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東歌の挽歌

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(1)

「東歌」の総題のもと、 万葉集巻十四に古代東国地方の歌々が 緊められた、 その根源の理由とは何か。束歌研究における最大の 謎ともいうべきこの疑問について考えるとき、 まず注目されるの は巻頭五首(三三四八i五二)であろう。 これら五首が特に注目されるのは、 単に巻の冒頭というその位 世からだけではない。「東歌」を標榜して巻頭に位骰する歌であ りながら、 いっ こうに東歌らしからぬという不自然な性格にもあ る。 主に「雑歌」表記の有無に関し、 巻十四目録の様相をめぐっ て、五首について は祈{歌五首論ク(江田空槌 f 万菜集評釈 j‘ 菊地威雄「万 娯集束歌の成立」国文学研究三三・三四染)ともいうぺき諾説さえ存在 するほどである。 万業集に、 ある巻が存在する意義について考え ょうとするとき、 冒頭部に目がいくのは自然であろう。 以上の巻頭歌群を巡る諸詮とは別に、 巻末の歌に視線を注いだ 論がほとんど見られな いことは、 本稿にとってまことに不思毀で

東歌の挽歌

(れ1) ある。 冒頭歌と同様、 巻末の歌についても絹者の何らかの意図有 りとして、 殊更に注目すべきだと思うからである。 束歌の構造は大きく勘国歌と未勘国歌に二分され、前者には 「雑 歌」(ただし、部立名は伝来本には脱裕。)「相間」「醤除歌」、後者には 「雑 歌」「相闘」「醤喩 歌」 「防 人歌」「挽歌」の部立がそれぞれ配され ている。そして、 計ニ――10首の歌々からなる巻十四束歌の悼尾は、 「挽歌」の部立のもとにたった一首のみ匝かれた、 次の歌によっ て結ばれている。 かな 愛し妹をいづち行かめと山菅のそがひに 寝しく今し悔しも (14三五七七〉 愛しい要がどこへも行くはずがないと思って、 あの一夜、 山背 のように背中合わせに寝たこと が、 今となっては悔やまれてなら ない、 の意。要の死後、 かつ ての共寝を思 い出しての嘆きである。 その夜、 夫婦には些細な辟いでもあったのだろうか。明日がある と思えばこその行為であった。 しかし今、 その要は逝ってしまっ た。 これから未来にかけて氷劫に続く孤独と寂彦 惑、 そして後悔゜

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残された者の嘆きに溢れたまさしく挽歌というべき一首である。 巻末の一首に込められた編築者の意図` という観点から当該歌 について考察するとき、 別にもう一点考えておくぺきことがある。 それは、 東歌の担い手たちと同郷の人 々、 つまり古代東国地方か ら徴集された防人たちの一ー六首にも及ぶ関係歌群(家持歌及び関 係歌を含んで四―-=ニー四四ーー_六)、 所謂 ぷ防人歌巻ク(伊藤博『古代和歌 史研究8」)を中心とする歌群の最悴尾一首の在り方である。 昔年相替防人歌ー首 間の夜の行く先 知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子ら はも (20四四三六) 闇の夜、 それではないが、 行く先も分からず行こうとする私に、 今度は何時いらっしゃるのと埠ねた愛しい要よ、 の意。 上三句で は、 どこへとも知らず連行される「我れ」の運命が「闇の夜」の 表現を以って沈痛に語られ、 下二句は「子らはも」の詠嘆ととも に要への深々とした思いをうたう。家族と別れ、 はるかな地へ旅 立たねばならなかった当時の防人 たちの心情を代表してうたった 'l 首といえる。 片や東歌、 片や防人歌巻の、 ともに最終歌である二首は` それ ぞれが「結び」に位囮するという点で本質的に共通す る。 加えて、 二首には指摘しておくべき 共通 点が もう二つほどある。 その一っ は、 先述したように、 歌巻の結びに一首のみ孤立して置かれてい るというその在り方である。 三五七七番歌は挽歌の部立のもとに も ”11大海の奥かも知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らは はも (17三八九七) 類歌とは、 歌の癸想、 またその構造や表現が似通った歌をいう。 IIIの類歌をそれぞれi“11として右にあげた。当該歌ーの類歌i は、 奈良朝の作者不明歌一三首をあつめた券七の「挽歌」に位骰 し、 京人の作と推測されるものである。 一方、 防人として大宰府 に向かう旅の中でよまれたIIの類歌�11は巻十七に存在す る。 姐飼 から天平二年に任果てた大伴旅人が大宰府から焔京する際に、 そ の保従らが船旅においてよんだということが知られる。 以上、 IIIの一一首にみられる共通点を二、一二指摘した。 こうし た類似にはどのような意味があるのだろう か。 そこで、 まずは当 該歌ーについて、 これまで指摘されてきた疑間点を整理してみよ IIlHJの夜の行く先知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子ら も (20四四三六) 一首のみ、 四四三六番歌は宴歌三首(四四 l ― -l ニー五)の後に「昔年 柑替防人歌」と題されて一首のみである。 二つには、 二首がいずれも他の巻に、 所開「類歌」と呼ぱれる 歌をもっている点 である。分かり易<-示してみよう。 I愛し妹をいづち行かめと山菅のそがひに寝しく今し悔しも (14三五七七) •1我が背子をいづち行かめとさき竹のそがひに寝しく今し悔し (7-四ーニ)

