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東 歌

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(1)

 東歌における寝〃が男女の相寝のイメージを含んで特徴のある

ことは既に先学に説かれている通りである︒

 そして︑よかれあしかれ日本における恋愛文学の成立を伊勢物語

に見ることはそれほど見当違いではないと思われるが︑その伊勢物

語に〃寝〃は次の様に出てくる︒︵天福本系・三条西家建蔵本によ

る︶  未

 ニニ やちよし寝ぼやあく時のあらん      .歌 六三 こひしき人にあはでのみ寝ん      .歌 六九男はた寝られざりければ      ・文

 六九 男いとかなしくて寝ずなりにけり         .文

  用

二  起きもせず寝もせで夜を

三  むくらの宿に寝もしなん

五  よひよひごとにうちも寝ななん

一四 いきて寝にけり

六三 あはれがりて来て寝にけり六三 あはれと思てその夜は寝にけり

六九 夢か現か寝てか覚めてか

一〇三 寝ぬる夜の夢をはかなみ

 終

東歌の終焉︵渡部︶ ・歌・歌・歌・文・文・文・歌・歌  六三女なげきて寝とて      ・文  体 二五 あはで寝る夜ぞ       ・歌 六九わが寝る所にみて入りて      ・文  その他 四九 寝よげに 六九 寝屋以上の様であるが︑未然形の部は名の通り︑願望か打消によって成立する寝〃である︒この未然形の寝〃というのがどんな位置に存在するかは︑後に他の状況と共に考える︒終止形︑連体形での寝〃は単独での︑いわゆる﹁寝﹂である︒だから当然︑男女の寝という行動を表わす寝があるとすれば︑それは連用形の部分に存在することになる︒ 連用形の部分を一つづつ見て行くと︑

 一四

六三

六三

六九一〇三 普通の﹁寝﹂である︒

﹁寝もしなん﹂と結局未然の形になっている︒

普通の﹁寝﹂である︒

男女の〃寝である︒

男女の〃寝である︒

右と同一︒

普通の﹁寝﹂である︒

男女の〃寝である︒

(2)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二〇号

即ち 男女の寝を意味する寝は︑一四︑六三︑六三︑一〇三の

三ヶ段四ゲ所に存在する︒外に両者を掛けてある四九︵寝よげに見

ゆる︶が一例ある︒

 これを歌と文に分けると︑ 文一四︑六三︑六三

 歌  一〇三︑ ︵四九︶となる︒多分この二者の寝には少異があろう︒というのは︑歌は詞

文より先に前提的に存在した可能性があると思われるからである︒

歌は伊勢物語・恋愛物語から独立して存在し得た可能性があるとい

うわけである︒対して詞文は伊勢く物語Vの構想なのである︒即ち

伊勢物語構成圏の掛値なしの告白なのである︒彼らは伊勢物語の主

人公にその詞文のように恋愛させたわけである︒

 例えば一〇三の寝を含んでいる歌は

※寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりにけるか

 なという︑格調は崩れ︑明確な意味さえ主張し得ないほどのものであ

り︑個性的であるよりは集団的に朧化されてしまった様相を持つ︒

 古今集に﹁人に逢ひてあしたによみて遣はしける 業平朝臣﹂

 古今六帖に﹁片恋 業平﹂

とあったりするところからは︑割合色んな風に享受された歌であることが判る︒そうした享受とそれに伴う創造が文眠物語であるわけ

である︒文は歌を基礎にする︒歌自体を拒否することも分解するこ

とも出来ない︒とすれば既に歌の申に存在する寝とその歌を基

礎にして構成される文申の寝〃には当然少異があってよい︒とい

うことは伊勢く物語Vの寝〃は文の申に現われる寝〃にその本

性がある︒その寝〃は伊勢物語の構成主体・風雅官人によってい

かに作り上げられたか︒この寝〃は一四︑六三のニケ所である︒

 一四の寝

陸奥の女が京の人を珍らかに思ってひなびた恋の歌を送った︒に対して男が﹁さすがにあはれをや思ひけん行きて寝にけり﹂という次

第であったと︑筆者は云っているのである︒

 六三の〃寝

つくも髪の女が﹁いかで心なさけあらん男に逢ひえてしがな﹂と思

って︑その子に話した︒子は﹁この在五中将にあはせてしがな﹂と

思って男に告げると︑﹁あはれがりて来て寝にけり﹂という次第︒

また男が来なくなったので歌を送ると︑ ﹁あはれと思ひてその夜は

寝にけり﹂と︑物語の作者はそう云っているのである︒

 この二つの寝〃には共通点がある︒一は都人−思人の関係︑︼

は風雅の貴族1つくも髪の女という関係︑まとめれば都・風雅人一

鄙・下層階級という図式を持ちうることである︒ 右様の寝〃がこの二つにしか表われていないことは︑伊勢物語

の︑多くの恋愛に対象となっている貴族の女との間にはかかる寝

が表われていないということである︒貴族階級の女との問には︑

云わば未然形の寝があったわけであり︑それが伊勢物語ならずとも

恋愛物語の常道である︒松尾青翠風には︑此処に︿純愛﹀が描かれ

ることになる︒この純愛の極にこそ寝〃が想定されるのが一般で

ある︒だから右に挙げた二つの寝〃の設定は究極の形だけを取り

出して︑純愛の過程を放てきした︒云わば寝〃でもって純愛や恋

愛の間.に合わしたわけである︒なるほど女にとってこうした﹁結果

﹂を与えられることは︑恋の成就といってもよかったろう︒三島由

起夫学風にはく彼岸Vへの到達であった︒︿こころなさけあらん男

Vとはこうした男であり︑殆ど不可能な人間男女の関係が︑そうし

たことによって可能になるのであるから︑これはこれで人生の風雅

であるには違いない︒しかしそれにしては︑なんと崩壊した人間の

(3)

