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資本主義精神論に於けるスコラ的立場(二)

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(1)

資 本 主 義 精 神 論 に 於 け る ス コ ラ 的 立 場 ( 二 )

− F a u f a n i : C a t h o l i c i s m , P r o t e s t a n t i s m   a n d   C a p i t a l i s m , 1 9 3 5 .

の紹介並に批判−

重 藤 威 夫

節四章 資本主義の勃興

筋一節 カソ可ふ/ク時代に於ける資本主義

第二節 資本主義成立の諸原因

節五翠 プロテスタンティズムと資本主義・

節六牽 批  判

節一節 フアンフアニの所論の基本問題に封する概貌

夢二節 新教倫理に関する問題

節三節 資本主義精神に関する問題

節四節 召命貌念について

以       上

第四章 資本主義の勃興

資本主義精呼詞に於けるスコラ的立場 ︵ニ︶

九一

(2)

商 業 主 総 許

ブL

第一節 カソリック時代に於ける資本主義

奮教及び奮教徒が資本主義の出現に劃して道を拓かなかったとすれば︑ 一位それは何時何由ぬから由来したもの

ルタ

I の宗教改革以後新教図に於て起ったものであらうか?多数の皐者は︑資本主義は新教の

それは宗教改革以前に生じたものであり︑従って宮教 その生成に関しては︑

であらうか?

図々に繁柴じたと主張してゐるが︑

及び奮教徒の図々に於て成立したことを否定する者は一人も居ない︒このことは先に述べ来つ七叙述に封して一

の逆設であるかの如く思はれるが︑本章ではか﹄る事費関係を明かにし︑資本主義の最初の後遺を資らした非宗

教的諸力を説明せんとするのである︒しかし︑結論に於ては宗教的諸原因によってなされた役割を一一居明確に決

定せんとするものである︒

十四・五世紀の伊太利諸都市に於て︑経済上の競争が激しくなり︑法律によって認められた限界を越ゆるもの

であったことを想起しなければならない︒顧主はその使用人に最低の賃銀を支給することによって︑最高の利潤

を採用してゐ大︒(註)叉︑彼等は新生の図家に封して︑彼等 を得んが K めに︑既に物品賃銀制

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件︒ 自)

に有利な関税率の施行を嘆願する代償として︑その自由擦の一部を甘ん

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犠牲とした︒市民の困窮に乗じて無

制限なる貸付が行はれた︒か

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る貸付の合法性に関しては︑土日時に於ては疑はれ論争の的となったものである︒

(註

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顧主は紡織工・染色エ等に﹁一ヱ

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四十五吋)につきニフロリ

シ以下である反物を︑一ェ

l w につき四フロリシの割合で勘定することによって︑織物若くはそれ以下の物品で﹂賃銀を

(3)

支持 った

十四一世紹の初頭から伊太利では︑投資に封する危険を減少し]利潤を増加せんがために︑新しき保険制度が著

るしく後達した︒現金聡迭の危険を逃けんがために︑震替手形が俊明され︑少額の支梯に封しでも庚く使用され

土︒か﹄る商業の用具に関する智識は庚く普及して居ったのであって︑ペニスでは手形の割合歩合が投機の封象

となった︒宮式の商業用具は改良され︑震替手形・舶荷詮突か十四・五世紀の聞に完成し︑

1

取引に大なる利便を

奥えた︒複式簿記品︑ その時代の必要に甚冗よく陸中るものであった︒試算表・勘定口座・元帳が備えられ︑十

四 世 紀 の 前 半 に は ︑ 工業簿記に関する科皐的な方式を樹立せんとする試みすらなされた︒

仕事の能率は大となり︑最大の利潤を獲得すべきあらゆる手段が追求された︒停統的な通商路には最早満足で

きないで︑運送に閲してよりよき通路中伊愛見せんとする努力がなされた︒例へば︑印度への一居容易なる通商路

が追求された如きことはこのことのよき例である︒商業政策に於ては最も有利な協約を締結せんとする努力がな

された︒トルコとの傑約に見られる如く︑宗教に基く障害すら除去された︒個人はもはや組閣への愛情によって

その活動を制限されるやうなことはなく︑ その事業のためによりよき活動舞塞が見出されるところには︑何露大

りとも直ちに図土を離れて馳せ参守る用意ができてゐ大︒貨幣を獲得せんがためには︑あらゆる営業を問はホ従

事した︒それでなほ意に潟大ぬ場合には︑その息子を僧侶たらしめて︑出来得れば富を得んと欲し或はその娘を

修道尼・にらしめて︑金を節約せんと欲した︒奴隷在使用することによって費用が節約される場合には︑有給の伎

資 本

主 義

精 神

一 誠

に 於

け る

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立 場

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ブL

(4)

商 業 と 経 済

ブL

用人の代りに奴隷を買ひ入れた︒賭博が利得を粛す場合には︑それに波頭した︒市民法は賭博を利用するか或は

それを禁止するか何れかの方法をとった︒教曾法はそれを非難したのである︒利潤の増加が競争相手から腕利き

の職人を自分の方に奪ふことによってのみ得られる場合には︑伺等薦賭することなくそれを賓行する︒ か﹄る事

柄は︑.資本主義的な生活態度をとる人之が行ふことである︒それらの事柄は︑世舎がもはや非難せ示︑却って正

営競するが故に行はれる︒

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してゐる︒出

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はその年代記(の

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に於て︑取引が繁昌してゐることを誇ってゐる︒昔は

思ひも及ばなかったやうな事柄に封して︑君主の認可を得んとする種々なる企てがなされた︒例へば︑

一 四

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年に︑河島

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に上る富畿を開くことの認可をミランの領主から得た︒

五三年に植機借切

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ロが者修禁止令を後布じた時に││それは古人の例を引いてあるラテン語で書かれた長 o

論文を伴ふものであった

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その禁令が駿止せられん

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てた︒もっともその企ては不成功に終った︒

十五世結の伊太利には︑この種の賓例に関しては多数の古文書が存在する︒叉︑右に述べたやうな事賓は︑伊

太利のみならや

J

︑ フランス・英図・スペイン・フラング1ス及びドイツの諸地方に於ても同様に見出される︒

中世時代︑程回数の支配下にあった英図で︑資本主義的精神によって動かされた人々の存在を諮明せん占欲する

ならば︑十四世紀以降の土地国込運動(何回三︒

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を想起するにけで充分であらう

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甘ん C て枇舎的雲仙から完全に離脆したのみなら歩︑海外市場の危険に直面する勇気を有し︑農民と法律との怒

