イブン・タイミーヤに言及されるだけになりがちな﹁ハディースの徒﹂についての理解を深めてくれる︒
外国の研究では︑D. Gimaret, ’‘, Paris, 1990のように︑イスラーム神学のさまざまなテーマを取り上げた神学の概説書がある︒Gimaretの書では︑アシュアリー以外にも膨大な初期スンナ派神学者の神学書が引用されており︑マートゥリーディー学派も含まれる︒しかし﹁ハディースの徒﹂については︑アフマド・イブン・ハンバルが引用されているが︑ほかの学者はほとんど引用されていない︒その点においても︑本書の独自性は高く評価される︒また本書は︑W. M. Watt, W. Madelungなどが引用されているが︑欧米の研究者の二次文献を引用することは少なく︑アラビア語原典を数多く引用している点も従来の神学研究とは異なっているといえよう︒そのため今までの神学研究に接してきた者にとっては︑テーマ設定や説明様式などが異なっており︑新鮮な切り口からイスラーム神学を捉えることができるだろう︒本書の構成の概略は︑以下のとおりである︒
第一部 スンナ派概論第一章 スンナ派正統神学派第二章 ﹁異端﹂の諸派第二部 スンナ派の信条││ナサフィー﹃信条﹄訳解第三章 ナサフィー﹃信条﹄本文第四章 ナサフィー﹃信条﹄訳解附録 ムスリム・マイノリティのためのイスラーム法学と神学 で得られた知見をどれほど執筆に活かすことができたか心許ないが︑貴重な機会を与えて頂いたことに感謝の意を表しておきたい︒松山洋平著
﹃ イ ス ラ ー ム 神 学 ﹄
作品社 二〇一六年二月刊四六判 五一八頁 二七〇〇円+税 青 柳 かおる 本書は︑膨大なアラビア語原典を読み解きながら︑スンナ派イスラーム神学派の特徴および信条を詳細に述べた労作である︒本書では︑アシュアリー学派︑マートゥリーディー学派︑﹁ハディースの徒﹂という三つの神学潮流が均等に扱われ︑三者の対比がわかりやすく述べられている︒本書の大きな特徴は︑﹁ハディースの徒﹂を大きく取り上げた点であろう︒従来の国内外のイスラーム神学研究では︑アシュアリー学派の研究が中心であった︒﹁ハディースの徒﹂については︑研究はあるものの︑アシュアリー学派と同じ比重で扱われることはまれであった︒﹁ハディースの徒﹂はさらに三つに分けられ︑細かく比較されており︑一般的には︑アフマド・イブン・ハンバルや
優位に立ち︑また法学ではシャーフィイー学派と結びつき︑西方イスラーム世界のマーリキー学派にも受容された︒今日︑アシュアリー学派が有力な地域はアラブ圏︑東南アジアであり︑エジプトのアズハル大学など主要なイスラーム教育機関では︑アシュアリー学派にもとづいた神学が教授されている︒
マートゥリーディー学派の学祖マートゥリーディーは︑ハナフィー法学派に伝わる神学的教説を継承し︑体系的な神学を展開した︒当時サマルカンド一帯は︑法学的にハナフィー学派が圧倒的に優位の地域だったためである︒マートゥリーディー学派の拡大は緩やかであったが︑後にオスマン朝やムガール朝でも支持を集めることになる︒現在︑マートゥリーディー学派が優位な地域は︑トルコ︑中央アジア︑インド︑中国など法学的にハナフィー学派が支配的な地域である︒
アシュアリー学派とマートゥリーディー学派との違いについては︑後者が前者よりも理性による論証を多用するとされることもあるが︑著者によれば︑マートゥリーディー学派は︑ムウタズィラ派のように聖典テキストよりも理性による論証を重視することはなく︑むしろクルアーンのなかの﹁曖昧な節﹂の解釈では︑アシュアリー学派が比喩的に解釈することを推奨するのに対し︑マートゥリーディー学派ではクルアーンの文言をそのまま承認する傾向が強い 1︒両学派の特徴は︑解釈の方法論のレベルにおいてではなく︑個々の神学的問題について蓄積された学説の相違点に現れる︒
