︵ 調 査 報 告 ︶
黄 土 高 原 の イ ス ラ ー ム ︵ 一 ︶
・−二〇〇三年〜二〇〇四年保安族・東郷族調査報告 −
− S
− a m i n 亭 e L O e S S P − a ︷ e a u O f N O H さ w e s
︷ C F i n a
︵ ︸
︶ 海
英
民族学者の生活と仕事のもつ諸条件は︑長い期間︑民族学者を彼の属する 集団から物理的に抜き取ってしまう︒彼が身を曝す変化の激しさによって︑ 彼は一種の慢性の故郷喪失症にかかる︒もはやどこへ行っても︑彼は自分 のところにいるという感じがしなくなる︒彼は心理的に不具者になってし まっているのだ︒︵レヴイ=ストロース﹁どのようにして人は民族学者にな
る か
﹂
﹃ 悲
し き
熱 帯
﹄ 上
︶
私は中華人民共和国出身のモンゴル人で︑中国では﹁少数民族﹂ の身分だった︒文化人類学を学び︑主としてモンゴル・
テエルク系社会内でフィールド・ワークを続けてきた︒最近では︑特に同じ少数民族の立場にあり︑かつモンゴル語系の
言葉を話す保安族と東郷族にも興味を抱きはじめた︒以下は︑保安族と東郷族社会内における調査報告である︒
目
一 イ ス ラ ー ム の 黄 土 高 原
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・ ト
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・ 三 五 二
西 北 独 特 の ス ー フ ィ ズ ム
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・ 四 八 三 保 安 族 の 居 住 地
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・ 五 六 四
語 り つ が れ る 保 安 族 の 歴 史
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・ 七 一 五 保 安 族 社 会 内 の ス ー フ ィ ー 教 団
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∵
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⁝ 八 四 六 東 郷 族 社 会 の イ ス ラ ー ム ー 北 庄 門 官
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⁚ 九 九 七 胡 門 門 昏
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■
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・ 二 一
〇 八 東 郷 族 社 会 内 の 他 の ス ー フ ィ ー 教 団
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⁚ 二 二 二
九 東 郷 人 社 会 か ら ス タ ー ト し た 新 教 イ フ ワ ー ン
︵ 伊 赫 瓦 尼
︶
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・ 一 四 七
一
〇 調 査 の 終 幕
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⁚ 一 五 六 二 結 び に 代 え て
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⁚ 一 六 三
四
一 イスラームの黄土高原
倣慢な調査者という自覚
奇跡の前で科学はほとんど荒唐無稽に見える︒この黄土高原はまさに宗教の棲家である︒イスラームはここで中国式
の︑■黄土高原式の︑貧しい異郷人の唯一の精神的な支えとなった︒
中国北西部に位置する乾燥した大地をこのように表現したのは︑回族出身の作家張承志だ︒彼はこの黄土の大地を﹁宗
教 的
な 黄
土 高
原 ﹂
︑ ﹁
イ ス
ラ ー
ム の
黄 土
高 原
﹂ と
呼 ん
だ ︒
黄土高原の ﹁中国ムスリム﹂と称する人々には回族︑保安族︑それに東郷族などが含まれている︒そのうち保安族と東
郷族については︑中国内モンゴル自治区のモンゴル人やモンゴル国の人たちは﹁モンゴル人ムスリム﹂ないしは﹁モンゴ
ル系の民族﹂だとみている︒漢文文献のなかでも古くから﹁蒙古回回﹂や﹁回回蒙古﹂ の形で現れる︒現在の中華人民共
和国の国家的な権威を背景にして編纂された﹃保安族簡史﹄と﹃東郷族簡史﹄もこの二つの集団を﹁イスラームを信仰す
るモンゴル人を中心に形成された民族﹂ で︑両民族とも﹁アルタイ語系モンゴル語族の言葉﹂を話すとしている︒
私はこのいわゆる﹁モンゴル系のムスリム﹂たちの実態を知るために︑二〇〇三年一二月一八日から二〇〇四年一月六
日にかけて︑現地調査をおこなった︒以下︑私はこの三週間のなかでみたこと︑聞いた話をなるべく従来の研究成果とも
併 せ
て 報
告 し
た い
︒
■イスラームの東方への広がりはモンゴル帝国の対外拡大に沿った結果であることは今や学界の常識となっている︒私は
宍
モンゴル人ではあるが︑このような学界の常識を民族の過去の栄光だと認識する自民族中心主義者ではない︒往時の大モ
