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と身通じて︑道徳の自律性への動向を阻止せんとする企てがなされに︒事業への飽くなき配慮は非難され七︒そ

して︑個人的利益のみを意味する個人主義的設官は非とされ七︒奮数々舎の反資本主義的行動は︑十五・六世紀

には甚花盛であったが︑十八世記にも依然として衰へなかっに︒それにもか﹄はら示︑成功しなかっ穴︒数舎が・

積極的な影響を及除し七ことは事賓であるo例へば︑十八世紀に於ける匿名の著述家はその著

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に於て次の如く述べてゐる︒﹁王図の資本家のうちで恐らく約三分の一は︑その資本を以

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て取引を敢てしないし︑叉それをも商業に投じようとしない︒戎者は高利貸業者として汚名を受けることか}恐れ

ることにより︑他の者はその良心を傷けぎらんがために︒﹂

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それにも拘ら示︑資本主義の諸勢力は勝利を以て絡り︑新しき理念は枇舎を愛卒した︒この時から︑

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十八

世紀の絡から十九世紀の初頭にかけて

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カソリック倫理の勢力は著るしく衰へたが︑このことは新欣勢の是認

+伊長味するものではない︒長之︑数舎は時代の健全な所産だあるところの革新と宗教的制禦から解放された人心

から

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Jる革新との聞に区別巻潟さんが允めに︑出来る立けの努力をなしたのである︒

沈滞の時代が終ると︑再び争闘が開始されたoこの時には︑少数の問中者と賓際家にその任務が委ねられた01

れらの人々に謝する課題は︑一世舎の改革といふことであった︒借侶の側からの批判と抗議︑俗人の側からの諸研

d 資践と組織に関する諸綱領は︑資本主義制度に不滅を抱く多数の人々の攻撃を強むるに役立つに︒程回数徒は

持働者及び改革運動者と共に︑社合的立法を要求した︒このことは下営該カソリック諸勢力の反資本主義的態度

資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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B. Groethuysen, Origines de l'esprit bourgeois en France. p.  145.  (2) 

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を示す明らかな詮擦である︒それは経済主眼の自律性の不承認︑危険の法則の支配に封する否定︑門私有︺財産に

含まれたる紅曾的義務の再宣言︑園家は公民の権利に封して干渉すべき職能そ有することの承認を意味する︒加

之︑それは自由主義的及び資本主義的原理の真理性に封する不承認の宣言を意味する︒又︑それは利害関係の調

和は積極的な協力の交換││そこでは資本家のみなら争︑擁護すべき自己の人格以外には何物も有しない人々も

各々果すべき職分を有するーーーによってのみ得られるとの宣言を意味する︒それは社合回全胞の一服一祉は︑社舎が金

憶として健全な生活を享有しない限り︑叉純粋な経済的利益の活躍から遁営に保護されない限りげ資本家の活動

からは生C得ないといふことを主張する︒それは経済的損失のおそれは︑より高弐なる利益の賢現ーを阻止するに

充分なる理由たh得ないことを主張する︒カソリック思想は︑社合的立法に基く改革は一時的なものであ.ると

して︑究極的な且つより由民範国に渉るものとして組合的職分社合

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るの建設を主張する時に︑最もそ

の非資本主義的性格を示す︒

ゾムバルトはカソリックの倫理は︑ブルジョア精神の本源に於てどはないにしても︑その特徴の或るものを助

長することによって︑その形成に貢献したと述べてゐる︒

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例へば︑カソリシズムは︑勤務会常己実)円ごの如き

¥ブルジョア道徳の後達に封して有利に作用しにと述べてゐる︒

右の主張は誤解に基くものである︒︒

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の言へるが如く︑基替者にとって勤労は悔改の手段である

が︑資本家にとっては成功の手段である︒加之︑カソリック教徒によって穏揚される勤撲は︑資本家の場合とは

Sombart, Der Bourgeois, S.  310. 

B. Groethuysen, op. ci,.tpp. 215‑u, 257‑8  (3) 

(4) 

具った霊感に基くものである︒雨者は外見上に於てのみJ同一であるにすぎない︒奮教徒のそれは一脚への信徒の後

であり︑資本家のそれは揖理へ的信仰の依如是表現せるものであるo

資本

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の典型的

な封話篇ωに見られる如く︑将来の不測の必要に備へんがために勤務するのである︒それは個人の繁柴のための

手段であり︑恐るべき貧窮に封する防衛である︒資本家の自負は︑基督者の信仰による無関心とは正反封のもの

である︒雨者の勤勉は︑外見上は同一であるが︑具った意味︑具った起源︑具った目的を有する︒クラウスはカ

ソリツクの倫理墜者を正しく解緯してゐる︒彼等が十五世紹に於て勤努を奨関したのは︑資本家的利得を得んと

する趨勢に封して刺戟を奥へんことを目的としたものではなくて︑公正債格論の支持のためと勢せホして財産に

よって生活せんとする考へを排斥せんがために容認したのであると彼は論じてゐる︒

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我々は更に次のことを附加するであらう︒個人的必要を越ゆる劇しい勤携は︑スコラ哲皐者にとって枇曾的に