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第一に、 万葉集三大部立の―つに数えられる「挽歌」の部立の もと、 ぽつんと翫かれた一首の様相についてである。何故たった 一首のために「挽歌」という部立を用意し、 まるで追補のような 形で一首を戟せる必要があったのか。 この点については既に古く 賀茂其淵「痰葉考」(以下一芝という)に発言があり、 A に挽うたを一首のみ得て戟んことおほつかなし、 此巻も 乱れし所々有事右にいへるごとくなれば、 数々有しか落失し か、 又此埒束埒とも冊へざるは他より加わりしか、 とある。 また「考」は「此寄束窃とも聞へざる」とも述べており、 この点が当該歌 に関する第二の疑問点 になる。束歌らしくないと いう一首についての評価は、『考」以後、鴻巣盛広r菰葉集全釈」 (以下零全釈」という)や水島義治「万菜集全注 j にもみられるもの であった。 ちなみ に、「全釈 j の解釈を次 にあげておこう。 巻七の吾背子乎何庭行目跡辟竹之背向休宿之久今恩悔裳を山 菅に取換へただけと言ってよ い。 同歌の異側である。束歌ら しくない作だ。 「全釈 j は、「東歌らしくない jI の歌が巻十四に存在する理由 として、 Iが巻七の.lの歌の第三旬を単に「取換へた」歌、 すな わち「同歌の異他」であったと推定する。 このよう に、 巻七に存 在する類歌と当該歌との関係をどう捉えるべき か、 ということも 大事な論点として浮上してくる。 たとえば、 巻七の歌がもとの歌 ゜ 、つ で束歌はうたい換えた作だとする説、 逆に束歌をうたい換えたも のが巻七の歌であるとする説、 あるいはこのような型の歌が流布 しており、 双方それをうたい換えたものとする説など、 諸説あっ て、 未だ定説を見ない。 以上、 ーに関する問悶点をあげ てきた。 巻の結ぴに「挽歌」と してただ一首槌かれている点、 束歌にありながら「東歌らじくな い」と評される点、 そして最大の問題として、・1との関係がある。 本稿ではこれらの問題を中心に、 まずは当該歌ーとその類歌iと の関わりについてみていこうと思う。

初句「愛し妹を」

ー・1の二首は、 発想はも とより歌の表現や構造が似通っている が、傍線を付した初句と第三句に違いがみえる。 Iの初句「愛し 妹」が類歌・1では「我が背子」となっており、 束歌では男歌であ ったーの歌が、 類歌iでは女歌に変 わっているのである。 また、 第三句はどちらも同じ「そがひ」という語を導くための枕詞であ るが、「山背」と 「さき竹」に迩いがある。 Iは 「山に生えている菅」、 .ーは「割った竹」で、 植物である という点だけは等しい。 まずは初句の違い に注目してみよう。 Iの初句「愛し妹を」と いう表現は、 集中二首二例しか存在しない。 当該歌の他には、 じ巻十四に次の一首があるのみである。 愛し妹を弓束並べ巻きもころ男のこととし言はばいや片増し

