Title
翻訳 ライオネル・トリリング 「T.S. エリオットの政治観」
Translation Lionel Trilling T.S.Eliot's Politics
Author(s) 平松 良康 (Kazuyasu Hiramatsu)
Citation 大阪学院大学 外国語論集(OSAKA GAKUIN UNIVERSITY FOREIGN LINGUISTIC AND LITERARY STUDIES),第 64 号:23-44
Issue Date 2012.06.30
Resource Type Translation/翻訳
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Right
大阪学院大学 外国語論集 第64号
2012年
6月ライ
訳
“
T,S.Eliot's Politics"
Lionel Trilling
Trans. by Kazuyasu Hiramatsu
今年 よ リー世紀 前、 ジ ョン・ スチ ュアー ト・ ミル は現在 では有名 なそ の コー ル リッジ論の所為 で、ベ ンサム流功利 主義 の友人連 中を立腹 させ たのだが、 こ の論文の中で宗教的且つ保守的な哲学者 に就いて共感 を籠 めて書 き、功利 主義 思想 の硬直 した唯物主義 を修 正す る積 りだ と公言 した。ミル が コール リッジを 支持 したのは、時折呼称 され る 「ロマ ンテ ィ ックな」理 由か ら、詰 り、先験論 の方が功利 主義 よ りも温 も りが あ り熱 情 に燃 えて居 る と考察 した か らで は な い。彼 はその様 に考定 して居 た けれ ども、 コール リッジに関心 を向 けた理 由 は、「人間の感情 と知性 との複雑極 りない もの を深 く見通す 」 コール リッジの 能力が、ベ ンサムの頗 る 「短慮 に して呑 気 な」政治分析 に何 か しら現 実的 な美 点 を加 味 して呉れ る と感 じたか らである。 そ して、 ミル は急進 的な友人達 に、
「
To S。
エ リオ ッ トの政治観 」
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これ を以て諸君の祈祷の文言 とせ よと告げた。 曰く、「“主よ、我等の敵の啓蒙 せ られ ん こ とを"・ ・ 。彼 らの理知 を研 ぎ澄ま し、彼 らの知覚 を鋭敏 な らし め、彼 らの判断力に一貫性 と明晰 とを付与 されんことを。我等の陥 りたる危険 は、彼 らの暗愚 より出でて、その知恵 より生ず るに非ず
Jと
。 ミルが最 も頻繁に言及 したコール リッジの著作は、通常『 教会 と国家』 と呼 ばれ る書冊だが、その正式な原題 は『教会 と国家、其々の理念に基 く構成に就 いて』であ り、 この作品か らT S
エ リオ ッ トの最新評論『 キ リス ト教社会 の理念』 は、「理念」 な る言葉 の特殊 な意味のみ な らず 、その着想 そ の もの も 借 りて居 る。 エ リオ ッ ト氏 は常 々、多少 な りとも意識 的 に保持 され た 、過 去 と の結び付 きは知的芸術 的な価値 には必要不可欠だ と述べて居 る。殆 ど吟 味不要 の諸 々の理 由に依 り、彼 自身が十七世紀及び十二世紀 との、最 も有効 な 己れ の 親近性 を見 出 したのだ。併 し乍 ら、 ロマ ンテ ィシズ ムに対す る氏 の敵意 に も拘 らず 、彼 自身の政治 と宗教 とに於 ける真の立場 は、十 九世紀の ロマ ンテ ィック な系譜 にあ る。彼 は コール リッジの伝 統 を継続せ しめ、 コール リッジ以 降、 ニ ューマ ン、 カー ライル、 ラスキ ン、マ シュー・アー ノル ドの伝 統 を継 承す る。 かの人 々は改革主義の時代 に、利益以外 の よ り良き何物かを根拠 と して、 唯物 的 な進 歩 主義 の哲学的前提 に頑 強 に抵抗 した。 カー ライル は除外 す る と し て も、 この人 々の言葉が正 にエ リオ ッ ト氏の散文の中に追悼 されて居 て、 この 書物 は彼 らの系譜 に対す る悲劇 的 な終結 なのであ る。 一世紀 が経過 して尚且つ この系統 の思想 は定着 して居 ない し、 さ りとてそれ が反対 した思想 も、成程支配的にな りは した ものの、今世紀 に於て定着 した訳 ではない。現在 、我 々が 目にす るのは、右派や左派や 中道 の、それ 自体 と闘争 して居 る唯物主義哲学である。その戦闘の中で、我 々の古い概念の多 くは不適ライオネル・ トリリング 「
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切 に な り、我 々 の昔 か らの提 携 も多 くが 失 効 した。 我 々全 員 が 、 己れ 自身 の感 情 に照 ら して 、エ リオ ッ ト氏 の 心 情 を理 解 出来 よ う。 氏 が長 ら く編 集 長 の座 に 就 い て居 た『 クライテ リオ ン』誌 を止 めた時 、「五十年 間の他 の どの様 な感 情 とも大いに異 な り、新 たな感 情 と称 し得 る程 の精神 の衰弱Jに
就 いて述懐 した のである。 けれ ども、真 に新 たなる感情 は他 の現存す る感情一切 の修 正 を暗 に 意味 し、それ を引き受 ける知性 の新世界全体 を必要 とす る。 無論 、私 が今 書 い て居 るものを読む人々の 旧世界 に、それ を受 け容れ る余地 は無 い。 実際、我 々 は我等のかの古びた知的世界が、 これ以上存続す る と主張 し得 るのか。 それ は 終始無秩序で あ り続 けたが、今や ほぼ消滅 し遂せ た様 に感 じられ る。 私 はエ リオ ッ ト氏が新 世界 を差 し出 して呉れ るな どと信 じては居 ない。 が 、 我 々が最終的 な再建 を熟慮せ ざるを得ぬ この困難 な時代 に、多分 宗教 を嫌 悪 し て居 る読者の関心 を、私 はエ リオ ッ ト氏 の宗教 的な政治観 に向け させ たいので あ る。「関心 を向け させ る」以上の事 は望 まない。 勿論 、エ リオ ッ ト氏 の見解 に忠誠 を尽 くす様 、勧 めた りは しない。 けれ ども、念押 しす る迄 もな く、 この 通 り我 々は極 小集 団で あ り、全 く世 間 に知名 度 が無 い。我 々の行 動 の 可能性 は、様 々な事件 に中断 され る。