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新島襄とその「女装説」再論 : 竹内・小枝両論を 読んで

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新島襄とその「女装説」再論 : 竹内・小枝両論を 読んで

著者 関口 徹

雑誌名 同志社談叢

号 37

ページ 25‑52

発行年 2017‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000204

(2)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―二五

新島襄とその「女装説」再論

―竹内・小枝両論を読んで― 関 口   徹

一、は   じ   め   に

一八七五年(明治八年)、同志社大学の前身である官許同志社英学校を創立した新島襄(以下、引用以外は新島と略す)は、一八六四年七月一七日(元治元年六月一四日)の真夜中に、函館港から日本を脱出した。「日本人異国江遣し申す間敷候。若忍び候て乗渡る者之有るに於ては、其者は死罪、其舟并船主共ニとめ置、言上仕るべき事 ((

(」という徳川幕府の鎖国令に背いての行為である。この脱国の折、新島は女装をしていたという小枝弘和氏の一文が『イマ*イチ』という誌上に掲載されたことで、『同志社談叢』(以下、『談叢』と略す)に相次いで二論文が寄せられた。一つは竹内力雄氏、第三五号の「新島襄の扮装  ―女装説と箱館の環境―」であり、もう一つは小枝氏、自説の撤回と謝罪文が載る第三六号の「新島襄の密出国時の服装について」である。新島が自らの生命を懸けて脱国するにあたって、女装をしていたという見解(新島「女装説」)は、同志社創立者にかかわるきわめて重要な問題であるにもかかわらず、同志社大学をはじめ関係者から活字化された意見は極めて少ない。浅学にして右記の竹内氏と小枝氏の両論以外には見当たらないのであるが、その両者の意見なら

(3)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―二六

びに対応はまったくかみ合っていないように見受けられる。さらに、問題の発端は『イマ*イチ』であるが、新島「女装説」を主張した小枝氏自身、この『イマ*イチ』に掲載された内容や、さらには問題の経緯、撤回の理由について、『談叢』三六号ではまったく触れていない。本文最初の行の一か所に『イマ*イチ』の誌名が出てくるだけである。今出川界隈の地域情報誌といえども、『イマ*イチ』はインターネット上で読むことができ、世界中に発信される情報誌でもある。新島および同志社に関心のある者、さらには教育界、宗教界に至るまで、世界中のどこでも誰にでも目に触れられる存在である。そこに掲載された内容は将来の研究者に資料(史料)として提供されていくものである。ご存知のようにインターネットの情報は拡散される。ゆえに新島「女装説」に対し、現在その対応をはっきりさせておかなければ、必ずや向後に憂いを残すことになると考える。まずは『イマ*イチ』について触れたい。

二、 『イマ*イチ』とは

『イマ*イチ』の第一号発刊は、溯ること一〇年前の二〇〇六年(平成一八年)一〇月一日である。その出版の経緯や環境などは第二号(二〇〇六年一一月)第一頁に次のように記されている。

『イマイチ』は「上京区、今出川地域でイチばん楽しい」をコンセプトにした無料地域情報冊子で、秋冬期に月刊で計三回(一〇月

一一月

一二月)発行します。これまで同志社大学の学生支援課が発行していた

(4)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―二七 「新室通信」から周辺地域の情報を盛り込んだものにリニューアルし、広告研究会が制作しています。これを見ると、当初は秋から冬にかけて三回の発刊のようであったが、翌年の四月

五月

六月にも発行され、合わせて年に六回を刊行する定期発行誌となった。この刊行月四

一〇

一一

一二は今日まで継続され、二〇一六年九月現在の最新号は、六月に発行された六〇号(通巻)である。この情報誌の第五五号(二〇一五年一〇月)が筆者の手元にあり、それによると判型はB五判、中綴じ、縦長、右開き使用。本文の頁数は各号インターネットによる判断で、本文一六頁が一~三

七~一一

一三~二八

三〇~四二の各号、同一二頁に折込みを付けたものが四~六の各号、同二〇頁が一二

二九

四三~五一

五三~六〇の各号である。五二号は、これを紹介するネット上には五四号のすべてが表示されているので、見ることができない。奥付によると、創刊号から六〇号まで、発行は同志社大学学生支援センター今出川校地学生支援課でおこない、編集は同志社大学広告研究会があたっている。この出版形態は一貫して継続され、今日まで及ぶ。内容は表紙に「イマデガワでイチバンの地域情報誌」、あるいは「同志社と今出川のためのフリーペー

『イマ*イチ』55号の表紙

(5)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―二八 パー」と謳っているように、上京区および今出川地域の歴史と文化と産業、そこに暮らす学生と市民の生活実態を毎号特集で取り上げ、地域生活者への情報を地図付きで載せている(四~六号、他)。さらに学内ホールで行われる催しや学外催事の案内、部活動の戦績と現状報告を載せ、大学の情報などを月間カレンダーにまとめて告知している。毎号魅力ある特集を組んで、学生ばかりでなく地域で生活する人々へ情報を提供している。思いつくままにいくつかを挙げると、酢を作る職人、香りを作り続ける職人、パンを作る職人などを取り上げ、和菓子店・食事処・飲み処を紹介し、「主婦の聖地すーぱーマーケット」(八号)を特集したり、今出川周辺の銭湯一六湯をマップ付き(二七号)で載せ、今でも湧き出る名水三井戸(二四号)を紹介している。出町商店街(一九

二〇号)や西新京極商店街(五九号)を取り扱い、「今月の今出川人」(一〇~一二号)、「今月の気になる人」(一六~一九号)など、その道の人々をインタビューや取材形式で取り上げている。このように見てくると、無料配布の『イマ*イチ』は単なる学内向けの情報誌ではなく、広く地域社会に溶け込んだ、同志社の学生と地域住民とのコミュニケーションを図った地域情報冊子ということがいえよう。学生と地域住民との交流を求めて「大学が町に出て行くこと」(七号七頁)を試みた「でまち家 ((

