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第 5章 :「 受難の女王」を中心とした苦難の民衆史観

第 1節 :連 載論文と 「受難の女王」

(1)連 載論文における 「受難の女王」

成 錫 憲 の「受難 の女 王 」は、「いや しい女 であるとしか思われなかつた韓 国の歴 史が聖書 と思想 的な思 索 により、実 は王冠 をかぶつた女 王であることに気 づ く」という逆説 的真 理 に由来す る。成 が この「受 難 の女 王 」(もしくは「歴 史 の道 端 に座 っている年 老 いた娼 婦 」)像 を用 いるようになつたの は、雑誌『 聖書朝鮮』に「聖書的立場から見た朝鮮歴 史」を掲載 していた 1934年 から1935年 のこと であった。この時期の成錫憲は 30代 の青年教師であり、若 い学生たちに 自国の歴 史を教える教師 という職業を自分の天職 と認識 し歩み始めていたが、1930年 代の東アジアは、満州事変 (1931年)、

日中戦争 (1937年)、 そして太平洋戦争(1941〜45年)に進む、戦争の只 中にあつた。

咸錫憲のシアル思想 は、次の

2つ

の観 点を土台に成 り立っていると言うことができる。第 1は 、そ の「聖書観」及び「歴史観 」という土台である。このことについて、成錫憲は聖書の立場からでも歴史 を書 けるというのではなく、聖書の立場でのみ歴史が書 けるということであり、歴史哲学は聖書以外 にはないと見ていた1。

2は

、「苦難」がその基調となっている点である。既 に第3章の第2節 で述 べたように成錫憲は連載論文でガンディーの「苦難 は生の原理である」という言葉を引用し、苦難 を積極 的に受 け入れ 、生の原動 力 にまで昇華した。「シアル思想 」が思想 としての広がりを見せる のは、苦難 に裏打ちされた成錫憲の生き方とその実践が原動力となつている。

彼 の聖書観 と歴 史観 は、成錫憲が東京師範 学校 に入学し、内村鑑 三 に出会ったことが直接 的 な契機 となって形成 された2。 成 錫憲が内村 に出会った頃、彼 はマタイによる福音書のイエスの受 難 の研 究「十字架の道」を講 じていた(1925年 2月〜1926年3月)。 前章までを踏まえ本 章では、2つ の思想 的特徴を土台 に、いかにして彼独 自のシアル思想 が生み出されたのかを考察していくこと にする。

また、成錫憲 における苦難 に関しては、池 明観(チミョンクヮン)が成錫憲の「苦難 の僕」に言及し、

その韓 国歴 史観 を内村の弟子の一人藤井武 の 日本史観 との比較考察を行つている3。 咸錫憲と藤 井 、両者 の共通 点を「世界 史 における東洋 の台頭を認識 した点、そしてイザヤ書の苦難の僕像を 通して見る自国に対する徹底的なまでのピューリタニズム的批判を行った点」と論 じている。また、

池 明観 はその著『 現代史を生きる教会』の中で、1930年代 における日本 と韓 国、両キリスト教会の 見解 の相違 について論じた際も、海老名 弾正と共 に成錫憲を取り上げた。海老名 が典型 的なブル

1成錫憲

『 苦難の韓国民衆史』、新教出版社、序文3頁

2拙稿「成錫憲におけるシアル思想の萌芽(内村鑑三との関係を中心に)」、関西学院大学神学研究会、2004年

3池明観「成錫憲の朝鮮史に関する一考察一藤井武の 日本史観との比較を中心に」『 翰林 日本学研究(第四集)』、 ソウル、1999年 。

ジョワー ジ的楽観 論 者 であったの に対 し、成 錫憲 は苦難 の現 実の 中でも新 郎 の王 は必ず 来るとの メシア思想 を持 っていたと言 及 している4。 池 明観 が成 錫 憲 の苦難 を藤 井 武 と関連 づ け、両者 の共 通 点をピューリタニズム的 自己批 判 であると指摘 したことは正 しい。

さらに本 章 では、咸 錫 憲 が祖 国 に例 えた「道 端 に座 った年 老 いた女 」あるいは、「お産 のため苦 しむ 女 」は、その受 けている「受難 を通 して」、つい には「女 王」となる逆説 的な希 望 のメッセー ジー が含 まれ ている点 に注 目したい。成 錫 憲 は「受難 の女 王 」をモチ ーフに論 じる際 、しばしばイザヤ 書 にお ける「苦難 の僕 」像 の解 釈 を取 り上 げた。多 くの先 行研 究も同様 に、イザヤ書 を引用 してい る。金 弘基(キンホンギ)も言 つているように、それ はイエス・キリストの十 字 架 での 出来 事 か らの解 釈 である5。 ィェスをイザヤ書 53章 2節から5節には次のように記 している。