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によれば︑皆利の精神は宗教改草以前に英国で同日

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宗教改革以前に︑牧羊業者と相並んで︑製遣業者と商人とは︑事業家の特徴をなす特殊な精神を有してゐち)白剣山

崎 町 田

とを示し τ ゐる︒このことの詮擦として︑

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1

スの一都市︺の行政長官の記述を奉け得る︒彼は一四 m

聞 は e r a  

四五年に英図人との競争のためにその都市の織物工業が破壊されたことを述べてゐる

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︑ 毛 織 物 の 輪 出 は 年 岱

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々莫大な数量に増加して行ったのである︒ ω 従って︑十六世紀の初頭に多数の大毛織工場が存在することは︑異訓

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とするに足わない︒そのなかでも模範的な工場は写ロヨ

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が経皆せる工場であった︒ ω

十 五 世 紀 の 或 叫 明 日

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借正は製銭工場を所有して居り︑それは労働組織の賠から見て︑明らかに資本主義的意義を有してゐた︒商人は

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海上総迭のために多数の般舶を支配するやうになった︒(註}農民がその子弟を都市に送って商業を見習はしめた

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hJ︑或は織物職人がギルドの苛重なる統制を菟れんがために︑都市を去り︑郊外に手工場を経一瞥したりする場合∞∞ 在先づ羊毛の大生産閣に変化せしめ︑・次いで毛織物の大生産地たらしめた︒かくて︑利盆多き毛織物工業と英図 産の優良な羊毛とは外図人の手をはなれて︑ 英園人の手中に蹄し大︒ この運動は遍く普及した﹄めに︑ 公 の 棒

威と農民とからの反封を招いた︒しかし︑同時にそれは甚克利盆が多かったので︑土地の圏込をなした人々は︑

資本主義精神一詞に於けるスヨラ的立場

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九五

( 3 )  

(6)

商 業 と 経 済

九六

には︑これらの人々はもはや前資本主義的精神によっては動かされてゐないのである︒

(註 )

一四六一年に十隻の舵を所有してゐたo

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円は︑一四四九 年に︑セノアやペエスの最大の舵舶にな

bヲて︑一大貿易胞を建造した︒

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この種の人々は︑伊太利に於て見られるやうに︑種々なる機合ぞ通じて︑自分遣の利益のために図家の政策を

左右せんことを試みた︒印ち︑或場合には︑外園商人に特権を許容することに反封し︑(詑}或場合には︑君主の外

交政策に容除したりしたのである︒一五二八年に英図が︑皇帝ヲ

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と戟ふ前提手段として︑悌闘と同盟した時に︑英図全躍に一且つて一般に反封運動が起った︒ ケントの織物取人

は︑フランダ l ス地方との取引が脅威されるので︑戦争を支持したウルジ 1

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代 表

的政治家︺を暗殺せんことを計聾した︒ウイルトシヤ

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の織物取人達は反乱を起す一歩手前にまで来てゐた︒カン

一ンガムの言葉を借りれば︑

一 五

O 三年に英闘の政治家建は次の事柄を記さねばならなかった︒﹁か﹄る人々は︑

園家の繁栄を顧慮することなく︑個人的な金銭上の利益を追求するに念々あった︑市税の負捲とクラフト・ギル

ドの束縛とを免れんとする職人︑地代を値上けする領主︑鎖津で

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江 田

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諸港を塞︑ぐことや}意に介しないで︑最も安易な方法で作業をする鎖山業者等は︑すぺて食欲の罪人として非難さ

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(7)

(註 )

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己者︒︒仏の最近の研究によれば︑

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自己岳恒三回目口開口

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同)外国人は貫際上︑特擢を奥 え

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れたのではなく︑因民と平等の樫利乞奥えちれたにすぎな川とされてゐる︒この乙とは︑外国人に封する中世の立 法から見れば︑特樫的な取扱と考へ

b

れるであらう︒

濁逸は英図よりも中世時代は経済的に進歩してゐ大︒殊に︑ ハンザ同盟の諸都市は︑初期商業資本主義の著る

しい特徴を示してゐ大︒その経済的強展は目完ましかったので︑ それより後の世紀は︑ それに比較すると衰類の

過程と思はれる位である︒

一 一 ユ

1 ルンベルクの金属工業は︑世界的に有名となった︒アウグスブルクとラペンス

プルクの商人も︑同様な名撃を博した︒中世期のドイツの商工階級は︑初期資本主義の著名な代表者を出した︒

彼等はドイツ園経済の基礎をなす鎖山業を資本主義的に経営することによって︑少からぬ利益争各大︒ ω 環境が

有するあらゆる利便を利用して︑巧

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る成功を牧めた︒そのことは彼等の不接不屈の精神と幸運とを詮するものであるが︑同時にそれは宗教改革以前

並にその直後の時代

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l 未だその精神的影響が及んでゐなかった

1 1

に於ける資本主義的護展や詮するものであ

フ一アンダースを以て︑資本主義の愛展に関して宗教改革が影響を及一惜した一例として奉ぐることは出来ないで る ︒

あらう︒何となれば︑ 才ラジダは︑種々なる歴史的要因が重りあった結果として︑十六世組には事賓上衰退した

のである︒ところが︑十五世紀には︑明らかに資本主義的現象が見られた︒例へば︑ギルドの束縛を菟れんがた

資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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九 七

J .   S t r i e d e r

, 

Der Deutsche

o n t a n ‑ u n d Metal ¥ i n d u s t r i e   im Z e i t a l t e r   d e r   Fugger ,  I 9 3 1 ,  pp

3 4 ‑ 8.

( 5 )  

(8)

商 業 と 経 済

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八.

