東歌における非現実性
渡
部
和
雄
東国の歌に﹁相聞︵往来︶﹂などと分類したのは万葉集の編者そ
の人であった︒この分類が先行の巻の分類を三十四にも持ち来たし
たものであることは言うまでもない︒それは未分化のものを分化し
混沌を純化する知的作業ではあったが︑その結果として存在するか
かる雑・相・讐・防・挽の分類は︑防人歌は特別として︑必ずしも
東国の歌に妥当なものであるかどうかは判るまい︒巻十四を統括す
る﹁東歌﹂という標目は異例であるが︑その東歌と相聞︵往来︶は
また一種の矛盾でもあろう︒この標目﹁東歌﹂を巻頭五首だと考え
た判断力には確かに何かがあったし︑と共にこの五首に﹁雑歌﹂と
置かなかったであろう編集者にもまた微妙な心理が存在したのかも
知れない︒東国の歌には部立も︑部立的発想も本来存在しなかった
のは勿論である︒しかし万葉集巻十四には部立は存在しなければならない︒万葉集巻十四と東歌の合一体には微妙な異質の重なりがあ
る︒決して﹁巻第十四東歌﹂といった単純なものではない︒或は﹁
巻第十四東歌﹂といった場合には︑当然種々の疑問を含んでいるま
まに受取ってしまったことになるだろう︒東歌は﹁万葉集巻第十四
﹂以前にその本然の姿がある︒そうした東歌の原質は一体何である
か︒或は東歌をその内奥で統べているものは一体何なのか︒
二 手児の呼坂越えかねて
東歌における非現実性︵渡部︶ 東歌の未勘国歌に 三四四二 東路の手児の呼坂越えかねて山にか寝むも宿りはなし にという一首がある︒この歌を基にして山田弘通氏に﹁万葉集の足柄越え﹂という論考がある︒これは﹁手児の呼坂﹂を足柄にあるものとして︑そのコースを詳細に検討されたものである︒即ち小田原市北郊﹁多胡﹂一久野i舟原一宮城野一碓氷峠−仙石原一乙女峠−御殿場付近の横走駅に出るというコースであって︑これを足柄越えの古道とされる訳である︒ この論考の基礎になっているのは﹁東路の三児の呼坂越えかねて﹂の三句までは条件を示していて︑即ち足柄越えが一日の行程に余って︑ ﹁山にか寝むも宿りはなしに﹂という結果になるという作歌構成である︑と受け取る点である︒事実︑従来の新出︑煽動評説はそれによって否定される︒この条件を固執する限り︑この歌は︑その結果としての﹁山にか寝むも宿りはなしに﹂に主意が置かれてくるのは当然である︒以上のような環境︑地点に作者は〃現在は山の途中で︑此処に泊るのかなあ︑宿もないにと悩んでいる︑その風流的硫化が右の一首であるということになる︒言わばこれは﹁羅上作﹂ということになるだろう︒しかし東歌には﹁羅旅﹂という部立は勿論存在しないし︑本質的に羅旅の拝情といった趣の歌は存在しないのではないか︒只︑東歌中︑人麿歌集との類似歌には﹁羅旅作﹂
一五
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一八号
とみられそうなものがある︒三四八一 ﹁あり衣のさゑさゑしづみ
家の妹に物言はず来にて思い苦しも︑柿・本朝臣人品の歌集の中に出
づ︑上に見えたり︒﹂などは東歌と人麿歌集との関係の問題も含め
別稿を用意しなければならない所ではあろう︒
さて問題の歌は上三句が条件句で︑下二句に羅旅的拝情が結集す
るような趣向の歌ではなく︑却って上三句﹁東路の手児の呼坂越え
かね﹂る︑という単純な一般性︑或は習俗性の表明が主意の歌では
なかったかと思われる︒越えかねているからそこが動けない︒泊る
という︑下絶句は単なる派生にすぎない︒言わば﹁山にか寝むも宿
りはなしに﹂は﹁東路の手児の呼坂越えかね﹂るという根幹から派
生的に出来上ったイメージではないか︒
東海道足柄越えが一日の行程に余るなら︑それは千古の事実であ
るから︑適当な場所に宿泊場所もあり得︑出発の時刻の考慮もあり
得るだろうし︑野宿してもそれだげの心身の準備はあったろう︒防
人歌では旅への修飾に﹁草枕﹂を使っている︒草を枕にする旅など
修辞の中でしか︑伝説的︑客観的にしか文学には登場していない︒
改めて︑旅行者に︑山中の宿泊が掃情化されるような東国の現実で
はなかったと思われる︒
越えかねるのは距離によるのみではない︒決定的な要因が他にな
にかあったのではないか︒それは距離によるものではないから心に
痛切であったのではないか︒ ﹁手筆﹂ ﹁呼坂﹂ ﹁足柄のみ坂﹂などはもっと別な意味︑東歌独特の意味を持って一首を支えているので
はなかろうか︒そのことは次に述べるようなことから理解されよう︒三三八四 葛飾の真間の手製奈をまことかも吾に寄すとふ洋間の手 至仁を 千葉
三三八五 葛飾の真平の手選挙がみりしはか塁間の磯辺に波もとど 一一六
うに 千葉
三三九八 人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手生が言な絶そね
長野
三四八五 剣刀身に副ふ妹をとり見がね実をぞ泣きつる手児にあら
なくに三五四〇 さわたりの手児にい行き逢ひ赤駒が足掻きを速み言問は ず来ぬ 群馬か
三四四二 東路の手甲の黒戸越えかねて山にか寝むも宿りはなしに
三四七七 東路の手児の戸坂越えて去なば我は恋ひむな後は逢ひぬ
とも
以上の東歌をみると
手車奈 三例二首
窯場 三例三首
手遅の呼坂 二例二首
がみられ︑他にも
呼坂 山口県熊毛郡高水駅附近
などがあるそうである︒
こうしてみると︑ ﹁手児﹂ ﹁手児の呼坂﹂などは相当広範囲に渡
って認識されていたであろう普通名詞であり得たことが判る︒それ
が東国からの代表的峠である足柄に一つ定着する可能性は有り得
る︒だから関東地方の人々にとっては足柄峠と︑その一種の象徴の
ような手事の呼号が郷土からの別離ということに関して︑強烈な意
識で存在していたであろう︒関東人には﹁東路の手彫の呼坂越えか
ね﹂るという一般感情が言わば先験的に染み渡っていたと思われる
三四七七 ﹁東路の手児の呼坂越えて去なば我は恋ひむな﹂という歌には︑此処が東国と︑郷里と︑家族と︑恋人と︑そうした諸々の
様相をすべて含んだ別離の限界点であったという内容がはっきりと