(」の誕生と相通じるところがある。大学が学内に留まらず地域社会に飛び込んでいき、大学の情報を地域に発信する動きは『イマ*イチ』も「でまち家」も同じ趣旨でつながっているといってよい。さらに『イマ*イチ』は、同志社大学の教職員をも巻き込む。情報の受け手となった学生と地域住民の双方に向け、「同志社大学に勤務されている教職員の方々がどのような研究をなさっているのか紹介していきます」(一一号一二頁)と、各号一人に一頁を充てている。一~三号に「教員リレーコラム」、四~六号に「リレーコラム」、

(6)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―二九 七~九号に「今出川散策」、一〇~一五号に「コラム

桜」がテレビ放映されている最中である。四三号一一頁のリード文には次のように記されている。 三号(二〇一三年一〇月)の「小枝調査員の駄弁放談」からなのである。時はまさにNHK大河ドラマ「八重の れてきた。しかし、一六号(二〇〇九年四月)以降は四二号(二〇一三年六月)まで中断され、復活するのは四

de

」ら出川さ載掲に的続継かと、号今創がるな異は題表刊

今号から始まりました「小枝調査員の駄弁放談」。同志社大学社史資料センターに所属する小枝調査員が、新島襄・新島八重・山本覚馬などのあまり知られていない同志社にまつわる歴史のこぼれ話を、ほっこりお伝えしていきます。皆様どうぞ気長にお付き合いください。

この小枝調査員の駄弁放談は、このあと四八号(二〇一四年六月)まで計六回、継続的に掲載された。各号の内容は、それぞれに表題がないので、筆者が仮見出し程度に付けてみると、四三号は「結婚前の八重と手芸品」、四四号は「八重にあてた襄の長い手紙」、四五号は「八重と茶道」、四六号は「襄の女装と八重の男装」、四七号は「襄の密出国」、最後の四八号は「同志社の徽章」、となろうか。山本覚馬については残念ながら触れずに終わっている。シリーズの最初に「気長にお付き合いください」と記されているところを見ると、六回・一年分というより、当初はもっと長く連載が企画され、覚馬も登場予定であったかと思われる。小枝調査員は、正式には同志社大学同志社社史資料センター社史資料調査員

((

(である。

(7)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三〇

三、 「実はこれは女装です

小枝氏は『イマ*イチ』四六号(二〇一四年四月)一一頁に、新島が函館脱出時に扮装した写真と、新島八重が弟山本三郎の形見の着物を身に着けた写真を提示しながら、「駄弁放談」を行っている。今回、掲載された頁全体をそのまま縮小して再録し(次頁参照)、文字は小さくて読みにくいので、筆者の方で改めて全文を載録した。

小枝調査員の駄弁放談最近、いろいろな人に話を伺う機会があるのですが、

が、にすまいてしを事仕るれ触料資の社志同々日は私 るほど!」と納得する機会がありました。

つ不思議に思っていたことに対し、自分なりに「な

疑しまいてっ持を問も枚ついていつに真写のた。

枚目は新島襄がアーモスト大学を卒業する時に撮影した写真です。そこに写る襄は

もう た」というとおりです。 した時の姿を再現しています。実はこれは女装です。のちに襄が「まるで異国の商船にむかう婦人のようだっ

6

年前に函館を密出国

枚は八重の

56

歳の時の写真です。これは、

過酷であるけれども人生を変えた重大な転機を迎えた時の姿を、何年も経た後に自らの肉体にその時の記憶 共通することは、二人とも現実世界には存在しないけれども、彼らの記憶には印象的かつ鮮明に、そして たものだなと思っていました。 て会津籠城戦に挑んだ時の姿を再現しています。明らかに男装です。二人とも実に変わった姿を後世に残し

((

年前戊辰戦争下に亡くなった弟・三郎の遺品を着用し

(8)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三一

「小枝調査員の駄弁放談」『イマ*イチ』46号

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新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三二

を投影し、「表現」しているということです。ここで私は、コスプレもまた自分をキャンバスにして、二次創作を「表現」していると教えてくれたある人の言葉を思い出しました。心の中の想いを自分に投影し、その姿を写真に残すのは、その対象は違えど、誰もが理解できる気持ちなのかとつくづく思いました。

小枝氏は、新島と八重が遺した写真について、「日々同志社の資料に触れる仕事をしてい」る同志社社史資料センターで長い間疑問に思ってきたことが、最近理解できるようになったという。新島の脱国時の写真(図一)を掲げて、小枝氏は、新島自身が自分を「まるで異国の商船にむかう婦人のようだった」といっていることを取り上げ、この写真は、新島が「婦人」という「心の中の想いを自分に投影し」その姿を写真にしたもので、「実はこれは女装です」とはっきり言いきっている。それは「自分をキャンバスにして、二次創作を〈表現 (5

(〉している」コスプレと同じ感覚で、「誰もが理解できる気持ちなのかとつくづく思いました」と、新島の函館脱出時は女装をしていたと結論付ける。妻八重の写真(図二)について、小枝氏は「弟・三郎の遺品を着用して会津籠城戦に挑んだ時の姿を再現」し、これは「明らかに男装です」と説明する。紋付袴を身にまとい、帯刀し、右手で銃身を握っている八重のこの姿は、誰が見ても男装と納得する。筆者もその一人であるが、

新島襄の脱国時の写真(図1)

函館脱出時の写真 B〔横〕

〈『新島研究』71号口絵より〉

(10)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三三 このことについては七章で触れることとする。

