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資本主義精神論に於けるスコラ的立場(一)

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(1)

資 本 主 義 精 神 論 に 於 け る ス コ ラ 的 立 場 ( 一 )

F an fo ni :C at ho li ci sm ,P ro te st an ti sm  a nd  C ap it al is m, 19 35 .

の招介並に批判−

重 藤 威 夫

節二軍 問題の限定

節二尊 重本主義の本質l

節三尊 カリッシズムと賓本主義

節一節 カリッシズムの祀督倫理

節二節 カリuふ/ク的理念と桑本主義的理念

第三節 カリバクク的行底と資本主義の致達

一九〇五年四月二日附を以て︑ウエーバーはリッカート宛に攻の・如漕手紙を送ってゐる︒﹁私はもとより劇し.

い署甑の下に静作に従事してゐます︒しかし毎日二三時間づゝ仕事してゐるにすぎません︒この六月か七月に−

は︑恐らく貴殿が興味を持たれるに相違ない文化史的論文を御覧に供し得ると思ひます︒それは近代職業文化の

重本主義精神論に於けるスコラ的立場 ︵こ六九

(2)

基礎としてのプロテスタンテイズムの禁欲ll近代経済の精神構遣の一様式を取扱ったものであります︒﹂と︒ω

之は彼の生涯を通じての移しき壌問的業績のなかでも特に伎の名を不朽ならしめた﹁新教の倫理と資本主義精神﹂

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町宮

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自己叫)と題する論文の完成を報宇る手紙である︒この論

文の第一部は一九O三年の後宇期から一九O四年の初夏にかけて︑印ち彼のアメリカ放行前にまとめられてたも

した

︒ ので︑第二部は一九O五年アメリカ放行より蹄闘して後︑印ちその年の三月の移りに︑殆ど三ヶ月の仕事で完成

この論文の第二部は︑第一部より約一ヶ年遅れて出来上ったものであるが‑それはアメリカ放行の新しい印象

を反映して書き上けられたものである︒この印象はウエ1lに少からぎる影響を奥へた︒何となれ除︑彼は海

の彼方に於て︑到るところ近代資本主義精神の生ける詮跡ザ見︑更に資本主義精神白胞を﹁理想型﹂的純粋性に於

て観察し得たからであるοこの論文は︑相封立するこ現象︑印ち宗教的意識内容と経済的日常生活告統一し︑更

にそれを超えて︑宗教と吐舎生活のあらゆる重要な橋治形式との関係を究明せんとする彼の普遍史的研究の最初

の部分をなすものである︒その第一部共び第二部は︑社合科墜及一世舎政策年報(伊丹匡︿

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庄N 三田

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の一九O四年(第二十各)及び一九O五年(第二十一巻)に夫々分載されたが︑それはウエ!バー

が年報編輯者としての責任︾ら絶え歩同誌に寄稿する義務を感じ︑右の如︑雪地味な殻表形式が最も好都合だった

から

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る︒

ω尚︑この論文の第三部とも目すぺき﹁新教の諸宗派と資本主義精神﹂(巴庁官♀

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Marianfle、iVeber::Max 'vVeber, Ein Lebensbild. S.  359.  Marianne ¥.Veber: a.  a.  O. S.  340‑311. 

(1) 

(2) 

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場 よ り す る 資 本 主 義 精 神 論 を 紹 介 し

︑ そ れ へ の 批 判 を 行 は ん と 欲 す る

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クラウ一ス及びファンフアニの商品告は種々なる黙で同様なる主張をなしてゐる︒翌告は共にスコラ的立場を立論hM

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の基礎としで居り︑従って︑ウエll早設に封してま共に同一の論理q前提よりする超越的批判をなすが故でe

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O六年に先づプラングフルト新聞の復活祭競

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問)に載せられ︑次いで︑多少の増補が加へられて︑﹁基督教世界﹂(のg

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司巳⑦に後

表された︒之等は何れも伎の夜後

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に牧録されてゐる︒

これはひとり経済史阜界のみなら事︑近代の社合科皐界一般︑稀に見る深刻な問題の提出であって︑その後︑

その問中設は多くの追随者︑そ見出す一方︑濁・英・悌・米・伊諸図の著名な経済史家の問に三十年間に︑亙る激し

い論争中ゼ捲き起した︒その反割論の有力なものには尽

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る︒

更に

の聞からも注目すべき反封論が提出されてゐる︒同

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カソーツクの撃者

之である︒プレンク!ノ及びゾムパルト

に封してはこ与では論争るを目的として居ら宇他日を期する他はないが︑以下に於て︑主としてカソリックの立

ある

J︑猫逸クラウス教授は︑現在来京上智大墜に教鞭をとられ︑す﹁れたカソリックの撃者として口町一本のみならや ︒

本因に於ても著名で・ある︒教授の見解は︑その著]・回・同

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資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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(4)

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gに於て示されてゐる︒伎はプアンプアニと同様に︑資本主義の精神の本質を一切