示されているのではなかろうか︒此処には﹁東路の手児の呼坂﹂の
イメージによって引き起される確実な反応があり︑しかも﹁越えて去なば﹂⁝⁝﹁我は恋ひむな﹂という仮定条件と推量的対応はこの
歌の待つ意識が特定の個人の採惰ではなく︑もっと広がりを持つらしいことを示していよう︒終句﹁後は逢ひぬとも﹂にみられる肯定
性はそうした伝統的︑慣習的意識から来る当然さである︒
防人歌に次のような歌がある︒
四四二三 足柄のみ坂に尽して袖振らば聖なる妹はさやに見もかも
右一首埼玉郡上丁藤原部等母麻呂
四四二四 色深く背なが衣は染めましをみ坂たばらばまさやかに見
む
右一首妻物部刀自売
埼玉郡からこうした発想が可能であるのは︑右に述べたように︑足
柄のみ坂に関して︑縦にも横にも伝統的︑或は慣習的意識が存在し
ていたということを抜きにしては考えられないし︑この非現実を一
首に構築し得たのは︑その伝統と慣習的意識が相当に強いものであ
ったことを示していよう︒ということはこの二首は殆ど外側から︑
個人の名を借りて︑成立した発想に基づくものであることが推測さ
れる︒ 以上のような理由で︑三四四二の歌における比重が﹁東路の手児
の呼坂越えかね﹂るにあったことはほぼ間違いのないことと言って
よいのではなかろうか︒隣りの家に行っても帰りかねて泊ることが
あり得る︒距離に関係なしに手軽の呼坂を越えかねることは可能で
ある︒むしろその方が越えかねることの本質的感情であろう︒或は
足柄峠とは東国人にとってそうした意味を持つ山であったのだ︑と
東歌における非現実性︵渡部︶ 言った方がよいのかも知れない︒ 勿論︑私は﹁万葉集の足柄越え﹂の論証の正しさを疑うものではない︒ただ上三句の条件を基礎として︑それがある結果に︑実質的に凝集されるように論究されるべき趣を︑この歌は持っていないのではないかと言うことである︒考証的正確さと東歌の文学的在り様とは必ずしもぴたりと一致しないのではないかと感じられる︒ こうして上三句に主意があるとすれば︑この主意は各地に拡散して存在し︑共通に受け取られていた意識であって︑云わば﹁手児の呼坂越えかねて﹂は既定の事実のようなものであった︒一回的な偶発事ではない︒三三五六 富士の嶺のいや遠長き山路をも妹許とへばけによばず来 ぬの歌について田辺幸雄氏は﹃万葉集東歌﹄で﹁この道の長さとそれ故の息苦しさとはすべての通過者の味わうところであり︑それがこの地方の話題になっている︒⁝⁝その話の種がたまたま恋の歌と結びついて︑街道の民謡としてのこの歌が成立するのである︒﹂と言われている︒とすれば︑上三句は伝統的︑習俗的に既定の事実である︒従って下二野も一回的事実を歌っている訳ではない︒富士の裾の︑行っても行っても遠長い山路をお前の所にというので苦労も感じないでやって来たとストレートに訳するには少し異質なのである︒
﹁妹許とへばけによばず来ぬ﹂という個人は具体的には存在しなく
てもよいだろう︒
さて三四四二の歌も右と同趣向とみられる◎既定の事実であるほ
どの主意︑この上三句から作者或は歌上げによって作り上げられた
イメージの現像されたものが下鼠算である︒この﹁山にか寝むも宿
りはなしに﹂という悲劇的ヒーローは歌上げによって集団に歌いか
一七
長崎大学教育学部入文科学研究報告 第一八号
けられ︑集団に受け取られ︑客観化︑相対化されて︑つまり上三句
が持っていると同じ一般性にまで薄められて︑恋のために立ち去り
得ず︑山の中でゴソゴソ野宿するピエロに変貌する︒恋に裏打ちさ
れた焦る滑稽さが集団の中に醸成される︒この滑稽には純情とペー
ソスが分ち難く融合している︒本質的なユーモアと言えるかも知れ
ない︒ 作者或は歌上げのイメージが現像されたものだったのだから︑こ
の映像には被写体がない︒しかしこのイメージ︑或は現像された道
化は上三句に拠るものであったから︑集団性に同質である︒歌って
いるものと歌われているものは同一人である訳である︒防人歌では
この滑稽さが消失する︒
かくしてこの歌はコースの正確さを求めるべく発想されてはいな
い︒もっと不正確なのである︒その不正確さは埼玉郡の妹に向かっ
て足柄峠で袖振ると同じ位の不正確さなのである︒足柄のみ坂︑そ
こが﹁手児の呼坂﹂であってもよいだろうが︑それと関わりなしに︑こうした関東地方からの別離の限界点と︑そこにおける袖振行事
の慣習があれば︑その基盤に立って︑これらの歌はそれ自体の生命
を持ち得るのである︒そうした点からは碓氷峠の場合も同じであろ
う︒碓氷の山で﹁柔なのが袖もさやに振らしつ﹂といっても︑あの
深木立の山中では殆ど何処にも見える訳はないだろう︒此処もそうした具体性ではない︒矢張り関東地方からの代表的別離の限界点碓
氷峠と袖振慣習の伝統があればよかったのである︒
要するに東歌はもっと拡散した︑言わば民衆的︑或は民謡的性質
を持つものではなかったかと思われる︒或はこうなれば﹁東路の手
児の呼坂﹂は足柄峠などと限定する必要は殆どなくなってくるだろ
う︒何処にでも﹁蚕児の呼坂﹂は蘇生するのであり︑人々は﹁東路 一八
の手児の呼坂﹂の中に︑かくべつ足柄などという現実感を持たず︑
単に東路の﹁手締の呼野﹂と夫々勝手に︑或は集団毎に異なって享
受していたかも知れない︒そうしたものが温言国歌﹁東路の手児の
呼坂﹂の本領かも知れない︒以上はすべて東側からの見方であるが
東路は本来西側からの呼称であろうから︑この歌は都人の発想でもかまわない︒誼音はなし︑普通名詞﹁手児の呼坂﹂があれば︑こう
した作歌は難しいことではなかったろう︒
一首の東歌を右のように受け取って来て︑一体そうしたことは他
の歌にも及ぼせるものかどうか︑それを見て行きたい︒東歌は他の
巻︑個人の心情に静もる十一や十二などと違って一対一の直対︑或
は呼び掛けの趣を持つものがある︒この場合の一対一の対応という
のは歌いかける主体と対者が同一の場面に居合わせることを指して
いる︒そして事実︑江戸時代の国学者が訳したように一対一の対応
があれば︑それは右にのべた東歌の性質に反し︑歌の拡散性︑集団
性は認められない訳になるだろう︒