事 に拠 る と、我 々は嘗て喋 々す る輩以上 の存在 であ り得 た験 はな く、事 に拠 る と、す ぐに我 々はただ思慮深 くあ らん とす る事 しか望み得な くな る。未来 と我 々 との関係 は、暗 く心 もとない。 事実、唯一存 在す る未来 との関係 とは、我 々が幾 らかで も確信 出来 るもの であ り、それ は批 判的知性 に対す る我 々の誓約 で あ る。批判 的知性 に就 いて、或 る批 評 家 は述 ベ て居 る、「それ は忍耐強 くあ らねばな らず、待 つ術 を知 らね ばな らぬ。 順応 性 がなけれ ばな らず 、 自らを如何 に事物 に執着せ しめ、又、如何 に事物 か ら後退 せ しめるかを承知 しなければな らぬ」。事 に拠 る と、エ リオ ッ ト氏 はマ シュー・アー ノル ドに対 して反抗的だが長期 に亘 り私淑す る時期 を過 ご して居 るか ら、 再 び アー ノル ドの文章 を引用す る事 も許 され よ う。批評 に関 して彼 は書 いた、 「それ は精神 的完全 の充足の為 に、必要 とされ る諸原理 を研 究 し賞賛す る傾 向 を持 たなけれ ばな らない、仮令その諸原理が実際的領域 に於 て、有害で あるか も知れ ぬ勢力 に属 して居 る として もJ。 この文章が′さを離れぬが故 に こそ、私 はエ リオ ッ ト氏の書物 の重要性 を力説す るのである。 左 翼陣営の想像 の中に、エ リオ ッ ト氏は常に極端 に単純化 され た姿 を現 して 来 た。彼 の物語 とは、以下の如 くに過 ぎぬ と想像 され て来た。即 ち、荒地 の恐 るべ き現実か ら逃れ て、彼 はア ングロ 。カ トリック神学の腕 の中に飛び込んだ のだ と。 この説 明は適切か も知れ ぬ し、不適切 か も知れ ない。 だが、マル クス 主義 が知識人 の間に幅 を利 かせ てその後は衰退 したあの十年間 を回顧す る時、 そ の物語 が仮 に真実である として も、我等の時代 の一人の人間に就 いて語 られ る、最悪 の物語 であるな どとは到底信 じられ ない。物語 中で非難 され るべ き事 柄 は何 で あれ 、「逃 れ る」 な る苛立た しい言葉 の 目眩 ま しの威 力 と、神 学 な る ものへ の我 々の態度 とに依存 して居 るのだ。神 学 に就 いて私が擁護す る事 は無 論 ない が、エ リオ ッ ト氏 が 「信 条」 を難 じられ、彼 の知性 を 「権威 」 に 「屈 服 」 させ た と批 判 され る とあ らば、そ の批判者 達 がマル クス主義者 で あ る場 合 、彼 ら自身 の行動 が何 時で も氏 とは どれ程相違 して居 たのか、理解 し難 いの で ある。若 し我 々に確信 に関す る個人的且つ道義的な価値 を、そ こに到 る迄 の 私 心 の無 い知 的努力 に依 り計 る権利 が有 る とすれ ば、エ リオ ッ ト氏の改宗は、 彼 の決 心 を攻 撃 した大勢 の連 中の転 向 よ り顕 著 に一層名 誉 な事 で は あ るまい か、 と我 々は気付 く筈だ。 エ リオ ッ ト氏 の書冊 は薄い もので あ り、明 白に劇 的 な訳 で はな く、「権 力」
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の尊大な 口ぶ りはまるで無 い。 異な る党派の読者諸氏 には、それ は彼 ら自身 の 解決策以上に包括 的 で現 実的 だ と想 定 され る様 な解決策 を示 し得 ない。 それ は ただ彼 らの前提 に疑間を呈す る事に依 り、彼 らの役 に立つ許 りで あ る。 その出 発 点 は単純で あ り、明明 自白で もあ る。エ リオ ッ ト氏 は国家 の政治哲学がその 理想 とす る諸 目的 を意識 的に公式化す る所 にではな く、寧 ろその公 式 を作 り上 げ るに至 る 「集 団 としての気質 、行動様式、無意識的価値観 な る土台」 に見出 さるべ しと信 じて居 る ものの、民衆 の大 半が余 りに も容易 く見つ け出す もの を、要す るに西洋デモ クラシー の政治哲学 と全体 主義 国家の政治哲 学 との間に 存す る対極的 な相違 を、見つ ける事が出来ない。 両者 が同一だ と、彼 は主張 し て居 るのではない。 両者 は形態 も異 なれ ば、性質 も異 な る。併 し、その相違 は 彼 には、原則 ではな く程度 の差異 に感 じられ るのだ。 民主主義 が全体 主義 か ら 自らを守 らん とす る時 、如何 に全体主義的な形態 を採 らざるを得 な くな るか、 それ を考察す る と、彼 はその相違が時間以上の ものに依存 して居 る とは結論 出 来 ない。擁護 され る為 には、両者 の相違 は時制 的な もの以上 で な けれ ば な ら ず 、原則的であ らねばな らない。 そ して、エ リオ ッ ト氏 には、全体主義 の原則 に対置 され る諸 々の原則 が、 自由主義や民主主義 のそれ である とは信 じられ な いのである。 自由主義 は政治 に於て必要な消極 的要素ではあ るが、それ以上 で はない。民主主義 に関 しては、エ リオ ッ ト氏は書 いて居 る、皆 がそれ を余 りに 褒 めそやすので、その表彰 はメ ロ ビング朝の皇帝 を想起せ しめ、周 囲 に大宰相 を探 さしめる程 だ と。 けれ ども、全体 主義 とはエ リオ ッ ト氏が 「異教的」 と呼ぶ もので あ るか ら、 彼 が見つ け られ る唯一可能 な反対原理 とはキ リス ト教のそれ で ある。彼 は未 だ イ ングラン ドを、1938年 9月 の事件 に対 して現 にあの様 な反応 を示 したイ ングラ ン ドを、異教的国家 と見倣す事 は出来ない、尤 も、それ を実質的にキ リス ト 教 的 国家 と称す る事 も出来 は しないのだが。 その国が持つ文化 は 「大部分 は消 極 的 だが、それ が積極的にな る範 囲に於 ては、未だキ リス ト教的で あ る」。 だ が 、状 況 は最 早 消極 的文化 を認 めないか ら、「新 た な キ リス ト教 文 化 の形成 と、異教の文化 の受容 との間で」二者択一が為 され ざるを得 な くなる。 氏 の短 い書物 を通 して一再な らず我 々は、エ リオ ッ ト氏が次の如 く語 るのを 聞 く、信仰復興運動 としての キ リス ト教 には興味が無 い、 と。 更 に、彼 は 「著 名 な る神 学者 」 の言葉 を引用す る、 曰 く、 キ リス ト教 に関 して犯 され る大 きな 過 ちは、事実 はそれ が第一に教義であ り知的な ものであるに も拘 らず 、それが 第一 に宗教 であ り感 情的 な ものであ る と想 定す る事で あ る と。 それ な ら、我 々 は敬虔 な感情 と してのキ リス ト教 なんぞではな く、人間 と世界 とに就 いての正 確 な見解 (社会形態 もそ こに含 まれ る
