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立 歌 連

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(1)

団吋夢 o馬 .爵︒⇔σq貌︑

1

        岬

 ⁝連歌と酋へぼ宗砥を想ひ︑俳講を思へば芭蕉を冒ふ︒連歌における宗舐の深さ

と︑俳諮における芭蕉の高さとが︑この常識を支へるに充分なものである事には︑

今更言を立てる要は殆んどない︒又連歌がその始め頓智問答的な内容をもつて甲安

の歌壇に成立し︑沁々の宗舐に至って純正優雅な交藝に大成されたと説ざ︑ 一方そ

の宗祇等蓮歌帥の余技に源を発した俳譜が︑その当初の卑俗に徹した﹁誹譜之連歌﹂

から︑貞門︑談林を経て︑元轍の芭蕉を撃って交静的完成を趣げたと説く︒これ亦︑

H本文輪唱を設くもの玉通念である︒

 私は今︑これら現代の常識や学界の通念に対して︑敢て異を唱へようとするもの

ではない︒しかしながら︑宗紙を崇めるのあまり︑芭蕉を称へるのあまり︑卒安の

蓮歌や﹁誹請之連歌﹂のもつ文藝的便値乃至南学更意定義を︑不当に低く評記しよ

うとする渦誤に入々は随ってはみないか︒又宗祇の蓮歌も芭蕉の七道も︑そもそも

その源をなした初期の蓮歌・俳譜とは︑それぐ本質的に異質別種の文藝の如く見

えるのは何故であるか︒宗門や芭蕉の蓮歌・俳譜と︑その源流たる弔安の連歌や窒

町の﹁誹譜之連歌﹂との関係を︑專ら形式の面にのみ認めて︑丙容的なつながりを

敢て顧みようとしないのは何故で・あるか︒これらの交藝にあっては︑そのそれぞれ

を貫く交合精憩がはたしてないのであらうか︒

 蓮歌にしても︑俳諮にしても︑それらが新しい文藝として褐発した当初におい

て︑それらが文藝として立つた唯︸の交藝糖紳が︑滑⁝捲の相を大ぎく浮び上らせた

田    正

ζ器帥昌︒ぴq冨落騨蜜

機智牲であったといふこと︒しかもそれが文藝的完成の過程において︑家第に幽玄

とか寂びとか風雅とか︑要丁るに真面目な情趣的な癸の相貌にとってかはられたと

いふことは︑如何に解縄すべぎであらうか︒.蓮宮・俳譜の世界にあっては︑知的な

ものは途にその交藝精神として成長を途げ得ないものであったのか︒初期の聖歌・

俳譜のいつれにも共通の要素であった機智挫は︑受歌・俳諮の出発点においてかり

そめに期恵され﹁それぐの文藝的完成への単なる跳躍台のつとめを果したにと黛

まるべきものであったか︒それにしても︑両者の場合に全く同じ相貌を呈したこと

は︑如何なる理由によるものであったか︒それは勿論麗なる偶然の一致とはいへな

い︒或は説かれる如く︑和歌の會の生真面目さの緊張をときほぐす定めの︸時の座

興︑乃至は連歌の法摺鉦束縛からの解放を求める︑自由性の欲求の所為とのみ言ひ

去ることが︑許されるであら5か︒機智性は本来連歌・俳譜が︑和歌とは別種の交

藝として立つに必婆な︑従ってそれらの成立と不可分の︑本質的に結び合った文塾

精神ではなかったであらうか︒もし然りとすればこの機智性が︑鼠紙芭蕉による所

謂文藝的完成への過程において︑何故に失はれねばならなかったか︒宗舐芭蕉の蓮

歌︒俳譜には︑この⁝機智性が︑滑稽の相を超えて更に高い特異な相として︑成長を

途げてるるのではなからうか︒それははたして何であったか︒−

 これらの問題のすべてに亘って読・ぎつくす為めには別の機会を倹たねばならな

い︒本稿では当面の問題を蓮歌の成立を考へることに限りたいと思ふQそして︑機

智性が二本交藝生成の当初から主要な交藝精紳として現れてみたこと︒殊にそれが

詩歌の世界に如何に展開したかを概観し︑如何にして亭安の漣歌が機智性そのもの

(2)

