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俊惠の歌論

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Academic year: 2021

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俊惠の歌論

 中世歌論における幽玄美の成立は︑その二大支流にも警へられる      ︵1︶虚字︑基俊の二系列の綜合調和の上に行はれたことは既に述べた︒

今は︑幽玄美樹立に大きな功績を持つ俊頼の子俊恵の歌論を眺め︑

彼がどのやうに幽玄美を意識し︑その中核に迫ってみたかを明らか

にしょうと思ふ︒       ︵2︶ 俊恵の生殿は今日まで明らかにされてみない︒しかし︑彼の家集       ︵3︶﹁林葉和歌集﹂第三秋歌に右大臣家百首の月五首の一つとして︑

 此の世にて六十はなれぬ秋の月死出の山路もおもかはりすな

の歌が見えるところがら︑右大臣家百首の時六十才に達してみたこ

とがわかる︒ また︑ 寿永元年十一月に成った月詣和歌集に顕昭が      ︵4︶﹁俊恵法師に七十の賀をしてとらせ侍るとてよめる﹂

 ななぞぢに満ちぬる年をまちつけて千歳つむべきふなよそひせり

によって︑寿永元年には七十才に達してみたことは明らかである︒

これから逆算して行くと︑六十才の時の右大臣家百首は承安二年で

あり時の右大臣は九条兼実となる︒またその生年は永久元年で︑俊       ︵5︶頼は大治四年七十五才で超したとする説に従ふと︑父俊頼の五十九

才の晩年の子といふことになり︑さらに俊成より一才の年長であっ

たわけである︒俊恵の超年は明らかでない︒しかし︑無名抄の﹁歌       ︵6︶入は証得すべからざること﹂によると︑長明は﹁俊恵に和歌の師弟 の契結びしはじめの言葉に云﹂として︑ ﹁後徳大寺のおとどは︑左右なき手だれにていませしかど︑︵中略︶ そのかみ前大納言などきこえし時﹂とあるのは藤原実定で︑実定が大臣となったのは寿永二年以降であり︑.﹂2ゴロが俊恵の弟子長明に対する最初2口謹すると︑長明が俊恵に入門したのは俊恵七十一才︑長明三十二才以後と思はれる︒俊恵が歌合に名の見えるのは︑治承三年右大臣家歌合がもつとも新しく︵時に六十七才︶︑それ以後の現存歌合には名を見出すことができないが︑前述長明入門の記述と︑さらに無名抄﹁上旬おとれる秀歌﹂に﹁俊恵云︑歌は客意を思ひえたれども本末いひかなふることのかたきなり﹂として︑後端大寺左大臣の歌を引いて説       ︵8︶いてるるところの後徳大寺実定の左大臣拝聞︑文治五年七月から建久元年七月までの一ヶ年は彼の七十七才から七十八才にあたり︑これらの点から七十七︑八才まで生存したと思はれる︒この間︑大治四年俊恵十七才の時言俊頼は超したが︑林葉集によると花園の右大臣有仁の頃︑︵すなはち彼の十九才から二十四才︶の歌から見ることができ︑また︑永暦元年の清輔朝臣歌合︵四十八才︶を初めとして多くの歌合に活躍してみる︒東大寺の僧であったが︑白河わたりに      ︵9︶居を構へ歌林苑と称して歌詠み所にして当時の歌人が藻寄り︑殊に歌林苑で百首を十首つつ十座に詠み十座の百首と名づけ︑頼政︑顕昭︑俊成︑季経︑寂蓮︑清輔︑隆信︑など当代の代表的歌人などと      ︵u︶歌会を開き︑またこれらの歌入と貴紳の邸の歌合に顔を合はせた︒

俊恵は当時の歌薯おいても高い位置にあった.︑とは︑鱒名抄に

引いた俊成の﹁俊恵は当世の上手なり﹂によっても降せられ︑それ

でも﹁されど俊頼には猶をよびがたし︒︵申略︶今の世には︑頼政

こそいみじき上手なれ﹂と父俊頼の上に出るほどでなく︑俊頼なき

今は頼政の歌才がすぐ泊てるると評してみるが︑その頼政はまた︑      ︵13︶俊恵の歌才に頼るところがあった︒承安二年二月乃至同年十二月の

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(2)