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に ( 14三四八六) 一方、 iの「我が背子を」という初句は集中に―二首―二例存 在している。 また、「我が背子」という器だけで数えれば一四九 .例にものぽり、 万菜集においてごく一般的な表現というしかない。 これは、 Iの「愛し妹」の用例数が先の二首を合わせても計四首 しか存在しないのに対し、 実に対照的な結果である。 加えて、「愛し妹」と「 我が背子」のそれ ぞれが集中どの巻に 多くよまれているのか、 という点に注目すると、 さらに興味深い 結果が得られる。「我が背子」はその数の多さか らも想像できる ように、 巻ーから二十まで万業集の全体にわたって用いられてい る。 まさに、 古代における飛も一般的な女性から男性に対する呼 称であったといえよう。 それに対して、「愛し妹」はその数も集 巾四例と少ないのだが、 何よりよまれた巻が万業集巻十四と巻二 十の防人歌巻に限られている点に注意すぺきである。「愛し妹」 という呼称のこの偏りは、 古代東国地方に限定された男性から女 性に対する呼ぴ方であったことを暗示する。 L大君の命畏み愛し妹が手枕離れ夜立ち来ぬかも(14三四八0) 2愛し妹を弓束なべ巻きもころ男のこととし聞かばいや片増し (14三四八六) -l ‘·a. ●3愛し妹をいづち行かめと山菅のそがひに寝しく今し悔しも (14三五七七) 4煎へなへぬ命にあれば愛し妹が手 枕離れあやにかなしも (20四四三二、防人歌) 右の四例に加え、 古代束国地方では京圏と異なり、 その地方に 限定的な呼ぴ 方が存在 したのではないかと推測させる資科が他に も存在する。すなわち「愛し妹」という言葉を「妹」に限定せず、 「愛しi(人物)」という形で、 呼ばれる対象を人物全般に広げ て謁ぺてみた楊合である。「愛し子ろ」や「愛し背ろ 」、 あるいは 単純に「愛しき」など、 人物を「愛し 」という形容詞を付した形 で表現する例についてみてみると、右の推涌をさらに補涼する結 果が得られる。

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佐伯山卯の 花持ち し愛しきが手をし 取りてば花は散るとも (7ーニ五九)臨時 切筑波磁に酋かも降らるいなをかも愛しき子ろが布乾さるかも ( 14-―-三五一)束歌 ③上つ毛野久路保の悧ろの葛菜がた愛しけ子らにいや離り来も (U三四ーニ)束歌 ぃ左奈都良の岡に粟蒔き愛しきが駒は食ぐとも我はそとも追じ (14三四五一.)東歌 固大君の命畏み愛し妹が手枕離れ夜立ち来ぬかも (14三四八0)東歌 ⑥愛し妹を弓束並べ巻きもころ男のこととし言はばいや片増し .に (M三四八六)東歌 り嗚る瀬ろにこつの寄すなすいとのき て愛しけ背ろに人さへ寄

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(20四四0八)大伴家持 ⑯障へなへぬ命にあれば愛し妹が手枕離れあやにかなしも (20四四三二)防人歌 巻十四束歌と巻二十防人歌巻へのきわや かな集中がみられる。 右の一四例中、 束国出身者の作ではないと思われる歌は

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と⑬の 二首のみであった。 ただし、 ⑬の家持歌は防人歌巻に設かれた一 首で、 題詞には「防人が非別の梢を陳ぶる一首」とある。すなわ ち家持は防人にな りきってこの一首をよんだのであっ て、 皿ゃ⑲ の防人歌とまったく同じ表現を果たしている。残るは