の事物を貨幣債値によって評債する態度にありとなし︑それは管利主義的︑人間中心的精神であるとする︒反之

スコラ思想に於ける経済の基本観念は紳中心であわ︑その本質は経済行魚の社合的制約と経済主障の有機的結合

にありとなす︒従って︑カソリシズムと資本主義精神との間には何等の関聯をも存在しないと考へる︒︐次に彼は

英閣に於ける宗教改革がその図の経済に及除した影響を論じ︑清数主義と資本主義との関係をその著書に於て︑

大路弐の如く論じてゐる︒

英図に於ける宗数改革は︑粧台的並に経済的観念に大なる愛動を濁した︒もとよりそれはか入る鑓動を輿へる

︑ことを直接に意国した器ではないが︑資際上の結果としてかhる影響を及惜したのである︒かく℃︑それは﹁新

しき精神﹂の後展に封する精一抑的先駆者となった︒

ローマよりの分離と英図園教舎(O

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の図有化は︑先づ第一に君主権の強想外の増大となって

あらはれた︒そのことは園家のマlカンテイリズム的並に濁占的政策U見られる︒修道院並に穀倉財産の念激な

世俗化によって︑奮来の経済的統一と封建的枇舎秩序の崩壊巻促進するに到った︒

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清数主義は︑不平分子の貯水池としての役割を呆し︑宗数的︑経済的並に政治的専制主義に反封する新興勢力

の第一線に立つ闘士となった︒それは職業的努儲と経済道徳を一抑霊化することにより︑叉経済生活の集圏的統制

を攻撃することによって︑新しき自由主義的経済精紳に封して道を拓いにのである︒新しき経済精紳の特徴は︑

(5)

所有権の結封化︑社合的制約並に義務からの開放︑経済的成功の讃美︑企業家の自利の優位である︒長期に亙る

同化過程に於て︑倫理的︑宗教的領域に一の愛動が生じた︒﹁富来の債値の破壊を伴ふ通貨膨脹時代﹂に於ては︑

所有椿に基く一位合的財産擦は大いに動指し︑無制限なる私経済は自由なる活動舞蓋を有するに至った︒

その愛動巻詳細に検討するならば︑次の如く一一日ひ得るであらう︒印ち︑英図の宗教改革は︑中世的数舎の機構

(倣悔と中央教権制度)を駿棄することによって︑その受動に治極的に影響を及⁝ほしにのである︒その機構にょっ

て︑停統主義的原理は︑経済生活の資際に於て途行され来つ七のである︒叉それは経済の諸問題に封して︑即ち

血ハへられにるものとしての経済的議遣の肯定といふ問題ビ封して︑新しき立脚黙を建設することによって︑その

時総動に積極的に影響を及除したのである︒

然し乍ら︑英図の宗教改革は﹁資本主義精神﹂在積極的に創建し七のではない︒然ら争して︑︐それは自由平等樫

の創

設︑

y告示教的椿威の上から借俗の差別の撤底︑濁占及び前資本主義的工業の特椿の排除︑宗教的自由と寛容の

完成在通じて︑或雰国気をつくったのであわ︑その雰国策内に於て﹁自由主義的経済精神﹂は︑他の要因(哲態的

一方︑﹁合理的計算的資業精神﹂は︑資本主義的経済組織士共に︑自らの法則に思想)と共に後展しにのである︒

従ひ︑究極的には経済的所奥に基いて︑田山惟習慣及び立脚賠として後展したのである︒

フアンプアニは︑ミラノ聖心大撃の経済史の講師であり︑その著﹀

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資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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(6)

であり︑之は英語本である︒)に於て︑資本主義精神論に於けるその立場を明かにした︒彼は資本主義精神の本質

を無制限なる営利欲の迫求であるとなし︑それを︐

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と同視する鮪に於て︑クラウスと同一立場にあ

ると言ひ得る︒彼によれば︑資本主義精神とは︑官が無制約的・個人主義的な所要充営の手段と考へられ︑その

増殖への努力が無制限に許容される精神であり︑カソ歩ツク倫理は之と氷茨相容れぬものである︒従って︑中世

末期に於ける資本主義精神の後生は︑カソリック倫理によるものではなく︑むしろ物質的環境(殊に大規模商業)

によるものであり︑ヒユlマ一一ズム的世界観は之に拍車を加へた︒この地上的・現世肯定的精神を︑中世的信仰

の束縛から解放した賠に於て︑プロテスタントの数合と教義(行震と救誌とを無関係ならしめた教義)は資本主義

の後展を促進した︒

かくて雨者共に︑資本主義精神の本質を以て一一種の

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に欧洲吐舎に愛生せしめた根擦を︑宗教改革による中世的カソリシズムよりの解於並に文義復興による異数的思

想に求なる賠に於て共通した見解を示してゐる︒以下︑主としてフアンフア一一の所設を紹介し︑最後に︑スコラ の後現なりと考へ︑かLる精神争中世末期

的立場への批判を行ふ︒

~

第一章

問 題の 限 定

宗教と資本主義との関係を考察するに営つては︑先づこ﹄では宗教の如何なる側面巻︑叉資本主義を如何なる

(7)

姿に於て取扱ふかを︑決定しなければならないであらう︒

宗教は生活一般︑就中経済生活に影響冶及隠すものであるが︑それには二つの側面がある︒印ち︑教義の鰻系

としての側面から影響を及降す場合と︑組織としての側面から影響を及隠す場合とのごが考へられる︒宗教が有

法王制度 aは資本主義の成立に寄興したから︑カソするこの二つの側面は屡々混同されてゐる︒例へば

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リシズムが資本主義精神に封して有利に作用しなかったとは言ひ得ないと主張する︒叉︑他の人々は︑奮教は︑