)と
してのキ リス ト教 に関心 を懐 くべ き で あ る。 だが、我 々がキ リス ト教社会 の理念 ② に就 いて耳 を傾 け る用意 をす る時 、 当然我 々はその提案者 に斯 う尋ね る権利 を有 して居 よ う、存在 して居た と主張 され る様 な以前のキ リス ト教社会 を失敗 に帰せ しめたのは、貴方 の意見 で は一体何 か と。又、我 々は斯 く借問す る権利 も有す る、キ リス ト教の性質の 中の一体何 なのか、全体的 なキ リス ト教文化 の 中で訓練 を受 けた人 々や 国家 を して、今 しも世界救済を期待 され て居 るその教義が不適切 である事 を否応 な く 悟 らされ る、 と感ぜ しめ るが如 き状態 を招 来 した ものは何 か、 と。 或 は氏 の回 答 は、 キ リス ト教 は正 しい けれ ども万能 ではない、 キ リス ト教 に も簡 単 に対処 し得 ぬ人 間の衝 動 が ある、云 々か も知れ ない。或 は若 し、エ リオ ッ ト氏 の様 に、過 去 の弁証法 的唯物論 的 な解釈 は認 めて も、未来 のそれ は認 め ないな ら ば、未 来の希望 を制限す る事 な く、過去の失敗 を説明す る物質 的原 因 を見出すライオネル・ トリリング 「
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リオ ッ トの政治観J か も知れ ない。 ともあれ 、我 々はエ リオ ッ ト氏 に不十分 な回答 を為 させ て はな らない。 けれ ども、実際 、我 々の歴史的な懐 疑 を満足 に晴 らして呉れ る回答 を 想像 す る事は難 しい。 この懐 疑 も亦 、嘗 て在 りし過 去 には取 り戻す に値 し取 り 戻す事 の可能 な政治 的価値 が存在 した との、エ リオ ッ ト氏 の表現 され ざる意識 に依 り惹起 され るものなのである。 我 々が反論 に転ず る前置 きは、 これ位 に してお く。勿論 、我 等 の反論 はエ リ オ ッ ト氏が特別 な勧告 を し続 けるにつれ て小 さくな りは しない。彼 の計画す る 所 では、社会 は三つ の相― キ リス ト教 国家 、 キ リス ト教共 同体 、 キ リス ト教 徒 の集 団 と彼 が呼んで居 るもの一 に於 て存在す る。 この多少 な りともプ ラ トン的 な三重 の相 は、我 々が気付 か ざるを得 ぬ様 に、寧 ろ最小 限度 の キ リス ト教 に基 いて存在す る。何故 な ら、氏のキ リス ト教 国家 の首長 に関 しては、指導者 達 が キ リス ト教の範疇 で思考す る様 に教育 を受 ける事 しかエ リオ ッ ト氏 は求 めない か らである。 その他 の点では、指導者 の価値 の基準は政治家連 中が常 に服 従 し て来 た もの、即 ち信 心深 さでは な く有効性 で あ る。 エ リオ ッ ト氏 は述 べ て居 る、「彼 らは度 々非 キ リス ト教的 な行 為 を為 して も宜 しい。 併 し、彼 らは断 じ て 自らの行為 を、非 キ リス ト教的な原理 に基 いて弁護 しよ うと試 みてはな らな い」。その国家 は消極 的 にのみ キ リス ト教的 なので あ り、それ が治 め るキ リス ト教社会 の反映 に過 ぎない、 と語 られ る。併 し、 この社会 自体 に頗 る熱 烈 なキ リス ト教 は浸透 して居 ない。 その市民の大半が キ リス ト教共 同体 を構成 して居 るが 、彼 らの行動 は 「大い に無意識 的」 で あ るべ きだ。何 故 か。「信仰 の対象 に就 いて “考察す る"彼
らの能力 は乏 しいか ら、そのキ リス ト教 はほぼ完全 に 行動 面 に於て実現 され て好 い。 人 々の慣 習 と断続 的 な宗教儀 礼 との順 守 、彼 ら の隣人に対す る行動 の伝統的な規則 との点 に於 てである。」だ とすれ ば、キ リス ト教社会 に積極的なキ リス ト教の色合 を加 味すべ く残 さ れ て居 るの は、エ リオ ッ ト氏が キ リス ト教徒の集 団 と呼ぶ ものであ り、 これ は コール リッジの 「知識階級」 を想起 させ る集団だが、よ リー層排他的な選 りす ぐ りで 、意識 的にキ リス ト教徒 の生活 を送 る、顕著 な知的精神的才能 に恵 まれ た聖職者 と平信徒 とか ら構成 され て居 る。正 しく彼 らこそ、その 「信 条 と熱望 との独 自性 、彼 らに共通 の教 育制度や 共通 の文化 の経歴 に依 り」集 団 と して 「国家 の意識的な理性 と良心」 を形成す る事 になる。彼 らは階級制度 を築 くベ きで はない し、だか ら組織 され るよ り寧 ろ緩や かに一つ に結 ばれ て居 るべ きで あ る。 エ リオ ッ ト氏 は彼 らを、その広範 な影響力 を持 ち得 る可能性 に於 て、現 在相 互 の為 だけに著作 を物 して居 る隔絶 した知識人達 と比較す る。 明 らか に直 に実際的 な事柄 に就 いて、エ リオ ッ ト氏 は彼 の キ リス ト教社 会 を、 キ リス ト教社会学者 の計画 した様 々な改革実行 の成功 を基準 とした判 断に 委ね る事以上は、殆 ど何 も述べて居ない。斯様 な社会の当然の 目的 は、人間の 「美徳 と共 同体 に於 ける幸福 」 であ る。 この事 は 「万人 に認 め られ て居 る」 が、「見通す 眼 を持 つ人々」 には、至福 な る超 自然的 目的 も亦存在す るのであ る。文化的 には、 この様 な社会 は多元的であ らねばな らぬ、恐 らくはその言葉 の限定的な意味合 に於て。尤 も、我 々はキ リス ト教徒 の集団がキ リス ト教 に無 関心 な、或 は敵意 まで抱 く知的な人々を含む事 になる と説かれ るのだが。 ここ には、我 々の現在有す るもの よ り小 さな社会機構 の単位 の方 が良い効果 を及 ぼ す との要 旨への明 白な確信 がある。使用の為 の生産 は 自然且つ道義的 だ と語 ら れ る。 階級 の廃止 は不可能ではない と言及 されて居 る。 明 らか に、 これ は誰の熱情 をも高める事のない様 な社会未来図だが、 さ りと て実現不可能 な予想 を提起 して失望 を生む事 もない様 だ と想起すれ ば、事 に依