情緒の居直りであることか︒

 ﹁いきて寝にけり﹂という男女の〃寝〃への直接的表現は東歌の

世界に似てもいよう︒だが伊勢物語では必ず﹁あはれとや思ひけん﹂

﹁あはれがりて来て﹂﹁あはれと思ひて﹂と修飾される︒〃寝〃は

くなさけVある男であるが故の︑その証明の手段なのである︒これを東歌にみられる﹁ま愛しみ﹂﹁寝﹂という形に比較すると︑これ

は全く雲泥の差というに相応しい︒どちらも虚構ではある︒その虚

構を作り上げた意識︑人間存在の差が此処には明確に出ている︒

 都昼貴族聾風雅人→←田舎皿下層階級弄えびす心︑という夫々等

価性を持つ前項と後項の関連はくあづまVにおける伊勢物語の恋愛

にぴったりとあてはまる︒

 東下りの物語では九段が祖型であったろうこと既に先学によって

説明されている︒その前後に付加されてある物語は︑だから伊勢物

語構想圏による構成であったろう︒

 七  伊勢尾張の間

 八  信濃国

 九  武蔵・下総

 一〇 武蔵

 =  東国

 一二 武蔵

 =二 武蔵

 一四 陸奥

 一五 陸奥 ︵=五・=六陸奥︶

九段を申心にして右様の構想が付加されてきた訳でありく東下りV

東歌の終焉︵渡部︶ の理由のようなものも︑物語としては九段にそって比較的明瞭に示されるのである︒ ︑ 七 京にありわびて東にいきけるに 八 京やすみうかりけん東の方にゆきて 九 身をえうなき物に思ひなして京にはあらじ東の方にすむべき   国もとめにとて 一〇 ︿武蔵のくにまでまどひありさけりV 一四 く陸奥にすずうにゆきいたりにけりV七・八は九を基にして一連のものである︒だから七・八・九には東下りの必然のようなものが︵それが政治的なものか︑高子との恋に関わるものであるのか︑などはとにかくとして︶情緒的にではあれつかまれている︒それが十以下になると﹁まどひありき﹂﹁すずうに﹂という風になって右様の必然性は全くなくなってしまう︒ ﹁すずうに﹂という密な云い方には物語のリアリティを失わせるものがあろう︒いかに物語だからといってリアリティの喪失は恋愛の質に関わってくることでもあり︑こうした設定には構想力の衰弱がみられよう︒ 一四以下︑というのは一四・一五︑そして=五・=六も同類のものであるが︑この陸奥での恋愛は︑全く情熱的な構想力の上に立って︑だから都の一般的な︑衰弱した観念から仕上げられた一種の風雅である︒ 東下りにおける恋愛は次の構図を持つ 一〇 都から来た男⁝武蔵にある女︵の母︶    都     ⁝鄙    都雅性   ⁝夷性 一三 京なる女  :・武蔵⁝なる男 一四 京のひと  ⁝陸奥の女

(4)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二〇号

 一五 〃    ⁝ 〃

右の関係を約めて云えば︑先に云った

 都→←鄙

の関係になる︒これは決して場所での関係ではなく︑恋愛の本質の

関係なのである︒一〇には﹁母なんあてなる人に心づけたりける﹂︑

醐四には︑﹁京の人はめづらかにやおぼえけん︑せちに思へる心な

んありける﹂とある様に︑場所の関係がそのまま恋の関係でもある

ところに伊勢物語に関わる恋の特色がある︒

 京を支配のある所︑鄙を被支配のある所と改めてみれば︑恋は支

配と被支配との関係の申にあり︑前者を都雅性︑後者を四夷性と改

めてみれば︑恋は風雅と不風流との関係に存在する︒

 この型が典型的に現われているのは一四︑一五︵一一五︑一=ハ

︶である︒それ以外もみられる様に曲ハ型性には変りはないが︑京の

男と鄙の女という関係はこれしかない︒一〇は京の男と武蔵の女の

母との関係である︒この母が﹁ふちはらなりける﹂というところに

鄙の分化がある︒この複雑さが︑後に歴史と文学を説明する一つの

要素になる︒即ち一〇は次の⁝様に出来ている︒都賎京なる男 ﹈学園

   武蔵の国の女の母口

鄙私議の国の女の父﹈鄙性

かく幾重にも段階をもって傾斜している︒その傾斜の関係が恋とな

っているのである︒ 一〇

 右様の傾斜の関係を考慮に入れて一四の内質について見てみよ

う︒それにしても九で主人公が下ったのは東であった︒それが陸奥

まで延ばされているのは一体何のためだろう︒或はく東下りVに関

わる男女の恋が具体的には﹁みちのく﹂にしか見られないことは︑

伊勢物語構想圏の意識が既に﹁東国﹂を通り越して﹁みちのく﹂の

幻想に向かっていたのかも知れない︒業平やその周辺の東国意識と

は少しずれて︑時代の目が﹁みちのく﹂にあったのかも知れない︒だから﹁身をえうなき物に思ひなして⁝あづまの方にすむべき国も

とめ﹂た風流人の欲求が︑それへの付加物語ではもっと延長され︑

恢復をもっと未開の申に求めることになったのかも知れない︒一一

五︑一一六で﹁みちのく﹂だけが付加されて来ることも些細な証明

になるだろうか︒事実﹁東国﹂には﹁ふちはら﹂なる女もいれば︑

﹁乏し人なりけ﹂る修行者にも会えるわけである︒そこは都の性質

に似たものを持っていた︒いずれにしても﹁みちのく﹂が東国にプ

ラスされた一構想であることは肯定されよう︒

ω 昔男みちのくにすずうにいきいたりにけり

 ﹁みちのくにすずうにいき﹂という云い方には︑先述したが︑当

 時の﹁みちのく﹂に少しも触れようとしない観念性がある︒後述

 するが﹁みちのく﹂には矢張りうごめきがあり︑それに対する政

 治もあった︒そうしたことをすべて排除して出かける主人公には

 人間の行動を支える真実性がない︒このような設定は物語のリア

 リティ追求の精神の欠如を示す︒だから﹁いきいたりにけり﹂と

 いう語調にも︑前段からの続きではあると云うものの︑話のため

 の設定という弱い感じしかない︒即ちこうした前置詞には物語を

 必然ならしめる情熱が含まれていない︒

② そこなる女京の人はめづらかにやおぼえけんせちに思へる心な

  んありける

(5)