2

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 S=1

歌 の

凄自らの交藝精紳とする新しい日本詩歌の形態として︑生れ出るに至ったかを考へ

て︑その交藝的特質と文学史的意義との素描を試み︑一これらの問題を考へる序論に

と黛めたいと思ふ︒

 日本の交藝は悉く深い起源をもつてみる︒吾々の先闘は揃い菅に様々の文藝をの

こした︒それらの中に︑吾々の承け傳へた文藝昌昌の源があらねばならぬ︒三夏精

紳とは人聞生活の特殊なる領域である交藝のいとなみの根源にあって︑これを規定

する精神の働きである︒それを語るために先づ古事記を見よう︒吾々はこの素朴な

る交藝的邊産の巾に︑数々の文藝精神を見ることが出来るであらう︒しかし何より

もぎはだって見られるものが古代人の機智性である︒そこには︑自らの交字をもた

なかった吾々の先灘が︑その自らの言葉を窟しとるのに︑漢字をそのま瓦借用し

た︒書紀が漢文を探用したのに対して︑古事記は筆者卓識侶の工夫による特殊の記

載法を探用した︒勿論それは古語古意をそのま製に傳へようとした特別の意図から

出たものであり︑そのためには当然こらされねばならなかった工夫である︒そこに

安萬侶が当面した鰺澹たる苦心のほどが︑その序文にも明かに語られてみる︒それ

は勿論︑そのすべてが安萬侶の創意に出るものではないであらう︒しかし少くとも

それまでに試みられた︑種々の工夫の集積の整理に七つた努力は︑並々のものでは

なかった︒吾々はこ筑に寮萬侶に結集された︑古代人が漢字による国語記載法の創

案に見せた︑機智性のひらめきを見ることが団来る︒それはなほ交藝作品成立以前

の技術的過程であり︑それが直ちに作品の精押でないことは明かである︒しかしそ

の作晶の成立を可能ならしめる前提としての︑この文字の使ひざまに先づ驚くべき

機智性の現れを見るのである︒これが作品の精神にも現れることが予想されないで

あらうか︒はたしてその記載法によって支へられた表現にも亦︑機智性が全雀に充

ち満ちてみるのを見る︒

 試みに本交巻頭の一節を見よ弓︒

畜馬鐸主面.自選川洲多陀用霧鐘.愉臓避難因藤嘗物而.成 薯.宇臓志阿斯詞箆古羅.器名奏之常蒜.螺舞矯

 そこには天地生成についての古代人の素朴なる信仰が︑真婁感をもつすばらしい比喩的表現を見出した︒この素朴な比喩的表現は古事記全巻を蔽ふ特質であるが︑更に又全巻を構成する個々の説話の内容が︑まことに素朴純糞な笑ひの霞につ﹂まれてるることは︑︸配置を引くまでもない︒こ瓦に文藝精瀞としての機智性のひらあきを見ることは出来ないであらうか︒古纂記を貫く交息精肺たるべき⁝機智盤は︑最も普涌にその素朴純真なる比喩的表現として現れた︒これらの要素を古事記の表現から拭ひ去るならば︑そこにはたして多くのものが残るであらうか︒.この古事記の特質は当然︑説話の聞に点綴される種々の形態の詩歌にも見られる︒ことにそれは問答的唱和の作に著しい︒例へば問答歌の古い形式を餌へるものといはれる︑伊須気余理比費と大久米命との唱和の作がある︒ 南米都々 知楴理師斯登々 那仔佐祁流斗米︵比費︶ 震登費爾 多陀爾阿波牟登 和加佐郁洗斗米︵命︶こしに機智的な比喩と︑当意酬妙の鷹酬とを見ることが出来る︒更に又下巻﹁歌垣﹂の章に見える︑震郡命と志毘随との問答になる一連の作に至っては︑その巧みなる比喩的表現と︑それを支へる機智盤とは一麿顯著である︒もしこれらの物語が後人の俄雨であるとするならば︑これらの物語を生んだ交藝精紳としての機智性が︑ひとぎはあざやかに浮び上って来る︒今はしかし古事記にのみ久しく停滞することは出来ない︒こ瓦ではた罫機智性が︑古事記のもつ簡素・極重・雄大その他さまぐの美の姿として古事記に統︸された交直精紳の︑主要なる契機をなすものであったことを瞥見すれば足りる︒機智挫こそは古代日本の交藝美を構成する最も主要なる文藝精紳の類型であり︑古代交直を生み出すつの意志であった︒この意志は日本交声の精神として︑涌く避暑の交野の申に発展成長を途げることが当然予想される︒古事記の機智性は実にその序曲でなければならない︒以下当面の問題として︑主として詩歌の世界に︑その農開を眺めて行ぎたいと思ふ︒

(3)

1952

−.

3 滋大論集

        閣晶

 萬葉集において先づ注惹を惹くものは形式的な用字法に見出される所謂戯書.であ

る︒﹁その起源がすでに漢籍その他に求められるとしても︑それらに導かれて萬葉人

が創作したさまぐの戯書の背後には︑℃まことにほ玉ゑましい心の働ぎを見るでは

ないか︒この萬葉集独得の用字法を︑箪なる交字遜戯として︑ ﹁虚し去ってよいで

あらうか︒文藝においてその内容と表現が不可分のものであるならば︑歌の表現を

.支へるこれらの用字法にも︑萬葉歌人の詩心の一つの契機を垣闇見ることが許され

るであらう︒それのみではない︒戯書といふ箪なる形式面に見られた萬葉人の機智

愛の精紳は︑すでに記紀の中に成長して来た枕詞や序詞などの︑文藝的表現の技巧

の中に実を結んでみるのを見る︒集中最も高い評慣をかち得た人磐の歌に︑その高

い心術性を蝋へた重要な要素として数へられる︑.その独創的な枕詞や序詞の技巧を

見止さしめたものは︑人.磨のすぐれた機智牲ではなかったか︒

 更に万葉集において機智性が歌の内容そのものと直接に結びついてみるものは︑

最も多く滑稽︒洒落の相に現れた︒巻十六の所謂戯笑敵がその適例である︒

    詠こ行縢蔓菅食薦屋操﹇歌

 ω食薦敷 蔓蒜撹将来 椴爾 行騰懸面 息此公

    詠三何葉一堂

 ②蓮藁者 如是許曾有物 意吉瞬呂之 家在物者 立毛久葉爾有之

    詠二簑六頭一細耐

 紛一二之 目耳不有 五六 三四佐︑借有 讐六乃佐叡

 右の三菅は﹁長忌寸慧吉瞳呂歌誌首﹂の中に見えるもので︑0ゆはやがて古今集の

物名歌を予想せしめ︑②は古今集の盗難歌饗喚ひ起し︑後世の狂歌への発展を予想

せしめる︒働はωωの両方の性格をもつものであらう︒奥師呂は人瞬呂とほ黛同時

代の人と傳へられる︒その人の作に右の如きもの瓦あることは︑先づ注意されてよ

い︒その他この雀に薦められた識笑納の殆んどが作者不明であり︑その多くが萬葉 も末期に近い頃の作品ではあらうけれども︑古事記の成立を距ること僅々数十年を出ない︒萬藁歌入はこれら唄群の作晶に︑その機智性によって見翻した笑ひの心を表現しようと試み︑日本詩歌における新たなる表現技巧と笑ひの境地とを闘いてるる︒例へば 比来之 試技力 記集 功爾学者 五位乃冠そこには機智に見出された笑ひそのものを楽しむ明るい心の躍動を見ることが出来る︒しかもその勢ひのおもむくところ﹁無心所選歌﹂の如きをも生むに至った︒rしかし︑﹂これらの歌よりもM暦よく萬葉歌人の機智性を示すものは︑問啓形式をもつ作品であるが︑後に改めて触れたい︒