四、 「恰も商船に忍ひ通ふ婦人の有様なり

6

竹内力雄氏は、『イマ*イチ』四六号に載った小枝氏の新島「女装説」に対し、いち早く『談叢』三五号(二〇一五年三月)に、「新島襄の扮装  ―女装説と箱館の環境―」を寄せ、疑問と確認を迫った。同志社社史資料センターが関与している新島および同志社について、もう一つの専門誌『新島研究』、さらに、しばしば同様なテーマを採り上げる同志社校友会員向け情報誌『同志社タイムス』にも、「小枝調査員の駄弁放談」に対する言説は見当たらない。竹内氏以外に、同志社関係者および関連研究者からの活字化された検証は、寡聞にして見つけることができない。竹内氏はまず、数多くの関係資料(書籍)をあげ、小枝氏がいう「女装」の意味合いを実証する。当時の函館近辺では「女装」は売女に扮することを意味し、沖に停泊する船へ通う私娼の存在があったことを史料で示している。一方で函館に町役所から出された「觸書」では、「沖に滞留中の米船へは、(荷物揚げの)人夫以外は商用のためでも乗出す事は不可。違反者は入牢

((

(」させられたと紹介し、さらに「隠売女之義者御国禁…売女ニ近き成行致間敷候」とされ、露見した場合には「厳重ニ咎申付へきもの也 ((

(」と、強く取り締まりがなされていたことを記している。夜中の無灯火での往来は不可となっていたため、提灯を持たないと怪しまれたのであるという。竹内氏は「外国船への乗込んでの売女行為は箱館では許されていない事を勘案して宇之吉が、即ち、当時の箱

(11)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三四 館での隠れ売女取締の状況等をよく知る者として、新島に女装させ、脱国を助ける事は考えられない ((

(」と、函館の環境から結論付けている。ここで、新島の密出国について触れた史料を整理して、実際にどのように記録されているか、確認しておきたい。関連史料からの引用は一一点ばかり挙げられるので、後注に①~⑧ ((

(まで示したが、いわゆる武士の姿を変えて扮装した、脱出直前の新島自身による史料は、次の三点に絞られる。その番号を継承して表記すると、⑨

函館脱出之記」、⑩

函館脱出時の扮装写真」、⑪

明治三年四月二二日付弟双六宛書簡」、となる。それぞれは新島自身が絡む史料なので、「女装説」に対し明らかな判断が得られるはずである。まず史料

「 函館脱出之記」

(『新島襄全集』(以下、『全集』と略す)五巻、六九~七〇頁)は、その解題によると、新島自筆の原本は所在不明で、「義理の甥公義が筆写したものを……さらに、コンニャク版に写したものしか残っていない。したがって冒頭のイラストも、どこまで原図が忠実に模写されているかは確認のすべがない」という。しかし社史資料調査員の小枝氏は「資料の信憑性に疑問は残るものの」、そこに書かれている「引用文からもわかるように、この資料の内容は、新島の直筆出るとすれば、密出国の当日、もしくはこの日に限りなく近い日に書かれたもの (11

(」といえるとしている。このイラスト左上に「予塩田ト共ニ沢辺之家ヲ出る図 (11

(」と文字が添えられ、決行当日の夜、新島は「平民の服

装」をして、武家塩田虎尾の従者の形をとり、沢辺琢磨の家を出たことが分かる。

予、右之風体故、人決して怪まさると思へり予、塩田ト手を分ち、築島ニ於けるポルタの家の辺へ参り……宇之吉の部屋へ忍ひ入れり。……扨宇之吉と (

(-⑦

(12)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三五 半時程も縷々之談判をなし、人定後に於而、竊に裏口より荷物を負出て岸に繋ける小舟(箱楯にてはチッポト呼ふ)に乗移り、宇之吉揖をかき予は頬被りを為し臥居り、恰も商船に忍ひ通ふ婦人の有様なり前述の小枝氏が駄弁放談で取り上げて、「のちに襄が〈まるで異国の商船にむかう婦人のようだった〉というとおりです」という記述は、この史料の「恰も商船に忍ひ通ふ婦人の有様なり」を読んでのことである。しかし、この史料⑨から新島が「女装」をして海外へ脱出を図ったといえるであろうか。竹内氏はこの部分を、『談叢』三五号(五〇頁)で次のように説明している。「〈恰も商船に忍ひ通ふ婦人の有様なり〉は新島が港に泊す廻船への乗込み売女の事を知っていて、その時の心情や様子を〈恰も…〉と表したので」

ある。新島の関係史料のなかで「女装」という表現に結びつけられるのは、唯一、史料⑨の「竊に裏口より荷物を負出て岸に繋ける小舟……に乗移り、宇之吉揖をかき予は頬被りを為し臥居り、恰も商船に忍ひ通ふ婦人の有様なり」と記した、この部分にほかならない。ここは、宇之吉と新島の行動の所謂並列表記で、互いの動作の違いを明確にする表現をとっている。すなわち、宇之吉は楫(揖)で水を掻き、自分は頬被り (11

(をして座臥しており、その恰好が「恰も商船に忍ひ通ふ婦人」

予塩田ト共ニ沢辺之家ヲ出る図

〈『新島襄―その時代と生涯』p.19より〉

(13)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三六

のようであった、というのであって、決して新島自身が女装をしていたとは読みとれない。別の史料では、「波止場に立っていると、誰かが近付いてくる音がした。私は急いで舟に乗りこみ、舟底に平つくばって、私の持物の入っている荷物の一つであるようなふりをした。」と記している。決して新島自身が女装をしたという印象は浮かんでこないのである。実はこの時の扮装を新島自身が、はっきりと述べている史料が存在している。それは六章で触れたい。

五、 「予日本衣の

〔を〕

着し写真を取レリ

11

新島はアーモスト大学を卒業する(一八七〇年七月)にあたって、友人の学生から乞われたので、日本を脱出したときの服装を身につけて記念に写真を撮ることにした。もっともこの二年前の一〇月に新島は、トムソンというシリアの牧師が訪ねてきたとき、彼に日本の着物を着て見せたという記録が年譜(『全集』八巻、五五頁)にあるので、衣服の所持は周囲の人に知られていたと思われる。ボストンに上陸し、A