三 ﹁この児﹂はどの二
三四四〇 この河に朝菜洗ふ児汝も吾もよちをぞ持てるいで児賜り
にこの歌には語句の解釈に少し問題はありそうだが︑暫くそれを
措いて︑今﹃全註釈﹄の解釈文を次にあげてみよう︒
この川で朝菜を洗っている御方︑あなたもわたしも︑子どもを
持っています︒さあその子をいただきに行こう︒
このように﹁朝菜洗ふ児﹂を﹁朝菜を洗っている御方﹂としている
が︑ ﹁児﹂は一般的には若い女︑殆ど妹などと同様な意味に用いら
れているようだから﹁御方﹂ではイメージに迷いが生じよう︒
勿論﹃全註釈﹄でもそのことは気にしながらも︑種々の配慮の上で
﹁御方﹂としている訳である︒ ﹃古義﹄ではそこの所を既に﹁家の
前わたりの川に出居て︑朝菜洗ふ折しも︑隣きあたりの家よりも︑母と女と出て︑同じく朝菜洗ふを見て︑いで一その女子吾に賜
れ︑吾男子のよき配なれば︑あはせてむぞ︑と云るなるべし︒上の
児はその母をさし︑.下の児は女子を伐りしと写実的に解釈し︑従っ
て合理的な見方をしている︒ ﹁児﹂が﹁御方﹂になったり︑上下の
﹁児﹂が母と女に分れたりはとにかくとして︑こうした解釈からみ
ると︑いずれにしてもこの歌は﹁我﹂と﹁汝﹂の関係を現わしてい
るには違いない︒こうして一応はこの歌など典型的な対応する二者
間の歌とみることが出来よう︒
現在の状態でみると︑各家には夫々川端というものがある︒川から離れている家でも使用する川端は決まっている︒これは川のほと
りの意味よりは限定されて︑各家には付属してあるものである︒水
神を杞るのもその場に断てである︒足場が築かれていて洗い物︑水
汲みなどに使用される︒そうした場で児が朝菜を洗っている︒それ
に対する我は川の反対側にいるとみる方がよい︒そして児に向かっ
て呼びかけている状態である︒
ところでこの歌は︑我と汝の︑右のような状態における具体的な
一対一の対応を示すものであろうか︒目の前に川が流れている︒そ
の余り広いはずもない向う岸に汝が朝食用の菜を洗っている︒その
汝に向かって我が﹁この川に朝菜洗ふ児﹂よ︑は何としても変では
ないか︒少くとも︑そうした状況の下で︑この川で朝菜を洗ってい
るお前さんという呼びかけは通常ではあるまい︒この修飾はお前という所謂対称にかかるには大げさすぎよう︒まして汝を﹁児﹂に戻してみた場合︑児は一般的な人称代名詞ではないから︑呼び掛けか
らは少し外れて存在することになろう︒即ち児はこの呼び掛けに対
東歌における非現実性︵渡部︶ して無反応であることが出来るものである︒この﹁児﹂はもっと客観的であり︑修飾され︑説明された︑言わば呼び掛ける主体とは隔たった存在である︒また﹁この川﹂は目前に存在し︑対話における場︑環境である︒こうした環境は対話における基礎条件となっていて︑対話はそれを含んだ上に成立してくるものであり︑右のような説明は多くの場合︑後ろに押しやられ︑顔を出さないものとなっている︒とすれば上二句のこうした説明というのは︑逆にまたこうした説明が必要であったということは︑この歌がそうした現場からは離れた場所で︑しかも右様なこととは趣を異にした対応の歌ではなかったかと推測される︒即ちこの歌は川を挾んでの我と汝の叫対一の対応などを示してはいないことになる︒修飾され︑説明されてある﹁児﹂というのは実は︑その説明されてある環境を持って歩くのではないか︒児のいる所に川が出来るのではないか︒ そこに対称
﹁汝﹂が﹁児﹂に変貌している秘密があるのではないか︒
万葉巻頭の歌に
籠もよみ籠もち ふ串もよみふ串もち 此の岡に菜摘ます児
というのがある︒ ﹁この岡に菜摘ます児﹂に語り︑かける︑或は歌い
掛けるのは右の東歌に似ている︒その上︑此処ではもっと説明が細
かいσ ﹁児﹂は既に籠を持ち︑串を持ち︑この岡に菜を摘んでいる
のである︒これらは児への修飾であり︑児の持つ条件である︒対話
においては環境である︒だからその児に語りかけるのにこの環境の
説明は不必要であること前者と同趣である︒
この歌を演劇的なものの科白︑詞章のように解する見方は否定出
来ないのではないか︒自然そのものである現場からは離れた所で歌われたものではないか︒そこは岡ではない︑故に﹁この岡﹂なので
ある︒ ﹁児﹂は実際には菜など摘んではいない︒だから﹁児﹂には
一,
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一八号
これだけの修飾︑説明の必要があったものとみられる︒天皇が乙女
に向かっての素朴で単純な一対一の対応とは趣を異にする︒東歌三
四四四﹁際付の岡の茎韮我摘めど籠にもみたなふ﹂の歌について︑
矢張り女は韮など摘んでいないこと︑現在︑女もいる歌謡集団の中
に際付の岡のイメージが構成されることなどについて︑既に私は述
べたことがある︒
また記四四︑紀三五に
いざ子ども 野蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道の
という歌もある︒ ﹁いざ子ども﹂という呼びかけは前二者に似てい
るだろう︒そしてまた﹁わが行く道﹂にかかる修飾︑説明が客観性
を持つことは容易に看取出来る︒言わば此処でもまた演劇性がみら
れるだろう︒わがゆく﹁道﹂は自然の道ではなく︑全体も一回性の
現実を歌ったものではないだろう︒こうして三四四〇﹁この川﹂も
現実の川ではないし︑汝と我との対応も一対一の現実的一回性を意
味しているものではないことになろう︒このような説明の存在は先
にのべたように自ら一対一の現実であることを拒否し︑歌の場の移
動を示していよう︒そこで第三者︑集団への説明︑或は共有事項として提示される訳で︑その場を現実めかして構築するために﹁この
川﹂ ﹁朝菜﹂などの素材が用意される訳である︒演劇における書割
に相当する︒
先に﹁児﹂が御方に変わった奇妙さについて触れたが︑実は現実
的一回性の﹁汝﹂がこの二次的構成の場で︑逆に﹁児﹂に変わって
来たのかも知れない︒そこでは﹁児﹂ ︵若い女︶もいる集団に向か