一年足らずに成立し焦W︶と言はれる歌仙落書に当代の代表歌里二+

入の一入として俊恵の歌は六首載せられ︑﹁風体高くゲるはしきすぢ      ︵15︶也︒桜の盛なるとやいふべからむ︒﹂と極あて高く賞讃してあるし︑      ︵16︶・和歌色・葉上に名誉歌仙者として俊恵法師を挙げてみる︒長明も﹁今の世め入﹂は﹁幽玄体をまなぶことのいできたるなり﹂と幽玄体め

勃興したことをのべ︑幽玄体の上手として清輔︑頼政︑俊恵︑登蓮      ︵7︶を挙げてみる︒俊成を中心とする幽玄美の歌風樹立における俊恵の

地位の重要さを知ることができるであらう︒.現存歌合には俊恵が判

者となったものは見られないし︑歌論書も.ないが︑歌壇的な位置の

高いこと以上に︑彼の幽玄美についての見解は重要である︒以下彼

の歌論を見ようと思ふ︒

 俊恵の歌論前日といふものはない︒しかし彼の歌論は長明の著﹁長明無名抄﹂によって知ることができる︒長明は無名抄の至る所に﹁

俊恵云﹂として︑師俊恵の言を引いてみるが︑﹁俊恵画すがたを定む

る事﹂は俊恵の秀歌体に対する幽玄美との交渉を見る上にきはあて

重要である︒無名﹁抄は歌学大系本の解説に﹁見られるやうに︑その原

形は章段も切らず見出しもないものであったと言はれ︑伝本によっ

て章段の旬切りが異なってみる︒歌学大系解説に載せられた四種の

伝本の目録を比較しても︑この見出しは凡て出てみるが︑どこから

次の見出しになるかは異なる︒その事は俊恵の言はどこまで続いて

みるかといふことが問題となるのであるが︑この章の丈初の記述と

照応して考へると︑﹁新古今取事﹂或は﹁取古歌﹂の見出しの前まで

が俊恵の言と思はれる︒それはこれまでの引用歌はすべて千載集採

取歌以前のもめであること︑﹁よそにのみ﹂以下の歌の評が文初の俊

恵の秀歌に対する見解と一致してみること︑更に﹁新古今職事﹂は 定家の評が載せられ︑時代的にも合はないからである︒  俊恵はこの章におい・て秀歌を次の・如く規定した︒ 1︑たけたかくとほしろき歌 2︑いうに深くたをやかなる歌 3︑よくえんにす・ぐれぬる歌たけたかく遠白.き歌は父俊頼髄脳の﹁けだかく遠白きをひとつのこ    ︑︵Sl︶ととすべし﹂の展開であって︑この美意識は俊恵においては﹁ひとつのこと﹂として遠白し﹁を考へたのが︑俊恵においては﹁たけたかくとほしろき﹂は﹁よき歌の本﹂と考へるに至った︒大江心房の 白雲とみゆるにしるし三吉ののよしのの山の花盛かもを﹁これこそはよき歌の本とはおぼえ侍れ︒させる秀句もなく︑かざれる詞もなけれど︑すがたうるはしくきよげにいひくだして︑た      ︵19︶けたかくとほじろきなり﹂と右の歌を﹁よき歌の本﹂と言ひ︑そのよき歌たらしめてみるものがたけたかくとほじろき故であるとする      ︵2じ︶のである︒遠白体については既に究明せら加てるるところであり︑今はその美的内容に触れるまでもないが︑経信以来の﹁たけ高し﹂が率直且つ壮大な感情のある歌であるのに対し︑﹁とほじうし﹂もそれと同じやうな雄大な美の歌を言ってみる︒その内容は﹁姿うるはしく清げ﹂な感情が伴なひ︑﹁たとへば白き色の異なる匂ひもなけれど︑もろくの色にすぐれたるが如﹂き美で︑﹁ようつのこと極まりてかしこきは︑淡くすさまじきなり﹂といふやうに︑淡白にしてしかも雄大︑しかも優艶な情調め醸し出される自然の景象・の歌を﹁たけ高く遠白し﹂と最高の歌体に置いたのである︒この歌体は﹁ひともじもたがひなば︑あやしのこしおれになりぬべし︑いかにもさかひに入らずして︑よみいでがたきさまなり﹂と最高の歌境に悟入せずしては詠み得ない歌であったの・である︒