ハーディに生活の全般を世話していただいたお陰で、函館を脱出したままの姿が残されたのである。六年近くの期間、この写真にあるように頭の先から足元までの衣類を新島は保存していたのである。史料

「 函館脱出時の扮装写真」

が撮影された。こんにち二葉残され、二葉とも同時に『新島研究』七一号口絵に掲載されている。解説によるとそれぞれの名称は「函館脱出時の写真A〔正面〕」と、「函館脱出時の写真B〔横〕」とに区別している。撮影はどちらも一八七〇年(明治三年)三月で、写真A〔正面〕は「一八七〇年四月二二日付弟双六宛の手紙に同封されたものと思われる。不渉五洲都不帰の文字と新島襄の当時の号である敬幹の (

(-⑧

(14)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三七 署名がある。のちに堀真澄写真館により複写された写真が多くの人にくばられた。」と説明している。写真B〔横〕の説明は「Aの写真と対をなすアーモスト・カレッジ卒業前の写真である。

Good bye to Japan

の書き込みがあるが、誰に贈ったものかは不明」とされ、「A」のように複写されて多くの人に配られた様子はないようである。両者を見比べると、「A」の方が被写体の輪郭がはっきりしている。しかし、一方で「B」によって撮影年と写真館名が判明する。小枝氏が『イマ*イチ』四六号の「駄弁放談」で、「新島襄がアーモスト大学を卒業する時に撮影した写真です。そこに写る襄は六年前に函館を密出国した時の姿を再現しています。実はこれは女装です。」と示した写真はAではなく、函館脱出時の写真B〔横〕である(三章参照)。Bの写真は女装でAの写真は男装であるというのではなく、同時に撮影された両方の脱出時の写真に対して、社史資料調査員の小枝氏は「実はこれは女装です」と、『イマ*イチ』の読者である同志社の学生と地域住民に対し断言したのである。これに対し竹内氏は『談叢』三五号(三七頁)で、函館脱出時の写真A〔正面〕を載せ、「同志社の社史資料調査員の肩書を持つ小枝氏の〈女装〉とする断定である。その言や軽くないのである。」と語気を強めて指摘している。小枝氏は確かな根拠があっての断定なのであろうか。

函館脱出時の写真 A〔正面〕

〈『新島研究』71号口絵より〉

(15)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三八

六、 「街人の注目を避ん為使

デッチコゾヲ

童に変体し

11

新島が脱国にあたって腐心した点はいかにして目立たないようにするかであった。事前の準備として、「平民の服装をし、函館の通りを歩くときには目立たないように注意していた。当時武士階級のしるしとみなされていた長い刀はささなかった。頭髪もより簡単な恰好にした。……函館から突然姿を消したことで私が外国船に逃げ込んだのではないかという疑惑を役人たちがおこしたり、幕府の船が私を追跡したりしないために、私は家から呼び返されたのだというふりをした」のである。四章の史料⑨「函館脱出之記」では、脱出決行の夜、塩田とともに沢辺の家から出ていく姿を線画(イラスト)で描いているが、塩田の武士風に対して新島は下男風(従者)に描かれており、

予、右之風体故、人決して怪まさると思へり

と、主従で外出する姿が怪しまれないように苦心したのである。しかも、この図で塩田の後ろに付いて歩く新島の下男風の姿は、ひとからげの荷物を背負っている。その姿は前章の史料⑩「函館脱出時の扮装写真」とほゞ同じである。ほゞというのは、写真と線画では背負った荷物の大きさが異なること。写真では大小の刀に似せたものを左手で抱えているが、線画では両手は荷物を持つ方に使われている。線画の塩田は自身の刀を腰に差し、右手には鞘袋が握られている。その袋の中には新島の大小が包まれているはずで、鞘袋の先端が塩田の肩の上まで出ている。武士でない下男が太刀を腰に差しても、抱えても怪しまれるであろう。線画のように主従は沢辺の家を出、途中で別れたのである。別れたとき、武士の魂といわれる大小刀は新島の脇に抱えられたのであった。 (

(-⑦

(16)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―三九 したがって脱出時の新島の姿は、

予塩田ト共ニ沢辺之家ヲ出る図」と、

函館脱出時の扮装写真」は殆んど同一といってよく、誰が見ても、塩田と一緒に出ていく新島の姿は下男風(従者)の恰好であって、決して小枝氏が断定する「女装」ではない。小枝氏が写真に遺る新島を「女装」だというのなら、線画の下男風の従者姿の新島をも「女装」だといわねばならない。武家社会において武士が下女をお供にすることはなく、ましてや夜中に、下女に大きな荷物を背負わせて後ろにつかせるなど、武士の沽券にかかわることになる。男尊女卑の江戸時代、大小刀を抱えて売女に扮した「女装」をするという、武士たる者がするはずがない。小枝氏の脱国時新島「女装説」は、常識的にもあり得ないのである。史料

「 明治三年四月二二日付弟双六宛新島書簡」

(『全集』三巻、八一頁)を読むと、新島は函館脱出時の扮装写真をアーモストから日本に送るとき、自分の扮装について次のように書き記している。

一ヶ月以前に学生の所望ニより予日本衣の 〔を〕着し写真を取レり、是は予箱館を辞する節街人の注目を避ん為使 デッチコ童に変体し、夜半に埠頭へ忍ひ出て小舟を得亜船に乗移し節の形容なり。

新島は国禁を犯して函館を脱するときの姿を、はっきりと、漢字で「使童」と記し、わざわざ「デッチコゾヲ」と振仮名をふって、双六に伝えたのである。小枝氏が「実はこれは女装です」と、『イマ*イチ』上で提示した写真「B(横)」と

