竺 論 童 文 一 一
資 本 主 義
・ 共 産 主 義
・ 社 会 主 義
・ 過 渡 期
ーー経済学の根本問題││
山 本
丸
ま ﹂ ︒
え
iJ{ き
一九二九年の世界大恐慌以後︑資本主義諸国がすべて深刻な経済的・政治的危機に暗いでいたとき︑ソ連社会主義
国は︑着実に五ヵ年計画を超過遂行して生産は急速に増加し労働者農民の生活水準も向上の一途をたどるという状況
にあった︒こうした︑失業も生活難もまったくない︑勤労者が主人公である社会主義は︑資本主義諸国の被抑圧勤労
人民大衆にとっては︑まさに勤労者の楽園であり︑いかなる犠牲を払ってもその達成のためにいっさいをあげて奮闘
すべき輝かしい目標であった︒ところが︑第二次世界大戦が終わり︑戦後復興がすすみ技術革新がつぎつぎにおこな
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
われて︑資本主義諸国における生産が急速に増大し︑生産力向上の目覚ましい躍進がみられたのにたいして︑ソ連社
会主義国における生産増大はきわめて低く︑生産力水準も停滞しがちとなり︑加えてソ連内部における諸事情││労
働者の低賃銀︑階級的差別︑支配階級の超特権的システム︑汚職・非行の続発︑必需物資の窮迫配給︑個人主義的物
欲追求︑等々││・が明るみに出るにしたがって︑社会主義の魅力は急速に色あせたものになっていったQ
とり
わけ
︑
ソ連社会主義指導部の近隣諸国にたいする大国主義的干渉の数々︑キューバ雇い兵をつかつての新興諸国の武力抑
圧︑武器売込︑高利の対外貸付︑年々数百万トンにのぼる穀物のアメリカからの買付︑等々といった一連の事実は︑
ソ連社会主義にたいする深刻な疑惑をひろくひきおこし︑ソ連は社会帝国主義であるとの評価さえ︑一般に定着する
ようになった︒いまでは︑むしろ︑社会主義とは︑いったい︑なんであるか?ということが問題にされるにいたっ
た︒この﹁社会主義とはなにか?﹂という問題は︑ほとんどすべての経済学者が当面しているものであるが︑とくに
﹁マルクス主義者﹂とか﹁マルクス経済学者﹂とか自称している人々の多くは︑﹁マルクス主義とは科学的社会主義の
こと︑た﹂などといった︑空っぽのきまり文句を革べるだけで︑肝心の社会主義について︑その内容を掘り下げること
もしない︒社会主義という言葉についてしっかりした説明をしないで︑ただ︑﹁社会主義になれば︑勤労者は真の幸
福が得られる﹂などといった︑新興宗教の釣り文句同様の宣伝だけをいくらくりかえしても︑もはや勤労者を釣るこ
マルクス経済学を学ぷ者は︑﹁社会主義とはなにか?﹂ということと︑﹁現在社
会主義国と称される国々は︑はたして真の社会主義国であるのか?﹂ということと︑この二つが︑緊切な︑早急に解 とはむつかしくなっている︒いまや︑
答を要求している問題として白分の前に提起されているのだ︑ということを知らなければならない︒わたくしは︑こ
の切実な問題をとりあげて︑まずこの小論で︑これにただしく答えるための理論的視点を整理することをこころみる
﹂と
にし
た︒
表題にみられるように︑最初に資本主義社会を据えたのは︑
それ
が︑
﹁も
っと
も発
展し
た︑
4む つ み
}4U
多様な︑歴史的な生産組織﹂であり︑しかも︑この資本主義社会こそが社会主義社会の基盤をそれ自身の胎内につく
りだし︑現実に社会主義社会の構成要素を生みだしたものであるからであり︑その意味において︑それは社会主義社
会の考察のための理論的・歴史的出発点とならなければならない︑と考えるからである︒
まず資本主義社会について︑その基本的特徴を簡単にあげてみよう︒
経済的側面
イ
生産関係││基本的・支配的生産関係は︑資本主義的私的所有である︒この資本主義的私的所有は︑本来的私
的所有を基盤としており︑どの資本主義国にも独立生産者"小商品生産者の広範な層があり︑さらに高度に発達した
先進資本主義国では︑少数の独占u金融資本が大規模な社会的生産手段および巨額の貨幣を独占的に所有している︒
ここでの一部の産業部門における生産手段の国有化または国営化は
1
1・﹁土地の固有化﹂をもふくめて││︑けっし
て社会主義的生産関係の創出を意味するものではなく︑たんに資本家階級の││とりわけ独占資本家階層の
1
1代理
人としての国家が︑資本主義経済の危機的状況に対応する特別の方策として︑この階級のために︑国家日総社会の負
担において︑資本主義的私的所有を補強するためにおこなうものにすぎない︒
ロ
生産力
l l '
資本主義社会の物質的生産諸力は︑旧来の歴史的諸社会にくらべて格段に高い水準にある︒その高
度の水準は︑ひとえに︑資本主義的生産様式によって︑
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
つまり︑機械大工業によって創り出されたものである︒ここ
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
四
では︑自然科学の技術学的応用はきわめて高度の発達をとげ︑これによって自然力を最大限に利用する機械体系がそ
れ自身独立した生産主体となり︑多数の結合した労働宥をその付属物として駆使し︑結合労働者の発揮するきわめて
高い生産力は︑資本そのものの独自の生産力として現われる︒機械大工業は︑機械による機械生産︑石炭と鉄の生
産︑金属加工︑運輸革命︑動力革命︑化学の発達︑等々といった︑それ自身に適合した一般的生産諸条件をつぎつぎ
につくりだし確立することによって︑いつでも好きなときに好きなだけ突発的かっ飛躍的に生産を拡大する能力をそ
なえるようになっているが︑しかし︑このひじように高度に発達した生産力は︑資本にとって︑剰余価値増大のため
にのみ発揮されるものであり︑それがフルに発揮されるときは︑必ず資本主義的生産関係の狭い枠と衝突せざるをえ
ない︒この高い生産力と狭い生産関係との矛盾の激化H成熟によって必然的に周期的にくりかえされるのが︑その矛
盾の一時的な爆発および強力的調整としての過剰生産恐慌である︒
,
、
労働力の担い手
ll
社会の存続をその労働によって支えている労働力の担い手は︑ここでは︑いっさいの生産手段を奪われた︑二重の意味での﹁自由な﹂労働者である︒かれが生きた付属物として機械体系にに合体され︑その
共同的労働が高い生産力を発揮すればするほど︑資本の権威と支配はますます強まり︑資本の取得する不払の剰余価
値はよりいっそう増大するが︑その反面︑労働力H商品の価値はよりいっそう低落し︑また労働力そのものの正常な
維持u再生産を阻害しこれを破壊する傾向がますます強まり︑この社会の存続を支える労働者の側には││資本家階
級の側でいよいよますます巨額の富の蓄積が進行するのに対応して││必然的に﹁貧困︑労働音︑奴隷状態︑無知︑
