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DerGrund`Glaube'derChristlichenEthik キリスト教倫理の信仰的根拠

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(1)

キ リス ト教倫理の信仰的根拠

田 行 雄

DerGr und̀ Gl aube'derChr i s t l i c henEt hi k

Yuki o

M ocHIDA

じ め

受難物語を,特 に,その十字架の出来事を奇跡物語の中に含める神学者 はいない。 ここにはい わゆる 「奇跡」 など何一つ見 られないか らである。 マルコの福音書 によれば, イエスは死刑の判 決を受 け, ローマの兵士達 に侮辱 された後,十字架に架か り,再び群集やユダヤ教徒か らも噸笑

されなが ら,神 に向か って大声で叫んで死んだという

( 1 5:6‑3 7 )

もし, アウグスティヌスの定義のように,奇跡が 「自然 について知 られている事柄 に反す る出 来事」であるな らば, この十字架の出来事 に自然 に反す る奇跡 はない。従 って, これを奇跡物語 として理解することは出来ない。 しか し,新約書の世界が このような奇跡を考えているわけでは ない。特 に,法則の体系 としての 「自然」概念 は福音書 とは無縁である。福音書の 「奇跡」は 「 の介入行為」を,すなわち,神がキ リス トにおいて現臨 し活動 し煩いをな しつつあることを意味 する。従 って,奇跡 は証拠ではな く 「信仰への呼びかけ」である。(1)我々を 「あれか これか」の決 断の前 に立たせ る神か らの働 きかけである。

しか し,奇跡が神の介入行為な らば,神が介入すべ き処において介入 しなかった行為 もまた, 同時に,神の奇跡でなければな らない。従 って,屈辱的に終結 したイエスの死 もまた,神の奇跡, それ も,多分,最大の奇跡の一つだったと言 ってよい。 しか し, イエスの死 は真 に神の最大の奇 跡の一つだ ったのか。そ して, もしそ うな らば, この奇跡 は一体 どのような神の 「秘密」を証 し ていたのか。 また,それ‑の理解 は, キ リス ト教倫理 のどのような 「個性」を我々に教えて くれ るのか。本小論 はこれ らの問題を考えて。無論, ここに採用 される方法 は,問題の性質上, 倫理思想史的方法であ り, 分析的な資料批判を越えた総合的な方法でなければな らない。(2) 本小 論 はその限定を負いっつ進め られる。

復活信仰

キ リス ト教は十字架上に刑死 したイエスが死 に打ち勝 って復活 したという信仰か ら始 まる。 イ エスの復活の体験か ら

,

「イエスはキ リス ト」という信仰が始 まり,そこか らキ リス ト教が成立 し たのである。 イエスが最初か らキ リス トとして理解 されていたわけではない。事実,生前のイエ スに従 っていた弟子達 は, イエスの言行 に全 く無理解だ った。不信仰をさえさらけ出 している (マルコ

4:1 3;7:1 8;8:31‑3 3;9:2 8‑2 9;9:3 3‑3 7;1 0;3 5‑41;1 4:5 0; e t c . )

。 し か し, それで も弟子達 はイエスにとって特別な存在だった。例えば,一般人にも悔 い改めの宣教 (イエスの業の一つ)を行 うことは許 されていた。誰 もが福音を宣べ伝えてよか った (マルコ

1:

4 5;5:2 0 )

。 しか し,イエスの行 っていた もう一つの業,すなわち,悪霊追放 (その具体的行為 としての病人癒 し) は一般の人に許 された行為ではなか った。それはただ弟子達だけに許 されて

(2)

いた (マルコ3:1

5; 6:1 3 )

。従 って,彼等 はイエスに対 して特別な立場 にあったといってよ

。(3)

その弟子達が, なおかつ,生前のイエスを理解で きなか ったのである。 しか し, イエスの何を か。 それは,師イエスはメシアであるという,その最 も肝心な一点であった。従 って,弟子達が 行 っていたことは,単 にイエスの福音宣教 と悪霊追放 という二つの業の真似事 に過 ぎなか った。

しか し, イエスの死 と復活の体験を契機 に して,再 びガ リラヤか ら開始 された弟子達の活動 は, もはやイエスの業の真似事ではなか った。ーイエスその人をメシアとして宣教す るとい う新 しい業 に変わったのである。従 って, キ リス トの教えは,円環的に, ガ リラヤか ら始 まり,その地 に帰 り,再 びそ こか ら出発 しているが, しか し,再 びガ リラヤか ら始 まった宣教活動 は, もはや原初 の活動 とは根本的に異な り

,

「イエスはキ リス ト」 という新 しい福音を宣べ伝える活動であった。

そ して,そこに初めてキ リス ト教 という新 しい宗教が成立 したのである。

このように,新 しい宗教 は復活体験 とそこか ら始 まった復活信仰か ら由来 した。従 って, イエ スの復活 という出来事がキ リス ト教理解の最 も重要な決 め手 になる。 しか し,それでは,死者の 蘇 りはそれ ほど珍 しい特殊な出来事だったのか。現代人か ら見れば,死んだ人間が生 き返 ったな どというのは恐 ろ しい事件であ り不思議な奇跡だろう。 しか し, イエス時代の人々か ら見れば, それほど恐 ろしいことで も珍 しいことで もなか った。従 って,単 にイエスが死んで蘇 ったという だけな らば,今 日のキ リス ト教 は存在 しなか ったろう。

死者の復活 は,当時の観念か ら見て (有 り触れた出来事 とまでは言えないとして も),起 こって も不思議ではないような出来事の一つだったはずである。事実,新約書の中にも死人の蘇 りの事 例 は幾つか報告 されている。無論, それ らはイエスのキ リス トとしての権威を証す る資料 として 採用 された伝承なのだが, しか し,少な くとも, その蘇 りを知 った人達が,それに対 して不思議 が ったり恐れた りしているわけではない。彼等の問題 は,死人の蘇 りその ものではな く, イエス がそのような出来事を起 こし得 る権威を持 っているか否か とい う点 にあった。従 って,それ らは, イエスに対 して,一方では信頼を深め,他方では憎悪を強めてい く,そ ういう切 っ掛 けの出来事 になっているに過 ぎない。死人の蘇 り自体が極めて特殊な奇跡なので ここに報告す るとい うよう な理解ではないのである。

例えば,イエスが死人を蘇 らせたという話 はマルコの福音書 にある (

5:21‑2 4 ,35‑4 3 )

。ヤ イロという会堂長の娘を蘇 らせたという。 イエスが死んだ娘の手を取 って 「タ リタ, クム」 と言 うと,.少女 はす ぐに起 き上が って歩 き出 した。そ して

,

「それを見 るや,人々は驚 きのあまり我を 忘れた

」(5:42 )とある。 しか し, ここに居合わせた人々は (

たとえ非常 に驚 いたとして も)漢 して恐れたり震えた りしてはいない。また,同様 の話が ヨ‑ネの福音書 にもある

( l l: 1‑4 4 )

0 ここはラザロの復活 として有名 になった。死んで葬 られて四 日もたっていたラザロに, イエスが

「ラザロ,出て釆なさい」 と大声で叫ぶ と

,

死んでいた人が,手 と足を布で巻かれたまま出て来 た」 という。 しか し, この後 には人々が驚いたとも恐れたとも書かれていない。 これ らの事件を 契機 に して,イエスは彼を信 じる人々か ら更 に深 い信頼を得てい く。しか し,彼 に反対す る人々, 特 にユダヤ教の祭司長や ファリサイ派の人々か らは一層強い恨みを買 ってい く (ヨ‑ネ

1 1:45

5 3;マタイ 2 6: 1‑5,par .)