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る と、完全な失敗 と極 め付 ける訳 に も行 かない。 その明 白な不適格 に関 して、 幾分 かはエ リオ ッ ト氏 の気質 の或 る欠 陥 か ら生 じて居 て 、それ は厳 格 な神 学 的 ア ング リカニズムの特 定の側 面 と気質 の 中で結び付 いて居 る、それ が我 々に次 の如 き物 を、民衆 が現実 に どの様 な存在 であるかに関す る冷淡 な無知 とか、道 義 と俗物根性 や服従や 、それ所 か相 当過酷 な ピュー リタニズム との混 同 とか を 示 して居 る、 と然 く指摘 され るか も知れ ない。 併 し乍 ら、それ以上 に重要 な事 は、不十分な見解 に由来す る不適格 であ り、仮令 、我 々が この著作 の 自 らに課 した制限を考慮 に入れ た として も不十分 な ものであ る。 それ は多様 な社会形 態 と権力 との関係 、権力 と富 との関係 に就 いての見解 なのであ る。 この問題 を明 確 に考察せず には宗教的政治 も、そ の様 な政治 の最 も理 論 的 な論述 です らも、 責任 回避 と見 え るに相違 ない。 けれ ども、我 々がエ リオ ッ ト氏の概念 の不適格 を悉皆理解 した と して も、 尚 且つ長い 日で見れ ば、それ 自体の現実的価値 がある と私 の感ず る、理論 的 関心 は無 くな らないので あ り、それ は氏 の社 会 が基盤 を置 くそ の前提 に存 して居 る。エ リオ ッ ト氏 は弁明書 を これ迄書いて居 ない し、私 の知 る限 り、信 条の体 系的 な論述 も物 しては居 ない。併 し、パ スカル に関す る彼 の評論 の文 章が、氏 の信条の論拠 の何 た るか を明 白に して呉れ る と愚考す る。 エ リオ ッ ト氏 が語 ら ん とす るのは、「知 的 な信者Jが
彼 の信 仰 に到 達す るそ の道 程 を 「不 信 心者J が理解 出来ぬ との論 旨で ある。彼 は書いて居 る、不信 心者 は以下の如 く 「勘 考 しない、若 し、何 らかの感情 的な状態、何 らかの人格 の発達、最 も高 尚な意 味 に於 て “聖人 らしさ"と
呼び得 るものが善であ る と、本 来的に且つ検証 に依 り 知 られ て居 るな らば、それ な らこの世界 に関す る満足 な説 明は、 これ ら諸 々の 価値 の “現 実性"を
認 め る様 な説 明 で な けれ ば な らない」。 この文章 は、軽 率に書かれ た筈 な どあ り得 ないか ら、エ リオ ッ ト氏が或 は本人の認 める以上に、 彼の頗 る軽蔑 して居 るマ シュー・ アー ノル ドの実用 主義 の神 学 に近 い事 を表 し て居 る。 だが、エ リオ ッ ト氏の神学の正確 な特質 は、差 当 り重要ではない。全 く新 たな知 的世界 な る意 味の現代 人の課題 に関係 す る事 、それ に私 の把握 した い事 、それ 自体の為許 りではな く、それ 自体 を超 えて示 して居 るものの故 に私 が掴 みたい事 は、エ リオ ッ ト氏が関心の有 る道義 の問題 である。少 し前 に彼 は 発言 した、「私 にはモ ラ リス トの観 点か ら公 的な問題 を取 り上 げ る傾 向が有 る」 と。 それ か ら幾度 とな く彼 が繰 り返 したのは、政治 と経済 とを道義か ら独立 し た問題 と見倣す事な ど不可能だ とす る主張だ。倫理的な意味に於て不可能 であ る、政治経 済の理論家 は左様 に政治経済の問題 を考察 「してはな らない」。然 も、実際的 な意 味 に於て も不可能 である、理論家 は理論 を築 く際、(往々に し て表現 され ぬ
)道
義 的前提 の根拠 に基 かず には理論 の構 築 が 「出来 ない」。「私 は この世界 に秩序 を齋す為の如何 なる計画 も一切信用 しない」 と、エ リオ ッ ト 氏 は語 る。「その提案者 が次の質 問に満足 に回答 して居 ない限 り。 即 ち、良 き 人生 とは何 で あ るか、の問題 に。」 無論 、誰 しも皆道義 を認 める。 全モ ラ リス トのモ ラル を疑惑の 目で見た レオ ン・ トロツキーです ら、道義 を称揚 した。併 し、トロツキー 同様 、大概 の人は 道義 に就 いて幾分曖味な流儀 で凡慮 を巡 らせ る。 それ は彼 らの望む特 定の革命 が成就 した暁に涵養 され るべ き ものだが、只今 は道 半ばで邪魔 にな るだ けであ る。 さもな くば、彼 らは道義 を、何 であれ革命 を惹 き起 こす為 に役 立つ もの と 見倣す。 けれ ども、エ リオ ッ ト氏 は道義 を絶対的 な もの、而 して手段 な らぬ 目 的 と見 る。然 も更 に、それが間断無 く現在の 目的であ り、無期限に延 期 出来 る もの に非ず 、 と彼 は信 じて居 る。彼 は単に社会的善 とその実行 (これ も含 まれライ オ ネル・ トリ リング 「
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エ リオ ッ トの政治観」 るけれ ども)そ
れ だ けを意味 して居 る訳ではない し、功利 主義 の観 点 か らのみ 判 断 出来 るもの を意 味 して居 るので もない。彼 が意 図す るの は、我 々が忘失 し 去 りし見方に於 ける個 人的な何か或 るもの、我 々の否定 し去 りし方面 に於て個 人 の行動 と宇宙の秩序 とを結び付 ける何 ものかなのである。エ リオ ッ ト氏が 自 らを政治的にはモ ラ リス トと規定す る時、彼 の意図す る最 も大事 な点 は、政治 が人間の物質的安穏 の為 よ りも、人間の道義的完成 の為にそれ が為す事柄 に基 いて評価 され るべ きだ との 旨の主張なのだ。何 故な ら、 この世の人 間の善 な る ものは、(その場所 を限定す る形容詞 がエ リオ ッ ト氏 には重要 なのだが)道
