書 評
清水哲郎著 『パ ウロの言語哲学』岩波書 店2 0 0 1 年
佐 々 木 隆
題名について
この本は題名か らして,考えさせ られ る ものがある.パウロの教 えで も,神学で も,輿 書学で もな く,パウロの 言 語 哲学 とは何か.宗教 と哲学が如何なる関係にあるのか と. さ らに,パ ウロの 言語哲学 とい う言葉については二通 りに考え られ る.つ ま り,パウロが
言葉 とい うものを彼独 口にどのよ うに考えていたのか, また言葉をパウロが どのよ うに使 っ ていたのか とい うパウロの
.lH;'I Hこついての哲学 とい う意味,そ して,パ ウロ ( の 言葉)に ついて 言語哲学の立場か らどのよ うに考えるのか とい うことである.
い くつ もの意味が生 じるのは 「 の」 とい う言葉に 「 誰々の」 とい う上体を示す場 合と,
「 誰々に対す る」 とい う目 的 を示す場合があるか らである.い くつ もの意味を持つ言葉を 理解 させ る準備 として題名に も
l二 夫がな されているのである.
属格の意味
この木の考察の主題は 「 パウロはイエス ・キ リス トを信仰す ることによって神に義 とさ れ る とは 言わなか った」 とい うことである.
このキ リス ト教の信仰を覆す よ うな驚 くべき指摘は,パウロの 『ロマ 苦 』3章2 2 節の 「 イ エ ス ・キ リス トを信 じるこ とに よ り,信 じる者すべてに 与え られ る神の義です. 」 とい う 有名な 一
節におけるギ リシャ語の属格 (日本語の 「 の」にあたるよ うな 言葉の用法の意義 を吟味する ( 哲学す る) ことか ら始め られ る.
伝統的に, この箇所は属格ではあるが 「 イエス ・キ リス ト‑の信仰」 として 「 川勺を示す もの とされてきた. 文法的には 「 イエ ス ・キ リス トの信仰によ り,信 じる者すべてに与え られ る神の義です. 」 と読めることは,イエ ス とい う名 詞 が届格 にな っているので従来か らも認め られていたが,その よ うに読む ことは適 切な読み 方ではない とされてきた.
それに対 して,清水氏は異議をI
TEは る.彼は 自分は聖 書学者ではない と断 るが
,議請の 基礎 となる事柄は思いつきや 異端の説ではな く, これ までの研究をきちん と踏 ま
えた もの である.違いは歴 史的な事実 とい うものを追求する聖書学 とその事実
l上1体の認識を成 り宣 たせるl L ・ † かを追求す る哲学の違いである.
属格の用法について,誰々の物 とい うよ うに 「 i: . 体」を示す場合 と,誰々について とい
う 「 客体」を示す場合がある.例えば,神の経給 とい う言葉は,神が
1日̲‑肘を支配する とい
う意味であって,
神を 支配する とい う意味ではないよ うに,まず届格は誰々の と 主体を
示す よ うに読むのが普通である と思われる.最初に述べた 「 パ ウロの 言語哲学」 とい う言葉 か ら, まず,パウロの持 っていた 言語についての考え方を示 していると主体を示す と思 う のが普通ではないだ ろ うか,パ ウロ 「 について」の 言語哲学 と客体を示す と考えることは 少ない と思われ る.
従来の客体 を示す 「 イエス‑の信仰 」 として読む読み 方をす るのはこの部分だ けに しか な く
,清水氏によれば,他は 巨体を示す読み 〟を しているので, ここだ けを客体 として読 むのほおか しい と言 う. さらに,パ ウロの畳み掛けるよ うに繰 り返す語法 ( 文章の構造) を指摘 し, この部分を主体を示す もの として読む読み方の J J ‑ がj f
、l
'J だ とされる.
客体を示す読み方 と 1 : . 休を示す読み) J ‑ との違いは,人l 剤が イエスを神 として信 じるとい うことによって救われ る とい う従 来の信仰 と,それに対 してイエスが神を死に至 るまで信 じた ( 聴従 した) ことによって人間がすでに救われている とい う信頼 とそのような生き方 を したキ リス トに倣 うとい う
/卜き方‑の
示唆が生 じて くる.