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工業は都市から農村に移動したのである︒叉︑ その営時に織物商人は︑近代資本家的な役割を演じた︒フ

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そこを訪れんがために敢て大洋を渡ったので

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イタリア人は毛織物取引と金融業に於て︑英図人は羊毛取引に於て︑フランダ 1 ス人はリンネルに於て︑ ︒

ザ同盟諸都市は北方諸閣への香料の仲機取引に於て︑夫々

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資本主義的精神を育成した

0

フランス人の聞には︑閣

際的な葡萄酒の取引によって富助となり且資本家的本性を強めた人々が存在する︒

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かくて奮教的な中世期に於て︑西ヨーロッパ全賠ハスペインを含む)では︑大規模の閤際貿易が行はれ︑舶荷詮

恭・海上保険等の高度に後遣した取引方法が行はれ τ ゐ大︒そこには多数の初期資本家が存在して居った︒彼等

は法律の束縛を菟れんと努めたり︑図王から諸々の特権を獲得せんことを企てた︒

以上の事柄からして︑次の如︑ま疑問が起ってくる︒即ち︑奮数は︑奮数時代に見られる如く︑常に資本主義精︐

紳に反封したことは︑果して真賓であらうかといふことである︒更に︑如何なる力が資本主義の最初の徴伎を支

持したのであらうかといふ

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第二節 資本主義成立の諸原因

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によれば︑資本主義精神の或種の特徴(利得への渇墜しん円射を一手は技術的進歩の結果であるとされて

ゐる︒技術的進歩は︑ E 大なる利益の集積と大量生産を創造することによって︑危険の底力を増大し︑ かくて資

(9)

本主義的世界主義と利得への渇墜を増大せしめたことは否定できないが︑賓際に於てはト雨者は交互作用の関係

に立ってゐる︒こ﹄では︑人をして技術上の改良・進歩の研究に向はしめ大り或は他の動機からなされた諾愛明

の利用に向はしめたりしたものは︑利得への渇墜を内容とする資本主義精神であるといふことを︑むしろ主張し

た い

の で

あ る

この見解に賛成する者は︑中世記に於て資本主義精紳の登遼に最も多く貢献したものは︑園際貿易であること

を認めざるを得ないであら︑フ︒この黙に闘しては︑聖トマスの貿易に閲する所設を次に引用することは受賞であ

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フ ︒

﹁生活維持のにめに︑多量の商品を必要とする都市は︑外園人の居住を許さゾるを得ない︒アリストテレ

ースがそ φ 政治皐で言ってゐるやうに︑外図人との接備は︑屡々園民の風習を頒駿せしめる︒異った法律・慣習

の下で成長した外国人は︑多くの場合に於て︑市民にとって有用でないやり方で行動する︒市民遣が外園入の聾

に 倣

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一 世 曾 生 活 に 混 乱 そ 鷲 ら す の で あ る ︒

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彼等は多 若し市民が商業に従事するならば︑

くの悪徳への道を開くに到る︒何となれば︑商人の目的とするところは︑全く利得にあるからである︒食欲が市

民の心の中に根を張るやうになれば︑都市に於ては高事は金銭づくになってくる︒かくて︑信義の喪失と共に︑

詐欺への道が開かれる︒公共的利盆は蔑視され︑各人は自己の個人的な利益を追求するやうになる︒本来は有徳

の酬である名替が︑すべてのものに奥えられるやうになると︑道徳を等霊する観念は失はれるであらう︒それ故

に︑か﹄る都市では︑市民生活は頚底せざるを得ないのである

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ω 資本主義精神前に於けるスヨラ的立場

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Thomas ,  De Reg. p r i n c . ,  Book  1 I ,   Chap. I I I .  

(1) 

(10)

商 業 と 経 済

一 O O

右の言葉の意味するところを理解し 且程回数社舎の理想と資本主義の目標とを心に思ひ浮ぺるならば︑聖トマ

スが﹁金銭︒つく﹂でのみ物事巻判断する傾向と︑﹁公共的利益を蔑視﹂し︑﹁個人的利益﹂のみを追求する傾向が

あることを指遁したことは︑容易に了解される︒

資本主義の特徴は︑確かに次の通りである︒印ち︑秩序の標準として経済的標準の採用︑第三者の利益の無視︑

純粋に個人的利益の温求之である︒聖トマスが商人の中に﹁都市生活﹂の最大の危険を見出し土ことは過言では

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我々に知られてゐる最初の資本家的人物が商人であることは偶然ではないのである

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他方に於て︑奮教的世界に於ける資本主義精紳の護遣に興って力ありしものは︑信仰の衰退である︒しかし︑

或る意味に於て︑信仰の衰退を来さしめたものは資本主義精神の後達である︒信仰衰退の結果として︑物質的要

図が一時的性質の事情から恒久的な事情に時鈍化した︒信仰の衰退と共に悔改は稀となった︒ ﹁ある﹂ことは︑も

はや﹁あるべき﹂ことに比較されなくなった︒現・世はそのま﹄受容され︑ それ自らの標準に従って利用される︒

世界は純粋に現世的標準によって判断される︒

中世時代に於て︑信仰の衰退を来さしめたすべての事情が相侯って︑資本主義精神の後遣を粛らしたのであ

る︒何となれば︑前資本主義精神は︑目には見えないが(現世的ではないが)信仰によって保持しなければならな

い事物に依存するからである︒前資本主義精神に忠震なる者は︑信仰による成果のために︑戎種の成果を犠牲に

(11)

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374・

するを厭はない︒彼等拡︑ 或種の行震をしない場合には富を失ふヲ︺とが確賓であっても︑

好ましくない場合には︑ その行震を避ける︒しかし︑来世では天国に於て酬を得ることを信じてゐる︒

一 旦

こ の

信仰を失つ七場合には︑ もはや資本主義的に行魚すお以外には何ものも残らないことになる︒人と人とを結びつ

ける宗数的紐帯︒か失はれた践には︑仲間より常に先ん守ることを唯一の目的となす傍若無人の人てか増加するで

あらう︒この種の人々は現代が始る以前に存在して居︒︑彼等は﹁遠慮といふことを全く紋き︑あらゆる道徳律

を 軽 演 す る ﹂ ω と い は れ て ゐ る ︒

人々は富を獲得せんが大めに︑競ってその智慧を銃くした︒道徳上の障碍は取除かれた︒何となれば︑奮来の

慣習を打破することによって︑最高の地位は奮来の法律慣習に泥む人々の手に来ないで︑智慧・物質的力或は能

力によって奮習を克服し得大人々の手中に蹄したからである︒あらゆる場合に︑向上への段階は経済的手段によ

って備えられてゐる︒その時から︑経済上の困難は人々をして財貨の必要を感ぜしむるにいたる︒人々はその欲

笠を拘束すべき信仰を失ってゐるために︑専ら財貨を追求する

0

・富と棒勢の快を味はってゐるために︑もはや信

仰を顧みないのである︒

獲得欲と不信仰とを助長した他の現象がある︒前資本主義時代の末期に︑ その行焦が最も代表的であった人々

を考察の封象として取り上けるならば︑ 十五世記の人々を指導した新経済精神の後遣に最も大なる貢献をなしに

ものは︑人本主義的人生観であると言ひ得る︒その代表者︑例へばと ZE の如︑まは︑富の観念を道徳観から解

資本主義精紳誌に於けるスヨラ的立場

、‑‑‑

( 2 )  

