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ネ ー デ ル ラ ン ド ・近 代 プ ロテ ス タ ン ト絵 画

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ネ ー デ ル ラ ン ド ・近 代 プ ロテ ス タ ン ト絵 画

一 そ れ を 一 つ の 派 と し て 立 て る 試 み 一

序12345

倉 田

ネ ー デ ル ラ ン ド お よ び そ の プ ロ テ ス タ ン ト革 命 小 史 レ ン ブ ラ ン ト(Rembrandt,1606‑1669)

フ ェ ル メ ー ルJanVermeer,本 名Johannesvandermeer ピ ー タ ー ・ ブ リ ュ ー ゲ ル

バ ロ ッ ク と し て の ル ー ベ ン ス

結 び

1.16世 紀 か ら17世 紀 の オ ラ ン ダ革 命 は ブ ル ジ ョア 革 命 で あ る。 だ が そ れ を ブ ル ジ ョア革 命 と見 な い わ け は,1,独 立 革 命 だ か ら,と い う もの で あ る。 しか し ア メ リカ 第1革 命 も そ うで あ った か ら,そ れ は理 由 に な らな い 。 また,2,宗 教 革 命 だ か ら,と い う もの で あ る。 しか し ピ ュー リタ ン革 命 も 宗 教 革 命 と見 な され て い た 。 ク リス トフ ァー ・ヒル(1)が初 め て ブル ジ ョア 革 命 と見 るの で あ っ た 。 オ ラ ンダ も同 じ宗 教 革 命 で あ る。 だ か ら,オ ラ ンダ 革 命 が ブ ル ジ ョア革 命 で は な い と は言 え な い 。

2.西 洋 絵 画 の 歴 史 は2つ に 分 か れ る 。1つ は,キ リ ス ト教 以 前 の 絵 画, つ ま り ギ リ シ ャ ・ロ ー マ の,そ し て,キ リス ト教 民 族 以 外 の 民 族 の 絵 画 で あ る 。

2つ は,キ リ ス ト教 の 絵 画,キ リ ス ト教 流 布 以 後 の 絵 画 で あ る 。 こ れ は ロ ー マ 帝 国 末 期 か ら始 ま る 。 こ の よ う に,ま ず 歴 史 的 に2つ に 分 け る こ と が で き

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る。 さ て,キ リス ト教 の 時 代 も地 理 的 に は2つ に分 か れ る。 一 方 は,ビ ザ ン チ ン美 術 で あ り,4世 紀 か ら15世 紀 に 栄 えた 。 これ は,ギ リシ ャ正 教,東 方 教 会 に受 け継 が れ た 。 他 方 は,西 欧 キ リス ト教 の絵 画 で あ る。 古 代 末 か ら中 世 まで が さか ん で あ っ て,あ る意 味 で は,現 代 ま で も続 い て い る。

この 西 欧 キ リス ト教 の 絵 画 を,ま た2っ に 分 け る こ とが で き る。 ル ネ サ ン ス と宗 教 改 革,そ の 以 前 と以 後 とで 区 分 で き る 。ル ネ サ ン ス と宗 教 改 革 と は, 2つ の 画 期 を なす 。 つ ま り2っ の文 化 革 命 が お こ っ た の で あ る。 そ こで,ル ネ サ ン ス以 降 で も,1,ル ネ サ ンス か ら宗 教 改 革 ま で,2,宗 教 改 革 以 後, との2つ に分 け る こ とが で き る 。

3.絵 画 史 で は,買 い 手 ・注 文 主 が 重 要 で あ る。 絵 画 史 を,ま す ル ネ ッ サ ン ス,つ い で 宗 教 改 革 か ら見 て み よ う。 ヨー ロ ッパ 中世 で は,キ リス ト教 上 の人 物 と英 雄 ・肖像 が 注 文 され,画 か れ,売 られ,買 わ れ た 。 注 文 主 は,第

1に 教 会 で あ った 。 教 会 ・ 修 道 院 に無 数 の絵 画 が あ った し,今 も あ る。 大 体, イ エ ス ・ キ リス ト,新 約 聖 書 の 話,時 に は 旧約 聖 書 の 冒頭 の話,土 地 の 教 父, また パ ウ ロ,ペ テ ロ の よ う な使 徒 が,絵 画 の題 材 で あ っ た 。 教 会 は,絵 画 を 使 っ て,キ リス ト教 を紙 芝 居 の よ う に し て教 えた 。 そ れ も ほ とん ど,イ エ ス で あ り,そ の う ち ほ とん どが,彼 の 十 字 架 の死 の 絵 で あ っ た 。 民 衆 は字 が 読 め な か った 。 第2に,教 会 以 外 で は,皇 帝,国 王,領 主,貴 族 た ち が 絵 を注 文 した 。 彼 ら は 肖像 画 をか か せ た 。 彼 らが裕 福 で あ っ た し,カ メ ラ=写 真 機

が な か っ た か らで あ る

ル ネ サ ンス が や っ て きた 。 ル ネ ッサ ン ス は,ギ リシ ャ ・リー マ文 化 の復 活 で あ る。 つ ま りキ リス ト教 だ け で な く,ギ リ シ ャ神 話,ロ ー マ 神 話,ま た そ の文 化 が 復 活 され た。そ れ に また ユ ダ ヤ 教 も重 視 され た 。美 術 の 点 で い え ば, ル ネ サ ン ス に よ っ て,テ ー マ が 広 ま った 。 キ リス ト教 だ けで な く,古 典 ギ リ シ ャ,ロ ー マ 帝 国,ユ ダ ヤ 教 の人 々 も,対 象 に な っ た 。 また リア リズ ム が 台 頭 し,人 間 美 が 追 求 さ れ た 。

ル ネ ッサ ン ス の 初 め の 代 表 的 人 物 ・画 家 は,サ ン ド ロ ・ボ ッテ ィチ ェ リ

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(1445‑1510年,SandroBotticelli。 本 名AlessandroMarianoFilipepi)で

あ る 。 代 表 作 は 「ヴ ィ ー ナ ス の 生 誕 」(c.1480年,1488年 説 も あ る)で あ る (イ タ リ ア,ウ フ ィ ッ ツ イ 美 術 館 に あ る)。 彼 は,古 代 神 話 の 主 題 を 初 め て 大 画 面 に 取 り上 げ た 。 そ の 上,こ の 絵 の 人 物 は 裸 体 で あ っ た 。 そ れ ま で 裸 体 は, キ リ ス ト,お よ び ア ダ ム と エ ヴ ァ だ け だ っ た 。 ル ネ ッ サ ン ス で は,キ リ ス ト 教 以 外 の テ ー マ が 扱 わ れ た 。 ボ ッ テ ィ チ ェ リ の ヴ ィ ー ナ ス は ロ ー マ 神 話 で あ る 。 た だ し これ は 一 部,躯 の 境 目 が 線 で 書 か れ て い る 。 ボ ッ テ ィ チ ェ リ は, ル ネ ッ サ ン ス 期 の 代 表 的 な イ タ リ ア の 画 家 で あ る 。 フ ラ ・フ ィ リ ッ ポ ー リ ッ ピ に 師 事 し た 。1470年 に,初 期 の 写 実 的 作 品 「堅 忍 」な ど を 描 い た 。1472年, フ ィ レ ン ツ エ の 画 家 協 会 に 登 録 し,大 工 房 を 開 き,こ の こ ろ,聖 母 子 像 を描 い た 。1481年 に ロ ー マ に 招 か れ,シ ス チ ー ナ 礼 拝 堂 の フ レ ス コ制 作 に 参 加 し た 。1482年 に フ ィ レ ン ツ エ に 戻 っ た 。新 プ ラ ト ン 主 義(つ ま りル ネ ッ サ ン ス) の 影 響 を 受 け,そ の 寓 意 的 表 現 と し て1478年 に,「 春(プ リ マ ヴ ェ ー ラ),