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の一首だ が、 この歌も本稲の見方を衷切るものではないと思われる。 なぜ ⑬…•••朝戸出の愛しき我が子 すも (14三五四八)束歌 ⑧多由比潟潮満ちわたるいづゆかも愛しき背ろが我がり通はむ (14三五四九)東歌 ⑨阿遅可麻の潟にさく波平せにも紐解くものか愛しけを骰きて (14三五五一)束歌 ⑩ 古須気ろの浦吹く風のあどすすか愛しけ子ろを思ひ過ごさむ ( 14-―-五六四)東歌 ●⑪愛し妹をいづち行かめと 山菅のそがひに寝しく今し悔しも (14三五七七)束歌 ⑬筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼も愛しけ (20四三六九)防人歌 あらたまの年の緒長く…… なら、

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は第三四句に関して訓みに不徘の残る一首だからである。 一首の原文は次のとおりである。 佐伯山 子花以之 哀我 子鶯取而者 花散柄(7ーニ五九) 傍線を付した第一二四句に注目したい。寃永版本によると、 第三 句は「アハレワカ」、 第四句は「コヲシトリテハ」と訓まれてお り、「佐伯山卯の花持ちし哀れ我が子をし取りてば花は散るとも」 と訓み下すことができる。すなわち、

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にあげた訳文の第三四句 「愛しきが手をし取りてば」という訓みは、「代匠記」初稿本の 子は手の字の誤れるなるへし。哀の字此集にかなしとよみて あはれとよめる所なし。 しかれは、うの花もちしかなしきが 手をしとりてはとよみて意得へし という解釈に拠ったもので、 後の注釈書による誤字説であること が分かる。すなわち、 一首を原文に忠実に訳せば「佐伯山で卯の 花を持った可愛いあの子を取ることができたなら、 いっそ花は散 ってしまうとも構わない」となるのである。 しかし、 確かに契沖の述ぺるとおり、「哀」の字を以ってカナ シと訓む例は集中に存在し ない。何よ り、 本文に忠実に「子ヲ取 ル」と訓めば、 歌の意味が取り難い。 その点、「代匠記』の訓み に従った湯合、「愛しいあの子の手を取ることができたなら、 い っそ花は散ってしまうとも構わない」とな り、 歌意も明瞭である。 ただし、 万菜の時代、「子ヲ取ル J と「手ヲ取ル」ではどちら の表現がより自然なものであったか知るのでなければ、 一首の本

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意はみえてこないであろう。 そこで、「子ヲ取ル」と「手ヲ取ル」 とい う表現 が集中にどの程度存在するのかを確認しておく必要が あると思われる。 まず、「子」という語は集中に九0例みられるが、 「子ヲ取ル」と いう表現となる と、 次にあげる田邊福麻呂の長歌 の他に存在しない。 娘子を思ひて作る歌一首井せて短歌 白玉の人のその名を なかなかに言を下延へ 逢はぬ日の数 .多く過ぐれば 恋ふる日の孤なりゆけば 思ひ迎るたどきを 知らに 肝向かふ心砕けて 玉たすき懸けぬ時なく 口やま ず我が恋ふる干必玉鐸手に取ぶ持ちて まそ鋭直目に見ね ば し たひ山下行く水の 上に出でず我が思ふ心安きそら かも (9-七九l-•田邊沿麻呂歌集) ただ、 傍線部をみれば分かるように、「子ヲ取ル」という直接 的な表現ではなく、 間に枕詞「至釧 」 を挟み、 比唸を用いて表わ している。 このような表現から、「子 」 と「取る 」 との結ぴつき は強いとは 言い難い。 一方、「手 」 は集中に七四例みられ、 その中で「手ヲ取ル 」 と いう表現には、 次にあげる五例が存在する。 � ① 霰降り吉志美が岳 をさ がしみと草取りはなち妹が手を取る (3三八五) ②さ柏隈柏隈川の瀬を早み君が手取らば言寄せむかも (7―10九 ) (七 はしたての倉埼山は瞼しけど妹と登れば瞼しくもあらず (記・歌団七0 ) 母が手を瞑りて引き襟ぢふさ手折り我がかざすべく花咲ける かも (9一六八ー―-) ④妹が手主取石の池の波の間ゆ鳥が音異に嗚く秋過ぎぬら し (10ニー六六) ⑤稲掛けばかかる 我が手を今夜もか殿の若子が取りて哄かむ (14三四五九) *はしたての倉埼 山を絵しみと岩懸きかねてわが手取らすも 右にあげた五例の 中に、「玉釧手に取り持ちて」というような 比喩を用いた表現はない。すぺて「手ヲ取ル」と直接的な表現に なっている。 加えて、③④のように初句「妹が 手を」が 枕詞とし て「取る」を導くといった表現さえみ られるのであ る。 こうした 例は「手」と「取る」とが強い繋がりを持っていたことを示すも のといえるであろう。 また、補足として五例の後に*を付して「古 事記」の歌謡をあげている。 これをみれば、 万葉集以外の記紀歌 謡にも「手ヲ取ル」とい、2衣現 がみられることが分かるであろう。 なお 、「古事記 j には歌謡以外にも「手ヲ取ル 」 という表現が一 0例みられるが、「子ヲ取ル 」 という表現は一例もない。 このよ うな こと から 、「代匠記 j が「子はチの字の誤れるなるへし」と した誤字説は、 ある程度信穎できるもの ではないかと推測される

