• 検索結果がありません。

青花碗に描かれた騎馬戦士の氏素性を探る: 沖縄地域学リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "青花碗に描かれた騎馬戦士の氏素性を探る: 沖縄地域学リポジトリ"

Copied!
9
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Title

青花碗に描かれた騎馬戦士の氏素性を探る

Author(s)

上間, 篤

Citation

名桜大学紀要 = THE MEIO UNIVERSITY BULLETIN(10-

11): 33-40

Issue Date

2007-03-30

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/8042

(2)

青花碗に描かれた騎馬戦士の氏素性を探る

A

n

I

nqui

r

yi

nt

ot

heEt

hni

cBac

kgr

ou

n dofaCa

val

r

yman

Dr

a

w

n ona

P

i

e

c

eo

fPor

c

e

l

ai

n Ca

l

l

e

dSe

i

k

a

At

sushiUema

元朝治下では、あまたの西域出自の騎馬民族が王朝の治安維持 と権益の保護を目的として江 南地方一帯 に配置された。面白いことに、かかる騎馬民族 との関わ りを紡俳 とさせ る遺物が、今帰仁城跡か ら出土 し た発掘史料の中に散見 され る。それ らの中には、青花 と呼ばれ る元代の陶器 の側面に騎馬の戦士をあ し らった図柄なども存在する。本稿は、問題の図柄に看取 され る携行品を手掛か りにして、 この騎馬戦士の 氏素性に迫る。

Abs

t

r

act

l

l

lt

heYua

nEr

ai

nCh

j

na

,nu

me

r

ouse

que

s

r

i

a

n

四〇p

l

e

sf

r

om s

uc

hr

e

gi

onsa

sa

r

oundt

he

Ca

s

Di

a

nS

e

aa

ndCe

nt

r

a

lAs

i

awe

r

ee

mDl

oye

da

nds

t

at

i

one

di

ns

out

he

r

nCh

i

nat

oke

e

pl

a

wa

ndor

de

r

a

swe

l

la

st

op

r

ot

e

c

t

p

ol

i

t

i

c

a

l a

nde

c

onom

ici

nt

e

r

e

s

t

soft

hedyna

s

t

y.I

nt

e

r

e

s

t

i

ngl

y,t

he

r

ee

xi

s

t

s

,

a

mongt

hee

xc

a

vat

e

di

t

e

msf

r

om Na

ki

j

i

nCa

s

t

l

e

,t

hei

ma

geofahor

s

e

ma

nonapi

e

c

eofp

or

c

el

a

i

n

c

a

ll

e

d

seJ'k

ab

el

ongi

ngt

ot

heYua

np

er

i

c

x

l

.

Th

i

sPa

p

eri

nt

e

ndst

ot

r

a

c

et

hee

t

h

ni

cba

c

kgr

ou

ndo

f

t

hi

s

h

or

s

e

manbyr

e

f

e

r

r

i

ngt

ot

hei

t

e

mst

hathec

a

r

r

i

e

s

.

はじめに

\ー -一・・〉 q 上に示 した写真 の中央 に描かれて いる騎 馬の戦士 は、今帰仁城跡か ら出土 した陶製晶の側面に描かれて いるものであるl。 この図柄 をあ しらった器の種類は 育花 と呼ばれ、その焼成年代は元代であると見なされ ている。またこの器は、 口径が

1

5

.

9

c

m

、器高が

6

.

5

c

m

、 底径が6.6cmの寸法か らなる様式を整えた特徴を示す。 さて、問題の騎馬磯士の姿格好であるが、それは見て の通 り、頭には縁が広 くて三角錘の形をした山高帽子 を被 り、肩には先端に三角旗 を結わえた旗棒 を担ぎ、 足元の鐙のあた りには円形の盾を携行 していることが 看取 され る。 ところで元朝は、南宋を制圧 して 自らの版図を江南 地方に拡大するや、治安維持を目的 として、彼の地の 平定に功続のあった西域出自の騎馬軍団を江蘇

漸江 両地方に大 々的に配置す る。彼 らは、征服者側の官軍 治安維持部隊の兵士 として、元朝末期に至るまで江南 地方の各地に駐屯 し、防人としての任務 にあたる。漢 土における西域騎馬民族をめぐるかかる動向や今帰仁 城跡の時代的背景を鑑み るとき、問題の器に描かれた 図柄は、元代の江南地方に駐屯 した然る騎馬民族の騎 兵であろうと推察 され る。以下に、上述において紹介 した図柄の特徴 を手掛か りにして、 この被写体の民族 的氏素性に迫 ってみ ることにする。

(

) 南宋計略 と西域 出 自の騎馬軍団

元朝を興 して漢土東北部の主 とな った クビライ (荏 位1260-94)は、ほどな くして物資の豊かな江南地方 の併合に乗 り出す。 いわゆる南宋計略である。元軍の ー 33

(3)

-上 聞 総大将 として正規軍を率いたバヤン (伯顔)は、キプ チヤク (欽察)やアラン (阿速)に代表 され る西域系 騎馬軍団を起用 して先鋒部隊を組織 し、南宋の攻略に 乗 り出す。バヤンが西域系の騎馬軍団に前線突破の役 目を託 した背景には、以下に述べる諸般の事情があっ た。元室内におけるバヤンは、並み居る家臣の中でも と りわけ西域 の事情 に明 るい人物 で あ った。バヤ ン は、血筋の上ではモンゴル人であったが、彼の人とな りは深 くイラン文化圏で育 まれたものであった。 イラ ン地方の経営を託 されたフラーグ (クビライの実弟、 イル ・カン朝の創始者)が西方へ赴 いたお り、バヤン の父ジャグータイもその軍勢の一員としてイランへ向 か う。その父の後 を追 ってイランへ渡 ったバヤンは、 イル ・カン朝下で多感な時期を過ごして成長 し、やが てはフラーグに仕える身分 と地位 を得 る。バヤンのか かる経歴を見れば、彼がペルシャ語 (元朝期の東アジ アにおける国際語) にも造詣を深めた人物であった こ とが分かる。 このバヤンが、 フラーグの使 臣として元 朝を訪れるのは