「乾いた地 に埋もれた根から生え出た若枝のように この人 は主の前 に育った。

見るべき面影 はなく、

輝 かしい風 格も、好 ましい容 姿もない。

彼 は軽 蔑 され 、人 々に見捨てられ 多 くの痛 みを負 い 、病 を知っている。

彼 は私たちに顔 を隠 し

わたしたちは彼 を軽 蔑 し、無視 していた。

彼 が担 ったのは私たちの病

彼 が追ったのは私 たちの痛 みであつたの に、

私 たちは思っていた。

神 の手 にかかり、打たれたから 彼 は苦 しんでいるのだ 、と。

彼 が刺 し貫かれたのは 私 たちの背 きのためであり 彼 が打 ち砕 かれたのは 私 たちの咎 のためであった。

彼 の受 けた懲 らしめによつて 私 たちに平和 が与 えられ

彼 の受 けた傷 によって、私たちは癒 された。」

イエスはその受 けた苦難 にもかかわらず 、もしくはその苦難 を受 けたゆえに、人類 の救 い主 となるこ とができた。苦難 を受 ける者 は、自分 の苦難 を通 して、誰 よりも救 いを求 めるようになる。そのため、

自分 だ けでなく苦難 を与 える者 さえも含 む 人 間を迫 害 と苦難 のくびきか ら救 う使 命 に達 す ることが

4池明観

『 現代史を生きる教会』、新教出版社、1982年 、301〜302頁 5金弘基

(召=フl;キンホンギ)「早司鋼 召対フト社計斗 ■月■鋼 ユせストせ ヨ1ユ嘔子(ルターの十字架神学と 咸錫憲の苦難史観の比較)」『歴史、宣教、神学』朴大仁博士引退記念論文集、韓国監理教神学大学出版、19 97年99頁

できる。

そういう意 味で、イエスが「苦難 の僕」として人類を救う使命 を与えられたとすれ ば、世界史の中 で「受難の女王」を担って来た人 々は、この世の苦しみと不義を治す義務 と権利を得るようになるの ではないだろうか、と見る。加 えて、今 日、ここで苦難を受 ける「私たち」とは、もはや 日本の植 民地 の下、苦しみを受 ける一つの民族だけを指しているのではなく、抑圧 にわめくすべての弱者を指す と理解すべきである、と論じている。というのは、成錫憲の歴史解釈 は、暗闇の中で黙 々と歴 史を作 つて来た弱者 と敗者たちの生 に正 当な価値と意味を返すための作業であつたからだ、と主張する6。

しかし、筆者 はむしろ、「産みの苦しみをする女」を聖書的解釈を通して「受難の女王」として解釈し たい。なぜなら、成錫憲 におけるメシア思想 は「産みの苦しみをする女」がその核心部分となってお り、「苦難の僕」よりは「受難の女王」というところに、成錫憲の独 自のシアル思想が見出されると考 えるからである。

それでは、咸錫憲 における「受難 の女王」とは何か。連載論 文「聖書的立場から見た朝鮮 の歴 史」には、最初 と最後の2度、「受難の女王」というタイトルが付けられた箇所が存在する。韓国の歴 史 が著述される部分を間に挟 んで前後 に取 り囲む形で、論 文の文頭 と文末 に韓 国史の基調「苦 難」を象徴する「受難 の女王」が記 されているのである。著書『 咸錫憲の基本思想』を 日本語で著し た曹亨均(チョゥヒョンキュン)も、新約聖書 に出て来る「シアル」の中に、ヨハネの黙示録 12章 7節の

「残 りの子ら」を取り上げている7。

第 1回 目の「受難 の女王」記述 は、第66号(1934年 7月)の「六。地理的に決定づけられた朝鮮 史の性質」の箇所である。その内容 は、

「位置的に、地勢的に、気候的から見て、朝鮮半島は苦難の家としてつくられたと見ることができ る。その地理 、風物で育った者 が苦難の主人公 に成 らざるを得ない。私は朝鮮 の運命 を考える たびに、インドのタゴールのギーターンジャリの一節 を思い出す(われわれ 自身の歌を歌わなけ れ ばならないところだが、苦難 があまりにも息苦しかったせいか、良い歌がわれわれ にない。他 人のものでも借 りることにしよう)8。

おお、わが愛よ、あなたは多くの人の後のどこの蔭に隠れておられるのか

?人

々はこの埃っ ぽい道路で、あなたに気づかず押しのけて通り過ぎて行きました。私がここであなたに差し上げ る贈 り物をひろげて退屈している間に、道行く人 々が私の花を一つ二つと取つて行き、今や籠 は ほとんど空 になつてしまいました。朝が過ぎ、昼も過ぎました。夕闇が迫る頃、日が疲れて来てま どろみます。家路をたどる人 々が私を見てあざ笑い、口をとがらします。私は乞食娘のように顔を 裾 に隠して座 り、どうして座 っているのかとたず ねる彼 らに、日を伏せて答 えもしません。おお、

私があなたを待っていると、あなたが来てくれると約束したことを、どうして人たちに言えるでしょう。

守っているこの貧しさが、嫁入 り支度の資本金であるなど、恥ずかしくて言えたものではありませ

6金晟秀

(召電キ;キンソンス)『■召嘔電社(成錫憲評伝)』,60‑61告.

