熊本大学学術リポジトリ
龍南七不思議、習學寮十二境記、僭稱 "龍南十五景
"、東光原、寮歌、部歌抄
著者 五高創立七十周年記念会, 高森, 良人
雑誌名 龍南への郷愁
ページ 200‑219
発行年 1957‑10‑10 その他の言語のタイ
トル
龍南七不思議、習学寮十二境記、僭称 "龍南十五景
"、東光原、寮歌、部歌抄
URL http://hdl.handle.net/2298/10848
i ともない、きわどい歌が、次とに出て來ろ。多分、校長や捲任など歸つた後で、待ってましたとばかり、盛んに喝はれた クラス會などに呼ばれたことも、数へきれないほどだが、かうして五高がなくなった後の集ひでは、嘗て一度も聞いたこ ◇同窓の會合では、酒酎になると、数との寮歌や部歌が高らかに喝はれる。永年母校に勤めて居る間には、部のコンパや、 手に、”龍南十五景“と題し、一一一一一の註を附して、追記することにした。 つもりである。然るに、偶と、夏目教授の”秋季雑詠“が、十二境記と同年の作でもあり、十五の景致でもあるので、勝 とも思しき、”習學寮十二境記“などがある。武夫原や白草原のことを書いたついでに、東光原の由來に就いても鯛れろ ◇稼堂黒本教授は、寮監としても、多くの業績を遺した人だが、詞藻にも堪能で、“寮生規約”や、「武夫原」の名の起り 丁寧に探し出す暇もないので、さしあたり、習學寮史から輔載することにした。 史を書かうなどとは、夢にも考へなかったので、それ等の摘録も、その他一切の抜革と共に、戦後焚いてしまった・二 想ひ箸いたものだらう。いかにも龍南人らしい、懐しさがある。龍南會雑誌にも、載って居たやうに記憶するが、再び校 ヨ・己の厨・玲晉の湯口・】の貝三○円臣》岳の四目胸冒胴の四aのロm・開田号]]・口》昏の田胃四目曰&同巴宴の言・)からでも、 何時、誰が、こしらへたのか知らぬが、恐らく、紀一兀前に於ける”世界七不思議“e』のの]のすのロヨの]ヨロ己の二mの『のロ ◇初草を了へて後、各地の同窓會や、クラス會などに招かれて、よく話題になるものの一つに、”龍南七不思議“がある。 一一一、龍南七不思議、習學寮十一一境記、僧禰”龍南十五景“、東光原、寮歌・部歌抄
ものとみえる。何れも、近代的な色彩を繩 れて置くべきものも、少くないであらう。
日本は怪談の國である。古いものには必ず何か因縁がつく。弊衣破帽、剛毅木調、凡そ怪談等とは線遠い存在である吾 が龍南生活にも、五十年の歴史が幾多の奇しき物語を生み出し、新入寮生の肝を冷すのである。 コンパの晩である・話がはづみ、茶菓漸く霊きんとする頃、時はよしと許り上級生は電燈を消す。急に眼の一別が眞暗だ った。しいんとする。眞中にのり出した上級生はぽつりノーと話し出す。月の光にどうやら一堂の者の姿が薄ぼんやりと つた。しいんと守
無氣味にうつる。
てわからぬ。其後一一、三度かけか〈』 だ。門札のないのはそれ以來である。 先づ龍南には七不思議なるものが存在する。その第一は門札のないことである。學校中何庭を探してもない。大艘個人 の家にしても門札のないのは少いまして學校、官臆でそれのない所は誠に珍らしいことである。虚がこれは近頃のこと でなく、数十年來ない。そこに七不思議の一つたる理由が存在するわけである。 昔l明治三十年代-には赤煉瓦の正門に立派なものが掛ってゐたが、何時の間にやら行方不明になり杏(原、春)とし てわからぬ。其後一一、一一一度かけかへたが、それもなくなったり、或時には第五高等女學校と書きかへてあったりしたさう
〔備考〕
追
龍南への郷愁
l◇I◇I
怪談(龍南七不思議) 迫
記
近代的な色彩を帯びたものばかりのやうだが、他日誰か、”龍南裏面史“でも書くとすれば、入
記
○
二○○
七Fトレ○ケ呂甘Lb00bBSu・い汀一・
Ⅱ ●■田一BFhp■いけ■■|PF0plIIⅡBbF■qI0冊TFB□■が珀分寺Pb〉1凸与5$●βTPD⑪■Tf二IF■Drh・IPDP4J8.j几rⅨP
