「地獄の夜」の「毒」について
著者
田中 直紀
雑誌名
年報・フランス研究
号
37
ページ
105-118
発行年
2003-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/10315
「地獄 の夜」の 「毒」について
田中直紀 は じめに ランボーの散文詩集『 地獄 の季節』 は、プ ロロー グを含む全9篇
全体 を もっ て一つ の 自律的構 成 を有す る物語作品 をなす とみな され てい る。その内容 に関 しては さま ざまな点 で解 釈がわかれ てい るが、確 かな ことは語 り手が 自己の内 面 を深 く見つ めた際 に起 こる葛藤 が描 かれ てお り、 とりわけ内面化 されたキ リ ス ト教的思念 といか に対峙す るかが、主要な問題 の一つであることである。 キ リス ト教への ア ン ビバ レン トな意識 が特 に前面に押 し出 され ていると見 ら れ る第3篇
の 「地獄 の夜」 は次の よ うに語 り始 め られ る。 僕はとてつ もない毒の 一口を呑みこんだ。――僕 にとどいた忠告にはかさねがさ ね礼を申し上げよう。一―臓腑が焼けるようだ。毒の激 しさは僕の四肢をね じ曲げ、 僕の形をゆがめ、僕を打ちのめす。死ぬほど喉が渇き、息がつまり、叫ぶこともま まならない。これぞ地獄、永遠の業罰だ!
燃え立つ炎を見よ!
僕はかくあるベ き様 に身 を焼 かれ る。そ ら、デモ ンめ! (Sa′ p.229。) ここにあ らわれ る 「毒」 とはなにかは常に問題 とされ、様々な解釈がなされ て きた。 キ リス ト教そのt)の、あるいはキ リス ト教への疑念、悪、同性愛、幻 覚性の薬剤、 自らを 「見者」 となすための触媒、な どが先行研究における解釈 と して リス トア ップ され る。中で1)特に有力視 されているのは、「毒」をキ リス卜教その もの と見る説である。本論の 目的は この説に批判を加 えた うえで、諸 説 を参照 しなが ら検証す ることだ。「毒」をめぐつて、炎のイマージュ、語 り手 の 目的意識、作中の悪魔観、キ リス トの模倣の意味、な どについて考察 し、そ れ らの有機的関連 を明 らかにす ることを試みたい。特に「地獄の夜」について は草稿が残 されてお り、その決定稿 との異同 も手がか りとなるであろ う。 「毒」をキ リス ト教 とする説 とその1問題点 多 くの研 究者 に よつて 支持 され てい る「毒」 をキ リス ト教 とみなす説で ある が 、そ の論拠 を確 認 してみ よ う。 まず 、語 り手が 「キ リス ト教」の価値 体 系 を受 け入れ たか らこそ、「悪 」の意 識 が生 じ、 自 らを責 め、 苦 しむ こ とにな る、 とい うこ と。ヨー ロッパ的 な善悪 の観念 、 また天国 と地獄 の観念 その ものが、 キ リス ト教思想 に よつて生 じる も の で あ り、語 り手が 「自分は悪 い、地獄 墜 ちに発、さわ しい人間だ」 とい つた感 覚 に苦 しまな けれ ばな らない とすれ ば、それ 自体が キ リス ト教 のせ いで ある と い うわ けだ。 みずか ら自身の手足を もぎとろ うとす る()のはまさに地獄墜 ちの者 ではない か
?