(12)

商 業 と 経 済

放することにより叉財貨の獲得と使用とに関する宗教的制限を撤援することによって

J

資本主義的精神の方向に

最も重要なる歩を進めたのである

o

政治的方面にも同様な傾向は現はれたのであって︑ その結果︑閣家は新しき

思想と生活様式に封して反封することを止めたのみならや

J

︑むしろ閤家自ら程回数的理想を放棄するにいたった︒

第五章

プ て プ ス タ ン ア イ ズ ム と 資 本 主 義

冨お巧号︒円によれば︑新教は召命(︿

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の観念を世の中に導入することによって︑資本主義の

後達を促進したと言はれる︒それによれば︑各人は彼が召し出された職業に全身全霊を打ち込むぺ︑きであって︑

このことこそ彼の神に封する唯一の義務であるとする︒この黙に関しては︑

ウ エ

l パ 1 に賛成し得ない︒彼の解

穫は種々なる理由によって認容し得ない︒何となれば︑特に︑彼の設は新教の召命観念以前に資本主義精紳が存

在してゐたことを認めないからである︒ウエ 1 パーは︑新数以前に資本主義的現象が存在してゐにといふ反封論

が起り得ぺきことを輸出想して︑それらの現象は資本主義精神とは異った精神によって動かされたものであると主

張してゐる︒更に彼はそのために︑資本主義と資本主義精神とを区別してゐる︒彼の反封論に封する抗滞が如何

に巧妙であらうとそれによって納得じ得ない︒事物の本質││ウヱ

l

パーは資本主義精神が資本主義の本質を構

成するとなすーーが︑ その事物自韓より宇っと後に愛生することは︑果して可能であらうか? 新数以前に資本

主義的﹁事震﹂が存在し川叉︑ それらの事賓は資本主義精神によって生じなければ︑資本主義的たり得ないこと

(13)

を認めるならば︑資本主義精神は新数以前に存在してゐにと結論せざるを得ない︒ウエ l パーが提供した材料に

か﹄る結論に到達せぎるを得ない︒それ故︑召命観念を以て資本主義精神の起源と認め

その観念は新数以前に存在してゐたと主張せざるを得ない︒ 基いて推理するならば︑

ることは出来ないのである︒むしろ︑

他方に於て︑召命観念が普及する以前には︑人々は合理的な方法で営利の追求に従事しなかったと考へること

には賛成し得ない︒元も合理的といふ観念は相封的なものであるが︑経済上合理的といふ観念︑即ち︑最少限度

の手段といふ観念は││後代に於て智識の後建によって影響されたがーーー新数以前に知られてゐ大︒ウエ

l

l

の所設に反封して︑人は生れ乍らにして皆利の本能を有することを指遁せんと欲する︒人はその智識の及び得ぎ

る限り︑常に最少限の手段巻達成せんことに努めるものである︒外部的な諸要因がこの本能を阻止したり或は助

長したりする︒資本主義精神の怪種をなすものは︑この本能であり︑この傾向である︒それ故に︑要するに資本

主義精神は常に存在したし叉将来も常に存在するであらう︒しかし︑世舎的勢力としての資本主義精神は︑必や

J

しも常に存在してゐた器ではなく叉将来も常に存在するとは限らないのである︒我々が問題とするのは︑

か ﹄

意味に於ける資本主義精神である︒か

L

るものが枇曾的現.象としての資本主義の本質をなす︒かく解せられ K 資

本主義は諸種の宗教と交渉を有する︒何となれば︑諸宗教は人間の精神力を錬成するを目的とするから︑他の枇

舎現象と相侠って︑資本主義を破壊し︑阻止し或は促進する力を有するからである︒諸宗教は資本主義を産み出

すことは出来ない︒何となれば︑資本主義は既に存在してゐるものであり︑むしろ人間に先天的のものであるか

‑資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

f、旬

一 一

'" 

一 O

(14)

商 業 と 経 済

一 O

ら で

あ る

ウ エ

l パーは資本主義精神の起源を決定するにあたって︑召命観念を極めて重視してゐるが︑

最近論詮したところによると︑召命観念はウヱ l パーが考へたやうな意味には︑必宇しも用ひられてゐないので

ウ エ

l パーが資本主義精神の特徴と考へたや

ロ バ

l トソンが

ある︒十六世紀の新教徒︑例へば︑

戸 川

丘 目

︒ 円

や F 2 2

の 如

き は

うな現象とは矛盾する意味で︑召命観念を使用してゐる︒ ω 十七世紀に於て︑彼がその所設を詮明するために多

くの黙で引用じたパクスターすら︑召命観念を漠然たる意味に解してゐる︒ ω 十八世紀に至つてのみ︑我々は新

教徒の間に於て︑召命観念に本来の資本主義的意味を見出すのである︒ ω

ロ パ

l トソンは更に次のやうに述ぺて

ゐる︒即ち︑若し召命観念が資本主義の起源であるならば︑この観念は︑十七世紀の新教及び十四世紀の苔教に

於て同一であり︒叉︑十八世記の新教及び同 C く宮教の或思潮に於て同一であるから︑新教と奮教とは資本主義

精神の後遺に釘して同様な重要性を有すると結論せぎるを得ないと︒ウエ l ベーによって︑新数徒に蹄届せしめ

られた召命観念は︑宗教改革以前に於て生ける観念であり叉その後に於てもカソリックの陣営内で活動してゐ大

ことを認めるならば︑

ロ パ

1 トソンの解程は誤ってゐないやうに思はれる︒目︒記念

ZCO

抽 出

E ︒

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伊 円

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の 丘 町 ' 向 ︒ 件

w

包虫色‑︒ロ等は︑現代のフランスの奮教徒中に︑神は各人に現世に於ける一の職分を興へて居り︑ そのことは

一聞の意思によるものであるとなす観念が存在することを主張してゐる︒

それ故に︑ウエ 1 パ l の解緯は受賞ではないのである︒そこで我々は︑新教が資本主義精一紳を他の方法で促進

H. M. Robertson

, 

p p .  9‑13

i b i d . ,  p p .   1 5 ‑ 2 0 .  

i b i d .