。そ して, それは刑死の事件‑ と進展する。

従 って,明 らかに, これ らの記事 はイエスのメシアとしての業の奇跡性を示すために書かれて いる。しか し,少な くとも,死人の蘇 りに対 して,当時の人々にそれほど大 きな心理的抵抗があっ たとは思われないのである。

また,史実問題 は別に して も,福音書のイエス自身が, 自分 は死んで蘇 ると弟子 などにはっき り予告 している (マルコ9:30;1

4:2 8;par .)

。従 って, もし彼等が真にそのように信 じていた

(3)

な らば, イエスの復活 もまた,予告 した当人が予告通 りに蘇 ったのだか ら,驚 くことで も恐れる ことで もな く,む しろ,師に置いていた信頼が裏切 られなか ったとして喜ぶべ きことだ ったはず である。事実,空の墓を見た女達が震え上が った り恐れた りしたのは (マルコ

1 6:8)

,イエスの 復活 に対 してではな く,蘇 ったイエスと彼に係わ った自分達 とに再 び官憲の追求の手が伸 びるこ

とに対 してであるとも解釈で きるのである。(4)

いずれにせよ,弟子達 はイエスが蘇 ったと思 い込む ことの出来 る何かの体験を して, イエスの 復活を信 じることが出来た。 しか し,彼等 にとって,イエスの蘇 ったこと自体が重要だったわけ ではない。 もし復活 自体 に何かの意味を認めただけのことな らば, この復活 もまた,当時,それ ほど珍 しくはなか った事件,すなわち,単 に死人の蘇 りとい う一つの出来事 として片付 け られて いたことだろう。

十字架上の秘密

それでは,なぜイエスの復活を契機 に してキ リス ト教 は成立できたのか。上 に見たように, イ エスの蘇 り自体が問題だ ったか らではな く,む しろ,その復活 に何か別の意味が見出されたか ら である。すなわち,彼の復活が何か他 とは異なる新 しい意味を証 したか らである。あるい紘,莱 子達が復活体験を通 じて,イエスのそれまでの出来事 に何か新 しい意味を初めて見出す ことが出 来たか らである。だか らこそ,その復活信仰が中心 に据え られてキ リス ト教 は成立 し得 た。決 し て復活 自体 は特殊な出来事ではなか ったが, イエスの蘇 りは他のそれ と異な り,それによって何 か新 しい意味を (キ リス ト教的に言えば)「啓示 した」か らである。 そう考えざるを得 ない。

しか し,一体 イエスの蘇 りは何を啓示 したのか。先ず, イエスは死んだ。だか ら,蘇 った。死 がなければ蘇 りもない。 しか し, イエスの場合,その死 は単 に自然的な死や病気 による死ではな い。明 らかに,十字架上の刑死である。この点 に上 に提起 した問題を解 く鍵があるように見える。

イエス ・キ リス トの出来事を理解す るためには,単 に復活だけでな く,刑死 と復活を一括 して考 えなければな らない。(5)もしイエスが病気か老衰で死 に, それか ら蘇 ったというだけのことな ら ば,恐 らく, このような事件 にはな らなか ったろう。 また, このような信仰 も生 まれなか ったろ う。従 って,刑死がキ リス ト教理解の重要な鍵 になる。 イエスが十字架上で刑死 して復活 したか らこそキ リス ト教 は成立で きた。

今,我々は 「刑死 と復活」 を一組の出来事 として考えてみなければな らない。 この問題を仮 に

十字架上の秘密」と呼んで置 く。具体的には,なぜイエスは刑死 して復活 したのかという問題で ある。無論,福音書に従 って生前のイエスの言行を見 る限 り,彼 は決 して刑死 に価する生 き方を してはいない。 もし殺人 とか陰謀画策 とかによる刑死な らば, その生 と死の因果関係 は明白であ る。 しか し,福音書 にそ うい う痕跡 はない。それでは,なぜ イエスは刑死 しなければな らなか っ たのか。

この間題には実に様々な解答が試み られてきた。その一つ にイエスは革命家であったというの がある。 イエスは反 ローマ運動の首謀者だったが,結局,革命 に失敗 して逮捕 され処刑 されたと いう。そ して, キ リス ト教成立後 に,教会が ローマとの関係をよ く保っべ く, イエスの生涯の革 命的な痕跡をすべて消 し去 って伝記を書 いたために,革命家 イエスが見失われて,専 らキ リス ト

と理解 されたイエスの姿だけが伝え られて きたとい うのである。真面 目にそ う考 えている研究者 もいる。

しか し,福音書 に見 られるほど (む しろ,見 られないほど)見事 に一人の人間の生 きた痕跡を 消 し去 るなどということが果た して可能だろうか。福音書文学が様々な伝承を合成 して成立 した 点を考え併せるな らば,なおさらである。更 に,福音書 はすべて革命家イエスの痕跡を消 し去 る

(4)

ために書かれているわけではない。「イエスはキ リス ト」という信仰を宣べ伝える目的を もって書 かれている。我々はまた諸福音書 より前 に成立 したパ ウロの手紙が 「革命家イエス」 について全

く何 も触れていないことにも注意する必要がある

。( 6 )

そうなると,当然,十字架上の秘密が問われることになる。 なぜ罪のない者が刑死 したのか。

これに対 して一般 にキ .)ス ト教が採用 してきた解釈 は, イエスは全人類の罪の身代わ りとして死 んで くれたというものである。そ して,その結果,神 と人間 との間に和解が成立 したとい う。多 分, これを最初 に教義化 したのはパウロであった。彼はコリントの信徒に宛てて次のように書 い た。「最 も大切なこととしてわた しがあなたがたに伝えたのは,わた しも受 けた もの」であり,そ れは 「キ リス トが, 聖書 に書いてあるとお りわた したちの罪のために死んだこと, 葬 られたこ と ・・・です」(Ⅰコ リ

1 5:3,4)

。恐 らく

,

「キ リス トは聖書に書いてある通 りに死んだ」とい う以前か ら存在 した伝承 に,彼が 「私達の罪のために」 という解釈を新たに加えた ものと思われ る。そ して,そこにイェスの死に対するパウロ的な理解があったといってよい。

イエスの刑死の秘密 は,パ ウロによれば,私達の罪の身代わ りという点にあるという。一般 に, イェスの死 はこの 「頼罪 の死」であったというのがパ ウロ以来の伝統的な解釈であった。そ して, パ ウロを始めとす る初代教会のこのような解釈 は, イエスの十字架上の秘密を解 き明か したもの と信 じられてきた。