、1

3

世紀の中葉のことである。 クビラ イは、バヤンが元朝の国策に資する人材であると見抜 くや、彼 を漢土 に引き止 め る ことに意 を尽 くす。一 方、バヤ ンもクビライの切 な る意 向を真撃 に受け止 め、遂には元朝 に留まる決意をす る。 クビライが南宋 を併呑す るにあた り、かかる出自と経歴を有 したバヤ ンを自軍の最高司令官 に抜擢 した ことは、元朝 に仕え たあまたの西域系民族の元室に対す る忠誠心に少なか らぬ影響を及ぼ した ものと考え られ る。繰 り返すが、 南宋攻めに際 し、元朝正規軍の先鋒隊を担 ったのは、 当時漢人系の人々か らは色 目人と呼ばれていた西域出 自の遊牧騎馬民族であった。バヤンがかかる民族 を先 鋒隊に起用 した ことは、南宋掃討作戦の前段階におい て、彼がモンゴル ・ウルスの伝統的な戦術なるものに 精通 していた ことを窺わせ る。 カスピ海西方のカフカ ズ山系北麓 のア ラン族 を始 め とす る諸民族がモ ンゴ ル ・ウルスに臣従するのは

、1

3

世紀の

3

0

年代末期 (モ ンゴル王朝第二代皇帝オゴデ イ、<在位

1

2

2

9-41

>

、 は父チンギスの遺志 を継いで西方へ軍を進める)に遡 る20彼の地 の諸民族 を平定す るに当た り、モンゴル 軍は漢人兵士 を先鋒隊に投入 して戦いを展開す る。東 方出身の漢人兵士が先鋒隊に起用 されたのは、彼 らに 前線か らの離脱を許 さない戦術上の方策であった。バ ヤンが、南宋攻めを敢行するにあた り、色 目系の騎馬 軍団を先鋒隊 として正規軍の最前列に配置 したのは、 かかる戦術上の前例を踏まえた戦略であった と考え ら れ る。 さて、南宋に対する掃討作戦においては、あまたの 西域出自の民族が元朝軍の主力部隊の前線にあって活 躍 し、幾多の軍功を立てる。以下に、アラン族出 自の エ リア ・パ- トウ一 ・エル (也烈抜都見) とその子孫 篤 たちの働きを追い、その諸相の一端を紹介する。一族 の祖エ リア (カフカズ山系北麓の出身。血筋は阿速 と も呼ばれたアラン系で、 この一族はオゴデ イが差 し向 けたモンケ率いる軍勢に降伏する。降伏後に組織 され たアランの精鋭部隊はモンケの軍勢に従 って東方へ移 動 し、途中モンゴル ・ウルスの本陣を経て漢土に送 り 込 まれ る)は、虎 と格闘してそれを仕留めたとされる 豪胆談で も知 られ る人物である3.モールの記述によ れば、エ リアは襲いかかる虎をひね り倒 し、その舌を 鷲づかみにす るや、短刀で応戦 して猛獣を仕留めたの だ というO真相はともあれ、 この武勇談には、アラン 族が誇 りとした尚武の精神が活写 されていて面白い。 ところで このパー トウ一 ・エルなるモンゴル風の名前 であるが、それにはある意味合いが込め られているよ うである. まずパー トウ-であるが、それはモンゴル 語で 「頑強な」 を意味す る形容詞であ り、他方、エル は 「男」 を意味する名詞である。な らばパー トウ一 ・ エルは、「強靭な武人」を意味する尊称の類であったと 解 され るが、それは、 とりもなおさず、上に紹介 した エ リアの武 人像 を ものの見事 に表 出す るもので もあ る。元軍が平時に実施 した軍事教練では、兵士は時と して、解 き放たれ た虎 な どを相手 に戦 うこともあ っ た。それは兵士の士気や戦闘能力の養成をはかる一環 として行われた。武人エ リアの武勇談は、かかる軍事 訓練 との関連 も指摘 され て面 白いO ところでエ リア は、揚州での攻防戦において戦死 したと伝え られる。 また後の常州攻めにおいては、 アランの先鋒隊の一部 が、酒 を振舞 う南宋側の策略にはま り、不意討ちを食 らって全滅す るという事件が発生する。それに激昂し た元朝軍は、常州 に包 囲網 を敷 いて一斉攻撃 を仕掛 け、町中の住民をことごとく惨殺 してしまうという手 荒な ことをや ってのける。一族の祖エ リアが他界した 後 も、二代 目のイェ ・ス一 ・タイ ・エル (也速夕見、 長男) とユー ・ワ一 ・シー (玉畦失、次男) らは、父 親の遺志をついでバヤンによ く仕え、南宋の平定のみ な らず、後に続 く雲南への侵攻作戦にも軍団を率いて 参加 し、有能な武人ぶ りを発揮する。かかるアラン人 士の軍功 を称え、南宋が崩壊する前年の

1

2

7

2

年には、 クビライの命 によ り、左右両翼か らなるアラン近衛部 隊が創設 され る4。 クビライのもとで創設 された この 近衛部隊は、元朝が崩壊する寸前まで存続 し、元朝 と 運命を共にする。既述で触れたよ うに、南宋平定後 も エ リア家 とその配下の軍勢は江南地方 に踏み とどま り、元朝の国策を擁護する任務に当たる。彼 らが治安 維持 を担 当した任務地は漸江地方 であ った。元朝 に とって この地方は、王朝の食料を賄 う最 も重要な食料 供給地であった

。1

3

2

0

年代にこの地を旅 したカ トリッ クの修道士オ ドリコ ・ダ ・ボルデ ノーネは、 この地の 杭州に有力なキ リス ト教徒勢力が存在 したことを伝え ー34

(4)