このよ うに読めば, どの くらいイエ ス ・キ リス トを信 じているか, どの くらい敬度であ るか とい う主観性 によって信仰を量 られ るとい うことが無 くな り,信仰が足 りない,敬度 でない とい う批判ができな くなる.
ちなみに, 筆者 には聖書の中のパ リサイ派批判はキ リス ト教の内部批判のよ うに思われ てな らない.遠藤周作が 『 沈黙』で踏絵 を踏む人間を描いた とき, l 三 人公に も作者にも, 信仰が止 りないか ら踏むのだ と言 うキ リス ト教の側の批判があった.批判者たちが物語を 読めていない 事にお どろいたが,清水氏のよ うにパウロを読めば,そのよ うな批判はパウ ロか らもな されないことになる.そ して,なによりも議論の
lトで
l⊥
1明な こととされている 敬度 とは何か,信仰 とは何か と尋ね,それ らの 言葉を吟味 し,無自覚な思い込みを克服 し て行 くことが ソクラテス とエ ウチ ュプ ロンの対話以来の哲学の仕 事なのである.
形成途上のキ リス ト教
清水氏によれば,パ ウロは,イエスがキ リス トである と信 じたが, さらに仰ぎ見る神で ある とは認めてはいないのである.つま り,信仰の対象はあ くまで も神であって,イエ ス は信仰の対象ではない.イエス ・キ リス トの在 り方を神‑の倍のあ り方の手本 とす るので ある.ちなみに, 「 キ リス ト」 とい う言葉は‑ブル語の 「メシア 」 ( 油 を注がれた宵)のギ
リシア語訳で,神が選んだ救い主の
意味であって神 とい う意味ではない.
パウロがいたか らこそキ リス ト教が これ まで広がった と言われるが,パウロの理解 して いた 、 巧時のキ リス ト教は明かにユダヤ教の 一 派であって,そ こか ら独立 した別の宗教では なか ったのである.
パウロの ; 1 工 場は, 父 と ( ‑ と聖霊 とい う三位一体や神が人 となった とい う受肉 とい うよく 知 られている教理を前提に しないキ リス ト教 とい うものであった とい うことである.
パウロはイエスに会 った ことはない. 卜字架に付け られ復活 したイエスだ けを知 りたい,
肉によって知 ろ うとは思わない と断 言している. これは当時権威 を持 っていたイエスと行
動を共に した弟子たちの虎接体験 ( 肉)か らイエスの教えを坤解 しよ うとい う態度‑の批
判だ と思われる.体験が理解ではないことは特 にマル コ福洋書に描かれている弟子たちが イエスにその無理解を叱責されていることか らも伺われる.
パ ウロの書簡が書かれた時代 には新約聖書はまだない.L J L l 福音書の巾の最初に出来あ が ったマル コ福音書の原型や Q資料 と呼ばれるものが形成 されつつあった頃 と思われるの で,キ リス ト教 もずいぶん違 った ものであったろ うと思われる.
昔のキ リス ト教神学では,聖書を矛盾のない一一 冊の木 として教えていたように思 う.福 音書のキ リス ト像をパウロの書簡に読み込んだ り,後世のキ リス ト教の理解をパウロの思 想 として読み取ってきた.それ も‑・ つの信仰のあ り方ではあるが
,唯 一 のあ り方ではない こと,聖書 と信仰が歴史的に形成 されてきた ことに気が付か させたのは聖書学の成果であ ろ う.
イエスへの信仰か らイエスの信へ
清水氏は,ふつ う信仰 と訳 されているピステイスとい うギ リシア語について 「 信」 とい う訳語を与える . 「 倍」 とい う言葉の用法か ら導かれ る意味について考察す る. ピステイ ス とい う言葉は決 して人間か ら神に対 して使 うだ けの言葉ではな く,神 も人H Hの側に対 し て使 う言葉である.