組暴︑道徳的堕落﹂の蓄積がますます進行する︒まことにマルクスが適切にも論証しているように︑かれらは﹁ロー
マの奴隷よりもみじめた賃銀奴隷﹂の地位におかれているのである︒
ところで︑人間に代わって貨幣と資本が生産を支配し人聞をも支配するこの資本主義社会では︑資本主義的生産様
式が分業を導入し︑これを広範に発展させることによって︑たんに賃銀労働者のみならず︑その他の労働力の担い
手︑つまり農民の労働力を破壊し︑さらにブルジョア︑小ブルジョアおよびインテリゲンツィアの労働力そのものを
も必然的に崎形化させ︑破壊するQこのような資本主義的生産様式による人聞の崎型化・不具化については︑
ルスがマルクスと共に著わした﹃反デュiリング論﹄のなかで︑適切な解明があたえられている︒この点は︑資本主
エン
ゲ
義社会と社会主義社会との比較検討にとって重要な一側面をなすものと考えられるので︑いささか長きに過ぎるうら
みはあるが︑参考までに︑右のエンゲルスの叙述からの抜粋をつぎにかかげておこう︒
﹁生産が自然成長的に発展していくあらゆる社会││今日の社会もその一つであるがーーでは︑生産者が生産手段を
支配するのではなくて︑生産手段が生産者を支配する︒こういう社会では︑なんであろうと︑生産の新しい損粁は︑
かならず生産者を生産手段に隷属させる新しい手段に転化する︒このことは︑なによりもまず︑大工業が導入される
まで最も強力な生産の積粁であったもの︑すなわち分業にあてはまる︒すでに最初の大きな分業である都市と農村と
の分離が︑農村人口にたいしては幾千年にわたる愚鈍化の運命を︑都市民にたいしては各人が各自の個別的手工業に
隷属させられるという運命を宣告した︒それは︑前者の精神的発達と後者の肉体的発達との基礎を破壊した︒農民が
土地を︑都市民が各自の手工業をわがものにするとき︑それとまったく同じ程度に土地が農民を︑手工業が手工業者
をわがものにするのである︒労働が分割されるとともに︑人間もまた分割される︒ただ一つの活動を発達させるため
に︑他のすべての肉体的および精神的能力が犠牲とされるQ分業がすすむにつれて︑人間のこのような発達の阻害も
ますます強まる︒分業はマニュファクチュアにおいてその最高の発展をとげる︒マニュファクチュァは︑手工業をそ
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
五
資本主義・共産主義・社会主義・過渡期
ムノ、
の個々の部分作業に分解し︑それぞれの部分作業を個々の労働者に生涯の職業として割り当て︑こうしてかれを一生
謹一定の部分的機能と一定の道具とにしばりつける︒﹁それは︑無数の生産衝動や素質を抑圧することによって︑
労
働者の細部の熟練を温室的に助長し︑労働者を不具化して崎形物とならせる︒:;:個人そのものが分割されて︑
つ
の部分労働の自動的駆動装置に転化される︒﹂(マルクス)││この駆動装置は︑多くの場合に︑労働者が文字どおり
肉体的および精神的に不具化されるときにはじめて︑完成に達する︒大工業の機械は︑労働者を一個の機械たる地位
から
︑
一つの機械のたんなる付属物へとおとしてしまう︒﹁一つの部分的道具を扱うことを終生の専門としていたも
のが
︑
一つの部分的機械に仕えることを終生の専門とするようになる︒機械は︑労働者自身を幼少時から一つの部分
的機械の部分に変化させるために︑悪用される︒﹂(マルクス)そして︑労働者ばかりでなく︑労働者を直接また間接
に搾取する階級もまた︑分業を通じて︑自分の活動の道具に隷属させられる︒頭の空っぽなブルジョアは︑自分自身
の資本と自分自身の利潤欲との奴隷となる︒法律家は︑自分の化石化した法観念の奴隷となり︑これらの法観念が一
つの独自の力となってかれらを支配するようになる︒一般に﹁教養ある身分﹂は︑さまざまな局部的な狭さや一面性
の︑また自分自身の肉体的および精神的な近視性の奴隷となり︑また︑一つの専門に適合させられた教育を受けて︑
専門そのものーーその専門というのがまったくののらくら生活である場合にさえーーに一生涯しばりつけられる結
果︑不具化して︑自分のこの不具化の奴隷となる﹂(ディl
ツ版
︑マ
ルク
ス・
エン
ゲル
ス全
集︑
第二
O巻
︑二
七一
1
二七
二ベ
iジ
︑訳
三
OOl三O
一ペ
ージ
︑傍
点│
│山
本)
︒
一 一
生産および生産物││私的所有にもとづく資本主義社会では︑社会の存続を支える生産物は︑すべて商品の形
態をとらなければならず︑その生産に支出された私的労働は︑商品に対象化し︑商品価値として人聞を支配せざるを
えない︒したがって︑そこには︑必然的に︑価値法則が貫徹し︑私的生産者による私的生産は︑価値法則によって完
全に支配され︑この価値法則の貫徹にふりまわされつつ私的利益のための価値生産をおこなわ︑ざるをえず︑その無政
府的生産のもとで︑社会はその存続に必要な諸生産物のそれぞれの必要量を︑辛うじて︑曲りなりに︑事後的口平均
的に︑不断の不均衡を通じて︑生産することができ︑それによって︑私的所有にもとづく社会の維持1存続がおこな
われる︒発展した私的所有︑すなわち︑資本主義的私的所有の支配する資本主義社会では︑社会的生産物の圧倒的大
部分は資本によって生産される︒資本は︑商品を生産するが︑それは︑できるだけ大きな剰余価値を生産し獲得する
ためにのみおこなわれる︒価値法則の貫徹のもとで︑相互のあいだで必然的にたたかわれる激烈な競争にうちかつて
できるだけ大きな剰余価値を取得するために︑資本は︑資本蓄積をおしすすめ︑生産規模をますます拡大し︑生産力
の増進をはからなければならない︒ここでの生産を支えるもの︑生産の発展したがってまた生産力の増進を推進する
ものは︑資本の利潤追求であり︑私的資本の私的利益増進とその確保である︒生産の無政府性は││独占的大資本の
形成H支配にもかかわらず││けっしてなくならず︑資本によって著しく高められた生産力と資本主義的生産関係の
狭い枠との聞の矛盾u敵対も極度に激化し︑その矛盾の爆発であり一時的な強力的調整としての過剰生産恐慌が必然
的に周期的に資本主義社会を襲うことになる︒社会の存続を現実に支えている労働力の担い手︑すなわち賃銀労働者
およびその他の勤労人民大衆にとって必要な生活手段が十分には保証されず︑つねに労働力の再生産がそこなわれて
いるにもかかわらず︑資本のつくりだした生産諸力がフルに発揮されるときには︑資本主義世界は︑買手のない大量
の過剰生産物日商品の圧力のもとに窒息せざるをえない︒資本主義的私的所有という生産関係そのものが︑すでにそ
れ自身のうちに︑ひとつの制限をつくりだしており︑この生産関係そのものを揚棄しないかぎり︑この社会は︑それ自
資本主義・共産主義・社会主義・過渡期