-ているr'o このキ リス ト教徒勢 力が、エ リア家 とその 配下のアラン軍団であった ことに疑念をはさむ余地は なかろう。元朝配下のアラン族は、異郷の地の漢土に おいても、ギ リシャ東方教会の流れを汲む先祖伝来の キ リス ト教を守 り抜いていた。因みに、 クビライが他 罪 (1294年2月) した直後 には、 フランシスコ修道会 の僧侶モンテ ・コルビノが元朝に到着す る。モンテ ・ コルビノは、クビライの要望に応えて、アヴ ィニ ョンの 教皇庁が特使 として元朝へ送 り出した人物であった。 クビライはモンテ ・コルビノと直に合間見えることは なかったが、クビライの後継者テムル (成宗、在位1294 -1307)はモンテ ・コルビノの来朝を歓迎 し、彼に布 教のための給金をも支給 して彼の布教活動を支える。 以後モンテ ・コルビノは、1328年に漢土で永眠す るま での24年間に渡 り、彼の地にカ トリックの信仰の種を 播いて一生を送る。その間モンテ ・コルビノは、元室 に仕えて栄達の道を歩んだアラン人士、すなわちフ-テ ィム (福定、アラン王家五代頭首、知枢密院事)6、 カテ イセン (香山、 フ一 ・ティ ・ライ ・ツー家四代頭 首、武宗な らびに仁宗に仕え、衛都指揮使 としてアラ ン左翼近衛部隊を統率)7、ゲンボガ (者燕不花、ニエ・ クラ家四代頭首、武官 の人事や軍事訓練 な らび に兵 馬 ・軍装備 ・兵器に関す る諸事を司る兵部尚書や財務 を扱 う大司農丞などの役職を兼務)8らと親交を深め、 やがては彼 らの信仰上の薫陶者 として重要な役割を担 うことになる。モンテ ・コルビノが他界 した後、既述 のアラン人士の面 々らは、モンテ ・コルビ ノの後任 を 嘆願する署名入 りの懇請書を作成する。彼 らの要望を 受けて トゴン ・テムル (順帝、在位1333-70)は、モ ンテ ・コルビ ノの後任人事の要請を目的とした使節団 をアヴ ィニ ョンの教皇庁へ派遣す る。 フランシスコ修 道会の僧侶アン ドレア (仏出身)を団長 とする総勢15 名か らなる使節団は、1338年にはアヴ ィニ ョンに到着 し、教皇ベネデ ィク ト12世 (在位1334-42)に謁見す る。使節団には、アラン人士を代表 して者燕不花 らの 姿もあった。彼 らの訪問を受けた教皇は、早速32名か らなる答礼使を元朝に遣わす ことを決め、その団長に は、マ リニ ヨー リとフアン ・デ ・フロレンシアという 二人の僧侶があたることになる。1338年にアヴ ィニ ョ ンを発 った答礼使一行は

、1

3

42年にはハン ・バー リク (現北京)に到着 し、その後3年の月 日を元朝の都で 過ごした後、帰途は、江南の泉州を船出し、東南アジ ア、イン ド、中近東方面を経由してヨーロッパに戻る。 答礼使一行は、1353年にアヴ ィニ ョンに帰着する。 さて上述の外交交渉が元室において進展を見 る中、 元朝 の財政 を支 え、食料 の供給基地 としての役割 を 担 っていた江南地方の各地では、元朝の屋台骨を崩壊 に導 くこととなる反元勢力の台頭を見る。 これ らの反 元勢力を率 いたのは、沿海 の海道勢 力を束ねた万 国 - 35 珍、塩徒の衆を率いた張士誠、紅 巾の衆を巧みに操 っ た朱元環 (後 に明朝 を興 して洪武帝 を名乗 る) らで あった。彼 らの中で、漸江地方の色 目系治安維持部隊 と直接に相対時 したのが、1330年代か ら40年代にかけ て漸江東端の台州、慶元 (寧波周辺)、温州などを支配 下に置き、そ こに元朝 とは一線を画す独 自の政権 を樹 立 した万国珍 とその傘下の勢力であ った。 「万国珍政 権の性格」 と越 した論文を著 した寺地連は、その論文 の註において、万国珍 と対峠 した元側の官公吏や武将 た ちについて、実名 を挙げて次 のよ うに紹介 して い る。 徳流チ実、菜児只班、帰場、泰不花、李羅帖木児、義持宵、 達識帖木児、ヂ三珠、答納失望、納鱗、黒的児、帖里帖木児 劉基、阿児温抄、宋伯顔不花、趨宜浩、善山、納麟吟脚、 陳文昭、高昌帖木児、禿堅見、適里古思、黄中、拝住専9 元朝下の身分制度においては、モンゴル族が社会の 頂点 に支配層 として君臨 し、その下 に色 目系民族が陣 取 って漢人系の人 々を支配 した。 中で も江南地方 の 人々は、社会の最下層の民として扱われ、彼 らには官 職 に就 く道 さえ も絶たれ て いた。上記 の人名 リス ト は、元側の守臣や武将 らが、漢人系以外の人々であっ た ことを示す事例であるが、それ らの人名中には、趨 宣浩 や陳文昭な どとい った漢 人系の名前 も散見 され る。名前の特徴か ら漢人系 と判断され るそれ らの人物 は、恐 ら く華北 の出身者で あ った ろ うo漢 人系 とは いって も華北人は別格で、彼 らには官職 に就 く道 も開 かれていた。 ところで、 引用 した人名 リス トのしんが りに登場す る拝住寄なる人物は、本稿の論旨との関わ りにおいて、見過ごしてはな らない人物である。バヤ ンに仕えて南宋征討に活躍 したエ リア家の人々につい てはあ らかじめ触れておいたが、 この門閥の家系図を 参照すれば、初代のエ リアを筆頭に、二代 目には也速 夕見 (イェ ・ス一 ・タイ ・エル、長男)と玉畦失 (ユー・ ワ一 ・シー、次男)、三代 目には亦乞里 夕見 (イー ・ チ一 ・リー ・タイ ・エル)、そ して しんが りの四代 目に は拝佳 (パイジュー)といった面 々らが登場する 1°。四 代 目の拝住の時代に至 り、その配下の軍勢が、既述の 通 り、万国珍の勢力と対峠 して駆逐 された ことか ら、 その後 のエ リア家 の諸事 を伝 え る家系図は存在 しな い。上に紹介 した寺地の論文は、1320年代の後半期か ら40年代に至 るあた りを時代背景とす るものである。 当時拝住は、阿速前衛親軍千人隊長 として、 自らのア ラン (キ リス ト教徒)軍団を率いて漸江地方の治安維 持に奔走 していた。かかる状況証拠を踏 まえれば、寺 地の人名 リス トに登場す るこの拝住専なる元側の守臣 は、エ リア家四代 目の頭領 ・拝住その人に相違ないと 判断され る。因みに、拝住なる名前が漢人系の呼称で