十字架上のイエス

しか し, この通説 とは違 った解釈があってよい。 また,なければな らない。そ して, どち らか と言えば,我々の解釈の方が 「我々にとっては」,む しろ,より大切なのではないか。それを考え てみたい。

さて,我々のいう 「十字架上の秘密」 は,なぜイエスは刑死 して復活 したかにあった。無論, 我々は刑死や復活の史実を確定 しようとしているのではないか ら, ここでは問題の立て直 しが必 要になる。そ して,それは次のようになろう。「なぜ福音書のすべてが一般の事件 と殆んど変わ ら ないイエスの刑死事件をわざわざ記述 して宣べ伝えてきたのか」。

これは,歴史的批判的方法 によって史実の 「何か」を問 う問題ではない。む しろ,倫理思想史 的方法 によって福音書記者が刑死 ・復活の出来事を記述 した意図の 「何か」を,更 に言えば,記 者連の教会の信仰の 「何か」を問 う問題である。無論, この場合, どの福音書 もイエスの史実を 伝え残そうとして書かれたのではな く, イェス ・キ リス トの信仰を宣べ伝えようとして書かれた

という事実が,決 して忘れてはな らない前提になる。(7)

さて,共観福音書のすべてに存在するイェスの受難物語 (マルコ

1 4 ,1 5

章,マタイ

2 6 ,2 7

章, ルカ

2 2 ,2 3

章)については多 くの問題が限 りな く論 じられてきた

。(

8)しか し,今 は,当面の問題 を考える手掛か りを求めて,マルコの福音書の記述,それ も,直ちに十字架上のイェスの姿の記 述を見 ることにしよう。

福音書 によれば, イエスはゴルゴタで十字架にかか って死んだという。その間の出来事 は今 日 まであまり注 目されていない。 しか し,我々には大 きな問題であるように見える。 もし単 に無季 の人が処刑 されたというだけの事件な らば, この刑死 と復活の一連の出来事をその一連性 におい て重視す る必要 はない。 しか し, イエスは十字架上 にあった時,すなわち,生死の極限にあった 時,他に類を見ない特殊 な 「何か」を啓示 した。 しか も,それは十字架上の死の重要性を決める

何か」だった。だか らこそ,記者連 はこぞ って この事件を書 き残 したのではないか。今,その視 点か ら福音書を見 る。す ると,そこには罵 りに耐えているイエスの姿がある。更 に,三福音書そ れぞれに罵 る人々は異な っているが (多分, それは編集者の作為的な改変によるので,その相違

(5)

についてはひとまず問わないとして も), イエスを罵 った言葉の内容 もまた明 らかに殆 ど同 じも のになっている。

この場面をマルコによって見てみよう。十字架上のイエスを見て,道行 く人々は,頑を振 りな が ら彼を罵 って言 った。 「神殿を打 ち倒 し, 三 日で建てる者, 十字架か ら降 りて自分を救 ってみ ろ」

( 1 5:2 9‑3 0 )

。祭司長や律法学者達 も一緒 になってイエスを侮辱 して言 った。「他人 は救 った のに, 自分 は救えない。 メシア, イスラエルの王,今す ぐ十字架か ら降 りるがいい。それを見た ら,信 じてやろう」

( 1 5:31‑3 2 )

o(9)また,一緒に十字架 に付け られた者達 もイエスを罵 っている

( 1 5:3 2 )

0

おまえがメシアな らば出来ないことはないだろう。そんな苦 しい姿で十字架に付 けられていな いで,降 りて釆た らどうだ。そ うした ら,おまえがメシアであると信 じてやろう。要するに,育 跡を起 こしてみろ,それを見れば信 じてやろう。そ う罵 っているのである。

しか し, イエスは十字架か ら降 りて来 なか った。共観福音書 は共通 してそれを伝えている。

もっとも, ここの記述 は, マタイの場合,かな り神話化 され, また, ルカの場合,む しろ合理化 されている。 その細かな検討 は必要ないが, ここで少 し触れておこう。

先ず,マルコの記述を見 る。結局,イエスは降 りて来ないまま死ぬ。この時,「神殿の垂れ幕が 上か ら下 まで真 っ二つに裂 けた」という

( 1 5:3 8 )

。そ して,イエスを見ていた百人隊長が,イエ スが このように息を引 き取 ったのを見て,「本当に,この人 は神の子だ った」と語 る

( 1 5:3 9 )

0(10)

彼はイエスの死に様を見て, イエスは神の子であったと知 るのであって,決 して二つに裂 けた神 殿の垂れ幕を見てではない。すなわち,奇跡を見たか らではな く,む しろ,見なか ったか ら,か えって,神の子であったことを知 るのである。 これは,罵 られて も降 りることな く死んでいった イエスの姿が,かえって, イエスを神の子 として理解 させたことを伝えている。

マタイの福音書 は,当時のユダヤ人社会の神観念を考慮 したためか, この伝承をかな り神話化 した。 イエスが罵 られたことも彼を罵 った人々 も同 じだが,マタイは, イエスを侮辱 したユダヤ 教徒達 (祭司長,律法学者)の中に 「長老達」を加え

( 2 7:

41),更 に,罵 りの言葉の中に,「 の子な ら」,「神 に頼 って」 など,「神」 という語を多用する

( 2 7: 4 0 ,4 3 )

。(ll)また,一緒 に十字 架に付 けられた者 も 「強盗達」 と明白に規定 した

( 2 7: 4 4)

それか ら,イエスの祈 る叫びに続 いて (ここが重要なのだが),他の人々は 「エ リヤが彼を救い に来 るかどうか,見ていよう

」( 2 7: 49 )と言 う。居合わせた殆ん どの人々が何か奇跡の起 こるこ

とを期待 していたのである。しか し,イエスは再 び大声で叫んで息を引 き取 る

( 27:5 0 )

。その時, やはり神殿の幕が二つに裂 ける。次か ら,記述 はかなり神話化 して くる。単 に神殿の幕が裂けた だけでな く, 地震が起 こり, 岩が裂け, 墓が開いて, 眠 っていた多 くの聖徒達 の体が生 き返 り (もっとも,彼等が聖都に現われたのはイエスの復活の後 とされる)

( 27:51‑5 3)

,そ して,百人 隊長やその他の人々が, (「イエスが このように息を引き取 ったのを見て」(マル コ)ではな く), その地震や様々な出来事を見て非常 に恐れ,「本当にこの人は神の子だ った」と言 ったというので ある

( 2 7:5 4 )

。マタイは,事件への神の介入 とそこに現出すべ き奇跡を想定 して,伝承をかなり 神話化 した。それは,マルコの編集の視点 とは完全に異な っている。 マタイは,伝承の神話化に よって,読者の説得を狙 った,逆の意味での 「合理化」を進めている。 こうした神の偉大 さや奇 跡の重要 さを殊更 に強調する傾向は, この福音書がユダヤ教徒を念頭において書かれたとす る仮 説の正 しさを窺わせ る一つの証拠で もある。

ルカの福音書 もまた伝承を合理化 した。ルカにもイエスを罵 る人々は登場す る。 しか し,彼等 は,前二書 と異なり,議員達

( 2 3:2 5 )