って歌いかけることになる︒歌謡の場では呼びかけの対象は臨機応
変であろう︒現実的には﹁汝﹂の如き二人称であったのが︑7この場
で目の前の﹁児﹂に言い替えられるということも有り得たろう︒ 二〇
この二次的構成の場で︑或は全く別な意味をもってこの歌が歌わ
れたのかも知れない︒ ﹁余知﹂を隠語とする見方がある︒その可能
性は充分あり得ると考えてよいだろう︒ ﹁児﹂は妹と同様若い女を
指し︑ ﹁威令の子を持つ親をさして﹃児﹄といった例はない﹂ ︵加
藤静雄﹁美夫馬指﹂6︶から︑その児に﹁汝も我も﹂同年輩の子を持
っている︑その子を頂きに行こうは変であり︑旧注疑っている所で
ある︒隠語とすれば︑対岸から川端に菜を洗っている女に︑その余
知を口に出して言いかけることは大いに有り得る︒菜は朝菜でなけ
ればならないだろう︒女はまだ労働の仕度をしていないのである︒
静かな川面なら白い肢体が水に映る︒川端とはそうした場である︒
ある女ばう河へせんたくせんとて行けるが︑何としてか︑女のさ
ねを大きなるかにがはさみて︑なにとしてもはなさず⁝⁝⁝
などという文もあるそうだ︒時代は移っても民衆の享受する所は似
ていたろう︒二次的現実の場︵民謡の場︶で若い女も多い集団に歌
いかける歌である︒隠語﹁即知﹂が持って来られる必然性は︑川で
朝菜を洗う若い女のしゃがんだ姿態︑そうした事実による︒否﹁この川に朝菜洗ふ話しと持って来たら隠語以外に来るものがないほど
である︒しかしこの歌はその事実の一回性を歌ったものではない︒
三四三九 鈴が音の早馬駅の堤起の水を賜へは妹が工手よ
この歌にしても一対一の対応的な解釈が一般にとられる訳である
けれども︑それにしては修飾説明の比重が大きすぎる︒一対一の実
用的関係なら﹁水を賜へな﹂ ﹁妹よ﹂でよいだろう︒ ﹃全註釈﹄に
﹁イモは︑その駅舎にいる女を呼んでいる︒﹂とある︒その女に﹁
鈴が音の早馬駅の堤井の水﹂をいただきたい︑とは一体どんなこと
か︒また妹に向き合ってい−るのに︑その直隠以外どんなも.のがあり
うるか︒上三句は殆ど不必要なのである︒この余計な三句が実は実
用から歌への条件になっている︒修飾三句が文学への媒介となり︑
一対一の対応から他の環境への移動を示している︒この歌は駅とは
直接関係ない所で歌われ︑従って写実的一回性は消失する︒
三四四五 水門の葦が中なる玉小菅刈り来わが背子床のへだしに
も妻が夫に呼びかける歌ではあるまい︒そうした実用的一回性は歌
にならない︒﹁玉小菅﹂という美称もそうした場合に相応しくな
い︒此処は﹁床のへだし﹂というものに集団の共感と笑いを含めて
いる歌いかけである︒男が歌って何らかまわない︒内容が一般的に
解放されてあり︑男が歌うことによって共感と笑いは本物になる︒
こうして﹁児﹂も﹁妹﹂も﹁背﹂も特定の個人を指すものでないと
したら︑ ﹁その﹂にしても︑ ﹁この﹂にしても特定の対象を指すよ
うな代名詞ではなくなってこよう︒
三三八六 鳴鳥の葛飾早稲をにへすともその愛しきを外に立てめや
も この歌も︑諸註釈にあるような﹁愛しき﹂に向かっての歌いかけ
ではあるまい︒ ﹁嶋鳥の葛飾早稲をにへすとも﹂は集団に向かって
歌いかけられる︒歌いかけは一般的に仮定条件でもって行われる︒
歌上げは女の立場に立つ︒女は葛飾早稲を神に供えている状態であ
る︒その女から﹁その愛しきを外に立てめやも﹂と出る訳であるが
﹁その﹂は客観的︑距離的であって︑特定の愛人を直接に指しては
いないだろう︒これは歌上げが女の立場に於て男に対するからである︒即ち歌上げは女の環境を説明し︑その女の立場において発想し
ようとするから客観的︑距離的﹁その﹂愛しき人が出来上ってしま
う訳である︒第三者によって一般化され︑個性が喪失しているから
﹁その愛しき﹂は集団に素直に入って行く︒女が家の中で︑外の男
に歌いかけている写実性よりはリーダーによって再構成されたイメ
東歌における非現実性︵渡部︶ ージであるσ多分︑夜の︑乏しい燃規の︑黄色な光の空間に創造された幻覚なのであろう︒ ﹁その﹂は特殊でありながら一般的でもあり︑歌上げの男による︑女の口を借りた︑男への告発でもある︒三四六〇﹁誰そこの屋の戸押そぶる新嘗にわが背を遣りて斎ふこの戸をしも同様である︒誰も戸などをガタガタ揺すってはいない︒こうした発想が単独で成立してくることはないであろう︒集団に男が歌う時︑この告発は一層効果的である︒新嘗神事を前提とし︑集団の前に相対化された恋の主人公が︑女だけ籠っている家の戸をガタガタ揺すっている︒なんと見事な滑穣さのイメージではないか︒三三七三 多摩川に晒す手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛し き この歌における﹁この児﹂は一体どの児なのであろうか︒上三句は所謂序であって︑我妹︑或は﹁寝れど飽かぬ﹂位の意味の主なのであろうか︒この部分の諸註釈を上げてみると︑ ﹃大系﹄どうしてこの子が﹃註釈﹄ 〃どうしてこの子の ﹃私註﹄ 〃どうしてか此の処女がなどであって︑ ﹁この児﹂は自明のことのように取り扱っている︒﹃全註釈﹄には〃どうしてこの子がと同じであるが︑その説明に﹁手作りの布をさらしている娘子﹂とある︒序と歌の内容が一致している訳である︒さらに﹃私註﹄では﹁調布の製織洗曝に際しての労働歌として成立したものであろう︒音調だけを主とした民謡である︒﹂と説いている︒此処までくると﹁この﹂という一回的現実性は失われ︑従って特定の対象を指すことはなくなる︒或は集団の人数ほど﹁こめ児﹂がいてもよい訳であろう︒
四七は何どか思ふ
さて右にのべたことを基礎にしてみたような場合
二一
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一八号
三四九四 子持山若かへるでの黄葉まで寝もと我は思ふ汝は何どか
思ふなどという歌の享受の仕方が多少とも変わって来ざるを得なくなる
のではなかろうか︒この歌は﹁我﹂と﹁汝﹂の直対的な関係ではな
いことになり︑この性愛の讃歌は対応する男女の要求の激しさに特