明治三年四月二二日付弟双六宛新島書簡」とは、一体となった史料である。「日々同志社の資料に触れる仕事を」され、専門的な社史資料調査員の小枝氏は、函館脱出時の扮装写真を採り上げる際に、そ

(17)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四〇 の写真について語った双六宛新島書簡を手にしなかったのであろうか。このことにつき、竹内氏は『談叢』三五号(五〇頁)で、「扮装そのものは、誰の目にも、新島本人のいう如く、丁稚・小僧の風体としか映らないのである。」函館脱出時の扮装写真や「函館脱出之記」に描かれた、予塩田ト共ニ沢辺之家ヲ出る図をみて、「これを〈女装〉とするには新島の資・史料を調査、研究する立場から、余程の根拠があっての事と推察している次第である」と指摘している。小枝氏は『談叢』三六号で、「私は〈函館脱出の (ママ(記〉の表現から〈女装〉という表現を使用した」と説明しているのみで、新島のいう「使童(デッチコゾヲ)に変体し」には触れていない。小枝氏の三六号は、竹内氏の三五号を読んでの執筆である。竹内氏が新島の姿を丁稚小僧と記述していることは認識していたはずである。にもかかわらず、新島が「予箱館を辞する節街人の注目を避ん為使童に変体し」といっていることを、どのようにとらえているのか述べていないことが、かみ合っていない大きな一つなのである。かみ合っていない二つ目。扮装そのものは、誰の目にも、新島本人のいう如く、丁稚小僧の風体としか映らないにもかかわらず、これを売女に扮した「女装」と主張するからには、「余程の根拠があっての事と推察」する。それは同志社社史資料調査員の肩書を持つ小枝氏ゆえに、なにか特別な未見の史料や根拠に基づくならば、その根拠や新発見の史料を示すことを求めているにもかかわらず、『談叢』三六号では何の根拠も史料も示されていない。自ら明言したことに対し、研究者として応じないことはありえないことである。新資料も根拠も何もなく「女装」と断定したということになる。応じない意図はなんであろうか。

(18)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四一

七、 「 コスプレもまた自分をキャンバスにして

11

かみ合っていない三つ目であるが、三章に戻って「小枝調査員の駄弁放談」を読むと、小枝氏は、新島の女装にしろ、八重の男装にしろ、「二人とも現実世界には存在しないけれども……心の中の想いを自分に投影し、その姿を写真に残」したのであって、前述のごとく、それは自分をキャンバスにして二次創作を「表現」している、コスプレ感覚に相通じるものであると述べている。八重の写真(図二)についても、襄亡きあと篤志看護婦として日清戦争に従軍した後に、五六歳にもなる八重がコスプレ感覚で男装したであろうか。彼女はこの撮影をすることによって、幕末の敗戦から新政府の廃藩に遭い、明治という激変した時代を振り返り、若くして内戦で失った二歳下の弟・三郎の遺品を着用して往時を忍び、追悼したのである。決して自ら男装したいという「心の中の想いを自分に投影し」たものではない。その証に写真の彼女の脇には、等身大にせまる大きさで、和歌「明日の夜は何国の誰かなかむらん  なれし御城に残す月影」を掲げているではないか。単なるコスプレ感覚で男装を試みるなら、このような背景はかえってじゃまになる。八重が今様のコスプレ感覚で撮影に臨んだのではないことは、誰の目にも明らかなのである。竹内氏は『談叢』三五号(五〇頁)で、新島と八

妻八重の写真(図2) 

〈『カメラが撮らえた新島八重・山本 覚馬・新島襄の幕末・明治』p.11より〉

(19)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四二 重の扮装を、小枝氏は「両者を一種のコスチューム・プレイとして、自己表現とみているようである。その真意及び、是非は措き、扮装当時両者共、自己表現として女装したり男装した訳ではないのはいう迄もない。」と、はっきりコスプレとは関係ないと強く主張しているにもかかわらず、三五号を読んでの三六号には、コスプレという言葉そのものが一か所も、一言も記されていないのである。小枝氏からの対応がまったくないのである。小枝氏はかみ合わせていないのである新島自らが「あれは女装だった」と発言しているならばともかく、自身は「使童(デッチコゾヲ)」と間違いなく表明している。アメリカからの父あて書簡に新島は、「此挙敢而君父を捐るニ非ず、且つ飲食栄華之ためにあらす、全く国家の為に寸力を竭さんと存し、中心燃るか如く遂に此挙に及ひ候」と記している。おのれの地位名誉、私利私欲で脱国したのではなく、日本を憂い国家のために、法を破って生命がけで函館を脱出したのである。伸るか反るかの重大局面と対峙している新島の姿を、売女に扮した「女装」をしていたと、事実でないことを同志社の学生たちに公言されてしまっているである。しかも新島が創立した同志社の職員である小枝氏から、創立者は「女装」したと決めつけ、こんにち流行りの漫画やアニメのキャラクターに変身するコスプレに相通じる感覚で、「心の中の想いを自分に投影し、その姿を写真に残」したのであると、事実でないことを上京区今出川地域の人々に明言されてしまっているのである。創立者の思いはいかばかりであろうか。『イマ*イチ』は現在もネットで読むことができる。時間と空間を越え、これからも計り知れない大勢の人々に伝播されていくことが予想される。興味本位な情報ほど拡散し堆積していくことを思うと、黙ってこれを見過ごすことは許されない。 (

(-④

(20)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四三 かつてミネルヴァ日本評伝選として同書房の『新島襄』(太田雄三著、二〇〇五年四月)が出版されたとき、太田氏の新島「策士説」に対し、即座に新島研究会の中心的立場の人々は、『新島研究』(九七号、二〇〇六年二月)に多くの書評を寄せ、反論した。また、『同志社タイムス』(六〇七~六一〇号、二〇〇六年一~四月)には、「新島襄は〈策士〉であったか?」を連載し、同志社校友に訴えた。今回は新島「女装説」を、こともあろうに新島や同志社について啓蒙 (11