,兵士達

( 3 6 )

,十字架 にか けられていた犯罪人の一人

( 39 )

である。 また, ルカだけが神殿の垂れ幕が真ん中か ら裂けた出来事をイエスが息を引き取 る前に

(6)

置 く

( 2 3:45 )

この出来事の後, イエスは 「父 よ,わた しの霊を御手 にゆだねます」 と叫んで息 を引き取 る

( 46 )

。そ して,百人隊長 はこの出来事を見て

,

本当に, この人は正 しい人だ った」

と言 って 「神を賛美 した」 というのである

( 47)

。従 って,ルカのイエスは 「神の子」ではな く,

正 しい人」とみなされている。すなわち,死 に至 るまで正 しい信仰を持 ち続 けた人であるという 解釈であって,奇跡的な出来事を伴 って現れた神の子であるという解釈ではない。(12)

この 「正 しい人」 とい う表現 はローマの百人隊長の言葉であるか ら, これの方が史実 に近いの か もしれない。 しか し,明 らかに, これは信仰を伝えようとす る言葉ではない。倫理的 レベルに ぉいて言行の正当性を主張する概念である。事実,ルカの記述 には,神殿の幕が裂 けたという点 を除けば, 何一つ奇跡的な出来事 は記述 されていない。 ルカに特有な

2 3

3 4

節 (後代の挿入 か?)や

4 3

節などは,む しろ, イエスの倫理性を強調す るために採用 された ものだろう。 このよ うに,ルカは倫理的 レベルにおいて理解で きるように伝承を合理化 している0(13) これは, この福 音書がギ リシア哲学の影響が強いヘ レニズム文化の人々を読者 に想定 して書かれたとする仮説の 正 しさを主張で きる一つの証拠 にもなる。

マタイは,伝承 に神話的な説明を書 き加えて,かえって合理化 し,ルカは,倫理的な解釈を付 け加えて,かえって合理化 した。(14'しか し, この二書 に利用 されたマルコに,そのような伝承へ の作為的な配慮 は見 られない。

罵 りに対する一般的な態度

次 に,メシアと思われていた者が十字架 に付 けられて

,

「降 りてみろ」と罵 られた場合・一体何 が考え られてよいか。先ず,単純 に一般論 として考えた場合,彼がメシアで①あった場合,②な か った場合,及び,十字架か ら①降 りて来た場合,②降 りて来なか った場合の四通 りの組み合わ せが考え られよう。

第‑ は,彼 はただの人間だったので,罵 られて, どれほど悔 しか ったとして も,十字架か ら降 りて来 ることは出来なか ったとい う場合である。 この場合,刑死 は何 ら書 き留 める必要 もないほ ど単純 な出来事 になる

第二 は,彼 はただの人間だったが,罵 られたので,十字架か ら降 りて来たという場合である。

これは神の行 った奇跡 になる。ただの人間には出来ないことだか らである。

第三 は,彼 は真 に神の子だったので,降 りてみろと言われて降 りて来たという場合である。 こ れは,無論,奇跡 には相違ないが,神の子 という前提 さえ認めるな らば,十字架上 に秘密などは 一切存在 しない出来事 になる。

第四は,彼 は真に神の子だったにも拘 らず (降 りて来 ることが出来たにも拘 らず)降 りて来な か ったという場合である。そ して,後述す るように, これが

,

神の子 イエス ・キ リス トの福音」

(マルコ 1: 1)を後世 に伝えようとした福音書記者の立場であった。

福音書 によれば, イエスは十字架上 に血を流 して苦 しんでいる時に激 しく罵 られたのだか ら, 従 って,それは十字架上の最大の出来事だ ったはずだか ら, これ ら四つの場合を もう少 し検討 し てみなければな らない。そ うすれば,なぜ教会が このような事件を書 き残 して きたかが明 らかに なるはずである。

先ず,第一の場合。 もし福音書が過去の史実を後世に伝えるために書かれた文献な らば, この ような解釈 もあってよい。 イエスは単 に人間の子であって奇跡を起 こす能力がなか ったか ら, い かに罵 られて も我慢す る外 はな く,従 って,十字架か ら降 りることも出来なか った。そ ういう解 釈 も成 り立 ってよい。

しか し,福音書記者 は史実を伝え残すために書いているのではない。 自らの 「イエス ・キ リス

(7)

ト」 という福音を宣べ伝えるために書 いているのである。従 って,新約 テキス トは,歴史的事件 の正確な記録ではない。 この点を踏 まえて置かないと,歴史を探 るための資料 として福音書を扱 うという (かつての宗教史学派 と同様の)過 ちを犯す ことになる。事実,福音書 を書 く時点の記 者達 にとって, イエスは既 にキ リス トであった。従 って, もしイエスをただの人間 と見 る前提 に 立 って,十字架上の秘密を解 こうとするな らば, テキス トに対 して誠実 さを欠 くことになる。 ま た, もし受難や刑死が単に人間的 レベルでの事件 に過 ぎないな らば,それは,古代の文献の事件 ではあって も,決 して福音書の出来事ではない。(15)従 って, この第一の解釈 は不適当であ り, こ れを採 ることは出来ない。 このような場合には,宗教信仰が歴史 に対 して持つ文化創造力を無視 する結果 になるか らである。

次に,第二の場合。イエスは単なる人間に過 ぎなか ったので,罵 られて も降 りられなか ったが, 神が働 いて, イエスを降ろす という奇跡を成就 したと仮定 してみる。先ず, これはマルコの記述 の事実に反す る。従 って, この解釈 も採 ることは出来ない。

しか し,我々には,む しろ,なぜマルコが この効果的な仮定を採用 しなか ったかが問題である。

今,十字架上の出来事 に神が介入 したと仮定 してみよう。 この場合,神が奇跡を起 こしたことは 神が人間に自己を啓示 したことを意味する。 もしそ ういう奇跡が現れるな らば,そ こに居合わせ た人々は否応な く神の前 に脆かなければな らない。 しか し,絶対的な奇跡の力 によって否応な く 人心を屈服 させ るというのは,キ リス ト教信仰の本質か ら最 も遠 いことである。(16)む しろ, この 信仰 はそ ういう信仰の在 り方 に真 っ向か ら反対 して成立 した。 そ して,そ こにマル コが この第二 の仮定を採用 しなか った理由がある。従 って, イエスは人間の子であったにも拘 らず,神の奇跡 を示すために十字架か ら降 りて来たという仮定を採用す ることは出来ないのである。

更 に,第三の場合。無論, これ もマルコの記述 に反する。 しか し, イエスは神の子であったか ら, 自ら十字架を降 りて,彼を罵 った人々に奇跡を示 したという仮定 も成 り立たないわけではな い。 この場合の方がむ しろ合理的な理解が可能である。神の子に不可能 なことはないはずだか ら である。 もしイエスは神の子 とい う前提 さえ認めるな らば, ここに理解を妨げるような秘密 は何