七
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
Jl
、
タリ1ゼ身のもつ制限の枠の中にとじこめられ︑この枠にたえずつきあたり︑周期的な危機に見舞われざるをえないのである︒
﹁先進的﹂な資本主義諸国では︑それぞれ重要な産業部門に少数の独占的大資本が形成されてこれを支配してお
り︑独占的な大銀行と結合し﹁癒着﹂して︑ほとんどすべての産業部門のみならず︑政治︑文化︑教育︑イデオロギ
ー︑その他あらゆる国民生活分野を完全に支配し︑文字通り金融寡一環制が確立されている︒独占資本は︑その支配す
る産業部門では︑自由競争を排除し︑独占的組織をつくり︑その生産を計画的に調整し︑独占価格を強制して独占利
潤を取得するために︑﹁計画的﹂生産をおこなうが︑しかし︑
これ
は︑
国民経済全体としての生産の無政府性を除去
するものでなく︑かえって︑独占の支配しない諸部門とのあいだの不均衡・乳擦を増大させ︑中小資本および独立生
産者にたいする圧力強化と労働者の搾取強化とは︑資本主義的生産の諸矛盾を激化させ︑周期的過剰生産恐慌はます
ます強烈なものとならざるをえない︒﹁先進的﹂資本主義諸国では︑金融寡頭制そのもののもつ諸矛盾・諸執喋およ
び恐慌の危機に対処するために︑必然的に国家権力が独占に奉仕する強力機関として生産の分野にまで進出し︑国家
独占資本主義の体制をとることをよぎなくされているが︑この国家の生産への直接の介入とて︑激化する諸矛盾を擾
和しうるものではない︒それは︑賃銀労働者階級およびその他の勤労人民大衆にたいする独占リ金融資本の直接の︑
むきだしの搾取・収奪に代わって︑国家という︑あたかも国民全体の利益を保障するかのごとき外観をもっ強力機構
を通じて︑いわば間接に︑回附蔽された形で︑だが︑もっとも確実に︑しかも勤労人民大衆の目をごまかし︑その反援
‑抵抗をひきおこす恐れのもっとも少ない︑巧妙なやり方で︑勤労人民大衆をぎり︑ぎりまで搾取・収奪するための︑
控史的に必然的な形態であるにすぎない︒
資本主義社会では︑資本が利潤追求のために生産した社会的必要生産物は︑すべて資本の私的取得に属する︒
﹁ 先
進的﹂資本主義諸国では︑その総生産物の支配的部分は︑すべて独占資本の私的に取得するところである︒労働者
は︑かれら自身の結合労働が生みだしたものであるにもかかわらず︑生産物の取得から排除される︒つまり︑生産物
の取得を決定するものは︑本来的私的所有H独立小商品生産の場合には労働であったが︑ここでは︑まさに転倒した
つまり労働しないことHたんなる所有になり︑労働は取得からおしのけられることになっている︒そして︑労おμ
こ ︑
7l
働者は︑資本家H所有者からのさまざまな口実で切り下げられた﹁労働賃銀﹂をもって︑資本家が独占的に取得する
総生産物のなかから︑ほんのわずかの生活手段を﹁買いもどす﹂ことが│iそれも︑資本が満足すべき利潤を首尾よ
く手に入れる場合にかざって││・できるだけである︑しかも︑労働者自身の労働の生産力が増進すればするほど︑し
たがって資本の取得する総生産物量日富が増大すればするほど︑かれらの買いもどしうる部分は相対的に
1 1
そして
またしばしば絶対的にむ││縮小するのが法別である︒﹁賃銀﹂という言葉は︑労働力u
商品の販売価格であるにも
かかわらず︑まるで働いただけすべての労働が十分に支払われたという意味︑つまり﹁労働の報酬﹂という意味をも
って︑剰余価値がロハで搾取されているという事実をまんまとごまかし︑﹁合理化﹂するものとなっている︒資本に
とい
う形
態と
︑
よるますます大量の剰余価値の搾取という︑資本主義社会の根本的事態を隠蔽し﹁合理化﹂するものは︑この﹁賃銀﹂
まったく偽臨的な仮象
l !
見せかけである︒とのいまひとつは︑﹁自由︑平等︑民主主義﹂という︑
占川
は︑
のちにふれようQ
資本主義社会における私的資本による︑私的利潤追求を根本的目的および動機とする私的生産を︑││他の歴史的
諸社会の生産に対立して││﹄きわだって特徴ゃつけているものは︑つぎの二つである︒そのひとつは︑資本の生産する
私的生産物の供給によってそれにたいする社会的需要が決定されるということ︑つまり︑勤労人民大衆は︑資本にと
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
九
資本主義・共産主義・社会主義・過渡期
。
って満足すべき利潤を保証する私的生産物H
商品
を︑
いやおうなしに買わされ︑それを消費して生活しなければなら
ないということ︑したがって︑労働者は︑商品の生産において搾取され︑必要商品の購買において収奪をうけ︑しか
も資本の命ずる生産物u商品で労働力の維持日再生産を︑つまり︑資本にとっての唯一の搾取材料を再生産せざるを
えない︑ということである︒商品の社会的使用価値は︑資本の取得する利潤がこれを決定するQ健全な人間生活を損
傷し破壊する物でも︑資本が儲かればいくらでもつくって売り出すし︑儲からなければいかに緊切な必要品といえど
もつくらない︒人を傷け殺す薬品や食品類が大々的に売り出される︒人間の野性化︑無知︑奴隷状態を促進・強化す
る映画︑小説︑漫画︑玩具から学校等にいたるまで︑商品として大量に生産され売り出される︑等々︒数えあげれば
きりはなく︑むしろ︑正常な人間生活を保証する社会的使用価値をもっ生産物リ商品││あるいは施設︑機関までも
ーーーは例外的であるとさえいえるのである︒こうした︑まさに転倒した性格︑動物社会にも見られない浅ましいかぎ
りの現象が確実に支配しているのは︑かならず﹁先進的﹂資本主義国である︒第二にあげられるのは︑勤労人民大衆
の生活にとって絶対に欠くことのできない必需品が︑ひとつのこらず︑すべて独占資本の握るところとなっていて︑
それが独占資本にとってこたえられない独占利潤の汲めどもつきぬ源泉になっている︑
は︑﹁自由︑平等︑民主主義﹂という︑いつわりの看板も︑経済的強制による収奪の横行の前に︑色あせたものとな
ってしまう︒独占の命ずる高い価格を差し出さない者にたいしては︑まことに体裁のよい﹁不作為﹂の脅迫がまかり ということである︒ことで
とおるのであるol‑‑高い電力料金を払いたくない者は︑ロlソグでもつけるがいい︑吊りあげられた運賃を払えな
い者は︑何キロでも歩くがいい︑などなどである︒そして︑このような︑こたえられない独占利潤を確実に保証する
合法的脅唱が公然とおこなわれ︑その所期の目的がもっともよく達成されているのは︑ほかならぬ﹁先進的﹂資本主
義諸国なのである︒このようにして︑以上二つの︑資本主義社会にとってのきわだった特徴が国民経済のあらゆる分
野にわたってすみずみまで︑そしてまた︑そのひとつひとつがまことに美事な程度にまで完成されて︑独占日金融資