アフマド・イブン・ハンバルを始祖とする﹁ハディースの徒﹂には︑複数の思想潮流が存在する︒第一の陣営は﹁アッラ まず本書の内容を要約したい︒紙幅の関係上︑第一部スンナ派概論を中心とする︒第一部第一章では︑スンナ派正統神学派の三学派について説明されている︒まずスンナ派とは︑﹁スンナと集団の徒﹂を意味し︑正しいイスラームの信条を奉じる単一の集団とされ︑このなかに三つの神学的潮流︑すなわちアシュアリー学派︑マートゥリーディー学派︑﹁ハディースの徒﹂が存在する︒アシュアリー学派とマートゥリーディー学派の二つは︑理性による論証を聖典テキストの引用にもとづく論証と同様に重視し︑比喩的解釈を肯定する傾向の強い思弁神学の潮流であり︑一方︑﹁ハディースの徒﹂は︑比喩的解釈を極力排し︑クルアーンやハディースの字義にのっとって立論をおこない︑主にハンバリー学派︵ハンバル学派︶によって担われる︒二つの思弁神学派と﹁ハディースの徒﹂は基本的には対立関係にあり︑スンナ派を構成する神学派として二学派のみが言及される場合もあるが︑本書ではスンナ神学を広く設定し︑﹁ハディースの徒﹂を加える︒これら三つの神学派の共通点は︑擬人神観や人間の行為論などに関して︑極端な立場を排し︑中道的な立場をとることであるとされる︒
続いて︑それぞれの学派について説明されている︒アシュアリー学派の学祖アシュアリーは︑もともとは聖典テキストよりも理性的論証を重んじるムウタズィラ派に属していたが︑のちにスンナ派に転向し︑思弁神学の方法を用いてスンナ派の信条を擁護し︑クルアーンやハディースの引用に頼るだけであったスンナ派神学の論証を大きく変えた︒アシュアリー学派は急速に支持を拡大し︑セルジューク朝期にはムウタズィラ派よりも
ただし十七世紀以降には︑両思弁神学派をともにスンナ派の正統な神学派と明言することも少なくなかった︒
第一部第二章では︑スンナ派から主要な﹁異端﹂としてしばしば言及される︑ハワーリジュ派︑ムルジア派︑擬人神観論者︑カダル派︵
ていることもある︒ がら︑イスラームから完全に外れるほどではない不信仰を宿し リムの意に解釈される場合がある︒ある者はムスリムでありな る︒また﹁不信仰者﹂は︑非ムスリムのみならず︑罪人のムス 判断は︑その学派に帰属する個々人の不信仰性の判断とは異な 説がスンナ派の有力説である︒特定の学派・集団の不信仰性の る︒﹁異端﹂の諸派のうちの一部の集団のみを不信仰とみなす みであり︑それ以外の宗派は原則としてすべて﹁異端﹂とされ 反する者﹂を意味し︑﹁正統﹂なイスラームは﹁スンナ派﹂の れる︒スンナ派の専門用語としては﹁信条においてスンナ派に は些細であるが︑﹁悪行﹂よりも重大な悪の範疇に位置づけら 定的な意味におけるビドアもあり︑その場合は﹁不信仰﹂より 義される︒ビドアという言葉自体は中立的な意味を持つが︑否 ビドアとは︑先行する事例のないことをおこなうことなどと定 端・逸脱﹂に該当するアラビア語の単語は﹁ビドア﹂であり︑ どのような点が異端視されるのかを説明している︒まず﹁異 ≒ムウタズィラ派︶︑シーア派の五つを取り上げ︑
続いて五つの分派が取り上げられる︒まずハワーリジュ派の異端的教説は﹁罪を犯したムスリムを不信仰者とみなす﹂という点にある︒ムルジア派の異端性は︑彼らが信仰と行為の関係性を否定する点と︑信仰を持つ者が来世で懲罰を受けることを ーが思索するよう命じられたことのほかは思索﹂せず︑クルアーンやハディースの文言を字義どおりに受容し︑その解釈について沈黙する陣営であり︑イブン・カスィールが含まれる︒第二の陣営は︑﹁思弁神学︑論理︑理性対象についての思索の徒﹂とされ︑イブン・タイミーヤが含まれる︒さらに第二陣営の﹁伝承主義学派﹂は︑比喩的解釈をめぐって対立している︒イブン・タイミーヤ系統の論客は︑大幅な比喩的解釈を拒否し︑できるかぎり聖典テキストの字義を受けるような逐語主義的な立場をとった︒一方︑イブン・アキール系統の論客は︑比喩的解釈を大幅に受容したという︒以上のように﹁ハディースの徒﹂の内部は一枚岩ではないが︑思弁神学派がおこなうような解釈から距離をとったという点では歩調を合わせている︒