 萬集録の歌に見られた機智性は牛安歌人によってさらに洗練$れ︑枕詞・序詞の

妓巧から更に掛詞・縁語へと修辞上の按巧は一段と繊細さを加へること玉なったQ

それと共に萬藁集の戯謡歌に見られた諸要素も︑古今集以後技巧的に︸暦繊巧な分

化を途げた︒

 先づ注意されるのが物名歌である︒

   うぐひす      藤原敏行朝臣

 心から花のしっくにそぼちつ玉うぐひすとのみ鳥の鳴くらむ︵古今︶

   とち ところ たちはな         藤原 すげみ

 おもふとちところもかへず佳みなれんたちはなれなば継しかるべし︵拾遺︶

   さみだれをよめる      和泉式部

 夜のほどにかりそめ人やきたりけん淀のみこものけさみたれたる︒ ︵千載︶

 これらの作品は古今集︵毬十・四七首︶・拾遺集︵巻七︒七八首︶・千載集︵巷

十八・一︸首︶に見られるもので︑明かに萬集集に戯笑献の︸種として多く見られ

たものからの展開である︒しかし戯笑壷にあっては︑何の関係もない種々の物の名

を巧みに詠み込んで︑纏った意味をもつた︸首の歌に仕癖げる機智が喜ばれた︒そ

(4)

4

(宮 濁〉

の 五

れがこ瓦では與へられた題を意味をもつ言葉としてあらはに詠み込むのではなく︑

それが一種の掛詞的な技巧に進められた︒これらの機智的な趣向は当然掛詞や縁語

の修辮的按巧を発蓬させたと思はれる︒岡時にこの機智的な趣向はその内容にふさ

はしく﹁かくし題﹂の呼称を生み︑更に所謂﹁折句歌﹂を生む契機を︑それ自身に

孕んでみたQ鵠実︑古今集の物名歌囚十七首の中には次の︸首が見える︒

   朱雀院の女郎花合せの時に︑をみなへしといふ五三字を

   句のかしらにをぎてよめる︒      紀  貫 之

 小倉山みねたちならし鳴く鹿のへにけん秋をしる人ぞなき

又巻九﹁酪旋﹂の部巻頭に︑業軍の﹁からころも﹂の作のあったことは︑あまりに

も有名なことである︒これらの按巧は﹁折幻歌﹂として千載集に二首見える︒ ﹁俊

頼口繊鋭﹂には︑これらの按巧が更に巧緻にこらされて︑ ﹁沓冠折句の歌﹂︑ 更に

は﹁廻丈歌﹂の如きものまで行はれたことを傳へてるる︒

 一方これと並んで萬葉集の戯笑窪の一面は︑古今集以下の俳諮歌に展開した︒古

今集には先づ次の如き作が見ちれる︒

   題しらず      凡河内躬恒

 むつ言書まだつきなくに明けぬめりいづらは秋の長してふ夜は

     .同      よみ遷しらず

 耽よりあとより慧の責めくればせむかたなみぞ床なかにをる

更に縁語掛詞の技巧のこらされたものには家の如ぎ略のがある︒

   題しらず      小野小町

 人に逢はむつぎの無ぎには思ひおきて胸はしり火に心やけ居り

      同

 なげき樵る山とし高くなりぬれば面杖のみぞ先つつかれける

何れも先安歌人の機智盤によって見出された明るい笑ひの詩境であった︒俳諮歌は

なほ︑後拾遺集から千載集へと展開する︒

 しかしこれら一群の歌は︑それみ\の歌のもつ職質が正当なる諸等を得てみるで あらうか︒箪なる遊戯的な文字捜巧にすぎないとして︑これらの歌を支へるギ安歌人の機智性を︑た黛その滑稽の相にさへられて軽く見逃してはみないだらうか︒確かに︑萬葉集以来歴代の勅撰歌集において︑短歌の領域の大牛を蔽ふものは︑真面目な情趣的な美の詠歎であった︒そこには知的な美の空論は︑たしかに局限ざれた部分においてのみ許されて来たやうである︒まして滑稽の相にとらへられた機智的た美の詠歎は観歌の坪外であるかの如く見えた︒しかし︑はたしてざうであったらうか︒試みに︑古今集冒頭の有名な︸首を挙げよ与︒

   ふる年に春立ちける日      在原元方

 年の内に暮は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむこの歌が﹁ふる年に葎立つ﹂といふ︑暦の上に見出された季節との矛盾に興趣を起して詠まれたものであることには︑何人も異存はないはずである︒作者の感興は︑春を迎へた喜びもさることながら︑それよりもむしろ︑暦法上の偶然の事実に感じられた可笑しさである︒この笑ひの胡を形逡つたものは︑正しくこの軍凡なる事実を可笑しみとして捉へる︑特殊なるものを見る目でなければならないQこの特殊なる美を見翫す目の働き︑それは作者の機智性であった︒従りてこの歌は本質的に︑さきに挙げた﹁︑むつごとも﹂ ﹁枇より﹂等の俳譜歌と︑何等異質のものではなかった︒然るにこの歌が古今集の毬頭に先づ撰ばれたといふことは何を物諮るものであら5か︒これこそ正に当代歌人の理想の具体的表現ではなかったかQ更にこれにつ黛いて見える︑撰者の一入貫之の歌はどうであったか︒   はる立ちける日よめる         紀  貫 之 袖ひぢてむすびし水のこぼれるを蓉立つ今貝の風や解くらむ当代歌風の代表者の一人といはれる貫之のこの歌も︑春を迎へた喜びを詠んだものにはちがひない︑問題はその喜びの感じ方や表現の仕方にある︒そこに作者の特殊な歌心が秘められてみなければならない︒こ筑に見られるものは︑嶽を迎へる喜びにひたりぎつた真傘の感ではなく︑喜びの情を︑ 一つの影として︑自らの脇に立た