「ヴ ィ ー ナ ス の 生 誕 」を,メ ヂ チ 家 の た め に 描 い た 。1480年 代 は,彼 の 様 式 の 円 熟 期 で あ る 。 理 想 的 な 官 能 美 と優 雅 な 輪 郭 線,装 飾 画 風 の 構 図 が 特 色 で あ る 。1490年 以 後,僧 サ ヴ ォ ナ ロ ー ラ の 影 響 を う け,神 秘 的 傾 向 を 強 め,「 神 秘 的 誕 生 」1500年,「 神 秘 的 は り つ け 刑 」,ダ ン テ の 「神 曲 」 の 挿 し 絵,な ど を 描 い た 。 ク ア ッ ト ロ チ ェ ン ト(=15世 紀 の 芸 術 思 潮)の 代 表 的 人 物 で,マ ニ

エ リ ス ム の 先 駆 者 で あ る 。

つ い で,レ オ ナ ル ド ・ダ ・ヴ ィ ン チ(LeonardodaVinci,1452‑1519)が

出 た 。 代 表 作 は,「 モ ナ リ ザ 」(MonnaLisa)で,1503年 か ら1506年 こ ろ に か か れ た 。 モ デ ル は,フ ィ レ ン ツ エ の 有 力 市 民(大 商 人)フ ラ ン チ ェ ス コ ・ デ ル ・ジ ョ コ ン ド の 夫 人 の エ リ ザ ベ ッ タ,愛 称 リ ザ で あ る 。 標 題 「モ ナ ・リ ザ 」 は,画 家 レ オ ナ ル ド が つ け た も の で な く,後 の 美 術 史 家 が つ け た 。 こ こ で は,躯 の 境 目 を,線 で 書 か な い 。 リ ア リ ズ ム が 深 ま っ た 。 こ の 絵 は 生 き 生 き と し て い る 。 そ し て 普 通 の 人 を 初 め て か い た 。 普 通 の 人 と い う の が 画 期 的 で あ っ た 。 伝 説 で は,そ の 夫 は,妻 の 絵 を か い て も ら っ て,レ オ ナ ル ド に代 金 を 払 わ な か っ た,と 言 う 。

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彼 の 他 の 有 名 作 は,「 最 後 の 審 判 」で あ る 。 こ こ で 遠 近 法 を 用 い た 。こ の テ ー マ は 古 い も の で あ る 。 し か し リ ア ル で あ っ た 。

つ い で,ミ ケ ラ ン ジ ェ ロ(1475‑1564)が 出 た(2)。代 表 作 は,ヴ ァ チ カ ン 宮 殿 入 口 に あ る 聖 母 像,つ ま り 「嘆 き の ピ エ タ 」 で あ り,マ リ ア は 生 き て い る よ う で あ る 。 ま た 彼 は,シ ス テ ィ ー ナ 礼 拝 堂 の 天 井 絵 を か い た 。 そ れ は,人 が 裸 で あ り,旧 約 聖 書 が 題 材 で あ る 。 彼 に は,彫 刻 で あ る が,ダ ヴ ィ デ の 裸 像(フ ィ レ ン ツ エ に あ る)が あ る 。 ダ ヴ ィ デ は も ち ろ ん ユ ダ ヤ の 王 で あ る 。 こ れ ま で ユ ダ ヤ 人 は 絵 画 で は 登 場 し な か っ た が,こ れ は ル ネ ッ サ ン ス で あ る か ら だ っ た 。

つ い で,ラ フ ァ エ ロ(1483‑1620)が で た 。 代 表 作 は 「マ ・ ド ン ナ 」(一 つ の 有 名 作 は ド レ ス デ ン に あ り)で,こ れ も躯 の 境 目 を線 で 書 か な い の だ っ た 。 彼 の マ ド ン ナ は,リ ア ル で,生 き生 き と し,魅 力 的 で,人 間 的 で あ る 。

そ の 後,カ ラ ヴ ァ ッ ジ ョ(1573‑1610)(3)が で た 。 そ の 生 涯 は 破 天 荒 で は あ っ た 。彼 は1592年 に ミ ラ ノ か ら ロ ー マ へ 出 た 。ロ ー マ の ナ ヴ ォ ナ 広 場 で 活 躍 し た 。 彼 は,リ ア リ ズ ム に ひ い で て い た 。 キ リ ス ト母 子 や 静 物 を か い た 。

「ロ レ ー ト の 聖 母 」で は,マ リ ア と幼 子 イ エ ス が 貧 し い2人 の 巡 礼 に 祝 福 し て い る 図 で あ る 。 娼 婦 と 聖 母 を 重 ね た の で あ っ た 。 自 分 の 好 き な 娼 婦 を モ デ ル に し た 。 こ れ は,ナ ヴ ォ ナ 広 場 の 教 会 の 礼 拝 堂 に 掲 げ ら れ た 。

「病 め る バ ッ カ ス 」や 果 物 の 描 写 が あ る。 そ の 名 が ロ ー マ 中 に と ど い た 。 そ こ で 教 会 の 注 文 が 来 た 。 大 き な 宗 教 画 を か くの が 一 流 だ っ た 。

「ゴ リ ア テ の 首 を も つ ダ ビ デ 」 に は 自 分 の 顔 を か い た。

16‑17世 紀 に,カ ト リ ッ ク と プ ロ テ ス タ ン トが 闘 っ た 。カ ラ ヴ ァ ッ ジ ョ は そ れ を描 い た 。 彼 は 長 い 間 異 端 視 さ れ て い た 。 天 才 画 家 で あ っ た 。

彼 は 暴 行 傷 害 事 件 を 起 こ し た 。 絵 を か き あ げ る と,酒,女,喧 嘩 に あ け く れ た,極 道 者 で あ っ た 。1600年 に,画 学 生 を襲 撃 し,警 官 に 投 石 し た 。1605 年 に,好 き な 娼 婦 を め ぐ っ て 公 証 人 を 襲 撃 し た 。

カ ラ ヴ ァ ッ ジ ョ は 聖 書 の 物 語 に 光 と闇 で 人 間 を 描 く の だ っ た 。 す べ て の 人 に 分 か る 絵 を か い た 。 教 会 が 受 取 り を 拒 否 し た 例 も あ る 。 絵 に は 貧 し い 人 々

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を 登 場 さ せ た 。 そ れ は ロ ー マ の 路 上 の 下 層 の 人 々 で あ っ た 。

彼 は,殺 人 を お か し,死 刑 と な り,脱 出 し,ロ ー マ を 逃 亡 し た 。 そ の 後, 1610年,ロ ー マ へ 向 か う途 中 マ ラ リ ア で 死 ん だ 。

カ ラ ヴ ァ ッ ジ ョ の リ ア リ ズ ム は 凄 い 。 彼 は バ ロ ッ ク 派 に 入 れ ら れ て い る 。 だ が ル ネ ッ サ ン ス 派 に い れ る べ き だ ろ う 。そ の 絵 は,17世 紀 の 偉 大 な 画 家 に, ま た ネ ー ダ ー ラ ン ドの 画 家 に 強 い 影 響 を与 え る の だ っ た 。

4.ネ ー デ ル ラ ン ト に プ ロ テ ス タ ン ト の 市 民 革 命 が や っ て き た 。 そ れ に よ っ て 絵 画 が 変 質 し た 。 一 方,プ ロ テ ス タ ン ト を 破 砕 す る べ く,バ ロ ッ ク (Gegen‑reformationの 芸 術)が 登 場 す る 。 『西 洋 美 術 史 』(美 術 出 版 社)の 「年 表 」 の 「バ'ロ ッ ク 」 の 列 に(205‑6ペ ー ジ),レ ン ブ ラ ン ト,フ ェ ル メ ー ル が 入 っ て い る 。 こ れ は 困 る 規 定 で あ る 。 彼 ら は バ ロ ッ ク で は な い 。