, 

p p .  2 5 ‑ 8 .  

i b i d . ,  p p .  6‑7 , 

30‑I

, 

I

, 

32. 

(1) 

( 2 )  

( 3 )  

(壬)

(15)

若くは制限しにかどうかを尋ねなければならない︒その精神は︑常に人間に萌芽の朕態で存在して居るものであ

り︑官款によって阻止され来ったものであるが︑十五世紀に奮教が表徴とすると共に︑社合的勢力として窪頭し

にのである︒叉それはい山料お設が奮教による繋縛を弛めた﹄めに︑その後遣を促進されにものである︒

い て

は ︑

新教は地上的行震と永遠の救訟との関聯を否定した﹄めに︑資本主義の後達︑を促進︑︐

u

たのである︒この黙につ

ルタ!主義とカルずイン主義の思想に於て員の相遼はない︒カルヴインは救誌を紳の任意なる設定に結

び つ

け ︑

ルターはそれを信仰にのみよらしめたのである︒雨者は共に救訟を業(ヨ)同日出﹀ に結びつけなかった︒

し か

し ︑

カルヴインの説くところは一居熱烈であったので︑資本主義的意味に於て︑賓際上の成果︑伊ニ屠殺果あ

らしめ得七のである︒

資 本

主 義

精 一

仰 は

一個人の或行震に於て先づ現はれ始め化︒紋は展示された道徳律の限界内に︑ その活動を制

限する必要はないと︑ 一時的に感じたのである︒か﹄る行震が次第に纏続して積み重ねられて来ると︑彼等の活

動が悔改によって制限され得る可能性が次第に減少して来る︒悔改の機舎は信仰が弱くなることによってのみ沿

失する︒天上と地上との二元を統一する榊から現世を分離することによって︑信仰は弱められる︒現世的幸福在

よわ高ま使命から切り離すことは︑基替者にとって高債なる犠牲である︒このことは︑聖徒と道徳家︑良心の苛

責と救怒の歓喜の治失を意味する︒之こそ人本主義的な懐疑論が始めたものであり︑新教の数設が完成したとこ

﹁それ故に︑経済の分野に於ける新しき精神の創迭は︑新教若くは新教の或宗派の仕業である ろのものである︒

資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

r‑. 

‑...J 

一 O

五 ︐

(16)

商 業 と 経 済

一 O

と考へることはできない︒それは文嬰復興及び宗教改事の時代を特徴づける一般的な思想革新の一現象である︒

認可術・哲事・宗教・道徳及び経済に於て︑個人は中世時代の束縛から解放された︒﹂ ω この思想後展の時代に於

て︑資業倫理は︑新教によって現世に於て正営化される基礎を奥えられた︒或る行動がその地上的な成果以外に

は何等の天上的な酬をも得られない場合には︑ その行動を合理化する原理は︑最高度の成果を牧めるといふ原理

となるであらう︒之が新教によって︑純粋にその教義を通じて費らされた深刻なる思想革新である︒新教は大衆

の宗教的信念を代表するものであり︑且つ彼等の生活の規範となってゐるから︑極めで重大なる意義そ有する︒

一 日

一 ︑

人 聞

の 行

魚 ll

経済活動を含めてーーが︑もはや魂の救といふ尺度で計られないで︑成功といふ尺度で計

られるやうになると︑人間的な本能・人間的な欲望と紳の命法との聞の争は︑人間的な解決を見出すにいたる︒

L

る信念を人々に浸透せしむることにより︑人間の努力をこの新しき基礎に置くことによって︑新教は資本

主義精神の支配に封して有利に作用した︒或はむしろ新教はそれを正営化し︑神霊化したと稀すべきであらう︒

出向

5

∞O

が次のやうに述べてゐることは正しい︒﹁ヵルヴイ

γ

は一仰のものと人のものとを大腹に分離せしむるこ

とによって︑基督者はその職業に懸命に従事することにより叉︑一仰の賜を完全に利用すること"によって救誌に到

達し得られるものであると教えた︒:::彼はロックフェラーやカーネギーの出現を設想し得なかった︒しかし︑

彼の立場は︑彼が考へてゐたよりも一一厨エラスムスやラプレヱに近いのであって︑彼は人間的道徳を復活せしむ

るに興って力があったのにすぎないよと︒ ω かくて︑新教は宮を獲得するための人間の自由なる努力を宗教上か

G .   L u z z a t t o ,  S t o r i a   e C O l l . ,  O p .   c   i , . t p .   7

I. 

H. Hauser ,  La m o d e r n i t e ,  o p .  c  

i

, . t p

5 0 . ( 5 )  

(  6 )  

(17)

ら是認したものと考へられる︒資本主義精神は︑人々をして最後まで︑ その経済的利盆を獲らんがためには︑自

ら武装せざるを得ないやうな欣態を正賞化した︒

要之︑新教は超自然的制限から人聞の行動を解放する上により一居の進んだ段階を示すにすぎない︒それはか

﹄る意味で枇舎に作用を及惜したのであって︑新じき成果を鷲らしたものではないが︑宗教改革以前に動きを示

してゐ大一の運動現象を促進したのである︒その運動は︑宗教改革者の意園を超えて︑宗教改革以後にもその運

動+ぜ縫絞した︒何となれば︑宗教改革者逮は︑一服音書に蹄ることそ夢み乍ら︑彼等の改革運動の結果が如何にな

るであらうかといふヲ}とを決して疑はなかっからである︒

第六章

L L M  

孔事 JHH1v 

必ず

第一節 フア︐ンフアニの所論の基本問題に封する概観

以上に於てフアンプア一一の所論の主要なる部分について紹介をしたのであるが︑以下に於て︑ その立場につい

て批判を行ふ︒第一節に於て︑彼の所論の根本問題を概観することが︑批判を行ふ上に便宜であらう︒

先づ第一に︑之はファンフアニのみなら示︑彼と同様な立場にあるクラウスに就ても同じことが言ひ得られる

のであるが︑メコラ的立場にある撃者に共通な且つ顕著な特色は︑新教精神に閲する解緯の中に見出される︒彼

等は宮教を以て︑紳的秩序を第一義とする宗教であり︑真に基替教の名に値するものであると考へる︒反之︑新

資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

/'問、

、 ーJ

一 O

(18)

商 業 と 経 済

一 O

教は地上的現世的秩序を神的秩序よりも霊く見るものであって︑ それはむしろ基督教精紳から墜落した結果︑

くなったのであるとする︒

﹁ 新

教 の

根 本

原 理

は ︑

必然的に現賓的なもの﹄紳聖化に導かぎるを得ない︒ 現世に

封して超現世的制限をおかんと執均に企てるが如きことは︑新教が打倒せんとする教義の残津に外ならぬ︒﹂

( 円 ) ・

3 3 ω

も の

で あ

る ︒

然らば︑新教の有するか

L

る現世的傾向は︑何に由来するものであらうか?