せることの出来た︑余裕のある態度である︒そこには︑自らの心に喜びを感じさせ

(5)

1 9 5 2

集1

滋大論集

5

る︑春立つといふ季節上の現象の背後に︑春を迎へる層畳び以上のものを見禺すこと

の酷来る︑特殊な目と心とが用意されてるる︒その目と心とが︑潔風を擬人化し︑

風にとける氷の姿を見出させ︑﹂更にその背後に四季の水を︑人事と結びついた姿に

見酷させた︒この歌の擬岩にとっては︑さういふ春の陰にあるものを見出した感興

が︑春を迎へた現実の喜びにもまさる喜びであった︒それを具体化したものがこの

歌の表・現的技巧であり︑それを支へる特殊なる目と心とが作製の機智性ではなかっ

たか一︒入がこの歌に四季の水の姿を詠み込んだ手ぎはのあざやかさに驚く一方︑所

謂実感の稀溝さを轍くのは何故であららか︒その水が池の淀みであら5と︑せ玉ら

ぐ漢水であららと︑作購にとっては無用の論難であったことを思はねばならない︒

 この二つの雄弁な箏実を人は何と解羅干るのであらうか︒古今集の弊風を理智的

であり︑観念的であるといふ︒そのことがなぜいけないのであるか︒歌の障界に知

的な領域がなぜことさらに僻められねばならないのか︒この鴨頭の二営に代衷せら

れる古今集の激入建は︑﹁それらの入にはげしい抗謎をするであらう︒理智的で観念

的だといはれるこれらの歌こそ︑当代歌人の理想ではなかったか︒そのうらにひそ

む亭安歌人の機智愛の精紳を︑再々はくみとらねばならないと思ふ︒記紀の詩歌か

ら萬葉にうけつがれた機智性が︑古今集に至ってかくもあざやかに︑情趣と融合し

て︑すばらしい結実を見せてみることを見逃してはならない︒

 以ヒの如き牛安の歌壇の中に蓮歌の誕生を見るのである︒蓮歌の作晶か︑勅撰集

に見えるのは後撰集の一首が最初で︑これにつぐのが無帽集で︑金葉集に至っては

じめて弔歌の部が設けられた︒しかしこれらの蓮華も突如として生れ出たものでは

なかった︒年輩の鼻歌をとりあげる前に︑漸々はなほその先行交藝に目を注がねば

ならない︒連歌に直接先行する丈塾は︑その形式内容の両面から見て︑それは当然

問答形式の詩歌である︒今まで多く触れることのなかったそれらのものを︑こ玉に

とりあげなければならない︒  日本の詩歌における問答形式の起源はまことに遠い︒それは恐らく︑詩歌そのもの玉起源と区別することは關難であらう︒古事記の藻類によれば︑伊興那岐伊邪那美聡警の素朴なる感動の詠歎にまで遡らねばならない︒そのかみのことはともかく︑古代にあっては︑片歌の形式が問答に用ゐられた晋通の形式であったらしい︒しかし詩歌の形態の未だ定漕せず︑さまざまの詩形が行はれた時代にあっては︑−その他種々の形式もとられたであらう︒︑それは時代もや製悲しいと思はれる︑ 下巻

﹁歌坑﹂の章に見えた︑次の一蓮の作によってもその一斑は窺はれる︒

 oワ意富癸夜能 表登都波多傳須美加多夫郡理

 ②意冨多久箋 蓑後頚葵許宵 須美加多夫祁膿

 働意富岐美能許々呂震由良爽泌美能古準夜弊能斯婆加飯伊理多々受阿理

 oD斯本勢能 那蓑理嚢美醐婆 阿蘇毘導流 志毘賀波多傳爾 解毒多旦理美由

 ㈲意富岐美能 美古能志婆心岐 夜布士㈱理 斯聯理母登本斯 岐禮牟志婆加岐

  夜長牟志婆加岐

 ㈲聖旨慧余志 斯毘都久阿棘余 斯.理財禮婆 宇良胡本擬製牟 志毘都久志毘

 この六首の作は記紀によって聖戦を異にしなほその唱和の順序にも錯鐵のあるこ

とは︑すでに宣長の指摘した如くで︑問題の存丁る所ではあるが︑今︼先づ古事記

新謎に次田氏の説かれる所に従って︑その順序を㈲・個・CO︒②・㈲︒㈲の順に置

きかへて見よ5︒こエには短歌と短歌︒片歌と片歌︒短歌と佛足石歌体の三組の形

式が見られる︒萬集においても片敵形式による問答の痕跡を内容にと黛めた旋頭歌

︵国歌大観蕎芳一二七五︒一二八八の如き︶も見え︑又巷十三の如く︑長歌に反歌

を添へた形式によるものなどを含んでみて︑なほ統⁝した萎は見られないが︑その

大勢はすでに短歌飼短歌の形式に支配せられてみる︒かくして詩歌の問答形式は︑

L古の素朴な詠歎に発して︑片歌の形式から短歌の形式へと︑次第に定着する傾向

を示した︒

これは︑種々雑多な古代詩形が︑萬集時代に個々に︑短歌形式に統一されて行った

当然の結果でもあった︒しかしながらその変遷の過程において︑問答歌の示した形

(6)