1ネ ー デ ル ラ ン トお よ び そ の プ ロ テ ス タ ン ト革 命 小 史

ネ ー デ ル ラ ン ト は,ハ プ ス ブ ル ク ・ス ペ イ ン の 植 民 地 で あ っ た 。 北 ネ ー デ ル ラ ン トが ス ペ イ ン か ら 独 立 し,オ ラ ン ダ(=ネ ー デ ル ラ ン ト)と な り,南 ネ ー デ ル ラ ン トは ス ペ イ ン に 屈 服 し て ベ ル ギ ー と な っ た 。 そ の 小 史 で あ る 。

1466年 ま た は67年 に,エ ラ ス ム ス が 生 ま れ た 。1477年 に,ネ ー デ ル ラ ン ト は,ハ プ ス ブ ル ク の 領 土 と な っ た 。 エ ラ ス ム ス は,1500年 に 「格 言 集 」を, 1511年 に 『愚 神 礼 賛 』 を 出 し た 。 彼 は ル ネ ッ サ ン ス の 影 響 を 受 け,し か し 宗 教 改 革 と 旧 教 の 中 問 に 立 っ た 。

1519年,ハ プ ス ブ ル ク ・ス ペ イ ン の カ ー ル(5世)が,皇 帝 に な っ た 。1531 年,ア ン ト ワ ー プ で 世 界 初 の 株 式 取 引 所 が で き た 。

1536年 に エ ラ ス ム ス が 死 ん だ 。1555年 に,カ ー ルV世 が 引 退 し,1556年 に, カ ー ルV世 は,息 子 フ ェ リ ペ2世 に,ス ペ イ ン だ け で な くネ ー デ ル ラ ン ト を

も譲 っ た 。

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1566年,オ ラ ン ダ の プ ロ テ ス タ ン トの 人 々 に よ る 偶 像 破 壊 運 動 が お き た 。 ス ペ イ ン の 領 有 地 で あ る ネ ー デ ル ラ ン トで,1567年 に,ス ペ イ ン の ア ル バ 公 が ネ ー デ ル ラ ン ト総 督 に 任 命 さ れ,到 着 し た 。

1568年,ネ ー デ ル ラ ン トの エ グ モ ン ト伯 ら は,ア ル バ 公 に よ っ て 斬 首 さ れ た 。 ウ イ レ ム ・フ ァ ン ・オ ラ ン エ が 反 乱 を 起 こ し た 。1569年,ク レ ー メ ル(=

メ ル カ トー ル)の 世 界 地 図 が で き た 。

1572年,フ ラ ン ス で プ ロ テ ス タ ン ト弾 圧 の 聖 バ ー ソ ロ ミ ュ ー 事 件 が 起 き, 同 年 に 反 乱 が 始 ま っ た 。1572年,ネ ー デ ル ラ ン ト の 海 乞 食 が,ア ル バ 公 の 艦 隊 を 撃 滅 し た 。

1576年,ア ン ト ワ ー プ で ス ペ イ ン 軍 の 略 奪 事 件 が お き た 。 ガ ン の 盟 約 が な っ た 。

1578年,パ ル マ 公 が 総 督 に な っ た 。1578年,ク ー デ タ が 起 き る 。

1579年,ア ラ ー ス 同 盟 が 成 立 し,南 ネ ー デ ル ラ ン トが 成 っ た 。 つ ま り彼 ら は,ス ペ イ ン 側,カ ト リ ッ ク 側 に 立 っ た 。

1581年,ネ ー デ ル ラ ン ト北 部7州 が,独 立 宣 言 を し た 。 ス ペ イ ン か ら の 独 立 で あ る 。 ウ イ レ ム ・ フ ァ ン ・オ ラ ン エ 総 督 が 指 導 し た 。

1583年 に,グ ロ チ ウ ス が 生 ま れ た 。

1584年,ウ イ レ ム ・フ ァ ン ・オ ラ ン エ が 暗 殺 さ れ た 。 息 子 マ ウ リ ッ ツ が そ の 跡 を つ い だ 。1585年,パ ル マ 公 が ア ン ト ワ ー プ を攻 略 し た 。

1587年,イ ン グ ラ ン ドで,メ ア リ ー ・ス チ ュ ア ー ト(ス コ ッ ト ラ ン ド女 王, カ ト リ ッ ク)が 斬 首 さ れ,こ れ に 対 し て,1588年 に ス ペ イ ン は 無 敵 艦 隊(4)を 送 っ た 。 だ が 同 年,イ ギ リ ス が そ れ を 破 る の で あ っ た 。

1594年 に メ ル カ トー ル が 死 に,1596年 に デ カ ル トが 生 ま れ た 。

1600年 に,リ ー フ デ 号 が 日 本 に 漂 着 し た 。1600年 初 め こ ろ,オ ラ ン ダ に は 1万 の 船 が あ っ て(5),太 平 洋 に も 入 っ た 。1602年 に,オ ラ ン ダ 東 イ ン ド会 社 を設 立 し た 。 そ し て バ タ ヴ ィ アBatavia(オ ラ ン ダ 向 け ラ テ ン 名,今 の ジ ャ カ ル タ)を 創 設 し た 。

1608年 に,オ ラ ン ダ ・ス ペ イ ン 講 和 交 渉 が 決 裂 し た 。

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1609年 に,ア ル ミニ ウ ス が 死 ん だ 。1608年 ま た は1609年 に,グ ロ チ ウ ス は 『海 洋 自 由 論 』 を 出 版 し た 。1609年 に,オ ラ ン ダ と ス ペ イ ン と が 休 戦 し, 事 実 上 の オ ラ ン ダ の 独 立 が え ら れ た 。twelveyeartruceで あ る 。 ア ム ス テ ル

ダ ム 銀 行 が で き た 。

1612年 に,オ ラ ン ダ 人 ら が マ ン ハ ッ タ ン 島 に 初 め て 移 住 し た 。 1613年,オ ラ ン ダ 漁 船 抑 留 事 件 が 起 き た 。

1614年,グ ロ チ ウ ス は,ア ル ミ ニ ウ ス 派 で あ り,対 立 派 の 和 解 の 勧 告 書 を 発 表 し た 。 ドル ト レ ヒ ト の 教 会 会 議 で ア ル ミニ ウ ス 派 は 敗 北 し た 。

1618年,国 家 転 覆 の 陰 謀 で,グ ロ チ ウ ス と オ ル デ ン バ ル ネ フ ェ ル トが 捕 ま っ た 。 ア ル ミ ニ ウ ス 派 の 指 導 者 た ち も 捕 ま っ た 。1619年,グ ロ チ ウ ス は, 終 身 禁 固 と な り,財 産 が 没 収 さ れ た 。1619年 に,オ ル デ ン バ ル ネ フ ェ ル トが 死 刑 と な っ た 。1621年,グ ロ チ ウ ス は脱 獄 し,1625年 に,『 戦 争 と平 和 の 法 』(6)

を 出 版 す る 。 マ ウ リ ッ ツ が 死 に,弟 フ レ デ リ ク ・ヘ ン ド リ ク が 後 継 と な っ た 。 1621ま た は1623年,オ ラ ン ダ 西 イ ン ド会 社 が で き た 。1625年,ニ ュ ー ・ ア ム ス テ ル ダ ム が 建 設 さ れ た 。

1632年 に ス ピ ノ ザ が ア ム ス テ ル ダ ム に う ま れ て い る 。 こ の こ ろ,北 ヨ ー ロ ッ パ は30年 戦 争 の 真 っ 最 中 だ っ た 。1637年 に デ カ ル トの 『方 法 叙 説 』が 出, 1641年 に 『省 察 』 が 出 た 。1645年,グ ロ チ ウ ス が 死 ん だ 。