﹁ 救

誌 と

業 と

が 無

関 係

で あ

る と

な す

思 想

﹂ (

ワ ・

3 ∞)に蹄せられる︒救塾︑換言すれば︑紳の前に義とせられること

は︑業によら宇︑信仰のみ会

0]

E O )

によるとなすことは︑ルク

l

の宗教改革の根本精神であり︑新数が程回数

と区別せらるべき最も重要な原理である︒フアンプアニによれば︑新教徒は救訟を業によら?と考へることの結 それはフアンプアニによれば︑

現世を単に入聞の自由なる活動に由来するところの合理的秩序として受け容れる︒そこから彼

﹁ 新

教 徒

は ︑

等は論理的なやむ方に於てのみ行動するに到る︒﹂ Q ・ 5 ∞)従って︑新教徒に於ては︑現世を以て︑神的秩序に

基かぎるところの論理的存在にすぎないと考へること︑換言すれば︑ ﹁地上的行免と永遠の救との聯関を否定す

る ︒

﹂ 守

8 u )

ことから︑醤殺が有する如き一抑中心の思想が失はれ︑ 一種の現世主義に墜落し'にものであると考へ

その︹地上的な)成果以外に︑何等︹天上的な︺酬を受くべきでないならば︑行震の合理

化の原理は︑最大の成果(富良一 E ロ BEES の原理として止るであらう︒之こそ︑新教によって鷲らされた深刻

﹁ 悲

し 行

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ち 業

︒ か

F a u f a n i ,  Catho

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c i s m ,  P r o t e s t a n t i s m  and C a p i t a

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s m .  p .   1 9 8 .以下本書よりの

引用は、本丈中に頁数のみを示すO

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(19)

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革 命

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る ︒

﹂ 守

8 ∞

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く τ ︑﹁一度︑人間の行魚 ll

経 済

行 魚

在 含

め て

ー ー

ー が

もはや救訟の尺度で計ら

れないで︑成功の尺度で計られるならば︑人間の本能・欲望と榊的命法との間の矛盾は︑ 人間的な解決を見出す

結果となるであらう︒﹂ Q ・ 8 ∞)か﹄るものが︑新敬の根本原理から派生するものであって︑之は奮教の紳中心

主義・超現世主義から︑ 一種の人間中心主義・現世肯定主義への墜落を示すものに他ならぬと解緯する︒

フアンプアニの解緯するところによれば︑新教の有するか﹄る現世主義的傾向が︑個人主義的︑功利主義的な

管利追求を内容とする資本主義精神を直接に生み出したのではない︒ 一ー経済的標準のみを総ての債値判断の基準

と す

る 態

度 ﹂

Q ・

8 )

と﹁富の個人主義的︑功利主義的伎用

1

( ℃

・ 凶

∞ )

と を

内 容

と す

る 資

本 主

義 的

精 神

は ︑

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﹁人間に先天的に内在するものであり︑ 人間は生れ乍らにして利得の本能を有するもの

1

守 ・

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手 I j

欲 で を あ

  .る

の か 吐 』

る本能的な営利欲を中世期の園際貿易は一一居促進したのである︒ハヲロ印)換言すれば︑

合 的

勢 力

﹂ (

匂 ・

83 にまで高めたと言ひ得る︒かくて新教の出現以前から︑資本主義精神は存在して居ったので

ある︒それと奮教の倫理は︑氷山次相容れぬものであり︑奮教の一脚中心的な且つ協同韓主義的な倫理は︑之を抑制

してゐたのである︒

然るに︑宗教改革並に人本主義的思想によって︑奮教倫理による抑制が除かれ﹁超自然的制限から︑人間の活

動 が

解 放

Q ・

M g )

された結果︑資本主義精神は一一麿の拍車をかけられたのである︒か﹄る意味に於て︑新教は

資本主義の成立に封して︑直接の原因ではないが︑間接的にそれへの促進的作用を及惜したと解する︒

資本主義精神一誠に於けるスヨラ的立場

一 一

、../

一 O

(20)

商 業 と 経 済

一 一

O

第二節 新教倫理に閲する問題

フアンプア一一の新教倫理に封する解程は︑果して安営であらうか?・ 新教は彼の解するが如く︑現世的秩序を

第一義とし︑紳的秩序を第二義的に見る一一躍の現世主義に外ならぬものであらうか?

カ ル ヴ イ

新 教

の 大

先 達

ンのジュネーブに於ける紳政々治(叶

F g Q R 5

は如何なる︑ものであったか? それは市民に封して︑彼の深ま

彼 の

信 仰

は ︑

営 時

の 居

間 教

が ︑

欧洲に於ける大多数の 信仰よわ愛する厳格無比の道徳的訓練に外ならなかった︒

信徒の聖書知識の暗さに乗じて︑聖書の真理を歪曲して︑訣れる信仰に立つを慨し︑純粋に聖書の員理に蹄り︑

それに基礎巻置かんとする信仰であった︒か

L

る信仰は︑彼の何よりも先づ紳への比類稀なる絶封他力的蹄依と

﹁宗教改革の民の意味は︑人周生活に封する宗教の支配を排除し 精殺なる聖書研究に基礎を置くものであっ七︒

たことにあるのではなくて︑むしろ︑従来の形式による支配に代へて︑別な一形式を濁らしたに過ぎないといふ

ことである︒しかも従来の形式による宗教の支配は︑極めて安易な︑資践生活にはあまり負捨を加へないもので

あり︑多くの場合殆んど形式にすぎぬものであったのに反して︑新大に'賀らされたものは人間生活の全面在支配

するもので︑あり︑家庭生活と公的生活との全館にわたって︑飽くまで殿粛且つ員整な規律を要求するものに他な

ら な

か っ

た ︒

フアンプアニの解緯とは逆に︑新教は奮教の下で見られなかったほど強力に賓践生活を紳的命法 ﹂ ω

によって規律せんとした黙に︑ その特色を有するものである︒

ファンフアニによれば︑新教が有する現世主義は︑ ﹁救訟と業とを無関係となす思想﹂に基くとされる︒換一百

(Re

・ 双山

b e r , Die p r o t e s t a n t i s c h e  Ethik und d e r   G e i s t  d e s   K a p i t a l i s m u s .  