︑農U田)

(宮

歌 の

野上の特暫は沖意されねばならない︒詩形の動揺してみた口調時代を含むことと

て︑時に例外はあるとしても︑問答歌がその基本の形態として︑問と答とがそれぞ

れ対鷹の形式を操用したといふことである︒問答歌の特質の﹁つは︑形式的に=首

の対立が均正の美をもつといふことである︒これは正しく問答歌の本質に根ざすも

のであると考へられるが︑これについては後に触れよう︒−この形式上の均正といふ

ことは︑短歌の形式の整・うた亭安朝以後の問答乃至囎答の歌においても全く例外は

見られない︒

 この均正な対立形式にもられた問答歌の内容は如何なるものであったか︒問答歌

において問と答の当意廓妙の喜ばれることが自然であるとすれば︑そこに機智性の

働く機会が︑他の如何なる詩鰍⁝よりも多いことは当然である︒さきにあげた﹁歌塩﹂

の一蓮の作を︑冶の如き順序に置きかへて見ることが認められるならば︑ト先づそこ

に見るものは形式hの見事なる均正である︒た虻㈹㈲の対照に破綻が見られるが︑

それも勧の最後の叫句﹁夜気牟志婆加岐﹂は︑志毘臣の激した葱りの情を強調した

反復として︑短歌形式に野幌させても︑この場合あながち不自然ではない︒しかも

その表現の巧みなる比喩と当意鄙妙の礁酬には︑問答歌のもつ⁝機智性を遺憾なく発

揮してみる︒それは伊多気余理垂下と大久米命との唱和においても同様であった︒

又萬葵集の戯笑欲の申には次の如き作が見られた︒

   池田朝臣哩二大紳朝臣奥守一歌嚇首

 寺寺之 女饒鬼申久 大群乃 男餓鬼被給而 其子嚢播

   大瀞朝臣奥虚報膿歌一首

 佛造 眞朱不足者 水淳 池田乃阿曾我 鼻L乎穿禮

    ○

   戯曝レ僑歌一首

 法師高島 餐愈愈杭 馬繋 痛勿引曾 信牛甘

   法師報歌︸着

 檀越也 然勿言 五十戸長我 課役母岩 汝毛帯甘  その内容はまことに埠俗ではあるが︑問の蒲想の奇抜さと︑問に対する答の邸妙さは︑これらの歌の本領であった︒又生硬な漢語の使用の試みも︑作者の機智性に見出された意識的な技巧であった︒ 平安の贈答歌に至っては一段と洗練された機智的な技巧がこらされる︒F古今集に

一例をとれば︑

   ︵詞書略︶      よみ落しらず

 君や来し.我や行きけむ思ほえず夢か現か寝てか覚めてか

   返し      業弔朝臣

      ︵今宥イ︑伊勢︶      り  つ かぎくらす心の闇にまどひにき夢ろつ玉とは世人さだめよ

 同じく物名歌の中にも︑問答と物名の両者を兼ねたものとして︑次の如きものが

見られた︒

   弓つせみ       在原しげはる

 浪のうつ潤みれば玉ぞ凱れける拾は却袖にはかなからむや

   返し       壬生忠峯

 挟よりはなれて玉をつ鼠まめやこれなむそれとうつせみもかし

 更に﹁俊頼口傳集﹂には︑折句歌の技巧をからませたものとして︑次の如き贈答

の作を伝へてるる︒

   小野小町人のもとへ琴をかりにやるとてよめる歌

 ことのはもときはなるをぱたのまなむまつをみよかしへてはちるやと

   返し

 ことのははとこなつかしきはなをるとなべての人にしらすなよ君

 まことに驚くのほかはない︒しかもとれらの歌がいつれも︑問答均正の形式を基

本とすることにかはりはなかった︒しかるにこれらの問答歌の濁れの中から︑前記

の如ぎ李安歌壇を背景として︑生れ出た連歌に至って︑この均正の形式が明かに意

識的に破壌された︒それは如何なる理曲によるものであったか︒この日本詩歌の形

(7)