﹁ハディースの徒﹂すなわちハンバリー学派の学者集団は近代に至るまでは少数派の地位にあったが︑十八世紀以降︑ワッハーブ派の勃興とその後のサラフィー主義の拡大により︑アシュアリー学派︑マートゥリーディー学派に︑一般信徒を含む総合的勢力として拮抗するようになった︒ワッハーブ派およびサラフィー主義諸派の多くは︑四大法学派の権威や霊学︵スーフィズム︶におけるタリーカ制度などを批判し︑神学においては﹁ハディースの徒﹂のなかのイブン・タイミーヤ系統の思想を採用し︑それに反する思想を異端視する傾向が強い︒
三神学派の相互認識については︑同じ思弁神学派であるアシュアリー学派とマートゥリーディー学派は︑初期を除けば相互にその正統性を承認し合い︑現在に至る︒一方︑両思弁神学派と﹁ハディースの徒﹂とのあいだには一定の緊張関係がある︒
以下︑気づいた点を述べたい︒まず冒頭で述べたように︑本書の特徴は﹁ハディースの徒﹂を大きく取り上げている点である︒従来の神学研究では︑﹁ハディースの徒﹂の重要性は認識されながらも︑アシュアリー学派︑マートゥリーディー学派以上には注目されてこなかった︒また現実的にも﹁ハディースの徒﹂は︑両思弁神学派に比べて︑前近代には影響力が少なく︑近代以降もサウジアラビアに関する問題などでしか注目されることは少なかった︒しかし﹁ハディースの徒﹂が勢力を拡大して︑思弁神学派に拮抗するほど大きな勢力になってきている状況のなか︑本書は時代の変化に対応した書であるといえるだろう︒﹁ハディースの徒﹂が昨今注目されるようになった大きな理由は︑﹁イスラーム国︵IS︶﹂の登場であろう︒ISがシーア派を敵視することは知られており︑またほかのスンナ派もシーア派を敵視する傾向が強まっている︒現代社会ではスンナ派とシーア派の対立が大きな問題となっているので︑たとえばシーア派のイマーム崇敬などを取り上げて︑シーア派の異端とされる点についてもっと説明があるとよかったのではないだろうか︒﹁はじめに﹂でもISについて言及されているので︑本文中で︑もう少し武闘派サラフィー主義者に関する議論へ発展させてもよかったかもしれない︒
﹁ハディースの徒﹂に関連して︑五八頁〜のイブン・アキール系統の論客の位置づけが非常に興味深いが︑わかりにくい箇所も見受けられた︒イブン・アキールはアシュアリー学派の比喩的解釈を批判したが︑思弁神学の側からは高く評価され︑アシュアリー学派に分類されることもあるという︒しかし︑アッ 否定する点にある 2︒擬人神観論者は︑﹁ハディースの徒﹂のなかのハシュウィー派などを指し︑ハシュウィー派は︑アッラーが人間のそれとは異なる種類のものであるが︑体を持ち︑触れることができると考える 3︒カダル派︵
ひとつである︒ は︑アブー・バクルなどの教友の重鎮を中傷することは大罪の 特徴があり︑スンナ派からは否定される︒スンナ派において ル︑ウマル︑ウスマーンではなく︑アリーをとくに好むという いする権能および天命を否定する︒シーア派は︑アブー・バク 4 の行為は人間が発生させていると考え︑アッラーの被造物にた ﹁生命﹂︑﹁知識﹂などのアッラーの属性を否定する︒また人間 ≒ムウタズィラ派︶は︑ 第二部第三章では︑ナサフィー﹃信条﹄本文が和訳され︑スンナ派の基本的な信条が列挙されている︒ナサフィーの﹃信条﹄は︑スンナ派神学の要諦として高く評価され︑今日に至るまで読み継がれている︒また﹃信条﹄にたいする注釈︑さらにその注釈が多数書かれてきた︒第二部第四章では︑﹃信条﹄に述べられた論点を︑著者が二十のテーマ︵知識︑アッラー︑世界︑人間の行為︑死後の出来事︑信仰︑イマーム︑終末の前兆など︶に分類し︑それぞれのテーマに関するナサフィーの﹃信条﹄を引用した後に︑そのテーマに関する三つの神学派による議論を列挙するという形をとっている︒
附録においては︑日本などの非ムスリム諸国において︑イスラームをいかに実践することができるのかといった問題を取り上げている︒