ンゴル帝国を過度に美化するつもりも毛頭ない︒ただ︑東方のムスリム社会の実態をきちんと調べたい気持ちだけは以前
からあった︒私は今回の調査で︑中国のような東方世界にムスリム社会が誕生したのはモンゴル帝国の遺産のひとつだ︑
ということを保安族や東郷族の知識人や宗教的エリートたちの前で言ってみた︒何故かというと︑歴史は民族の形成と起
源認識に直接関係しているからである︒その結果︑彼らもモンゴル帝国とイスラームとの関係について多くの知識をもっ
ていることが確認できた︒彼らの何人かは調査者の私がそれを言う前に︑私がモンゴル人だと分かったときに︑﹁われわれ
の祖先はモンゴル帝国時代に来たものだ﹂︑﹁モンゴル人とは親戚だ﹂と表現し︑調査者の私を快く受けいれてくれた︒モ
ンゴル人と称して現在を生きる個人は︑どうしても物事をモンゴルと称された集団の過去の歴史と結びつけて考える習慣
から脱出できないでいる︒
実際のところ︑﹁貴方たちはモンゴル帝国時代に来た人々の子孫だよ﹂︑という言い方をするモンゴル人の姿勢は倣慢だ
と思っている︒それでも︑言ってみて彼らの反応をみたかった︒.というのは︑保安族や東郷族の人たちのアイデンティティ
は一九八〇年代から少しずつではあるが︑確実に変わりはじめたからである︒二〇〇〇年夏のある日︑私が内モンゴル自
治区西部のアラシャン地域でモンゴル人ムスリムについて調査していたころ︑ひとりの東郷族の導師に出会ったことがあ
る︒甘粛省河州︵現 臨夏︶地域出身で︑東郷人の彼は︑モンゴル人ムスリムのあいだで布教をしていた︒.彼は↓東郷人
もモンゴル人もみなモンゴルだ﹂と主張しながら︑宗教に対する社会主義の締め付けが緩くなった一九八〇年代に︑自ら
の族籍をモンゴル族から東郷族に戻していた︒その理由は極めてシンプルで︑﹁東郷族はムスリムだから﹂︑との一点だっ
た︒つまり︑モンゴル語系の言葉を話す彼らは密かにではあるが︑イスラームへ回帰しているのではないか︑と直感した
の で
あ る
︒
それだけではない︒保安族や東郷族のエリートたちのなかには︑従来の ﹁イスラームを信奉するモンゴル人を中心に形
成された民族﹂という定義に異議を唱える人々が増えてきている︒モンゴル的な色彩を消し︑現在定着している民族名称
も改めるべきだとの主張も現れた︒何散︑このような変化が生じたのだろうか︒
民族はすべて㌦想像の共同体﹂ である︑とアンダーソン流に簡単に帰納する見方はあろう︒このような見方に一番欠如
しているのは歴史性のことであろう︒歴史と民族形成の関係を考えた際に︑どうしても﹁モンゴル帝国の遺産としての東
方イスラーム﹂という説が頭に浮かんでくる︒そこで︑私は敢えて ﹁倣慢な調査者﹂を演じ続けた︒このような﹁倣慢な
調査者﹂ に対して︑保安族や東郷族の人たち︑それに回族の人たちは一概に寛容的であった︒彼らもこの学界の通説を受
けいれたうえで︑あるいは知っているうえで自己主張をした︒私も当然彼らの主張には真剣に耳を傾けた︒
﹁倣慢な調査者﹂を演じたことにより︑私は今回の調査がかなりうまくいったと自負している︒調査者の私が自分の本
音を曝けだすことによって︑彼らの本音をある程度聞くことができたと信じている︒もちろん︑彼らがすべてを私に包み
隠さずに語ったことを意味しない︒時間的にそれは不可能である︒異教徒に口外しないことだって沢山あるはずだ︒モン
ゴル人も保安人も︑それに東郷人と回族も︑みな中国という巨大な国家のなかの少数民族だということ︑日々の暮しにも
すべ.てマイノリティであることが投影されていること︑つまり︑調査者七被調査者の双方とも国家内では少数者の立場に
あるということが︑私と彼らとの距離を縮めることができたのである︒
﹁心と霊﹂ に近づくための旅
私は今回の実地調査を最初から﹁心と霊に接近するための旅﹂と位置づけて・いた︒研究において︑﹁心と霊の問題﹂を強
烈に主張したのも︑やはり作家の張承素である︒祖籍は山東省でも生まれは北京の張承志は回族のひとりである︒﹁文化大
三八
革命﹂ のさなかの一九六八年から︑彼は下放青年として内モンゴル自治区のウジュムチン草原で暮した︒彼はそのときに
生活をともにしていたモンゴル人一家をずっと家族と見倣し︑無限の愛情をこめて度々自らの作品に登場させている︒そ
の後彼は中国蒙古学会会長で︑碩学の翁濁健の弟子となり︑歴史・考古学の訓練を受けた︒学問という研究手法の限界を
感じたためか︑作家として人間の生き方と精神世界の探求に重心を移していった︒作家として成功していく過程は同時に
彼がムスリムとして自覚し︑それも殉教精神を尊ぶイスラーム神秘主義︵スーフィズム︶ の一派︑ジャフリーヤ派への精
神的な接近のプロセスでもあった︒俗にいう﹁西海固﹂地区︑つまり寧夏回族自治区の西吉︑海原︑固原三県に住む貧し
いムスリムたちとの生活経験から︑中国イスラーム特にジャフリーヤ派の苦難と殉教の歴史を彼は一九九一年に﹃心霊史﹄
として書きあげた︒中国のある青年学者は次のように評している︒張承志はムスリムの員としてスーフィー内部の核心
に直入し︑悟りを得た︒彼はイスラームの生き生きとした生命力とあり方に震撼し︑敬服をした︒そして︑彼は孔孟思想
を主流とする文化への反撃を始めた︑という︒
﹃心霊史﹄は中国のムスリム社会とりわけ回族社会からは巨大な反響を巻き起こした︒黄土高原に住む回族のムスリム
たちはみな涙を流しながら﹃心霊史﹄を読んだ︒十数年たった現在︑﹃心霊史﹄を中国の大学生の必読書に指定する研究者
