• 検索結果がありません。

第 2章 :「 朝鮮 の無教会」としての活動期 (1927〜 42年 )

第 2節 :『 聖書朝鮮』の活動と同人たち

ここでは、これまで述べた『 聖書朝鮮』発行・編集のほかに、同人たちの活動を3つ (伝道旅 行、冬季の聖書研究会、各地の聖書研究会)に分け、その活動内容について述べる。6人 の同 人の中で、本稿で主に扱う成錫憲の他、金教臣(キンキョウシン)と、冬季の聖書研究会の世話役 宋斗用(ソントヨン)、 雑誌創刊 当時の編集者鄭相薫(チョンサンフン)の活動と『 聖書朝鮮』寄稿論 文を読むことで、各 自がどのような思いを持って『 聖書朝鮮』に関わつていたのかについて考察 する。

(1)『 聖書朝鮮』の活動

1)伝 道旅行

『 聖書朝鮮』の同人たちは、教会や 団体の要請を受 け、全 国に伝道旅行 に出かけている。同 誌 は、既成教会批判一辺倒ではなかった。既成教会からお呼びがかかると、快くそれ に応 じた。

1931年 のある日曜 日の金教臣の 日記 には「午前は梧柳洞、午後は本宅で集会を行い、夜は洞 内長老教会で説教を行つた」39と記されている。第

6号

には、1928年7月 に出かけた釜 山の教 会での伝道集会の模様が記されている。教会 に荷物を降ろすや否や 、警察署から出頭命令を 受 けた。演題 の届 け出をせよ、とのことであった。警察 に赴き、届 出を済ませ てから、夜 の講演 会 に臨んだ。鄭相薫と楊仁性が講演を行つたが、会場の後ろにいた警官の「注意しろ」という声 以外 は、

350人

ほどの聴衆が静かに聞き入つた。翌 日の夜 は雨天で、会衆 は前 日に比べ少な かったが、正服私服の警官は前夜 の倍 になった40。 今度 は、宋 斗用 と鄭相薫 が講演 し、聴衆も 警官も静かに聞いた。しかし、「次に来る伝道隊は、賛美歌をたくさん歌い面 白いので、ぜひ多 くの方が集 まるように」との司会者の言葉 に怒 りが込み上 げたと記されている。彼らの聖書講解 があまり喜んで受け入れられなかったようである。

38『聖書朝鮮』第 35号,1931年 12月,裏表紙.

39『聖書朝鮮』第 36号,1932年1月 ,裏表紙.

40『聖書朝鮮』第6号,1928年 11月 ,33‑36告.

時 には、『 聖書朝鮮』同人たちが「信仰復興集 会」の講師 になって集会を導いた時もあつた。

1932年、金教 臣は 5日 間の復興集会を任された。彼 自身、復興会とはどのような人たちがどの ような方法で導くのかという予備知識 がないばかりか、復興会を導いた経験も皆無だったにもか かわらず、教会の牧師からの要請を受 け、集会 に臨んだ。第1回 目の集会で、金教 臣はこうした 事実を聴衆 に明らかにし、冷静な頭脳で聖書本文を深く吟味することを勧 めた。1日

2回

、朝 5

時半に行われる早天祈祷会と、午後

7時

半の夜の集会を導いた。昼 間は学校 に出勤しながら のスケージュルであった。集会最終の 日、教会員たちは復興会の慣例とかけ離れた金教 臣の 復興会を批半Jしたことを謝つたほど、盛会であった。

金 教 臣は神 による御言葉の力 に驚 いた。初 めて経験した復興会 は、金教 臣にとつて大きな 学びの場となった。それは第 1に 、福音 には福音本来が持つ力があるので、聴衆の興味に従う のではなく、聖書を十分 に釈義しそれを分かち合えば、悔い改めが起き、信仰の復興が起こる ことを経験したことである。第