(5)

上 聞 ないことは明白であるが、面 白いことにこの名前の後 尾に現われ る苛な る文字は、中国語で義兄弟の意に用 いる言葉である。な らば江南の地にあって弄住は、一 族郎党 の者か ら、尊崇 の意 を込めて、 「パ イジュー見 様」 と呼ばれ、慕われていたものと推察 され る。

(

) モンゴル ・ウルスとフランシスコ修道会

西欧のキ リス ト教社会が、モンゴル ・ウルスの動向 に畏怖の念を抱き始めるのは、モンゴル皇帝オゴデイ (在位

1

2

2

9-4

1)が

1

2

3

0

年代の末期に父チンギスの遺 志を継 いで敢行 した西域親征に呼応 して、バ トウ (チ ンギスの長子 ジュチの息子)配下のキプチヤク人など か らなる精鋭部隊が、遥か西方のボヘ ミアやポー ラン ドのあた りにまで軍事侵攻 を行 った ことに端 を発す る。ただならぬ事態に直面 した ヨー ロッパのキ リス ト 教社会は、急速その対策に迫 られ るが、 当初は時の皇 帝 フェデ リッコ二世 と教皇グレゴ リオ九世 (在位

1

2

2

7

-41) との間に生 じた不和が足かせ とな り、 ヨー ロッ パが一枚岩 とな って防衛網を張 り巡 らすまでには至 ら ない。かかる危機的状況の中で立 ち上がるのが、グレ ゴ リオ九世の跡を継ぐイノセン ト四世 (在位

1

2

4

3-5

4)

である。新教皇 は迫 り来 る危機 を回避す る方策 とし て、手始めに ドミニ コ修道会 とフランシスコ修道会に 呼びかけて医療に従事する衛生僧を募 り、彼 らを北東 ヨーロッパやアジア各地の異教徒の世界へ送 り込む。 フランシスコ修道会は、教皇庁のかかる布教戦略に則 り、当時ガザ リアの名称で知 られていたク リミア半島 に伝道の拠点を設け、独 自に活動を展開する。 クリミ ア半島は、かつてその北側 に位置するアゾフ海の豊か な海産物 を介 して、古代ギ リシャの都市国家 とも縁薄 か らぬ関係にあった土地柄であるが

、1

3

世紀の中葉に は, イタ リアのジェノバ、 ピサ、ベネチア出身の商人 たちが、 この地を経 由してキエ フ (現 ウクライナ共和 国の首都) のあた りにまで交易を目的 として進出して いた。マル コ ・ポーロの父ニコロなども、初めはかか る交 易ルー トで商いに従事 した一人であった。因みに このニ コロを元朝へ赴かせたのは、かの南宋計略を指 揮 したバヤン将軍その人であった と伝 え られ る1】。 話 は戻 り、 当時ガザ リアを拠点に活動 したフランシスコ 修道会の僧侶たちは、宣教活動に専念す る傍 ら,一方 では上に述べたイタ リア商人たちを精神的に薫陶 し励 ます存在で もあった

。1

3

世紀の中葉 にフランシスコ修 道会が、他の修道会に先ん じて南 ロシアのジュチ ・ウ ルスやその東方に連なる中央 アジア一帯の地理や文物 に造詣を深めることとな ったのは, この修道会が教皇 庁の布教方針に沿 って早 くか らガザ リアの周辺地域で 宣教活動に従事 していたか らに他な らなか った。 ひるがえって、バ トウ、バイダル、カダン、スベテ ィなどに率いられたアジア系騎馬軍団は

、1

3

41

年を迎 篤 える頃には、 ヨーロッパの奥深 くにまで侵攻する。 と ころが明けて

1

3

42年を迎えると、剰悼 さを売 り物 とし た遊牧民の軍勢が、あたか も引き潮のごとくコ-カサ スヘ取 って返す。 この退却劇は,オゴデイが死去 した ことによる帰還命令 に服 して敢行 された ものであっ た。皇帝が他界 した際のモンゴル ・ウルスでは、その 寵臣はもとよ り、下 々の臣民にいたるまで遍 く喪に服 す ことが求め られた。西方のジュチ ・ウルスを率いた バ トウといえども、皇帝の死去に伴 うこの慣行には従 わざるを得なか ったのである。オゴデ イが死去 したこ とによ り、アジアの遊牧騎馬民族が ヨーロッパで展開 した軍事行動は、 中途で雲散霧消することとなった。 さて、東方のモンゴル ・ウルスがオゴデイの崩御に 伴い後継者の問題に揺れていた頃、西方のヨ-ロッパ では、即位 したばか りの教皇 イノセン ト四世が、モン ゴル皇帝に宛てて親書をしたためる。教皇は、 フラン シスコ修道会か ら二名の僧侶を抜擢 して親善使に任命 し、各々に親書を託 してモンゴル ・ウルスヘ派遣する. この大役を仰せつかるのが、以下に少 しく紹介するカ ル ビ二とルブル クである。重大かつ命がけの任務を拝 命 した両人は、以後それぞれに自らの信心、知識、人 脈、縁故などを駆使 して、中央アジアのモンゴル ・ウ ルスを目指す旅に挑むo カル ビ二は

、1

2

45年の復活祭の 日に仏国の リヨンを 発ち、一路北東 ヨ-ロッパの内陸部を経てモンゴル ・ ウルスの本陣へ向か う。途 中あまたの災難に見舞われ なが らも、遂にはカラコルム北方に陣を張る皇帝グユ ク (在位1246-48)のお膝元に到着す る。 しば しの逗 留を経てグユクとの謁見に臨んだカル ビ二は、居並ぶ 寵 臣の一人を介 して、カ トリックの教えに帰依するこ とを諭 した教皇の親書を奉呈す る。役 目を果たし終え たカル ビ二は、旅立 ちか ら