(しなければならない社史資料調査員が、断定の形で学内・地域社会に公言している状態である。これに対しての言なき有様に、新島は涙されておられよう。小枝氏は同志社の徽章(マーク)に触れながら『イマ*イチ』四八号(二〇一四年六月)

の「駄弁放談 (17

(」で、次のような見解を記している。

しかし、歴史とは興味深いもので、131年目を迎えた同志社のマークは、多くの関係者に親しまれる過程において、様々な意味が付されてきました。歴史においてそもそもの意味をおさえておくことも大切ですが、人々の生業の中で新しく生み出された解釈や意味にもまた歴史的意義があると思えてなりません。

新島の函館脱出に当たっての扮装を、「丁稚小僧」の姿から「女装」というコスプレ観を通して、新しい解釈を試みたというのであろうか。もしそうであるなら、新しい解釈の歴史的意義を付与する前に、歴史的資料の事実に基づいた正しい解釈がなされなければ、社史資料調査員として「規程」(後注

なく、「惑わす」活動をしてしまうことになろう。

(6

参照)にある「啓蒙」では

(21)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四四

八、 お   わ   り   に

小枝氏は『談叢』三六号の、二行で記された「はじめに」で、問題の発端となった『イマ*イチ』(発行号数、発行年が間違っているが)を採り上げ、「考えるに至った経緯をまとめます」と語り始める。しかし、本文中唯一の見出し「新島が書き記した函館滞在に関する日記について」と付けた内容は、新島の遺した脱出史料の解説に終始しているのみである。三行で書かれた「おわりに」では、新島が恰も商船に忍ひ通ふ婦人の有様なりと書いた「〈函館脱出の (ママ(記〉の表現から〈女装〉という表現を使用したことで」誤解を招いたと詫び、「女装」という言葉を撤回するとしている。しかし結局は、小枝氏の一文は、迷惑をかけたと謝罪し、「女装」を撤回すると述べただけで、これまで再三申し上げてきた、竹内氏や筆者の疑問、即ち、①

新島脱国時の時代背景と函館の環境から見て、「恰も商船に忍ひ通ふ婦人の有様なり」が、どうして新島が「女装」していたことになるのか。②

新島自身が「使童(デッチコゾヲ)に変体」と言っているにもかかわらず、何ゆえ「女装」と捉えるのか。③

「女装」と断定するには社史資料調査員という立場から、何か新発見や根拠があっての事と推察するので、新資料や根拠の提示を求める。④

新島も八重もともに「自分をキャンバスにして、二次創作」の自己表現をするコスプレ感覚で「女装」あるいは「男装」をしたとする確かな論拠を求める。これらに対しになんら答えを用意されていないのである。考えるに至った学問的経緯は語られていないのであ

(22)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四五 る。もとより良質の論文は、量より質であることは十分承知のうえで記すが、『談叢』三六号では、表題と三か所の見出しを除くと、本文は六〇行(二一一頁が九行、二一二頁が一七行、二一三頁が一七行、二一四頁が一四行、二一五頁が三行)である。そのうち引用文は約二四行(同頁順に、約一行、約八行、一一行、四行、〇行)になるので、小枝氏自身の文章は約三六行、つまり二頁である。たったの二頁では、右記①~④の問題の核心に触れるには少なすぎよう。このような文章量から判断して、小枝氏に右の疑問に応えようとする姿勢があるとは到底思えない。さらに残念なことに、論題を除くたかだか全四頁のなかで、著者の意思で表記を変えてはならない、史料名、原題名、引用文に、多くの誤りと不備な点が目に付く。失礼ながら、気づいた所を一覧に作成し、正しい表記を添え、巻末に掲載した。質も量も表記も問われる『談叢』三六号の一文である。あるいは、小枝氏は、右に指摘する①~④に対して、回答や対応は持ち合わせず、新資料は得られていないのであろうか。何の根拠もなく新島「女装説」を打ち出したのであろうか。「新しく生み出された解釈」を付与したいがためにコスプレと関連させたのであろうか。単なる思い付きで、丁稚小僧の新島を売女に扮した「女装」に仕立てたのであろうか。小枝氏は同志社社史資料調査員である。氏の見解は必須である。小枝氏が「実はこれは女装です」と断言した意図はどこにあるのであろうか。断定した真意は語られず仕舞いである。問題の解決にはならず、撤回の理由も示されていない。この三六号一文のままでの「女装説」終焉は、新島本人、また心ある人々にとっては耐え難いものであると言わざるを得ない。『イマ*イチ』に戻って、これを読んだ同志社の学生や上京区今出川地域の人々は、同志社大学社史資料センター

(23)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四六

に所属し、日々同志社の資料に触れる仕事をしている社史資料調査員が公言していることは、疑わずして頭に入れてしまうことは目に見えている。同志社創立者は「女装」をして脱国したのだ、という新島像を持って大勢の学生は卒業して行ったことだろう。今回小枝氏は『談叢』三六号で謝罪し撤回すると表したが、本来なら、まず、ことの発端となった『イマ*イチ』に謝罪と撤回の理由を表明すべきである。右記①~④の回答と、「女装」と断定した経過を表白すべきである。さもなくば大勢の同志社の学生と上京区今出川地域の読者に対し失礼であると言わざるを得ない。さらに、『イマ*イチ』はクラブ顧問の指導のもと、同志社大学広告研究会という学生団体が編集を行い、同志社大学学生支援センター今出川校地学生支援課が発行に携わり、発行費用は同志社大学が負担し、執筆者は同志社社史資料調査員という、全てのポイントで同志社の教職員が関与している。同志社の組織が、創立者新島の函館脱出の姿は「まるで異国の商船にむかう婦人のよう」な、売女に扮した「女装」をしていたと、事実でない事を学内と地域社会とネット世界に向けて、発信したということになる。今回の新島「女装説」は単に社史資料調査員ひとりに限定されるものではなく、同志社全体の問題である。読者層が限られた、たかだか四頁の『談叢』三六号の一文で、新島「女装説」の幕引きをしてしまうと、時間の経過とともに、同志社が新島「女装説」を肯定したものとして定着してしまう結果となりえる。それでは後々禍根を残すこととなり、同志社全体の質が問われかねないのである。このことを憂いての再論なのである。