 俊恵がかつて俊成に︑俊成自詠の中でどの歌が勝れてみると思ふ

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(3)

かと尋ねたところ︑俊成は

 夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里      ︵21︶を︑﹁これをなん身にとりておもて歌と思ひ給ふる﹂と答へた︒そし

てその際︑世のあまねく賞讃してみる俊成の歌

 面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峯の白雲

をどう思ふかと尋ねたのに対し︑またこの歌は先の匡房の歌と相通

ずるもののある歌であるから︑俊恵自身︑匡房の歌と同様賞讃を惜しまない程に思ったであらうが︑俊成は﹁みつからは︑さきの歌に

はいひくらぶべからずとそ侍りしか﹂と答へて︑﹁夕されば﹂の歌を

すぐれてみるとした︒このことから考へると︑余情としての幽玄美

の象⁝徴内容であるところの︑たけ高し遠白しと心細し姿さびの二系

列のうち︑俊恵はやはり経信︑依頼の志向した前者の美の勝つた両

者の調和の上に幽玄美を考へたもののやうであり︑基俊の系統をつ

ぐ俊成は心細し︑姿さびに比重がかかってみたと言ひうるであらう︒

中世歌論における美意識としての幽玄は︑激すなはち︑美しさを旨

とするよりも︑さみしさを旨とするものであって︑さみしさ︑あは

れさといふ静寂感が次第に中心を占めて来る美であり︑殊に晩年の

妻を亡つた俊成の生活自体このやうな幽玄の実践ともいへるのであ

るが︑俊恵は﹁たけたかく︑遠白き﹂幽玄に志向することが強かっ

たのである︒

 だからこそこの章の次に俊恵は俊成のこの歌を難じて︑﹁身にしみ

てといふこしの良いみじく無念に覚ゆるなり﹂といひ︑なほ︑表現

技巧論の問題ではあるが︑﹁けしきをいひながして︑たゴそらに身に

しみけんかしと思はせたるこそ心にくくもいうにも﹂あるのであっ

て︑﹁さはくといひあらはし﹂すぎると︑﹁事浅く﹂なってしまふと

非難してをるのである︒次に挙げた俊恵の歌

 み吉野の山かき曇り雪降れば麓の里は打ち時雨つx の無名抄の個所を︑東大本︑内閣文庫本は﹁俊恵自讃歌﹂︑或は﹁俊恵秀歌﹂と見出しをつけてみるが︑これは決して正しい見出しのっけ方ではなく︑召月の言ふ﹁無計におもしろからずと見るほどに稽

       ・ ● ・ . ・    ︵22︶

古せよと有しなり︒げにも上手の目にては︼向手あさなる体なり﹂とあるやうに︑俊成が﹁夕されば﹂の歌を俊恵を目の前にして自讃したのに︑この歌を非難し︑俊恵は自詠の中から︑これと同様の非難にあたる同類の歌として挙げたのである︒ 歌に名所をとるにしても︑ よそにのみ見てややみなん葛城や高まの山の峯の白雲に対して︑﹁姿清げに遠白ければことにかなひて聞ゆ﹂と冒頭に提示したところにも︑彼の庶幾した最高の歌が遠白き景趣の歌であったことが知られるのである︒﹁遠白し﹂は壮大︑雄大な景観の自然と︑白雲とまがふ⁝峯の桜とか︑白雲の棚引く景趣が中心をなす︒しかも