1i

g i o n s 5 o z i o l o g i e  1 .   S .   2 0 ) .

邦謹書(梶山力語)

p

3

( 2 )  

(21)

す れ

ば ︑

ルク

l の宗教改革の根本精神大る﹁人は信仰のみによって救はれる﹂との立場が︑基督教をし℃現世主

義にまで墜落せしめたと解されてゐる︒しかし︑我々の解するところによれば︑この信仰こそ︑中世期に於て形

式化し無力化し大基督教を頚践の淵より救ったのである︒中世の基督教は︑紳による救の根本保件を洗躍の儀式

によるとなしたことによって︑基督教信仰を著るしく形式化し︑延て無力化したのである︒その洗植式は一種の

業に他ならぬ︒宮教では︑人が一料の前に義とされるためには︑洗踏式といふ業が第一重要であるとされたこ占か

ら︑信仰は第二義的なものとなり︑従って︑宗教が形式化する︒ 一の大なる原因が生守る︒奮教が形式化した原

因は︑之のみではなく︑教階制度(回目︒

E R 5 )

の影響も考へられねばならないが︑こ﹄では問題と直接の関係

が な

く ︑

叉別の機舎で論じたから︑ ω

省 略

す る

人は業によって救はれんとする限り︑永遠に平安に到り得ない︒人が道徳的命法を如何に厳重に遵守し川行潟

を如何に道徳的に完全ならしめんと努め尤も︑ とうてい完全の坊に達し得ないであらう︒その人の良心が鋭けれ

ば鋭いほど︑道徳的命法と日常的行為との矛盾は益々大となる︒律法主義の弱賠はこ

L

に 存 す る ︒ ︒ ハ ウ ロ の ﹁ わ

が欲する所の普は之をなさや

J

︑反って欲せぬ所の惑は之をなすな

h J O ‑

‑ : :

われ中なる人にては紳の律法を悦べ E ︑

わが肢憾のうちに他の法ありて我が心の法と戟ひ︑我を肢踏の中にある罪の法の下に虜とするを見る︒皆われ悩

める人なるかな︑この死の臨より我を救はん者は誰ぞ︒﹂(ロマ七の一九・ l ニ囚)との言葉は︑良心の人にして始めて

一 /

人 ザ

い に

な し

﹂ 守

マ 三

の 一

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で あ

る ︒

言ひ得る言葉である︒まことに﹁義人なし︑

資本主義精神論に於げるスヨヲ的立場

f、旬

一 一

、 ‑ /

拙稿、,近代安本主義の倫理と東亜経済 (f商業と寧湾」第廿三年第一班、昭

和十七年十一月設行、

p .97 ,  98 ,  1 1 0 )  

( 3 )  

(22)

商 業 と 経 済

修道借としてのルターは︑何人にも増して信仰深く︑良心が鋭かったゾけに︑道徳的命法と自己の行待との矛

居 中

ぜ 感

AF

ることが深かったのである︒その悩みを解決せんために︑ 一 週 間 殆 ん E 不眠不休で修道院の冷い床の上

で祈り続けたと一言はれてゐる︒しかも途に魂の平安は得られなかった︒然るに︑或日ロマ主同居読み行くうちに

ロマ書に於けるパウロの言葉から︑律法によりでは人は救はれ示︑信仰のみにより救はるとの確信に到達した︒

﹁然るに今や律法の外に一紳の義は顕れたり︑これ律法と預言者とに由りて詮せられ︑ イエス・キリストを信やる

に由りて凡て信宇る者に奥へたまふ一脚の義なり︒之には何等の差別あるなし︑ 凡ての入︑罪を犯し・にれば紳の築

キリスト・イエスにある蹟罪により義とせらるるなり︒﹂(口 光を受くるに足らや

J

︑功なくして紳の恩恵により︑

マ 一 一 一

の 一 一 一

l

二四)

﹁この故に今やキリスト・イエスに在る生命の御霊の法は︑なんぢを罪と死との法より解放し

たなればなり

0 1

( 同

八 の

一 ー

ー 一

一 )

﹁若しキリスト汝らに在さば樫は罪によりて死にたる者なれど霊は義によりて生

命 ︐

に あ

ら ん

︒ ﹂

( 同

八 の

O )

しかし︑律法を否定するのではない︒ ﹁然らば我ら信仰をもて律法を空しくするか︑決して然ら示︑反って律

法 ︑

を 竪

う す

る な

O L

同三の三ごであって︑信仰によりて救はれたの池切︑確信に立つことによって︑却って律法

(

的完全への一居の拍車をかけられるのである︒信仰によって紳の前に義とせられ︑我救はれたりとの確信から︑

紳への信仰は一暦深︿ならぎるを得ない︒﹁かく我ら信仰によりて義とせられ'にれば︑我らの主イヱス・キリスト

に積り︑紳におして平和を得たり︒ま穴筏により信仰によりて今︑立つところの思惑に入ることを得︑紳の柴光

(23)

申 ぜ

望 み

て 喜

ぶ な

01

( 同

五 の

l!