(24)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四七

小枝氏の 「新島襄の密出国時の服装について」

(『同志社談叢』36号)の誤りと不備な個所

№ 頁 行 表記の誤り 筆者が訂正した表記

( ((( ( 『イマ・イチ』四十九号 『イマ・イチ』四十六号

( (二〇一三年) (二〇一四年)

( 〈史料名〉「函館よりの略記」 「箱楯よりの略記」

〃 (( 〈史料名〉「函楯よりの略記」 「箱楯よりの略記」

5 ((( ( 〈史料名〉「箱館よりの略記」 「箱楯よりの略記」

6 ( 〈引用文〉一からげの荷物 一とからげの荷物

( 〈引用文〉岸に繋げる 岸に繋ける

〃 (0 〈史料名〉「函楯よりの略記」 「箱楯よりの略記」

〃 (( 〈表題〉「脱国の理由書」 「ベルリン号に乗船」〈下の「№ (0」を参照〉

(0 〃 (( 〈引用文〉アメリカ船まで連れて アメリカ船までつれて

(( 〃 (( 〈引用文〉行ってくれることに いってくれることに

(( 〃 (5 〈引用文〉暖かく歓迎 暖く歓迎

(( 〃 (( 〈引用文〉犬が吠えていたので 犬がほえていたので

(( 〃 ((〈引用文、49 文字欠落〉

  「犬が吠えていたので、」の後 私は下駄が犬の注意をひいたのだとすくに気付いた。そこ で下駄をその場にぬぎ、どれくらいはなれた所で、

(5 ((( ( 〈引用文〉はだしで駆け出して はだしで駈け出して

(6 〃 ( 〈引用文〉誰かが近づいてくる音 誰かが近付いてくる音

(( 〃 ( 〈引用文〉すんでのところで すんでのことで

(( 〃 5 〈引用文〉つかまえることを つかまえることも

(( 〃 5 〈引用文〉何とかさいわいか 何とさいわいか

(0 〃 6 〈引用文〉近寄ってこようとは 近寄ってこようと

(( 〃 ( 〈引用文〉船長のところまで行く 船長のところまでいく

(( 〃 ( 〈引用文〉すぐに誰であるか すぐ誰であるか

(( 〃 ( 〈引用文〉手短に説明すると 手短かに説明すると

(( 〃 (( 〈表題〉「脱国の理由書」 「ベルリン号に乗船」〈同上〉

(5 〃 (( 〈史料名〉「函楯からの略記」 「箱楯よりの略記」

(6 〃 (( 〈表題〉「脱国の理由書」 「ベルリン号に乗船」〈同上〉

(( 〃 (( 〈史料名〉「函楯からの略記」 「箱楯よりの略記」

(( 〃 (( 〈引用文〉岸に繋げる小舟 岸に繋ける小舟

(( ((( ( 〈史料名〉「函館脱出の記」 「函館脱出之記」

(0 〃 ( 〈引用文〉岸に繋げる小舟 岸に繋ける小舟

(( 〃 ( 〈引用文〉宇之吉楫をかき 宇之吉揖をかき

(( 〃 6 〈史料名〉「函館脱出の記」 「函館脱出之記」

(( 〃 ( 〈表題〉「脱国の理由書」 「ベルリン号に乗船」〈同上〉

(( 〃 (0 〈表題〉「脱国の理由書」 「ベルリン号に乗船」〈同上〉

(5 〃 (( 〈史料名〉「函館脱出の記」 「函館脱出之記」

(6 〃 (( 〈史料名〉「函館脱出の記」 「函館脱出之記」

(( ((5 ( 〈史料名〉「函館脱出の記」 「函館脱出之記」

(( ((( ( 「函館紀行」から「箱楯よりの略記」にいたる ( 点の史料の制作年と月の表記について。示さ れた年号は陽暦で月数は陰暦なので、整合性がとられていない。

(( 〃 (( 「函館紀行」には新島が密出国した際の記述はないので外し、その代わり ( 行前の ( 点あげて いるなかから 「函館脱出之記」を入れて、「( 点である」とする。

(0 ((( (( № (・((・(6・((・(( の「脱国の理由書」と記してあるは、「脱国の理由」が正しい表記であるが、

小枝氏が示す『新島襄全集』(0 巻 p.(( ~ p.(( の「脱国の理由」には、密出国の様子はみあた らない。該当箇所は p.(( ~ p.(( 「青春時代」のなかの、p.((「ベルリン号乗船」である。

(( 〃 (0 「函楯よりの略記」 より「以前」と記さているが、「箱楯よりの略記」 は ((66 年 ( 月 (( 日、 新 島がマサスチュセッツ邦アンドワ県アンドワ府で書いた。「青春時代」 は (((5 年 ( 月 (( 日、

新島が A. ハーディに書き送ったもので、したがって「箱楯よりの略記」より「以後」となる。

(25)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四八

)鎖国令(寛永十二年令)、『詳説日本史史料集』一八一頁、二〇一〇年一二月二〇日再訂版七刷発行、山川出版社。

〇〇七年一一月)から二七号(二〇一〇年一二月)まで、三年間余二〇回にわたり継続的に掲載されている。 れていく中でライフスキル(社会性や人間力)を身につけようと」(八号)するものである。この活動は『イマ*イチ』八号(二 の子供・学生・大人・高齢者と異世代交流(共に伝統文化を学んだり、議論を交わしたり)しながら、学生が地域に関与し、さ 「出町」~「町家」の言葉をかけ合わせて名づけられた(八号)というが、その目指すところは、この「でまち家」で「地域