1648年,イ ス パ ニ ア(=ス ペ イ ン)が,ネ ー デ ル ラ ン ト連 合 州 の 独 立 を 承 認 し た 。1648年10月,ヴ ェ ス ト フ ァ リ ア 条 約 で 神 聖 ロ ー マ 帝 国 が,オ ラ ン ダ の 独 立 を 承 認 し,30年 戦 争 が 終 結 し た 。80年 戦 争(1567‑1648)は,ス ペ イ ン の 王 朝 支 配 か ら オ ラ ン ダ 人 を 解 放 し た 。 オ ラ ン ダ で は 奴 隷 を 自 由 に し た 。 外 か ら入 っ て き た 者 も 。

1650年,ウ イ レ ム2世 が ク ー デ タ を し,州 会 派 の 有 力 者 を 逮 捕 し た 。 し か し ウ イ レ ム が 死 ん だ の で,成 功 し な か っ た 。

1652年,オ ラ ン ダ が 希 望 峰 を ポ ル トガ ル か ら奪 っ た 。

1653年,JandeWitt(州 会 派)は グ、【・1会議 長 と な り,指 導 権 をi握っ た 。 そ し て オ ラ ン ダ 全 盛 時 代 を 作 っ た 。 商 工 業 ・言 論 の 自 由 を え た 。

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1654年,フ ォ ン デ ル が 宗 教 詩 『ル ー シ フ ェ ル 』 を 発 表 し た 。1656年,ス ピ ノ ザ が,自 由 思 想 ・異 端 の か ど で,ユ ダ ヤ 教 会 か ら 破 門 さ れ た 。

1663年,ス ピ ノ ザ は 『デ カ ル トの 哲 学 原 理 』 を 発 表 し た 。

ユ664年 に,ア メ リ カ の,ニ ュ ー ・ア ム ス テ ル ダ ム は,ニ ュ ー ヨ ー ク と変 名 さ れ た 。 同 年,第1次 英 蘭 戦 争 が 起 き た 。1666年 に 第2次 英 蘭 戦 争 が お き, 1667年 に 和 平,ブ レ ダ の 和 が な っ た 。

1667年,フ ラ ン ス で コ ル ベ ー ル の 航 海 条 例 が な っ た 。

1668年,ブ ー ル ハ ー フ ェ が 生 ま れ,1669年,レ ン ブ ラ ン トが 死 ん だ 。1670 年,ス ピ ノ ザ が 『神 学 政 治 論 』 を 出 版 し た 。

1672年 に,英 蘭 戦 争 が ま た 発 生 し た 。1672年,フ ラ ン ス 軍 が,オ ラ ン ダ を 攻 撃 し た 。

1677年,ス ピ ノ ザ は 死 ん だ 。1678年,ネ イ メ ヘ ン の 和 が な り,1778年,ス ピ ノ ザ の 『エ チ カ 』 が 出 版 さ れ,1684年,ロ ッ ク は オ ラ ン ダ に 住 ん で,1688 年 ま で い た(7)。

2レ ン ブ ラ ン ト(Rembrandt,1606‑1669)

オ ラ ン ダ で プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム の 革 命 が 成 功 し た 。 貴 族 ・国 王 ・教 会 で な く,市 民 が 絵 を 買 う よ う に な っ た 。

オ ラ ン ダ 史 で,17世 紀 の 初 め ほ ど,才 能 あ る 芸 術 家 に 恵 ま れ た 時 代 は な か っ た 。 レ ン ブ ラ ン ト は,ラ イ デ ン で1606年7月15日 に 生 ま れ た 。 そ こ は 田 舎 で あ っ た 。 彼 は7人 の 子 供 の6番 目 で,父HarmenGerriszoonは,van

Rijn川 の 近 く の 水 車 で 働 い た 。 母NeeltgeWillemsdochtervanZuytbroek

は,パ ン屋 の 娘 で あ っ た 。 母 は 聖 書 の 愛 を 教 え た 。 こ れ が レ ン ブ ラ ン トの イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン の 主 な1つ に な っ た(8)。

レ ン ブ ラ ン ト は,7才 か ら14才 ま で 学 校 に 通 い,古 代 ロ ー マ 語(=ヒ ュ ー マ ニ ズ ム の 言 語),ギ リ シ ャ ・ロ ー マ 文 学,歴 史,文 明 を 習 っ た 。1620年5月 20日,ラ イ デ ン 大 学 に 入 学 し た 。 こ こ は,レ ン ブ ラ ン トが 生 ま れ る 前 の ほ ぼ

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半 世 紀 問,ネ ー デ ル ラ ン トの 最 初 の,最 も有 名 な 大 学 と い う名 誉 を 持 っ て い た 。 ス ペ イ ン へ の 初 期 の 勝 利 の 記 念 に 建 て ら れ た 大 学 で あ る 。 彼 を 本 当 に 引 き 付 け た 唯 一 の も の は,絵 で あ っ た 。 そ こ で 彼 は 大 学 を 去 る こ と に 決 め,画 家JakobvanSwanenburghの 弟 子 に な っ た(9)。彼 は 平 凡 な 画 家 で あ っ た が, イ タ リ ア に っ い て 語 り,賛 美 し た 。 レ ン ブ ラ ン ト は,そ の 後,ア ム ス テ ル ダ ム のPieterLastmannの 弟 子 に6カ 月 間 な っ た 。1600年 代 初 め の イ タ リ ア の 画 家Caravaggioの 後 継 者 の 多 くに よ っ て 結 び 付 け ら れ た 光 ・明 る さ の 使 用 の 重 要 性 を,レ ン ブ ラ ン ト は 師 か ら 聞 い た 。師 は1600年 代 初 め イ タ リ ア に い た の で あ る 。

ユ ト レ ヒ トで,カ ラ ヴ ァ ッ ジ オ の 原 理 を し っ か り守 る 使 徒=芸 術 家 の1グ ル ー プ が あ っ た 。 レ/ンブ ラ ン ト は ユ トレ ヒ トの カ ラ ヴ ァ ッ ジ オ 派 を 知 り,影 響 を 受 け た 。 レ ン ブ ラ ン トは こ う し て イ タ リ ア の 影 響 を 受 け た の で あ る 。 も

う1つ の 影 響 は,ラ ス トマ ン の,歴 史 的 題 材 の 好 み で あ っ た 。

レ ン ブ ラ ン ト は ラ イ デ ン に 帰 っ て 両 親 の 家 で ア ト リ ア を 立 て た 。Jan LievensとLastmanの 弟 子 ・友 人 と な り,共 に 仕 事 を し た 。 レ ン ブ ラ ン ト は, そ の 若 さ に も か か わ ら ず,注 目 を ひ く よ う に な っ た 。1628年 にvanBuche11 が 来 た 。ConstantijnHuygensが,1629〜31年 の 問 に 来 て,レ ン ブ ラ ン ト と Lievensに 注 目 し た 。 ホ イ ヘ ン ス は,フ レ デ リ ク ・ヘ ン ロ リ ク ・フ ァ ン ・オ ラ ン エ(PrinceRegentFrederickHenryofOrange)の 秘 書 だ っ た 。 彼 は 広 く深 い 教 養 の 持 ち 主 で,デ カ ル ト と 文 通 し て い た し,と りわ け 美 術 の 愛 好 家 で あ っ た 。 彼 は,ラ イ デ ン の2人 の 若 者 が す で に 当 時 の 最 も有 名 な 画 家 に 肩 を 並 べ る し,ま も な く彼 ら を 追 い 越 す だ ろ う,と 躊 躇 せ ず に 書 い た 。 ホ イ ヘ ン ス は レ ン ブ ラ ン トを リ ー フ ェ ン ス よ り上 と判 断 し た 。