もない。正当に成 り立 ってよい仮定である。

マルコは福音書を書 く時点 において既 にイエスを神の子 とみな していた (

1

:1)。従 って,こ の第三の場合のような記述 に して もよか ったはずである。 しか し,彼 はそれを行 っていない。 そ の行 っていないところにむ しろマルコの信仰の特質がある。すなわち,彼の記述の根底 には,育 跡 によって屈服 させ られた信仰 は決 して真の信仰ではないとい う理解が前提 されているのであ る。もし史実を正確に記録する必要がないな らば (単 に信仰を広めるためだけな らば),神の子を 罵 った人々に制裁を加えるために,十字架か ら降 りて来たというような記述を創作 した方が,伝 仰の宣伝 には一層効果的だったろう。少 な くとも, イエスに関す る報告を書いていたわけではな いか ら,丁度, イエスが 「クリタ ・クム」 と言 って,死んだ少女を生 き返 らせた (マルコ

5:41

‑42 )物語 を書 いたのと同様に, これを奇跡物語 に仕立て上げて もよか ったはずである。

しか し, マルコがそ うしなか ったのは, やはり, 人間の力ではどうにもな らない奇跡の力に よって,有無を言わせず人間を服従 させて しまうというのは,決 して真の信仰ではないとい う理 解がその著作活動の根底に働 いていたか らだろう。(17)従 って, この第三の仮定 もまた取 り上 げる

ことは出来ないのである。

第四の場合

第四の場合。 もはや これだけが残 されている。従 って,刑死 と復活を一括 して考える場合,復 活の出来事が 「イエスは神 の子であったにも拘 らず,罵 られて も十字架か ら降 りて来なか った」

(8)

死の意味を明 らかに した。すなわち,弟子達にとって, イエスの復活 は,いわば, イエスが死 に 打ち勝 って十字架か ら降 りて来たことを意味 していたのではないか。 もし単 に降 りて来なか った だけに止 まって,復活 という出来事が後に続かなか ったな らば,神 の子である 「にも拘 らず」( りて来 られた 「にも拘 らず」

)の意味が,恐 らく,弟子達 には理解出来なか ったろう。そ して, こ

の 「にも拘 らず」の深淵がその深 い意味を開示することもなか ったろう。復活の出来事が十字架 上の秘密を明 らかに したのである。それ故 にこそ,我々は復活 と刑死を一組 に して考えなければ な らないのである。

しか し, この 「にも拘 らず」 は,一体何を意味 していたのか.恐 らく, それは,何か不思議な 事件を目撃 したか ら,あるいは,何か特殊な奇跡を体験 したか ら,だか ら,神 に屈服す るとい う,

そういう信仰 は決 して真の信仰ではないということを意味 していた。既 に見たように, この信仰 はユダヤ教のそれに対するキ リス ト教の

Ant i t he s e

で もあった。(18)事実,ユダヤ教の唯一神信仰 の場合, エジプ トを脱出で きたという奇跡的な出来事の体験があ り,そこか ら, この奇跡的な成 功 は単 に人間が努力 したか らではな く, シナイ神ヤ‑ ウェが我々の民族 に味方 したか らだという 理解が始 まっている。(19)以来,彼等 はこの神の介入 と理解 される出来事の体験を通 して, 自己の 民族が持つ罪の深 さを悟り, この神 に心を向け直す という歴史のパ ター ンを繰 り返 してきた。そ

して,彼等 はもう一度その過 ちを犯そ うとしたのである (マルコ

1 5:31; pa

r.)0 (20)

しか し, イエスをメシアとみた人々の信仰理解 は丁度その正反対 にあった。何か理性が合理的 に説明で きない事件を体験 したか ら,そのために,信仰を持っ というのではない。先ず信仰を持 つ。そ うすると,信仰を持たない者か ら見れば奇跡 とも思える出来事がそこか ら生起 して来 る。

信仰 にはそういう力がある (マルコ

1 1:2 3 )

。また,仮 にそれが生起 しないとして も,そのために 信仰を捨てることはない。そこに至 って信仰 は初めて真の信仰になる。 そ う彼等 は考えた。従 っ て,先ず奇跡を示 して人心を屈服 させてか ら神を信 じさせ るとい うのは,決 してキ リス ト教の採 るべ き宣教方法ではなか った。(21)事実, イエスによる病人癒 しの奇跡物語などには必ず信仰が先 行 している。 イエスを神の子 と信 じた人がその信仰 によって病気が治 ったという物語 になってい るのである。若干の例を引いてみよう。

1 2

年間 も出血の止 まらない女が群集の中か らイエスの服 に触れ る。それで癒 されると思 ってい た (そ ういう信仰が先ずあった)か らである。す ると病気が癒 された。 そこでイエスは彼女 に言

,

娘 よ,あなたの信仰があなたを救 った」(マルコ

5:3 4 )

と。すなわち,病気が治 ったか ら 信仰が得 られたので も, また,病気を癒 して もらえたか らイエスを信 じたので もない。必ず治 し て もらえるというイエスへの信仰が先ずあったか ら,その信仰通 りになったのである。 マルコが イエスの言葉 として伝えている 「少 しも疑わずに, 自分のいうとお りになると信 じるな らば,そ のとお りになる

」( l l:2 3 )

というのも,そ ういう信仰の本来の在 り方を述べた ものであろう

また, イエスがパルティマイという物乞いの目を癒 したという物語 もある。 この人がイェスに 目が見えるようにな りたいと頼むと, イエスは 「行 きなさい。あなたの信仰があなたを救 った」

と応える。す ると,彼の目はす ぐに見えるようになったという (マルコ

1 0:4 6‑5 2 )

。神の子が自 分を憐れみ, 自分 に愛を注いで下 さる,そ ういう信仰が先ずあると,その信仰か ら目が開 くとい う結果が現れ る。それは決 して奇跡ではないが,信仰のない者か ら見 ると奇跡 とも見える結果に なる。 この物語 はそ ういう信仰の存在を伝えている。

従 って, これ らの病人癒 しは決 して奇跡物語などではない。む しろ,信仰の純粋な在 り方を伝 えているといってよい。 もしそ うな らば,従来の神学のように, これ らを奇跡物語 として扱 うこ

とには再考が必要だろう。

福音書の信仰理解 は,神が奇跡 によって民族の危機を救 い, そ こか ら神への信仰 も確立す ると

(9)

いうような理解ではない。その理解な らば,上 に見た第二 と第三の場合が これに当たろう。事実, ただの人間だ ったにも拘 らず,イエスは神によって十字架か ら降 りて来て,頑なな人心を砕いた, あるいは,彼 は神の子だったか ら,十字架か ら降 りるという奇跡を行 ったということになると, 明 らかに,それは群集 と共 にイエスを侮辱 していたユダヤ教徒達 の求める信仰 になるのである (マル コ

1 5:3

1)0(22)

また,第‑ と第三の場合 は,む しろ, ギ リシア的な理解であるともいえる。両者共 に合理的な 説明であって,その前提 さえ認めるな らば,抵抗な く受 け入れ られるか らである。ただの人間で あって降 りて来 ることが出来なか ったか ら降 りて来なか った, また,神の子であって降 りて来 る ことが出来たか ら降 りて来たというのは,全 く当然のことであって,そこに何の不思議 もない。