徴があるだろうのに︑その関係が拡散してしまうと︑字面に比して
内容は大分薄められてしまうことになる︒ひいては
三四〇四 上野の安蘇の真麻群かき抱き寝れど飽かぬを何どか吾が
せむ三四六五 高麗錦紐とき放けて寝るが上にあどせうとかもあやにか なしき
などの同趣の︑東歌それ自体でもあるかのような歌の享受が変質し
てくるのではないか︒ということは東歌そのものの変質でもある︒ 巻十一︑十二などの相聞︑恋愛の歌が相対的に強い家父長制への
斗いであり︑巻十四東歌が比較的弱い家父長制への斗いとしての
﹁恋愛論﹂であるとは優れた洞察であったが︑一東国の家父長制が
比較的弱かったことは推測出来ても一もし斗いというものが生活に
密着したものとしてあるなら︑それは東歌には相応しくない考察に
なるのではないか︒此処では﹁相聞往来﹂の恋愛歌などではないのである︒一回性的現実の相聞に比し︑特定の対象の存在しない︑
﹁その﹂ ﹁この﹂が不特定多数に該当するといった恋愛などいかに
八世紀だからといって存在する訳はないだろう︒一対一の対応を去
り︑現実性を逸脱した所に東歌は成立しているのであり︑斗いとし
ての︑或はそうして獲得されたものとしての相聞恋愛歌ではないの
である︒ 巻十四が十一︑十二と並んで一括五部立制に仕上げられたとは後 二二
藤利雄氏の﹃万葉集成立論﹄にみられる所である︒編集とは一種の
部立意識であり︑特に相聞性の強い巻十一︑十二から︑これも殆ど
が恋愛歌とみられる東歌へ︑編者はそれほどの抵抗なしに﹁相聞往
来﹂を移動させた︒だが巻十一︑十二の男女と十四の男女は違って
いた︒ ﹁我が振る袖を妹みつらむか﹂という官吏人麿のく我と妹V
と﹁我は思ふ汝は何どか思ふ﹂のく我と汝Vは獲得されてある観念
が勿論違うのであり︑不明な作者のものであっても﹁我背子は幸く
いますと帰り来て我に告げ来む人もこぬかも﹂のく我と背﹀︵或は
我と妹でも︶は十四のそれに比して違うのである︒一は特定の人間
のイメージを持ち︑一は特定ではない︒字は同じ相聞でも十四のそ
れは異質である︒
編者は巻十一︑十二の作者達より優れて個性的な仔情主体であっ
たろう︒そして自己の感覚を基にして東歌の部立を行った︒これは
蒙昧な伝統墨守への強烈な抵抗でもあり︑分化以前の心理への襲撃
でもあった︒だから東国の歌は集団の論理に含まれて存在し︑巻十
四東歌は個の論理に含まれて存在する︒これは防人歌において拙劣
歌を切り捨てたことの内容にも似ていよう︒東国の歌などが万葉に
残るためには仕方のないことだったが︑東国の歌の真実は編集の蔭
にかくされた︒
東国に存在した歌と︑その採集と︑編集されて存在する東歌は夫
々の段階を持っている︒その中で︑東国に存在した歌という段階は際立って独自性を持っていたに違いない︒採集と編集には関連があ
る︑けれども東国の歌︑部立以前のそれは︑それ自体純粋に存在することも出来るからである︒東歌の本然性はそうした所にこそ存在
したのではないか︒
① 一対一の対応を離脱した所に東歌があるとしたら︑東歌は集団
への歌いかけとしての特質を感得するのでばないだろうか︒ ﹁歌
いかけ﹂の特徴が歌の何処かにみられるのではないか︒
②次に仮定条件を持つ表現が多くなるのではないか︒一回性的事
実を離れて集団への相対化︑再構成という趣から仮定的設定にな
る訳である︒
③右の二項に伴って尊敬表現が表われてくるのではないか︒村落
的︑或は群衆的なものへの歌いかけだから︑どうしても儀礼的な︑
横への尊敬表現が必要になってくるのである︒防人歌が縦の秩序
維持的尊敬表現を特徴とすることに対立する︒
④最終的な歌の特徴は結局何処にあるかというと︑後部句に含ま
れる滑稽性︑それの持つ︑愛とペーソスへの共感と解放といった
趣向性の存在にある︒解放や浄化というよりは何物かの忘却かも
知れない︒防人歌では悲しみ中に止まる︒歌が客観化︑相対化さ
れないからである︒
三四五五 恋しげば来ませ我が背子垣つ柳うれつみからし我立ち待
たむ第一句﹁恋しげば﹂は仮定条件か︒ ﹁恋しいので﹂と順接確定にと
る人もある︒起句﹁警ませ我が背子﹂までは背子への呼び掛けであ
るが︑それは先述のように特定ではないから集団への呼びかけとな
って﹁来ませ﹂という尊敬表現がとられることになる︒これは女の立場からの発想であるが︑歌いかげるリーダーは男の場合が多かっ
たろうから︑必ずしも女が男に対して﹁来ませ﹂と言っているとは
限らないだろう︒時には女の実際の生活が二次的構成の場で男のも
のとして含み取られることもある︒ ﹁安蘇の真麻群かき抱き﹂とい
う序は女の動作から来ているが︑一首としては男からの発想として
歌いかけられる趣である︒ ﹃閑吟集﹄のコ扇のかげで目をとろめか
東歌における非現実性︵渡部︶ す︑主あるおれを何とかしようか︑しようか︑しようかしようσ﹂について杉浦明平氏は﹁この歌は女性によってつくられたものではなく︑男性の手になったものとしてまちがいはなさそうだ﹂ ︵﹃戦国乱世の文学﹄︶と言われるが︑そのことは歌う場合も同じとみてよい︒民謡では男歌を男が歌い︑女歌を女が歌うという揺情詩の本来的様相は存在しないのである︒ ﹁うれつみからし我立ち待たむ﹂︑と男が歌い︑集団が受け取り︑女としての好情から相対化される時この女の動作が滑稽味を持つものに押しやられ︑その滑稽味ということには人生のドラマチックな内容があって共感と浄化を引き起す︒劇的︑叙事詩的内容を含む時︑民謡は優れた存在価値を持つことになる︒三四八四 麻をらを麻笥にふすさに績まずともあす着せさめやいざ せ小床に この歌など右に述べた民謡の性質からみると︑三句までは一応の呼び掛け︑仮定的接続︑尊敬表現︵績まずとも11お績みになっても
﹃註釈﹄︶を兼ね備えた典型的民謡である︒第四句も﹁着給はんや
H着なさることがありませうか﹂ ︵﹃註釈﹄︶とすれば妻への尊敬
表現となるが︑この妻は集団に解放され︑再構成され︑殆ど個体性
を失った妻のイメージである︒歌謡で妻に尊敬表現がなかった訳で
はないが矢張り集団性を持つ場合のようである︒