我地獄にあ りと思 う、故に我地獄にあ り。これぞ教理問答の執行だ。僕は受 けた洗礼の奴隷だ。両親 よ、あなたがたが僕に不 幸をもたらし、あなたがたにも不 幸を1)たらした。哀れな無垢 よ !一地獄 も異教徒を責めることはできまいに。 (sf, p.229。) コ ギ ト・エ ル ゴ・ス ム を も じつた 「我 地 獄 に あ りと思 う、 故 に我 地 獄 に あ り。 これ ぞ 教 理 問 答 の 執 行 だ 」とい う部 分 にそ の こ とが端 的 に示 され てい る とい う。 「受 け た洗 礼 」 の奴 隷 だ とい う語 り手に とつて 、 キ リス ト教 を受 け入れ る こ とはま さに 「毒」を受け入れ ることであ り、毒の杯への くちづけが、韻文詩『最 初の聖体拝受』における 「イエスの腐 った接吻」のイメージにつ らなっている とい うのだ。 先の引用部の 「僕 に とどいた忠告にはか さねが さねネLを申 し上げよ う」 とい うところの 「忠告」《conSeil》 の語について も、宗教用語 「教説」 と見ること ができ、つま り教会のすすめた もののお蔭で苦 しんでいる、とい うことになる。 また 「僕は善 と幸福への改宗を夢見ていた」、つま り「毒」を呑む以前に、語 り手が 「善 と幸福」への改心を考えていた、故にそれが 「呑む」動機 とみなさ れ る。 ところが意 に反 してそれは語 り手に大 きな苦痛を 与えた、 とい うのだ。 さらに 「地獄の夜」の 草稿 タイ トルが 「偽の改宗」であ り、これが語 り手が 改宗をこころみるt)完遂できなか ったのだ とい うことを示す とい う。 よつて、これはすでに先行パー ト「悪い血」第
6節
以降に描かれた改宗を、内 面的な視点か ら再び描写 した ものであ り、「悪い血」第6節
における白人の宣教 による改宗が、ここでは「毒」を呑むこととして形象化 されているとい うのだ(1)。 また ピエール・ブ リュネルはサ タンが語 り手 を民にかける為 に信仰 とい う 「毒」をすすめた としている0。 さて、「毒」をキ リス ト教 とみなす説に問題 があるとすれば、それはいかなる ものであろ うか。 まず、「地獄の夜」の内部の流れか らは次の ことが問題点 として指摘 され よう。 キ リス ト教的思念 は両親 によって「子供時代に」「両親 によって」すでに して植 えつけ られたもの と措定 されてい ると見 られ る。このことは第7パ
ー ト「閃光」 の次の部分によ り確認 され ることになる。 病院のベッドの僕のところへ、香の匂いがあらたにつよく戻つてきた。聖なる香 の番人、聖者、殉教者… 僕はそ こに、幼少期の汚れ た教育の名残 をみ とめる。 (Sε,p.321.)た とえキ リス ト教が精神上の化学反応 をひ きお こす主要因子であることは確 かであるに して も、それがあ らためて「呑みこむ」 と表現 され るべき対象 とは 考えに くいのである。 また、「我地獄にあ りと思 う、故に…」であるが、「我地獄にあ りと思 う」の は、ある液体に臓腑が焼かれている状態 を、キ リス ト教の思想 によつて解 した 結果なのである。つま りこれは「毒」の効果 についての、キ リス ト教の思想 に規 定 された意識 による解釈なのだ。「毒」は、ここでは解釈の対象 としてあるので あって、解釈主体の意識 を規定す る思想 としてあるのではない。 よって「毒」自 体がキ リス ト教であるとす ることは、そ もそ も充分に論理的でない。 さらに、先だつパー ト「悪い血」 との内容の連続性 を顧慮すれば、価値観の 枠組みの設定
Lか
ら次の ような問題が指摘 され る。「悪い血」においては、自ら を「良い」とする者たちに対 して、「悪い」とされている者の立場か ら、自身の 道理 を主張す るとい う構造があつた。そ こでは とくにキ リス ト者 に対 して異教 の者な ど、語 り手の叛逆の対象である者たちの側か ら見た「良い」「悪い」の枠 組みがアイ ロニカルに採用 されていたのであつたβ)。 葛藤が生 じるのはキ リス ト教に代表 され る 「良い」思考が、実は 自身の内部にt)根を張 つていたことを 見出す ことか らである。 この枠組みが自紙 に戻 されていない限 り、語 り手が呑 み こむ何 ものかが 「毒」 と呼ばれている、す なわち悪 しきもの とされているの な ら、それは既成の価値意識、善悪感、つま りここでは特にキ リス ト教の価値 意識 における悪 しきもの、禁忌の対象であると考え られ るのである。