本の巨額利潤が保証されているのが︑まさに﹁先進的﹂資本主義諸国なのである︒
政治的側面
資本家階級と賃銀労働者階級との敵対的階級対立を基本とする資本主義社会は︑国家権力なくしては存続しえな
ぃ︒そして︑国家権力を掌握する支配階級は︑かならず資本家階級である︒
一八
八
0
年代までの資本主義諸国においては︑労働者階級からの剰余価値搾取を基盤として資本家階級総体の共同支配がおこなわれ︑そこでの国家権力は︑
特定の資本家階層に従属目奉仕するものではなく︑それは相対的独立性を保ち︑
﹁廉
価な
政府
﹂
として総資本家階級
に従属u奉仕するものとなっていたが︑十九世紀末から二十世紀初めにかけて独占資本の支配が現われるにいたって
事態は大きく変化をとげるにいたった︒資本家階級総体の共同支配は崩れて︑独占"金融資本の支配する体制︑すな
わち金融寡頭制があらわれ︑国家権力は︑独占"金融資本にもっぱら従属し奉仕するものとなり︑﹁廉価な政府﹂に
代わって︑賃銀労働者階級からの剰余価値のみならず︑その他の独立小商品生産者層︑中小資本家階層からのさまざ
まの形での特別利潤︑および横民地・従属諸国からの超過利潤︑等々といった︑金融寡頭制の強大な物質的基盤をば
確保し拡大するために必要な強力機構
i│
常備事︑警察︑官僚制度︑等々ーーーは空前の整備・拡大・強化をとげ︑こ
の強力機構の維持・拡大再生産のための負担はすべて勤労人民大衆の肩に負わされることになる︒
ここでは︑その政治形態のいかんを問わず︑立憲君主制であろうと︑民主共和制であろうと︑すべてもれなく︑ブ
ルジョアジーの独裁が確立されている︒
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
資本主義・共産主義・社会主義・過渡期
私的所有という基本的生産関係に規定されて︑商品の法則︑貨幣の法則︑資本の法則がつねに鉄の必然性をもって
貫く資本主義諸国では︑貨幣と資本とが全能であり︑人聞はこれらによって完全に支配され︑人間そのものはなんら
の価値をもたない︒一
OO
円しか所有しない人間は︑たとえかれがどんなにすぐれた資質をもっていようとも︑一00
円分の生活物資しか与えられない︒金がなければ︑かれは︑日の当る場所も︑満足な空間すらも︑保証されないので
ある︒ところが︑これに反して︑一
OO
︑000
︑
000
円の金を握っている人聞は︑たとえかれがどんなにずるが
しこく法網をくぐるのが
h 7 まい奴であってもーーーというのは︑善良な人間は︑どんなに逆立ちしても︑一生かかって
一
OO
︑0 0
0
︑0 0
円を握ることはできるはずがないのだから︑ーー一
OO
円をもっている人間の一︑0
000
︑
0 0
0
倍の生活物資︑生産手段および日光と空間を支配することができるのであるそして︑このような︑貨幣と資Q本の全能を不動のものとして保証しているのが︑﹁自由﹂であり︑﹁平等﹂であり︑﹁民主主義﹂である︒
つま
り︑
、干
ー
れらは︑人間についての真の﹁自由﹂︑﹁平等﹂︑﹁民主主義﹂ではないのであって︑まさしく︑貨幣と資本がその価値
に応じてなんでも││人間自身をもーーー買えるという﹁自由﹂であり︑同じ価値をもっ貨幣と貨幣との聞の﹁平等﹂
であり﹁民主主義﹂なのである︒それは︑貨幣と資本が︑人間の生き死にを左右する﹁自由﹂でしかない︒そして︑
﹁先進的﹂資本主義国ほど︑まともな人間にとって﹁飢える自由﹂が保証されているところはない︒こうした当然の
事実がその目に入らなかったりわからなかったりするような手合は︑貨幣と資本の全能を﹁自由﹂にすることのでき
( I )
る者か︑さもなければ︑その全能を美化してそれからのおこぼれにあずかろうという︑さもしい人間だけである︒
(1
﹀それゆえ︑第二次大戦後の世界政治情勢の発展を口実にして︑﹁資本主義は変わった︒いまや民主主義の道によって社会主義に到達すべきときだ﹂などと説く﹁学者﹂は︑もしその者が﹁マルクス主義者﹂と自称するならば︑かれは︑確実にフル
シチヨフと同じ鉄面皮な裏切者日修正主義者であるか︑さもなければブルジョア体制の美化にいそしむ御用学者︑つまりブル
ジョア的﹁マルクス主義者﹂である︒ブルジョアジーの独裁は︑貨幣と資本の独裁以外のなにものでもなく︑それは︑まさに
資本主義的私的所有によって規定され貫徹するところの法則にほかならない︒そして︑商品・貨幣・資本の法則の貫徹するか
ぎり︑つねに﹁自由︑平等︑民主主義﹂の看板が必要である︒これによって貨幣と資本の全能はもっともよく保証されるのであり︑これらを利用して金融寡頭制は︑﹁自由﹂に勤労大衆の﹁民主的﹂支持をかきあつめることができ︑被搾取・被抑圧人
民大衆にたいする支配体制を確保することがきわめて容易になるのである︒
右の点について︑﹁マルクス主義者﹂と称する﹁専門家﹂のあいだでも︑あやしげな﹁理論﹂を︑たとえば
﹁ ュ
i
ロ・コミュニズム﹂などという︑見かけだけりっぱな名前をつけて売り出している手合も少くないので︑すでにはや
くも色あせかけてきたこの﹁コミュニズム﹂論が︑マルクス・レlニンの明示する真のコミュニズムといかに無縁の 俗物的つくりものにすぎないかということを示すために︑まず︑数あるレ
lニンの叙述のなかからひとつだけ引いて
かかげてみよう︒
﹁実際︑もしわれわれが﹃資本論﹄から学びとった経済学やわれわれすべてが全幅的に立脚している階級闘争の学説
のイロハなりとも思いおこすなら︑闘争が現在のような規模︑現在のような範囲をとるまでに激化し︑全世界で社会 主義革命が日程にのぼっていることが明らかになり︑そのことがもっとも民主主義的な国々の諸事件によって実践的
に明らかにされているときに︑どんな民主主義一般を論じることができるであろうか︑どんな独立性を論じることが
できるであろうか︒そういうふうに考える人は︑││経済学の理論についていえば︑
‑ 1
マルクスの﹃資本論﹄の一
ページも理解できなかったことを︑一示すものである︒しかも︑現在われわれのあいだでは︑あらゆる国で︑例外なく
あらゆる社会主義者が︑このマルグスの﹃資本論﹄にかけて誓いをたてているのである︒
資本主義・共産主義・社会主義・過渡期
資本主義・共産主義・社会主義・過渡期
四
だが︑実際には︑この著作にかけて誓いをたてていながら︑
かれ
らは
︑
マルクスの﹃資本論﹄が道を示した主要な
闘争のまぎわまで近づいたときに︑この階級闘争から後退してしまい︑無階級的な︑あるいは超階級的な民主主義が
存在しうるかのように︑資本家がまだその所有を保っている場合でも︑現代社会における民主主義がブルジョア民主
主義以外のものに︑すなわち︑いつわりの︑うその民主主義的看板でかくされたブルジョア独裁以外のものになりう