記一Q
前妻が肴乞はさば
後妻が肴乞はさば
という表現を持つ歌について﹃記紀歌謡全註解﹄には﹁狩猟の後の
饗宴歌として︑大和地方において謡われていたところへ︑宇陀の高
城という舞台を同じくした神武天皇兄ウシカ討伐の物語があったの
二三
長崎大学教育学部入文科学研究報告 第一八号
で︑両者が互いに巧みに融合し容認せられてしまったのである︒﹂
とある︒此処も民謡︑饗宴歌といった性質から尊敬表現が入ってい
るのであろう︒この歌が笑いの裡に終結するのは書かれている通り
である︒ こうして﹁麻をらを﹂の歌も集団における歌であろう︒歌いかけられるのは女の趣であるが﹁さあ床にせよ﹂というのは男とは限ら
ない︒ ﹁あす着せさめやいざせ小床に﹂には共感と笑いが含まれ︑
男は女に︑女は男に歌いかけるのである︒民謡が男歌︑女歌を超越
すること前述の通りである︒
三四二五 下毛野安蘇の河原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が諭告れ
のように呼びかけと尊敬表現が同時に行われる歌は矢張り民謡性を
示すものであろう︒汝は個人ではなく集団に対するものである︒た
だこの歌は五句全部が歌いかけの趣であるが実際には区切って歌わ
れたのだろう︒此処では民謡集団への︑他部落などからの参加の挨
拶で︑臨時の歌のように思われる︒そのために止句全部が一元的︑
個人的発想になっているのだろう︒歌詞は伝統的︑繰返しのもので
はなく︑決っている歌の形式や調子に詞だけ臨時に加えられたもの
であろう︒こうしたやり方は歌謡の場での最初や最後に多いものと
思われる︒
こうして東歌を一対一の対応から解放してしまうと先にあげた最
も東歌らしい三四〇四・三四六五・三四九四などの交学的本質が当
然変貌してしまうであろう︒それに対して我々がどのような享受の
仕方を示したらよいかについては別稿に述べることにして先に進も
う︒
五東歌と紡人激
二四防人歌が東国防人の歌であり︑同じ東国の歌である東歌と同一の
土壌から育って︑互いに同質性を持つであろうことは言うまでもな
い︒そうした同質性を抜きにしては防人歌は考えられないだろう︒
桜井満氏は防人歌の︑東歌からの流伝改作︑類型的発想を言われ︑
個人創作性を疑っておられる︒ ︵﹁万葉集巻十四の追補﹂文学語学
三四︶ 東 歌
三五一五 我が面の忘れむ時は国はふり嶺に立つ雲を見つつ偲はせ
三五一六 対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲
はも三五二〇 面形の忘れむ時は大野うにたなびく雲を見つつ偲はむ
防人歌四三六七 吾が面の忘れも時は筑波嶺をふり放け見つつ妹は偲はね
四四二一 わが行の息衝くしかば足柄の峰延ほ雲を見とと偲はね
の歌の場合だったら後者は前者の影響の下になったとみられ
東 歌三五二八 水鳥の立たむよそひに妹のらに物いはず来にて思ひかね
つも 防人歌
四三三七 水鳥のたちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき
四三五四 たちこものたちの騒ぎにあひ見てし妹が心は忘れせぬか
もの場合だったら後者は前者の影響を持つとみられる訳である︒この推測に殆ど問題はないだろう︒例えば三五二八は殆ど防人歌かも知
れず︑三五一六﹁対馬の嶺﹂は防人の作で︑東国に持ち帰ったもの
かと言われるほどのものである︒東歌にもぞうした可能性はある之
みてよい︒こうした関係の深さにも不拘︑東歌と防人歌には微妙な
差異がある︒
まず前群についてみると︑この五首には夫々﹁見つつ偲ぶ﹂とい
う基本の類型がある︒確かにこの句によって一首がまとめられてい
る︒しかしまたその類型性の故に表現の一寸した違いは重大なもの
になってくる︒防人歌四三六七・四四一二は妹︑家人などに向かっ
て﹁偲はね﹂と願っている︒三五一六・三五二〇は﹁偲はむ︵も︶﹂
であって自分に関わることである︒この点で防人歌二首に対応する
のは東歌では三五一五﹁偲はせ﹂であろう︒共に他への希望・謎え
である︒四四二一は少し趣を異にし︑類似は﹁見つつ偲はね﹂の部
分だけであった︒こうした形の詠み方が一般的にあった訳で︑必ず
しもある特定のものからの影響とはみなくてよいだろう︒だから厳
密に比較出来るのは
東歌三五一五 我が面の忘れむ時は国はふり嶺に立つ雲を見つつ偲
はせ防人歌四三六七 我が面の忘れも時は筑波嶺をふりさけ見つつ妹は
偲はねの一対に限定される︒﹁見つつ偲ぶ﹂という基本的一般性が既に存
在している故に﹁偲はせ﹂と﹁偲はね﹂の些細な違いは意外に大き
な理由を持っているのではないか︒東歌には﹁偲はせ﹂という尊敬
表現があり︑ ﹁国はふり嶺に立つ﹂という︑雲に対する非限定的修
飾がある︒対して防人歌には﹁偲はね﹂という憩え表現があり︑ ﹁
筑波嶺を﹂﹁妹は﹂という限定性がある︒防人歌では此処で﹁偲は
せ﹂とは絶対ならない所であろう︒防人歌の方が現実生活の具体性
に近いのである︒
例えば人麿の場合でも︑皇族に対する尊敬表現が多いことはいう
東歌における非現実性︵渡部V までもないが︑その恋人︑妻に対しては尊敬表現を使っていない︒
﹁妻の死後﹂即ち亡妻に対して二〇七﹁黄葉の過ぎてい行くと﹂二
一〇﹁鳥じもの朝立ちいまして﹂ 二一三 ﹁鳥じもの朝立ちい行き
て﹂とある中で二一〇に尊敬表現を使用する︒明らかに死者に対す
る意識的表現であった︒その上一二三﹁汝が謂ふる妹はいますと﹂
︵人の云へぽ︶とあって︑他人が人麿の亡妻に対して尊敬表現をし
ている︒これは人麻呂が他人の云うのをそのまま書いた趣である︒
だから尊敬表現とは特別意識的︑或は形式的︑儀礼的なもので︑日
常性を離脱している場︑雰囲気の中で使用される割合が多かったこ
とは推測出来よう︒とすれば﹁偲はせ﹂という所と﹁偲はね﹂とい
う所には微妙な異質が感得されるだろう︒後者が限定的な妹︑即ち
実生活性に対するものであったら︑前者は村落共同体に対する形
式的︑儀礼的表現であったろう︒