0 1
も出ている︒そして︑作家張承志とその作品を研究する学問︑いわゆる﹁張承志学﹂が誕生した︒
﹃心霊史﹄の日本語改訂版である﹃殉教の中国イスラム﹄のなかで︑張承志は自らの執筆方針を次のように語っている︒
正しい方法論とは︑信仰する教徒たちに保持されている生き方そのものの中にあるのではないか︒旧式の歴史叙述の
2
方法に頼っては︑そうした教徒たちの思いをつぶすごとになる︒
私はこの ﹁生き方﹂という表現に魅了された︒今までに読んだ活字のなかで︑これほど輝く言葉は少なかった︒どんな
学術的なタームを並べても︑私がつきあってきた人々︑モンゴル人だろうが︑カザフ人だろうが︑あるいは漢人だろうが︑
彼らの真の思いを伝えることができたかどうか︑常に不安だった︒学術という営為は資料を根拠とする︒しかし︑人々の
思いがすべて資料となってそこらへんに転がっているわけではない︒中国では少数民族の一員︑日本では外国人である私
が︑自分と同じく弱い立場にいる人々の思いを強調したとき︑﹁非客観的﹂とみられることがある︒京都大学の歴史学者杉
山正明が歴史上のモンゴルについて︑﹁大モンゴル﹂や﹁モンゴルの時代﹂と楽々と表現できても︑私は躊躇しなければな
らない︒モンゴル人の口から客観的に ﹁大﹂や﹁時代﹂ が出てきても︑それは危険である︒中国では分離独立指向のある
﹁民族主義者﹂とされるし︑日本では﹁自民族中心的﹂で︑﹁非客観的﹂とみられるかもしれない︒したがって︑マイノリ
ティの一員である私がモンゴル学者として︑モンゴルを対象に︑生き方を追求するときは慎重でなければならない︒それ
3
でも︑私は生き方の探求こそ人類学の目的のひとつだと認識し︑今回︑調査対象をモンゴルから保安族や東郷族に広げた
の で
あ る
︒
今回の調査のなかで︑私は極力彼らの生き方の方に近づこうと努力した︒異教徒の私にどれほど本音を吐露してくれる
か不安は残る︒たとえ彼らの話が極めて表面的で︑礼を失することなく彬々としたものであっても︑多様なムスリム社会
の一端を伝えることができれば︑それで充分だ︒ムスリムたちとつきあうのは︑今回が初めてではない︒一九九一年から
一九九三年まで︑毎年のように新彊ウイグル自治区で調査したことがある︒新彊ウイグル自治区に住むカザフ族やウイグ
ル族︑それにウズベク族もみなムスリムだ︒ムスリム社会で守らなければならない基本的なことは知っているつもりだ︒
それでも︑いささか心配だ︒というのは︑今回は︑心と霊への接近を目指しているからだ︒
人類学はもともと心を無視する学問ではない︒レヴイ=ストロ.■−スは﹃悲しき熱帯﹄のなかで︑人類学は人々の心の間
題にも対応する必要があると語っていた︒一口に﹁中国ムスリム﹂といっても︑その実態はさまざまだ︒異教徒の私を彼
らは果たして受けいれてくれるのだろうか︒どこまで本音を語ってくれるのだろうか︒今回の旅で︑少しでもイスラーム
社 会
の 一
端 を
伝 え
た い
︒
イスラームが定着した環境
甘粛省の省都蘭州へ飛ぶ飛行機は約一時間遅れて午後一五時四五分に北京空港を離陸した︒まもなく西北中国の黄色い
大地が眼の下で見えてきた︒黄土の大地は実に細かい粒子からなっている︒粒子は北西風に巻きあげられて︑空はずっと
霞 ん
で い
る ︒
一八時前に飛行機は蘭州市西北の中州機場の上空に着いた︒灰色の山々の上空を旋回しながら︑着陸の態勢に入った︒
4
私は思わず黄土高原を描いた張承志の言葉を思いだした︒
すさまじいまでの山岳風景︒人びとはたくましい︒神秘主義すなわちスーフィズムのほかには︑この地にふさわしい
力は存在しない︒知識人はそれに対して無力であった︒それゆえに︑この宗教的な黄土高原は外界に理解されてこな
か っ
た ︒
私はムスリムではないが︑張承志の言葉には共鳴できる︒日本列島のように森林に覆われた山々よりは人間的に感じる︒
森林の山々には万物の霊も宿る︒だから︑森は恐い︒木立の少ない黄土高原の山々はどことなく人間的である︒
中川機場は蘭州市から西北に八〇キロも離れたところにある︒空港を出ると︑あたりはすっかり暗くなっていた︒夜の
黄土高原の道をひとりでタクシーに乗って走るのは止めようと思った︒山道が恐いのではなく︑安全が気になる︒どこか
の村に入っておけば恐いものは何もないが︑目的地までの道中が恐い︒大型のリムジンに乗りこむ︒下り坂常なると︑運
転手はエンジンを切る︒﹁お金はガソリン節約で儲かるものではない﹂︑と南国の広東人らしいグループもカラ・ブレーキ
に抗議するが︑効き目は全くない︒金持ちの広東人もタクシーではなくリムジンを選んでいるから︑説得力がない︒いや︑
五〜六〇代生まれの中国の運転手はみなそういう風にカラ・ブレーキで下り坂を通る︒これも一種の文化にちがいない︒
私はこの夜︑蘭州大学の外国人教師用の宿舎で過ごした■︒設備も悪くないし︑一晩二〇〇〇円くらいで泊まれるから︑
安い︒大学構内は安全で︑静かだ︒それに私は蘭州大学出版社の本を買いたかった︒構内には必ず本屋がある︒最新の研
究情報を知るためには本屋に行くのが一番だ︒
宿舎では外国人教師や留学生たちが少し早いクリスマス・パーティーに興じていた︒チェックインしてから大学を出る︒
学生街で﹁清真蘭州牛肉ラーメン﹂を食べる︒一杯五〇円にもならない︒﹁清美﹂とはムスリムの経営を意味する︒蘭州人
にとって ﹁蘭州牛肉ラーメン﹂ は欠かせない存在だ︒一日三食だけでなく︑おやつもラーメンでなければならない︑とい