るかのように︑考えているQまさにほかならぬこのドイツから︑つぎのような芦がわれわれのところまで聞こえてき
た︒ドイツではプロレタリアートの独裁は︑おそらく︑いやさっと︑民主主義の枠から出ることはないであろう︒民
主主義は今後とも実施されるであろう︑というのである︒まさにこのドイツでは︑カウツキーのように︑マルクス主
義の教師であると誇称してきた人々︑一八八九年から一九一四年まで第二インタナショナル全体の思想的代表者とな
ってきた人々がつぎのことを理解せずに︑民主主義の旗をかかげたのである︒それは︑資本家がその所有を保ってい
るかぎりは︑民主主義はブルジョアジーの独裁にたいする徹頭徹尾偽善的な覆いにすぎないということ︑また︑もし
この偽善的な覆いを破りすてないなら︑もしわれわれが︑マルクスがつねに教えたようなやり方で︑プロレタリアi
トの日常の闘争が教えてきたようなやり方で︑それぞれのストライキが︑労働組合闘争のそれぞれの激化が教えてき
たようなやり方で︑この問題を提起しないなら︑すなわち︑資本家がその所有を保っているかぎり︑あらゆる民主主
義はブルジョア独裁の偽善的な覆いにすぎないというように︑この問題を提起しないなら︑資本のくびきから労働を
解放する問題を真剣に解決することなどは問題になりえないということである︒普通選挙や全人民の意志や投票者の
平等についてのあらゆる言辞はまったくの欺臨であろう︒というのは︑搾取者と被搾取者とのあいだ︑資本の所有者
および有産者と現代の賃銀奴隷とのあいだには︑平等はありえないからである︒
もちろん︑ブルジョア民主主義は︑
ツア
lリズムや専制や君主制ゃ︑また封建制度のあらゆる遺物にくらべれば︑
歴史的に巨大な進歩である︒もちろん︑われわれはブルジョア民主主義を利用しなければならないであろうし︑そう
であるならばわれわれは︑全権力を目ざす労働者階級の闘争が日程にのぼらないうちは︑ブルジョア民主主義の諸形
態を利用することはわれわれの義務であるというふうに︑この問題を提起するであろう︒だが︑肝心なことは︑われ
われが国際的な規模で︑まさに闘争のこの決定的な時機に到達したということである︒ほかならぬ現在では︑問題は
つぎのように立てられている︒資木家は生産手段にたいする支配力を︑まず第一に生産用具にたいする所有を︑維持
できるであろうかどうかと︒だが︑このことは︑かれらが新しい戦争を準備していることを意味する︒帝国主義戦
争は︑資本主義的所有がこの諸国民の膳殺と結びついており︑抑えがたい力で︑たゆみなく︑この屠殺に導いたこと
を︑完全に明白に示した︒だが︑そうだとすれば︑全人民の意志の表明という意味での民主主義についてのあらゆる
言辞が歎騎であることは︑だれの目にも明瞭であり︑それらは︑資本家と金持が有産者の手になわ握られているその
出版物ゃ︑さらにその他のすべての政治的働きかけの手段を用いて︑勤労者のもっともおくれた層をだます特権にす
ぎないのである︒
問題はつぎのように︑もっぱらつぎのように立てられている︒憲法制定議会ゃ︑各種の投票ゃ︑民主主義ゃ︑その
他︑愚か者の目をくらますための同様のブルジョア的欺踊
ll
現在こういうものを鼻にかけ︑みせびらかすようなことができるのは︑徹頭徹屠︑全面的にマルクス主義の背教者︑社会主義の諮問教者となった人々だけである
ii
でつ
つ
みかくされたブルジョアジーの独裁か︑それとも︑世界のプロレタリアートのすぐれた指導者たちにたいしてもっと
も無自覚な分子をけしかけているブルジ習アジーを鉄腕で弾圧するためのプロレタリアートの独裁か︒すなわち︑大
資本主義・共産主義・社会主義・過渡期
一 五
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
一六
衆がこの問題を提起していることをはっきり見てとればとるほど︑現夜ますます狂気のようにプロレタリアートにた
いする必死の反抗を組織しているブルジョアジーを弾圧するための︑プロレタリアートの勝利か︑と﹂(全集第四版︑
第二
十八
巻︑
三九
一ー
一二
九三
ペー
ジ︑
訳四
四五
i四
四七
ペー
ジ︑
傍点
山本
﹀︒
ここに引用したのは︑ほんの一例にすぎないが︑このようにしていたるところでレiニンが強調している資本主義
国家の本質的特徴についての明確な指摘を参照するまでもなく︑資本主義国が︑先進国であろうと後進国であろう
と︑資本の支配する国家であり︑ひとつの例外もなくすべて資本家の独裁のもとにあることは︑自明であるといって
よい︒たとえ︑社会主義を看板とする﹁社会主議﹂党が政権の座にあろうと︑資本主義的私的所有が維持され貨幣と
資本の力が保証されているかぎり︑その政府は︑ブルジョア政府とまったく同じ性格のものとならざるをえないこと
は︑第二次大戦後の資本主義諸国における﹁社会主義的﹂政権の実例がこれを疑う余地なく実証している︒
と こ ろ
が︑こうした理論的・歴史的教訓にもかかわらず︑鉄面皮な修正主義者フルシチョフがソ連邦最優先共産主義到達主
義のために﹁世界平和革命﹂論というまやかしの主張をふりまいたのに釣られて︑わが国の一部のえせ﹁マルクス主
義者﹂たちは︑その本性をまるだしにして︑たちまち﹁先進国革命﹂などという︑あやしげな用語をひけらかして︑
フルシチョフ修正主義の忠実な旗ふりの役を演ずることになったものである︒そこで︑つぎに︑この﹁先進国革命﹂
というもっともらしい用語の内容を︑すこしく検討しておくことにしよう︒
﹁先進国革命﹂という言葉は︑ちょっとみると︑たいへん結構なこと︑つまり︑﹁先進国﹂は︑﹁後進国﹂とちがっ
て︑よりいっそう容易に︑よりいっそう確実に︑そしてきわめて短期間のうちに︑社会主義への変革u移行をおこな
うことができるのだ︑ということを示しているようである︒そして︑この用語を編みだした連中も︑これをひろめて
いる連中も︑おそらくみな︑そうした意味をもつものとしでっかい︑ひろめているのである︒だが︑はたして︑そう
いうたいへん結構なことが︑連中の頭の中でではなく︑世界史の現実の中で生じうるかどうか?ーーその正体は︑こ
れに少々の理論的吟味を加えることで︑簡単にあきらかとなるのである︒
まず︑問題なのは︑﹁先進国﹂という︑一見もっともらしい言葉である︒いったい︑﹁先進国﹂とは︑どういう国の
﹂とを指していっているのか?われわれは︑ブルジョア的見地から︑つまり俗物的観念をもってこの言葉をつかう
ことは許されない︒社会革命をただしく論ずることができるのは︑ひとりマルグス・レiニン主義の見地に立つ者だ
けである︒だからこの見地に即して︑正確にその内容をとらえることができなければならない︒
では
︑
マルクス・レIニン主義の見地からみて︑﹁先進国﹂
とは
︑ どういうことを意味するものであるか?