従来はピステイスを神の側か らは誠実,人間の側か らは信仰 と訳 し分けてきたが,すで に解釈を含んでいる辞書的な訳 し分けを検討する.誠実 と信仰が違 うな らば何故,違 うギ リシア語の 言葉で表現 しなかったのか.パウロが同じ言葉で表現 したな らば何か共通する 物がそこにある と理解するのは当然ではないだろ うか と.清水氏が「 倍」と訳 されたのは,神 の側か らも,人間の側か らも共通に使える訳語であるか らである.
さらに,定型化 された信仰 とい う言葉か ら信‑ と変更することに伴って,パ リサイ派の 言う律法を守ることによって義 とされるとい うことと,倍によって義 とされるとい うこと の義の意味 も変わ らざるをえないことになる.
義 とはギ リシア語のデ イカイオシュネ‑の訳語で,正 しい,正義, よい, とい う訳語が F T 1 ‑ え られ るが,そ もそ も日本語の 「よい」 とい う言葉がギ リシア語 に対応するのか, 「 よ い」 とい う言葉を, ものごと自体に内在す る ( 記述的)のではな く, どのよ うに使われて いるのか ( 非記述的)によって決め られることを示すために日常的なコ ミュニケーシ ョン の場面をモデルに,清水氏は検討 される.
律法を守って義 とされ る事には,律法を守る行為 自体が 目的 とされ,守る事の意味がど こにあるのか とい う理解が忘れ られ,相手のことはどうで もよい とい う心の無い形だ けの コミュニケーシ ョンのような ものになっていることをパウロは指摘 しているのだ とい う.
それは柏手の人格を問題に しないで物の交換だ けを問題にする商売における取引 と何の変 わ りもない とい うことである.それに対 して,信によるとい うのは,対価 とい うことには かかわ らないで,相手の意図を理解 し,心のあるコ ミュニケーシ ョンになっていることと の違い と言えるであろ う.
パウロによる積極的な異邦人‑の布教 と律法か ら信‑の変更はユダヤ教か らの離脱‑の
大きな第 ▲ 歩であった.そ して,イエス・ キ リス トの信か ら信仰‑の変更の始ま りで もあっ たのである.それはパウロの直筆か らパウロの名が付け られている書簡‑の変化で もある.
確かに, 日本語で
町書を読む普通の人々には 「 誠実」 と 「 信仰」が もともと同じ 「ピス テ イス」 とい う言葉であった とは思 えないほど違 うものである.忠実な翻訳である と思い 込んでいた ものが,いかに翻訳者の
意 向や後世の坤解に左右されているか とい うことを清 水氏は教えて くれ る
.言葉 と事実を対応 させ確認するだ けではな く,言葉の使用 と事実関 係を吟味する知によって信の対象が初めて明 らかになるのである.信 と知が相互否定的な 関係にだけあるのではな く
,信 と知の親密な関係を改めて考えさせ る ところが,聖書学で
も神学で もはな く哲学なのであろ う.
いわゆるファンダメンタリス トは聖 書の言葉を字義通 り受け l 卜める と言う.はた して, 本 当にそんな ことができるのだ ろ うか .聖 書の言葉 川 本がすでに多義的で,事実関係にも 異な りがあ り,矛盾を含んで, さらに文脈の中で意味が生成 されている. H語に訳 し予備 知識無 しにそのまま聖書を読めるように しようと思 ったことは,異 文化の坤解‑の見通 し
‑の甘 さがあ り,聖書を読む よりも自分の思惑を読む とことにな りかねなか ったのだ.
我々 もまた, 自分たちに とって都合の良い ところを適 、 巧に切 りとって弔書を使 うことは, 聖書に忠実で もな く,字義通 りで もな くなることを反省 しなければな らない. これか らの 聖書の翻訳出版には教義的ではな く学問的研究の認める注を入れ,聖書を多 くの人に解放
し,無目覚のファンダ メンタ リズムに陥 らないように少 しはできるか もしれない.