八〇頁︶などであった︒いずれも哲学的な側面とはほぼ無関係なところである︒一九五頁では︑哲学者の﹁神は︑個物は知らず︑普遍のみ知る﹂という問題については述べられているものの︑全体的に︑神学と哲学の対決や融合という問題関心からの解説はあまり述べられていないといえよう︒本書では神学以外の学問領域の議論には立ち入らない︵一四八頁︶としているが︑神学における哲学の影響に関する議論は︑神学の全体像をみるためには欠かせないのではないだろうか︒
訳語について︑本書では﹁マアナーの属性﹂を﹁イデア属性﹂と訳している︒マアナーとは﹁意味﹂︑﹁概念﹂といった意味であるが︑神学用語としては﹁内在的な決定要因︵intrinsic causal determinant︶﹂という意味になる︵R. M. Frank “al-Ma‘nā: Some Reflections on the Technical Meanings of the Term in the Kalām and Its Use in the Physics of Mu‘am-mar,” , 7, 1967, 248‑259︶︒たとえば神が﹁知る者﹂であるのは︑﹁知識﹂という神に内在する要因である属性があるからである︒イデアと訳してしまうと︑そのような意味が薄まってしまうのではないだろうか︒
また﹁ビドア﹂を︑不信仰よりは些細ではあるが︑悪行よりも重大な悪の範疇として﹁異端﹂と訳している︒﹁逸脱﹂ではなく﹁異端﹂とし︑わざわざ強い意味の語を持ってきた理由が問われるだろう︒もちろんこの訳語が間違っているわけではないが︑もう少し説明があるとよかっただろう︒ハンバル学派の一潮流であるワッハーブ派はビドア一般に対してきわめて否定的な集団であり︑シーア派やスーフィズムに対する攻撃的な姿 ラーの擬人的表現の比喩的解釈を認めた点ではムウタズィラ派に近く︑むしろアシュアリー学派のほうが文字通りの解釈を採用しているのである︒ムウタズィラ派とも受け取られかねないイブン・アキール系統の論客が﹁ハディースの徒﹂に分類される理由について︑擬人神観論の比喩的解釈以外の議論を入れるなど︑もっと説明があったほうがわかりやすいだろう︒六九頁に︑アッラーの言葉は文字と音声であるか否かをめぐる解釈において︑イブン・タイミーヤ系統およびイブン・アキール系統の﹁ハディースの徒﹂が足なみをそろえ思弁神学派の見解に反駁している︑という説明はあるのだが︑﹁ハディースの徒﹂の説明箇所でも繰り返すとよかったかもしれない︒
ナサフィー﹃信条﹄訳解で引用される神学書について︑本書の訳解においては︑三つの神学的潮流それぞれの立場を対比させながら解説し︑また大きな見解の相違がない場合は︑特定の学派にこだわらず︑適宜な著作を引用したという︵一四七頁︶︒非常に多くの神学書が参照されているが︑ある問題を解説するために︑どのような基準で引用する神学書を選んだのか︑説明してほしかった︒たとえば全体的にアシュアリー学派で引用が多い学者は︑ガザーリー以前のアシュアリー︑バーキッラーニー︑バグダーディー︑ジュワイニーであり︑ガザーリー以降の哲学の影響を受けた神学者︑たとえばファフルッディーン・ラーズィーなどの引用はあまり見られなかった 5︒ガザーリーの著書の引用は少なく︑天国の様子のハディース︵二八八頁︶︑信仰に関して﹁神が望み給えば﹂という文言を入れるかどうかという問題︵三二八頁︶︑イマーム擁立の義務に関する問題︵三
多くもマートゥリーディー学派と同じだという︒ 一方︑二二一︑二二六頁では︑自体的属性︑否定的属性︑イデア属性に分類する場合︑イデア属性は︑アッラーの本体に存立する永遠の属性とされ︑﹁生命﹂⁝⁝﹁意図﹂の七つの属性を指し︑本体属性とも呼ばれるという︒さらに﹁知覚﹂︑﹁存続﹂がイデア属性であるか否かについて見解の相違があるという︒巻末の神学用語集では︑イデア属性は七つの属性とされ︑本体属性は﹁生命﹂⁝⁝﹁意図﹂などを言うとなっているので︑本体属性が七つ以上あるようにみえて混乱する︒おそらく︑アシュアリー学派においては︑本体に具わる属性︑本体属性︑イデア属性はいずれも七つの属性であるが︑マートゥリーディー学派および﹁ハディースの徒﹂においては︑七つの本体属性とそのほかの属性になる場合があるということなのだろう︒属性論の最後に︑表やまとめがあるとよかったかもしれない︒