それ故に こそ「毒」の 与える苦 しみについて、語 り手は「我地獄 にあ り」と、自分は罰 され ていると「思 う」のではないか。よつてアン トワーヌ・アダンの「毒」を「残虐 の、叛逆のモ ラル、あ らゆる悪徳の涵養」と見る説山は注 日すべきであろう。 さらにアダンを支持 しなが ら松尾美恵子が指摘す るよ うに「毒を飲み干す と い う行為はこの葛藤 を解決す る一つの手段 として決意 されたのではないか とい うことが考え られねばな らない。 もしそ うだ とす るな ら、悪い血は消せない こ とが劣等人種の大前提であるか ら、この毒はキ リス ト教の影響か ら脱する手段でなければな らない」両のであるc そ もそ も、それ を口にする際に、語 り手が苦痛 を与え られ るとは思って もい なかった、とい う読解は不 自然であるよ うに思われ る。む しろ語 り手はその「毒」 を毒 と知 りつつ、何 らかの 目的の為の手段 と して、苦痛を受けることを覚悟の 上で呑んだのではないだろ うか。そ してセシール・A・ハケッ トも指摘す るよ うに、 その 目的 とは 自らを見者 と為す ことだったのではないのだろ うか0。 まず「毒」が実際に どの ような効果 をもた らすかを見なが ら考察 していこう。 Ⅱ
.語
り手の 目的意識 と「毒」の効果 『 地獄の季節』の語 り手は何を 目的 と しているのか。 ランボーが来 るべき新 たな詩 と詩人について述べた二通のいわゆる 「見者書簡」 との関わ りにおいて 考えることに しよ う。『 地獄の季節』は見者理論の実践 による作品であると同時 に、見者理論の実践 とその廃棄の過程を描いた実践その ものに関す る作品 とし て、従来 自伝的作品 として とらえ られてきたが、作品をランボーの伝記か ら切 り離 してみて も、その語 り手を作者の分身の よ うな人物 と見るかぎ りにおいて、 見者理論の実践についての作品 とい う見方は依然可能であ り、実際そ う解釈 さ れ てきたのである。 「書簡」で、来 るべき詩人はか くあらねばな らないと説かれ る見者詩人 とは、 新 たな認識を人類 にもた らし、その精神 を一変 させ る者である。「詩人はその時 代 に普遍霊魂の うちに 日覚める未知なるものの分量を特定」し、「進歩を倍加 さ せ る乗数 となる」。その自らをそのよ うな者 「見者」と為す為に「詩人はあ らゆ る感覚の」「撹乱」を自らに課 さねばな らない。 彼は自分自身を探求し、自らのうちにあらゆる毒を汲み尽くし、その第五元素の みを保持します。信念と超人的力のすべてを要するえも言えぬ責め苦により、彼は自らをとりわけ偉大なる病人、偉大なる有罪者、偉大なるp/1ゎれ人、一一そ し て至上の知者 となすのです
!
一―なぜなら彼は未知なるものに到達するのです から。(1./′ p.137。) ここで注意 してお きたいのは新 しい詩 を実現す る為 に詩 人 自 らの主体 の変成 が 前提 とされ てい る ことF)、 そ してプ ロメテ ウスになぞ らえ られ てい る こ とか ら、見者詩 人は タブー を犯す反逆者 に して救 済者 とい う属性 を付 与され てい る とい うことで ある。 また第五 元素 とい つた術 語 の使 用法 、他 の個所 で万物 照応 の概念 が示唆 され ることな どか ら、理論 の基本的わ く組 み と してカバ ラ的神 秘 学 の概念体系が使 用 され てい る こ とが うかが え る。 『 地獄 の季節』 を、ま さ しくこの「至 上の知者 」とな るための 自己鍛錬 、試練 の物 語 である と見れ ば、「見者 」に対応す る語 と して「魔術師 」が ある と考 えれ ら れ る。最終パー ト「別れ 」では「超 自然の力 を獲得 した と僕 は信 じた」、「この僕 ! す べ ての道徳 をまぬかれ 、魔術師 とも天使 とも称 した この僕 」 とい うフ レー ズ が見 られ 、「地獄 の夜 」に後続 す るパー ト「錯 乱そのI」 で は 「愚 か な 乙女」が 『 季節 』の語 り手について「あ る朝 、わた しが 目覚 め る と、法律1)風習 も変 わ っ て い るの じゃないか ―一 あの人 の魔法 の力 で …」と述 べ る。「地獄 の夜」 はそ の よ うな見者=魔
術 師 と しての意識 を読者 に示す最 初のパー トであ る。 すべての神秘を暴いて見せ ましょう、宗教的あるいは自然の神秘、死、誕生、未 来、過去、宇宙開開、ネアン。私は魔術幻燈の大家なのだ。(SE,p.230.)