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のである。 そして、 今までみてきた結果からあ えて次のように考 えてみた。 先述したように、「愛し1」 という表現 は古代東国地方に限定 的な呼称と考えられる。そうした東国地方の歌に特徴的な表現が

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の歌の第一ー一句 にみ られる ということは、 束歌・防人 歌の 表現が 巻七の京歌に影靱を与えて いる 、と いう 推測が成り立ちはしな だろう か。すなわち、巻十四の歌から巻七の歌への影響である。 そして、 さら ここ で注意すべ きは、 当該歌ーの類歌としてあげ たiの歌 もまた、 巻七の「挽歌」に存するということである ちろん、 I.1の二首について、 どちらが先によまれたか、 その影 響関係を正確に知ることはまず不可能であろう。 ただ、 ここでは ―つの 推論 としてIからiへの影響関係を提示してみたいと思う。

第三句「山菅の」

続い て、第三句の違い に注目して考察を進めよう。初句と同様、 第三句の「山菅」と「さき竹」も集中によまれた例を参考に考察 した ところ、非常に対照的 結果をみせる。 Iの第三句「山菅の」 という表現を持つ歌 は集中に七首七例、「山菅」という素材では 一三例 存在している。 一方、 iの第三句によまれた「さき竹」と いう素材はこの歌にし か存在 しない。当然「さき 竹の 」が枕詞と して「そがひ」を祁くのもこの一例 のみ である。 集中に一例しか存在しない素材が類歌によみ込まれている理由 とは何か。先 に述べた 推論 も考 え合わせた上、 本稿はその理由と して、 Iから・1へのよみ換えを想起してみたい。すなわち、 束歌 であるIがまず先にあって、 それを参考に京の人々が み換えた のが1の一首 ではな かった か。 右のような推論を持ち出す理由は、 束歌の第一二句 「山菅の」と いう枕詞の用法が、 現在の我々には非常に分かり 難いということ にある 。歌のとおりに意をとれば、「山菅の そがひ に寝しく」は「山 菅のように背中合わせに寝たこと」となる。 しかし、なぜ「山菅」 「背中合わせ」の意を祁き得るのかという点については 、簡 には想像されにくい。 とえば小学館「新編日本古典文学全染」 には 「その細長い菜がそ れぞれ別の方向に伸ぴているのでソガヒ にかけた」とあり、 このような 解釈が現在一般的に理解されてい るこの句の解釈であろう。 ただし古く「仙沈抄 j には、 ヤマスケハネノナカクシテ、 モトノクサムラヨリハルカニト ホクノキテ、 コロコロニオヒシケルクサナレハ、 セナカアハ セニ、 トホサカリュク心ニテ、今ノ歌ノ挽歌ナレハ、 ソカヒ ニネシクイマシクヤシモト、 ヨソヘヨメル也。 といった解釈もみ られ、 この場合、 山菅の葉ではな く根に注目し て解している 。確かに、 はその根が長いことで有名な植物であ った。集中「菅」をうたった六四首のうち、「菅の根」をうたっ た歌が二八首を占めていることからも、「菅」 と「 根」の結びつ きの強さは容易に想倣することができる。 そして、 その根を彼方