うジョークがある︒こけ﹁蘭州牛肉ラーメン﹂の主な担い手はムスリムたらだ︒ラーメンを食べているあいだ︑小学生く
らいの男の子が︑香港の俳優レスリー・チャン ︵張国栄︶ が自殺した日にちについて︑店主の親父さんと話しあっていた︒
遠い香港の芸能界の出来事に︑回族の少年は興味を抱いているようだ︒
麻薬と天下第一の市
保安族も東郷族も甘粛省西部の臨夏回族自治州に住んでいる︵地図1︶︒特定の地域における少数民族の自治を認めるヰ
国において︑自治という名が冠したさまざまな行政組織が存在する︒モンゴル族︑チベット族↓ウイグル族︑回族︑チワン
四
地図1 臨夏回族自治州における保安族と東郷族の集中居住地
『保安族簡史簡志合編(初稿)』(1963年)より改編  ̄
(冊塵は保安族、書線は東郷族のそれぞれの居住地を表す)
四
族はそれぞれ自治区をもっている︒それ以外の省にももし少数民族がいれば︑自治州や自治県︑自治郷が成立する︒甘粛省
は漢族人口の多い省であるが︑回族の多い臨夏地域は回族自治州となっている︒保安族は臨夏回族自治州内で東郷族やサ
ラール︵撒拉族︶とともに積石山保安族東郷族撒拉族自治県を創って暮している︒一方︑東郷族は単独で東郷族自治県を州
内でもっている︒保安族や東郷族の人たちに会うためには︑まず臨夏回族自治州の州都︑臨夏市に行かなければならない︒
私を臨夏市へ案内してくれたのは︑西北民族大学のツエムデン ︵才木当︶さんである︒彼女は甘粛省の西隣︑青海省海
曇地域の出身である︒臨夏市にも友人や教え子が大勢いるから︑調査地への案内をお願いした︒中国は長いあいだ西欧列
強によって殖民地・半殖民地とされていたためか︑外国人や外国に拠点を置く中国出身の研究者は強く警戒されている︒
そのため︑直接民間に入るよりも︑必ず政府筋に報告し︑誰かの紹介がなければ面倒なことになる︒
案内のツエムデンさんとタクシーをチャーターして臨夏市に向かう︒運転手は漢人だ︒朝の蘭州市の気温はマイナス八
度だ︒天気予報では晴れとなっているが︑空気汚染がひどく︑太陽も見えない︒
蘭州を離れて西へひたすら車を飛ばす︒広河県内に入ったときからモスク︵清美寺︶が目に見えて増えてくる︒回民の
姿も多い︒広河県は以前に太子寺と呼ばれていた︒一八六〇年代に西北一帯を席捲した回民反乱が起こったとき︑太子寺
周辺では何回も大規模な戟閥がおこなわれた︒私はそうした書物のなかの知識を思い浮かべながら︑風景を眺めていた︒﹁回
民は食べなくても︑着なくても︑金をモスクに寄付するから︑この地のモスクだけは立派だ﹂︑と漢人の運転手はいう︒確
かに甘粛省は中国のなかでも︑国民ひとりあたりの収入の低い省だ︒そしてこの甘粛省でも広河県は特に貧乏だという︒■
貧乏な地域の人々がなぜ食わず着ずに金を宗教的施設に寄付するか︑現実主義者の漢人には理解できないようだ︒彼はさ
らに﹁だから︑やつらは遅れているのだ﹂︑と言って慣らなノかった︒
5
ここでも私は張承志の指摘が頭から離れない︒彼は言った︒
讐
中国ムスリムは漢族と同じように︑この希望のうすい貧窮な地域で生涯をおくつている︒一般的にいえば︑彼らは隣
人としての漠族を羨ましがる必要はない︒半飢餓の状態は︑イスラム教の食生活のタブーをむしろいっそう聖なるも
のとさせている︒非人道的とも言える性の抑圧や不潔な衛生状態も︑割礼と沐浴をおこなう回族にとっては︑ある種
の神秘的な満足をもたらすものである︒水のない寒村では雪を溜めて夏を過ごすのであるが︑宗教的な沐浴をかかさ
ない回族の家にとっては水の清潔さが何よりも大切なことである︒濁った水を鍋にいれて炊事をしている漠族がどう
しても理解できないのは︑なぜ回族が苦労してきれいな水を残しては身体を洗うのか︑ということである︒.もっとも
重要なことは︑つらい日々の仕事のあとで︑ムスリムでなければ寝床にあがって灯火を吹き消して眠るほかに何ひと
つやることはないようなときに︑モスクの闇の中には悠揚として賛美詞を詠む声がただよっていることだ︒
もっとも︑張承志は水を沐浴と宗教的な行事と結びつけてムスリムの精神世界について書いている︒宗教的な精神は日々
のすべての行動に反映されている︒そう簡単に理解できるものではなかろう︒
広河県の三甲集を通る︒町には﹁天下第一の市﹂︑﹁西北第一の市﹂といった看板︵写真l︶が見える︒昔から商売熱心
な地域であるという︒ここに集まった商品はさらに西へ︑東へと運ばれていく︒一九三六年八月にこの地を通った天津﹃大
6
公報﹄ の若い記者︑汚長江は埋坪という漢人の村に泊まったときの印象を次のように書きのこしている︒
この地の居住者は全部漢人ばかりだ︒だがその漢人の過半数までは阿片をたしなみ︑すっかり中毒してまるで元気が
なくなっている︒この毒はそもそも中国の前途に重大な傷を残そうとしているのであろうか!この毒を伝播した責任
者は︑一度でも自分の負うべき罪の重大さを計算したことがあるのであろうか?
_.写真1中国西北部の重要な市場のひとつ、三甲集鎮0 その繁栄を支えているのはムスリムたちだ。
苑長江億私とは逆の方向︑つまり彼は西の臨夏から東の蘭州
へと向かっ七いた︒毒を伝播した者の責任の重大さを苑長江は
批判していたが︑数十年たったあとも︑状況はさほど変わらな
7
い
︒ 町
の 至
る と
こ ろ
に ﹁
吸 毒
可 恥
︑ 禁
毒 光
栄 ﹂
︵ ア
へ ン
吸 引
は 恥
で︑やめた方が名誉だ︶ という標語が見られる︒あとで分かっ
たことだが︑一九九五年に出版された﹃臨夏市誌﹄も︑一九八