然、その下に小さな川がわっかに茄恥 ふ。サイン・カーヴには電燈がない。 は、数十年前、或る寮生が野良猫2 に残酷なりしため成佛せず、夜な夜一 が、近頃は「夜鳴橋」で通ってゐる。
とがない。
ろさうだ。 第一一の不思議は第一校門と第一一校門との中間のサイン・カーヴの所に在る石橋である。五高創立以來のもので、古色誉 、その下に小さな川がわづかに流れて檜林に入ってゐる。】県夜中、その橋の上に立って手を叩けば、猫の鑿がするとい ・サイン・カーヴには電燈がない・木は両側に茂ってゐる】その鑿たるや誠に以て臓の腋にしみ入るとの話。事の起り 、数十年一別、或る寮生が野良猫の大きいのを捕へて來て打殺し、之を橋下の小川に投げ込んだ。所がその殺し様の餘り 淺皓なりしため成佛せず、夜な夜な鳴くといふ。以前は其の鑿りが麥畑であったため、穂波橋、麥浪橋の名があった
ならば、それ以來のこ‐
たことを、たびたび耳』
かつたが、正門からの[つてはどうであらうか。 第三の不思議は、本館の がない。何でも、ここ弁
〔備考〕
北風ならぬ南風に件うて、悪気が流れ込むかどうかは知らないが、本館の玄關と寮の入口とは、一直線上に在るので、ここを 一一○一一一
追記〔備考〕 》 〃穂波のはし“、”麥浪橋“と一玄ふのは、”寵南十一一境記“の一つである。その頃も、今と同じやうに、水は流れて居なかったら しい。尤も、梅雨から夏にかけては、相當流れる時もあるから、この傅説は、少くともその時節と結び箸く.へきであらう。両側 の樹木l主に杉が植ゑられたのは、昭和の初めだったので、茂り出したのは、十年以後のことである。もし猫の聾と結び箸ける ならば、それ以來のこととなって、誰が新しくなって了ふ。私の生徒主事の頃は、夜遅く寮に歸って來る生徒が、不良に襲はれ たことを、たびたび耳にした。今では、右側の木はほんの僅かとなり、左側も間引白れて、以前に比.へると、よほど明るくはな かったが、正門からの見通しも悪く、依然として電燈はなく、あまりいい氣持はしない。一層のこと、この機會に、伐ってしま
本館の玄關の開かぬことである。明治の或年代迄は開いてゐたさうであるが、其後一度も開かれたこ ここを開ければ悪氣流入し、そこと直通してゐる寮の玄關に入り、寮に悪疫が流行するといふのにょ
llllllIl1llliililll1lIiiliiliiilIlilillllliiiiiiIjllii1i1l
Ⅳ■
L
稚松と門札
二○二 正門から本館が、何の目障りもなく見えるのは、樫の並木も杉林も ないからで、樫は初め明治一一十九年頃に、杉は昭和の初めに植ゑたも のである。”五高“がなくなって、大學になった即下、中門の左には ”熊本大學法文學部“、右には”熊本大學理學部“、と相對して掛けて あったが、いつの間にか、法文學部の方だけが、姿を消した。その後 幾日か經って通ってみたら、また元の表札が、少しよごれたまま、掛 けられて居た。不思議なことだと思って居ると、或席上で、このこと を話したら、某君が、笑ひながら、”その犯人は僕ですよ。法文學部 なんて、あんまりいまいましいので、いきなり措いで行って、子飼橋 の上から白川へ拠り込んで、やつと溜飲が下ったんです。ところが、 悪いことには、それを誰か見た奴が居て、學校に知らしたものとみえ て、又あの通り掛けてあるんです。“と、いかにも得意げであった。
、、、
けれども、ひそかに聞けば、どうやら相壱田あぶらを窄られたものらし い。(妄言多罪) 正門の扉だけは、開校以來無かったと思ふ。天下の五高を以て任ず る龍南人には、漱石の所謂”いかめしき門を這入れば蕎麥の花“の、 厳めしき門には、表札なんど、全く無用の長物であったに相達ない。 それかあらぬか、今日でも、雨學部の薄れた門札は、正門には無くて、 中門に在るのも、由って來るところ遠いとでも申すべきあらう。ただ、 大學本部やエ學部のそれ等と比べて、餘りに貧者なのが、氣になるば かりである。(次項の寓眞参看)