ホ イ ヘ ン ス は,レ ン ブ ラ ン トの 作 品JudasreturningtheThirtyPiecesof

Silverを 見 て,彼 が 歴 史 的 題 材 の 偉 大 な 画 家 で あ る と,確 信 し た 。 と同 時 に 若 い2人 を 批 判 し た 。2人 は イ タ リ ア に 行 く必 要 が な い と思 っ て い た 。 し か し ホ イ ヘ ン ス は,ラ フ ァ エ ル や ミケ ル ア ン ジ ェ ロ の 創 作 に 親 し む こ と は 芸 術 的 職 業 の 大 変 な 頂 点 に2人 を お し あ げ る だ ろ う と提 案 し た 。 し か し2人 は そ

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の よ う な 旅 は 当 分 企 て ら れ な い し,時 間 の 余 裕 が な い と答 え た 。 レ ン ブ ラ ン トす で に 自 分 がmasterpainterで あ っ た と感 じ て い た に ち が い な い 。 彼 は Lastmanの ア ト リ エ を 去 る と ま も な く,2人 の 弟 子 を と っ た 。 レ ン ブ ラ ン ト の 芸 術 は ラ イ デ ン だ け で な く,他 の 町,特 に ア ム ス テ ル ダ ム に も 広 く知 ら れ た 。

オ ラ ン ダ の ス ペ イ ン か ら の 独 立 は,カ ソ リ ッ ク 世 界 か ら 自 分 を 切 り 離 し た 。 彼 ら は カ ル ヴ ィ ニ ス ト国 民 と な っ た 。 こ の 断 絶 の 結 果 は,特 に 画 家 と彫 刻 家 に は 決 定 的 だ っ た 。 中 世 を 通 じ て,ほ と ん ど す べ て の 任 務 と 主 題 を 芸 術 家 た ち に 与 え た の は,カ ソ リ ッ ク 教 会 だ っ た 。 彼 ら は 宗 教 建 築 を飾 り,ミ ニ チ ュ ア,ス テ ン ド グ ラ ス,画,タ ペ ス ト リ ー や 彫 刻 で,教 会 の 教 説 を 図 示 し た 。 レ ン ブ ラ ン ト は,も ち ろ ん プ ロ テ ス タ ン トで あ る が,初 め,物 語 作 家 を 目 指 し た 。 だ が テ ー マ が 変 化 し た 。 つ ま り,市 民,風 景,静 物 に な っ た 。 カ ル ヴ ィ ニ ズ ム の 確 立 に よ っ て,宗 教 芸 術 は,希 少 な も の と な っ た か ら で あ る 。 王 侯,貴 族,人 文 主 義 者,要 す る に 教 養 人 の 好 ん だ 古 代 史 や 神 話 の テ ー マ で な く て,画 家 は,オ ラ ン ダ で は 中 間 階 級 の 慣 習 に 多 く答 え た 。 す な わ ち 進 取 的 な 人 々 の テ ー マ で あ る 。

オ ラ ン ダ ・ブ ル ジ ョ ア ジ ー の 好 ん だ 絵 画 は,自 分 ら の 階 級 の 日 常 生 活 か ら の テ ー マ と,そ の 国 の き わ め て 特 徴 的 テ ー マ だ っ た 。 言 葉 を か え れ ば,画 家 の 重 要 な 仕 事 は ポ ー ト レ ー ト を 画 く こ と だ っ た 。 つ ま り家 庭 や 子 を 世 話 す る 母,手 紙 を 読 む 少 女,音 楽 の レ ッ ス ン を す る 少 女,ル ー トや ハ ー プ シ コ ー ド を ひ く若 い 婦 人,そ の 他,呑 み 笑 い 食 べ お し ゃ べ り を す る 人 々 で あ る 。 人 々 は,フ ラ ン ス や フ ラ ン ド ル 様 式 の 絵 画 を好 ん だ 。

レ ン ブ ラ ン ト は こ の 傾 向 に マ ッ チ し た 。 彼 以 外 に,フ ラ ン ス ・ハ ル ス や ヤ コ ブ ・ラ イ ス ダ ー ル,フ ァ ン ・ア イ ク,ヤ ン ・ス テ ー ン(ラ イ デ ン),ヤ ン ・ フ ェ ル メ ー ル(1632‑1675)(デ ル フ ト)が 出 た 。 彼 ら は 民 族 的 芸 術 の 伝 統 を 持 っ て い た 。 ダ ウ,マ ー ス,ホ ホ ス トラ ー テ ン,フ ァ ブ リ チ ウ ス は,レ ン ブ ラ ン トの 弟 子 で あ る 。 レ ン ブ ラ ン ト に は 弟 子 が20人 い た 。彼 は ユ ダ ヤ 人 好 き だ っ た 。 レ ン ブ ラ ン ト の 画 は ヒ ッ ト し た 。

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ネ ー デル ラ ン ド ・近 代 プ ロ テス タ ン ト絵 画 31

彼 は,画 商 オ イ レ ン ブ ル グ の い と こ ・サ ス キ ア と 結 婚 し た 。 彼 女 は 持 参 金 が 多 か っ た 。 彼 ら は1.3万 フ ロ リ ン で 屋 敷 に 引 っ 越 し た 。

レ ン ブ ラ ン ト は オ ラ ン ダ の 誇 る 最 高 の 芸 術 家 で あ る(10)。彼 の 生 涯 で 華 や か な 時 代 に 住 ん で い た 家 が 保 存 さ れ て お り(RembrandtHuis),市 の 中 心Rem‑

brandtPleinに あ る 。 こ れ は 屋 敷 と 言 っ た 方 が よ い 大 き な 建 物 で あ り,当 時 の オ ラ ン ダ ・ブ ル ジ ョ ア ジ ー の 生 活 様 式 を 今 に 伝 え て い る 。

彼 は,初 め の 子 ・男 子 を な く し た 。2人 目 の 子 が,生 ま れ て す ぐ死 ん だ 。 3人 目 に は 娘 コ ル ネ リ ア と,母 の 名 を つ け た が,3週 間 で 死 ん だ 。1640年 だ っ た 。4人 目 は テ ィ トス,男 の 子 で,乳 母 と し て ラ ッ パ 手 の 未 亡 人 を 雇 っ た 。 妻 サ ス キ ア は,遺 言 を 残 し て 死 ん だ 。 レ ン ブ ラ ン ト は サ ス キ ア の 持 参 金 を 浪 費 し た,と さ れ る 。 乳 母 は 子 ど も ・テ ィ トス を 愛 し た 。 レ ン ブ ラ ン トは そ の 召 使 ・乳 母 ヘ ー ル チ ェ ・デ ィ ル ク ス と い い 仲 に な っ た 。 し か し 新 た な 若 い 召 使 ・ヘ ン ド リー キ エ に 心 を 移 し,ヘ ー ル チ ェ を 捨 て た 。 だ か ら 婚 約 不 履 行 で 乳 母 は 怒 り,レ ン ブ ラ ン トは 訴 え ら れ た 。 だ が レ ン ブ ラ ン ト は,彼 女 に 不 利 な 証 言 を 近 隣 の 人 々 か らか き集 め,彼 女 を ハ ウ ダ の 矯 正 所 に 送 り込 ん だ 。

レ ン ブ ラ ン トは 誰 と も つ き合 っ た 。 オ ー ク シ ョ ン で 彼 の 絵 が 売 られ た 。 召 使 ヘ ン ド リ キ ュ ・ス ト ッ フ ェ ル ス は,レ ン ブ ラ ン ト と幸 せ な 同 棲 を し た 。 教 会 か ら査 問 さ れ,離 別 を 言 い 渡 さ れ た が,拒 否 し た 。

レ ン ブ ラ ン トは,下 層 民 を描 く,暗 い,女 の 裸 を か く,と か 非 難 さ れ る 。 弟 子 は ブ リ ン ク で あ っ た 。 レ ン ブ ラ ン ト は マ イ デ ン の 会 と確 執 し た 。

レ ン ブ ラ ン トは,「 湯 浴 み す る バ テ シ バ 」を か い た 。 こ れ は ユ ダ ヤ 教=旧 約 聖 書 の 話 か ら で あ る 。 ダ ヴ ィ デ が 懸 想 を し て 妻 に し た 女 性 で あ る 。