義 的完全性 であ り、 これ を促進せ しめるものが政治的 に善であ り、それ を妨 げ る ものが政治的 に悪 だか らで あ る。 収 、私 はエ リオ ッ ト氏 に与 して道義 が絶対的 だ とは観 じないが、氏 の道義 に 関す る思考方法 が トロツキーや マル クスの方法 よ リー般的 に或 る政治的利点 を 有す る と確信 して居 る。若 し、一方が も う一方 よ りも近年 の急進 主義 の文化 を 特徴付 けて居 る とす るな ら、それ は手段 に関す る考察 が 目的 に関す る考察 よ り 優 先 され る との謂 に他 な らず 、或 は 又、 目的 と手段 との混 同な る誤解 の恐れ を 避 ける為 に、我 々は寧 ろ、 当面の 目的が究極の 目的以上に遥 かに重 大視 され て 居 る と申すべ きか も知れ ない。今 日の急進的イ ンテ リは、究極 の 目的 に比 して 当面の方法に見出す 関心の点 に於 て、ほんの二十五年 前の彼 の政治 的先駆者 と も異なる存在 である。然 も、我 々が一層 長期 間を視 野 に入れれ ば、 よ り大 きな 相 違 を見つ け る事 に な る。 革 命 の準備 時代 は、(モンテー ニ ュか らル ソー と デ ィ ドロウに到 る時代 の事 が私 の念頭 にある)人
々が人間の為 に偉 大 な徳性 を 計画 した時代 であ り、その社会的 な想像力 は、一際生彩があ りし折 には、我 々 の計画 された世界が最早持 ち得ぬ特質 を未来の世界 に付与 したのだ。 フ ランス革命 は人格 に就 いての最 も熱烈な考察 に基いて推 し進 め られた。 モ ンテーニュ のモ ンテーニ ュ、ル ソーのル ソー と彼 のエ ミール、デ ィ ドロウのダランベール と彼 の ラモーの甥 を想起すれ ば好い。そ して、序で乍 ら重要な事は、 この時期 の後 、 フランス革命 に触発 され た如何 なる国に於て も、小説 が 当然激 しい生命 を帯びて居 た との事実である。 それ は何故か。十九世紀の小説 を左程活気付 け たの は、その情熱 的な、否 「革命 的な」関心、人間如何 にあるべ きかの関心で あ る。詰 り、それ は道義的関心であ り、その世界は未来の道義的革命 の意識 を 有 して居 た。 現代 の小説 は、殊 に急進的イ ンテ リの掌握 す るそれ は、衰 弱 した 機械 的 な作 品に堕 して居 る。 この衰退 は、人 間 ど うな るべ きかの疑 間 に対 して 増 大す る無 関心 と軌 を一 に して居 る。 諸事件 の加 速す る進展速度 が、 この変化 を説 明す るのに大 い に役 立つ。 大惨 事 の迫 り来 る速度 、我 々の内な る沈み行 く船の感覚 、それ に我 々が確 か に当然 の如 く、保 たれ るべ き人生の質 よ りも生存 に優位 を認 める事。 その変化 の多 く はマル クスの説 明に帰せ られ る。マル クス こそが社会科学の権利 を主張 し、唯 物論的且つ弁証法的 な因果律 に就 いての概念 を起想 して、彼 の信奉者達 にその 新規 な強調 が避 け られぬ と感ぜ しめたのだ。道義 に関す る熟考 を、マル クスは 大 い に軽蔑 した。彼 は道義 か ら出発 し、『 資本論』 の大 い な る歴 史 的叙 述 的 な 数 章 か ら説 き始 めて居 るが、その 中で この問題 の提 唱 を継続 しない。恐 らく彼 が、世界秩序 は道義 を確 立 しつつ ある と信ず る様 にな るか らである。彼 は頻繁 に人 間の威厳 に就 いて語 る。 が、只人 間の威厳 とは如何 な る ものか、それ は 我 々に語 らない し、信頼す るに足 る どのマル クス主義哲学者や詩人 も、決 して 我 々に話 して聞 かせ は しないのだ。 それ は彼 らの科学の考察範 囲内に現れ る主 題 で はないので あ る。
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けれ ども、諸事件 の速度許 りで な くマル クス個 人 に も、我 々は道 義 に対 す る、そ して 目的に対す る無関心の責 めを背負せ る事 は出来 ない。 それ は事実マ ル クスが一部であ り速度 も勿論その一部 であ り、 けれ ども我 々一人一人 も亦そ の一部である何 か に、その責任 が降 り懸 かるに相違 ない。我 々の時代 の想像力 全体 にだ。手段 の急務 の前 には益 々加速度的 に価値 が下が るものだ と、そ の様 に人間の本質 を理解す るのが、 この想像 力の特徴 だか らである。 レーニ ンが我 々にその合 図 を出 して呉れた。『 国家 と革命 』 の最 後 に、彼 は 我 々に話 して聞かせ た、人 が何 で も好 きな もの になれ る様 な時 が来 る迄 、人 が 何 にな るべ きか との疑間は延期す るのが尤 もだ と。斯様 な事が ど うして発 言 さ れ るか、人は理解 出来 る。併 し又 、 これ を語 る事 が選択 の保 留 を可能 に しない 事 も、理解 出来 る。 それ は既 に為 され た選択 で あ り、それ を選 ん だ事 は或 る 人 々に権利 を授 けたのだ、共産 主義 の倫理 と文化 とはブル ジ ョワ商業社 会 の倫 理 と文化 の拡 張以外 の何 か別物 なのか ど うか、 を知 りたが る権利 を。 何 年 に も 亘 り、我 々の道義的神話の英雄 は『 ソヴィエ ト・ ロシア・ トゥデイ』誌 の表紙 か ら微笑み掛 ける労農 であ り、彼 は素朴で勤勉 で教養 が有 る上 に、謝意 に溢れ て居た。彼の如 き人々が実在 したか否かは解 らない。 人は居 まい と怪 しみ 、居 ない事 を希望す る。 けれ ども、彼 こそは指導者達 と急進的イ ンテ リとが道 義的 理想 である とて、喜ん で広 めた人物像 なので あ る。 あの 多分人為 的 な労働 者 は、当面の 目的への没頭 が施 し得 た道義 的な極 限であ る。 かの労働者 に代表 されたその縮小 した理想 は、事 に依 る とエ リオ ッ ト氏 な ら 彼 の立場 か ら異端 と呼ぶ ものだ。併 し、別 の観 点か らすれ ば、それ は又 、現実 的政治的誤 りで もあ る。それ は唯物 主義者 と合理 主義者 の心理状態 に隠れ て居 る誤 りで あ る。 それ に対 しては、十 九世紀 の或 る一 派 は常 に抗議 して居 た。