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〔磐紳〕
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〔撃榊〕
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第五高等學校が、熊本大學の一部となり、國を墨げて平和憲法を誕歌し、戦争放棄を標傍しようとも、本大學唯一の運 動競技場である”武夫原“の名が、龍南の學苑から消え失せることは、断じてあるまい。 ”武夫原“は、艦操場の通樗である。愛稻となったのは、寮歌”武夫原頭“が龍南人に愛唱されるやうになってからに
億じゆう相違ない。但、何時からさう呼ばれるやうになったのか、確證を獲ないが、恐らく、戊戌の年、即ち明治三十一年、(退 官の前年)黒本教授によって物された、”習學寮十二境記“に因んだものであらう。戊戊と云へば、昭和三十一一一年がやは
、、、、、、
り、つちのえいぬ年に賞ろから、六十年一別のことである。而してその十二境とは、 一、千世の林 千歳林蘇醜、緬榊ろ)筆者註、以下同じ。 一一、かざしのその好文園(肴純魍籍噸や琴歯嶬埴凱錘稻墜殉熱醇一認職》癩岸醗乖は、) 一一一、かたみの花 留魂樹(榊關舶画樮綱巫噸理諏騨嶬鯛藷函趨舵齊鯛妬亜録鋼趣一) 四、椎しばの庭 擬翠軒(辮諏職坐隷繍奄梛鞁躯剛唾某縦鉦懸が齊症鞭)
のに擦りて學ぐれば、 五、穂なみのはし 六、聾すみ河 七、芝生のそてつ 八、手にとる山 九、ちしほが岡 十、黒かみ山 十一、もの園ふの原 十二、ふきでの峯
の十二景を云ふのである。
是ハ枚の西にあり・千世の林を分入て、嵐の音も少なくなれハ、頓て此原に出づるなり。こ国にて兵式の艘操を習ひけ れば、かくは名付たり・四の時に従ひて、潔芽生のしげみに、百草の花嘆出づる、目もあやなり。日影麗かに風長閑な る頃ハ、すみれ花さく床のべに、草枕して文見るもよく、夕の暑さ堪へがたき頃へ千世の林に入て、物考ふるも、心 よげなり・しかはあれど、はや夜寒の比となり、松墨、きりぎりすの鑿よわりゆく旅のよすがら、衣かりがね鳴渡る程 ハ、遠思の情留めがたくやあらん。風さえ、霜こほる時ともなれ(満目物凄まじく、木枯のふき立つょと見れ(、はや 霞のたばしる空ともいはず・此原にうちむれて、身のよるひもかろげにきなし、銃とりあなみ揃へて、武技を演ずる、 見るもいさましく、是ぞわがみくにのならひにて、おほけなくも、此身ハゆくノー三□すめらみことの守なり。外つ國人
追記
二○七 〔備考〕 白草原には、明治三十年四月から、一一一十九年一一一月まで、工學部が設けられて居た。右の寮歌は、一一一十九年、日露戦事後の作だ から、白草原の名も、それにヒントを得たものではなからうか。古い地圖には、”器械禮操場“と記されて居るだけである。エ 學部の軍立移輔後は、種種の建物や、植物宵習地が出来たりして、昔を偲ぶよすがもなく、柔創道場も、稽古場は教室に、支度 部屋は住宅となり、弓道場も住宅となって、”矢呼び“、”雄呼び“の代りに、時偶聞えるものは、絃調の聾でもあらうか。
l◇I◇I
龍南への郷愁
十二境
紅遙鐵清 葉青蕉響
〆 ̄、〆 ̄へ/ ̄へ/■へ
岡嶺鳰灘
地。、指金る。、聞白 一峰し峯が筒か川 蒋墓て山、くれの
~-/云一木なな瀬 ふ瀞館つくの
。をPのてな音
、--色居つも とるて、、のし今 とでまでb、つば 合鴇た殆せの◎ど が字、--
面を白使 いつ◎て
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麥浪橋翁麟瀞”)
吐龍峯耐露) 今、その”』 武夫原翁錘歴卵鰄承搬弘あり、) 雲髻山鹸田)
”もの畠ふの原“の全文を、大正九年八月一一十九月、京都に於て手づから淨害したも
!