か よ うな境 地 に至 る前提 と して、語 り手の苛 まれ る ところの火 に焼 かれ る感 覚 は重要であ る と見 られ る。 ああ、そ うだ!
生の時計はたつた今止まって しまった。僕はもはや現世の者 ではない。(中略)一
―脱我の境地、悪夢、火焔の巣の眠 り。 にE,p.230。)マーガ レッ ト0デイ ヴィスは「火焔の巣」の語に注 目し、これが死 と再生を繰 り 返す フェニ ックスの炎の巣を想起 させ、破壊的であるよ りもポジテ ィブなイメ ージが地獄の業火 にふ されていると指摘 している
0が
、ここにま さしく語 り手 に とつて「地獄の夜」の「火」力ヽヽかなる意味 を有 しているかが示 されているので はないだろ うか。『 季節』を錬金術哲学の実践 による主体の変成 に よる秘儀参入 の物語 と見る中地義和は、デイ ヴィスの説を踏 まえなが ら、「『 みずか ら身体を 傷つけ損なお うとす る者』 とは自らを見者詩人た らしめよ うとす る者に他な ら ない」としている。なぜな らば「身体の完全性の欠損は しば しば超人的な力を保 証す る」ものであ り、「変形は超人的な力を得 るための代償」であって「それは他 なる秩序への参入、聖性の侵犯の指標」 とみな され るか らである め。中地氏は この ことを盲 目のホメロスや琵琶法師をもつて例証 しているが、 さらにここで は旧約聖書の預言者 にもまた 自らの身体 を害す る傾 向が見 られ ることを加 えて、 そ もそ も見者 とは預言者 を指す語の一つであ り、預言者は しば しば祭司の宗教 的権威への挑戦者 であったことも指摘 してお こ う。地獄の火 は語 り手に自己変 成 をもた らす。実際、「見者」の求めるヴィジ ョンはその火の中で掻 き立て られ るのである。 幻覚は数限 りない。(中略)それ については僕は黙 つてお くことに しよ う、詩人 や幻視家たちが嫉妬するにちがいないか ら。 (S″ ′p.230。 ) ヴィジ ョンを与え自己を変成 させ る 「火」の感覚、それをもた らす ものが冒 頭の 「毒」であるな ら、その 「毒」を呑む ことは語 り手の 自らを見者=魔
術師 た らしめようとす る目的意識にかなっているとい うことになる。 もとより自ら を見者た らしめるには 「信念 と超人的力のすべてを要す るえも言えぬ責め苦」 を 自身に課 さねばな らなかったのであ り、その手段 として語 り手は覚悟 をもつ てその 「毒」を呑んだ と考えられ るのだ。そ してそれは激 しい苦痛 を与えながらも「ヴィジ ョン」を掻 きたて、「すべての神秘を暴」く者 となった とい う感覚 を語 り手に与えるのだか ら、効果離面 とい うべきであろ う。 こ う見れば、書簡の 「自らの うちにあ らゆる毒を汲み尽 く」す とい う部分の 「毒」の語のもちい られかた とも一定の対応が保たれることになろ う。 よって 「毒」は自らを見者たらしめるための触媒 と見ることができる。 また、ハケ ッ トはやは り自らを見者 と為すために 「毒」を呑んだ としなが ら 『 イ リュ ミナ シ ョン』中の一篇 「陶酔の朝」の 「僕 らは毒に信 をおいている」 とい うフレーズと関連づけている(ゆ。 妖術の拷問台!(中略)こ の毒は僕らの血管の隅々にまで残ることだろ う、ファン ファー レがお とろえ、僕 らがかつての不調和に戻される時にさえ。おお、今や この 拷間にこれほどまでにム、さわ しい僕たち!(11) 子供 らの笑い、奴隷 らのつつ しみ、処女らの謹厳、この形態 と物体への嫌悪、眠 らぬ夜の思い出により聖別されるがいい。それは洗練を欠いて始ま り、今や炎 と氷 の天使をもつて終わりをむかえようとしている。 陶酔のささやかな徹宵を祝そ う!(中略)僕らは毒に信をおいている。僕 らはい つだって自らの命をそつくり投げだすこころえがあるのだ。(12) 「陶酔 の朝」はハ ッシ ッシの体験 に結びつけ られ て解釈 され るが、イ ヴ・ボヌフ ワはその評伝 の中で 「地獄 の夜」の 「毒」 に関 し、 ランボーが救い を求 めて何 らかの薬物 に手を出 した ことが考 え られ る と述べ てお り(1助、その よ うな見地 か らも二者 の対応 が確 認 で きる。私 見では、「陶酔 の朝」は同種 の経験 をポ ジテ ィ ブ な面か ら、「地獄 の夜」はネガテ ィブな面か ら描 いた もの と思われ る。 「見者書簡」の 「毒」、「地獄 の夜」の「毒」、「陶酔 の朝」の「毒」は、いずれ も 「感 覚の撹乱」による 自己変成の手段 として、同列 に置かれ るべ きものであろ う。