2は

、金教 臣 自身の霊的貧弱さを実感 したことである。サマリアの 女 にもわかりやすく、書記官とパリサイ人と同じように真理の糧を食べさせることができたイエス・

キリストを恋しく感 じたと言う。第

3に

、小さな農村教会 には都会の大教会より、世の光となり、地 の塩となる本 当のキリスト者が存在することを発見し、大きな慰めとなった復興会であった41。

『 聖書朝鮮』の誌友がいる教会 、青年会、学校 およびその他 の団体でキリスト教講演の依頼が あれ ば、咸錫憲、宋斗用、金教 臣の

3人

は、できるだけ応援 に出かけた。世の中が非常時を叫 ぶほど、福音を強調 しなければならないことを切実に実感 した。新年から特 に積極的にこのこと を進 めていこうとする理 由がそこにあると考えた。非常時の態勢の中、福音宣教への意欲 的な 意気込みと確 固たる意志が感 じられる42。 それ にいち早く呼応 したのは、釜 山の聖潔教会である。

一週間に渡り、同教会で特別集会が開かれたが、講師は主に成錫憲が担 当した43。

ところが、このような伝道 出張は、当局の集 会 中止命令 を受 けたことで、長 く続かなかった。

「熱心に伝道する所であれ ば、どこでも伝道応援 に行くと言つていたが、長年就いていた仕事 から離れた今 、静かに整理する必要がある。また、先 日の講演会で、突然 中止命令を受 けたこ ともあつて、当分、公 開講演会 には応 じることができなくなった」のである44。 聖書を朝鮮 に伝える 使命を持つた『 聖書朝鮮』同人たちの意気込みは、次 々と狭められ、閉ざされて行つた。

2)冬 季研修 会

ソウル基督教青年館 で集会場の貸与を拒否された無教会が、他の集会場をソウル市内でみ つ けることは、中々困難であった。しかしそれ に屈することなく、着実に活動を続 けていた朝鮮

41『聖書朝鮮』第 37号,1927年 2月 ,22‑24告.

42『聖書朝鮮』第132号,1940年1月,裏表紙.

43『聖書朝鮮』第 133号,1940年 2月,裏表紙。

44『聖書朝鮮』第 135号,1940年 4月,裏表紙.

無教会の冬季集会 には、全国各地でたくさんの人 々が参加するようになつた。活人洞で行われ た第 1回 目の冬季研修会 は、聴講料が50銭(申し込み時に支払い)、 滞在費が2円 50銭(参

加 時に持参)であった。1933か ら1943年 までの 10年 間、年末年始 にかけて行われた冬季研修 会 は、2泊 3日 間の 日程で行われた。次は第 1回目に行われた時の模様である。朝の祈祷会 から始まり、午前は聖書釈義、午後は聖書と朝鮮 に関する関連研 究が講じられた。

夕食後の夜の会合では、第

1回

目から柳永模 による東洋古典研 究の講義と、農 業、英語な ど実践の話が講じられた。そして、集会の最後 は座談会を設 け、各参加者の感想や意 見を聞く 場が設 けられた。

<表 2‑2>第

1回 活人洞集会45(1933年1月 3〜5日

)

6:30‑8:30 9:30‑11:30 13:30‑15:30 18:30‑21:30

2(月) 会合 、準備

3(火) 祈祷 会 司会:金教臣

使徒行伝研 究

成 錫 憲

聖 書 地 理 学 金教臣

老 子 の 思 想 柳永模

4(水) 祈 祷 会 司会:金宗沿

使 徒 行 伝 研 究 成錫憲

聖 書 動 物 学 楊仁性

農 事 2周年 (宋斗用) 英 語 史

(柳錫東)

5(木) 祈祷会

司会:柳錫 東

使 徒 行 伝 研 究 成錫憲

中世 記 哲 学 と信 仰 金宗沿

懇 談 会 会員一同

念願の集会場に恵まれ、宋斗用の自宅で行われた第

2回

目の冬季聖書研究会の 目玉は、

咸錫憲による講演「聖書的立場から見た朝鮮の歴史」であつた。第

61号

(1934年 2月 )には、

主筆金教臣による報告と第1、 2回目の集会内容が記されている。第2回 日以降は、本来宣伝 を目的とする集会ではなかったが、集会に参加できない地方読者の多くが集会の記録を要して 来たことから、『 聖書朝鮮』誌面に公開で参加募集をし、第