〇年代から臨夏市の一部地域でケシの栽培を再開したところが
8
あるのを認める記述をしている︒地元の栽培以上に︑最近では
南の雲南省から運ばれてくる麻薬が多いという︒東南アジアの\
﹁ゴールデン・トライアングル﹂▲もこの黄土の大地と繋がって
い る
の だ
︒
中国には独特な建前と本音の文化がある︒それを町の建物に
書いてある棟語からも読みとれる︒﹁文盲を一掃しょう﹂︑﹁教育
に力をいれよう﹂と書いている場合︑大体その目標が達成され
ていないことを意味している︒麻薬の売買や吸引は腐敗した資
本主義国家の現象だ︑と社会主義的教育を受けた私たちは昔そ
ぅ教えられた︒社会主義国家にも実は最近︑麻薬の氾濫が周題
となっ・ているとは︑往時の苑長江もさぞ嘆いているにちがいな
い︒もっとも︑社会主義国家の麻薬の問題を外国に知らせたのは
スパイをしている人ではなく︑町の標語がそう語っているだけで
あ る
︒
河州を通る
昼 の
二 一
時 過
ぎ に
臨 夏
市 ︵
写 真
2 ︶
に
入 っ
た ︒
臨 夏
市 は
古 く
河
州と呼ばれていた︒今でも臨夏を知らずに河州を知っている人は
9
沢山いる︒かつてここを通った苑長江は次のように書いている︒
河州は中国西北における回教の聖地である︒中国西北の回教
中︑宗教︑軍事および政治上の主要な人物は河州出身の者が
ことに多い︒城池はべつにそれほど大きいわけでもなく︑か
つ平原のなか碇あって︑険峻というものでもない︒しかしな
がら河州の名は︑西北各種族の耳に鳴りひびいている︒回人
は河州と聞いただけで胸をわくわくさせる︒これは彼らの故
郷 だ
か ら
だ ︒
苑長江が目にした城壁はすでに壊されている︒中華人民共和国
写真2 中国西北回民の聖地、河州。今は臨夏市と呼ばれている。
成立後︑全土にあった城壁をことごとく破壊しっくしている︒例外的に残ったのはごく僅かである︒人民の力で政権を取っ
た人々が︑人民の力量をもっとも知っていたことからの措置であろう︒
臨夏こと河州は大夏河のほとりにある︒河州を中心に︑その東西南北を以前はそれぞれ東郷︑西郷︑南郷︑北郷と呼ん
0
でいた︒中華人民共和国成立後︑東郷に住むアルタイ語系モンゴル語族の言葉を話す人たちは東郷族を名のるようになる︒
臨夏より西の方へ行けば︑保安族と.サラール族の居住地になる︒このことからみれば︑一概に言えないかもしれないが.︑
東西南北四つの郷は歴史的にある程度民族的に棲み分けをしていた可能性が高い︒すべてムスリムであったとしても︑そ
の内部は千差万別だったにちがいない︒一八世紀からスーフィズム ︵神秘主義︶ が入ってから︑イスラームの宗教学者を
21
多く輩出した︒そのため︑張承志は河州を ﹁中国イスラームの学術センター﹂と呼んでいる︒市内は見渡す限り白い帽子
のムスリムたちの世界だ︒ここはまちがいなく回民の聖地だ︒中国というよりもどことなく中央アジア的な雰囲気が漂っ
ている︒私はこの雰囲気がたまらないほど好きで︑観ているだけで興奮してくる︒
臨夏市ではツエムデンさんの友人たちが待っていた︒保安族で︑積石山保安族東郷族撒拉族自治県人民政府弁公室主任
の馬成︑東郷族で︑東郷族自治県組織部長の馬合珍︑それに回族で︑臨夏回族自治州交通局副局長の馬永祥の三人に会っ
た︒多民族地域での調査がうまくいくように︑とツエムデンさんのいきとどいた配慮である︒馬成主任は新彊ウイグル自
治区生まれの保安族である︒一九五〇年代︑人民公社の成立に伴い︑急激な公有化運動が展開され︑宗教に対する弾圧も
厳しくなったため︑一部の保安族は故郷を離れて新彊ウイグル自治区に移住した歴史がある︒馬成主任はその人たちの子
孫だ︒故郷への思いが絶ちきれず︑公務員になってから︑父祖の故郷に赴任してきたわけである︒三人とも豪壮な男だ︒
私たちは鍋料理に舌鼓をうつたが︑当然︑酒は出なかった︒
食卓を囲みながら︑私の調査日程は大体決められた︒食事のあとはまず臨夏市を離れて直接積石山保安族東郷族撒拉族
四 八
自治県に行き︑保安族の調査を先におこなう︒数日後には一旦臨夏市に戻ってから︑いにしえの河州をじっくり見る︒そ
して︑最後に東郷族自治県に入り︑インタビューを終えてからまっすぐ東の蘭州市に帰る︑という予定がたった︒
二 西北独特のスーフィズム
臨夏市を離れて西の積石山保安族東郷族撒拉族自治県へ向かって車を飛ばす︒車を馬成主任が手配してくれた︒運転手
は河南省出身の回族の青年である︒熱心な青年は日本におけるイスラーム研究のこと︑日本の総理大臣がなぜ靖国神社に
度々参拝するのか︑いろいろと聞いてくる︒
道路の右側は黄土の山脈である︒やや霞んでいるが︑それでも山の中腹や頂上に華やかな建物が点在しているのが見え
る︒運転手の青年に聞くと︑スーフィー教団門官のゴンバイ︵浜北︶だという︒
私は以前からスーフィー教団門宮に興味をもち︑今回の調査でも保安族や東郷族のあいだに存在するさまざまな門官に
ついてインタビューしたいと考えている︒したがって︑ここではまずスーフィー教団門官とは何か︑ゴンバイとはどんな
ものかについて︑説明しておく必要があろう︒
ス﹂フィーの道
中国西北地域のスーフィズム社会に入る前に︑まずスーフィズム一般について概観しておこう︒私はここでR.A一ニコ
2
ルソンの古典的な著作﹃イスラムの神秘主義﹄ のなかの記述を拝借したい︒ニコルソンは次のような立場を取っている︒
ス ー
フ ィ
ー と
は 宗
派 の
こ と
で は
な い