前提 さえ認めるな らば,後 は矛盾な く説明の出来 る, ギ リシア哲学的な理解であるといえる

。( 2 3 )

しか し,第二の場合 は,明 らかにユダヤ教的である。 この第二 と第三 との場合のような信仰の 在 り方に対 して,信仰の純粋な在 り方を証 したのが第四の場合であった。奇跡や不思議な事件を 媒介 に して信仰が始 まるという信仰の不純性 に対 して,先ず神を信 じることか ら始めなければな らないという信仰の純粋性を啓示 したことが, この十字架上の秘密の意味であった。 そ して, こ の意味が復活体験を通 して初めて理解 されたのである。

もう一つの解釈

今,初めに提起 された問題,すなわち, イエスの十字架上の死を全人類の罪の身代わ りとみる 伝統的解釈 に対 して, もう一つの解釈 もあり得 るのではないか という問題 に戻 ることが出来 る。

しか し, その前 に最近の解釈の中か ら一つ面白い解釈を取 り上げてみよう。(24)

なぜ罪のないイエスが十字架 にかか って死んだか。 これに対 して,従来, イエスは全人類の罪 の身代わ りになって神 と人 との間に和解を もた らすために死んだ と言われてきた。 しか し,なぜ そ ういう理解 になったのか。 この解釈 はその疑問に答えるものである0

イエスの弟子達 は,師と共に処刑 されることを恐れ,大祭司に裁 きの席上で師を否認す ること を誓い, その屈辱的な妥協 によって助か ったが, イエスはその代わ りに全員の罪一切を背負わせ られる生費の仔羊 となった。(25)だか ら,弟子達 は十字架上のイエスが, 自分達 にどのような怒 り と恨みの言葉を語 るかを恐れていた。 しか し,師は呪唄の言葉を吐 く代わ りに人々に愛を語 り神 に祈 った。 これを聞いた弟子達 は衝撃を受 け,新 しく師を再発見す る。 イエスは彼等の中で生 き 始めた (復活 した)のである。やがて,原始教団に対する最初の二つの弾圧事件 によって, イエ

スは,キ リス トに高 まる最初の段階を迎え,十年後 には既 に神格化 され始めたという。(26) 確かに,弟子達の罪を背負 って死んだというのは納得で きる解釈である。 しか し, あまりうま く説明されると,かえ って,多少の疑問が出て来 る。む しろその 「納得で きる」 こと自体が問題 である。事実, この解釈 はどう考えて も倫理的な地平 にまで引 き下 げられた人間的な解釈で しか ない。信仰的な根拠が踏 まえ られていないか らである。実際, この解釈な らば, イエスが神の子 であろうとなかろうと,そういう信仰的前提 は全 く関係がないだろう。誰か勇気のある革命家が 逮捕 されたが,仲間を裏切 らず,一切を黙秘 して,人間愛を語 りなが ら処刑 されたというような 事件 は決 してないわけではない。 しか し,だか らといって,彼が,(たとえ神の如 き人 とはみなさ れようとも),神や救 い主 とみなされて, そこか ら新 しい宗教が成立するわけではない。従 って, こういう解釈 は倫理的ではあって も,決 して宗教的ではないのである。

繰 り返 し確認 しておかなければな らないが,福音書 は決 して史実を伝え残すために書かれた書 物ではない。 どこまで も信仰を宣べ伝えるために書かれている。その理解を欠 いた福音書の正 し い解釈 はあ り得ないだろう。

(10)

壌罪の意味

上 に見たような合理的解釈や倫理的解釈 に対 して,パ ウロは十字架のキ リス トを宣べ伝えなが ら,次のように警告す る。

先ず, ユダヤ人 は印を求めるか ら,彼等 にとって十字架 は蹟 きであるという (Ⅰコリ

1:2 2‑

2 3 )

。印を求めることは奇跡を求めることであり,何か不思議な事件を体験 して初めて神を信 じる ことである。 しか し,キ リス トの十字架 にあっては,そのようなことは何 も起 こらなか った。だ か ら,ユダヤ人 にとって十字架 は置 きになったというのである。

次 に,ギ リシア人は知恵を探すか ら,彼等 にとって十字架 は愚かであるとい う

( i bi d

)

。知恵を 探す ことは合理的な解釈を求めることである。 イエスは人間の子だ ったか ら降 りられなか った, あるいは,神の子だ ったか ら降 りて来たということな らば, それはギ リシア人の探す知恵の出来 事 になる。 しか し, イエスは降 りられたにも拘 らず,降 りて来なか った。何 と愚かなことだ○ こ

うして, ギ リシア人にとって十字架 は愚かな ものになる。

しか し,キ リス ト者 は十字架に付 けられたキ リス トを,そ して,十字架を奇跡 としなか った 「 の愚かさ」を宣べ伝えるとパ ウロはいう (Ⅰコ リ1:2

5 )

。無論,十字架のキ リス トを宣べ伝える ことは罵 られて も十字架か ら降 りて来なか ったキ リス トを宣べ伝え ることである。 この頃 さであ り愚かである十字架を奇跡ではなか った奇跡 として, また,神の沈黙がかえ って最大 の奇跡で あったような信仰の奇跡 として宣べ伝えることである。それは,パ ウロが,ギ リシア人やユダヤ 人に対 して,奇跡か ら信仰が始 まるのではな く,信仰か ら奇跡が始 まるという信仰理解を したこ とによる。十字架か ら降 りて来なか ったことは,信仰のない者か ら見 ると,置 きであり愚かであ る。 しか し,信仰のある者か ら見 ると, この神の沈黙 こそが最大の奇跡なのである。(27)

パ ウロを始め初代の弟子達 にこの理解を可能 に したのは,蘇 ったイエスに出会 ったという彼等 の復活体験であった。恐 らく,復活をイエスが十字架か ら降 りて来 た (イエスが自己を神の子 と して示 した) ことと理解 したのである。従 って,復活が明か した 「十字架上の秘密」の信仰的意 味は,神 と人 との間に何か奇跡的な出来事が起 きると, それを媒介 にして,両者の間に信仰的な 関わ りが生 じるというような,そ ういうユダヤ教的通念を否定 した ことにある。 それはまた,不 純 な動機や関わ りによって神を知 ろ うとす るのは決 して真の信仰 ではない とい うことで もあ っ た。キ リス ト教的に言えば,む しろ, この不純な信仰 こそが 「罪」なのである。

事実,奇跡を起 こさなければ信 じないというのは神 に対す る挑戦である。印を求めることは神 を試みることであり,神を冒頭す ることである。だか ら罪なのである。そのような神 との関わ り 方それ自体が罪なのである。人間が犯 して きたこの以前の罪をすべて無効 にす るために, イエス は敢えて十字架か ら降 りなか った。 それがイエスは 「人々の罪のために死んだ」 と理解 されたこ との真の意味である。十字架の出来事 は,間違 って罪 という在 り方 を している信仰を打 ち砕いて, 直接 に純粋 に先ず神を信 じる信仰か ら出発 しなければな らないことを明 らかに したのである