二九〇頁〜の﹁宣教が到達していない民の救済﹂では︑マートゥリーディー学派によると理性によって信条はわかるので︑宣教されなかった地域でもイスラームへの信仰が義務となるという︒マートゥリーディー学派の理性重視の立場では︑啓示の位置づけはどうなるのかが興味深いので︑もっと議論してほしかった︒
四〇四頁〜の﹁終末の前兆﹂では︑今までの神学研究では軽視されがちだった︑終末の前兆︵偽救世主ダッジャールの出現や天変地異など︶の信条について詳しく述べている点も本書の特徴であろう︒終末論は︑多くの日本人にとっては荒唐無稽にみえるかもしれないが︑ムスリムは終末が来ることを信じてい 勢はその狭量なビドア論に由来するとされており︵菊地達也﹃イスラーム教﹁異端﹂と﹁正統﹂の思想史﹄講談社︑二〇〇九年︑五三頁︶︑本書は﹁ハディースの徒﹂の立場を大きく取り上げているために︑﹁異端﹂という訳語になったのだろうか︒
七七頁〜の﹁初期ハナフィー学派への批判﹂で取り上げられている信仰の構成要素︑信仰の増減といった問題は︑読者にはなぜ重要なのか︑ムスリム以外には理解しづらいと思われた︒附録では︑アッラーを信じているが︑家族に反対されて信仰告白はできないという人がムスリムなのかが検討されている︒そして信仰の構成要素を﹁心による承認﹂に限定する説を採用すれば︑その人は信仰者である条件を満たしているとされるという︒この箇所を読めばこの問題の重要性がよくわかるので︑本文にもそのような記述を入れたほうがよかっただろう︒
続いて︑訳解の箇所で気づいた点を列挙していきたい︒一七九頁〜の﹁アッラー﹂の冒頭で提起される神の属性論は︑非常に複雑である︒一七九頁では︑マートゥリーディー学派のナサフィーに従い︑アッラーの本体に具わる属性として︑﹁知識﹂︑﹁権能﹂︑﹁生命﹂︑﹁力﹂︑﹁聞﹂︑﹁見﹂︑﹁意図﹂︑﹁意志﹂︑﹁行為﹂︑﹁創造﹂︑﹁恵与﹂︑﹁言葉﹂が挙げられている︒二二二頁では︑神の属性は本体属性と行為属性に分けられ︑アシュアリー学派によれば︑アッラーの本体に具わる﹁永遠の属性﹂は﹁生命﹂︑﹁権能﹂︑﹁知識﹂︑﹁言葉﹂︑﹁聞﹂︑﹁見﹂︑﹁意図﹂の﹁本体属性﹂のみとされ︑行為属性は含まれないとされる︒マートゥリーディー学派によれば︑それら七つの属性のほかに︑﹁恵与﹂︑﹁言葉﹂などの行為属性も含まれるとされ︑﹁ハディースの徒﹂の
諸側面﹂﹃日本中東学会年報﹄二九︱一︑二〇一三年︑一四七頁︶︒︵2︶ ただし一二六頁の注四六にあるように︑ムルジア派には︑大罪を犯したムスリムが火獄に入るか否かの判断をアッラーに委ねる立場︑すなわちスンナ派と︑信仰さえ持っていれば罪は一切罰されることはないと考える立場︑いわゆるムルジア派があるとされ︑前者のムルジア派はスンナ派に取り込まれている︒この箇所は本文に入れてくれないと︑一般の概説書では前者の意味で説明されているので︑読者にはわかりにくいだろう︒︵3︶ 八八頁ではハシュウィー派について︑預言者ムハンマドに帰されるあらゆる伝承の内容を等しく採用することを義務とし︑そのなかのひとつでも退ける者を異端者とみなす立場にたいする蔑称とされ︑ハシュウィー派の説明が本書のほかの箇所の説明と異なっている︒一般的には極端な擬人神観論者を指す︒︵4︶ 一般的に︑カダル派は天命論において人間の自由意志を主張した一派とされるが︑本書でいうカダル派とはムウタズィラ派を指すので︑読者は混乱する可能性がある︒ムウタズィラ派でよいのではないか︒︵5︶ 四二一頁の注一三二では︑ラーズィーによる世界の三分類が述べられているが︑﹁空間を占めるものでも︑空間を占めるものにやどる性質でもない霊﹂について︑著者は哲学の影響を読み取ってはいない︒しかし︑原子論とは異なる哲学の存在論の影響は明白ではないだろうか︵拙著﹃イ るのであり︑現代でもISが終末論を用いて自分たちの使命を正当化しているという︵池内恵﹃イスラーム国の衝撃﹄文春新書︑二〇一五年︑一八四︱二〇三頁︶︒