︒ 彼
ら は
教 理
体 系
を 持
た ず
︑ 彼
ら が
神 を
求 め
る よ
す が
と す
る ﹁
道 ﹂
︵ t
a r
川 q
a h
︶ は
︑
﹁人間の魂と同じくらいの数があって﹂無限に変化するが︑同一家族の成員としての類似性はそれらすべての中に見
出 せ
る ︒
3
では︑スーフィーたちの神を求める旅はどのようなものであろうか︒ニコルソンは続いて述べている︒
神 を
求 め
ゆ く
ス ー
フ ィ
ー は
︑ 自
分 自
身 を
﹁ 旅
人 ﹂
︵ S
巴 i
k ︶
と 称
し ︑
実 在
と の
合 一
︵ f
a コ
警 i
− L
壱 a
q q
︶ と
い う
終 着
点 へ
の 道
︵ t
a r
ざ a
h ︶
に 沿
っ て
︑ ゆ
っ く
り と
﹁ 階
梯 ﹂
︵
m a
q 針
m g
を 前
進 す
る ︒
この具体的な﹁階梯﹂として︑ニコルソンはスーフィズムの古い理論的な著作を用いながら︑次の七つの段階を挙げて
い る
︒ ︵
l ︶
改 俊
︑ ︵
2 ︶
. 禁
欲 ︑
︵ 3
︶ 放
棄 ︑
︵ 4
︶ 清
貧 ︑
︵ 5
︶ 忍
耐 ︑
︵ 6
︶ 神
へ の
信 頼
︑ ︵
7 ︶
満 足
︑ と
な っ
て い
る ︒
ス ー
フ ィ
ー
の ﹁道﹂は一段が完了して次へ進むという具合にして︑すべての ﹁階梯﹂を登り︑同時に神が快く与え給うあらゆる ﹁心
的状態﹂を経験してはじめて完成する︑との解釈である︒
4
近年︑潰田正美は東トルキスタンのスーフィー教団を取り上げた際に︑次のように論じている︒
神秘主義の多くは彼らの ﹁体験﹂ の内容を﹁彼らの言語﹂ によって表現することに熱心であったから︑異なるレベル
にある﹁彼らの言語﹂と﹁われわれの言華の間にある種の翻訳の回路を設定し得るならば︑彼らの神秘主義的ヴィ
ジョンをわれわれの言語で解説することは十分に可能である︒
四
九
五
〇
潰田はこのように指摘してから︑神秘主義の ﹁体験﹂ は社会的な意味をもち︑歴史的な問題である︑と分析している︒
私は溝田の分析は正鵠を得ていると思う︒これから︑私は保安族と東郷族内のスーフィー教団門官について述べていくが︑
各門官が成立していく神秘的な﹁体験﹂ は︑まさに彼らの社会的・歴史的体験でもある︑という立場を先に示しおきたい︒
門 菅
スーフィー教団門官は︑中国西北地域のムスリム社会を理解するうえで︑避けてとおれない重要な存在である︒門官に
ついての予備知識をもったうえで︑.保安族と東郷族社会内のスーフィズムの実態を見ていこう︒
門官については︑回族出身の研究者である勉維霧の研究がある︒ここではまず勉維霧の﹃中国回族伊斯蘭宗教制度概論﹄
︵一九九九年︶ の記述に沿って︑門官について簡単に説明しておきたい︒ただし∵タイトルから分かるように︑同書は主
として回族を対象としている︒回族研究から抽出した理論がどれほどモンゴル語系諸集団のスーフィズム理解に有効かは
不明であるが︑その一側面をうかがい知るうえでは参考となろう︒
端的にいえば︑門官とは中国イスラームの神秘主義教団を患味する︒門官という言葉の由来についてはさまざまな説が
あるが︑漢語の﹁官門﹂と﹁門閥﹂をあわせた表現であろう︑という見方がもっとも一般的である︒﹁何々門官﹂と現在定
着している呼び方でも︑そのほとんどが外部の人間がつけたもので︑自称ではなかった︒門官の名称には地名に由来する
ものもあれば︑創始者の姓名や津名を採ったものもある︒信徒たちは門官の創始者やその継承者たちを道祖︑老人家︑太
5
爺などと呼ぶ︒このような研究者の観点とは別に︑中国におけるスーフィー教団を門官と表現するよりも︑門喚すなわち
コ ー ホ ワ ン 2 6
﹁神聖な門からの口喚﹂ に改めるべきだ︑という主張が一部の教団から最近出されている︒
現在の中国西北地域には大小およそ四〇いくつもの門官があるが︑それらはすべて﹁四大スーフィー学派﹂ のいずれか
に属する︒この﹁四大スーフィー学派﹂はまた﹁四大門官﹂と呼ばれることもあり︑具体的にはフフィーヤ︵虎夫耶︶︑カー
デ イ
リ ー
︵ 囁
徳 林
耶 ︶
︑ ・
ジ ャ
フ リ
ー ヤ
︵
哲 合
忍 耶
︶ ︑
ク ブ
ラ ヴ
イ
︵ 庫
布 忍
耶 ︶
の
四 つ
で あ
る ︒
言 い
換 え
れ ば
︑ す
べ て
の 門
官
はこれら ﹁四大スーフィー学派﹂ あるいは ﹁四大門官﹂ の分派にあたる︑ということだ︒
では︑いつごろからこのようなスーフィー教団︑門官が誕生したのだろうか︒この点に関しては勉維霧と溝田正美の記
述を引用したい︒
勉維霧らによると︑もっとも早く甘粛︑寧夏︑青海地域でスーフィズムを伝えたのはナクシユバンディ1教団のカシュ
7
ガル・ホージヤ家のホージヤ・エスプ ︵尤素甫︶ であるという︒ホージヤ・ユスプは新東南部での政治的な不遇から東の ハーミ︵吟密︶や甘粛に亡命し︑密かに布教していたが︑その業績は実らなかった︒その後︑ホージヤ・ユスプの息子ホー
ジヤ・アーファークが一六七二年前後に︑やはり亡命の途中に甘粛︑青海地域で布教活動をおこなった︒ホージヤ・アー
ファークの道続を直接受けた弟子の馬守貞はムフティ ︵穆夫提︶ 門官を︑馬宗生は畢家場門官をそれぞれ創設した︒これ
らの門宮はフフィーヤと総称される︒ほぼ同じころ︑バグダッドからやってきたホージヤ・アブドウツラーはカーディリー
学派を伝えた︒一説ではホージヤ・アブドウツラーも新垂のスーフィー教団と関係があるという︒一八世紀中葉尤入ると︑