二○六
I 明かに誤脱があるので、補正して置いた。 ”龍南十五景“とでも題したくなった。雑詠は、大正八年一一一月三十一日發行の”龍南會雑誌“第百六十九號に擦ったが、 同年に發表されて居るのも偶然である。境記の十二と、雑詠の十五とは、固より何等の因縁もあるまいが、何とはなしに、 った翌一一一十三年、事實上龍南を去って、英國に留學、歸朝の後は、官を退いて東京に鱒じた。そして、境記と雑詠とが、 黒本教授は、右の”十二境記“を作った翌一一一十二年、職を辞して本校を去ったが、夏目教授も、左の”秋季雑詠“を作 一筋の矢竹心ハ玉あられ
ふるとも何かもののふのはら
はらの隅に、弓場もありて、時々ゆづるの音のきこゆろ、
龍南への郷愁の侮ふせぐますらをぞとのたご一筋の志のあつくありてこそ、その寒きにも堪忍ぱるべけれ。
〔備考〕
〃瑞邦館
〃
倫理講話
〃
教室
〃
植物園
〃
物理室
化學室
追
學校
〃運動場 圖書館
〃。価はふみ識に天下の士心習學寮頓首して新酒門内に許されず 習學寮史所録と比べると、全巻を通じて非常な相違がある。寮史の方は、恐らく當初のもので、龍南會雑誌から韓記したのだ ろう。題篭並に”自序“の一葉を篇眞にしてあるのだから、折角のこと、浄書本に蟻って置いたらと、惜しまれる。
孔孟の道貧ならず稻の花 古ぼけし油繪をかけ秋の蝶
たうがらし
赤きもの少しは参れ蕃椒 かしこまる膝のあたりやそぎろ寒
朝寒の顔を揃へて机かな 先生の疎憲に吹くや秋の風
本名は頓とわからず草の花
苔青く末枯ろるべきものもなし 南窓に蔦眞を焼くや赤蜻蛉
化學とは花火を造る術ならん
記 l◇l◇I凸へん
章(原、葦)編断十って 秋はふみ我に天下の志 いかめしき門を這入れば蕎麥の花 粟みの(ろ)畠を貸して敷地なり 松を出てまばゆくぞある露の原
らへん
章(原、葦)編断ちて夜寒の庫に束ねたる
朝寒と申し糯絆の贈物 熊本高等學校秋季雑詠 十 五 皇示 いといさまし。(句讃並に濁黙は筆者)
、
二○九 二○八
1.