Ⅲ
.サ
タンによる 「戴冠」 さて 「未 知 な る もの」 に到 達す る「至高の知者」と自らを成 し、預 言者的 あ る い は救世 主的 にふ るまお うとす る こと、その こ と自体が持 ち うる意味 について 考 えね ばな らない。 キ リス ト教思想 を通 して見 るな らば、その よ うな志 向 は神 に成 り代 わ ろ うとす るル シフ ァー的叛逆 につ うじる もの とみな され て しま うの で あ る。「地獄 の夜 」や「錯 乱そのI」に見 られ る語 り手の キ リス トの模倣的 な態 度 はそ の こ とを示す ものではない だろ うか。 さ らに言 えば語 り手が 自 らの試 み をル シ フ ァー的 な もの ととらえてい るこ とに こそ、か えつて語 り手 のキ リス ト 教思想 へ の と らわれ が現れ てい る と考 え られ るので あ る 。も。 まず先 立つ パー ト「悪 い血」にお ける、異教徒 の血 を引 く「悪 い血」の者 とい う自己規 定が叛逆 の対象者 た る「良い血」の者 、す なわ ちキ リス ト教者 の価 値観 に逆説 的 に依拠 してい る こ とに注 目 しよ う。 その価値観 においては、異教徒 と は と りもなお さず悪魔 の軍勢 に属す る者 なので ある。「悪 い血」の構成 お よび内 容 には ミシュ レの『 魔女』 (1862)の 影響 が一 目瞭然 であるが、ミシュ レではサ タ ンは異教的伝統 を引 き継 ぐ農村 の魔女の神 、虐 げ られ る弱者 の神 とい う属性 を与 え られ てい る(1動。 このパー トにおいて 「良い 血」の者 の神 であ るキ リス ト 教 の神 に対 して「悪い血」の者 の神 とサ タンをみ な し、 自 らをそ のサ タンの もと に あ る者 とす る図式がす で に潜在 してお り、それ がやがて顕在化 してい くので は ない だ ろ うか。 「地獄 の夜 」の次の部分 に注 目 しよ う。 僕に吹き込まれるあやまちの数々、魔術、まがい物の香 り、子供 じみた楽曲。そ し て、俺が真実を把握 している、正義を解 しているなんて。公正で確たる判断を有 し ている、完成の用意がととのっているなんて…、傲慢だ。(S′,p.229。)決 定稿 の《qu'on me souffle》 を「ひ とが吹 き込む」 と和訳す ると(1° 不都 合 が ある よ うに思われ る。 草稿 を見 てみ よ う。 黙れ!それは僕の耳に吹き込まれる数々のあやまち、魔術、錬金術、神秘主義、ま がい物の香 り、朴訥な楽曲。サタンがその担い手なんだ。だから詩人たちは地獄墜 ちになるんだ。いや、それではない。(Sε′p.155。 ) 語 り手の魔術 の担 い 手 と してサ タンが措 定 され てい る ら しい ことを窺 い知 る こ とが で きるのでで あ る。 草稿 の最後の フ レー ズについては、断固 た る前 言撤 回 であ る よ りも、語 り手 の迷 い と混乱、錯 乱状態 にあ る者 の判 断 の揺れ を示す もの と見 るで きで あろ う。 魔術師 の業 を 「あや まち」 とす る見解 が 出てい るの は、語 り手が キ リス ト教的意識 に とらわれ てい るか らであ り、 そ してその た め の試練 に耐 えがたい よ うな、それ を選んだ こ とを悔 い るよ うな感情 に とらえ ら れ てい るか らで あ る と見 る こ とが で きよ う。 それにこの毒、千倍()呪われたこの日づけ
!