今度は馬明心がジャフリーヤの教義を広げた︒一八世紀後半にはさらにクブラヴイの教えも新車から伝わり︑﹁四大スーフィー
8
学派﹂ あるいは ﹁四大門宮﹂ が正式に形成される︒勉維寮に言わせると︑中国西北地域のスーフィズム ︵神秘主義︶ は新
彊地域に存在したスーフィズムの東進の結果である︒それは︑清朝政府がジュンガルのオイラート・モンゴルと回部と称す
るムスリム諸集団を征服したことにより︑甘粛︑寧夏それに青海と東トルキスタン ︵新彊︶ との交流が自由になった結果
9
でもある︑という︒そのため︑現在でも︑甘粛︑寧夏それに青海のムスリムたちは新垂に対して特別な感情を抱いている︒
勉維霧の指摘は正しかった︒詳しくはのちに述べるが︑私が調査しているあいだ︑新彊ウイグル自治区と関連する動き
がいくつも確認できた︒
ゴ ン
バ イ
︵ 挨
北 ︶
ゴンバイとはベルシア語の︵gOnbad︶.に由来し︑もともと丸屋根ドーム︑丸屋根の建物を意味する言葉だが︑中国西北
部のムスリム社会では︑スーフィー教団の指導者や聖者の墓廟を指す︒一般的にゴンバイの多くは修道所である道堂を付
設し︑近くにモスク ︵清真寺︶ も建ち︑教団の布教センターであり︑聖地である︒墓の上には扶形もしくは中原の楼閣亭
樹 風
の 建
物 が
建 つ
︒
0
勉椎霧はその著作﹃中国回族伊斯蘭宗教制度概論﹄ のなかで︑回族のゴンバイについて要領よく説明しており︑その記
述を私なりにまとめておきたい︒
ゴンバイがスーフィー教団の聖地である以上︑信者たちはゴンバイを訪れ︑宗教儀式がここでおこなわれる︒勉維霧は
主として以下四つの儀式を挙げている︒
第一︑献香︒敬香︑上香ともいう︒回族︑保安族それに東郷族の人々は家庭内でも日常的に香を焚くことはよくあるが︑
それには宗教的な意味はない︒しかし︑スーフィー教団においては︑献香は儀礼の一環としておこなわれており︑
1
多くのゴンバイには大型香炉がある︒献香は儀式の一環であるが︑ロウソクを灯すことは厳禁されている︒
第二︑苫単の献上︒苫単とは布製のカバーのことである︒白︑黒︑緑などの色がある︒参拝者は持参した苫単をゴンバ
イ内の墓の上に覆いかぶせる︒これはいわば帰真 ︵逝去︶ した人物に対する崇敬の気持ちの現れである︒
第三︑墓参りと﹃クルアーン﹄の吟唱︒﹃クルアーン﹄の一部分を吟唱し︑帰真︵逝去︶した人物のために祈りを捧げる︒
第 四
︑ ア
マ ル
︵
A m
a −
︶ 聖
会 の
挙 行
︒ ア
マ ル
と は
本 来
は ﹁
お こ
な い
﹂ ︑
﹁ 行
為 ﹂
の
意 味
で ︑
イ ス
ラ ー
ム に
沿 っ
た 各
種 の
功 修
と一切の善行を指していたが︑中国ムスリムのスーフィー教団内部ではさらに特別な意味がある︒アマル聖会は︑
教団の創始者や指導者たちの忌日におこなわれる追悼の儀式を指す︒﹃クルアーン﹄を唱える以外に︑教団独自の
2
経典を吟唱する︒聖会のときには遠近を問わず︑教団の信者たちが集まってくる︒
以上のほか︑子授けのために女性たちが訪れることもあるが︑多くの教団ではこの種のことを禁止しているという︒
勉維霧によると︑中国西北地域の甘粛︑寧夏それに青海におけるムスリムたちの最初のゴンバイは︑恐らくカーディリー
派が教祖のために一六八九 ︵康照二八︶ 年に四川省間中で建てた ﹁久照亭﹂ であろうという︒カーディリー派はさらに二
つの教団に分かれ︑ひとつは大挨北門官で︑もうひとつは九彩坪︵韮菜坪︶ 門宮である︒一七二〇年︑大技北門官の創立
者祁静一が帰真 ︵逝去︶ したあと︑信徒たちは河州の八坊というところで彼のために壮大なゴンバイを建設した︒庭園の
なかには墓と道堂︑礼拝所が立ち並び︑それにアラビア語学校も付設されていた︒人々はこれを﹁大挨北﹂と呼んだ︑と
いう︒私も今回の調査で︑いろんなところで大扶北門官という教団に属するムスリムたちに出会った︒
教主と信徒の関係
3
門官の指導者と信徒すなわち教衆たちとの関係について︑勉維霧は次のようにまとめている︒
まず︑教衆がシャイフ︵老人家︶に会うときには脆きの礼をする︒シャイフの指示や命令は﹁口喚﹂といい︑教衆は無
条件で守らなければなら庵い︒個人の家庭生活から冠婚葬祭すべてシャイフの﹁口喚﹂を得たうえで実行しなければなら
ない︒この点で私も︑保安族と東郷族の社会内で︑特に都市部以外の農村地域ではどちらかというと︑同じ門官集団内部
で結婚相手を見つけるケースが多いとの情報を得た︒
勉維霧はまた教衆がシャイフに対して負わなければならない宗教的な義務について次の六点を挙げている︒
第一︑教衆はシャイフの言論と行動に対し︑疑ったり︑反論したりしてはいけない︒心のなかでもそのような思いを抱
い て
は い
け な
い ︒
第二︑教衆は自身の考えやナフス︵nafs自我︑個人︶について︑常にシャイフに報告し︑指示を仰がなければならない︒
第三︑他の門官のシャイフに追随してはならない︒シャイフに対する愛は自己愛︑家族愛よりも上である︒シャイフの
媒介があってはじめてアツラー.に近づくことが実現できる︒
4
第四︑シャイフを尊敬し︑雑念を抱かずにズイクル ︵aE町︶ を唱えなければならない︒
第五︑教衆はシャイフの教えを秘密として守らなければならない︒たとえば︑教衆の夢に対するシャイフの解釈を外部
に洩らしてはならない︒
第六︑シャイフが派遣した管区の長官︵ライース︶ の指導にしたがわなければならない︒