宇品
ず︑ここでは﹁革命﹂が︑正確にいえば社会主義革命が問題となっているのであるから︑そこにはすでに社会主義平
ければならない︒とすれば︑﹁先進国﹂ それは︑社会主義社会に変革"移行する以前の社会︑つまり︑資本主義社会でな
もっとも進んだ︑したがってもっとも高い段階にある資本主義国以外
とは
︑
命をなしとげた国はふくまれない︒
のものではありえない︒もっとも進んだ資本主義国とは︑資本主義的生産がもっとも高い段階にまで発展している園︑
つまり独占資本が幾多の重要な産業部門を支配し︑金融資本の経済的・政治的支配が確立している園︑金融寡頭制の
完援な支配下におかれた国にほかならない︒資本主義的生産は︑それ以外の発展法則を知らないし︑またこのこと
は︑理論的にも歴史的にも動かしがたく実証されているところである︒資本主義的生産がもっとも進んだ︑もっとも
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
七
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
/1
、
高い段階では︑当然のことながら︑独占u金融資本の取得する利潤は︑そのにおいても︑その質ーーというのは︑
それの源泉の性質のちがいを指していったばあいであるが︑111においても︑空前の規模に達する︒それには︑賃銀
労働者階級から直接・間接!ーーというのは︑中小資本の搾取した剰余価値のうちの相当部分の横奪によるものがある
から
il
搾取する大量の剰余価値のほかに︑合法的脅迫による巨額の独占的利潤︑国債・有価証券の発行による特別利潤︑国家権力による大量課税吸上げを通じての特別利潤︑軍需産業による大幅の特別利潤︑等々があるが︑さらに︑
国外から吸上げる大量の特別利潤がある︒資本主義的生産のもっとも進んだ資本主義国で︑その大量の商品を︑とり
わ
け﹁後進国﹂に輸出して︑その悶の市場の相当部分を支配し︑そこから超過利潤を汲上げることをしていない国
は︑ひとつもない︒また︑資本主義的生産のもコとも進んだ国で︑﹁後進国﹂に資本を輸出して巨額の利子または利
潤をまきあげることをしていないものはひとつもない︒
つま
り︑
新興諸国n﹁後進国﹂の勤労人民大衆からさまざま
な形態で特別超過利潤を吸いあげ︑それらの諸国の産業を破壊し︑崎型化させ︑その勤労人民大衆の生活を困窮にお
としいれていない国は︑ひとつもない︒こうして︑圏内および国外の勤労人民大衆から搾取・収奪する巨額の利潤を
その物質的基盤とする金融寡頭制は︑その基盤を確保し強化するために︑また他の﹁先進国﹂とのあいだで必然的に
ひきおこされる世界市場再分割のための闘争にそなえ︑あわせて︑利潤源泉である勤労人民大衆の叛乱を弾圧する必
要上︑必然的に強力機構を整備せざるをえないのであって︑軍隊・警察力はいよいよ拡大・強化され︑また必要な場
合には国際資本が︑つまりその後捕となっている帝国主義諸国が︑十分な軍事力を供給することになっている︒
経済的な意味での︑つまりその言葉の本来の意味での﹁先進国﹂とは︑右のような資本主義的生産のもっとも進ん
だ︑もっとも高い段階に発展した資本主義国以外のものではありえない︒それは︑レiニンがいみじくも的確に規定
しているように︑﹁死滅しつつある資本主義﹂国︑﹁社会主義革命の前夜﹂にある国︑資本主義的帝国主義国以外のな
にものでもないのである︒こうした﹁先進国﹂では︑法則的に﹁鞭と飴﹂が完全に整備されていて︑﹁民主主義的な
道を通じての社会主義革命﹂などというものは︑薬にしたくとも見当らないのである︒
経済的な意味での﹁先遣国﹂が社会主義革命にもっとも近い地点にありながら︑そのことが反って﹁平和的革命﹂
の道を閉ざしていることは︑その実状を一瞥しただけでも︑明白である︒だが︑
﹁先
進国
軍命
﹂
とやらを唱える連中
は︑こう言うかもしれない︒
1 1
いや︑﹁先進国﹂というのは︑経済的な意味で言っているのではない︒政治的な意
味で﹁先進的﹂な固と言っているのだ︑と︒いや︑たいへん結構である︒それならば︑事実がただちに説明してくれ
るはずである︒俗物的観念のつまった頭の中であれこれ妄想の産物をでっちあげることなどいっさい放りだして︑ま
ず︑とくと事実を見定めるがいい︒
革命
は︑
レーニンがつわ日頃さとしていたように︑お祭りではないのである︒勤労大衆にたいして︑物資があふれ
でてくるような︑幸せで平和な︑バラ色の共産主義社会を描いてみせれば︑それを求めて大衆が革命闘争にたちあが
る︑などといったようなものではけっしてない︒被抑圧・被搾取人民大衆が︑飢えるしかないような︑そして非人間
的な生活に苦しめられ︑もはや人間らしく生きていくためには起ちあがって支配階級を打倒する以外に道はないと確
信し
︑
一人のごとく団結して生死をかけた闘いに︑あらゆる犠牲をかえりみずに蹴起するとき︑しかも度重なる試み
が失敗したあとでいよいよ確固とした意識と組織をもって決然と起ちあがったとき︑ーーそのときがまさに真の革命
闘争なのである︒では︑これらの連中の言う﹁先進国﹂とは︑右のような意味での︑真実の革命にもっとも近い地点
に到達している国を指しているのか?これらの﹁先進国﹂では︑労働者階級をはじめとしてその他の被抑圧勤労人
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
九
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
二O
民大衆がはっきりと社会主義社会を念頭において︑それにむかつての戦闘的組織をととのえ︑これをいっそう強化
して︑誰か小ブル的妄想家が熱狂的に描き出しているように︑﹁一歩一歩と独占を追いつめ︑資本の権力をつぎつぎ
に剥ざとり︑貨幣の力を一掃して︑働く者︑たけがすべての権利を保証されるような︑社会﹂をめざして奮闘し︑その
ためにはどんな犠牲も首んじてはらうような覚悟と態勢がすでにできあがり︑明日にでも国会で社会主義社会成立の
大宣言が発布できるまでに﹁もっとも進んだ︑社会主義社会にもっとも接近した地点にまで進んだ﹂状態が︑すっか
り出来あがっている︑というのであるか
η
ー
ー
l
こんな聞いは︑出すだけでまさに物笑いのたねである︒まず
第一
に︑
ロシアでの一九
O
五年から一九O
七年にかけての革命闘争とか︑あるいは︑中国での抗日戦争以降の革命闘争とか︑もしくはそれらと同じような生死をかけた革命闘争をたたかいぬいた経験がすこしもなく︑むかしか
ら小ブル的生活にとっぷりとつかっているような者がもっている社会主義についての観念などは︑お話にならないほ
どふやけたもので︑﹁社会主義になったら︑もっと自由でもっと暮しが豊かに︑幸せになる﹂といった︑お粗末きわ