僕の弱さ、この世の残酷。神様、お 慈悲を、僕を隠 してください、身を持 していられないのです!(SE,p.231.)
サ タンの側 につ いたが為 に地獄 落 ちの激 しい苦痛 を味 わい、 その耐 えが た さ に、語 り手 は神対 して弱音 を吐 いて見せ る。な らば、「この 口づ け」はや は リイ エ スの もので はないので ある。 なに よ りも秘儀 参入 の効果 を有す る 「炎 」 を語 り手が要求す るの はサ タンに 対 して なので あ る。 サタン、道化者よ、おまえの魔力で僕をとろけさせるのか。僕は要求する。要求す る、二又槍の一撃を、炎の一滴を!(Sa′
p.231.)「炎 の一滴」 について、デイ ヴィスは洗ネLの 水 のパ ロデ ィー を見て取 つてい る(lη。ブ リュネル は この ことをす ら「毒」をキ リス ト教 とみ なす根拠 に してい る のだが はめ、か よ うなパ ロデ ィー性 こそは悪魔崇拝 を描 く際の常套手段 と言える。 けだ し悪魔崇拝 とは 「神 の敵対者 サ タンを礼 拝す るのだか ら当然 の こ となが ら キ リス ト礼拝 の反 対命題 であ り、その倒錯 ない しパ ロデ ィーの形式 を とるので な くて はな らない」(")のだか ら。す なわ ちその秘儀 参入、 自己の変革 の業 がサ タンの もとで行 われ てい る、 とい う設 定 の指標 で あ る と見 るべ きなのであ る。 そ こでや は り、 冒頭 の「毒」、 自己を変容 させ る触媒 がサ タンに属す る もの と 考 え られ るので あ る。 プ ロロー グの次 の部分 との対応 を見てみ よ う。 「おまえはハイエナのままでいろ、云々…」僕をあんなに愛 らしい芥子の花で戴 冠 させたデモンが声を荒げる。「おまえの欲望のすべて、エゴイズム、七つの大罪 の全部を背負い、死をものにするがよい」。 ああ!そんなものはたっぶ りいただいた。(Sε′p.187.) ア ン ドレ・ギ ュイ ヨー も指摘す る とお り「た つぶ りいただいた」い うのは「地 獄 の夜 」の 「毒」を思 い起 させ るので あ る にの。 この よ うな対応 は ここまでに確 認 した よ うな図式 が な けれ ば、有効 に意 味 を成 す ことにはな らないで あろ う。 サ タ ンが 与え る 「毒」に よつて、「あや ま ちの数 々」に よつて、語 り手は 「真 実 を把 握 し」「正義 を解 し」「公 正 で確 た る判 断 を有 してい る」「完成 の用意 が ととの つてい る」と、「す べての神秘 を暴 」く者 とな った と自 らをみ な し、その こ とで
7つ
の大罪 の うち最 た る もの であ る「傲慢 」の罪 に陥 り、キ リス ト教 の神 に よつて罰せ られ るに相応 しい者 にな ろ うと してい るのではないか。 この部分 についての中地の解釈 を引用 しよ う。 何を「たっぶ りいただいた」とい うのだろうか。言葉の流れ としては「死」そのも の、つまり試練に耐えることで成就 した「俗なる世界への死」=「 サタン的世界ヘの誕生」、ととるのが最も理に適 う。「芥子の冠」が試練に耐えぬいた者への褒賞、 いかにも悪魔的な資格付与のしるしだとすれば、「私」はある時間耐えてきた試練 について、「もうたくさんだ、これで十分だ」と倦怠、飽きを表明しているともと れる。また、「なんともひどい試練に会わされたことか」と、その厳 しさに恨みを 漏らしているともとれる。¢1) 中地は「毒」をキ リス ト教 とす る見解 を とっているのであるが、 しか しこの解 釈 と「毒」をサ タンに属す る自己変成の触媒 と見ることとの間には充分な対応 を 認 めることができるであろ う。それはま さに 「俗なる世界への死」
=「
サ タン 的世界への誕生」を語 り手に 与えるものなのである。 自らを、「至上の知者」、ある種の救世主的存在 となす こころみがサタンの名 の元に行われ る。語 り手はサ タンによつて 「芥子の花」で 「戴冠」 された者 と なるのだ。語 り手が 「それ故、わた しを信 じな さい、信心は心を鎮 め、導 き、 癒すのだ」と、キ リス トの模倣 を見せ るところには、シュザ ンヌ・ベルナールが 指摘す るよ うに「ル シファー的 こころみの極点」を認 める事ができよ うにわ。語 り 手においては救世 主性 と悪魔性 は 一体をなす ものなのだ。か くして語 り手は物 語の最終場面を描いたプ ロロー グにおいて、その見者=魔