また後議については︑防人歌四三五四は必ずしも東歌三五二八の
類型ではないだろう︒結局
東歌三五二八 水鳥の立たむよそひに妹のらに物言はず来にて思ひ
かねつも防人歌四三三七 水鳥のたちの急きに父母に物言はず来にて今ぞ悔
しき辺りの対応が比較の対象になるだろう︒歌の技巧である序が似てい
るのは発想の基盤が同一の土壌であったことを推測させる︒しかし
東歌﹁妹のらに物言はず来にて﹂と防人歌﹁父母に物言はず来に
て﹂との対象内容の違いは不図としたら両者の本質的違いではない
か︒前者はその通情発想が横︵妹或は愛人︶の関係にあり︑後者は
縦︵父母︶の関係にある︒このことは簡単に︑歌の形式が似ている
からといって︑見過してよいものではあるまい︒四三三七の防人が
二五
長崎大学教育学部入文科学研究報告 第一八号
たまたま結婚以前で妻がなく︑父母への発想があったのかも知れな
いが︑それなら東歌にみられるあの妹や児はどこへ行ってしまった
のであろうか︒それはとにかく︑東歌では﹁父母に物言はず来﹂る
ということは全く問題にならない︒東歌においては母︵親︶は妹と
の関係に障害としてしか現われない︒
三三五九 駿河の海磯辺に生ふる浜つづら汝を薦み母に違ひぬ一男
親に違ひぬ 対立
三三九三 筑波嶺の彼面此面に守部据ゑ凄い守れども魂ぞ逢ひにけ
る 障害
三四二〇 上毛野佐野の舟橋取り放し親は離くれど吾は論るがへ
障害
三五一九 汝が母に噴られ吾は行く青雲の出でこ吾妹子あひ見て行
かむ 障害このように東歌では親を縦の権威として設定している︒対して防人
歌では父母は思慕の絶対的対象として描かれていること周知の通り
である︒これは東国における生活の実際面で親が共同体の中心であ
ったことを示すものであろう︒逆に東歌がそうした東国の現実性を
超脱したものであることの一つの証拠になるだろう︒この二者にお
ける発想・表現の差異はそのまま両者の歌の内質の差異を示すものである︒防人歌における表出が比較的日常性に近いとすれば当然先
の﹁偲はせ﹂は日常の秩序をはみ出した表現であり︑ ﹁偲はね﹂が
日常感情に近い表現といことになるだろう︒右の母︵親︶の在り様を
示す表現を基にして言ってみれば
東歌11虚構性を示し
防人歌日常性を現わしている
ということになる︒この差異から︑同一の基盤を共有する東独の歌 二六
に︑自からある母が障害にもなり偲び慕う共同体の中心にもなって
いる︒云わば東国における家族共同体︑或は村落共同体はこうした
矛盾を内包した実体であった︒
母は愛人との会いに障害であり︑制約でもあった︒しかし母は生
活を支えていた︒生の基盤を作っていたのも母親であった︒だから
実際上の生活において母は︑妹に対する時でも憎しみの対象にはならなかったろう︒憎もうとして憎めないのが生活共同体の絆であ
る︒或は母の存在を信頼することにおいて︑その障害面を言上げし
ていたとも云える︒全体的にみれば︵生活の実際面も虚構面も含め
て︶抵抗と愛との両様の対象が父母であった︒すべては一つの生活
の中の共存者であった︒抵抗の対象としても愛の対象としても父母
を捕えることが出来た︒二つのものよりも生活というものが大きく
強くすべてに君臨していたから︑愛憎共に生活の海に漂う粟粒ほど
のものであった︒愛憎は倫理としても文学としても独立出来る段階
ではなく︑愛というテーマを追求し︑憎というテーマを追求して生
命感を得ることが出来るような生活ではなかった︒東歌の恋愛の歌
は︑その歌謡主体が生活に含みとられていたから奔放であり得た︒
生活がすべてであり︑生命そのものであるほど重く巨大であったからこの奔放は安全であった︒労働歌とは労働に含みとられてある歌
をいうのである︒ステージや座敷で歌う民謡というのは本来存在しない︒道具や手段に似ていた︒道具である東歌がいかに激しく親へ
の言上・げをしょうともそれは衝撃ではなかった︒斧や鍬がいかに鋭
利であっても生活を傷つけることはない︒それほど東国民謡主体の
足は生活の泥沼の中に深く踏み込まれていた︒その生活を信頼して
の娯楽的虚構が東歌にはあった︒先にものべた︑歌の滑稽性が必ず
聖句に近く存在することは東歌の一つの大きな特徴である︒三五三
一﹁妹をこそあひ見に来しか眉曳の横山辺ろのししなす思へる﹂に
は客観化された主人公への集団的な笑いがある︒三三六四﹁足柄の
箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくもあやし﹂は︑終句に
滑稽味を持っている︒さらりとよみ過せば︑単に掛け言葉による面
白味が出てくるだけであろう︒だが足柄の箱根の山に粟蒔く生活は
それほどさらりとしたものではない︒公的ではない焼畑農業︑出来
るのは粟かソバ位だろう︒必ずしも実を結ぶに到るとは限らない︒
そうしたものがこの歌の下地にはある︒そこから何気なしの如く出
ているこの滑稽味︑東歌の本質の一つは此処に存在する︒
そうした虚構面︑生活超越面で母は障害であり︑抵抗の対象でも
あった︒反面︑生活の中で母は慈愛であった︒奥で統べていたのは
生活共同体における﹁母﹂それ自体であった︒
防人歌は生活︑労働の道具ではない︒大命が上からやってくる︒
すべてはそこから起る︒今までの秩序が破られる︒それは東歌の持
つ原理の破壊でもある︒防人歌が生活をつき破られる時の歌だから
強烈に生活的であるに反し︑東歌は日常生活からの虚構としてある
から生活拒否的である︒防入歌は仰向いた形からの発想である︒大
命︑生活の破綻︑妻子父母との訣別が歌われる︒だが村落共同体と
の訣別はない︒あれほど東歌で歌われた横の関係はただ︑妻との関
係に限定される︒ ﹁朝菜洗ふ児﹂とも多摩川に手作をさらす﹁この児﹂との訣別もない︒これは日常の実際において︑かく絵のように
仕上げられた﹁児﹂たちは存在しなかったことを示すものであろう︒彼らは単なる労働人にしかすぎず︑あったのは父母と妻子︑即
ち生活そのものであった︒防人歌は明らかにある条件の下に作られ
た歌である︒家族の内部で︑生活破綻への個人の観念を基に作られ