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此方に延ばすことによって、 それぞれが遠いと ころ に生育すると いう 山菅の生態を踏まえ、 仙覚は「セナカアハセニ、 トホサカリ ク心ニテ」と一首の歌意をとったのであっ た。また、 同じよう に山菅の生態に着目しても、 山すけノそかひ卜云ルハ、 山のそかひに、 菅の生る心也。山 の背とむかふことくに、 夫婦せ中合せてねたること也。 と全く異 なる解釈を 施した 注釈書(下河邊長流『痰莱集管見」) も存在する。 そして、 山菅の業に注目した現在の一般 的理解は、 長流の弟子契沖が「代匠記」初稲本において、 山すけのそがひとつ、けたる は、 葉のこなたかなたにわかれ て、 なひくものなれは、 夫婦そむきてねたる 事もありしを、 悔るなり としたの が始めであり、 その後、 多くの注釈書がこの説に従って いる。ただし、 その後も「音の類似でソガにつづく。 ま菅よし曾 我の例の如くである」とスゲとソガの音に類似性を見出す土屋文 明「痰菜集私注」のような解釈がみられる。また、 その他の注釈 杏においても、 解釈の上で細かい揺れは存在するようだ。何より 右をみれば、 契沖の解釈に至るまで、 古い時代の注釈者たちがI の歌の第三句を巡ってあれこれと思案した跡が確かに確認される のである。すなわち、 東歌の第三句「山菅の」の解釈 は、 現代の 我々より遥かに万葉ぴとに近かったであろう江戸時代の注釈者た ちにとっても、 やはり簡単には解し難い用法だったといえるので はないだろうか。 一方、・1の第三句「さき竹の」の用法も簡単には解し難い。契 沖「代匠記」が「さき竹とは、 竹をわれは、 せなか合になるをい ふなり」と述べてから、 その解釈に揺れはな いものの 、「竹をわ れは、 せなか合になる」の意味するところが、 後の注釈掛におい て次の

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に二分されるのである。 ®サキタケは、 割った竹で、 これを同じ向きに狐ねると腹と背 とが接するので、 背向に冠するので あろう。 (武田祐吉「拭葉集全註樗」) り竹は、 今まで腹を付け合っていた状態から、 捌ったとた んに背中を向けてしまうから、 かかるか。 (水島義治 F 万菜集全注 j) 確かに、何故「竹をわれは、せなか合になる」のか、現代の我々 には理解 し難い。 しかし、 契沖以前の注釈書をみれば、 やはり契 沖と同じく「竹をわれは、 せなか合になる」という節潔な解釈が 載せられているのみである。 このことから、 江戸時代の注釈者た ちにとって、「山菅」と「そがひ」の結びつきより、「さき竹」と 「そがひ」の結ぴつきの方が、 はる かに理解しやすいものだった のではないかと推測される。 そして、 それは古代京圏の人々にとっても同じだったのではな いだろうか。 京圏の人々にとって、「山菅」から「そがひ」への 辿想が難しいものだった、 と推測させる資料には、 次のようなも

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のもある。 山菅の実ならぬことを我れに寄せ言はれし君は誰れとか寝ら.1, a

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,. 9999● ⑯ 山習の乱れ恋のみせしめつつ逢はぬ妹かも年は経につつ (4五六四、 坂上郎女〉 (JIニ四七四〉 回山川の水蔭に生ふる山菅のやまずも妹は思ほゆるかも (12ニ八六二〉 伺山菅のやまず て君を思へかも我が心どのこのころはなき (12-―10五五〉 9999999999 団妹待っと御笠の山の山菅 のやまずや恋ひむ命死なずは (12-―