﹁姿清げ﹂であり︑﹁姿うるはしく﹂なければならない︒ このやう      ︵23︶な美が長明にも引きつがれた︒その著螢玉集の冒頭に︑ ﹁此の道の

奥旨なる上に先師のいましめ殊におもし︑たやすく入に伝ふべから

ずといへり﹂とある上に︑無名抄より更に後に成ったもので︑その       ︵24︶完成に先立って示寂したと思はれるので︑長明の終世変らない共感

が述べられてみると考へなければならないであらう︒引歌の最初に

あげたものが︑

   ︑      ︵%︶

 白雲の見ゆるにしるしみ吉野の吉野山の花ざかりかも

であり︑ ﹁此歌深き心もこもらず︑異なる秀句もなく︑かざれる詞

も見えねども︑た父清げにうるはしく︑とどこほる所もなくいひく

だせる︑諸々の姿の申に優れたる体なり︒例へば五色の中に白色を

第一とするが如し︑殊なるにほひなけれど︑清くうるはしくして万

の色に優力たるなり︒彼君子の交りをつねにたとふるも︑きはまり

てかしこきは︑あはくすさまじき麗なるべし︒﹂

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(4)

と俊恵の言をそのまΣ忠実に祖述してみるのである︒無名抄に引い

たと同じやうに︑

 よそにのみ見てややみなむ葛城や高天の山の峯の白雲

の歌に対して︑ ﹁けだかく遠白き事︑例へば峯の桜の盛りに咲ける

が如し﹂と言ひ︑これを﹁これ如何にも歌にとり並べたる時︑優れ

て見ゆる徳あるべし﹂と︑最も優れた歌として﹁遠白き﹂歌を考へ

てるて︑

 春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらむ

の歌を﹁はじめの白色に似たれど︑是はいますこしたをやかにして︑

ひとつの姿を飾らざるにしもあらず﹂と︑遠白き歌よりも﹁たをや

か﹂な﹁飾れる﹂歌を低次の段階に置いてみることが明らかに知ら

れるのである︒

 以上のやうにして︑俊成幽玄美の特質はその行きつく所が︑静寂

な︑ひそやかな︑さみしい︑哀れな情趣の象徴されたものと成って

いく中で︑俊頼︑俊恵︑長明の系列はあくまで﹁たけたかく遠白き﹂

美の発展成熟に志向してみたことを知ることが出来るであらう︒

 遠白き美に次ぐものは﹁いうに深くたをやか﹂な美であり︑ ﹁よ

くえんにすぐれぬる﹂美であった︒

 心あらん人に見せばや津の国の難波わたりの葎の景色を      ︵%︶を﹁かぎりなく遠白くなどはあらねど︑いうに深くたをやかなり﹂

と言ひ︑優艶な美は古今以来の伝統で︑あらゆる歌は優艶であり︑

あはれあるものでなければならないことは論をまたない︒しかし優

艶だけの歌は俊恵において最高の段階におくことは出来ないとする      ガ のである︒だから﹁照射する﹂の歌を﹁ことぼつかひやさしければ﹂

といふ点から見所ある歌として考へ︑先に引いた俊成の﹁夕さカば﹂      ︵2︶の歌を﹁ものさびしきかたなるによりその見所を考へてるても︑決

して﹁遠白き﹂歌に及ぶものとはしてみないのである︒  しかし﹁たけたかく遠白き﹂歌は自然の景象を対象とする歌に見られるもので︑入事を対象とするものには﹁えん﹂とか﹁いう﹂なる美が中心となるもので︑俊恵は故左京大夫顕輔が詞花集の恋の歌の中で﹁おもて歌﹂として 忘らるN誉めばかりを難きにて恋しきことのなからましかばを挙げたのに対し︑歌丁丁の中から      ︵29︶一夜とてよかれし床の小莚にやがても塵の積りぬるかなを挙げてみるところを見ると︑ ﹁よき女のうらめしき事あれど︑言葉にはあらはさず︑ふかくしのびたるけしきさよなどほのくみつけたるは︑詞をつくして恨み袖をしぼりて見せんよりも心ぐるしう      ︵︐3︶あはれも深かるべきがごとし﹂といふ長明の言のやうな余情の歌であって︑幽玄体としての恋の歌はこのやうなものでなければならな       ︵31︶いとしてるたのである︒ ﹁歌は花蓮を先とす﹂といふ俊恵の言はもっともであらう︒﹁たけ高く遠白き﹂歌にしても︑﹁いうなる﹂﹁えんなる﹂歌にして