そのほか細かい点では︑個々の神学者については︑注が付けられて説明されているが︑巻末の略年表のほかに︑学派別の神学者一覧の年表もついていたらよかったのではないか︒また年号については︑ヒジュラ暦しか記載がない場合がまれにあり︑西暦も併記したほうがわかりやすいと思う︒さらに多数の宗派︑学派の名前が述べられているが︑たとえば六〇頁のクッラーブ派のように説明がなかったり︑ハシュウィー派︑カダル派︑ムルジア派のように︑従来の研究とは異なる説明がなされ︑読者が戸惑うのではないかと思われる箇所も見受けられた︒
以上︑本書の内容と感想を述べてきた︒繰り返しになるが︑本書は従来あまり詳しく論じられることのなかった﹁ハディースの徒﹂を大きく取り上げ︑膨大なイスラーム神学の一次文献を読み込んだ上で分析した︑優れたイスラーム神学の概説書である︒イスラームの宗教思想の理解に多大な貢献をする労作であり︑イスラーム︑神学に興味のある方に強く勧めたい︒
注︵1︶ それでもやはり︑マートゥリーディー学派の理性重視という側面は無視できないのではないだろうか︒著者は︑マートゥリーディー学派をスンナ派内部の理性主義の潮流に分類している︵松山洋平﹁マートゥリーディー学派研究の
探究することを意味する︒そのさい︑﹁離散﹂とはたんに一民族が散らばっている現象をさすのではなく︑救済されるべき危機的状況として理解されることが多々ある︵原語の﹁ガルート﹂を﹁捕囚﹂と訳すとわかりやすいかもしれない︶︒宗教者だけでなく往々にして近現代のユダヤ人の歴史家にとっても︑離散の﹁歴史﹂とは終わりへと向かう救済史であり︑人間の宗教的実践と神のはたらきかけという相互的な力学が支配する︵べき︶舞台であった︒迫害の事実と救済への願いはともにきわめて重く︑だからこそ迫害史としての側面を強調しすぎていると批判するのも容易ではない︒エルサレム神殿の崩壊︑スペインからのユダヤ人追放︑ショアーは言うまでもなく﹁有名な﹂世界史の出来事であり︑それを知る我々は︑本書の表題である﹁ユダヤ教徒﹂と﹁生き残り﹂という二語から︑中世イスラーム世界にも破局的な危機の存在を予想するかもしれない︒だが︑中世イスラーム世界は概して︑ユダヤ教徒が﹁比較的凌ぎやすい﹂︵一五九頁︶境遇であった︒それでも皆無ではなかった危機と︑彼らの対応を論じることが本書の目的であることは確かだ︵﹁第二の目的﹂︑三八頁︶︒しかし︑多様なイスラーム社会に適応すること自体が﹁生き残り﹂である︑つまり迫害に耐え︑生き延びるというかたちにとどまらない︑それ自体が多様な﹁生き残り﹂の試みを歴史的に検証するというもうひとつの目的︵﹁第一の目的﹂︑同頁︶こそ︑本書の着眼点の独創性を示していると思われる︒
次に内容を見てゆく︒構成は次のとおりである︒ スラームの世界観││ガザーリーとラーズィー﹄明石書店︑二〇〇五年参照︶︒
嶋田英晴著
﹃ ユ ダ ヤ 教 徒 に 見 る 生 き 残 り 戦 略 ﹄
晃洋書房 二〇一五年八月刊A5判 ⅵ+一八三+七頁 二六〇〇円+税
志 田 雅 宏 本書は︑二〇一二年二月に東京大学大学院人文社会系研究科から博士号を授与された著者の学位論文に加筆修正をしたものである︒著者は博士課程で宗教学を専攻する以前︑修士課程まで東洋史︵イスラーム史︶を学んでいた︒博士論文の副題に﹁││中世イスラームの場合││﹂とあるように︑本書では一〇世紀から一二世紀のイスラーム世界におけるユダヤ教社会の地域性と連帯性が論じられるが︑その簡潔明瞭な文体は︑地中海を広く支配したイスラーム諸王朝の歴史についての正確な知識をうかがわせる︒
ユダヤ教徒は離散の民であり︑彼らの歴史を記述することは︑彼ら自身が生きていた他者の世界とどう向き合ったのかを