資本主義の愛達を促進したと主張する︒何となれば︑中世の法王は︑特定の金融業者を保護し或は彼等に特定の

地方に於ける十分の一税の徴牧晶伊詰負ばせることによって︑彼等の聞に富の蓄積そ促したからであるとする︒宗

教のこのこ側面の相遣は明かであって︑・次の如く区別して考へられねばならない︒資本主義と奮教との関係は︑

資本主義と組織としてのカソリック数舎との関係と混同されてはならないといふことである︒

この種の無意識的な混同にもか﹄はらやJ︑この問題を取扱った多くの経済史家は︑宗教ぞ教舎の組織としてゾ

はなく︑道徳盟系として考へたのである︒その典型的な例は︑マックス・ウエlメーであって︑伎の立場はその

著﹁新教の倫理と資本主義精神﹂に於て明白である︒勿論︑この場合に宗教の紳秘的若くは神事的内容を決して無

視するものではない︒道徳と一抑恩一向内容とは不可分のものであって︑道徳律は紳闘争的教義に基いてゐると言ひ得

る︒雨者は楯の雨面にすぎない︒道徳は紳墜的要請から演穫され'にものである︒一刑事は原理中守備へ︑道徳はその

泊用在司ると言ひ得る︒関者は不可分に結びついてゐる︒

資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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(8)

勿論こhでは︑倫理腔系としての宗教と資本主義との関係を考察するのみなら争︑更に組織としての宗教と資

本主義との関係︑或は︑その組織の構成要素たる人間と資本主義との関係を考察しなければならない︒

・次に︑資本主義について定義ιなければならぬ︒従来︑その特質を把握せんがために︑多くの試みがなされた

之に封して︑各墜者はそれふ¥潟自の解穫を下して居り︑そのために︑甚しい概念の混乱を来してゐる︒

最近︑イタリアの経済事者ヨさは︑資本主義の特質を次の如く述べてゐる︒(一)経済主憾の側に於ける活動 OA n u 

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働に封する資本の相封的優越とするものがある︒社合撃者は︑経済閥単的な定義を避け︑康範閣に渉る視野から解ん

寝せんとしてゐる

oそこでは経済的要因は単なる一構成部分にすぎないぴマックス・ウヱl

パ!とかゾムバルトは

' n   は︑資本主義の観念4倍以て︑一般に経済事者によって考へられてゐるよりも庚く社合皐的なものと考へてゐる︒吋著名な経済史家トウネ

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55さは︑資本主義は努働組織の搾系といふよりは︑むしろ精神的方向に

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よって決定される生活の様式であるといふ見解を示し化︒ω経済墜者が資本主義に就いて語る場合に︑或は資本b

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の自由選棒︑つ一)生産手段の私有︑(一ニ)競争︒他の串者には︑資本主義を大工業の普及とするものあり︑或は努が優越的地位を占むる一樫系であるとなし︑或は自由勢働によって特徴︒っけんとし︑或は自由競争・信用蹟張・金融網・大規模のエ業及び世界市場を包括する一鰭系であるとしてゐる︒この種の墜者にとっては︑資本主義の

存在は︑生産手段の機構に︑或は資本流通手段の範国に︑或は生産機械の精巧化如何によるのである︒若しかL

る標準宇佐以て資本主義の本質と考へるならば︑それは何等本質的な特徴を有しないことになるであらう︒その結

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(9)

果︑資本主義の成立期は︑撃者の見解の相違によって︑種々相違するに到る︒公平な見地に立つ皐者は︑資本主

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る も の が 果 し て

︑ 資 本 主 義 制 度 の 本 質 的 特 徴 で あ ら う か

? 長 手 段 の 大 さ と そ の 組 織 の 規 模 に 於 け る 量 的 な 相 違 の み が 存 す る に す ぎ な い の で あ ら う か

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資本主義をその目的を考へないで︑生産手段・制度及び経済形態の観賠からのみ解緯せんとする見解は︑誤れ白山小

るものと考へられる︒か﹄る解緯は資本主義の本質を見出し得なかったのである︒資本主義は複雑せる現象であ凶

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義は十四世紀にフローレンス及びイタリー一般に於て繁柴したとなすであらう︒

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資本主義は最初十五世紀にあらはれたとしてゐる︒(註v

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Wトはこの時期を承認したことがある︒マルグス(資本論︑第一巻二十七章)は︑資本主義時代を十六世組かb

初るとしてゐるが︑資本主義的生産が最初に現れたのは︑十四及び十五世記なりとしてゐる︒リプソシも英国に関して 同様の見解をとってゐる

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は︑資本主義は十四世記にフランダース及びフランスの諸都市に於て見られる'として居円35

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ロは︑ペニスでは既に十一世記から存在するとしてゐる︒

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との分離を以て︑資本主義の本質をなすと考へ︑その結果︑その起源を古代にまで遡らしめてゐる︒

資本主義は常に存在したであらうか?