)今出川通りと寺町通りを下った町家を改修して、大学が作った「でまち家」である。名前の由来は「学生が町(地域)に出る」

よる。

号(号()『

)小枝弘和『イマ*イチ』四六号、一一頁に記載の文言。

 

5

)引用文は「」で示し、さらにその中の引用は〈〉で示した。以下同じ扱いをしている。

6

)新島襄「函館脱出之記」『新島襄全集』(以下『全集』と略す)五巻、七〇頁に記載の文言。

)『同志社談叢』(以下『談叢』と略す)三五号、四七頁。

)『談叢』三五号、四八頁。

『全集』三巻、二四頁・二六頁。③新島襄「慶応元年〔未詳〕新島双六宛書簡」 非常の挙を為し、長く父母をし〔て〕悲哀に居らしむる事法外至極」 我不肖と雖、切ニ国家の不振を憂へ、万一の力を竭んとの志願と申〔な〕から犯難国禁を犯し、難別き君父に別し、断然此 ――と名後、み、し、……着、二本檣ニ而  『全集』三巻、二一頁。新島双六〕宛書簡」②新島襄「慶応元年〔未詳   「元治元甲子年六月十四日富士屋宇之吉の周旋ニ依而、此夜九時過密に宇之吉と共に小舟ニ乗し、米利堅商船に乗得たり」 日の間に記してあるので、記述日付を「十九日」とした。   」『襄「巻、頁。と、お、

)本文中の三点を除く八点の史料は次の通り。すべて『全集』からである。

(26)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―四九 へ、……て、しめる事、法外至極万方難謝候、然し此挙呉起か魯を去ると同論に非ず、全く幽暗を照らす真光の為め、且つ国家万民栄華の為なる故、……箱楯を去てよりの略記別紙に委しく書きのせり」④新島襄「慶応二年〔二月二十一日〕新島民治宛書簡」『全集』三巻、二七~二八頁。

「二本檣にてベルリヨンと名」

仕、……るニ非ず、且つ飲食栄華之ためにあらす、全く国家の為に寸力を竭さんと存し、中心燃るか如く遂に此挙に及ひ候……漸く去年六月十七日無異合衆国の名港ボストンに到着仕候  箱楯よりの略記別紙にのせり⑤新島襄「箱楯よりの略記  千八百六十六年二月二十一日」『全集』五巻、七二頁・七九頁。日、り。ひ、り、島に参り、岸に繋ける小舟を掠取り亜国の商船へこぎよせしに、曾て試みさる仕事故出 〔必〕死の力を竭くし、よふやく其船に乗込む事を得たり。⑥福士成豊(夘之吉)「明治九年六月九日付新島襄宛書簡」『全集』九巻、七八頁。ル、際、 〔滌〕志望シ、小生足下之深志ニ感謝シ、乍恐秘ニ国制ヲ犯シ以テ該船ニ奉供シ、足下ノ手握テ暫時本願之達シ 〔ス〕ル迄離別ヲ乞シトキ、……」襄「」『

My Younger Days

年(日、巻、頁、治訳。「二、三度会ったのち、私は彼[イギリス商人に傭われている日本人書記、筆者補い]に長い間暖めてきた計画を打明けた。彼はそれを聞いて大いに喜び、心にとめておくことを約束してくれた。その計画を何としても実行しようという熱望を抱いていた私は、平民の服装をし、函館の通りを歩くときには目立たないように注意していた。当時武士階級のしるしとみなされていた長い刀はささなかった。頭髪もより簡単な恰好にした。……アメリカ船にのる準備がほぼ完了すると、函館から突然姿を消したことで私が外国船に逃げ込んだのではないかという疑惑を役人たちがおこしたり、幕府の船が私を追跡したりしないために、私は家から呼び返されたのだというふりをした。

(27)

新島襄とその「女装説」再論―竹内・小枝両論を読んで―五〇

⑧新島襄「ベルリン号に乗船」

My Younger Days

』一八八五年(明治一八年)八月二九日、『全集』一〇巻、四三~四四頁、北垣宗治訳。た。た。と、が近付いてくる音がした。私は急いで舟に乗りこみ、舟底に平つくばって、私の持物の入っている荷物の一つであるようなふりをした。それは見張りの男だった。……アメリカ船は岸からかなりはなれた所に停泊していたので、そこまでたどりつくのに相当な骨折りを必要とした。船長は私たちを待っていてくれた。私たちはすぐさまベルリン号に引きあげられた。暖い握手をしてから、友人はさよならを言い、一人で岸辺をさして舟を漕いで行った。

(0

)『談叢』三六号、二一四頁。

、目録検索:上四日記・紀行文(和文)庫資料の公開』 これを③インターネット検索:同志社大学『新島遺品 蔵目録』上、登録番号六五九「日本脱出の記」である。 は、 ニ沢辺之家ヲ出る図」の史料として取り扱われている。

」 「

いる(同上)黒鞘の脱出図。いずれも「予塩田ト共

)、

る。く( れるが、大きな違いは、侍姿の塩田が差している太刀 の服、足元の部分などの線の太さに若干の違いが見ら 五巻、六九頁の図とが異なる。沢辺家の木戸板、人物 この注に掲出した②『全集』頁に掲載されている図と、 』(行、  島襄生誕一五〇年記念写真集新島襄―その時代と生

((

て、)「く。①『

予塩田ト共ニ沢辺之家ヲ出る図

〈『全集』1巻、p.19より〉

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