イエス とは何者か
では,パウロに とって,イエ スが神ではないな らば,イエ ス とは
何宵なのか . 「 パ ウロ は本人の理解によれば復活のキ リス トに佃会 った とい う,強烈なある体験を した後に,そ の体験は ▲ 休 イ H J だ ったのか,キ リス トは一休何首なのか と体験の意味を探求 したであろ う」
と清水氏は想像 される.
『ロマ 書』 の冒頭にあるイエスについての記述か ら, 「 地 卜の生以前のイエス,つま り,
『先在のキ リス ト』についての記述 と解釈する余地があ りそ うである.
」とされ, 「フイリ ピ人‑の手紙6‑1 1 章」における並行的な構成 と対照 して,ケ‑ゼマンに反対 してパウロは
「ロマ讃」の冒頭においてすでに 「 キ リス トの‑ りくだ り ( いわゆるケノーシス)」を語 っ ているとす る.パ ウロは布教者であって神学者ではない と言われ るが,十分に神学的であ
り後 世の神学の基礎を作 っている と言えるのである.
イエスは神の子 と呼ばれた り,父なるの 「 神の似姿」と言われた りす る.神のモルフェ‑
( かたち)( フイT )ピ人‑の手紙),また擬パ ウロ書簡ではあるが神のエイコーン ( 像)( コ リン ト人‑の 手紙) と言われている.
この言葉の使い方をどのよ うに理解 した ら良いのか.清水氏は,パウロとほぼ
同時代の
フイロンの 『創世記 』 の創造の解釈 との共通性を通 じて考察する. フイロンはユダヤ教徒
で,プラ トン哲学を使って,解釈す るのだが 「 人が ・手 中のエイコーンに従 って ・形造 られ
た」 とい うことは人が 直接神の似姿 として造 られたのではな く, 「 神のエイコーン」が範
型 として先に造 られた と こ 段階の過程を経て造 られた と解 したのである. このような解釈 が 、 l 押f あった とすれば, さらに,パウロは この範代り である 「 神のエイコーン」が
神の ( ‑ キ リス トである と考えた とされる.つま り,人に先立 ってキ リス トが先 在 した とい うことに なる . 「 神のエイコーン」は極めて神に近い ものではあるが,神 と平等,神その ものでは ないのである. しか し, この接近が 平等 とな り,神その もの‑ と展開 してゆ くのである.
フイロンか らパウロそ して擬パウロ書簡の苦音たちの解釈を辿ることで,キ リス トの存 在が人か ら神に近づいてゆ くよ うに理解 されていったことが明 らかにされる. フイロンと パウロの共通作 と差異か らキ リス ト教はI ■ †己の独 t ' JJ 性をl L l[ ユ理解するためにギ リシャの哲 学を参考に しなければな らないことが
示唆 される.
復漬 したイエ スに 1 日 . 会 った 「 パウロに とって終末‑の期待は, r 削こ未来に到来するであ ろ う出来事‑の期待に とどまらず,現 在 の生き方の ノ ノ向 を定めるものであった. 」 「 果た し て時間の流れにおいて未来に望まれ る終末 とい う思想に どれほどの意義が残 っているだ ろ うか.
」とい う清水氏の言葉に終末 を強調 し、不安をかきたてるよ うなファンダ メンタ リ ズムを克服す る希望を筆者は感 じた.
筆者は, 「 イエス ・キ リス トの信によ り、信 じる者すべてに F iえられ る
神の義です」を、
「 信 じる者」の信 じる対象は神 と思われ るが、イエ ス ・キ リス トを信 じる とは読めないだ ろ うか,そ して, 「 与え られ る」の+. 語が神に よって与え られ る と従来の読み j jと清水氏 の読み 方を折 巾できない ものだ ろ うか と思 う.
ソクラテスとイエス
『ルカ福音 割】と 『 使徒行伝
』とは
l', ‑ ]じ著 者である と言われ る.その 著者によ/ 〕て, パ ウロは
Lnl
JL 、して宣教の初めか らイエ スは神であると述べていたことにな っているのである.
パウロの直筆の書簡 とはずいぶん違 うことが分かる.