7曹

亨均

『成錫憲の基本思想』、伯裁文化社、2000年452頁

8()は

連載論文執筆当時には含まれてなかった部分である。ここでは、1962年 に著作化された一宇社による改 訂版『 奨ユニ 暑 せ号qスト』によつている。日本語版は『 苦難の韓国民衆史』、新教出版社、82頁を参照。

おお、私 はこの秘密を胸の奥 にだけ秘めています。私は緑の芝生 に座つて空を仰ぎ、あなた が来る日の栄光を夢みます。その時、まばゆい光の中にあなたが乗つた馬車の錦のみ旗 がはた めき、あなたが席を降り、埃の中から私を抱き上げます。夏の 日のひんやりした風の下に寄つてく る虫のように、恥ずかしさと愛する心のために震えている、このばろ着の娘をあなたがそばに座 ら せる時、人々は道 ばたに立ち果然としています。

しかし、時は過ぎ、あなたの馬 車の音 はまだ聞こえてきません。多くの行列が騒 々しく栄光を 誇 りながら通 り過ぎて行きます。あなたはただ、その多くの人の蔭に隠れて黙って独 りでおられる のでしょうか

?私

はただ泣きながら待ち、空しい思いに焦がれて胸を痛めるだけでしょうか」9。

わたしたちの歴史こそ、道端 に座っている乞食娘であり、受難の女王である。差し上げる花 は皆奪 われ、分別もなく王妃を夢見ると嘲笑され 、空しく思い焦がれ、疲れ果てた歴史である。それでも、

新郎の王は必ず来るだろう」と書かれている10。

そして、第

2回

目の「受難 の女王」記述 は、第 82号(1935年 11月 )の「十三.生活 に現われた 苦難 の姿」である。連載論文最後の第

83号

は、『 聖書朝鮮』の表紙 にその表題 が書かれているも のの(十四.苦 難 の意味」「十五.歴 史が現す私たちの使命」)、 その実際の内容 は検 閲により削除 され 、成錫憲の論文の部分は 白紙として読者 に配布 された。したがって、1935年当時、読者 たち が 日にした連載論文の最後は、「十三.生 活 に現われた苦難の姿」である。第

66号

の「受難 の女 王」が地理的に固定された有形の苦難像であったのに対し、第

82号

の「受難の女王」は無形の歴 史である信仰 、芸術 、風習、民族などと言つた生命 の内に残る歴史が述べられた後で、「受難の女 王」が述べられている。

「これらすべての習性 は、苦難の暴君がわれわれに負わせた荷物である。だが、そうであればあ るほど、これ に打ち克たね ばならないのに、そうできず 、まるで死 に切れず にいのちをつないで いる囚人のように、趣味もなく、計画もなく、希望もなく、明 日もない。…・これで私は絵を描くのを や める。その美 しさを傷つける心配からではなく、その醜 、その惨 めさをそのまま表現することが できないからである。けれども、私は名 工を代わりに立て、読者 の前 に最後までの述べさせること にしよう。

あなたたちはフランスの名 匠ロダンの「娼婦であつた女」(美しかりしオーミエール、1888年)と

しつ彫刻 を見たことがあるか

?私

はそれが韓 国の姿に思えてならない。一人の老女が上半身を 前 にかがめ、片方の手を背 中にまわし指を曲げて苦悩をあらわし、一方の手を垂らして力なく腰 掛 けを握 りまたがって座 り、頭を深く垂れている。全身の肉は震え、やせた骨が突き出て、首をぐ つと落とし、胸 はく゛

っとへこみ、極度の老衰をみせている。金色のような美しさを誇つた髪 は、ばら ばらに乱れて白く、人 々に視線を送っていた澄んだ瞳は、凹んだくばみの中に、閉ざされて見え

9ギ ーターンジャリ(英訳本による散文訳)第41節。タゴール(著)渡辺照宏(訳)『タゴール詩集:ギーターンジャリ』、

岩波文庫、1988年8、261〜262頁(確)。

10成 錫憲「聖書的立場から見た朝鮮の歴史(六)地理的に決定付けられた朝鮮史の性質」『 聖書朝鮮』第 66号 、 1934年 7月 、8頁