ヮー ズ ヮー スは抗議 した最初の一人だが、 ゴ ドウィン流 の精神観 を捨 てて彼 自 身 の心理学 を展 開せ しめ、そ こか ら政治観 を導 き出 した。確 かに彼 の政治観 は 結 局 の所 、十分 に反 動的だ。 だが、それが反動的たる所以 は、様 々な理 由が有 るが殊 に以 下の理 由に依 る。 それが進歩的な製造業のホ ウィ ッグ党員 に も過激 な哲学者 に も等 しく共有 された人間観 に異議 を申 し立てて居たか らであ り、そ の人間観 とは、広大無辺なる或は政治的な計画の中では、人間が頗 る単純 に し て、個人 としては僅 かな価値 しか持 たぬ との見解 である。 ワーズ ワー スがフラ ンス革命 を見限 るのは、 この見解 の所為であ り、その革命が欠いて居 た もの、 若 しくは部分的に否定 した ものを提供す る為 にこそ、 ワー ズ ワースは彼 の最高 の詩 を書いたのだ。 フ ランス革命 の哲学が欠いて居た もの、或は否定 した ものに、相応 しい名称 を見つ ける事は難 しい。時にはそれ は神秘主義 と呼ばれ るが、神秘主義 ではな い し、 ワー ズ ワー スは神秘主義者ではない。時には、宛 も妥協の産物 でで もあ るか の様 に、「蘊 奥」 と名付 け られ るが、その呼称 は恐 らく一層真実 に近 いけ れ ども、無論 十分真 実に近付 いて居 る訳 で はない。 否 定形 を使 用 して述 べれ ば、それ は人間が紋切型 の公式では理解 出来ぬ との主張であ り、肯定的 に説 明 すれ ば、複雑 と可能性 との感覚、驚異 と激化 と多様性 と展 開 と真価 との意識 な のである。 これ らの事柄 は、芸術 に於 て我 々がその多少 な りとも抽象 的表現 を 認 めて居 る ものだ。社会的な問題 に於 て我 々がそれ らを認 め られ ない事 には、 重 大 な意義 が有 る。 この特質 に就いて話 して居 る時で も、我 々には名称 が付 け られ ぬ事 、詰 り我 々の困惑が、我 々の思考不能 を示 して居 る。 けれ ども、 ワー ズ ワースは この特質 に就いて語 る事が出来たのだ し、それ を全体的に道 義 と、 道義 の暗示す る精神 的特質の一切 と関連付 けたのである。 とどのつま り、彼 は
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道義 を絶対な らしめ、一般 に認 め られ る如 く、それ をあ らゆる種類 の不健 全 に して危険で もある観念 と交戦せ しめた。併 し、彼 がその特質 を想像 した際、人 間が手段 に化せ られ得 る とす る信 条 に反 対 して防御 して居 たの で あ り、然 も、 人間一人一人が一つ の 目的である旨を断言 して居 たのであ る。 悲劇 的 な皮 肉だが 、道義 的可能性 の縮 小 は、そ の道義 的可能性 には 自由意志 も個 人の価値 も含 まれ るに も拘 らず 、現 にあ る通 り、人 間が完全 にな り得 る と の観念 か ら生ず る ものなのだ。③ その 「究極 の人 間」 は、その御 前 にては現世 の人 々全員が手段 に過 ぎぬ、一大 目的 と成 り遂せ た。斯 か る観念 は一般 に進歩 の観念の一部 であ り、ブル ジ ョワにもマル クス主義者 に も共有 され た信 条 なの だが、 この世界 の方 向性 は決 して止む事 の無 い改善 の方 向なのだ との趣 旨であ る。 マル クス主義 に関す る限 り、 この見解 はマル クス主義者 の弁証法 と配齢 を 来 して居 る様 に感 じられ る。絶対 ではないにせ よ、それ と区別 が付 かない程絶 対 に近 い判断基準 に集れ て居 るか らであ る。 方 向性 の判断、「よ り高度 なJが
何 を意味 じ 「よ り良いJが
何 を指 し示 して居 るか に関す る確 実性 の 事 だ。(多 くのマル クス主義者 が進 んです る様 に)マ
ル キス トが、幾星霜 を経 て芸術 も定 義 可能 な進歩 と改善 とを表 して居 る との信 条 を擁護 す るの を聞 くだ けで 、お決 ま りの所説の執れ に於 て も、その見解 が如何 に支持 出来ない ものであ るかが解 る。 おまけに、芸術 に於て観 察 出来 る と主張 され る進歩 が、人間関係 に於 て も 同様 に認 め られ る と評 され るので あ る。 更 に、その進歩 の観念 か ら発展 して来たのが、過 去への軽侮 と未 来へ の崇拝 とであ り、それ は我 々の時代 の急進的な思想 を極 めて特徴的 に表 して居 る。過 去 は不可欠 な失敗 の連続 と見lltされ 、弁証法 の論 法 を以 て、事 に依 る と価値 が 有 るや も知れ ぬの は、後 に来 るべ き ものにそれ ら失敗 が貢献す るか らなので ある。過去は悉 く失敗 だ、現在 は一完璧 と成 る未来 に照 らして見れ ば、何 が大事 な ものか。過 去 を失敗 と見倣す意識 、現在 を未来へ の 自発的属 国 も同然 と見 る 意 識 か ら、或 は、それ と共 に、如何 なる瞬間に於 て も、人 間の特性 は正 しか ら ず とす る意識 が生ず る。大方 の急進 的哲学者 は常々激 しく原罪 の如 き概 念 は如 何 な る もので あれ非難 して居 た し、一般 的に、生来人間は善良である との信条 を懐 いて居た癖 に、一方に於て、人間が質の面で も類 の面で も、社会主義 を通 して 、我 々には予測不可能 な申 し分の無い方法 を以て、全体的 に変化 させ られ る事 になる、 と然 く仄 めかす事 に依 り、 自家撞着 を犯 して来た。人間は、嘗て 善 良な る人 々の あ りし如 くにではな く、新 たな不明瞭な る方途 に依 り善 良 と成 り得 る、な どと。少 な くとも通俗的マル クス主義 の根底 には、あるが儘 の人間 性 に対す る一種 の嫌悪感 と、あ るべ き人間性への完全な信頼 とがいつ も併存 し て居 た。 私 が序 で に述べ た様 に、エ リオ ッ ト氏 は 自身の嫌悪感 を懐 いて居 る。彼 の後 期批評 は、教 会法 的 に正 しくない どの様 な生 の顕示 に対 して も、彼 の苦痛 に満 ちた吃驚 を示 して居 る。 けれ ども、少 な くともエ リオ ッ ト氏 の感情 は彼 が想 定 す る宇 宙 に相応 しい し、少 な くとも彼 は 自己の感情 に気付 いて居 て、その感情 へ の対策 を怠 らない。彼 の宇宙 に関 して、二つの事 をエ リオ ッ ト氏 は断定す る。 聖 なる排列 と絶対的な道義 とである。 この二つの想 定か ら注 目に値 す る三 つ の現実的な結論 が生まれ る。 第一の結論 は、人間の生活 が二つの忠誠 を必要 とす る事、神 の力 に依 り定め られた宇宙 を代表す る普遍的教会への忠誠 と、俗 世 の必要不 可欠 を代表す る国家及び国教会への忠誠 とである。 そ して、国教会 が絶対的道義 に傾倒す る事 は、国家それ 自体の内部 に二元論 を作 り出す。何故 な ら国教会 はその機能 に於て国民の国家 と意見の一致 を見ないか も知れ ないか