も︑それらの歌は﹁景気﹂﹁面影﹂が添うてみるのである︒俊成の幽

玄が事理を底ひ残すところに醸し出す余情と︑詠の声に匂ひ出る晋      ︵32︶楽的な情調の上に成立することと︑この幽玄美の要素的なものとし

て﹁景気﹂と﹁面影﹂があることが重大な要件となってみなければ

ならな縣幽とは︑周知の通りであるが︑俊成においては景気と面影      ︵4のD︶とを殆ど同義語として用ひてみるのに対し︑﹁景気の浮かべる﹂歌は

浮文の織物にたとへ︑ ほのぐと明石の浦の朝霧に島かくれゆく舟をしそ思ふ      ︵35︶の歌において読者に印象せられる﹁けしき室に浮かぶ﹂︑ 淡くほの

かな視覚的な自然景象の表象せられるもののあるのを言ひ︑面影は

 思ひかね妹がりゆけば冬の夜の河風寒み千鳥なくなり       ︵36︶の歌にみられる鮮明な﹁さむくなる﹂やうな自然景象の直観的に迫

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(5)

       ︵hご0︶るものをさしてみる︒この見解は長明にも継承せられ︑﹁思ひかね﹂

の歌や 雲はみな払ひはてたる秋風を松に残して月を見るかな

を﹁うち聞くに面影浮かびてさし向ひ見る心地する﹂と面影ある歌

を一層明瞭に説明し︑また

 昨日だにとはむと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり

を﹁景気浅からず︑たとへぼ秋の夕暮の塞の景色は︑色もなく声も

なし︑何処に如何なる故あるべしとも見えねども︑心にあはれ深く

涙おつるが如し﹂と微荘と漂ふ自然の景趣の直観的に表象せられる

ものが景気ある歌であることを︑ 一層詳細に祖述してみるのである︒

 以上のやうな俊恵の志向する美の実現する歌はどのやうにして生      ︵号の0︶まれるのであらうか︒まつ第一に︑歌は﹁初心のごとく案じ﹂なけ

ればならない︒そして︑時には﹁苦心をつぎにして︑あやしけれど︑       ︵00︶入のほめもそしりもするを用ひる﹂ことも必要である︒歌はもちろ

ん自然人生に対する情感︑すなはち歌心から出発するのであるが︑        ︵嚇︶﹁いたく案じすぐし﹂てはならないのであって︑ ﹁心にいたく思ふ      ︵41︶ことになりぬれば︑おのつから歌はよまるる﹂ものである︒仁和寺