・この図式には男が都雅性を背負い︑女が鄙夷性を背負い︑その都 雅性への志向が女の恋であるという図柄がある︒男が脱出しよう

 とした都にだけ含まれる都雅性︑それが恋の根底的条件である︒

 だからこの物語の構想の志向には︑男が都から脱出して来たとい

 う九段︑その忘却がある︒③さてかの女

 中々に恋に死なずは桑子にそなるべかりける玉の緒ばかり

 うたさへそひなびたりける

 何故この歌が﹁ひなび﹂ているかは︑唯一﹁桑子﹂という語の存

 在によろう︒これを除けば右の歌に鄙性はない︒だから右の評価

 の基準は︑布の生産は既に鄙のものとして︑即ち労働階級のもの

 としてあって︑貴族のものではないとする志向がある︒④ さすがにあはれとやおもひけんいきて寝にけり

 ﹁あはれ﹂を﹁古典文学大系﹂には﹁気の毒﹂とある︒この訳は

 この物語の構成主体に似ていよう︒故に正しい訳であろう︒共に

 好情的貴族の発想によっている︒それを前提にして﹁いきて寝に

 けり﹂という特徴的な表現があれば︑この物語の質は決定してく

 る︒⑤夜ふかくいでにければ女

 夜もあけばきつにはめなでくたかけのまだきになきてせなをやり

 つる

 といへるに

 ﹁夜ふかくいでにければ﹂というのは︑恋の証明である寝〃が

 終ってしまえばそれほど用はないという意味であろう︒それを女

 は﹁くたかけ﹂のせいにしている︒この歌には類歌がみられな い︒即ち前後に系譜を持たない︒意味がはっきりしないが︑とに

東歌の終焉︵渡部︶  かく思い切った歌である︒素朴な点が東歌に似ている︒感情が生 活金直接性を持っている︒東歌の一種の末商である︒しかしこの 歌とその作歌主体は京の人からは拒否される︒探して出会った東 の中の︑もっとも東らしいものは貴族が融合出来るような世界で はなかった︒⑥おとこ京へなんまかるとて くりはらのあれはの松の人ならば都のつとにいぎといはましを といへりければ︑よろこぼひて︑思ひけらしとそいひ居りける く東下りVという設定は此処でその重さを喪失する︒男は﹁すず ろに﹂行った様にまたコ承へなんまかる﹂のである︒元々都を背 負っての恋であるから︑都への復帰は女の失恋である︒女はそれ に気づかない︒男が古今集大歌所の歌に似た風俗を持ってくる︒ これが平安貴族の知っていた﹁みちのく﹂であった︒﹁いぎとい はましを﹂は文法的には仮想であるが︑此処では悪意の風流であ る︒ ︵女は︶﹁よろこぼひて﹂ ︵私を︶ ﹁思ひけらし﹂という滑 稽さや︑いじらしさや︑善良さが生きてくるのはその故である︒ それにしても﹁とそいひ居りける﹂について諸注釈﹁女が⁝⁝と 云っていた﹂とするのに変りはないが︑このしめくくりは面白 い︒ここの主体は普通は男であるところである︒男側についてい る作者はく私を思っていてくれたらしい︑と女が云っていたVこ とは知らない筈だからである︒だからここでは︑わぎわぎ作者が 女の滑稽さを︑それは通常の叙述では出て来ない具合のものを︑ 特に書き記しているのである︒これは一五で﹁女かぎりなくめで たしとおもへどさるさがなきえびす心を見てはいかがはせんは﹂ とわざわざ女に自己の﹁真性﹂﹁滑稽性﹂を説明させている方法 に等しい︒一五では何故﹁えびす心﹂なのか全く説明がない︒説 明のない断定は権威による支配文化に存在する︒一般に﹁みちの

(6)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二〇号

く﹂は﹁えびす心﹂であるという観念がある︒滑稽な一途さの己への奉仕を伊勢物語の主人公は喜ぶ︒女は自らの限界を知って滑

稽性や︑悲劇性の申に止まらなければならない︒伊勢物語の恋のもう一つの面︑男と女の在り方については後述する︒此処では都

と鄙︑支配と被支配の図式だけにとどめよう︒

 ところでこの様な一四︑一五の物語の構想はどうして成立したのであろうかと考えると︑かかる物語の筋が大真面に構想されたとは

思われないから︑これは多分︑歌を基にしてその前後に伊勢物語構

想圏が詞文をつけたものであろうと思われる︒

 しのぶ山しのびてかよふ道もがな人の心のおくも見るべく

と歌を採る場合には︑もっぱら﹁しのぶ山﹂に重点があるだろう︒

この山自体はなでふことなき山で︑それが歌枕となり︑それに詞文

が伴うほどになるのは﹁しのぶ﹂という名の存在によろう︒この名

があるから相手の女は﹁人の妻﹂と設定される︒そしてその女は

﹁あやしうさやうにてあるべき女ともあらず見え﹂なければならな

い︒都人は﹁しのぶ﹂にそれを受取ったのである︒この歌は古今六

帖︵山︶にも出ていて︑割合一般的に知られていたのだろう︒作者

はこの様な性質の歌を基にしてこの物語を仕上げたのであろう︒

 歌が﹁みちのく﹂における恋愛物語の骨格になったとする面があるならば︑少くとも関係する歌の在り様について見なければならな

い︒一四段に於ても

 中々に恋にしなずは桑子にそなるべかりける玉の緒ばかりという歌は︑この女主人公によって︑この物語が構成される一回性

のものとして創作されたものでないことは勿論である︒万葉集巻十

二に 一二

08

ネかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり

とある︒一見しただけでも伊勢の歌が直接万葉集から来たものでな 3

いことは判る︒類歌の伝調︑それに伴う即興的創作もあり得たろ

う︒ ﹁桑子﹂﹁玉の緒ばかり﹂を共有すればよいわけである︒

 右様の現象は伊勢物語と万葉集だけの関係ではなく︑他にもみら

れる︒ 古今集

 さ夜中と夜はふけぬらし雁がねの聞ゆる空に月渡る見ゆ

 万葉集

70ウ夜中と夜はふけぬらし雁がねの聞ゆる空に月渡る見ゆ︵人麿歌 1

 集︶鐵この夜らはさ夜ふけぬらし雁がねの聞ゆる空ゆ月立ち渡る︵甫嶺︶

について久米常氏は

 古今集の編者が必ずしも人麿歌集の歌を意識してとったと云える        であろうか︒二十の編者が︑人民歌集とは別に勉の歌を集録した

 ように︑古今集の撰者らも︑当時伝調され︑愛唱されていたこの

 歌謡を︑人々歌集の歌とも︑また巻十の類同歌とも無関係に即ち

 万葉集とは︑何ら関係なく採択したものであったとしなければ︑

 余りにも古今集の撰者らを軽視したことにならないであろうか︒

 ︵﹁万葉集の文学論的研究﹂︶

と云われている︒後撰集についても平井卓郎氏が︑

 やはり万葉集から真壁とったものではなく︑万葉集を離れた伝諦

 によったものであろうと考へぎるを得ないのである︒と云われ︑後撰集の撰者が撰入した万葉歌十七首〜二十一首を万葉

(7)