1 9 5 .o

1

滋 大論 集

7

式的革命をもたらし.たものは何であったか︒

んでみなければならない︒

ノ、

こ玉にこそ連歌の蓮歌たる本質がひそ

 まことに自明のことではあるが︑凡そ音曲にあっては︑内容がその形式を規定

し︑同時に形式がその内容を規定するものでなければならない︒虚業にあっても︑

又その先行文藝たる問答歌にあっても︑それぐのもつ丙容がそれみ\の形式を見

出したのであり︑そこに撰ばれたそれみ\の形式は︑そこにおいではじめて︑それ

み\の内容が完戌するものであったはずである︒形式は単なる形式ではなく︑丙容

が必然的に見出さねばならなかった生きた形式である︒内容はその形式を得てはじ

めて自己を完成するものでなければならない︒問答は間と答との対立の相において

成立する︒その間と答との関係は︑問はその間に相懸した答を要求する︒と同時に

答は問に対して問の求めるものを︑必要にして且つ充分に︑これを充足しなければ

ならない︒この間と答との︑対立と内容的相態の関係こそ︑問答のもつ基本的性格

であり︑問答歌をして両者対面画引の形式をその基準として見出さしめた必然の理

でなければならない︒それは問答のもつ本質の︑詩歌における形式化であった︒

 同時にその問答が歌の形式をとる以L︑答の歌はその間ひかけに相下して︑当意

邸妙であることが要求せられる︒そこには当然機智的な配慮が伴ふ︒機智性は本来

精紳の働き方において︑知的な面であり︑惜的な面ではない︒従ってそれは︑詩歌

ことに将情的詩歌にあっては︑本質的な要素ではないであらう︒にもか玉はらず︑

懸の贈答歌においてすら機智性が大きく支配するのは︑この問答的性格の故でなけ

ればならない︒更に一般に︑問は必ずしも答のあり方のすべてを予知することは出

来ない︒隣には問の全く予知しなかった意外な答が現れる可能性がある︒問の態度

如何によっては︑答はむしろ意識してさういふ答へ方をしょうとする︒こxにも問

答歌に機智性が大ぎな要素となって現れた契機があった︒かくして問答歌において

機智性がその文藝精霊として本質酌に結びつぎ︑問と答とがそれぐ相対賑した均 正の形式を基準として成立した事実が諒解されると思ふ︒ 連歌が記紀以来の問答の歌の系譜の巾に生れ︑しかもその世界が例外なく︑⁝機智性によって見出された︑人間的な明るい無邪気な笑ひにつエまれてるることは︑拾遺集金藁集などにのせられた︑ 一群の初期の作詰を見ることによって明かである︒これこそ正に︑予知されない意外な答の現れ方に好奇の期待をかける問の心が︑歌の形式によってよびかけられることを契機として︑生れたものにちがひない︒問答の歌の世界に笑ひの美の姿を求める詩人の機智性が力強く押し出された所に生れ出た紅毛であった︒その故にこそ︑初期のそれらの作晶には明るい笑ひはあっても︑

一抹の暗ざを俘はなかった︒単なる問答の亭凡さもなければ︑ ﹁歌垣﹂の例に見る

やうな悪意の影も見られなかった︒しかもこの連歌のもつ交塾精紳たる機智性とそ

の形式は︑既に問答の歌の中に胚胎してみた︒

 然らば蓮歌の起源はどこに求むべきであるか︒これについては︑面罵を後世筑波

の道と称したこと筑並んで︑その起源を大和習癖と火焼翁との唱和になる片歌の問

答に求めたことは︑中世以来のことであった︒それはしかし蓮歌のもつ形式的特質

から否定せられる︒中質は五七五とヒ七との長短二句の虫薬の形式においてよまれ

た︒このことは孤身末期から平安朝にかけて︑詩歌の形式が短歌に落ちつくにつれ

てその声調のhにも所謂三句切の傾向が強くなり︑やがて短歌を本末の上下二句に

分つ意識の威立と︑深い交渉をもつことは明かである︒従って現在一般に︑形式上

有力な連歌の起源的交信として示されるものが︑萬葉集巻八に見える有名な︑尼と

家持との合作になる次の一撃﹁である︒

   尼作二頭句弄大踊窩禰家持所レ訴レ尼檀二末句一等和歌嚇首

 佐保河之 水翻塞上而 瓦之田乎尼作 甲介早販者 独奈流三思家持綾

 これはしかし︑連歌に深い関心を示した金庫集の撰者俊頼が﹁これは蓮歌なんめ

り﹂といひ︑更に﹁よもわうからじとは思へども心残りて末につけあらはせる如何

なることにや﹂と述べて︑すでに牛信牛偶の態度を示した︒その﹁よもわうからじ﹂

と思はせた唯一の根拠はこの作が萬葉集の中に見えるといふことであり︑疑ひは上

(8)

8

(宮 田)