まるしろものでしかない︒ところで︑肝心の労働者階級についてみれば︑いったい︑どこに強力な革命的労働者組織
が整備されているというのであるか?そこで整備されているのは︑労働貴族層がひきまわしている労資協調の御用
組合が多数であり︑多少とも労働貴族の支配を免れている労働者組織にしても︑もっぱら労働者の地位・待遇の改善
というような︑防衛闘争に追われている有様である︒これらの
﹁先
進国
﹂
での勤労大衆の政治意識がどれだけ高い
か││いや︑実際は︑
どれ
だけ
低い
か︑
であ
る
ii
は︑これらの﹁先進国﹂の政治的・経済的支配のもとにおかれ
ている﹁後進国﹂で民族闘争"解放闘争のために奮闘している人々のそれと並べてみるだけで︑
命的意識など言うにおよばず︑日常的な政治意識が︑平均的にみてすら︑いかに低劣なものであるかということは︑ 一目瞭然である︒革
どの﹁先進国﹂においても︑資本主義絶対護持の保守政党がつねに過半数の票を確保していること︑勤労大衆の聞で
も︑これらの保守党が確固たる地盤をもっているという事実ひとつをとって見ても︑明らかである︒
ところで︑フランス大革命およびパリ・コミュ!ンの輝かしい歴史をもっフランスや︑名誉革命およびチャl
ティ
スト運動の経験をもっイギリス︑第一次大戦後社会主義革命に起ちあがったドイツなどについて︑﹁先進国﹂という︑
名誉ある歴史的││つまり現在ではなく︑過去について
11
1称号をあたえることは︑一応根拠あるものといえよう︒
だが︑この日本については︑残念ながら︑いかなる意味においても︑﹁先進的﹂要素は︑ひとかけらすら存在しない︒
勤労人民大衆の政治的意識の平均水準は︑﹁先進国﹂のみならず︑﹁後進国﹂をもふくめて︑世界中でもっとも低劣な
ものとしか︑いいようのないものである︒社会主義などというのは︑言うもおこがましいほどである︒そもそも︑こ
の国には︑社会のため︑公共のためという︑初歩的な社会的観念はまったく定着しておらず︑上から下まで︑社会の
テソ
利益をふみにじり他人に迷惑をかけようともいっさいかまわず︑もっぱら私利私欲を追求して括として恥じないとい
ぅ︑まさに動物以下的利己主義が強固にしみついているのである︒破廉恥罪を犯して平気な元首相にたいしても︑地
元に金をもってくる親分だからといってよろこんで票をいれる勤労大衆である︒この国で税金を喰い尽す穀つぶし議
員がいまなお圧倒的多数を占めているのは︑投票有権者層の聞に根強い利己的観念の支配と社会的関心の完全な欠如
があるからである︒金儲けのためには︑自然を破壊し人間生活を破壊する新幹線︑高速道路︑道路︑橋梁︑原子力発
電 所
等々の建設に一も二もなく賛成し︑公害企業を誘致し︑労働組合も公害を黙認し︑会社とグルになって私利を
はかる浅ましき︒どんな社会的非行も︑大っぴらに﹁合法的﹂にまかりとおるこの国︒法律にひっかからないかぎ
り︑他人に社会にどんな危害を及ぼすことになろうが︑平気で私利を追求する大多数の企業と個人︑隣人がどんなに
資本主義・共産主義・社会主義・過渡期
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
ひどい暴力行為を=つけても︑ロ出しひとつせず︑見て見ぬふりをし︑かかわりあったら自分の損だと知らん顔をし︑
一円でも自分のふところに入ってくる話なら︑どんなことにも加担しかねないこの度しがたい根性︑民主主義どころ
ではない前期的天皇制の温存にありがた演を流す相当数の勤労大衆の精神構造︑等々︒ーーいったい︑このような︑
動物以下的としか言いようのない︑反社会的利己主義の支配するこの国のどの階層が︑社会主義について明確な意識
をもち︑社会主義を実現するのに最低必.安限度の組織をもっているというのであるか?
日本のようにもっとも後れた低劣水準の﹁先進国﹂はいうまでもないが︑
アメ
リカ
︑
イギ
リス
︑
フ一
フン
ス︑
ド イ
ツのような本格的な﹁先進国﹂においてさえ︑そこでの主体的勢力となるべき労働者階級そのものが︑いまだに社会
主義革命を遂行する主体としての意識も組織も整備していないばかりか︑むしろ︑これと相反する傾向を強めつつあ
るこ
と︑
つま
り︑
﹁先
進国
革命
﹂
などというものは︑まさに固に描いた餅にすぎず︑しかも真剣な革命闘争に向けて
の準備を鈍らすという意味でそれがもっとも悪質・有害な空文句にすぎないということは︑つぎのニつの事実を見た
だけで︑容易に認められるのである︒
付︑これらの寸先進的﹂帝国主義諸国が︑アフリカ︑中南米等で困難な民族独立"解放闘争に起ち上っている﹁後
進国﹂諸民族にたいして︑これを圧殺するために兇暴な武力干渉をおこない︑これらの国の山野を解放戦士の血で赤
く染めていたとき︑どの問の強大な労働者組織もひとつとしてこの武力干渉を阻止するための決然たる実力闘争に訴
えることをあえてしなかったばかりでなく︑なんと恥ずべきことに︑これらの武力干渉を容認し︑あまつさえ︑これ
らの﹁後進国﹂の資源を自国の独占M金融資本が支配してここから巨額の利潤を吸いあげることを認め︑支持してい
るという︑支配的事実︒この点においても︑日本は﹁もっとも低劣﹂との名に恥じないのであって︑たとえば︑資本
が私的利益を追求して国連決議をふみにじり南ア連邦と商品取引を依然として鉄面皮に継続していようと︑あるいは
また︑南朝鮮・台湾に資本輸出がおこなわれ現地勤労人民大衆の搾取・収奪がすすめられていようと︑いまだかつて
これらにたいする強力・有効な阻止運動が企てられたためしは︑
一度
もな
いの
であ
る︒
口︑どの﹁先進的﹂帝国主義諸国においても︑有力な労働組合組織は必ずすべて本国人の熟練労働者層のみを結集
する排他的組織であり︑低賃銀・不熟練労働者や﹁後進国﹂出身の下層労働者層は︑完全にこれらの特権的組織から
しめだされており︑しかも︑前者の高賃銀を後者の低賃銀が支えているばかりでなく︑後者が典型的な予備軍として
前者の完全な就業を保証するものとなっている︑という法則的事実︒
﹁後
進国
﹂
の被抑圧民族にたいする飽くことの
ない搾取・収奪・屠殺に加担したり︑これを黙認したりしているような労働者農民の組織と意識︑本国人であると
﹁後進国﹂出身であるとを間わず︑強力な組織に加入を許されない広範な不熟練・下層労働者にたいして手をさしの
べるどころか︑その低劣賃銀と失業苦をまさに踏台として︑その特権的地位を確保し︑もっぱら自己の物質的利義向
上に奮闘している公認の大規模労働組織の支配的地位と︑その徹底した改良主義的体質︑││こうした組織と意識が︑
麻雀︑ゴルフ︑待合﹁政治﹂︑温泉﹁組合大会﹂︑競輪︑競馬︑マイカー︑金儲けスポーツ︑等々と︑揮然一体をなした