2

年を経た

1

2

4

7

年には リヨ ンに戻る。その後のカル ビ二は、旅先で 自らが経験 し た り見聞した りした事柄を報告書にまとめて任務を終 える120 一方、ルブル クが同様の任務を拝命するのは

1

2

5

3

年 のことである。彼は旅を立案するにあた り、前任者の 経験や見識を参考には したものの、安易にそれ らをな ぞ るよ うなことはしなかった。ルブル クは、アジア内 陸部への旅に先立ち、 しば らくコンスタンチ ノープル に逗留 し、彼の地でアル メニア出身の聖職者や商人た ちと接触を図 り,モンゴル ・ウルスに関する様 々な情 報の収集 に専念する。その間、折を見て小アジアやエ ジプ トへも足を運び、 アラビア語とモンゴル語の習得 に励む。 また彼は、机上の文献資料にも注意を払い、 必要 とされたあらゆる知識の獲得に努めた。ルブル ク が旅立ちにあた り、あらか じめ身につけていたとされ る黒海周辺な らびに中央アジア一帯の地理や文物に関 す る知識は、彼が 日頃から座右の書とした聖 イシ ド-- 3 6

(6)

-ロ (七世紀にセビリアの大司教の座にあったスペイン の碩学、560?∼636)の著書 Eb'mologlasに負 うもの であった。かかる周到な準備を経てルブル クは、先に 述べたガザ リアを経 由して、カラコルム近郊 に陣を張 る皇帝モンケ (在位1251-59)の本陣を目指す。ルブ ル クも旅にあ っては、筆舌に尽 くしがたい困難と危険 に遭遇するが、 コ-カサ ス平原か ら以東へはサルタク (バ トウの息子)が差 し向けた案内人を立てて旅を続 け、いくつものジャムチ (馬を用 いた駅伝制度) を乗 り継いでモンケの宿営地に辿 り着 く。モンケに親書を 奉呈 し終えたルブル クは、帰途に臨み、前任者が辿 っ た北方の内陸ルー トを避け、 自らは南回 りのルー トを 選択する。彼は、先ず西進 して コ-カサス平原へ向か い、そこにさしかかる辺 りで南へ折れ、一路アラン族 の住むカフカズ 山系東麓の丘陵地帯 を右手 に見 なが ら、カスピ海の西岸部をイラン方面に向か って南下す る。その後は、かの地下都市で知 られた トルコのカッ パ ドキアなどを経由して ヨーロッパに戻る。ルブル ク も帰還後には,カルビ二と同様に、旅の経緯をラテン 語で書 き記 し、教皇庁へ報告す る1㌔ ルブル クが著 し たこの見聞録は、13世紀中葉の中央アジアに関する情 報を満載 した宝船のよ うな もので、今 もって読者を引 きつけて止まない魅力に満 ちている。 ところで思いもよらぬ ことに、ルブル クが著 したこ の貴重な見聞録の中に、本稿の冒頭で紹介 した騎馬戦 士の氏素性の解明に一役買 うと判断 され る事柄が扱わ れているQルブル クの見聞録をラテン語か ら英語 に訳 した人物は,William W∝dvilleRockhillとい う、中 央アジア史に造詣の深い研究者であるが、彼が原著の 内容を補完 ・補正す る目的で脚注に書き添えた関連の 情報は、一冊の学 問書が 出来上が るほ どの内容 を誇 る。以下にロックヒルが伝える情報の一端を紹介 し、 冒頭で触れた騎馬戦士の氏素性に迫 ってみ ることにす るo

Aftereveryraintheyfound(inthebedsof thestreams?)akindofironcalledkid-sha,

which cotJd be made into weapons of extraordinary temper, and which they

usually gave to the T'u-ktieh (Turks)as

tribute,Men were few among them as compared to women.They woreearrings. Themenwerebrave.Theyhadta

t

t

oo-marks ontheirhands,andthewomenwhenthey marriedhadthem madeonthenapeofthe neck.They lived together promiscuously. Theirarmsconsistedofbowsandarrows,

and they carried flagsandpennons.They madeshieldsofsplitwcxA,longenoughto

coverahorseman to theground,and had othersmallerroun d ones,reaching lo the shoulder,to ward off arrow and sword blows.14 さて、引用 した ロックヒルの記述には、かつて弓矢 で武装 し、腰か ら宿 までを覆 い隠す ことの出来る円形 の盾 を携帯 し、ぺ ノンと呼ばれ る三角旗を結わえた旗 棒を持 ち歩 くキルギス族のことが記 されている。そ も そもキルギス族は、バ イカル湖の西方、すなわちエニ セイ川の源流域を故地 とした民族集団であった。 ロッ クヒルが中国の文献やペルシャ語の文献に基づいて記 したと判断され る記述 によれば、周辺の諸民族 と混血 を重ねる以前のキルギス族は、赤毛の頭髪 と緑色の 目 をした、総 じて身長の高い人 々であった。かつて彼 ら は、エニセイ川源流域の川床で採取 した鉱石 (砂鉄と 判断 され る) を原料 として鉱やその他の軍装品を製作 し、完成品の一部は、近隣の民族 に献上品として貢納 することなども行 っていたよ うである。村上正二によ れば、キルギス族のこの冶金技術は、西方の ミスシン スク冶金文化の影響を受けた ものであった らしく、 こ の冶金文化の影響が南方のチュル ク族 に及んで、突蕨 (6世紀 の中葉か ら2CX)年に渡 り中央 アジア一帯に君 臨)の勃興を促す要因にな ったのだ とい う15。ひ るが えって ロックヒルの記述は、キルギス族の装飾的噂好 に関 して も触れ て いて面 白い。それ によれば、彼 ら は、男女を問わず、身体 に刺青を施 し、また彼 らの中 では、男性でも耳にイア リングをはめることなども行 われたようである。刺青を施すにあた っては、男性は 手の甲に、女性は既婚後に首の うな じにそれを刺 した のだ という。一般にキルギス族の男性 には尚武の気質 が顕著 に見 られたとい うが、その一方で、彼 らの社会 は、男女の人口比率において、女性が ことのはか多数 を占めるという不可思議な様相を呈 していたことで も 知 られ る。その原因が遺伝的な要因によるものであっ たのか否かについては判然 としない。かかるキルギス 族が歴史の表舞台に登場するのは、 9世紀の中葉のこ とである。その頃に彼 らは、版図の拡大を目指 して 自 ら南方の高原地帯へ撃 って出る。南方のウイグル族な どを併呑 した彼 らは、その後約1世紀に渡 りモンゴル 高原一帯をその支配下に置 く。 さて、話は戻 るが、引 用 したロックヒルの記述は、古のキルギス族には円形 の盾 とぺ ノンを結わえた旗棒を持 ち歩 く慣行があった ことを伝 える。 この 円形 の盾 とぺ ノンの組み合 わせ は、三角錘状の山高帽の特徴を除き、本稿の冒頭に紹 介 した騎馬の戦士の図柄 とものの見事に一致する。 ところで、元朝政府は、南宋平定後に王朝の経済を 支えることとな った南北間 (大都