y.LL

の句が独立した意昧を完成してみないことにあった︒このことは葬歌の成立時期に

おける︑当代一流の歌人の蓬歌観として注意しなければならない︒この作は形式上

はたしかに後の蓮歌の形式をとってみるけれども︑この晒首の成立は︑俊頼の疑ひ

が︑その詞書からも裏書きされるやうに︑ 一首の和歌を合作する意図から生れたも

のにちがひない︒これは後撰纂に見える次の 首と面白い対照をなしてみる︒

 秋のころほひある所に女とものあまたみすのうちに驚けるに︑男の歌のもといひ

 入れて侍ければ末はうちより

 白露のおくに数多の声すれば花の色々有と知らなん     よみ為しらず

 この歌は集には一首の歌の体裁でのせられてるるけれども︑その詞書からもその

内容からも︑これは明かに問答の内容をもつ純然たる蓮歌と見られる︒しかも後撰

集の撰特はこれを一首の短歌と認めて集に牧めたことが明かである︒この萬葉の例

と後撰の偶はいつれも︑当聴の撰者は勿論鰍壇一般にも︑なほ蓮歌意識の存在しな

かったことを示す証左ではなからうか︒同時にこれは又家持の頃以来亭安初期にか

けて︑ ⁝首の短歌の合作が次客に歌人の興映を高めつエあった趨勢を物語るもので

はないか︒事実甲羅初期においてすでに︑その試みがさまみ\の形式をとって行は

れた実例を︑幅井氏がその著﹁和歌連歌俳譜の研究﹂に紹介せられた︒又拾遺集の

撰者もそこにおさめた十二句の作晶を︑形式こそ後の志気と同じ体裁で掲げたけれ

ども︑なほ﹁雑賀﹂の部に附載したにと黛まる︒このことは拾遣集の撰者が︑これ

らの作をなほ﹁合作の歌﹂即ち﹁雑の歌﹂と認めてみたことを︑物論るものではな

からうか︒しかしこれらの作品は現在一般に初期の蓮歌と考へられてるるがうその

すべてを直ちに蓮歌と呼び得るか否かは︑疑固である︒その作晶は弐の如きもので

あった︒   中将に侍りける時︑右大弁源致方朝臣のもとへ︑やへ紅栂を折てっかはすとて

 流俗の色にはあらず梅の花        右大将実資

 珍重すべき物とこそ見れ         むねかたの朝臣

       ○ ・    つくしへまかりける時に︑かまと山のもとにやとりて侍けるに︑みちづらに   侍ける木にふるくかきつけて寒ける 春はもえ秋はこがる瓦かまど山

 かすみもきりもけふりとそ見る   もとすけ

       ○

   春よしみねのよしかたが女のもとにっかはすとて

 おもひたちぬるけふにもあるかな      藤原忠君朝臣

 か玉らでもありにしものを春かすみ  むすめ

       ○

   ひろはたのみやす所内にまみりて︑おそくわたらせ給ひければ

 くらずべしやはいま玉でにきみ      とそうし侍ければ

 とふやとそ我もまちつる春の日を ㈲

       ○

   よひにひさしうおほとのこもらでおほせられける

 さよふけていまはねふたくなりにけり    天 暦 御 製

㈲  御薗にさふらひてそ5しける

 夢にあふべぎひとやまつら.ん       しけのxないし

       ○

   内にさふらふ人をちきりて食ける夜︑おそくまうてきけるほどに︑うしみつ

   ととぎ申けるを.ぎ玉て︑女のいひつかはしける

 入こ﹂うらしみついまはたのまじょ

 夢に見ゆやとねぞすぎにける       良 峯 宗 貞 ㈹

 右の作品は偶然にも︑ωと㈲・oりと働・②と㈲がそれぐ同じ牲格をもつこ・とが

見られる︒ωと㈲が純然たる問答の幌格をもつのに対して︑②と㈲は明かに合作短

歌の性格を示してみるのは鑑識的である︒そして00と㈲は何れも両者の性.絡を兼ね

た中間的作品である︒これらの作品の性格の相違は︑それみ\詞書に示された創作

(9)

1952

1

滋大論集

9

の動機の相蓮からも果るものであることが窺はれるのであるが︑それは同時に短歌

の合作が行はれてるた聞に︑従来の問答歌でもなく︑合作短歌でもない︑新しい文

藝としての蓮歌意識が︑自ら生れたことを物語るものでなければならない︒

 短歌の合作はそれ自身に︑機智酌翼昧につながる翼機を孕んでみる︒すでに尼と

家持との合作がさうであった︒家持がさういふ興味をもつた︸人であったことは︑

麟笑歌の中に問啓形式でよまれた﹁駿二咲痩人一歌二菅﹂の作のあったことにも知ら

れる︒問答歌に寄せる興味と.短歌の合作の興味との結びついたところに︑やがて連

歌.馬立の契機があったと考へられてよいのである︒従って拾遺集以前の作晶はすべ

てその過渡期のものと認めて差麦ないであらう︒その故にこそそれらの作品が種々

の性格を示したのであった︒実際において︑伊勢物詰その他に傳へられるものをも

含めて︑これら初期の作品の上に︑合作の短歌と誤写之の問に噛線を劃することは

困購である︒それはなほ歌人達の間に短歌と異る連歌意識の熟してみなかった為め

の当然のことでなければなちない︒こそれは連歌といふ名称がこの間の事情を聞接に

暗示してみるやうであるQ蓮歌或は競売の語がはじめて文献に現れるのが︑亭︑安申

期のこと玉いはれるが︑その聯句との交渉はともかく︑その用語のうらには︑温風

の短歌を合作する心理が強く働いてみたことを思はせるのである︒従って連歌の成

立は短歌の合作と問答とのこつの要素が結ひついて︑斬たに蓮歌意識の確立した時

に求められねばならないQ短歌の合作形式の中に︑問答性が自覚された時に蓮歌が

戌齢したと考てよい︒それは形式的にはこ句それぐの独砿挫が認められることで

ある︒︸つの想にまとめられた短歌を作るのではない︑形の上では短歌の合作と区

別はつかないが︑二句はそれく別の想をもつべきである︑といふ意識の現れるこ

と︑さういふ目をもつた人の現れることが必要であった︒そこには面隠に齢しい文

藝塗上が現れねばならなかった︒

然らばさういふ連歌慧識はいつ現れたか︒それは勿論︑この時この人とさだかに 示すよすがはない︒しかし短歌の合作の中に遽歌二黒がやうやく︑固成しつ玉あった時代に︑はじめてそのことをロにした入と思はれる源俊麟を注意したい︒それはすでに周知の﹁俊頼口傳集﹂の衣の一節である︒ 遽歌といふは︑例の歌のなからをいふなり︒本末むにまかすべし︒そのなからが うちに︑いふべき事の心をいひはべるなり︒心のこりて︑末つくる人にいひはて さするはわうしとす︒

 こ玉に語られた思想は︑蓮歌は575と177︑或は77と575の形式をもつて

二二が対立し︑漸落はそれみ\独立の意味をもつべきである︑といふことであっ

た︒合作慧識の下では77に57δがつけられる場含にも︑その附句は前句の上に

置いて︑出来上ったものをまとまった一首の持歌として見るべく︑意図されてるたことが明かである︒しかるにご曳において︑その合作慧識が開かに否定せられて︑それにかはる問答意識が強く打ち出された︒問答歌の本質である問と答との対立性が強調ざれたρ鷺山の謄裏に意識されたものは︑短歌の上下二句の対立形式に竜られた︑長・短調は短︒長の組合せをもつ不均正なる問答詩であった︒俊絹は更にこれを具体的に たとへば﹁夏の夜をみしかきものといひそめし﹂といひて︑ ﹁入はものをやおも       も  も  じ     も    はざりげん﹂と︑末にいはせむはわうしQこの歌を連歌にせん隠は﹁夏の夜をみ しかきものとおもふかな﹂といふべき也︒さてぞかなふべき︒ と述べて合作短歌と連歌を戴然と区逸した︒若し俊頭以前にか瓦る言説が聞かれないとすれば︑踏歌は俊頼を挨ってはじめて発見せられたといはねばなるまい︒こエに又従来の合作例の一部のものも既往に遡って連歌たり得たのであった︒ 然るば懸歌は如何なる文藝的特質を略つべきであったか︒連歌はこ玉に傳翁島な問答歌の形式をすてた︒その契機は倉作短歌の中に孕まれてみたことはいふまでもない︒しかし蓮︑歌にその斬薪なる周答形式として︑不均正なるものを見出さしめたものは︑正しく亭安歌人の機智性であった︒しかもそれはそこに表現さるべき内容に最も適切なる形式であった︒連歌のこの不均正の形式に盛らるべき問は︑すでに