術師のこころみの放 棄 にあた リサ タンに手切れ を求めるのである。 中地はル シファー性が書簡の 「見者」の 日論見の中に潜在的 にあつて『 地獄 の季節』において顕在化す るとしているが、キ リス ト教の価値体系を意識 して こそ見者=魔
術師の救世主的 こころみは悪魔的なもの として解釈 され ることに なるのであって、『 地獄 の季節』の語 り手が悪魔性 を意識す ることにこそ、キ リ ス ト教への とらわれが逆説的に顕れている、 と言えるであろ う。また、そ もそ も 「見者」はプ ロメテ ウスになぞ らえられていたのであるか ら、語 り手に とつ て最後の手切れに至るまでのあいだ、『 地獄 の季節』のサタンは、特に ミル トン の『 失楽園』にその原像のた どられる、そ して ミシュレにも見 られ るような、 プ ロメテ ウス と 「習合」 した ロマ ン派的サ タンであった と考え られ る。 二者には 「神 の権威 に対す る反抗、不可避の敗北 とその後の運命、永遠 に鎖につなが れ るとい う裁 き」な ど共通点が多いが、「プロメテ ウスが神 々に挑戦 したのは、 わがままや憎悪か らではな く、人類 に助力 しよ うと望んだか ら」である。 この 「プ ロメテ ウスの肯定的な要素がサタンに移 され、悪魔が人類の高潔な解放者 として現れ ることが可能になった」の のであった。 このよ うなサタンは、ある いは、キ リス ト教の神が社会の悪 しき権威 を支えているのに対 して、弱者の側 か ら人類 に救済をもた らす真の神 ととらえられ、社会改革運動 もそのような悪 魔の名 の もとにその理念 を称揚す る場合があったのである。 さて、いかに して見者
=魔
術師の こころみが廃棄 され るのか、そ して語 り手 はサタンとの手切れ にいたるのかについては、別の機会にあらためて考察する ことに しよ う。 結語 語 り手 は 自らを救世主的存在 となす為 に 「毒 」 を 目にす るの であ り、その 目 的その ものが キ リス ト教 の思念 を とお してみ るか ぎ りにお いて、サ タンの もと での キ リス ト者 に対す る叛 逆 と解 され る もの なので ある。 それ は擬似的な死 と 秘 め られ た智慧 の獲得 を もた らす効果 か ら象徴類型 と しては 「創 世記」でサ タ ンの化身 た る蛇 がすす め る 「知恵 の果実」 と同 じ分類 にお くこ とがで きる もの であろ う。 つ ま リキ リス ト教 の信仰 とい うよ りは、む しろその禁忌 の対象 なの で あ り、語 り手はその禁忌 を強 く意識 し、 自 らの こころみ をサ タン的な もの と 意識 してい るので あ る。 詩史における革新性が強調 されるランボーであるが、散文詩集『地獄の季節』 はその物語としての基本的枠組みにおいて既成の思考類型に多くを負 うている、 とい うより、それ らをモチーフとしているのである。言主
使 用テ キス ト:め θ saゴsο′′θ″ θ″農4 6dition critique par Pierre Brunel,Corti,1987.(Sa
と略 記)「 書簡」につ いては ιθιιrθsぬ νο/a′ι″θ θιノ5“ブノ∂7′ノ,6dit6es et conlment6es par
G61・ald Schaeffelヽ, pr6c6d6es de 《 La voyance avant Rimbaud 》 par Marc Eigeldinger, Droz― Minard, coll.Textes litt6raires frattais, 1975。 し。κと略記)
特に参照 した注釈付き翻訳としては、平井啓之、湯浅博夫、中地義和訳『 ランボー全詩集』青土社、 1994年。宇佐美斉訳『 ランボー全詩集』ちくま文庫、1996年. ※本稿のテキス ト引用部はすべて拙訳 (1)この説については Sa′ …の注釈他、特に青土社版『 全詩集』の湯浅による注釈、また湯浅博夫 『 ランボー論<新しい韻文詩>から<地獄の一季節>へ』、思潮社、1999年 、第 7章 参照。 (2),汚:,p.243 (3` 拙稿 「『 悪い血』における『 見者』の 主題の展開」、『 年報・フランス研究』第 33号 、関西学院大 学 フランス学会、1999年、pp.85-98.