一一)更に︑この信仰は︑人をして自ら進んで難事に赴かんとする挺身的勇気を鼓

舞 す

る ︒

1

然のみならや

J

患難をも喜ぶ︑そは患難は忍耐を生じ︑忍耐は練達を生じ︑練達は希望を生宇と知れば

なり︒希望は恥を来らせ歩︑我らに賜ひたる聖謹によりて紳の愛︑ われらの心に注けばなり

01

一 (

同 五

の 三

1

五 )

﹁ 紳

もし我らの味方ならば︑誰か我らに敵せんや︒:::誰か紳の選び給︑へる者を訴へん︑神は之を義とし給ふ︒誰か

之を罪一に定めん︑死にて廷へりし給ひしキリスト・イエスは紳の右に在して︑我らの震に執成し給ふなり︒﹂(同

八 の

三 一

ll

三四)かくて︑人を恐れ宇紳のみを恐るる敬度にして︑一一回剛毅なる清教徒的入閣が出来上るのである︒

以上に於て述べ穴如く︑宗教改革の根本命題は︑紳への信仰を深めこそすれ︑ フアンプアニの解緯するが如く

決して現世主義に墜落せしむるいはれはあり得ない︒

苔 一 款 に 特 有 な 諒 罪 典 は 宗教を魔術化するものであって︑同県に一脚に就ける信仰から人在遠ぎくるものなりと言

ひ得る︒奮殺の司祭は赦罪樺を有‑するとされ︑信徒は司祭に憐悔することによってその罪を赦され︑恩寵の希望

や‑血(えられる︒かくして程回数では︑信徒は司祭に域悔することにより︑容易に罪の赦しと恩寵とに奥り得るため

に︑その憐悔が心からなる員の峨慌たることが難しく︑叉新なる罪に誘惑され易くなる︒司祭に赦罪擦を有すと

さ れ る こ と か ら ︑ その罪の赦しは︑神による思寵ではなく︑司祭による恩寵と考へられるに至る︒紳と人との間

に﹁赦罪擢を有し︑化慌の奇蹟を行ふ魔術師としての司祭

1

一 ( ウ エ

1パ

I)

を介在せしむることによって︑一抑と人と

の直接の交通︑そ妨けられる︒か与ることは︑何等聖書になき誤れる信仰に外ならぬものであって︑宗教に魔術的

資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

'

一 一

、./

一 一

(24)

商 業 と 経 演

一一 四

要素を導入するものである︒かくて︑神中心の信仰が失はれ易くなり︑宗教は民に信徒の生活を倫理化するにけ

の 力

を 失

ふ ︒

﹁中世の一般の奮敦信徒は︑倫理の上ではいはば﹁手か

ら 口

f

一の生活をしてゐた︒絞らは何よりも停統的な義務を︑誠質に賢行した︒それ以上に彼等が﹁普ま行篤﹂ この黙に就いて︑ウエ

l

パーは次の如く述ぺてゐる︒

をすることがあっても︑ それは一般には必然的な聯関を有しない︒少くとも一定の生活控系として合理化されて

はゐない個々の行震にすぎないもので︑それも個々の場合に感じて︑

か︑生涯の終りとかに︑いはゾ一種の保険料として行はれたのである

0

・ :

: ・

数 舎

も 理

想 と

し て

は ︑

原 理

的 な

生 き

例へば或る罪悪の治減とか神父の感化と

方を人間に要求した︒しかしその反面には︑教舎の最も重要な勢力手段︑また教育手段の一である聴罪典(出口

g a g H Q ω 5 8

C ーーその機能は宮教の信仰の最奥の特性と深い関係のあるものであったーーは︑右の要求を(概して

一 言

へ ば

) 極

め て

弱 い

も の

に し

た ︒

世界中ゼ﹁魔法から解く﹂こと︑部ち救怒の方法としての魔術を排斥することは︑奮教の信仰では清毅主義(そ

れ以前にはユダヤ教のみがこれに属する)の信仰のやうに︑徹底的には行はれなかった︒奮数徒は︑数舎の奥え

る聖櫨此︿の恩寵によって︑自己に不足するものを補はれることが出来た︒司祭は魔術者とじて赦罪樫を有し︑化

四四の奇践を掌ったのである︒信徒は痛悔と機悔によって司祭の援助をもとめ︑司祭から臆罪と恩寵の希望と︑放

罪の確信とを輿えられ︑これによって内心の緊張(∞司自白

S m )

から菟れることができた︒しかしカルヴイニスト

(25)

には︑この緊張のうちに生きねばならない運命であった︒:::カルグイニズムの向か信徒から要求しにものは︑

伺えの﹁善行﹂ではなくて︑組織として高められた正しい生活であった︒罪悪︑痛悔︑悌一悔︑平安︑新大な罪の

聞を往来するカソリックの人間的な信仰︑また全生涯の残額(∞包(目︒﹀岳地上の刑罰によって償はれ︑数舎の恩寵

手段によって決済されるといふやうなことは︑ カルずイニストにとっては問題外であった︒ かくして一般信徒の

倫理生活から無計笠と無慌系とが除かれ︑生話金躍にわ大る一貫した方法(昌

2 F a o )

が︑それに代へられた︒

十八世組︑活数主一誌の最後の目ざましい復活の捨賞者が﹁方法主義者﹂の名で呼ばれ︑また十七世紀に於けるそ

の精榊的祖先が︑意味の上ではこれと全く同一の﹁巌正主義者﹂

( p p

弘 法 g o )

と呼ばれ党のは︑まことに偶然で

はない︒何となれば︑ あらゆる行魚に方ける金生活の精神の基礎的援化によってのみ︑恩寵の作用が人間を﹁自

然 の 地 位 ﹂ ( 己 主 5

P

E S O )

か ら ︑ ﹁ 恩 寵 の 地 位 ﹂

( ω 5 5 m g E o )

に解放したことを︑確め得ると考へられたか

﹁聖徒!一の生活の唯一の目標は︑超越的なものーーー救怒ーーにあった司が︑そのために却ってその地上

ら で

あ る

生活は完全に合理化され︑﹁地上に一仰の栄光を増す﹂との唯一の立場の上に築かれた︒﹁すぺては紳の柴光を増す

た め

に ﹂

( O E

ロ 宮山 口

E i O B

自己巳阿古江戸

B )

との立場を︑彼等ほど真剣に考へたものは嘗てなかった︒﹂ ω

か く

て ︑

ファンフア一一の言ふが如く在回数は紳中心の信仰を第一義とする宗教であり︑新教は現世肯定主義

(巧 め] 号江 戸ず

g m )

に堕したものであるとの見解には反封せ.ざるを得ない︒

資本主義精一紳に関する問題 第三節

資本主義精紳諭

K

於 け る ス ヨ ラ 的 立 場

一 一

'

一 一

(邦語書

p . 139‑‑42) 

¥Veber

, 

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, 

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O .  S .   II3 

ff. 

( 4 )  

参照

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