イエスは神の子だ ったか ら降 りて来 ることも出来た。 しか し, そ うしたな らば,罪のために死 んだ ことにはな らなか ったろう。かえって,降 りられるにも拘 らず降 りなか ったことによって, 人間の罪を否定 し,真の信仰 とは何かを示 した。 もし人間が不信仰の罪を犯 していなか ったな ら ば,彼 は十字架上の恥辱に耐える必要 もなか ったろう。(2B)だか ら,彼を苦 しめたのは人間の罪で ある。彼 はこの人間の罪を無効 にす るために死ななければな らなか った。十字架上のイエスに神 は遂 に奇跡 を起 こさなか った。 その起 こさなか った ことが, まさに神の啓示 した最大の奇跡で あった。神が働 いた奇跡ではな く,神が働かなか った奇跡を我 々は信 じなければな らない。(29)復 活体験後の弟子達 は,恐 らく,そ う理解 した。それ故 にこそ,一見何の変哲 もない十字架上の受

(11)

難物語をこぞ って書 き留めたのである。 こうした信仰の純粋 さ,真の信仰を取 り戻す ことが十字 架上の秘密だったか らである。

しか し, この理解 は未だ刑死の段階では自覚 されていなか った。 イエスは人間を真の信仰 に立 ち戻 らせ るために十字架上に死んだ。その意味が未だ理解 されていなか った。しか し,弟子達 は, イエスの復活に接 して,それを理解 した。 イエスは蘇 った。 イエスは蘇 って今度 こそ十字架か ら 降 りて来た。 イエスは復活 によって自分が神の子だ ったことを示 し,だか ら,あの時にも降 りら れたことを教え,同時に,あの時降 りて来なか ったことの意味を明 らかに した。それ こそ, ラザ

ロや他の人々のそれとは異なっていたイエスの復活の秘密である。彼等 は, そう理解 した。

イエスは復活 して自分が神の子だ った ことを初めて明 らかに した。 この復活 において,その後 のキ リス ト教の個性を形成 した真の信仰の本質的な意味が開示 されたのである。

本来,パ ウロの信仰理解がそ うだったと思われる。彼の 「わた したちの罪のために死んだ」(Ⅰ コリ1

5:3)という言葉 は,そのように解釈できる。彼の信仰義認の立場な らば,先ず信 じなけ

ればな らないか らである。 しか し,それが後 に教会 によって教義化 されて,罪の無いキ リス トが 全人類 の罪 の身代わ りにな って死んだ とい う倫理的な解釈 に変わ って きた もの と思 われ る。無 請, この解釈の方が理解 し易いので, これが現代で も主流である。 しか し,それは,上 に見たよ

うに,新約文書の性格 (それが何のために書かれたか)を見失 ってきたか らではなかろうか。

神を信 じるに当たっては,先ず直接 に純粋 に神を信 じなければな らない。 それがキ リス ト教信 仰の本質である。,奇跡,不思議 な出来事,超越的な力の介入,そ ういう不純 なものの媒介を一切 許 さない。そ して,先ず神を信 じる。それが,十字架上 に血を流 してイエスが人間に教えた信仰 の真理であった。

キ リス トは神の言葉

一体我々はそ ういう純粋な信仰を持っ ことが出来 るのか。無論,福音書を通 してイエスはそ う 語 りかけている。む しろ,新約書全体が我々にそ ういう信仰を求めている。従 って, キ リス ト教 には, キ リス トの出来事 自体が神の語 った言葉であ り,人間各 自に応答を求める言葉であるとい う理解がある。神の子のキ リス トが地上 に出現 し刑死 し復活 した出来事 自体が, この不条理を信 じるか否か と神が問いかけた言葉なのだか ら,人間はこれに応えなければな らないのである。第 四福音書が この理解を冒頭の詩 に謡 い上 げた。

始めに言 (ことば)があった。言 は神 と共 にあった。 ・・・言 は世 に来てすべての人を照 らす 光になった。 ・・・言 は肉となって私達の間に宿 った (ヨ‑ネ

1: 1, 9,1 4 )

こうして,人間はこの神の語 った言 (イエス ・キ リス ト) に対 して応答を求め られる。すなわ ち,我々の罪のために十字架上 に死んだキ リス トを通 して真の信仰 とは何かを知 った今,我々は 新約書の語 りかけるキ リス トの出来事に応えなければな らない。神の子が十字架 に付 けられて死 んだ。 この不条理を信 じるか。その問いに答えなければな らない。

教会の迫害時代 に活躍 した ラテ ン語教父のテル トゥリアヌスは

,

神の子 は十字架 に付 けられ た。それは恥ずべ きことだか ら,私 は恥 じない。神の子 は死んだ。それは不条理だか ら,完全 に 信 じることが出来 る」 と言 う。(30)神の子が十字架に付 け られて死んだなどというのは不条理であ る。 しか し,だか らこそ信 じるというのである。神の子であるにも拘 らず十字架か ら降 りなか っ た。この 「にも拘 らず」の不条理性

( i ne pt i t udo)

を信 じるというのである。‑ 不条理なる故 に我信ず」。

新約書 は読者をそ ういう不条理性の信仰へ と引 き入れる。固より不条理であるか ら条理のある 解決を図 って欲 しいなどと求 めているのではない。不条理であるが故 に,あるいは,不条理であ

(12)

るにも拘 らず,信 じるかと問いかけているのである。

新約の各書 において神がキ リス トを通 して人間に語 りかけているというこの事実 は, この世に 既 に新約書が存在する限 り,我々の意識には係わ りのない事実である。新約書の存在を知 らない 者です ら新約書 において神か ら問いかけられている。 この事実 は人間の意識か ら超越 した事実で あ り,すべての人が この超越的事実の中に立たされている。

この事実か ら, キ リス ト教倫理の中心課題が現れる。キ リス ト者 は末だ新約書を知 らない者に この神の語 りかけを伝えて,彼を信 じるか否かの決断の前 に立たせなければな らない。それがキ リス ト者の倫理的課題である。 しか し,キ リス ト者に許 されているのは,ただその決断を迫 るこ とだけである。決断それ自体 は決断者の自由意志 による。人は誰かに教え られたか らといってキ リス ト者 になれるわけではない。 また,両親や友人がキ リス ト者だか らといって自分 もキ リス ト 教を信 じられるわけではない。信仰の泉に導かれた者が,その泉の水を飲むか否かは彼 自身のみ

にな し得 る選択である。(31)そこにまた新約書の神の問いかけが持っ超越性がある。

従 って,新約書の問いかけに対 してはただ二者の選一だけがある。信 じるか信 じないか。(32)ど ちらを選ぼ うとも,その不条理の問いかけ (意識か らの超越的事実) に答えた時,彼 は以前の古 い自己を捨てて,新 しい生 き方を目指す新 しい自己を形成す る。無論, この不条理を信 じること が出来ない自己を発見 した時にも,彼 はそれなりの自己を理解す る。彼 もまた古い自己を棄てて 新 しく非信徒 として生 きる自己の道を見出すのである。(33)

我」はどのような人間なのか,新約書の語 るこの不条理を信 じることが出来 る人間なのか,そ れとも違 うのか,そういう自己認識を可能 にす ること,それが新約書の不条理性 に触れることで あ り, また,新約書の中に語 りかける神の言葉を聞 くことで もある。