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らだ。 この二元論 が国家統制や人種差別 の如 き政治問題 の一元論的解 決 に抗 し て防壁 を成す 、 とエ リオ ッ ト氏 は信 じて居て、それ が創造す る緊張状態 は、彼 にはキ リス ト教社会の顕著 な特徴 なのである。 エ リオ ッ ト氏の想 定 に基 き暗示 され る第二の点 は、決 して到達 され得ぬ道義的 目標 が有 り、決 して実現 され得 ぬ政治的理想 が存在す る、 との主張である。 この世界 は栄光無 き儘 全体 と して 放 置 され る事 は無 い、 と我 々は語 られ るのだが、現世 の社会 は全 てその理想 の 傍 らで は惨 め な位 無力 なので あ る。 この道義 のプ ラ トン主義 は無 論 、人 間の 諸 々の希望 に抑 制 を掛 け、「進 歩Jの
可能性 を制 限す るが、併 し、そ の悲劇 的 な前提 は斯か る良き結果 を生ず る。即 ち、それ らの前提 は 「最 終」闘争 の観念 の如 きもの を阻止 し、「国家 の弱体化」 を許す事 に繋 が る様 な究極 の道 義 的勝 利 を我 々が′心に描 くの を妨 げ る。 その前提 は我 々に、 この葛藤 が永遠 に続 く事 を認 め させ 、認 め させ る事 に依 り或 る種 の慈愛 の施 しを許すのであ り、 この慈 愛 の御 蔭で、未 来 の人 類 と同等 に現在 の人 類 を、我 々 は尊重 す るか も知 れ な い。 想 定は必要か ら生 まれ 、意 図す る所 に適 さね ばな らぬ、 と我 々は主張 し、而 して想定は左様 あるべ きである。若 しかす る と、比較的最近の時代 で は、宗教 的 なイ ンテ リは思 考に於て必要 な想 定の諸原理 を認 め る事 にか けて は、全 ての 想 定 を不条理 と評 す る傾 向が あ る急進 的 な哲学者 よ りも、遥 かに誠 実 なのでは あ るまいか。エ リオ ッ ト氏は この誠 実を分かち持 ち、彼 の思想 はそれ か ら恩恵 を受 けて居 て、我 々の思想 も彼 の思想 が有す る美 点 か ら恩恵 を被 るか も知れ ぬ。 けれ ども、若 し我 々の想 定が我 々の必要か ら生ず るのな ら、それ で も矢 張 り真実なのは、我 々の必要の妥 当性 と、我 々の意図 と我 々の必要 との間の関係 とが論理的且つ経験的 に検証 され て好 い事であ る。 その様 に検証 され るな ら、エ リオ ッ ト氏の政治形態は一溜 りも無 い と私 は観ず る。 一例 を挙げる と、若 し 彼 が述 べ て居 る 「緊張関係 」 を有効 に提供 して居 る教会 の歴 史的事例 や 現 実的 公 算 が有 る と、その様 に彼 が信 じて居 るのな ら、私 は彼 が 自己を欺いて居 ると 感 ず る。 事 実、私 の惟 る所 、彼 の意図が何 で あ るにせ よ、彼 が頼み とす る教会 の機 関は 「現実的 な領域」 に於 て必ずや有害 となる筈 だ。仮令、私が説 かん と した所 が、唯物主義 の想定が大いに我 々を失望せ しめて来た との主 旨であ るに せ よ、明確 に、それ は超 自然主義の想 定が我 々の助 け とな り得 るな どと結論付 け る為 ではないのであ る。 現 に超 自然 主義 の想 定に基 いて居 るけれ ども、エ リ オ ッ ト氏の政治観 は疑間の余地無 く、徹底的に脆 く批判 され易い。 けれ ども、 私 は敬意 を表 しつつそれ に就 い て発 言 して居 るのであ り、それ は合理 的且つ 自 然 主義的な哲学が、何 とか満足 ゆ くものに成 る為 には包摂 しなけれ ばな らぬ諸 原 理 を暗示 して居 るか らなので ある。 原註
(1)こ
の評論 は、元々 「求め られ る諸原理」 と題 され 、『 リベ ラル な想 像 力』 の 中に収 める事 を検討 して居た様 である。併 し、何 らかの理 由で採 用 さ れ て は居 ない。検討の最 中に、その題名 が此処 に挙げ られ て居 る通 り、 「TSエ
リオ ッ トの政治観」 に変更 された。(ダイ アナ 。トリリン グ) (2)「 理 念 な る言 葉 に依 り私 が 意 図 す る所 は・・・ 或 る事 柄 の 発 想 で あ り 。・ 。そ れ はそ の究極 の 目的 に 関す る知識 に依 り授 け られ る。」 ― コール リッジ(3)道
義 的可能性 に関 して困惑 し否 定す る、更 に微妙 な諸結果 を探 究す る事 を、私 は或 る小説家 に委ね る。その困惑 した否定は、急進的な知識 人達ライオネル・ トリリン グ 「
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の私生活 に顕れ て居 る。彼 らが この否定 を利用 して来たのは、勿論 、 己 自身 よ りも思 索す る能 力の劣れ る人 々の行為 を説 明す る為 で あ る。 彼 ら 知識人は断言 して来た、一般 大衆 は彼 ら自身 の行動 に道義的責任 有 りと 見倣 され てはな らず 、只 々歴 史 と環境 のみ を問責すべ し、 と。 この寛大 な想定 を拒絶す る事 は誰 に も出来まい、 と愚考す る。 けれ ども、様 々な 疑 間が生 じて来 るに相違 ないのは、道義 的知 的 な訓練 に於 て我 々 と同等 である人 々を判断す るに際 して、 どの様 な方法 を我 々は使用すべ きか と の問題 である。 その上、判断の方法 に関す るの と同 じ疑間が、 自己 自身 に就いて も生ず るに相違 ない。何故 な ら、現実 の実践 に於て 、 自 らの一 身上の失敗 を一 彼 らの実地経験 上 の失敗 の謂 で は ない一 状況 丈 の所 為 に 帰せ しめ満足 して居 る輩 を、我 々は簡 単 に大 目に見 た りはせ ぬ か らで あ る。小説家連 中が この問題 を取 り上 げて居 ない事 は、急進的 な知識 人 が 支配 して居 る小説 の失敗 に関 して、私が述べた内容 の正 しさを証 明 して 居 る様 に私 には感 じられ る。 が、二つの例外 に就 いて、特筆 大書せ ね ば な らない。マル ローの『 人間の宿命』 とシ ロー ヌの『 パ ン と葡 萄酒』 と で ある。 原典Tri■mg, Lionel ``T S E1lot's Pohtics'' Spθ αたりηθげ Lをιθ7´αιzγθαηα