集以外の資料からとされる︒      ︐

 こうしてみれば類歌の生産と伝調の世界は割合豊富なものであっ

たらしい︒そうレた類歌の一つである﹁中々に恋にしなずは﹂が伊

勢物語の﹁みちのく﹂の女のものにされたのは前述のように﹁桑子

﹂の文字によったろう︒桑子H生産労働農民という形があり︑そ

の形が東国を越えて﹁みちのく﹂に存在するという都の貴族の意識

によるだろう︒後のことであるが虫めつる〃ことがいかに奇妙な

ことであるかが物語られる︒それを一般社会に了承されるためには

虫が⁝蝶になるのだという迂廻した論理が呈出されねばならなかっ

た︒元来︑万葉集にみられるように桑子はそれほど特殊で限定的な

ものではなかった︒それが右様に﹁みちのく﹂の女と結びつけられ

るためには中央の風雅貴族の構想がなければならないし︑それも万

葉集巻十一︑十二などの基盤よりは狭くすぐられた貴族によるだろ

レつ︒ 十四段︑男が京に帰る時の歌として︑ くりはらのあれは松の人ならば都のつとにいざといはましを

とあるが︑これについては古今集の東歌に をぐろ崎みつの小島の人ならば都のつとにいざといはましを

とある︒みられる様に上二句は全く違っている︒万葉集︑古今集の

東歌が︑折口信夫氏︑菊地威雄氏のいわれるように︑大歌所で管理︑

使用されたものとすれば︑この伊勢物語の歌はそこから直接採られ

たものとは思われない︒とすれば上何句︑或は下何句かがおよそ形

の決まった所謂類歌があってそれを使用したものである︒東歌と風俗歌は流通し合えるから︑これも貴族間に調された風俗歌の一つで

あろう︒﹃新釈﹄に﹁栗原郡あねはといふ所に名高き松のありける

を﹂とあるが︑それを歌枕の様に扱ったものであろう︒ こうして一四︑一五では﹁夜もあけば﹂の解釈の難しいのを除け

東歌の終焉︵渡部︶ ば大体その採用の様子が推測出来る︒これとて風俗の一つであろう︒それが﹁みちのく﹂に利用されたのは本文の注に﹁東国の三家鶏をクタカケと云ふ﹂とある⁝様な意識が貴族の間にあって︑そこから﹁みちのく﹂に結びつけられたものであろう︒ 以上にみた様に︑両性を持つもの︑﹁みちのく﹂の歌枕を持つもの︑そうしたものが主人公のく東下りVに付加されて出来上ったものが﹁みちのく﹂の物語であろう︒そうした際に東国や陸奥の女は万葉集東歌の系譜の下にあってもよいと思われもするが︑伊勢物語構成圏はそうした直接的関係を特別に意識しようとはしなかったようである︒ 万葉集の編者は東歌に独立の地位を与えているが︑伊勢物語構成主体は東国の女に︑即ち作歌主体にそうした位置を見ようとはしなかった︒自らの風雅な体質が素剛な感情を受けつけようとはしなか