ア ム ス テ ル ダ ム の ク ラ ー ス ・ピ ー タ ー ゾ ー ン ・医 者 は,1621年 に,ニ コ ラ ー ス ・テ ユ ル プ(Tulp)と 名 を 変 え た 。 チ ュ ー リ ッ プ(Tulp)を 愛 し た か ら で あ っ た 。 そ の 彼 は1622年 に,ア ム ス テ ル ダ ム の 長 老 議 員 に な っ た 。封 印 も 家 の 表 札 も チ ュ ー リ ッ プ の 絵 に し た 。 彼 は 非 常 に 有 名 に な り,ま た レ ン ブ ラ ン トの 友 人 に な り,彼 の 絵 『プ ロ フ ェ ッ サ ー ・テ ユ ル プ の 解 剖 学 講 義 』 の モ デ ル に な っ た 。 泥 棒 が 死 刑 に な り,そ れ を 解 剖 し た 時 の 絵 だ っ た 。 絵 の 中 に は

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大 勢 の 博 士 が廻 りに い る。 テ ユ ル プ はア ム ス テ ル ダ ム市 長 に四 選 さ れ た 。 レ ン ブ ラ ン トは風 景 を か い た。 また エ ッチ ング を始 め た 。 そ の1つ に 「キ リス トの 垂 訓 」 が あ る 。 そ こ に は,ペ リク レ ス,ソ ク ラ テ ス,自 分 を登 場 さ せ た 。 これ ら はル ネ ッサ ンス 以 後 の題 材 で あ る。 レ ン ブ ラ ン トは 肖像 画 を か い た 。 多 くの注 文 が きた 。 写 真 が な い 時 代 だ っ た か らで あ る。 レ ンブ ラ ン ト の絵 に は明 る さが あ る。

レ ン ブ ラ ン トの 作 で 「 夜 警 」(NachtWacht)は,今 ア ム ス テ ル ダ ム 国 立 博 物 館(Rijksmuseum)に あ り,門 外 不 出 の名 作 と さ れ る。 これ は,自 警 団 か ら注 文 が き た こ とで,か か れ た 。 当 時,多 くの集 団 的 肖像 画 が か か れ た 。 そ れ ら はア ム ス テ ル ダ ム市 博 物 館 で展 示 され て い る。 レ ンブ ラ ン トは,コ ッ ク 隊 長 の 市 民 隊 を描 い た。 だ が 彼 は平 凡 な 集 団 肖像 画 は か か な か っ た 。 中 心 人 物 た ち だ け に光 を あ て た 。 特 に3人 の 人 が 焦 点 を 当 て られ た 。1人 は コ ッ ク 隊 長 で,他 の1人 は副 隊長 で あ る。1人 だ け 関係 な い人 を入 れ た 。 つ ま り妻 の サ ス キ ア で あ る。 また そ の 絵 は,実 際 は昼 な の に,夜 で あ る よ う に し て か い た。

後 年 レ ン ブ ラ ン トは 自分 の 芸 術 的 完 成 を 目指 した 。 そ して オ ラ ンダ ・ブ ル ジ ョア ジー の好 み を考 慮 しな か っ た 。

ヘ ン ド リー キ エ は,コ ル ネ リア ・娘 を生 む。 レ ン ブ ラ ン トは借 金 をす る。

浪 費 を し,収 集 品 な どを 買 う。

英 蘭 戦 争(第1次1552‑54年)で,オ ラ ンダ が 封 鎖 さ れ て し まっ た 。 貿 易 が 停 止 し,企 業 ・銀 行 が倒 産 した 。 失 業,飢 餓 が 発 生 した 。 東 イ ン ド会 社 の 株 が暴 落 した 。レ ン ブ ラ ン トも そ の被 害 者 で あ っ た 。彼 は破 産 宣 告 を さ れ る。

ラ フ ァエ ロ,ミ ケ ラ ン ジ ェ ロ な ど の コ レ ク シ ョン を 手 放 し た。屋 敷,収 集 品,

絵 が,競 売 に な り,二 束 三 文 で 売 られ た 。 彼 はヘ ン ド リー キ エ と子2人 とで

下 町 に移 っ た 。ヘ ン ド リー キエ は亡 くな っ た。そ の ころ,か の 乳 母 は気 が 狂 っ

て し ま った 。1668年 に息 子 が 結婚 す る が,す ぐペ ス トで死 ん だ 。 レ ン ブ ラ ン

トは 貧 窮 の うち に1669年 に死 ん だ 。 名 実 と もア ム ス テ ル ダ ム が 首 都 で あ った

時 代,そ れ もオ ラ ン ダ の 黄 金 時 代 に レ ン ブ ラ ン トは生 きた 。 ゴ ッホ が,彼 を

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ネ ー デル ラ ン ド ・近代 プ ロテ ス タ ン ト絵 画

尊 敬 す る評 を か く こ と に な る 。

33

レ ン ブ ラ ン トの 作 品 は,

プ ロ フ ェ ッ サ ー ・ ト ゥル プ の 解 剖 学 講 義;サ ス キ ア;嵐 の キ リ ス ト;ユ ダ ヤ の 花 嫁;サ ム ソ ン を 盲 目 に す る;ラ イ オ ン 狩 り;風 車;石 橋 の 風 景;ナ イ

ト ・ウ オ ッ チ(1642);ヘ ン ド リ ケ;化 粧 室 の バ テ シ バ;

TheangelandtheProphetBalaam,1626(Mese'eCognacq‑Jay,Paris) TobitandAnnawiththeKid,1626(Rijksmuseum,Amsterdam) St.PaulinPrison,1627(Staatgalerie,Stuttgart) な どが あ る 。

エ ッ チ ン グ で は,父,母,乞 食,裸 婦,オ ラ ン ダ 風 景,キ リ ス ト の 垂 訓, フ ァ ウ ス ト,な ど が あ る 。

エ ッ チ ン グ は 銅 版 画 で あ る 。 銅 版 画 の 制 作 に は2種 類 の 方 法 が あ る 。 銅 版 を紙 に 多 数 印 刷 す る こ とが で き る 。 レ ン ブ ラ ン ト は エ ッ チ ン グ を た く さ ん か い た 。

当 時,紙 は,こ う作 っ た 。 木 枠 を 作 り,横 並 び に 無 数 の 細 い 銅 線 を 渡 す 。 そ の 上 に,水 に 解 い た 細 か い 木 材=紙 原 料 を 流 す 。 紙 原 料 だ け が 銅 線 の 上 に 残 る 。 こ れ を 圧 迫 し て 干 す 。 銅 線 の 網 の 上 に,会 社 の マ ー ク を乗 せ る と,そ

こ だ け ス カ シ に な り,製 造 工 場 が 分 か る 。 中 国 や 日 本 で は 銅 線 の 代 わ り に, 細 い 竹 を 渡 し た 。

国 立 博 物 館Rijksmuseum(ア ム ス テ ル ダ ム)の レ ン ブ ラ ン ト

Room(初 め の 小 区 切)Nr.な し

2018TheanatomicallessonofDr.JoanDeyman

頭 の 解 剖 を し て い る ド ク タ ー の 目 2024‑A8PortretvanDr.EphraimBueno

2019TheJewishBride若 い 娘 の 目

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2014‑A3SelfportraitastheapostelPaul

頭 に 当 た る光,有 名 な絵

(次 の 小 区 切 に は な し)

RoomNr.な し

2016HetCorporaalschapvanFransBanningCocqgenaamd

̀DeNachtwacht'

部 屋 の す み に あ っ た 説 明 が き(1970年 代)

"ThepaintingbyRembrandt

,representingtheCampanyofCaptain FransBanningCocq,latercalled"theNightwatch",waspaintedorigi‑

nallyforthelargehallinthe"Doelen"ofthecivicguardsinA'dam(1642).