って︑純粋に経済的現象のみではあり得ない︒それは恐らく︑十三世紀或は十.四世記以降に於てのみ見出される

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eE mo円札がなしたように︑資本主義を経済的︑政治・祉舎墜的︑倫理・心迫撃的及び一世合事 資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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ることによって克服され得るであらう︒その本質的原理を拍h象することによってのみ︑我々はその性格に就いて

の理念を得︑その特質を把握することが出来る︒資本主義は︑人及び一世舎によって行はれる経済生活の様式であ 一現象を数個の部分に細分するやり方は︑その現象の本質を検討す

るから︑我々が資本主義精神について語ることは無意味ではないのである︒

我々はこの精神を把握することによって︑或時代に於て︑世舎及び人聞が如何に生活すべきであったか︑或は

又︑何故に一定の様式の下に現資に生活したかといふことに関して合理的な設明を見出し得る︒かくして叉︑或

時代に於て︑人間及び一世舎が一定の理想を達成せんがために︑何故にか﹄る方法及び制度占ぞ採用したかといふこ

とに封するが官営なる解躍を見出し得る︒かxる意味並に理由によって︑資本主義精神こそ資本・主義の本質である

¥ と言ひ得る︒その精神の裡にこそ︑資本主義の奥義と保件とが存在し又それによってのみ資本主義は設明され得

る︒新しき手段と新しき制度を創建し︑或は既存のものを革新する街動と決断とは︑この精紳の裡に存在する︒

資本主義の本質的な姿が何であるかといふことを決定し︑更に︑資本主義の後展に封して基督教(新教及び奮

教)が及除し穴影響を考へなければならぬ︒かくして︑我々は問題の解決へ一歩そ進め得るであらう︒

第二章資本主義の本質

(11)

近代資本主義の起源を問ふ問題は︑資本主義の根本的特徴を問ふ問題を提起する︒多くの撃者は︑近代文化に

於て資本主義制度の優越長決定するところの本質的特徴或はその中植は︑資本主義精神であるといふ結論に到達

した︒このことは資本主義の起源の問題を︑その精神の性格並に起源に蒋換するに到らしめた︒

猫逸の碩早速は︑資本主義精神を一定の宗教的観念印ち現代に於ける資本主義園家の園民在感化し七宗教的観

念に結びつけてゐる︒

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は昔日の如ま宗教的感化力を失つては叫ゆるが︑それは依然として近代資本主義の根本動力であると設く︒

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は近代資本主義精神の後展に封して︑後期プロテスクンテイズムじ重要なる役割身蹄してゐ

一方に於ては出口

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る︒叉彼はその成立に封して︑m B ︐及び再洗躍派が演じた役割︑を認めてゐるが︑他方カル

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る︒

資本主義精神の成立について宗教改革の影響を重視する右の二者に封して︑

新数以前の精神的影響印ちカソリックの影響を主張してゐる︒又︑同

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を提出した︒彼に就いては後述するであらう︒

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2は宗教改革者に討して優越的立場を認めないで︑治太人にそれぞ蹄してゐる︒印ち︑猶太人の特殊な

る商才を︑その民族的素質に蹄せしめてゐる︒紋の準設は薄弱であり︑公平な見方ではない︒それは既に或黙に

資本主義精紳論に於けるスヨラ的立場

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(12)

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によって設かれたところのものである︒克に︑それは経済的中心勢力で︑嘗て商業上に支

配的地位ぞ白めてゐ大一民族から︑或時代には何等の商業的素質を示さなかった他の民族への推移巻説明し得な

以上の外︑の

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等︑多数の経済史家によってこの問題が取扱はれて

ゐるが︑こ﹄ではそれらの個々に就いて紹介することは営面の目的とするところではないので省略する︒

かくて我々は最初に提起した問題即ち資本主義精紳とは何ぞや?との問題に立ち蹄らねばならない︒換言す

れば︑このことは近代人が営業に従事する場合に︑彼を指導した経済精榊.は何であるかを問ふことになる︒この

問題を解決した後に始めて第二の問題即ち︑本書に於ける最も重要なる問題に進み得るであらう︒それは宗教

(嘗教と新教)が資本主義精神の後遺におして如何なる影響を奥へたかといふことである︒

こ﹄で注意すぺき賠は︑例外的な特定の個人に於ける或種の経済精一紳のあらはれは︑社合生活を指導する多数

の人々の聞に於けるか﹄る精一紳のあらはれとは著るしく具るといふことである︒こ﹄では佃大的な情熱を問題と

するのではなく︑社合的勢力を問題とするのである︒従って︑ウヱ1

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考へたように︑特定の個人について資本主義精神を見出したとなす類は避けなければならぬ︒資本主義精紳が取

り上けられるに俣するのは︑か﹄る精神によって感化された多数の人々が様力含有し︑社舎に封して資本主義社

舎であるとの刻印を奥へ得る地位にある場合である︒

(13)