った︒そうしたもので恢復を計るよりは︑自らの恋歌に耽溺し︑東

歌の系譜主体を﹁えびす心﹂としか把握出来なかった︒初めから

恢復などという文字が存在しない時代性だったのかも知れない︒

 三六段に

 回せば峯まではへる玉かつらたえんと人にわが思はなくに

とあって︑これは万葉集東歌に

50ス雨世娑美弥年爾波比多流乱麻可豆良多生武能己許呂和郎母波奈  久爾 3

とあるのに類似している︒この方はみられるように音仮名表記であ

るから︑此処から直接採れば︑それほど変わることはない筈である

が︑右のはそれにしては差がありすぎよう︒当然東歌〃 ︵東国人

の作︶という意識で採ったのではない︒前文も

 昔わすれぬるなめりととひことしける女のもとに

=二

(8)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二〇号

とあるだけの短い段であるから︑此処には東国臭は全くないと云っ

てよい︒福田良輔氏は右の類歌として二〇八六︑二三九九︑二七七

五︑三〇六七︑三〇七一︑三四八二︑三五八八︑三七七五を挙げら

れ﹁これらの歌は︑かなり広い地域に亘って行はれてるた類歌関係

の民謡で︑しかも代表的なものであったと思われる︒﹂ ︵﹁伊勢物

語の民謡性﹂︶といわれている︒

 例えば

06q蒸せばみ峯辺に延へる玉葛﹀はへてしあらば年に来ずとも

13

07O波町の大江の山のく真玉葛絶えむの心我が思はなくにV

などを並べてみると︑言句や下句に伝請的一般性がみられよう︒こ 3

うした一般性を前提とすれば︑ 東歌原典なしにも伊勢物語の歌

の成立は可能であったろう︒即ち古今や伊勢に於ては万葉集東歌な

どをそれ自体として受けとる心構えはなかったとみてよい︒

 古今集巻十三の︑志田延義氏が類歌として挙げられる︵﹃日本歌

謡圏史﹄︶

 あふことは玉の緒摺り名のたつはよしのの河のたぎつせのごと

と万葉集東歌

 さぬらくは玉の緒ばかりこふらくは富士のたかねのなるさわのご と

についてもその東歌に

或本歌日まかなしみぬらくしけらくさならくは⁝⁝

一本歌日あへらくはたまのをしけやこふらくは⁝⁝

などの存在からみれば︑古今の歌にも万葉原典などとの関係を

考えなくてもよいことになろう︒

 こうして万葉東歌すらその独自性を主張していないとしたら︑東

国め女の歌がその系譜にあるなどということは全く有り得ない︒そ 一奪

うした時︑東国の歌は一体どの⁝様な姿であったのだろうか︒

 このような︑例えば万葉集と伊勢物語との歌の違いについて池田亀鑑氏は

 かく修正せざるを得なかった理由は︑時代の推移が齎した歌風の

 格調の変遷と︑編者の構成しようとする説話に適応させなければ

 ならない特殊な事情の二点にあったと思はれる︒ ︵﹃伊勢物語に

 就きての研究﹄︶

といわれるが︑修正というよりは︑原曲ハとは直接関係しない歌を基

にしての物語構成であることは先述した通りである︒ところでそう

した際︑﹁みちのく﹂の人達の歌は︑実際﹁みちのく﹂に伝諦され

ていた類歌なり︑創作歌なのであろうか︒こうした万葉集東歌の歌

謡主体の系譜によって伝諦されていた歌であるとすれば︑そこには

それなりのリアリティは存在しよう︒

 九段は片桐洋一氏によれば伊勢物語←古今集の図式に入るもので

あるから︑とにかく原型的な︑純粋な創作的情熱によるものだろう︒

それだけに一つの必然性を持った筆の運びを示すに違いない︒そし

てその記述を決定する冒頭﹁その亭亭をえうなき物に思ひなくて京

にはあらじ︑あづまの方にすむべき国求めにとて行きけり﹂はいわ

ば磐石の重みをもつ実質であった︒この﹁えうなき物﹂の実体は確

実にはつかめない︒こういうのは業平か︑編⁝者か︑そうしたことを

明らめ得る文学でもない︒しかし明確なことは︑それが一般性とし

て享受され肯定されて来たことである︒事実そのことが必要なのであり︑それでよかったのである︒その故にまた具体的な内容は享受

主体にとって種々で有り得た︒が︑とにもかくにも﹁住むべき国﹂

が﹁東﹂であったことは確実な根底となっている︒ ﹁東﹂は不図す

(9)

ると皇都をはみ出た性質の人間が住める国であるかも知れない

と︑ほのかに志向され︑肯定されようとしていた︒少くとも都では

﹁えうなき物﹂が向うべきは対極であろうとしていた︒この一般的

志向は︑あの大伴家持が万葉集東歌・防人歌に抱いた選る種の健康

さに似ていた︒だから九段には︑何かある人生への期待を示すリア

リティがあった︒

 ﹁えうなき物﹂には文学が志向する人間への期待がある︒京とは

支配者の存在する所︑官僚がい︑政治のある所︑それと同質の文化のある所︑そしてそれらに関わる諸関係のある所である︒それらを

拒否するというのは︑それら以外のものに生存を発見しようとする

ことである︒そうした境地を東国に求めようとしたのが九段であ

る︒当然東国はそれらの希求を充たすものとして志向されている︒ しかるに︑その延長一四︑一五で﹁みちのく﹂に展開される人間

関係には全くそうした志向は消えてしまっている︒九段の冒頭で求めたく東国性Vは一体何であったのか︒それは自然であったのか︑

人間であったのか︒家持の場合は歌11人間の方に比重があった︒伊

勢物語の場合はその歌に対してもそれを歌う人間に対しても驚きの

念などさらさらない︒ 一五の﹁しのぶ山﹂の歌は先述した様に六帖に同じ歌がある︒こ

れは都の情緒に連るものであったろう︒﹁しのぶ山﹂は単なる歌枕

にすぎない︒そうした仔情の泥沼から抜け出そうとする意識が家持

にはあった︒その歌を東歌の末商達は﹁かぎりなくめでたし﹂と思

う時代になっていた︒そして﹁と思へどさるさがなきえびす心を見

てはいかがせんは﹂と締めくくられる︒こう構想したのが伊勢物語

構成圏の人々であった︒そして︑こうした構想でもって東国から陸

奥まで覆うほどに都の政治と文化は強大であった︒﹁えびす心﹂の

存在する所こそ︑ ﹁あらじ﹂と拒否して出で向う対極のはずではな

   東歌の終焉︵渡部︶ かったか︒一四︑一五の構想は無反省というよりは人間の無智による傲慢であった︒この傲慢と物語構想力の衰弱は等しい︒ 残念なことに東国或は陸奥にはく東下りVの主人公を迎えて︑その人間性の恢復をはかることが出来る露な人間関係︑それを証する民謡の系譜はもはや存在していなかったのではないか︒彼らにそれが見えなかったとも考えられるが︑事実そのものもなかったのではなかろうか︒ 古今集﹁大歌所感﹂に東歌〃がある︒その中

 しき︵みちのくうた︶ 08墲ェせこをみやこにやりてしほがまのまがきのしまのまつそこひ

09

ツくばねのこのもかのもに影はあれど君がみかげにます影はなし ︵ひたちうた︶

 らはん︵いせうた︶ 09ィふのうらにかたえさしおほひなるなしのなりもならずもねてか

には次の様に万葉集東歌の類歌がある︒

 コ  ヨ

08ォ36我が背子を大和へやりてまっしだす足柄山の杉の木の間か

ーー  Qり

 リ  ヨ

  3  ←36足柄の彼て面此の面に⁝⁝     1  0009ォ39筑波嶺の彼て面此の面に⁝⁝

 コ  つム

て大歌所に入ったと菊地威雄氏はいわれる︒ただ万葉集東歌のよう        一 そして例えば︑09は﹁東の歌﹂であったものから﹁東歌﹂へ昇格し        ら 一  ◎G09ォ49小山田の池の堤にさすやなぎなりもならずもなと二人はも