の淡路阿闘梨といふ人の﹁いもうとの許なりけるなま女房﹂が﹁い       ︵42︶たく世をわびて詠ん﹂だ歌 みのうさを瓜ひし時は冬の夜もとどこほらぬは涙なりけり

は歌入でなかったので︑外に歌はないが︑唯思ふあまりを﹁おのつから﹂口ずさんだのが良い歌乏成ったのであると言ってみる︒この

やうに歌を詠まうといふ心さへあれば︑ ﹁風情はおのつからいで来

るも殊鰯︶で︑ ﹁おのつからよりくることを︑やすらかに言へるが︑ ︵4︶秀歌﹂であるとしたのは︑歌における最も根源的な創作心理として の︑自然入生に対する素直な感動と︑その感動をいたはりながらの言語表現の本道を的確に述べたものと言へるであらう︒この見解は定家にも引きつがれ︑ ﹁俊恵はたゴ歌はおさなかれと申して︑やが      ︵35︶て三蓋にも︑其の姿歌を秀逸とは思ひたりげに候けるとかや﹂︑と述べてみる︒長明の歌 時雨には難窪くもれし松の色を降りかへてけりけさの初雪を俊恵は難じて︑たゴ﹁つれなくみえし﹂と言ふべきである︒ ﹁あ       ︵46︶まりわりなくわかせる﹂と返って耳とまると言ひし点や︑ ﹁大かた      ︵74︶いうなる心詞なれど︑わざと求めたるやうに見ゆる﹂のは﹁歌にとりて失とすべき﹂であるとしたのは︑傾聴すべき見解であらう︒ それだからと言って言葉の選択をおろそかにして良いと言ふのではなく︑感動の在るがまNに最も的確な言葉を見出さなけ加ばならないのであって︑遍昭僧正の歌 垂乳根はかxれとてしもむば玉の我が黒髪を撫でずやありけんを長明に﹁いつれの詞かすぐれたる﹂と尋ねたのに対し︑長明はいみじくも答へたのであるが︑俊恵は﹁とてしも﹂の四釣餌は装束の半舷のやうに︑ ﹁必ず品となりて姿を飾る﹂もので︑これによって姿に花麗が加はり︑おのつから余情が生ずる︒ここの所を知ること       ︵R4︶が﹁さかひに入る﹂のであると教へてるる︒ 以上のやうに俊恵は経信︑俊頼の系列の発展の上に﹁たけ高く遠白き﹂歌の美的理念を確立し︑これがさらに長明に継承され︑幽玄美の美意識構成の重要.な骨格を形作るものとして︑歌論史上高い地位を与へなければならないであらう︒      三一︑ =一︑一一〇

① 長崎大堂・学芸学麗人文科学研究報告第五号および第六号拙稿︒

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② 日本文学大辞典﹁俊恵﹂の﹁生彊﹂未詳とある︒

③類従本第十輯五六頁σ

④続類従第十四輯上︑月詣和歌集九二頁︒

⑤国語と国文学昭和M年6月︑宇佐美喜三八氏﹁源山送伝について﹂︒

⑥日本歌学大系第三巻二九九頁︒

⑦長明の喪年を建保元年六十二才説による︒

⑧⑥の二九五頁︒

⑨ 藤原隆信朝臣二重雑毛︑類従本第九輯九二一頁︑⑩の七五八頁︒

⑩類従本第十輯無名秘抄七七四頁︑隆信定長一心事︒

⑪類従本第九輯︑従三位頼政卿集五二四頁その他私家集に歌林苑を詞書

 にした歌が多い︒

⑫⑩の七七二頁︑俊成入道物語事︒

⑬⑩の七五七頁︑頼政歌俊恵撰事︒

⑭日本歌学大系第二巻﹁歌仙落書﹂の解説︒

⑮歌仙落書︑類従本第十輯七二五頁︒

⑯和歌色葉︑母本歌学大系第三巻一四〇頁︒

⑰⑩の七七九頁︒

⑲ 長崎大学学芸学部入文科学研究報告第五号拙稿︒

⑲歌学大系本無名抄三=二頁︒

⑳橋本進吉氏﹁遠白し考﹂奈良文化第六号︒

⑳ 類従本第十輯無名秘抄七七三頁︒

⑳ 兼載雑談︑類従本第十輯九〇三頁︒圏点は筆者︑ ﹁事浅く﹂と対照さ

 れたし︒

  螢玉集︑歌学大系第三巻二七頁︒

⑳ 右の螢玉集解説による︒

⑳ 白雲の︑は類従本無名秘抄には︑白雲ととあり︑また︑歌学大系無名

 抄には︑白雲と見ゆるにそしるし︑とある︒

⑳無名秘抄︑類従本十輯七八三頁︒

⑳ 同七八四頁︒

同右︒

同七七〇頁︒

同七八二頁︒

同七五五頁︒

慈鎮和尚自歌合︑十禅師十五番俊成判詞︑類従本八輯一〇六四頁︒

同︒六百番歌合︑春十七番右歌俊成判詞︒

後京極殿御自歌合︑類従本八輯一〇七三頁︑春コニ番重言︒

前掲無名秘抄七八二頁︒

同七八三頁︒

螢玉集︑歌学大系三巻三二三頁︒

前掲無名秘抄七七一頁︒

同︒

同七六九頁︒

同七七一頁︒

同︒

同七六九頁︒

同七八三頁︒

毎月抄︑岩波丈庫中世歌論集一七七頁︒

前掲無名秘抄七七一頁︒

同七八三頁︒

同七六七頁︒

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参照

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