j
樹
撃剥會稻妻の目にもとまらぬ勝負かな
〃
容赦なく瓢を叩く絲瓜かな
柔道試合鱒げし芋鳥渡起上る健氣さよ
す寸倉〃
廃けども芒を倒し能はざる
章編云云の句は、史記の孔子世家に所調、「孔子、晩而喜レ易、……讃し易章編三絶、」や稗退之の詩に所調、「春秋三仰束二両閣一」 などを、奨噌云云の句は、同じく史記の項羽本記で有名な、鴻門の倉の故事來歴を知らなければ、解し難く、富婆那は、大抵、 富椣那の漢字を充ててある。梵語の口月忌のことで、程尊から、雄癖家で、説法第一と稲せられた、弟子の名、太平記の天王 寺造管事に所調、「詞の林に花開く、富梱那の縛舌、文珠の智磐も、云云」とあるのがそれである。何れにしても、博學多識の 演説會瓜西瓜富婁那ならぬはな
〃就中うましと田心ふ柿と栗
魂南への郷愁〃
玻璃瓶に絲瓜の水や二升程
6中
動物室剥製の鴫鳴かなくに甕淋し
ばんくわいたつ
食堂奨嗜(原、奨噌)や闇を排して茸の飯
〃
大食を上座の栗の飯黄なり
うルナ
漬説會瓜西瓜富婁那ならぬはなかりけり
證左であらう。
l・I◇
Uロ
東光一原
8
東 光 原
武夫原や白草原を記したついでに、東光原に就いても一言
して置きたい。灰間したところによれば、溝淵校長の頃、大 藏省(?)は、正門内の耕地に目を着けて、空閑地と徹し、
國有財産といふ理由で、割愛(?)を申入れて來た。その唐 突に驚いた校長は、いろいろ調査した結果、創立の頃、全校 域は、熊本縣の地方税と、個人の寄附によって賎ひ得たこと を知り、断乎としてそれを斥ける一方、サィンヵーヴの東 側は運動場に、西側街道沿ひには、熊本市より寄附の要望に 應ヘて、ブールを、北側には、バレー及.ハヶットの球場を新 設し、運動場の北側にも、プールの北側にも、杉を植ゑて、 無用の空地でないことを明かにしたのである。 その頃、その運動場は、軍に蹴球場などと呼ばれて、”東 光原“の名は無かった。たまたま、東光會員たちが、勝手に、 〃東光原〃といふ木札を立てたら、誰かそれを取り去ってし
、まったuすると又、會員が立てたJその經緯は、たちまち龍 南人の間に流布され、”光は東方より”、何時とはたく、“東 光原〃と呼ばれるやうになったのである。今では、一般教養 一一一一
1用‐‐l薊○
r■印ⅡFIuPri咄IJ00f0bⅡ囚』6町IbQqp■Ⅱ660;甲0■■RhB・肛伍、応曰呵Ⅱ』■Ⅱ■■川印百NPC■iI
龍南への郷愁
一一一一一 部の建物や、學生會館(東光會館)などが立ち並んで、運動場ではなくなったが、白草原に較べると、まだ可なりの空地
もあるので、白草原の名は知らない者でも、東光原の名を口にすることもあらう。
習學寮史に鶏げてある、五十篇の寮歌や、十八篇の部歌の中で、最も克く歌はれるのは、固より”武夫原頭“である。 その他、もし假りに、それ等の六十八篇に就いて四篇を鐸び、五高の五に通はすとしたら、好む所に偏し易く、容易なこ とでばないが、”それ北韓の”、”易水流れ”、”低く剛るる”、”不知火燃ゆる”ではあるまいか。成立も早く、且、全國征覇 の功ある柔道・弓道・野球等の部歌を加へたら、と云ふ人もある。至極尤もな事とは思ふが、他との均衡や歌詞など再検
討の結果、右の五篇に止めることにした。妄選多罪。
寮
一
、(二)(-)
二、正義と道を窓として 潤眼を世にそ畠がずや
五、天風雲を擁ひては蘇山曙光に瀧りて 噴煙空をつくごとく塵震低く雲高く
上りてやまぬ我がねがひ
ママ