資本主義精紳は︑特定の時代に於ける普遍的な経済精神に他なら沿から︑先づ経済精神を定義することが必要

であ

らう

経済精神とは意識的にると無意識的たるとを間一は中︑人をして経済領域に於て特定のやり方で行矯せしむると

ころの複雑なる内面的な生活態度を意味するものと言ひ得る︒

人間の綿ての生活態度は︑或基本的な原理の所産に他ならぬから︑特定の時代の経済精神は︑富及びその目的

に閲する時代思潮とは不可分の関係に立つのである︒宮に関する時代思潮は︑官︑を獲得する手段の選捧並に富を

使用する方法にあらはれる︒総ての宮の観念に封して︑それに相廃する経済行震の原則が成立する︒その原則が

資際に適用される時に︑特定の個人によって行はれる経済行震の性格が決定される

or

人間の経済精神はかLる行

動中ぞ通じて具時的にあらはれるのであるから︑か﹄る行動を観察することによって︑如何なる精紳によって︑彼

が動かされてゐるかを知り得る︒資際的な事

J M旧は入︑そしてその時代に有力な富の観念に迫随せしむるか︑或はそ

れから離反せしむるに到るか︑何れかの結果を・辻本Jることは明かである︒叉︑円兵韓的な︺問題の解決に或程度沈

潜した結果︑質際的な鰻験によって︑遂にか﹄る宮の観念を恒久的に修正するに到る場合があり得ることも明か

であ

る︒

宮の観念は世界観と結びついてゐるから︑世界視の変化と共に︑その観念も綿鈍化するであらう︒あらゆる時代

は一定の世界観の支配の下にあるから︑各時代の歴史はそれよ¥国有なる宮の観念︑従って特有なる経済精神を

資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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(14)

八.

有することは明かである︒ー

資本主義的な近代人は︑宮をあらゆる所要のより完全なる充足のための最善の手段であると見倣してゐる︒

叉︑彼は富を自らの地位をよりよくせんがための最善の手段とも見倣してゐる︒彼は財をその所有者が自らの欲

するまL(似品目ず山PHHHH)使用すべき用具と考へてゐる︒彼はその財に封する第三者の側の要求に封して何等顧 慮するところがない︒いはんや︑その財を無限に増加せしめんがために︑或は絶えやJより大なる利潤(遮滅する

費用﹀を以て再生産せんがために使用することは不法である等と考へることはないのである︒

資本主義人は宮の観念に義務の観念を結合せしむることはない︒若し何等かの義務の観念を結合せしむるとす

るならば︑それは彼の宮の獲得に封して何等かの制限を含むような義務の観念とは全く具ったものであって︑そ

れは最大の利潤を得んがためには︑何物をも顧慮するなといふ使命を含むような義務感であらう︒手段としての

宮の観念を永遠に到る救誌の観念に結びつけんとする束縛が解かれた後に於ては︑富の獲得に関して宗教に基く

道徳的制限をおくことは最早存在しなくなった︒宮は制限された程度に於てのみ或種の生活上に不可侠の所要を

充足すべき手段であるとは最早考へられなくなった︒反之︑宮は如何なる類の手段であってもそれが可能なる限

ふり︑目的に封して最善な句と考へられる手段を以て迫求すべき封象であるとの確信が普及した︒もとより︑この

観念は︑盗みJ・恐喝等の不正なる富獲得の手段を罪悪視することは勿論であるが︑しかし︑前資本主義的観念と

は異って︑合法的なる即ち正蛍なる手段の誼用に何等の制限をも加へないのである︒このことは宮の無限なる獲

(15)

得と生活欲望の限りなき充足とが︑何等批難すぺきものではなくなったことの営然の蹄結であるひ

合法的なる手段を如何に過度に使用しようとも道徳律を侵害しないといふことになれば︑経済法則がか﹄る手

段の使用に営つての標準となる︒それ以後は︑道徳的且つ合法的な手段の使用・を規律するものは︑収益の原則郎

ち営利原則のみとなる︒か﹄る態度は︑ゾムバルトωが前資本主義精神の特徴としで示したところの停統主義に

封して決定的に非難を浴せるのである︒

資本主義精神の本質は︑我々が前資本主義人を顧るとき︑より明瞭となるであらう︒前資本人は富を一位舎生活

の用具と考へ︑その吐合的地位に適合するように経済活動を調整する︒叉︑宮を獲得する手段︒か︑合法(正営)な

りや非合法(不正)なりやについて直別をなすのみならや了││この黙に関しては資本主義人にあっても同様である

││正営なる手段の使用に闘しでもその濫用を巌に戒めるのである︒前資本主義人の道徳から見れば︑不正なる

手段を非難するのみなら示︑正営なる手段の使用に限界をおくのである︒この場合には純粋に経済的標準は作用

し得ないのであって︑経済生活の合理化は道徳的標準の結果である︒このことは前資本主義人が︑個人の無限な

る致富を正しいとは考へないことに基く︒各人は社合的地位に臆じて︑その生活欲望に制限が附せられてゐたか

ら︑か﹄る致富は意味なきものであっ七︒叉︑世合的地位を向上せしめんとすることは︑前資本主義人にとって

は正賞視されなかったであらう︒

彼等は富在以てその個人の自然的目的の賢現のための手段であると同時に︑その個人の超自然的目的或は社合

賓本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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、 旬 /

八.

Shmbart: Der Bourgeois S.  13‑14. 