漸江間)の交通路 の要衝に、あまたの西域出自の騎馬軍団を配置 し、彼 - 37 一

(7)

上 聞 らに王朝の行方を左右する国防の任務 を託 した。 これ らの軍団がどの程度の規模 を誇 るものであったのかに ついて、中国 の歴代官制制度 を研 究 した和 田清 は、 「(中略)これを見るとき三十七巽の中三十一翼迄が揚 子江沿岸に配置せ られたのであ り、殊 に江唯のデルタ 地帯には二十巽の寓戸府が集中せ られ、 また北支那の 大都よ り杭州、平江 (蘇州)慶元 (寧波) を結ぶ元朝 の経済的大動脈の線に沿 って兵力の多い上寓戸府が配 置せ られてゐたことを知 りうるであろう。即ち江推地 帯 とこの経済的大動脈が元朝では軍事的に重要視 され 特 に強大な軍備がな されてゐたのである」, と述べて いるlf'。文 中に現われ る三十七巽 とは、江南地方全域 に配置 された元軍の守備隊の数をい うのであるが、な ん とそ の内の三十一翼 までが漸江行 省 を含 む揚子江 (長江)のデルタ地帯に配置 されていたというのであ る。 因みに、引用に登場す る上寓戸府 とは、7∝沿人以 上の兵力か らなる部隊のことをいう。 これ らの事実 を 踏まえれば、杭州を本拠地 とした拝住配下のアラン部 隊なども相当の兵力を誇る騎馬軍団であったことが判 明す る。杭州は, この地方の物資の集積地 として、漸 江行 省の中では と りわけ重要な地位 にあ った。因み に、モールは、元末のアラン人の人 口が3万人余に達 していた ことを伝 える 17。元朝に仕 えた色 日系人の中 には、モンゴル人がオルス人 (斡羅思) と呼んだ ロシ ア人 らも含まれていた。そのことについて、村上正二 は、 「元朝治下ではモンケ・カンの座下 に収容 されたキ プチ ヤ久 アラン人などとともに、多 くのオルス人が 捕虜 とな って漠南の地 に移植 させ られた。元末には宣 忠斡羅思親軍都指揮使司の下におかれて、元朝兵力の 一翼を担 った」と述べている180 さて、問題のキルギス 族であるが、彼 らは漢代の頃か ら中国の文献に登場す るとされ、元 史には 「乞里乞里」の書写表記で現われ る。既述の考察を踏 まえれば、彼 らもまた他の色 目系 集団と同様 に、長江沿いのデル タ地帯かあるいはその 南方に位置する新江省のあた りに配属 されていたもの と推断される。彼 らは、おそ らくオルス軍団かアラン 軍団のいずれかに帰属 していた ものと考え られ るが、 彼 らの尚武的気質やその冶金術 といった ものを鑑みる とき、彼 らを最 も魅 了 しそ して惹 きつけた民族集 団 は、尚武の鏡 と窟われたアラン族であったのではある まいか。元来アラン族は、戦闘の最中に潔い死 を遂げ ることを誇 りとした文化的性格 (スキタイ文化 に由来) に彩 られた民族で、彼 らの集団内 (本来彼 らの社会に は奴隷制度は存在せず、彼 らに帰順す る者は養子縁組 の儀式を経て迎え入れ られた) には、かかる文化の性 格 に賛同す る様 々な種族 の出身者が集 っていたとされ る。 さて、 これ までの考察結果 を踏 まえて判断す るな らば、本稿の冒頭 に紹介 した騎馬戦士の図柄は、かつ て元朝に仕えて江南地方に閲歩 したキルギス戦士の出 篤 で立 ちを描いたものに相違ないと解釈 され る。