しか し,パウロがアテネで 「 知 られ ざる神」について宣教をする 『 使徒行伝』1
7章22‑ 31節を検討 し, この演説は使徒行イ 云の著昔の創作 とも言われ るが,いかにパウロ書簡の本 来の信仰論 と創造論を踏襲 しているかが示 される.それだけでな く,そ こが 『ソクラテス の弁明 』 で,新奇なダイモニアを伝えた と言われ るソクラテ スを意識 している構成 と内容 とな っている と清水氏は指摘す る. しか も, 「 ダイモーンは神ない し 『神の十』の ことで あった. 」( 『ソクラテ スの弁明 』 ) となると,類似性はただの偶然だ とは 言えな くなるので ある. 聖 書学では, この演説は ∴次資料 として分類 され るか周辺的な研究対象 として評価 され るだけで終わるよ うに思われ る.
この
31節にこれ まで検討 してきたパウロ思想の核心であるピステ イス
(信)とデ イカイ オシュネー (l l 二 義 ・よい)が使われているが, ピステ イスを保証 .確p i l E・証拠 とい う意味 に読まれている ことを疑問 として,文章構造 に即 して吟味 され る.そ して,従来の訳は
「 全 くの誤 りである」 とい う結論がでる.
「 従来の解釈 者,翻訳 肯たちは,キ リス ト教内部の解釈の伝統に縛 られて
,言葉に対時
してこなか ったのではないか と疑われて も什方ないであろ う.」と清水氏は強い調子で 言わ
れ る.
つい,信仰 と知 ( 哲学)は別な もの と考 えて,意識 ・無意識 に排除 していたために,イ エ ス ・キ リス トとソクラテ スの類似件 を詩 っていて も,信仰 と哲学の密接な関連性 に これ まで誰 も気がついて こなか ったのであ る.それ は,後世 の教義化 された理解がパ ウロの独 自性 を隠蔽 し忘却 したのである. あるいは読み替 えに よってキ リス トを神 として信仰でき たのである.
『使徒 行伝』は 『ル カ福音書』の後半部分で あ る と言 われ るが,福音書 とパ ウロ書簡 を つな ぐ役割 を果たすために切 り離 され編集 され たのではないか と思われ る. ま さに 「 キ リ ス トの信」か ら 「 キ リス ト‑ の信仰」‑読み替 えるための編集なのではないだ ろ うか.
そのル カ福音書 の記者が 『ソクラテ スの弁 明』 を読んでいたのな らば
,「 知 られ ざる神」
とい う言葉 に,無知の知 を認識 した ソクラテスを思 いつつ,イエ スの生 き方 とパ ウロの思 索 の意味 を理解 しよ うとしていた よ うな気がす る.その流れが,ア ウグスチ ヌスやボェテ ィ ウスを‑ て 中世 の トマ ス ・ア クイナ スの哲学 は神学 の侍女である と言 ったが, トマスは こ の侍女 を上手 に使 った と思 う.信仰 のアナ ロジーで も存在 のアナ ロジーに よって も神に近 づ く道があ り,そ して,オ ッカムや キルケゴール もその道 につなが っている と思われ る.
アルケー ( 始 ま り ・根拠) の問題 は,七 十人訳のギ リシア語 の聖書 を使 った ところか ら, パ ウロの本意ではなか ったにせ よ, ギ リシア思想が流れ込んだ.アルケ‑を考 えるのは タ レスの頃か らギ リシア哲学の課題だか らである.それが発展 し, とうとう神は 「 無か らの 創造」 をす るキ リス ト教独 自の神の理解が形成 され てい った こ とが示 され ている と言 う.
非常に思想 の発展が整合的 に理解 でき,すぼ らしい と感 じた.
参考文献 書野太潮 「 どう読むか,聖書
」朝日選書
1994年「 パウロの 『 十字架の神学』の社会倫理‑の射程」 『 聖書学論集 』2 7 号
1994年 加藤 隆 「『 新約聖書』の誕生」 講談社 メチエ
1999年
「 新約聖書はなぜ,ギ リシア語で書かれたのか」大修館
1999年
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