(1) 

(16)

i¥ 

の自然的目的責現のための手段であるとも考へたのである︒従って︑宮獲得のための手段は︑それらの目的と矛

盾しないものが選捧された︒個人の自然的及び超自然的目的の賓現と同時に︑社合的目的の賢現のためには︑社

合的及び宗教的︑道徳的数設に照らして選接された或種の経済的軌道に沿って進まねばならぬ︒従って︑経済的

活動はか与る目的の賓現に導く行翁の準則を隼宣して行かねばならぬ︒

人間的目的賓現のための人間行震の一側面としての経済活動は︑一世合的慣習︑政治的法規及び宗教の教義によ

って園読された道徳の限界内で行はれねばならぬ︒それ故︑生産のための手段は︑牧盆の大小に従って賢施され

得るかどうかを判断されないで︑道徳に一致するや否やによってその賓施如何を判断される︒種々なる手段が同

様に正しい場合には︑最高の牧盆を資らすものが選揮されることは勿論である︒要するに︑前資本主義精神の霊

なる特徴は︑生産の手段の選揮が純粋に妓用の標準によって決定されるのではなく︑経済外的な標準に矛居しな

い限度内の殻用によって決定されるといふことである︒

資本家の道徳律は正営な且つ有用な手段の使用に濁して何等の制限をも加へないから︑資本主義精神の重なる

特徴は︑道徳的に正営であり且つ経済的に有用であるところの富獲得のためのあらゆる手段を無限に使用するこ

とに存する︒資本家は道徳的考慮を排斥する語ではない︒彼は自らの道徳律を採用する︒邸ち︑正営であると稽

される手段の使用を制限しないといふ道徳律である︒

前資本主義精神と資本主義精神との他の相違は弐の賠に存する︒前者にあっては経済分野に於ける債値の評債

(17)

は道徳椋準によって魚さるぺしとなすが︑後者にあっては経済的標準を以て使値判断の唯一の基準となすといふ

ことである︒例へば︑前資本主義人は或財の債格をその一般的評僚に一致させるよりも︑むしろその生産原債に

一致せしめんとする傾向を有する︒他方︑資本主義人は或財の債格をその生産原債よりも︑むしろ一般的評債に

よって測定せんとする︒それ故︑商品が生産費以下に頁られることは︑資本主義人にとっては正営なる交換であ

るが︑前資本主義人にとってはか﹄る交換の五営性は大いに疑問を持たれる︒

他の例研暴ける︒前資本主義人は附労働賃銀を努働者の生産高よりも︑むしろその生活欲望に一致せしめんと計

るが︑反之︑資本主義人は努働賃銀を生活欲望よりも生産高に基かしめんとする傾向を有する︒か﹄ることは︑

道徳的椋準が前資本主義Aの経済的評債に封して︑如何に多くの影響を及依すかといふこと︑或は)資本主義人

の経済的評債が如何に純粋に経済的標準によって支配されるかといふことを示すものである︒

前資本主義人を支配した中世的な宗教的及び社合的倫理によれば︑富は人聞の自然的並に超自然的目的賓現の

ための手段であると考へられた︒かくて︑富は個人に奥へられたといふよわも︑むしろ人類に奥へられたもので

あるとした︒か﹄る観念は極めて重要である︒何となれば︑それは富の使用に関して社合的観念を奥へるからで

︑ ー

ある︒印ち︑個人の生活欲望の充足に営つては︑同時に隣人のその充足を考慮に入れねばならぬといふ観念であ

る︒この観念は個人の無限なる致宮を遠慮せしむる結果となる︒伎は己の欲する詑け富を蓄積し得るかも知れな

い︒しかし︑己の欲する花けそれを享楽することは出来ない︒

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資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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(18)

八六

一日一︑自己の欲望在充足した後に︑なほ蓄積した富に執昔一泊することは︑彼の至高なる目的の達成に封する熱心

を坊ぐるものであるから︑自己自らに保有することなく︑窮乏せる人々に頒ち輿ふべき義務ありとされた︒即ち

宮は一位舎に所属してゐるものであるから︑枇合会鰭のために使用せしむるために︑社舎に戻すべきであるとされ

大︒かくて︑前資本主義にあっては︑財産の享有に或種の制限がおかれてゐる︒卸ち︑宮獲得の手段に閲する制

限と宮の使用に封する制限とである︒この二重の制限は︑経済的標準を非経済的(政治的・宗教的﹀目的より下位

におくことから生宇る︒

前資本主義精神の第二の特徴は︑宮の社合同的使用である︒それは個人にとっては︑宮の享楽に封ずる制限とな

る︒この制限は白後的のものである場合もあれば︑強制的な場合もある︒それは数合法若くは民法によって保設

された社合道徳に一致しなければならぬ︒教舎法は前資本主義的精神の支持者であった︒例へば︑高利貸業者に

封して種々なる不利な法令を愛布したり︑或は高利貸の死後は生前に牧得した高利を返還すぺしとの法令を後布

した︒民法も同様であった︒それは高利貸を庭罰し︑ギルドの諸規則を支持し︑競争を禁止し︑種々なる方法で

公正債格を支持した︒叉︑かLる祉舎道徳は常に自然的個人的目的︑

一一

厨正

確に

一一

一口

へば

︑純

経済

的目

的を

犠牲

して︑個人の超自然的目的︑或は社舎の自然的目的に有利な影響を及川ほさんとするのである︒

反之︑資本主義人は宮の使用に閲して枇合的親念を有せ示︑個人主義的及び功利的観念を有した︒官の享楽に

(19)