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六六) S玉葛幸くいまさね山菅の思ひ乱れて恋ひつつ待たむ (1211\110四) 右は京圏のものと覚しき歌々によまれた「山菅の」という枕詞 の用例である。作者のはっきりした歌は国の坂上郎女の一首だが、 その他の歌もすぺて巻十一か十二によまれたもので、 京圏の歌で あることは明瞭といえる。 これらの例をみると、 京において枕詞 「山背の」が導くのは、 ⑯やいのように「乱れ」という語 か、 団 団団の ように「や(止)まず」という 語で あることが分かる。 あ るいは国のように、 山菅が実をつけないことから「実ならぬ」を 禅く変わった例もあるが、 大きくは山菅の根が長くて互いに絡ま り合い乱れているところから「乱れ」を導く場合 と、 山菅のヤマ という音を用いて「止まず」を導く場合とに二分される。すなわ ち中央においては、「山菅の」と来れぱ「乱れ」か「止まず」が 続いてうたわれる、 という認識が人々にかなり没透していたと思 われるのである。その点からも、 東歌のような「山背」と「そが ひ」の辿想は、 京人にとってやはり難しいものではなかったか。 だからといって、 本秘は必ずしもーの束歌が先によまれ、 それ を京の 人々がiの歌によみ換えたというのではない。先にも述べ たように、 右の推論は単なる一考察として提起したもので、 二首 の 歌 のどちらが先によまれたものである か、 現段階で特定するこ とは難しいからである。 しかし、 はっきり言える こととして、 I の束歌にみられるような枕詞「山菅の」が「そがひ」を導くとい う表現技法は、 同じ「山菅の J という枕詞をもつ京の歌において は、 一例もみられなかったということだ。 そういう意味では初句 と同様、 この第三句も非常に束歌らしい表現であったといえるの ではなかろうか。 以上、 当該歌についてその類歌との相述点から、 初句「愛し妹 を」と第三句「山菅 の」に着目し考察 を進めてきた。 その結果、 初句と第三句はともに他の巷にはみられない束歌に特徴的な表現 であったということがわかる。すなわち、 巻十四東歌はまさに某 歌らしい挽歌ー首によって、 その一巻を結ばれたのであった。 冒頭で述べたよ うに、「全釈」には一首について「束歌らしく ない作だ」という評が存在した。 また、 本稿が推論した東歌Iか

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当該歌がかつて「束歌らしくない」と評されたのは、 一首がも ったたずまいともいうぺき雰囲気からではなかったか。確かに束 歌の挽歌一首は、 一見すっきりしていて京風である。巻十四に 戟 せられている多くの東歌にみられるような束国の他雪をまった< 含まない上に、 第三句「山菅の」を除き、 歌の意味も比較的とり 易い。 全体に歌意の通らない歌を多く含む巻十四の特徴を考えた とき、 当然気付くべき一首の性質であった。

ら京歌iへの推移も、 ほとんどの注釈由が・1からIへという全く 逆の経路を想定している。 ただし、 その理由については「東歌ら しくない」というその一点で片付けてしまっている感があり、 そ れ以外の理由としては、 ただーつ「私注」が次のように述ぺたも のがあげられるだけである。 巻七、(一四ーニ)に「吾が背子を何成行か めとさき竹のそ がひに寝しく今し悔しも」とあったのと、 男女立場を嬰へて . 居 る。「背向に寝しく」は女の立場として始めて感動的であ らう。歌ひかへとしては拙いものとなった。 なるほど確かに説得力がある。 しかし何れにしても、 Iiのど ちらが先によまれたか現段階で特定することは難 しい。 ただ今は、 「全釈」が「東歌らしくない」とした評に、 一首の初句と第三句 の有り様とその真意を以って疑間を呈するにとどめようと思う。 しかし、 その初句と第三句につい て、 表現の特徴という面から 一首を細かく考察したとき、 それはやは り某歌らしい歌として位 岡づけることが可能であろう。 そうした意味では、 いくら歌の構 成が似ているとはいえ、 当該歌は類歌と明確に 区別されるのであ る。 ひるがえって、 一首のこうした性質は