に古今集時代にまで右の嬉々が東国の地に生々と歌われていたかど

一五

(10)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二〇号

うかは定かでない︒

 ﹁東遊び﹂に

 ⁝⁝汝をかけ山のかつの木や⁝⁝

と出てくる︒折口信夫氏は

 一歌⁝⁝さかむのね⁝⁝

 二士⁝⁝なをかけやまの⁝⁝という関連から二黒では万葉集東歌の

43?オがりのわをかけ山のかつの木の吾をかつさねもかつさかずと

3

という歌を﹁歌ったのに違いない﹂といわれている︒ ︵﹃日本文学

史ノート豆﹂︶

 東遊びから風俗が出︑東歌は東遊びに対立し︑遊離して来たとい

うのが折口氏の図式であるようである︒風俗歌について小西甚一氏

は﹁結果としては︑厳密な意味での﹃民謡﹄ではない﹂ ︵﹃古典大

系・古代歌謡集﹂︶といわれる︒とすれば東国に残るはずの東歌系

譜は一体何処に存在することになるのだろう︒古今集に残ったのは

僅かに各国一首ほど︑これには風俗歌に一致するものが割合あるが

その現在ある形の風俗歌が民謡でないとしたら︑古今集東歌も民謡

そのものではないであろう︒儀式的に残された民謡の形骸ではなか

ろうか︒六歌仙時代には既に東歌〃の系譜は東国から消滅し去っ

ていたのではなかろうか︒とにかく伊勢物語構想圏には﹁みちのく

﹂の女だからといって東歌の系譜を背負わせて︑その特質を持たせ

るといった意識はなかったように思われる︒

    五

 ﹁みちのく﹂開発が進む中で︑九世紀から十世紀の初めにかけて

其処の女は伊勢物語にみられる様な歌を付与されて存在する︒付与 一六

された性質はそのまま受取らねばなるまい︒

 万葉集という貴族歌集の中にある﹁東歌﹂と伊勢物語に存在する

東下り〃はその在り様が似ている︒両者には怒る種の東方への意

志があった︒即ちく東国Vというものが︑都雅に畳まれて存在する在り様が似ているのである︒だが二者は殆ど異質である︒貴族の歌

が文化上の権威として確立し︑それを基準にして他を見る方法しか

なくなって来ているのが伊勢物語における﹁みちのく﹂の女に付与

された歌の条件である︒これは一般的には藤原氏を中心とする官僚

政治が東国まで支配が行き渡り︑それと同質の文化が東国・陸奥を

支配したためである︒そういうより本質的なことは︑人間がその政

治の下に安住し︑人間の内質に盲目になって来たことである︒悪い

ことにはその政治の上に風流貴族さえ居坐ったことである︒風流さ

えも傲慢であり得るという過誤を犯し︑あたかもそれが人類の正統

な歴史でもあるように見せかける過誤をも重ねた︒

 東国の歌は明らかに政治支配との接触点から崩れて行った︒

轄足柄の八重山越えていましなば誰をか君と見つつ思はむ

姐立ちしなふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひ渡りなむ

というのは題詞に﹁上総国朝集使大橡大原真人今城向レ京之時︑郡

司妻女等簸之歌二首﹂とあるものであるが︑こうした一対一の将情

という形は東歌にはみられないものであった︒東国民謡主体はこう

した形で恋を歌うことはない︒それが右の都人に対応する野情はや

はり︑﹁郡司妻女﹂といった立場で行われる︒即ち支配に含まれる

文化の下でかかる野情の成立があるのである︒

80タ積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに にはそのことがはっきり出ている︒これは葛城王と前采女の関係に 3

(11)

ある︒文化における支配は︑常に政治における傾斜に伴って行われ

る︒そしてもう蝋つ大きな重要なことは︑その政治腿支配が男のも

のとして意識されたことである︒これは都・鄙を問わず同様であ

る︒女が男へよりかかった生活を一般とする風潮が文化の中に生ま

れていた︒

 伊勢物語六〇段に次の様な話がある︒

 二男有けり︒宮仕へいそがしく心もまめならざりけるほどのいへ

 とうじまめに思はむといふ人につきて人の国へいにけり︒この男

 宇佐の使にていきけるに︑ある国のしそうの官人のめにてなむあ

 るとききて女あるじにかはらけとらせよさらずは飲まじと底ひけ

 ればかはらけをとりいだしたりけるにさかななりける橘をとりて

 さ月まつ花たちばなの香をかげば昔の人のそでの香ぞする

 といひけるにぞ思ひいでてあまになりて山に入りてぞありける︒

︿尼になりて︑山に入りてぞありけるVとしめくくるのはなんとし

てもやり切れない︒こう書いたのが︑男の︑風雅官僚の意志なのである︒女の悔悟と︑共に男の風流の勝利であったのだろうか︒敗北

し︑反省しなければならないのは地方であり︑女である︒中央と男

は風雅の専断者であった︒

 かつて地方の女は総荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず

と歌ったと伝えられる︒これが人間への愛情でないことは決してな 3

いのである︒対して︑

 今はうちとけて︑手つからいみがひとりて︑笥子のうつわ物に盛

 りけるを見て︑心うがりていかずなりにけり︒

という所には必ずしも愛の精粋があるとは限らないのではないか︒

却って此処には愛〃そのものの忘却と喪失があるのではないか︒

東歌の終焉︵渡部︶ 右の基調になっている風雅という貴族的様相はそのまま政治感覚に似ていない筈はない︒文学史では必ずしも政治の仕組みを並べることはいらない︒文学の持つ文の質が政治の質そのものである︒そして文学に現われる風雅は支配の力を背負ってのみ風雅であり得る︒伊勢物語に愛〃そのものは存在しない︒風雅というある種の政治の質を背負って愛の幻影に漂うだけである︒ みちのくの女︑つくも髪の女に対して伊勢物語の主人公は﹁あはれ﹂に思って行って﹁寝﹂るわけであるが︑これが風雅の愛であれば寝臆愛の図式が成立する︒しかし他の物語では寝と愛の間の距離は遠い︒この遠い距離が純愛といわれるものであることは前述したが︑寝H愛という図式からはこの純愛というのは云わば余計物である︒この余計物の正体こそ伝統社会によって作り上げられた障害11文化なのである︒そしてこれは貴族自らが作り上げたものであった︒一族の中に皇子が生まれた時の在原家の様子は面白い︒ むかし氏の中にみこ生まれ給へりけり︒御産屋に人々歌よみけれ ば御おほちなりける翁のよめる︒ わがかどに千尋ある影をうへっれば夏冬たれかかくれざ惹べきこの氏族保存︑発展の婚縁関係を前提にして︑実はかのく高子章段Vにおける障害盟純愛もあるのである︒ i行平−文子