門官については︑もうひとり回族出身の研究者である馬通の﹃中国伊斯蘭教派与門官制度史略﹄︵二〇〇〇年︶も資料価
値の高い著作である︒この著作は︑著者の馬通がいろんな門官の指導者たちに面会し︑およそ三〇年間かけて実地調査で
資料収集して書きあげた労作である︒いわば︑イスラーム内部からの発信でもある︒馬通の著作はまた広くムスリムたち
に読まれている︒調査していたとき︑私もこの著作を片手に︑そのなかのいくつかの記述についてインタビューしたムス
リムたちに確認した︒当然︑馬通の著作について彼らはさまざまな反応を示した︒馬通の著作に示した反応については後
5
述するが︑ここではまず馬通が指摘する各門官共通の特徴を以下のように列挙しておこう︒
まず︑﹃クルアーン﹄と﹁聖訓ハディース﹂を守り︑すべてのムスリムに課せられた五つの義務を遵守しなければならな
い︒教主︵老人家︶を尊敬し︑教主は正しい道へ導くシャイフである︑と認めなければならない︒教主は常にズイクルを
唱える︒教主の墓地には亭室を建て︑ゴンバイと呼ぶ︒教衆はゴンバイに参拝しなければならない︒ほとんどの門官は教
主の地位をその子孫が世襲するか︑信頼できる門弟が受けつぐ︒教主は数多くのモスクを管轄し︑教坊の指導者アホンを
任命する︒教主は商業や教衆たちの寄付によって当該門官を経営する︒
このような門官組魔であるが︑馬通は﹁門官の出現は︑中国のイスラームはすでに中国の伝統的な封建制度や儒教思想
6
と結合していることを現している﹂︑と評している︒馬通はざらにいう︒凛なる教派や門官同士の多くは対立関係にあって︑
互いを排斥し︑反目してきた︒つまり︑イスラームを信ずる諸民族が相互に連携できない原因のひとつに︑門官同士の争
7
いを挙げられる︑と厳しく指摘している︒
上に紹介した勉椎霧や馬通の見方と違って︑張承志はジャフリーヤ教団を例に︑スーフィズムを受けいれた社会的な環
8
境を別の角度から次のように説明している︒
イスラム神秘主義の教派の特色である鮮烈さ︑簡潔さは不思議に大西北の風土︑人情とぴったり合い︑この地に入る
とたちまちにして根をはりめぐらしていった︒⁝⁝︵中略︶ 困窮きわまる回民にとっては︑シャイフ︑モッラー︑ム
ルシドという言葉を︑それぞれ区別することなく一様に導師︑あるいは道を指し示してくれる人と訳すだけで事足り
た︒彼ら宗教者は自ら苦難の修行を実行した︒それは真に月らの信仰のためである︒その一種の神秘的な姿はこの地
の農民がはじめて目にするものであった︒⁝⁝︵中略︶ これが神秘主義である︒これが大西北の一八世紀である︒中
国のひとつの下層の新構造ができあがった︒しかし︑中国はこのような奇怪な構造の誕生を許さなかった︒神秘主義
がもつ来世と造物主とにたいする其撃な希求は︑実際上暗黒の中国に対する告発と批判の表明であったのだ︒これは
もっとも徹底した異端であった︒
いうまでもなく︑勉維霧や馬通のドライな学問的な記述だけで
はストフイズムの精神的な実態は充分に伝わってこない︒少なく
とも︑私個人は張承志の意図する文意は理解しやすいと感じた︒
歴史学者は恐らく上に掲げた張承志の文章を引用しないだろうが︑
私は人類学徒としてあえて反対の道を目指したい︒
三 保安族の居住地
保安族の若いエリート
灰黄色の谷間を通ってから山の尾根を走る︒途中には漠族の村
もあれば︑回族の村もある︒ムスリムの村には必ずモスクがいく
つも見える︒﹁外から見たとき︑回族の村と漢族の村はどう違うの
か﹂︑と運転手に聞いて見る︒﹁簡単さ︒清潔さで分かる︒ムスリ
ムの村はいつも清掃している︒漢族の村はゴミだらけだ﹂︑との返
事だった︒途中︑峠の上でバザールへ行く回族の農民数人に出会っ
た︒そのうちのひとりはニワトリを一匹抱えていた︵写真3︶︒ひ
9
とりあたり平均年収約九〇〇元で︑低い場合は二〇〇元む満たな
いこの地域において︑ニワトリ一匹も実に大事な財産だ︒
写真3 バザールへ赴く回族農民。背後に棚田が見える。
保安族が集中居住している積石山保安族東郷族撒拉族自治県の
政 府
所 在
地 で
あ る
吹 麻
灘 ︵
地 図
1 ︶
に 入
っ た
の は
午 後
四 時
だ っ
た ︒
海抜約二三〇〇メートルのところにある町だ︒町のすぐ西側には
積石山系の山が南北に走り︑山頂には雪が光っている︒麓ではサ
ラ ー
ル 族
の モ
ス ク
が 奪
え 立
っ て
い る
︵
写 真
4 ︶
︒
0
吹麻灘という地名を古くは駐馬灘と書く︒二二世紀ころに︑チ
ンギス・ハーンの大軍が西夏王朝を征服する途中に︑軍馬を駐留
1
させていたことに由来する︑と地元の老人はいう︒吹麻灘では二
人の若い幹部が待っていた︒県政府弁公室副主任の馬俊︵保安族 二九歳︶と県宗教局副局長の仙進雲︵回族 二九歳︶ の二人だ︒
早速二人から県全体に関する説明を受けた︒
二人によると︑積石山保安族東郷族撒拉族自治県は現在一四の
郷と四つの銭からなり︑総人口が約二二万四〇〇〇人に達する︒
そのうち保安族は一万三〇〇〇人で︑東郷族は一万八〇〇〇人︑
サラール族は七八〇〇人で︑その他は漢族と回族だという︒各民
族はいずれも農業を中心とした生活を送っている︒
県には現在四四四ヶ所の宗教的活動場所があるという︒いわゆ
る宗教的活動場所にはモスク︑ゴンバイ︑それに仏教寺院などす
写真4 サラール族のモスク
べてが含まれる︒具体的にはモスクが三二一ヶ所︑ゴンバイが八ヶ所︑仏教寺院七二ヶ所︑道観六ヶ所などからなる︒ち
2