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の歌においてもまた同 様に言えることであった。すなわち、. 東歌と防人歌巻の結びに位 固するInの二首をそれぞれの類歌i"11と比較したとき、 その類 歌関係から浮かぴ上がってくる二首の不思議な類似である 。 n"11の二首も非常に似通った歌ではあるが、 傍線を付した上二 句の「闇の夜の行く先知らず」と「大海の奥かも知らず」という 表現を以ってその違いが明白である。 というのは、 同じ旅歌であ っても、 二首は旅の往路でよまれたのか、 あるいは復路でよまれ たのか、 という点に迩いがあるため、 上二句の表現が大いに異な るのである。 大宰府に向かう防人の歌

n

は往路、 "11は逆に帰京 する際の歌なので復路、 古代の旅は言うまでもなく往路の方が梢 神的に過酷であった。 まさに「闇の夜の行く先知らず」行く旅だ からである。 その点、 類歌によまれた船旅がいかに危うく「大海 の奥かも知らず」行く旅であったとして も、 その目的地が我家で あることを思えば、 防人の往路の旅の苦しみには及ぶぺくもない。 つまり、

n

はその類歌�11と比べ、 まさに防人の旅の過酷さを表わ す、 防人歌巻を結ぶに相応しい歌であっ たということができるの

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そして、 巻十四東歌の結ぴに僅かれたーの歌も、・1の類歌と比 較すればその束歌らしさは際立っている。「愛し妹」とうたい起 こし、 そし て「山菅」という素材を用いて「そがひ」を瀦くとい う発想の特異性も、 東国においてこそ理解される表現ではなかっ ただろうか。 他の巻に非常に似通った歌を持ちながらも、 二首は れぞれに防人歌巻や束歌の結ぴとし て、 見事にその役割を果た している。 こうした結びの二首IEが持つ鵞くばかりの類似性に は、 やはり椙纂者の強い意図を感じざるをえな いのである。 (1)管見の限りではわずかに、 桜井満「万菜集巻十四と挽歌」上代 文学第一六号、 中金悩「東歌の挽歌一首」解釈三八七集が一首 について触れているのみである。 (2)この点も含め、 IIの一首に関して別途、 詳しい論を構えたい。 (まえ りつえ 岡山大学大学院文化科学研究科) 研究室受贈図書雑誌目録ー 〈単行本・報告書〉 古畢記の真実 空の巻(二宮陸雄著 愛育社刊) 古典和歌における錨の研究ー日中比較文化的考察—(劉小悛著 風間査房刊) -f2) である。 (平成十八年一月i十二月) 国文学研究資料館(大学共同利用機関法人人間文化研究機構) 国文学研究資料館の研究活動(国文学研究資科館) 堺学から堺・南大阪地域学ヘー南大阪地域の文化基盤ー(大阪府 立大学) 誼山文郎雑誌目録(新村出記念財団〉 多言語社会に貢献する言語教育学研究者妾成プログラム報告集1 (東京外国語大学大学院地域文化研究科哲語教育学プログラム推 進室) 地域文化研究叢昏ー 究科日本語日本文学専攻) 日本語と日本人(広烏女学院大学) バリ束洋語図書館蔵日本歯藉目録 資料館) 明治の宵春(金沢大学大学院文学研究科上田研究室) 〈雑 誌〉 愛知大學因文挫(愛知大學國文泉合)四五 愛知淑徳大学国語国文(愛知淑徳大学国文学会)二九 甜山語文(宵山学院大学日本文学会)三六 阪(山椅勝昭)十三、 十四 岩手郷土文学の研究(岩手郷土文学研究会)六 字大国語論究(宇都宮大学国語教育学会)十七

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一九ご一年以前(国文学研究 兵廊名所記(武庫川女子大学大学院文学研

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○安井会長 ありがとうございました。.