(10)

10

(宮 田〉

均正の形式をもつ通常の闊答歌の問ではなかった︒問そのものが答に機智の働きを

求めて問はれた︒問は始めから答が問に相懸するやうに甲凡に問はれたのではな

い︒むしろ問の予知出爽ない意外な答の現れ方に好奇の関心が溌がれてるた︒この

関心が均正を破った形式を求めたことは当然である︒こエには問答の形式に托し

て︑笑ひの美の姿を求める詩人の⁝機智性が全面酌に押し出された︒問答歌の特質は

その対立形式が降任なる美を示したと同時に︑竃湯も卜占と答とが相対立して︑そ

れみ\独立した美の姿を示した︒いは黛対立無双の相に見出された交藝美である︒

連歌もその間と答とが独立すべぎであった︒しかし蓮歌における問と答との対立

は︑もはや聞答歌におけるが如ぎ単純なる対立ではなかった︒それは警急の問の態

度が要兆したのである︒この間の熊度を規定したものは痴愚歌人の機智性以外の・も

のではあり得なかった︒蓮歌の問と答との独立は機智性によって押出される薪たな

る美の世界の創邉を︑その背後に予想した独立であった︒対立の相を超えた融合が

予想されてるた︒提示された問が答へられた時には︑その答の示されることによっ

て︑問は答と共に各々それのみでは見諾し得ない別の世界を︑それらの背後に構成

し︑それによって問と答のこ句は統︸され︑そこに新しい丈藝美の類型が生れるこ

とが予想されてるた︒これは恐らく短歌の合作心理の中に自ら芽生へて︑亭安歌入

の洗練された機智性によって見番され︑遽歌に至って結実したものであったらう︒

この美を見る心こそ蓮歌の交藝精押であった︒問と答とが相対立しつエ相照鷹して

映発する光の中に蓮歌の覇なる美の姿が見出された︒こ玉に︑対立の相においては

不均正に見えた︑問と答とに見事な均衡が保たれる︒それは不均正な形式酌対立を

超えて戌出する︑蓮歌の見塾した交響美の形式であった︒こエに至って問答歌がそ

の始めから伶つた機智挫が形式的にも完戌を見たのである︒

 なるほど当初の連歌のもつ世界は︑最も多く滑穫の相貌を呈することは事実であ

る︒それは確かに︑読かれる如く歌合其の他歌会などの余興の意図のもとに行はれ

ることが多かったといふ事情によるものでもあら6︒叉それはあの機智的な交藝技

巧をこらして興じた︑亭安歌人の機智愛の結晶であって見れば当然の事でもあっ た︒しかしそれだからといって︑その朗らかな輝くばかりの明るさに包まれた笑ひの世界を︑詩歌の申に全く惜しい形式で創造した︑彼等のすばらしい機智性に目を蔽うてほならない︒初期の聖歌が頓智問答的であったといふことは︑この黒しい交藝の本質に根ざしたものであったのである︒連歌は正に︑問答形態において機智性そのものの創造する美を追求する偏窟として︑亭安歌壇に生れ出たのであった︒ しかしこの蓮歌を生み出したものは︑た黛弔安歌壇の心のみではなかった︒この機智性は当代文壇の全体を麦配する交塾精赫でもあったことを思はねばならない︒例へば散交界にはやく現れた土佐日記を見てもそれは明かである︒土佐日記の全雛にみちみちる酒落な笑ひを喜ぶ作者の機智性は︑その胃頭の﹁男もすなる云々﹂の

⁝句によっても直ちに窺はれるもので︑この賑賑を貫く文藝精沸であった︒しかも

この散交に示された貫之の心が同時に彼の和歌の精紳に通じてみたのである︒叉唐

馬の簿記的色彩をもつ伊勢物語にしても︑その作品全体を包む色調が︑機智性に見

出された人間的な笑ひの明るさであることに︑何人も異存はないはずである︒こ玉

にこの物語の作春の歌に対する態度と物語精紳とを見ることが出来る︒この機智愛

の物語精神が︑やがて︑美しく贈き上げられて︑亭安末期には堤中納言物語に結晶

するのである︒その比類なぎ奇抜なる構想と︑軽妙酒落な描篤とに目を瞳り︑珠玉

の輝きをもっと激賞されるこの物語をして︑かく屯高く二軍せしめるものは︑これ

らの物語を書いた作春服に凝集したこの時代の物語精諦たる︑機智性の善きでなく

て何であったらう︒しかしそれらの検討は今は直接の目的ではない︒亭安歌壇を背

景として生れ猷た高歌が︑更にその周囲に全く同じ精沸をもつ交藝をめぐらしてみ

たことを瞥見し︑それが生れ出づべぎ必然的文藝環境をもつてみたこと︑更にそれ

が単に偶発的な現象ではなく︑すでに古事記においてその序曲が奏でられてみた︑

日本・の文藝精紳としての機智性が︑畢安朝といふ特殊な時代の世相を背景としてみ

がき上げられ︑こ玉に美しく実を結んだものであったことを語るにと睦めよ5︒

       ︵昭・二六︒七︶

参照

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