ブルジョア・イデオロギーの支配的流行のもとにおかれたままに放置されているとき︑いったい︑それらのどこに︑
真の社会主義への志向がすこしでも見出されるというのかげ真に革命的な意識と組織とをつくりあげるためにはこ
うしたブルジョア的および小ブル的意識をうちゃぶり︑日和見主義的組織を革命的なものにつくりかえるために奮闘
し︑勤労人民大衆の革命的な意識と組織とを刻苦して築きあげていかなければならないのに︑小ブル的利己心につけ
こんで﹁平和と民主主義﹂とによって事なく﹁先進国革命﹂が達成されるなどと宣伝してまわっているような手合
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
二四
は︑その当人が意識するとしないとにかかわりなく︑﹁先進国﹂"帝国主義国の
﹁資
本家
手代
﹂
たる労働貴族の志向
を代弁する以外のなにものでもなく︑もっとも悪質な︑その意味で社会主義革命に敵対するもっとも﹁先進的﹂な裏
切者でしかないこと︑││このことは︑今日すでにすっかり明るみに出ているのであるが︑なお時間の経過がますま
すそのこと会はっきりと実証しないではおかないのである︒
資本主義社会のつぎにとりあげられるのは︑さきにもふれたように︑共産主義社会である︒しかし︑共産主義社会
についての考祭にはいるまえに︑社会主義という言葉について注釈を加えておくことが適当でもあり必要でもある
と︑わたくしは考える︒というのは︑社会主義という言葉は︑共産主義という言葉とならべて︑いろいろな意味にお
いでっかわれており︑きわめてまぎらわしいものがあるからであるQ
ある個人の主義・主張もしくは思想体系をあらわすものとしての主義ではなく︑歴史的なひとつの社会体制を示す
ものとしての社会主義という言葉は︑本来共産主義とまったく同じものを指していて︑両者のあいだに差異はないの
マルクスが﹃ゴlタ綱領批判﹄のなかで﹁資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会﹂とである︒しかし︑
﹁共産主義のより高度の段階﹂とを区別したことに関連して︑レiニンが﹁社会主義と共産主義との科学上の差具﹂を
明確にし︑社会主義という言葉を共産主義社会の﹁第一﹂段階もしくは低い段階を意味するものとし︑共産主義をその
より高度な段階を意味するものとした
(た
とえ
ば︑
全集
第四
版︑
第二
十五
巻︑
四四
二ペ
ージ
︑訳
五
O八l五O
九ペ
ージ
を参
照
せよ)ことによって︑今日では︑このレlニンによる科学的区別が一般に認められるところとなっている︒ところで︑
レlニンも︑共産主義社会の低い段階︑つまり社会主義社会について︑たとえば︑
﹁生産手段が共有財産になっているのであるから︑これが完全な共産主義でないことを忘れなければ︑
﹃共
産主
義﹄
とい
う言
葉は
︑
この
場合
にも
つか
つて
さし
っか
えな
い︒
﹂(
前出
︑第
二十
五巻
︑四
四一
一ペ
ージ
︑訳
五Q
九ペ
ージ
︑傍
点
1レl
ン
¥ J
と述べているように︑ぞれが﹁資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会﹂であっても︑その低い段階の社
会主義社会においては︑全生産手段は労働者全体日総社会の所有に属し︑社会の成員はすべて同じ労働者であって曙
級対立はなく︑総生産物は労働者全体日総社会の取得するところであり︑その意味においてそれは社会主義の名に完
全に合致した内容をもっている社会だということができる︒だが︑﹁資本主義社会から生まれたばかりの﹂とはいって
も︑生産手段の社会的所有と階級対立の麗絶とを完全に実現したこの社会主義社会に到達することは︑けっして容易
ではなく︑きわめて長い歴史的時間と数えきれないぽど複雑な迂余曲折とが必要である︒このように考えてくると︑
そこに当然︑ひとつの問題が生じてくることに気づかざるをえない︒それは︑この低い段階の共産主義社会である社
会主義社会に到達する以前の社会︑ただしすでにブルジョアジーの支配を打倒してプロレタリアートが国家権力を掌
握している社会は︑どのように名づけるべきか︑という問題である︒たとえば︑一九一七年の十月社会主義革命によ
って生まれたばかりのロシア︑そして一九一八年から一九一ニ
O
年にいたるまでのロシアについて︑それは社会主義社会であると言うことができるのか︑それとも︑社会主義社会と名づけるべきではなく︑社会主義に到達する以前の社
会︑社会主義Ahの過渡の社会と際ぶべきである︑と言わなければならないのか?
この問題にたいするわたくしの考えを︑
っ︑
ぎに
簡単
に述
べて
おこ
う︒
資本
主義
・共
産主
義・
社会
主義
・過
渡期
五
資本主義・共産主義・社会主義・過渡期
一 一 六
たと
えば
︑
一九一七年の十月社会主義革命後二年たった一九一九年のロシアには︑いまだにブルジョアも地主も居
り︑かれらは相当の額に上る貨幣と生産手段を私有し︑小商品生産者である広範な農民の中にも闇商売に精を出す富
農や中農も少くなかったのであって︑とうてい共産主義の第一段階としての実質をそなえるところではなかった︒だ
から︑当時のロシアを︑その実質的内容に即して規定するときには︑それは社会主義社会であるとすることはできな
ぃ︒それは︑明らかに社会主義への過渡の段階にあるもの︑または社会主義に向って運動しつつある社会として規定
されなければならない︒だが︑他国︑世界史的観点に立って見た場合︑資本主義社会のつぎに生れてくる社会を︑よ
り高度の世界史的段階にある社会としてこれをとらえかっ規定することが必要であるときには︑この社会をどのよう
に規定することが正しいであろうか?ぞれは︑社会主義への過渡の段階の社会であると規定することができるであ
ろ︑
っか
?
この場合には︑これをそのように規定することは適当ではないし︑むしろ誤りというべきであろう︒なぜならば︑
世界史的観点から見るときには︑この社会主義への過渡にある社会と社会主義社会との区別は問題でなくなってしま
うからである︒一般的にいって︑ひとつの歴史的社会からつぎのより高い段階の歴史的社会に移行口発展する場合に
は︑つねにその聞に︑長かれ短かれ︑過渡の段階が介在するのは必然である︒どのような過程を経てより高い段階の
社会に移行するかという︑その移行日発展の仕方︑その内容が問題となっているときには︑その過渡の諸段階を正確
にとらえて︑それらの聞の区別および移行の過程を詳細に吟味しなければならない︒だが︑世界史的観点に立って︑
それぞれの歴史的社会の本質的特徴をとらえてそれらを区別することが問題であるときには︑過渡の諸段階をいちい
ち考患に入れることは不適当であり︑無用の混乱をひきおこすだけである︒