 の歴 史を学校で教えたが、その思想 的な相違 は明らかに異なり、文錫俊 は北朝 鮮 で初めて使用された歴 史解説書である『 朝鮮歴 史研 究』を著しているのである10。 それ に対し、成錫憲 は当時、日本で研 究されていた左派的な理念を選択しないで、徹底的にキリスト者 の立 場で歴 史を考察しようとしたのである。咸錫憲 にとつて内村 との出会いは、キリスト教思想を土台 とする彼の歴史観を具体化できた重要な契機 になったことは言及するまでもない。
また、朝鮮 の無教会の活動の一つとして成錫憲が五 山学校で主催 していた「五 山聖書研 究 会」について、成錫憲 は当初 、五 山学校 の教会 に出席し、教会の青年班を担 当していた。とこ ろが、日が経つにつれ、教会を出て、何人かの学生たちを伴い、独立した聖書研究の集会を持 つようになった。五 山学校の設立者李昇薫も、やがて彼らの集会 に関心を示し、集会 に参加す るようになる。1929年 秋のある日、李昇薫はソウル に行つて、『 聖書朝鮮』誌を編纂している人 々 と会い、「聖書朝鮮社」を訪問した11。 聖書朝鮮社で編集者金教 臣に会つてからは、李昇薫も自 ら聖書研 究集会 に出席するようになった。集会 に誰一人来ず 、南岡先生と、朴キソンと成錫憲と
3人
で向かい合ったこともあつた。また、李昇薫が五 山学校の先生をわざわざ呼び寄せ 、「正し いことだったら、皆、聞かなけれ ばならない」と言つて、集会 に出席させたこともあつた。ところが、李昇薫の死後(第 17号、1930年 6月 )、 1934年 1月 31日 付け夕刊 に、「五 山高普全焼」した 出来事があった。授業 には直接 支障はなかつたものの、李昇薫という学校の実質的な指導者を 亡くしてから直面した打撃 は大きいものであつたり12、 こぅした試練 は、その後も次 々と訪れた。
特 に、成錫憲が五 山学校を辞任 した 1938年 は、学校で国の言葉と歴史教育が全面禁止され、
朝鮮 の良心的知識人たちは悲しみ に浸った。日本 の 日本語 による授業強要と、創 始改名 強要 などの弾圧 に対し、成錫憲 はそれを断固拒否 して、辞任 し、その後、故郷で農業を始 めた。五 山学校 当時の弟子であつた金 斗赫 が、友人の金泰勲、安梨 賢などと、デンマークの国民高等 学校 をモデル にした松 山農業学校を平壌 に建てていたのである。
『 聖書朝鮮』第 134号 (1940年 3月 )に、成錫憲が関わつていた「松 山農業学校広告」が掲載 されているので、その広告をもとにこの学校 について考察してみよう。学校 は、平壌から平南線 へと下る最初の停車場「趙村駅」から、南へ徒歩
40分
のところにあり、平壌府外松 山里 に位 置 していた。正規の学科履修 が 目的ではなく、師弟が共 に農業 に励 みながら、キリスト教 的な立 場で生活を共 にし、真理を学んで行く農場であることが紹介されている。5〜6千
坪の農場で、作物栽培 、家 畜飼養 が行われていた。望ましい学生像 と募集人数 としては、小学校卒業程度 10趙光(乙せ
;チョウカン)「1930年 代成錫憲の歴史認識と韓国史理解」『 韓国史学史の認識とその課題』、
2010年、景仁文化社:Seoul、 167〜169告(文錫俊『 朝鮮歴史研究』、成鏡南道民委員会教育部刊行社、
1946年)。
H李
省展、前掲書、84頁(金教臣〈編〉「城西通信」『 聖書朝鮮』、1930年 6月号)。
12「城西通信」『 聖書朝鮮』、1934年 3月号、裏表紙.