2回

講習会の様子を誌面で公開す ることにした。冬季講習会の報告をするようになつた最も大きな理 由は、ハンセン病を患って療 養を余儀なくされている読者たちへの配慮から出たものであった46。 実のところ、『 聖書朝鮮』誌 面では集会の詳細な報告はできなかったものの、第

2回

講習会の中で、講義原稿が用意され ていた柳錫東の「預言書研究」、成錫憲の「朝鮮歴史」、そして金教臣の「朝鮮地理」が『 聖書朝 鮮』に掲載された。

夕方の座談会では、信仰に対する質疑、あるいは実生活に対する抱負などを談論する中で、

山下信義(著)李県変(訳)『講演録』や、矢内原忠雄の個人誌『 通信』(1部

3銭

、切手代用可)、

45『聖書朝鮮』第 61号 ,1934年2月 ,8告.

46『聖書朝鮮』第 85号,1936年 2月 ,裏表紙.

また塚本虎二の著書『 イエス伝対観表』(定価 20銭)、『 日本地理風俗大系』(新光社版)の朝鮮 篇上・下谷と、『 大英百科辞典』の朝鮮項 目、そして林泰輔『 朝鮮通史』などが回覧された47。 矢 内原の個人誌が、『 聖書朝鮮』同人たちの帰国後間もない 1934年 のこの時期から紹介されてい ることから、『 聖書朝鮮』関係者は、創刊 当初から日本無教会の動向に常に関心を示していたこ とが分かる。

「表2‑3」 冬季聖書講習会開催記録

開催 同時 特 異 事 項

2回

(1933.12.30〜34。1.5)

梧柳洞駅前の 梧柳 学院

朝 鮮 地 理(金教臣)

福音書研究(金教臣) 朝 鮮 歴 史(成錫憲)

預言書研究ω口錫東) 旧約 聖書 の歴 史 的

価値(楊能漸)

。有 志 登 山

・夕方には、座談会

1月 4日 (木)には、予 定の一 部 を変 更し、数年 前まで東京 の立教 大学 で古代 史を講 義 して いた楊 能漸(せ号召;ヤンヌンジョン)による「旧約 聖 書 の歴 史 的価 値 」の講 義 が行 われた。楊 能漸 による講 義 は、翌1935年の冬 季 聖書研 究会 にも、「安慶、日の 由来」という題 で行 われ 、その後 、 彼 は梨 花 女子 大学 で教 鞭 に就 いた48。

また、柳 永模 による建 陽社 の代 表 鄭 世権 の「ジャガイモ栽 培 と食 料 問題 解 決 策 」に関す る紹 介 があった。このような哲 学 だ けでなく、実 際 のパ ン問題 を積 極 的 に提 案 す る柳 永模 の信 念 と 誠 意 、根 気 が垣 間 見える場 面である49。 その他 、1933年末か ら戦争 のために「非 常時 、非 常時」

としう 声 が上 げられ 、監督 官庁 か ら「非 常 時 につき年 賀 状 を廃 止 す るよう」通 達 があつた。年 賀 状 の代 わりに『 聖書 朝鮮 』誌 面で、新年(1934年)の挨 拶 がなされ ている50。

1935年は、ますます社会の状況 は厳しくなっていき、太陰暦の正月を祝うことが廃止され 日 本政府 が推進する陽暦だけを祝 うことになつた。より本格 的な非常時 に入つたことがわかる51。

物 資不足の中、用紙をソウルで確保 できなくなった場合 、本社を東京 に移転 し続刊するとの覚 悟が述べられた時もあつた52。『 聖書朝鮮』発行のためには、強靭な精神力が要求されると共 に 並 々ならぬ苦労が必要であつたことがわかる。

47『聖書朝鮮』第 61号,1934年 2月 ,9告

48『聖書朝鮮』第 73号,1935年 12月 ,13琴.

49『聖書朝鮮』第 60号,1934年1月 ,16告.

50『聖書朝鮮』第 60号,1934年1月,16告.

51『聖書朝鮮』第 72号,1935年 12月 ,25告

52『聖書朝鮮』第 135号,1940年 4月 ,裏表紙.