た悲嘆の仔情である︒東歌とは成立の条件が違うのである︒勿論防
東歌における非現実性︵渡部︶ 人歌成立に東歌のもつ歌への方法が基礎になっていることは云うまでもない︒
六防人歌発想の型
防人歌は巻二十 四三二一から始まる︒遠江国防人の歌が七首並
んでいるが︑今それを発想の基本︑それがあって始めて一首の形が
構成される根本のものによって発想のタテ︑ヨコ︑其の他といった
風に分けてみたい︒
四三二一 畏きや命被り明日ゆりや草が共寝む妹なしにして
は﹁畏きや命被り﹂が一首の原動力である︒それにより﹁草が共寝
む妹なしにして﹂の仔情が出てくる︒そうしたものをタテと置く︒
四三二二 我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に恋ら
れずは﹁我が妻はいたく恋ひらし﹂が主因である︒﹁我が妻は﹂でヨコ
の関係と置く︒
四三二一二 時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出こずけむ
は﹁母とふ花の咲き出﹂が作者の要求とみてタテの発想とする︒
四三二四 遠江白羽の磯と費の浦とあひてしあらば言も通はむ
はタテとヨコの意味では特に挙げることがないので其の他の所に置
く〇四三二五 父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧こて行かむ
は﹁父母も花にもがもや﹂という希求が根本だからタテ︒
四三二六 父母が殿の後方の百代草百代いでませ我が来るまで
は同様にタテ︒
四三二七 我が妻も書に書き取らむ暇もが旅行く吾は見つつ偲はむ
まヨコ︒
二七
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一八号
とのように︑遠江国を整理してみると七首中
タテヨコ
其他 ⊥7首⊥7首
⊥7首
となる︒東国における父母の存在がタテの意⁝識に含まれるかどうか
には問題もあろうが︑今右に述べた東歌における横の発想との対比
においてタテとして置く︒
タテ
ヨコ其他 相模 駿河 上総 常陸 下野 下総 信濃
1 12【R 70 33
﹃2¶513
⊥3⊥栂5T
⊥ね⊥鴇3 10
7
5T2T
4質
4T2T⊥3
上野 武蔵 昔年 相替 計
⊥4 7﹂1
8
一2
5 1
8
⊥4⊥枢2T
33
24 36
93 93
93
以上のように九三首中−必ずしも劃然としている訳ではないが一一
番多いのは矢張りヨコ即ち妻を主因に詠んだものであるが︑大命︑
父母等が原動力になるタテの歌も非常に多いことが知られる︒国に
よって傾向が違うのは1例えば相模︑下野︑信濃に﹁父母﹂があっ 二八
て﹁妻妹﹂がなく︑常陸︑上野︑武蔵に﹁妻妹﹂があって﹁父母﹂
がないなど一﹃防人歌の基礎構造﹄では︑集団的共時的に作られた
ものであるから一座の雰囲気から感染共感作用が起るためと説明さ
れている︒集団的︑共時的ということを考えに入れれば︑教化・指
導された面からの発想も推測される︒
対して東歌には次のようなタテの発想︑表現がある︒
三三五九
三三七一三三九三
三四二〇
三四八〇三五一九
以上六首︑ 汝をたのみ母に違ひぬ足柄のみ坂かしこみ母い守れども魂ぞ会いにける親は離くれど吾は下るがへ大君の命畏み汝が母に暖られ吾は行く
よまれる内容は男女のヨゴの関係であるがその障害としてタテ議を出す︒こうした発想の繁⊥獅である︒ただこれらのものはヨコをよむためのタテであって︑タテが与えられてヨコが
意識されてくる防人歌とは趣が異る︒
所で東歌には五首の防人歌が含まれる︒これを増補とみる説もあ
るが︑とにかくこの現象は一種の矛盾である︒次にその防人歌の姿
をみてみよう︒
三五六七 置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもが
も三五六七 おくれ居て恋ひば苦しも朝狩の君が弓にもならましもの
を
右の二首は問答なり︒
三五六九 防人に立ちし朝明の金門出に手放れ惜しみ泣きし児らは
も
三五七〇 葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き点し汝をば偲はむ
三五七一 己妻を他の里に置きおほほしく見つつぞ来ぬる此の道の
間みられるようにヨコの関係が5一5︒東歌である防人歌の様相をみる
ことが出来よう︒父母は一首も出てこない︒
もう一回次のように並べてみよう︒
防人歌 昔年 書替 東歌の防人歌
タテ 32
ヨコ其他
30 84 84
2﹃28 ⊥8
5T斗
リム一
5」
T
即ち次第にタテが消失してヨコ百%になってしまっている︒東歌の
防人歌は昔年︑相替の傾向を押し進めてその完全になったものであ
る︒そうしたものが東歌の性質であった︒或はそうしたヨコの歌の
性質に同化したものが東歌になっているというべきか︒またこのこ
とは次のように表現を変えることも出来よう︒
防人歌←昔年防人歌︵国土未勘︶←東歌防人歌︵国土未勘︶←東
歌︵民謡性︶︒即ち昔年防人歌と東歌の防人歌は似た様相を持って
いて︑東歌の民謡性に近づいているのである︒タテの関係が磨滅し
てヨコへの広がりを持った時︑東歌の中に姿を現わすのである︒三
五六七・三五六八は問答である︒この夫婦の一対一の対応性は矢張
り防人歌のものであろう︒それが完全に横の関係︵防人と妻︶とし
てあり︑その上﹁朝狩の﹂という防人歌にしては非現実的修飾を持
ってくる所に東歌圏内に入って来得た所以があるだろう︒東歌にお
ける防人歌とは結局そうした様相を持つものであろう︒
東歌における非現実性︵渡部︶ こうして東歌と防人歌をタテとヨコとの構成からみると夫々その片寄りを見せ︑一対一の対応という点からも対立した様相を持つ︒二者の持つ文学的内質は夫々違うのである︒ かく一対一の仔情性︑相聞的恋歌性から東歌を引き離して来てしまって︑一体このような東歌は何を契機にかかる民謡性に成立して来たものであろうか︒それについては東歌の成立として興国を用音幽し︑改めて論じなければならない大きな事柄であろう︒
二九