おわ リに

14世紀の中葉か ら15世紀の初頭にかけて今帰仁城に 居 を構えた武装勢力との関わ りが指摘 され る出土品の 数 々は、元朝に仕えて活躍 した色 目系騎馬軍団の文化 的性格 を濃厚に反映する趣を帯びている。それ らは、 食糧残浮としての麦の炭化粒に始ま り、左回転式の石 臼、遊牧騎馬民族の軍装備の系譜に属すると判断され る整状嫉、祭稚用であったと推察 され る精巧な出来栄 えの三角ヤジ リ (骨製)、片方に円形の穴が穿たれた短 冊状の携帯用石製ヤス リ (内モンゴル地方で類似のも のが出土)、鉄製の短刀類の数 々 (ユーラシア大陸の騎 馬遊牧民は、総 じて名 うての短刀使いであった ことで 知 られ る。エ リアの虎退治 の武勇談を参照)、郭内の 集団がナルド(ペルシャのササーン朝期に考案 された陣 取 り遊び) に興 じていたことを窺わせるサイコロと小 円形の石駒、中央に小円形の穴が穿たれた円盤状の石 版 (重量は300gで、錐を回転させる仕掛けの一部であっ たと考えられ る。出陣にあた り、モンゴル軍団の兵士 が装備 しなければな らなか った七つ道具の一つ)相、匠 の技が冴える鉄製のハサ ミ (ウランバー トルの国立歴 史博物館に収蔵 されている大モンゴル時代のハサ ミ類 と瓜二つ)、豹紋碗 (陶器に豹紋を描 く伝統はイランに 始 ま り、その歴史は紀元前4千年紀に遡 る)20、スタン プとしての用途が考え られ る異色の凸型状記紋 (卍紋 は古来ユーラシア大陸の騎馬遊牧民に広 く信仰され、 悪霊払いに力を発揮するとされた。因みに、記紋様の 起源は石器時代にまで遡 り、その源郷はモンゴル高原 西部地域 に比定 されている)、ギ リシャ十字 を紡嫌 と させる縦横同長の十字架紋 (その中心には騎馬文化 と の関わ りを渉ませる四つ葉のクローバー、<クローバー は別 名 うまごや しとも呼ばれ、馬 の飼育 に最良の牧 草。バルカン半島 ・小アジア原産>、とその花紋が配 されている),などに及ぶ。尚、十字紋は中世今帰仁の 後期武装勢力にとって格別のものであった らしい。 こ の勢力最後の領袖肇安知が所有 していたとされ る刀剣 千代金丸 (後世の命名による) の鍔に透か し彫 りにさ れた四葉のクローバーの十字紋やその傍 らにあしらわ れたクローバーの花紋、な らびに 『中山世譜』が伝え る撃安知最期の行状 (霊石に刀で十字を切刻し、 自勿Jj して果てる)などは、そのことを如実に物語 る。 さて、先行研究は、元末 ・明初の江南地方で外国人 の排除を求める動きが焔烈を極めた ことを伝える2】。 漢人を主体 とした国づ くりを標梯 した明朝は、その初 期 において、元朝期にモンゴル人や色 日系人に支配さ れた経験 を踏 まえ、海禁政策 という対外政策に打 って 出る。それは、内に向かっては海外 との自由な交易活 動を禁止す るものであった。元末 ・明初の江南地方に ー

(8)

38-吹き荒んだ撰夷思想を鑑みるとき、上に紹介 した出土 物の数 々は、単なる交易の視点で扱われてはな らない 様相を帯びていることが解 る。 このたびの考察で判明 したキルギス戦士の図柄を含め、上に少 しく紹介 した 騎馬文化ゆか りの品々といった ものは、15世紀の初頭 に尚巴志の軍勢に潰 されてしまった今帰仁の後期武装 勢力なるものが、在来の土豪勢力とは一線を画す渡来 系の武装集団であったことを雄弁 に物語 る。中で も、 名刀 ・千代金丸、it1枚を含む数種の十字紋、騎馬戦士 が携行 した短冊状やす り、短刀類、砦状の嫉、武人た ちがナル ドに興 じていた ことを窺わせるサ イコロや石 駒 といったものの存在は、14世紀の後半期 に今帰仁城 に陣取 った武装勢力の氏素性 を解明する有力な手掛か りになろうO因みに、明初の詩撰集の-つである 『蹄 田詩話』には、次のような事柄が述べ られている。 丁鶴年同同人至正末方氏接漸東深忌色目人 鶴年畏禍遷避無常居有句云行縦不具集束徒22 これを参照すれば,元末の乱世には、西域出自の色 目 人のみな らず、蒲一族に代表 され るペル シャ湾岸出身 の回回人 (イスラム教徒) らも方氏 (方国珍配下の勢 力)の迫害か ら逃れ、漸江沿岸部から東方の彼方へ逃 避 して行 ったことが解 る。丁 (ウデ ィン)姓を名乗る この鶴年なる人物の氏素性がそのことを知 らしめる。 -一方で、 この逃走劇は,14世紀前半期の漸江沿岸地域 の住民が、東方の海原に浮かぶ奄美や沖縄の島々の存 在について.かな り詳 しい情報 を共有 していた ことを 窺わせ る内容を率んでお り、す こぶ る興味をひ く。そ れはともか くとして、1368年には、13世紀の中葉か ら 約1世紀に渡 り、中華本土にとどまらず、広 くユーラ シア大陸 をも席巻 した元王朝が瓦解 へ と追 い込 まれ る。その結果、騒乱の巷 とな った江南地方では、彼の 地に踏み とどまっていた色 目系の兵士やその家族 らが 路頭に迷い、挙句の果ては寄 る辺を失 って歴史の闇に 葬 られる。つとに元朝下の江南地方に駐屯 したキルギ ス族 といえども、元末の彼の地に吹き荒んだ排外主義 の嵐には抗 しきれず、ついには歴史の表舞台か ら姿を 消す ことになる。かかる意味において、今帰仁城跡か ら出土 した異色の騎馬戦士の図像は、元朝に仕 えた在 りし日のキルギ ス戦士の面影 を今 に伝 え るもの と し て、世界にも類例をみない貴重な考古学史料であ り、 文化遺産であるといえよう。尚、本稿の内容に沿 って 判断す るな らば、考察 したキルギス戦士の図柄をあし らった青花柄は、南来期の杭州 に設立 され、宮廷御用 品の青磁碗などを焼成 した 「南来宮窯」の技術的流れ を汲む陶工によって製作 されたものであったと見なさ れる。最後に、本稿で紹介 した中世今帰仁の武装集団 にゆか りの発掘史料は、元王朝に仕えて長江以南の漸 江地方に配属 されたアラン (阿速)近衛部隊 との関わ りを強 く渉 ませる特徴 を帯びている。従 って、14世紀 の後半期 に今帰仁城に居 を構えた武装集団の氏素性 を 解明す るにあた っては、パー トウ一 ・エルを初代の頭 領 としたこの兵団に関す る研究が不可避 になるのは必 至 と見 られ る。

1 『今帰仁城跡発掘報告 ⅠⅠ』、今帰仁村教育委員会、 1991年、214頁。

2 V.Minorsky,TheAlanCaDl'taJMagasandthe MongoICamDBl'gns,1952,p.226.

3 A.C.Moul,Chz'Istl'ans l'n Chl'na before the Year1550,1930,p.263. 4 Moul,op.

°

it

.