ついて何等の制限をもおかなかつにから︑富の無限なる獲得に封して一一居の拍車がかけられる一に至った︒かく

て︑資本主義精神の第二の特徴は︑宮の個人主義的並に功利的使用であると言ひ得るであらう︒そしてこのこと

は富の無限なる享楽となる︒そこから富の無限なる獲得への一一居の刺戟が生ホる︒

要之︑資本主義精紳の成果は︑宮の獲得並に使用に際してとられる態度如何に見られる︒邸中り︑宮を以て車に

人間のあらゆる欲望の無限なる個人主義的且つ功利的充足のための手段となす態度に見られる︒この精神に支臨

された人は︑宮の獲得の場合に合法的な手段のうちで最も有放な手段︑を選ぶであらう︒そして︑何等の制限をも

顧慮することなく宮を使用し︑そこに於て︑伎は個人主義的な享禁忌求めんとするに到る︒宮の獲得と室梁に於

ける唯一の制限は︑快楽主義的な飽満感である︒

か﹄る人間は︑明らかに︑宮の這求並に獲得の手段を完成せりとの満足感を得ることはないであらう︒それ

故︑他の派生的性質は︑手段の完成といふこと︑換言すれば︑﹁合理化﹂と呼び得るところのもの﹄完成といふこ

とである︒合理化といふことは相封的な概念であるから︑こ﹄に言ふ合理化は﹁経済的﹂合理化と性格‑つけるを

過賞となすであらう︒前資本主義人は︑倖統主義者である︒即ち︑目的に封して充分であると考へられる手段に

一唐執着する傾向を有する伎は︑所有せる財に満足する︒そして常により一居の牧盆を遁求することによって煩

はされたくないとの単純な理由から︑よりよきもの争沼求じない︒前に請︒士ように︑生計の理念

(E g

︒ ﹃

g g u z z o )

は倖統主義を意味し︑無限なる生産は活動主義会吉田口町自)を意味する︒

印ち

常に満足するこ

資本主義精神論に於げるスヨラ的立場

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(20)

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i¥. 

となく︑手段の経済的合理化を増進せんとするを意味する︒前資本主義制度の時代には︑道徳家が使用されたる

手段の評債並にその選揮に営って重要なる役割を演守る︒資本主義制度の下に於ては︑その重要なる役割は技師

と経済墜者に属する︒収益の大小によって手段を評債し︑叉それを基礎にして手段の港揮を行ふ︒前資本主義的

時代に於て︑我々が目的に充分に適合する手段と︑経済的合理性ーー一般的合理性によって認められ大

1

の初1

歩的段階とを見出すに拘はら歩︑資本主義時代の特徴が︑かLる手段の進歩的な完成にあると考へられるのは上

述の理由に基くのである︒少くとも

問 ︒ ∞ ∞

は合理性を以て︑資本主義の根本的特徴であると論︒てゐるほEで

ある

前資本主義時代には︑宮の個人主義的享紫︑を這求する者は丈口沓漢として非難されに︒叉︑不正なる手段によっ ︒

で富を獲得する者︑或は合法的手段の無制限なる使用によって宮を獲得する者すら庭罰され七︒資本主義時代に

前資本主義精一神によって合法的と認められた手段によってのみ富を追求する者は︑間もなく賓業界から退かねば

なら均であらう︒このことは資本主義人によって使用される手段が不道徳であることを意味するものではない︒

こ与では資本主義人が合法的な手段を無制限に使用することが︑前資本主義人によっては是認されないであらう

こと

を一

百は

んと

する

にあ

る︒

第三章

y η ノジズムと資本主義

(21)

第一節カソリシズムの枇舎倫理

カソリック教の経済生活に於げる理想は︑四幅一戸日書中に集約された形で表現されてゐる︒それらの幅一音書は︑

聖パウロを初とし︑使徒の時代からスコラ哲撃の時代に至るまで︑多くの教父・博士連によって︐次々に精密に研

究され来ったのである︒スコラ哲阜の代表者︑聖トマス・アクイナスは︑アリストテレlスの思想とカソリック

の敬訪とを結合せしめた︒彼の多くの著書中に散見する数設を綜合することによって︑経済生活に関するカソリ

ツク的理想を完全に把握でまるであらう︒

聖トマスは十三世犯の人であるが︑彼の思想を研究することは︑同時にその前後の時代精紳是包括して研究す

るこ

と中

伊岳

山'

味す

o'何となれば︑彼は彼以前のカヅリツクの思想に組織的障系巻奥へたのみなら争︑彼以後のカ

ソリツク思想の源泉でありその核心をなすからである︒︑彼の経済倫理の論梼は最も鰻系的であり且つ最も康範国

に渉ってゐるから︑こ与に採り上けて論争る在最も有意義となすであらう︒叉︑それはカソリック教舎に於て︑

最高の構成在認められてゐるのであって︑カソリック思想を解躍する上に最も確賢な根擦を奥ふるものである︒

督教の教義は︑人間生活在全般にわたって統一してゐるのであって︑いはゾ費生活を防水隔壁によつで細分し

てゐないのである︒紳の理念と被建物として永遠の幸幅のために闘ひつ﹄ある人間の理念とは︑高物に浸透じて

ゐる︒出生から死に至るあらゆる隠聞に於て︑人は﹁理想﹂の賢現を温求しつ﹄あるものとして考へられてゐる︒

この目的の土めにこそ︑人間は生を奥へられたものであり︑叉他のすべて被建物は人聞の支配に委ねられてゐる

安本主義精神論に於ける刃ヨラ的立場

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(22)