正賞視され︑聖ベルナルデイノの所論に従って︑自らの需要に封して充分の利得を得大者は更に枇合全世の繁栄

の増大に努むべしと設かれる︒ゾムパルトは︑か与る考慮を梯ふことなくして︑更に中世組のカソリックの倫理

撃者は︑明らかにプルジヨヂ道徳であるところの正直(﹃

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少を教へたと主張する︒

の答をなし得る︒カソリックの教を隼霊する者は一紳の怒に簡れぎらんがために正直である資本家は

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の所論をとり上けるであらう︒彼はゾムパルトが認むる如く段初の資本家である︒ー

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名撃を博せんが 之に封しては前と同様

ために︑信用を符んがために︑商取引に於て利盆を符んがために︑繁昌せんがために正直である︒ブルジョア道

資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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L. B. Alberti, 1 primi tre  libri  della famiglia, passim.  Krans, Scholastik, Puritanismus und Kapitalismus, S.  63.  (5) 

(6) 

一 一

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徳の起源に於て︑我々は利得への熱心さを見出す︒それは道徳家によって結えやJ攻撃され来ったものである︒

カソリック倫理は浪費と貧欲とを戒め︑寛仁を稽揚することによって︑財産の管理に於

て中庸を得るといふブルジョア道徳の基礎をおいたと述べてゐる︒のこの場合に︑基督教道徳は全憶として︑人

更に

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トは

は紳から委託された財産の管理人にすぎないと説くことによって︑ブルジョア精神の出現在刺戟したことを奉け

ねばならない︒しかし︑教舎はブルジョアに中庸を得る手段として︑秩序の道徳を教へたといふことは出来な

い︒何となれば︑プルジらアは﹁掃理の範国外にその生活を組織﹂してゐるが故に︑か﹄る数設を受容し得ないか

らである︒要之︑無用の論議を避けんがために︑次の如く言ふことが出来る︒即ち︑基督教の倫理と資本主義の

それとは︑名目は同一であるが︑意味を異にするのであると︒

カソリック的行魚と資本主義の都民連第三節

以上

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カソリックの社合倫理を概設したのであるが︑宮教徒は数舎の社合倫理に忠なる限︒︑資本主義

に封して決して有利に行動し得ないことは明かとなったであらう︒

従来︑多数の人々によって︑法王は十分の一税及び其他の諸税の徴牧宇佐俗人に請負はすことにより︑資本主義

の後達宇一ー刺戟したと言はれてゐる︒この種の俗人の活動の範囲は庚範固に渉つてゐるので︑時の経過と共に多額

︐の宮を蓄積す母︑に到り︑直接或は間接に︑牧税請負者としての地位によって莫大な利潤を牧めるに至った︒この

Sombart, Der Bourgeois. S. 310.  (7) 

記述におして反封すべき理由は存しない︒事賞︑法王は租税の徴牧を俗人に請負はすことによって︑利得を求め

つ﹄各地を放行するを抵︿局したのである︒彼等は法王の搭威によって保護されたか﹄る放行によって︑各市場の

問の取引関係を促進し叉中世的大商人と金融業者の文化的並に精神的形成に貢献した︒

この事資を考察すればするほど︑その意義は一一居重要に思はれる︒これらの十分の一税徴牧人の法律の拘束を

受けない特措的地位は︑彼等をして一居資本的精神を酒養するに容易ならしめたようである︒何となれば︑この

特権的地位は︑中世の多数の商人が所属してゐたギルドと都市の法律からの離脱を要求したからである︒か﹄る

︐数舎の政策が資本の蓄積の問題に封する重要性を無視するのではないが︑こ﹄で我々が主張せんとするのは︑そ

の精一抑的な結果についてゾある︒商人にかLる資本を取扱ふことを許した外に︑法王は彼等を封人的取引の過程

にはいらせパ彼等をして資本家階級の礎石たらしなるような教育を受くる機舎を奥へたのである︒これらの租税

徴牧人達は︑数日若くは多くの場合数ヶ月間︑莫大なる金額を自由になし得たので︑おそらくは時間の債値を知

h v 初めた最初の人達であらう︒彼等はたしかに危険負拾の問題在最も早く考へ︐たのである︒それを彼等は重く感

じ︑分捲すべき方法を見出した︒彼等の教育上の他の重要なる要素は︑彼等が諸地方の人々や諸図で直面しなけ

ればならなかった諸々の危険であった︒それらの人々は聖ベテロにすら喜捨することをいつも嫌がってゐた︒又

諸図では︑あらゆる時代治通じて︑図王は租税徴牧人をなし得る場合はいつでも獄に投じ︑彼等が集めた金を王

室に

収奪

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資本主義精神論に於けるスヨラ的立場

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ドキュメント内 資本主義精神論に於けるスコラ的立場(一) (ページ 38-46)

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