ーハ、琿身の血を湧かしめて誰頽勢に抗すべき 我力ある双肩に荷ふつとめは童かろを 新勝の柴にえひしれて よろこびくるふ時ならじ
こ、扶樵をうちてかけのぼる 凌霄の氣はおとろへて 青年の意氣いづこぞや
上、
きづかれしより十六年 正氣をこ塾に表はして巍々たる姿三寮の 四、あ魁薩摩潟月青く波に沈みし丈夫が 武夫原頭(前掲) 明治三十八年
それ北韓の(全寮) 明治三十九年 それ北韓の白雪に血潮染めしは何故ぞ
朔北風は寒くして白草原の月すごく
●屍つみしは何故ぞ
我力ある双一眉に
龍南の健兒今ぞたて 今武夫原の春にして鯵勃の氣をはらすくし 麗醒の歌高調せば天空高くこだまして 覺醒の歌高謂せば天空
とはのひびきにどよむかな
追記
歌
「l◇l◇I
寮歌、部歌、副寮歌
圖南の翼おさまれば
●
痛ましい哉榊州の 甘き夢路をくりかへし
●
llllI 、
一一
託
ママ
人の心は大刀枕假寝に結ぶ覇者の夢
四、色くれなやむ落日に傳説しげき濟美館
ママ
古人の功少←、一偲ぶれぱ天瓢劒に寒き哉 五、あ・勇櫛風の春秋や沐雨の甲手にみぞるちは わが東征の冬の鑿戦はん哉時來る
六、風雲暗き長安のわが行く所君も見よ
鎧袖あはれ一鯛の脆きに過ぎし敵の数
七、又繰り返す勝関の高槙月に梅薫り
旗の影酌む玉杯や美酒の面に笑ゆらぐ ⑧剣道部遠征歌はえ 一、低く剛ろ僅大阿蘇の煙にまじる初霞 覇權の鞘を抜き梯ひ起てぱ心の躍るかな 一一、太刀にまつはる思ひ出の常勝の榮偲びては
。、、
生命のむた守るべく共臥の苦楚を何一一一口はむ 註ママ(と共にの意、筆者註)ひ釘もす 三、曳臓猛き雄叫びに終日響く修道の 部歌 龍南への郷愁 ロ易水流れ(南寮) 明治三十九年 一、易水流れ寒うして曠原草は枯れはてぬ 見ょや龍南龍は臥し鐵腕撫する健兒あり 一一、西海月の澄むところ武夫原頭に書を抱いて 鳴かず飛ばずに夛苣暫し鼓空の翼養はん
ゑづだく一二、仰げば蘇峰ふさぱ薑津我眼に見じな濁と汚と 歌はぱ人を醒ますべく泣かば熱涙色も濃く 四、羽色そるはい大鵬の胸の思にたぐへつつ 青春夢も幸はあり通ふもゆかし告天歌
剣道部歌は、筆者たちが、京都に遠征した後、一年後輩の凋法組、文才豊かな、”龍南物語“の著者で、大正八年の冬、「大正 日日」の上海特派中に客死した、・沙丹上田吉郎君の玉藻である。蓋、寮歌部歌中の白眉であらう。但、これまでは別段注意して 観たこともなく、部員について歌って居たが、責任を以て引用するとなれば、いい加減に濟すわけにもゆかぬ。その中の「曳臓」 は、「エィオウ」と歌はれて居るやうだが、居合の掛け聾の「エイ・トウ」を現したものでなければなるまい。従って、「曳」は、 和音「エイ」で、古くから、掛け鑿に用ひられて居るので、それでよいが、「臆(ヂピでは、意味をなさぬ。殊に、昨年十月復 刊の寮歌集のやうに、「賊」では、いよいよ分らなくなる。原作者の千慮の一失か、さなくぱ、軸記者の誤蔦がであらう。念の ために、月(にくづき)で、「オウ」に近い字を探してみたが、見當らぬ。「トウ」の音では、腹や膣があるけれども、程然とし ない。時代錯誤を考へなければ、蕊の字でも當てたら、さして不都合はあるまい。鑿では華音「ツン」で、少くもこの場合、よ
くない。腹は、和音ではいいやうだが、意味が違って來るくらゐ、作者は知って居た筈である。追記
二一五
=
一 一
一
四