,p.261. 5 江上波夫、『アジア文化史研究』、東京大挙東洋文 化研究所、1967年、350頁。 6 鍵竹汀 /黄鐘識 『元史氏族表二』、1801年 (嘉慶十 一年)、207頁。 7 鍵竹汀 /黄鐘識、前掲書、208貢0 8 錦竹汀 /黄鐘歳、前掲書、209貢。 9 寺地連、 「方 国珍政権 の性格」、 『鷹島史畢研究曾 編』、223号、1999年

40頁。 10 鑓竹汀 /黄鐘識、前掲書、207頁。 11 マル コ・ポー ロ、 『東方見聞録1』、愛宕松男訳注、 東洋文庫、1994年 、lo貞o 12 カルビ二がラテン語で記した見聞録は、以下のタイ トルで英語 にも翻訳され ている。 771eJoumeyo1 -Fz'Iaz'JDhnofPl'anDeCaIPl'netoi:heCourtoT Kuyuku Kahn,124511247,as NaI-1lated by Hl'mself

13 ルブル クの見聞録 も以下のタイトルで英訳が存在 す る。

The Joumey of Willl'am oFRubruck to the Eastern parts of the WoTJd, 1253-55, as NaITatedbyHl'mseIf

14 Rubruck,op.

°

i

t

.

,p.197.

15 『モ ンゴル秘史3』、村 上正 二訳注、東洋文庫、 1976年,98頁。 16 和田清、『支那官制蓉達史 (上)』、中華民国法制研 究会、1942年、366頁。 17 Moul,op.ciL,p.254. 18 村上.前掲書、3(氾頁O 19 ドーソン、 『モンゴル帝国史

2

』、佐 口透訳注、平 凡社、1994年、34頁。

20 R.GhirshmanJRAN,PenguinBooks,1965,D. 36.

21 桑原隣蔵、 「清春庚 の事蹟」、 『桑原隣蔵全集第五 巻』、岩波書店、1968年、238頁。

(9)

-上 聞

22 『締 田詩 話下』、置佑 撰、1466年 (成化 二 年)、

18頁。

引用文献

Ghirshman,R.IRAN.Maryland:Penguin,1965.

TheJourney ofFI-IaI-John ofPl'anDeCalPlneto Ehe Cou1-tOFKuyuku Kbhn,124511247,as NarTatedbyHL'mselfTrams.William Wcxxlville Rockhi11.London:TheHakluytScciety,1900.

TheJoLlm eyOfWl'111'am oFRubI'ucktotheEastem Parlsofthe Woz-ld,1253-55,asNaI-1lated by HJ'mself Trams.William Woodville Rockhill.

London:TheHakluytSociety,1900.

Minorsky,V.The Alan CaDltalMagas and the Mongc)1CamDBl'gns.Bulletin oftheSchcd of OrI'entalandAfTl'can Studl'esXIV.London:U ofLondon,1952.

Moul.A.C.Chz-istI'ansl'n China beforethe Year

1550.NY:Macmiuan,1930.

江上波夫 『アジア文化史研究』 東京大学東洋文化研 究所 1967年. 桑原鴨蔵 「蒲蕎庚 の事蹟」 『桑原院蔵全集第五巻』 岩波書店 1鉱8年O 『鯨 田詩話下』 置祐 撰

1

46

6

年 (成化二年)。 鑓竹汀 /黄鐘識 『元史氏族表二』 1801年 (嘉慶十一 年 )。 寺地遵 「方 国珍政権 の性格一 乗元期台州黄巌県事情 素描第3篇」『鷹 島史撃研究曾編』223号 1999年。 -40-栄 ド- ソン 『モンゴル帝国史

2

』 佐 口透訳注 平凡社 1994年。 『今帰仁城跡発掘調査報告 ⅠⅠ』 今帰仁村教育委員会 1991年。 マル コ ・ポー ロ 『東方見聞録1』 愛宕松男訳注 東 洋文庫 1994年。 『モ ンゴル秘 史3』 村上正二訳注 東洋文庫 1976 年。 和 田清 『支那官制沓達史 (上)』 中華民国法制研究会

1

9

42年。

引用文献以外の参考書 目

Alvarez Peね Alberto.Sl'mboJogla ma'gl' co-tTadl'cllonal.Gij6n:PicuUrriellu,2002.

Bachrach,BernardS.A Hl'storyoftheAlansl'n the Wesl,Minneap)lis:UofMinnesotaPress,1973. Rostovzeff,M.IITml'ansandGZleeksJ'nSbutIhRus

s

l

'

a

Oxford:Clarendon,1922. 愛宕松男 「朱呉国 と張呉 国一 初期 明王朝 の性格 に関 す る一考察」 『東北帝国大草文化曾編輯』159号 1953年. 奥崎裕 司 「元末万国珍の乱前史」 『茅茨

』 3

号 青山学院大学東洋史会 1987年。 清水泰次 「明初 におけ る臨濠地方の徒民について」 『史拳骨雑誌』第五十三編十二号 1942年。 増田精一 「楓石」 『Museum

34号 1954年。 増 田精一 「石 臼の出現 と漢代の東西文化交流」 『Museum』93号 1958年。

参照

関連したドキュメント

突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

熱が異品である場合(?)それの働きがあるから展体性にとっては遅充の破壊があることに基づいて妥当とさ  

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ

このような環境要素は一っの土地の構成要素になるが︑同時に他の上地をも流動し︑又は他の上地にあるそれらと

されてきたところであった︒容疑は麻薬所持︒看守係が被疑者 らで男性がサイクリング車の調整に余念がなかった︒

夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額

(1) 汚水の地下浸透を防止するため、 床面を鉄筋コンクリ-トで築 造することその他これと同等以上の効果を有する措置が講じら