In1715thecanvaswastrarlsferredtothetownhallontheDamandplaced intheSeniorWarCounsilChamber.Onthisoccasionthepaintingwas cleanedandcutoffonalls三des,asithadtobeplacedonawallwhichwas toosmallforit.

Especiallyfromtheleftsideandthetopconsiderablestripswere removed.ThecopyascribedtoGerritLundersandthedrawingin BanningCocq'salbumshowstheoriginalshapeofthepicture."

Room220 2024‑A7

" ‑A5

2020

Josef,zijndromenverstellend

JeremiahLamentingthedestructionofJerusalem

Bibleに よ り か か る 老 人,金 器 が 光 る の が み ご と,カ ー ペ ッ ト の す そ も よ う が 美 し い,老 人 の 顔 ・ 目 付 き が リ ア リ ス テ ィ ッ ク 。

TheStonebridge

Stonebridgeの う し ろ に 立 つtreesに 当 た る 光 が す ば ら し いo

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2024‑A19

"‑A1

"‑A16

"‑A14

"‑A12

"‑A18

ネ ー デル ラ ン ド ・近代 プ ロテ ス タ ン ト絵 画35

TheHolyFamily

MariaもJosefも 老 い て い る,赤 ん 坊 も普 通 の 子 と し て い る 。 Mariaの 読 むbookに 当 た る 光 が 絶 妙

Rembrandtsmoeder

PortraitvanSaskiavanUylenburgh丸 い 額 縁

Zelfportrait若 い 時 代 の も の

TobiasenAnnamethetbokjeつ ぶ れ た 老 人 の 目 SimsonenDelila

room221 2022 2024‑A2

"A11

"A3 A4

"2017

2024‑A6

"‑A17

PortraitvanMariaTrip DePauwen‑Peacocks PortretvanTitusvanRijn

S.Peter'sDenialS.Peterの 肩 に 当 た る 光

PortretvanTitusvanRijn

DestaalmeestersThesamplingofficeoftheDrapersGuild

典 型 的 な オ ラ ン ダ 市 民

OrientalPotentateタ ー バ ン に 当 た る 光

Venitas卓 上 の 本,パ ン な ど 実 に リ ア ル

レ ン ブ ラ ン ト の 絵 は2つ に 分 け ら れ る 。 有 名 物 語,聖 書 に ま つ わ る も の が 1つ で あ る 。 こ れ ら は ル ネ ッ サ ン ス 的 で あ る 。 他 方,肖 像 画,風 景 な ど,こ れ ら は プ ロ テ ス タ ン ト的 ・市 民 的 で あ る(11)。

レ ン ブ ラ ン ト は プ ロ テ ス タ ン トで あ っ た 。 『西 洋 美 術 史 』(美 術 出 版 社)で は,レ ン ブ ラ ン ト,フ ェ ル メ ー ル が,バ ロ ッ ク に 入 れ ら れ て い る 。 こ れ は あ

り え な い こ と だ 。

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3'フ ェ ル メ ー ルJanVermeer,本 名Johannesvandermeer

ヨ ハ ネ ス ・ フ ェ ル メ ー ル,1632・10・31デ ル フ ト 生 ま れ,1675年 死 ぬ 。

ウ イ レ ム 沈 黙 公(1533‑84)(フ ァ ン ・オ ラ ン エ)は,1572年 に,ハ ー グ か ら デ ル フ トへ 移 っ た 。 彼 は そ こ に 住 ん だ 。 デ ル フ トで 暗 殺 さ れ,オ ラ ン エ 家 の 墓 所 は デ ル フ トに あ る 。 デ ル フ ト は,ロ ッ テ ル ダ ム に 外 国 貿 易 を 奪 わ れ, 衰 退 す る 。17世 紀 半 ば2万 人 の 人 口 だ っ た 。

ヤ ン ・ス テ ー ン は 醸 造 業 だ っ た 。 フ ェ ル メ ー ル の 父 は,レ イ ニ ー ル ・ヤ ン ス ゾ ー ン と い い,織 業 業 者 で 宿 屋,画 商 だ っ た 。フ ェ ル メ ー ル は 新 教 徒 で あ っ た 。

デ ル フ トは 有 名 な 陶 器 の 町 だ っ た 。 オ ラ ン ダ 東 イ ン ド会 社 が,1602年 に 設 立 さ れ,オ ラ ン ダ の6つ の 都 市 に 支 部 を 置 い た 。デ ル フ トは そ の1っ だ っ た 。 最 も 重 要 な 輸 入 品 の1つ は,中 国 ・日 本 か ら の 染 め 付 け磁 器 で あ っ た 。 そ れ は ヨ ー ロ ッパ に 売 ら れ,需 要 に 追 い つ か な か っ た 。 そ こ で デ ル フ ト陶 器 が 作 り 出 さ れ た 。 フ ェ ル メ ー ル の 時 代 は デ ル フ トの 陶 器 が 急 成 長 し た 時 期 で あ っ た 。 最 盛 期 に は,陶 器 工 場 が30社 ほ ど あ っ た 。1670年 に は,デ ル フ ト の 人 口

2万4千 人 の う ち,6千 人 が 陶 器 産 業 に 関 わ っ て い た 。

1632年 に ヤ ン ・フ ェ ル メ ー ル は 生 ま れ た 。1641年,フ ェ ル メ ー ル は メ ヘ レ ン へ 転 居 し た 。彼 は 他 都 市 で 絵 の 修 行 を し た 。師 は 分 か ら な い 。フ ァ ブ リ テ ィ ウ ス の 弟 子 だ と い う説 も あ る 。1652年 に 父 が 死 ん だ 。 ヤ ン は,画 業 の か た わ

ら,父 親 か ら 受 け 継 い だ 小 さ な 宿 屋 を 営 ん だ 。 1652‑54年,第 一 次 英 蘭 戦 争 が 起 き た 。

ヤ ン ・フ ェ ル メ ー ル は,1653年,21才 で 結 婚 し,妻 は家 柄 が よ か っ た 。 彼 は,プ ロ ツ タ ン トだ っ た が,結 婚 に 際 し て,便 宜 的 に カ ト リ ッ ク に 改 宗 し た 。 フ ェ ル メ ー ル は 絵 の 組 合 に 加 入 し た 。 妻 の 実 家 に 同 居 し た 。 当 時,核 家 族 が 多 か っ た 。23年 聞 に14人 の 子 供 が 生 ま れ,10人 が 成 長 し た 。 フ ェ ル メ ー ル は,生 前 か ら 高 い 評 価 を え た 。 画 商 と し て も活 躍 し た 。

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ネー デ ル ラ ン ド ・近 代 プ ロテ ス タ ン ト絵 画 37

プ ロ テ ス タ ン トは,教 会 内 を宗 教 画 で 飾 る こ とを タ ブ ー と して い た 。 画 家 は市 場 向 け にか い た。 フ ェル メ ー ル は,物 語 作 家 と して 出 発 した 。 だ が 生 業 が難 し い の で風 俗 画 に転 向 し た。 フ ェル メ ー ル の 義 母 が 豊 か だ っ た 。 彼 の生 活 は 普 通 に で きた 。 彼 は1人 立 ち の 画 家 とな り,町 の ギ ル ド 「 聖 ル カ組 合 」 に加 入 し た。 そ れ は,画 家 ・ 工 芸 家 か らな って い た 。 フ ェル メ ー ル は,会 長 ・ 副 会 長 を2度 つ つ 勤 め た 。 彼 は何 度 も借 金 を した 。 彼 は,投 機 的 な絵 の 売 買

も続 けて い た 。宿 屋 は酒 場 も兼 ね て い た。40才 の 時,宿 屋 を そ っ く り賃 貸 し た。 フ ェル メ ー ル の絵 の 持 ち主 は,ご く普 通 の デ ル フ ト市 民 で あ っ た 。1人 はパ ン屋,も う1人 は 出版 業 者 で あ った 。 彼 は,死 ぬ 時,破 産 寸 前 だ っ た。