口、君と別れて何時又逢はうかせめて五月の茶摘時同 茶摘み時迄わしや待ち切れぬせめて三月の花見時同 花見時迄わしや待ち切れぬせめて正月のカルタとり同 カルタ坂迄わしや待ち切れぬせめて十月の紅葉狩同 紅葉狩迄わしや待ち切れぬせめて八月の夏休み同 夏休み迄わしや待ち切れぬせめて五月の茶摘時同 口、龍田山から飛立つ鳥は鳥は島でもオハラハラ天下取り 龍田五高は不思議な所月が照るのにオハラハラ雨が降る 白の三條は伊達には老かい魔よけ虫よけオハラハラ女よけ 龍田山から武夫原見れば「右向ケ右」中にや左むくオハラハラ馬鹿もおる 龍田山から寄宿舎見れば中にや勉謡するオハラハラ馬鹿もおる 勉張する奴は頭が悪い勉掻せぬ奴はオハラハラ間悪い 女人禁制の五高の庭に誰か植ゑたかオハラハラ姫小松 囚、一つとせ、一人の男の子が慾しけりや 火を噴く阿蘇に氣を晴らせ(そいつは豪氣だね)
一一つとせ、故郷離れて來たからにや
末の成功は胸の中(同)
追記
副寮歌同じく五篇を節録する 日、遠く離れて昔を偲ぶ龍南三年か又四年ヨーイョイャナ 五年六年過したものはわけて深かりよか思出が同
こくどぬぐ一、不知火燃ゆラC西海は黒土豊かに繰るなれ
あきつママ
長江みどり蘆鳴れば蜻蛉は獣し流るな、リ
かいち笈うおんあ昌我が男の子夢多/、梅潮幸曰に生享けぬ
ひねもす
一一、鴎を造ひて海遠く舷波を浴びし終日の
ゆ▲つつ力漕なれば金星は勇士の一眉に光るな、リ 紫淡く野は暮れて歸れろ群に意氣あがる 一一一、さあ(原、わ)れ憂き日の波枕昨日も今日も梅に寝て 波間に勤箭刻むなる臥薪の苦楚を誰か知る 海の彼方の脇識の鰹峰途に守るらん 四、さらば行く可し風荒き近江の海はすさぶとも
ペガサス
長江十里飛びかひ’しかの紳馬の龍南の 柏を載せし走艇に敵する者のありなんや 龍南への郷愁 ⑥端(原、湾)艇部部歌
il
二
一
七
一一一一ハ
何庭か小規模の大學からでも赴任した人ならば、境内が素晴らしく廣いのに驚く外は、格別塗った感想も浮ばないだら う。然るに、幸か、不幸か、筆者は、此虚”西海の聖地“を巣立ち、遠く去って天下の”赤門“に育まれ、莊子の所謂 ”鶴雛“を慕ひつつ九天に翻り、再び”練實“を求めつつ”梧桐“ならぬ桑梓に還って來たが、時世の爲とは云ひながら、 〔竹の疵〕ひしひし 比年以來、日に月に愛bゆく龍南の相貌が、稗稗と胸に逼って來ろ。
追記
二一九
輪⑤、冨曽二三の》ロミョ【の》島の】、
sの四口且開口」・ずの口巨庁罵巨]
閂]。『の旨の勗切ゲの]。『ののロ
閂ご乱臣泊○豈○Hpの庁○mのの
+とせ、時は永劫常夏の 八つとせ、やさしい心もないじゃない
黒い女にやほれられる(同)
九つとせ、此濱寄する大波は
カリフォルニアの岸をかむ(同)
三の旨の淳目》 七つとせ、泣いてはいけない氣空
廿世紀に呪ゆろ身は(同) 武光と清正の生れし地(同)
四つとせ、良し悪し言ふ奴は野暮な奴
飲めや歌へやはね廻れ(同)
五つとせ、意氣は高鳴る血は躍る
龍南健兒の意氣を見よ(同)
六つとせ、無爲には過さぬ三年を
龍南への郷愁三つとせ、南のお國は肥後の國
龍南健兒の意氣を見よ(同)
、C汀。pのmFmoぽ。■のの庁一 宮]】のずの巴の》の】の]この庁殿、戸
庁豈、のぽのpmO宮四国ロの①巴のNpの①ぽのご章 鈩口胞のごのぼ日》缶目、のごのぼ日一 意氣は御國の費なり(同) とせ、泣いてはいけない氣が弱い
四、龍南の愛貌 田]の四m四口け勺]の口の四国斤一 旨の勗切ゲの]。『のmHpP 胸○豈○Hpの庁○mののぽの鄙
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