(4)c4/1′′・θs ごθmpノごιθs, 6dition 6tablie, pr6sent6(〕 ot anllot6o palヽ Anl:oine Adam, Callimard,
coll. Bil)iliot;hさquo de la P16iadde, 1972. p.960.
(5)松尾美恵 千、
『 ランボー 《ある地獄の季節》構成論』、牧神社、1979.p.70.
(6)巴uI′′‐θs ροびιブ
9υθs, textes pr6sent6s et corrllnent6s par Cecil A.Hackett, Imprimerie
nationalo, coll.[″ ottros i`rancaises,1968. p.329.
け)中地義和『 ランボー 精霊 と道化のあいだ』青土社、1996年 、第二部Ⅵ.
(8)Mal・garet Davi()s, 確わ(l sars。″
`りθ′
7/ヒP′り ∂Иrr/P4」′マノ″わaυこ a/7∂ノ/_Sθθし′θχιθ′Minard, coll.
Archives des lottl‐es modcriles, 1975。 p.50,p.54.
(9)Yoshikazu Nakaji, Combat spirituel ou immonse d6rision? Essai d'anal yS.E。 , textuelle d'
《ιlirPθ saゴsο′P θ/7 θ′フ/ρr 》 , Corti, 1987. p.101.
(10)言L(6)に
1司じり
(H)ノゴノι″ルPa ιメο″島toxte 6tabli et conlment6 par Andr6 Gllyatix,A la Ba(ヽ onlliёre,coll.Langages,
1985, p.46.
(12)前 註に同 じ。ハケットのいう「見者のポエジー」の裏切 りについては改めて考えたい。
(13)Yves Bonnef・oy, ′」″b′υノρttrゴυゴπ ″θ, 1_e Seuil, coll. Ecrivains de tou.jours, 1961 ; r66d.
1979. p.125. (14)特に語 り手とサタンの関係については、拙稿「『 地獄の季節』における「サタン」と「魔術師」」 『年報・フランス研究』第35号、関西学院大学フランス学会、2001年、pp.1515-164. (15)また「見者書簡」のII:でランボーが「第一の見者」とたたえるボー ドレールの『悪の華』の うち「叛逆」のチクルスにt)やはりそのような悪魔観が採用されていると見ることが出来る。W.ベ ンヤミン『ボー ドレール 新編増補』、野村修他訳、昌文社、1975年。および種村季弘『悪魔礼拝』、 河出文庫、1998年.「文学としての黒ミサ」の章 参照。 (16)たとぇば青土社版『全詩集』、p.20,湯 浅氏による訳文。 (17)Davies,9ρ.θゴι・, p.54. (18)sa,p.243. (19)種村前掲書、p.9,
(20)6Eυじィrθs, 6dition de Stizanne BerI、 ard et Andr6()llya ux, Bordas, coll. Classiques Garnier,
nouvolle 6dition revue, 1991.(以 下 α と略記)p.465。 ギュイ ヨーによる注釈。 に1)中地義和、 『 ランボー 精霊 と道化のあいだ』、青 十二社、1996年 p.246. (22) 6E, p.466. 03)「J.B.ラ ッセル、 『 メフィス トフェレスーー近代世界の悪魔』、野村美紀子訳、教文館、1991年 (原著 1986年)、 p.227. (大阪産 業大学非 常勤講 師)