お わ り に

この解釈か ら直ちに次の疑問が現れる。聖書を通 して以外に神 と出会 うことは出来ないのか, 聖書などには触れな くて も,地震や雷光など, 自然の驚異か ら,神の栄光 に触れることは出来な いのか。上 に見た信仰理解に立てば,神 とは聖書を通 して しか出会えないことになる。聖書の語 る不条理の前 に立 って, 自己の決断を行わなければ神やキ リス トとの係わ りは生 まれないという のだか らである。

我々は聖書 を離れて全 く何処か別 の所 に存在す る神やキ リス トを問題 に しているわけで はな い。事実,我 々には端的に神やキ リス トの存在を知 ることは出来ない。 ここでは聖書の問いかけ を通 して出会 うことの出来 る神やキ リス トを信 じるか否かが問題 なのである。 キ リス ト教 は聖書 を抜 きに してはあり得ない。それは, これまで考えて きた理解の方向か ら出て来 る当然の帰結で ある。

しか し, この結論 は更に大 きな神学上の問題 に突 き当たる。 自然神学の問題である。 それは, 聖書を通 さず して,聖書の語 る神に出会 うことが出来 るか という問題である。(34)例えば,星の運 行の美 しさか ら,そこに創造神の栄光を見て,神を知 ることも可能であると考える立場が自然神 学のそれである。「自然 はもう一つの聖書」という立場である。無論,この考えを採 る人々も多い。

特 に,聖書 に対 して, これは神の言葉ではな く人間の言葉の収録 に過 ぎないか ら,科学的に研究 して もよいといった観念が普及 し,歴史学や聖書学 などが聖書 を他 の古代の文献 と同等 に取 り 扱 って自由に研究す るようになると,聖書を通 さな くて も聖書の神 と同 じ神に出会 うことが出来 ると考える人々も多 くなった。神が聖書を通 して語 るのは,神の一つの語 り方であって,決 して 唯一の語 り方ではないというのである。だか ら,聖書か ら神に係わることも出来 るが,聖書以外 (自然や社会や人生など)か らで も神 と係わることが出来 る。自然 の驚異 に触れる,人間の不思議

(13)

さに驚 くとい った体験 を通 してで も,聖書 の神 と同一 の神 に出会 うことは出来 る。 そ うい う立場 が一つ成立 して いる。 そ して, そのよ うな立場 の成立根拠 を問 うことが 自然神学 の問題 なのであ る。

ここに見 て きた信仰理解 は, その 自然神学 とは丁度正反対の立場 にあ る。 ただ聖書 の問 いか け る不条理性 を信 じることによ って しか神 とは出会 えない と考 え るか らであ る。従 って, 自然神学 の立場か らこれを受 け入 れ ることは出来 ない。 しか し, この事実 は,上 に検討 して きた信仰理解 が実 は一つの理解であ って決 して唯一 の理解 で はない ことを意味す る。因 よ り自然神学 的な理解 もあ り得 る し, また, あ って よい。 そ うい う幅の広 い思考 の自由が存在 しなければ,信仰 は柔軟 性 を失 って懲 り固 ま った教義 になろ う。特定 の信仰 を強調す ることで はな くキ リス ト教信仰 とは 何かを理解す ることの方が大切であ る。従 って,常 に自由な思考が前提 されて いなければな らな い。我 々の解釈 は一つの解釈 であ って決 して唯一 の解釈で はない。 この事態 を しっか り認 めた上 で,次 には自然神学的な考え方 とも対話 してい く, そ して, 自 らの思考 や理論 に豊 さを期待 して い く。 そ うい う努力が大切 になろ う。 しか し, 自然神学 の問題 は,本小論 の提起 した問題 で はな いので,別 の機会 に改 めて考 えてみなければな らない。

(1 988. 8.25)

( l )

R.H.フラー 『奇跡の解釈』,早川良窮訳,日本基督教団出版局,1

97 8 , p. 9‑ 1 8

(2)関根正雄 『古代イスラエルの思想家』,講談社,昭和

5 7

,特に

p.6 6

以下参照。

( 3 )

これらの事柄の詳細については次の書を参照。川島貞雄 『十字架への道イエス』,講談社,昭和

5 9

( 4 )

確か田川建三氏がどこかでこのような解釈をしていたと思う。私も賛成である。

( 5 ) TheDe at hofJ e s usont heCr os si st hec e nt r e ofal lChr i s t i ant he ol ogy.・・・Themul t i pl i c i t yof t heNe w Te s t ame ntcome st oge t he ri nt heeventoft hecr uc i f i xi onandr e s ur r e c t i onofJ e s usand f l owsoutagai nf r om i

t.

I ti sonee ventandonepe r s on.( J t i r genMol t mann;TheCr uc i f i e dGod.

Tr ans l at e dbyR.A.Wi l s onandJ ohnBowde n.SCM PRESS LTD.1 97 3 ,P.2 0 4 .)

( 6 )

「イエスは革命的人物であり,政治上の改革者であった」から,ローマ帝国の敵になるのは避け難いこ とであった」というのは 「完全に虚構的なイエス像を助長 している

」( MARTASORDI ; TheChr i s t i ans andt heRomanEmpi r e .Tr ans l at e dbyAnnabe iBe di ni .CROOM HELM,LondonandSydoney.

1 9 8 3 .P. 7. )

0

(7

)

我々福音書学者は,今日,一層大きな部分に亙 って ・・・共観福音書記者はイエスのいかなる生涯の 記述をも与えていないと考えている

」( He r be r tBr aun;Di eHe i l s t at s ac he ni m Ne uenTe s t ament :i n

" Ze i t s chr i f tf i i rThe ol og ieundKi r c he57J ahr gang. "1 9 4 9 .S.4 2 . )

0

( 8 )

受難物語は,共観福音書史料の最古の伝承部分に属する

」( He r ber tBr aun; J es usofNaz ar e t hThe manandHi sTi me. Tr ans l at e dbyEVERETT R.KALI N, For t r e s sPr e s sPhi l adel phi a. 1 9 6 9 . P.

3 3 .

)0

( 9 )

王の称号を用いるのはすべて編集者によるものと思われる」(コンツェルマン『新約聖書概論』,田川 建三 ・小河陽訳,新教出版社

,1 9 7 4 ,P. 1 6 3 . )

0

( 1 0 )

「この発言は史実ではなく,十字架にかけられた者に対する異邦人の信仰告白を象徴的に表現するら のである」(コンツェルマン,前掲書,P.1

6

1.)

( l l )

マタイ2

7:4 3

は 「明らかにマタイによる付加」である

。 ( W.G

,キュンメル 『新約聖書神学』,山内 真訳,日本基督教団出版局,1

9 8 4 ,P. 1 0 6 .)

( 1

2) 「ルカのキリスト論の目立った特徴は,イエスを預言者として強調することにある

」( BRI ANE.BECK;

̀ Ⅰ mi t at i o Chr i s t i 'and t he Luc an Pas s i on Nar r at i ve :i n " Suf f e r i ng and Mar t yr dom i n t he

参照

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