一業平 謹−回数皇子

清和帝

の図柄において︑文子が他の男と風雅な関係にでもなれば︑右の文

だってそのままでは有り得まい︒云わば風雅な恋は右様の氏族の大

げさな喜悦の情の拒否の上に成立することになるわけである︒

 純愛とは人間それ自体に関わってあるというよりは︑社会の関係

性の上に存在する︒人類にとっては決して本質的とは受取らなくて

一七

(12)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二〇号

もよいものに執着するところがまた人間の文化の性質をなしてい

る︒風流官人はどうしても恋をしなければならないのである︒伊勢

物語を在原家一族による構築という風に持って行けば︑この風流物

語の陰に在原家がいかに伝統文化U政治支配にこだわったかが判

る︒そしてこの執念のある限り︑彼らはまた人類の文化に対して責

任を感じなければならない︒彼らは支配を固執し︑伴ってそれを文

化として呈出したからである︒この固執から彼らの歌は藤原家への

媚を歌う︒ 咲く花のしたにかくるる人を多みありしにまさる藤のかげかも

歌は男女の仲を取り持つ具だけではなく︑権門への媚の具でもあっ

た︒ かくして支配と男の在り様に関わる歌の性質が︑また﹁みちのく

﹂の女の在り様を決めた︒

 征夷大将軍陸奥出羽按察使陸奥守坂上田村磨が中納言で中衛大将       をかねて京にあった 大同三年蹴︑按察使は藤原測量に代る︒文化      くの質を決定する藤原政権︑その中心人物である緒嗣は﹃上新撰姓氏

録表﹄の終りに

弘仁六年七月廿日

営門親王藤原朝臣乱人

藤原朝臣皇嗣

阿倍朝臣真勝

三原朝臣弟平

上毛野朝臣頴人等上表 一八

      と出てくる︒この弘仁六年15︑園人は右大臣であった︒弘仁八年17      0Q      OQ      く       く冬嗣が按察使となり︑十二年右大臣︑天長二年晒左大臣︑伴って緒       く嗣右大臣という状態である︒こうした藤氏の最高貴族によって貴族       の系譜の整備が行われた︒緒嗣の右←左大臣は承和十年脇まで続      ︵く︑ここは伊勢物語の世界でもあった︒

 国人︑緒嗣らが﹃新撰姓氏録﹂を作る一方︑東北征略への操作は

次のようであった︒

 弘仁五年紀十一月十七日に

 陸奥国言︑胆沢徳丹二城︑遠去二国府一︑孤二居塞表一︑城下乃津

 軽秋俘︑野心難レ測︑至二於非常一︑不レ可レ不レ備︑伏望予備二糖

 塩一︑収二置両城一者︑許之

などと見える様に﹁みちのく﹂でも北方は野心難レ測い状態であっ

た︒これに対応する処理は次の⁝様にみられる︒

 弘仁六年八月廿日の大政官符に

 一分レ番令レ守二城塞一事

  兵士 六千人

  旧数 二千人      白河団一千人 安積団一千人  今請二加四千人一      行方団一千人小田団一千人

これをもってみるに結局︑常陸︑磐城︑岩代︑宮城︵県︶が文字通

り﹁みちのく﹂であって陸奥の防波堤になっていることが判る︒此

の辺までが宮廷の権力の到りついている地域であるという意識が存

在した︒だから当時の貴族の意識・行動の範囲にある﹁みちのく﹂

というのは東歌の北限とほぼ重なるのである︒

 例えば緒嗣の左大臣時代

(13)

 承和二年十二月四日条﹃続日本後記﹄に

 夷前出レ境︑禁制巳久︑而頃年任レ意︑入京有レ従︑傍出二官符噸︑

 講二七陸奥出羽按察使井国司鎮守府等一

とありそれに対してはまた

 ﹃類聚三代格﹄十八に

 応下身二長門国関一塩田過白河唐事両津上事とある︒矢張り白河︑菊多が夷俘との境である︒宮廷がそうした意

識と施策を取るようになったのには伝統がある︒ ﹃国造本紀﹄には

 三宅菊多国造︑阿尺国造︑思国造︑伊久国造︑浮田国造︑信夫国

 造︑石背国造︑石城国造と見え︑こうした国造があったとされる地域は﹁みち狸東海道﹂の

北端﹁常陸﹂︑その奥に当る︒そしてこれらの国造は

伊久︑思︑阿尺︑染羽︑信夫︑白河←天湯津彦命

菊多︑石背︑石城←天津彦根命︑建許呂命

浮田←豊城命という系譜を持たせられているのである︒既に宮廷の︑そして服属

の系列にあるわけである︒

 これより北の方は例えば斉明紀四年七月

 授柵養蝦夷二人位一階

      り     の    三代郡大領三三三三小回上

 勇健者二人位一階      の 授津軽郡大領馬武大乙上

 勇健者二人位一階

とある様に前線基地の城柵関係︑郡領︑勇健者に対する叙位という

形で行われる︒これは征服途上の形である︒

 この形から次第に賜姓の形が出てくる︒東北すら宮廷周辺の貴族

と同じ被支配の形態をとってくることになる︒社会と生活と意識の

東歌の終焉︵渡部︶ 在り方が変貌してくるのである︒ 七七一年︵というのは︑例の宝亀二年目武蔵国が東海道に配列されたという年であり︑万⁝葉集解十四の編集がそれ以後とも云われる年である︶︑その頃から東歌の民謡的世界は我々の視界から消え︑おぼろげにでもその末路は姿を現わしてくれない︒変って﹁みちのく﹂に賜姓の記事が増える︒宝亀二年﹁賜姓道嶋宿禰﹂︑宝亀三年﹁賜姓阿部安積臣﹂という風に︒これらは現地の豪族であった       ろう︒この傾向は天平神護辺りから初まって︑神護景雲元年荷︑三       く薦と続々と出てくる︒この三年の賜姓は大量で﹁蓮大国造道嶋

宿禰嶋足要所レ請也﹂とある︒先に賜姓された大豪族が宮廷に連な

ってその下にまた貴族的系列を作るわけであり︑こうした系列自体

は京でも鄙でも変りはない︒一様に支配というものが広くまで及ん

だわけである︒        延暦からの坂上田村麿もこの征服の伝統をうけついだ︒十六年研      ︵ 陸奥国白川郡人大伴部門猪等←大伴白河連

 〃  亘理郡人五百木部黒人←大伴亘理連

といった具合である︒先の郡領︑勇健者達の子孫がこうした貴族的

支配の系列に入って行った︒これはまた﹁姓氏録﹂を作った国人︑

緒嗣時代にも変らない︒承和七年二月

顯難難馨阿蟹臣

 国人五部継成等三六人←下毛野陸奥公

との様な次第である︒

 かくして﹁みちのく﹂には早く朝廷の支配の秩序に入った部分と

伊勢物語の主人公の時代にしきりに動いていた部分との二つがあ

一九

(14)