カ&

ある︒それ故︑彼の行震は︑ のである︒あらゆる人間の行魚に於いて︑神の栄光が讃め稽へられねばならない︒人は自由意思をもった生物で

如 何 に 些 細 の も の で あ っ て も

︑ そ れ ら の 行 震 に よ っ

すべて重要な意義を有する︒

て︑人はその理想に近づき得るや否やが決定される︒かLる考へ方を以てすれば︑高事に無関心な行動は許され

ない︒かくの如く考へられた世界に於ては︑絡末的な至福以上に大なる目的はなく︑それが唯一の絡極的な目的

である︒若し︑個人の精神的後遺が坊けらるべきでないならば︑各個の目的はそれ

A¥

段階的秩序

( E O B R E m

E

吋)をなす他はない︒各目的は如何に高貴なものであらうと︑究極的目的に比べれば︑それO

A¥

中間的な意味

を有するにすぎない︒各目的に到達するには︑同時に究極的且つ至高の目的への到達を志す行動及び手段にょっ

てでなければならない︒人は地上から天上へ段階によって昇って行く︒その最高の地位に永遠的な至福が存在す

る︒上昇するに伴ひ︑或る間隔をおいて︑それ

A¥

到達すべき中間的段階がある︒

づかんとするものであるが︑結局は至高の段階に至らんとするものである︒若し我々が不正なるやりd方で最も近 一歩一歩︑最も近き段階に近

い段階に至らんとするならば︑重要なる段階に至り得ないのみなら歩︑最早究極的な目標への進歩をも失ふであ

rり ︑

フ ︒

ζの比喰によって︑カソリック的世界観を知り得るであらう︒か﹄る観念が︑人間活動に徹底的に珍透し得る

ことは︑容易に了解され得る︒究極的な目標に到達せんとする道徳的な必然的使命は︑家庭・政治・経済及び純

(23)

粋に宗教等の生活の谷側面に於ける人間の行動を拘束せJざるを得ない︒より正確に言へば︑かνる観念は︑す

べての活動を道徳的活動に︑すべての行魚を宗教的行震に掛鈍化せしむると言ひ得るであらう︒かくて︑人の究極

的な目的は︑その行住坐臥を遇︒て常に紳であり︑伎の日常生活を導くあらゆる生活手段は︑同時に彼をして至

砲なる啓示(回g

︿

Oロ)に到淫せしむるやうに導くところのものでなければならぬ︒換言すれば︑人の行動

は結えぎる祈でなければならぬ︒ω

一仰は人間生活を合理化せしむる標準となる︒あらゆる人間的な手段は︑神に到達せしむる方向により多く導く

や否やによって︑合理的か或は非合理的と考へられる︒

人間活動の総倍︑在形づくらんとする種々な行潟の段階に於て︑手段の合理化は他の理念によって決定されるこ

とがあり得る︒しかし︑この種の理念は︑根本的な理念と決して矛盾することは出来ないのである︒例へば︑経

済活動の分野に於ける合理化の理念は︑最低原債の理念であらうが︑この原則に基く合理化は︑紳に基く合理化

一定の部分的秩序内に於て︑合理

化は部分的目的によって完成され︑その後︑その結果を究極的目的によって合理化するといふことは許がれな としての意味を失はない限度内に於てのみ普及を許さるることは明かである︒

い︒カソリック倫理は︑罪の償ひの場合以外にはかLる纏綾的な合理化を認めないのである︒カソリックの道徳

は次のことを要求するo印ち︑中間的目的によって最初の手段の選揮をなした場合には︑次の濯揮がはり高次の

目的にようてなされ︑最後の選揮が究極的目的によってなされるまでは︑質現されないといふことである︒正し

安本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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ヨ市シト前書lOV31

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(24)

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い活動が初められるのはか﹄る場合に於てのみである︒

或請負人が工場に原料を供給すべき契約をなした場合には︑彼は出来得る限り最低の原債で原料を供給するよ

うに試みるであらう︒しかし︑奮数徒として︑資際に於てこの経済的標準が︑経済的目的より高弐の非経済的目

的例へば祉舎的目的に矛盾しないかEうかを考へなければならない︒若し矛盾する場合には︑障賭することな

く︑経済的にはより高債であっても︑一世舎的にはより合理的な手段を選揮しなければならぬ︒究極に於ては︑諸

々の手段は紳への到達といふ見地から見て︑合理的なりや否やといふことを判一蹴されなければならぬ︒若しそう

でない場合には︑他の手段が選揮されねばならない︒かLる手段を護見し︑それを活用して初めて︑我々は正し

く行魚することが出来る︒

右の例によって︑カソリック倫理に於ける経済生活の一般的観念を概観せんことを試みたのである︒次に経済

生活に於けるその倫理を一居詳細に考察しなければならぬ︒先づ宮の問題及びそれを獲得し︑使用する方法の問

︐題を取扱はむとする︒それによって︑カソリシズムが経済活動に諒した束縛を明かならしむるであらう︒

宮教徒にとっては︑地上の財は手段にすぎない︒彼はその肉障の維持及びその隣人の救済のために︑それを希

求し得るのみならやJ︑それを所有しなければならぬ︒ω

︒品 各

ωの言ふところによれば︑﹁官が手段でなくて目

的となり︑人の永遠の理想への到達を犠牲にして人間活動を吸牧・するならば弊害となる︒L何となれば︑現世の財

は﹁所要に従って使用せんがために人に所属するのであって︑その目的を財におかんがために所属するのではな

St.  Thomas, S.  T., IIII, q.  83, art 6. 

A. Orlich, L'llSO dei  beni n~lla Morale di S.  Tomaso. 1912. p.  220.  (2) 

(3) 

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