Sοθじθιν Ed [)iana Trinllg. NeM/York: Harcourt, 1980 156-169
訳者註
ン・ レヴュー』 に最初 に発表 され た ものであるが、著者 の真摯な批評態度 と指 摘 内容 の深刻 且つ重大 の故 に、今 日W「か も古びて居 ない。 先ず 、そ の批評態度 に就いて、私 は彼 の知的誠 実に驚 きを禁 じ得 ない。 自身 マル キス トであ り乍 ら保守派のエ リオ ッ トの著書 を公 平に好意的に紹介 し、 申 し訳程度 に批判 した上、返す刀で味方 のマル クス主義者 を存分 に斬 り捨 てたか らで あ る。書 いた トリリングも立派 だが、共産党系の雑誌 に掲載 を認 めた編集 者 も見事 で あ る。党派心に東縛 され ぬ知的誠実が トリリングの身上なのだが、 そ の真摯 を理解す る具眼の士 も居 た訳 である。 この評 論 を訳 した後、 トリ リン グ に 関す る齋 藤 博 次 氏 の 「7んθLじbθγαι ル η
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αιtο%の
政 治 学」(岩手 大 学 人文社 会科 学部『 言語 と文化・ 文 学 の諸 相 』2008年 、185198)な
る論考 を読 んだ。 文学 (道義)を
政 治 よ りも上位 に 置 く トリリングの批評態度 に対 して、進歩派寄 りの政治主義的立場 か ら論評 し た 内容 で あ り、「政 治 の問題 とは常 に文 学 の問題 に包 含 され る」(192)と か 「美学へ の退行 」(195)と かの評 言 が私 の興味 を惹 いた。政治イデ オ ロギー に 先 立つ道 義的価値 (或は宗教的価値)の
重大性 に関 しては、依然 として理解 さ れ難 いのであ る。 次 に、深刻 且つ重大 な指摘 内容 とは、理想 と現実 との二元論 の難問で ある。 トリ リン グは敬愛 したオー ウェル に関す る卓抜 した論 文 を二篇 著 して居 て、 「ジ ョー ジ 。ォー ゥェル と真実の政治Jの
中に以 下の文章がある。「現代 に於 け る中流階級知識人の特徴的な誤 りは、抽象性 と絶対性への傾斜 、思想 と事実 と を、 と りわ け個 人 的 な事 実 とを結 合 させ る の を嫌 が る事 で あ る」(Lionel Trilling, `George Onvell and the Politics of Truth,' 7ん θρρροSZηθライオネル・ トリリング 「
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け、理想 と現実 との間 を激 しく行 き来す る事 こそ重要だ と、トリリン グは主張 す る。彼 が 肖 りたい と望んだ 「有徳 の人」(136)オ
ー ウェル は、その往 来す べ き両極端の象徴 と して ドン・ キホーテ とサ ンチ ョ・パ ンサ とを挙 げた。 中村 光 夫 の言葉 を借 りるな ら、 この 「僕等 が人生 に求 め得 る最 高の債値 た る美 と正義 の槽 化 」(中村 光 夫『 作 家 と人 生 』 筑 摩 書 房 、1949年 、51)が
ドス トエ フ ス キーや フローベール を熱 中せ しめたのであ り、英 国に於ては、チ ェス タ トンや オー ウェル、 グ レアム・ グ リー ンに深甚 な影響 を及 ぼ したのである。 スペ イ ン 内戦 に精 通す る川 成 洋 氏 は『 ドン 。キ ホー テ讃 歌 』(り‖成 洋 、坂 東省 次他 編 『 ドン 。キホー テ讃 歌』 行 路 社 、 1997年)の
中で、「イ ギ リス の ドン・ キ ホ ー テ」た るオー ウェル を評 し、「 ドン・ キホーテ とサ ンチ ョ・ パ ンサ が 自分 に同 居 し、矛盾 に満 ちた人 間で あるこ とに誇 りす ら」(184)感
じて居 た、 と書 いて 居 る。 トリリングは進 歩的知識人の中に、だ ら しな く臆病 で享楽的だが愛す ベ きサ ンチ ョが傍 らに居 ない ドン 。キホーテ を認 め、その非人 間的な 自惚れ を憎 んだのである。 既述 の如 く、 中村 光 夫 は 「僕等 が人生 に求 め得 る最高の」 と形容 したが、 日 本 で は事情 は異 な り複雑 であ る。福 田恒存 が『 ドン・ キホーテ 日本 に現 る』 と題 した頗 る皮 肉な、痛 ま しい喜劇 を物 して昭和43年 に上演 した けれ ども、 こ のサ ンチ ョの国 の劇 評 家 には理解 されず 、弟 子 の松原 正氏 もエ リオ ッ トの評 論・ 詩劇 を翻 訳解説 し、政 治 と道徳 、現 実 と理想 の二元論 の大事 と至難 を説 き、『 道義不在 の時代』(ダイ ヤモ ン ド社 、1982年)を
上梓 したが暖簾 に腕 押 し で、既 に二十年 が経過 した。現代 の 日本 に於 て ドン・ キホーテ とは、数 多 のサ ンチ ョの貪欲 を満 たす雑 貨 量販 店 を意 味す るに過 ぎない。 ア メ リカ の神 学者 ニーバーの、変 るもの と変 らぬ もの とを峻別す る知恵 を求 める、神 へ の切 実 な祈 りが 、 この国では会社員の処世訓 として紹介・推奨 され て居 る有様 だ。 ドン・ キホーテ に関連 して、松本幸四郎の当 り役 ラ・ マ ンチ ャの男 に した所 で、正義の実現 を狂気の如 く追求す るものの必ず敗北す る奇特 な人物 と して よ り、寧 ろ各 々の勝手な夢 を見続 ける勤勉 な努力家の鑑 の如 く見倣 され て居 るの で はあ るまいか。 この′点、作者 のデール・ ワ ッサーマ ンが 日本人観 客 に向けた メ ッセー ジ (東宝『 松本幸四郎 づ72 Mαη げ ια