  

@ 

[擬大男謬阿倍陸奥臣

         む        国人客部継成

            耶磨郡大領財部人麻呂

      承和十年 白河郡国造知成    長崎大学教育学部人文科学研究報告第二〇号る︒ ﹁すずうに﹂行くという発想が可能になるのは前者︑今の福島県中心の地域であったろう︒それより北は﹁塩がま﹂に見られるような歌枕についての知識だけであったろう︒ この常陸の北の原陸奥は東歌北限をなすわけであるが︑ここから津軽まであの叙位と賜姓が覆って行く時︑東歌の基盤であった人間の横の関係は失われ︑人生に縦の関係が現われる︒    七 今︑﹁みちのく﹂の人名についてみよう︒延暦三㈱斬二夷大墓公監熱・盤暴無筆右にみられる夷は﹁公﹂とある様に不図すれば大領にて叙位の記事などにも現われ得るものである︒この段階での彼らの名前は︑文化の正統性からは見当のつきかねるものである︒       ダ        り    弘仁二讐知以俘三千人︑委二士.弥侯部於夜志閑箏可・襲二伐    弊伊村即       の      の弘仁二訓邑良志閑村降俘吉弥侯部都留岐申云三等与二弐薩体村夷伊           加古等一久構二仇怨一とみられる様に夷の首領︑勇士級でも一般の文化意識では意味をとりかねるものがあった︒右と︑先の賜姓の続きを順次挙げ比べてみると      潔和七年柴田郡権大領事部豊野

下毛野陸奥公

上毛野陸奥公

陸奥白河三 二〇

      の         安積郡狛判子麻呂         陸奥安達連             河辺郡奈良己智豊継        大滝宿弥

承和十一年 磐城郡大領

      む

      磐城臣負連の戸口㌔   

      の        

  

@ 

@ 

]鑑鶴来益︸吉弥侯

       

嘉祥兀年書辞賊繋蓄

      貞観五年  磐瀬郡人吉弥三部豊野陸奥磐瀬臣

      ︵其先︑天津彦根命之後也︶

      り   貞観十二年 菊多郡人影部立麿   湯坐菊多臣             安積郡人矢田部今継  阿倍陸奥臣

といった具合である︒これを先の夷の名前と比較してみればよい︒

後者の名前は宮廷の貴族の名前にも劣るまい︒面白いのは貞観五年

の﹁吉弥侯部豊野﹂の記事である︒天津彦根命の後という︒これは

﹃姓氏録﹄によく出る名である︒緒嗣が亡くなったからでもあるま

いが︑そうした宮廷への侵入も存在した︒上から下へも︑下から上

へも働きかけて出来る支配秩序の質は変らない︒

(15)

 自己を表明する名詞が都の貴族と同じくなったことは︑貴族の持つ意識︑解釈の系譜を彼らが持ったことである︒いわば人間が変貌

したのである︒情緒が不変であるわけには行かなかった︒

 これらの新しい名は不図すると東国の防人達より一段階新しい名

前かも知れない︒防人の場合には︑四三二二身麻呂︑四三二三真麻

呂︑四三二七古麻呂︑四三二八人麻呂︑四三三〇多麻呂︑四三三七

牛麻呂︑四三三八道麻呂︑四三三九虫麻呂︑四三四〇虫麻呂︑四三

四一足麻呂︑四三四二麻呂︑四三四四麻呂︑四三四五麻呂とのよう

に出てくる︒﹁マロ﹂というのは﹁男の人﹂という意味らしい︒あ

まり個性はない︒他の国ではもっと意味を持っている名がある︒東

歌主体も余り変らない名の所有者であったろう︒ ﹁みちのく﹂の賜姓者にも人麻呂などがみられた︒だから大体云えば﹁みちのく初期﹂﹁東歌︵防人︶時代﹂﹁みちのく承和・貞観

期﹂といったほどの段階がみられよう︒東歌時代は無意味から意味

期への過程にある︒東歌が宮廷貴族歌集の中に採録されたことなどもその一現象である︒東国民謡は元々意味以前であった︒それが万

葉に採録される時︑というのは正統文化の系列に位置しようとした

時︑意味を持った︒しかしその意味は都雅人の誤解された野情であったろう︒その誤解の好情が強引な正統性を主張する時︑東歌はそ

の本来性を消失するだろう︒﹁みちのく﹂に叙位・賜姓があり︑そ

の人々の名前が都と全く等しくなる時︑東歌は存在しなくなるだろう︒承和・貞観期︑﹁みちのく﹂の女は﹁ひなびた﹂歌しか出来な

かった︒すべてが支配にさらされ︑歌は正統文化の伝統の中にその

意味を位置づけたからである︒

 一般に︑叙位・賜姓について掲げ︑支配政治と人間の生活につい

て関連を推測することは出来る︒しかしそうしたことが人間にとっ

て何であったのか︒人間の意識の具体的変貌は何処に存在するのか

東歌の終焉︵渡部︶ といったことを明瞭にすることは出来ない︒それが名前では或程度出来る︒名前は意識を表わすからである︒それは自己への修飾であり同時に自己意識であるから鮮かに文化を検証するのである︒ 以前の夷の名は︑正統文化からは符号でしかない︒承和・貞観期の名は意味が判る︒都の人の名に比して異るところがない︒正統文化の系列に名が位置したのである︒そしてすべて〃意味〃とは支配に打ちひしがれた在り方の謂である︒東歌が採録され︑或程度理解されたということは既に東歌の危機でもあった︒ 意味の下で歌を作ることは︑﹁みちのく﹂の女にとって﹁さるさがなきえびす心を見てはいかがはせんは﹂という配慮なしには不可能であった︒劣等感というのは人類における最大の罪悪の筈であるけれども︒ 東歌は難解である︒最後まで判らない部分が残るだろう︒判ってしまえばそれは東歌ではない︒だから東歌はいつも無意味なものにしがみついて離れないのである︒

一二

参照

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