絵 は す べ て で36点 残 した 。

1588年,オ ラ ン ダ が 実 質 上 の独 立 を した 。1609‑1621年 まで は ス ペ イ ン と 休 戦 状 態 で あ っ た 。1648年 に名 実 と も にオ ラ ンダ の 独 立 が認 め られ た 。以 後, 議 会 派 と総 督 派 に別 れ,内 紛 を起 こ した 。しか し平 和 で 豊 か な社 会 が で きた 。 家 族 や 家 庭 の重 要 さが 増 した 。 教 会 か ら家 庭 へ,中 心 が移 った 。

1672年 に,フ ラ ンス 軍 が 侵 攻 し,オ ラ ン ダ経 済 が 悪 化 し,フ ェ ル メ ー ル の 借 金 が 始 ま っ た 。 彼 は1675年 に死 ん だ 。フ ェル メ ー ル の 死 後,レ ー ウ エ ン フ ッ ク は財 産 管 理 人 に な っ た 。 亡 くな る と慈 善 院 に寄 付 す る習 慣 が あ っ た が,彼 の妻 は 寄 付 が で き な か っ た 。 とい う よ り も,し な か っ た 。 没 後,妻 は 自己 破 産 申請 を した。 しか し貧 し さ を装 っ た(12)。

彼 の絵 の 題 材 は,室 内 が 多 く,女 中=市 民 生 活 な どを か く。 これ は,従 来 は考 え られ な い テ ー マ だ っ た 。 そ れ に,夫 人 が手 紙 を読 む 図 な どで あ る。 ま た 街 の風 景 もか い た 。

フ ェル メ ー ル の 絵 は純 粋 に造 形 で あ る。 空 間 の 造 形,色 彩 の層 を重 ね,写

実 を装 った 。1660年 代 終 わ り に フ ェル メL・ 一 ・ ル は変 化 した 。 晩 年 は,自 己 模 倣

を した 。 理 由 は,健 康 と,貸 し金 回収 で 走 り回 った こ と,美 術 市 場 の お ち こ

み で あ る。 彼 はカ メ ラ ・オ プ ス ク ラ を使 用 した 。 顕 微 鏡 の 発 明 者 レー ウエ ン

フ ッ ク(1632‑1723)と 知 り合 い,遠 近 法 を使 っ た 。 絵 を か くの に,遠 近 法 の

た め に釘 と紐 を使 っ た 。 繊 細 な様 式 を用 い た。

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フ ェ ル メ ー ル の絵 の 人 物 に動 きが 少 な い 。肖像 画 は か い て い な い 。17世 紀, 風 俗 画 で は画 中 画 は意 味 を あ らわ した 。フ ェル メ ー ル は絵 の 意 味 を排 除 した 。 彼 自身,い くつ か の作 品 で,初 め 意 味 の あ る絵 を か き,そ の後 そ れ を塗 りつ ぶ し,現 在 の 絵 に な った 例 が あ る。X線 写 真 で 分 か る。

フ ェル メ ー ル は,レ ン ブ ラ ン ト,フ ォ ン ・バ ビ ュ ー レ ン,フ ァ ン ・カ ウ エ ンベ ル フ,マ ー ス,フ ァ ブ リチ ウス,フ ァ ン ・ ホ ー ホ ス トラ ー レ ン,デ ・ ホ ー ホ,テ ル ・ポ ル フ,フ ァ ン ・ミー リス の影 響 を受 け た 。 彼 も多 くの 人 もカ ラ ヴ ァ ッ ジ ョ主 義 者 で あ った 。

フ ェル メ ー ル は,風 俗 画 の革 新 を した テ ル ・ポル フ,フ ァ ン ・ミー リス の 影 響 を受 け た 。 テ ル ・ポル フ と知 合 い だ っ た 。

17世 紀 の オ ラ ン ダ の 風 俗 画 は,必 ず し も現 実 の 情 景 を写 し た もの で は な い。 「 喜 び と教 訓 を与 え る もの 」 とい う教 訓 的 意 味 が あ っ た 。 また は 中 ・ 上 層 の女 性 の あ るべ き姿 で あ った 。

17世 紀 オ ラ ン ダ は絵 画 ブ ー ム を迎 え た 。市 民 が 出来 あい の小 さな 絵 を買 っ た 。17世 紀 の オ ラ ン ダ で500万 枚 の絵 が か か れ た 。 ヨ ー ロ ッパ で の 半 分 で あ った 。 人 は画 家 に直 接 注 文 しな か っ た。 そ れ は商 品 生 産 とな っ た 。 大 切 な 絵 に は カ ー テ ン をか けた 。 彼 の絵 にで て く るヴ ァ ー ジ ナ ル は,ピ ア ノ の原 型 で あ る。

16世 紀 の 風 俗 画 は,キ リス ト教 的 教 訓 を帯 び て い た 。17世 紀 か ら本 格 的風 俗 画 が 始 まっ た 。 オ ラ ン ダ で は他 の ヨー ロ ッパ 諸 国 に さ きが け て,市 民 主 体 の社 会 を つ く り,市 民 ・ 農 民 に絵 画 が 受 容 さ れ た 。16世 紀 初 め の イ タ リア に 学 び,カ ラ ヴ ァ ッジ ョ(1573‑1610)の 影 響 を受 け て帰 国 した ユ トレ ヒ トの 画 家 た ち の影 響 で,17世 紀 初 め に独 得 の風 俗 画 が か か れ て い た。

レ ン ブ ラ ン ト もフ ェル メ ー ル も物 語 画 家 と して 出発 し,レ ン ブ ラ ン トは宗

教 画 が 多 い 。 神 や 英 雄,特 別 な人,歴 史 的人 物 は,高 級 な絵 と考 え られ て い

た 。 ど う して 風 俗 画,当 代 の人 々 を描 く,と い う こ と に な っ た の か 。 そ れ は

市 場 のせ い だ っ た。 風 景 画 や 風 俗 画 の 占 め る比 率 が だ ん だ ん高 くな っ て い っ

た 。 た だ し風 俗 画 とい う語 は 当 時 は な い。

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ネー デ ル ラ ン ド ・近 代 プ ロテ ス タ ン ト絵 画 39

フ ェル メ ー ル は娼 婦 をか い た こ とが あ る。13世 紀 か ら16世 紀 半 ば,ヨ ー ロ ッパ の一 定 の 場 所 で 売 春 が 認 め られ,公 娼 が い た 。 衣 装 で 分 け られ,彼 女 ら は教 会 に ゆ け なか っ た 。16世 紀 終 わ りか ら売 春 が 禁 止 され は じめ た 。 プ ロ テ ス タ ン トが教 会 の主 導権 を握 っ た か ら,オ ラ ンダ の多 くの 公 娼 場 は 閉 ざ さ れ,売 春 が 禁 じ られ,犯 罪 とみ な され た 。 ア ム ス テ ル ダ ム で1680年 に,全 娼 婦 が約1000人 だ っ た 。

フ ェル メ ー ル に出 て来 る多 くの女 性 は,召 使 の 女 た ち で あ る。 彼 女 ら につ い て は,オ ラ ン ダ の 全 世 帯 の1‑2割 が 召 使 い を抱 えた 。 オ ラ ン ダ 全 人 口 の 6%を 召 使 女 が し めた 。た い て い地 方 の 貧 し い少 女 た ち だ っ た 。平 均 して2‑

3年 勤 め た 後,よ り高 い給 料 を求 め て奉 公 先 を変 えた 。 フ ェル メ ー ル ー 家 も デ ル フ トの上 層5%に 属 して い た か ら召 使 女 を抱 えて い た だ ろ う。 し っか り 働 く召 使 の 絵 と仕 事 を さ ぼ る召 使 の絵 が あ る。 主人 や 息 子 にい い よ られ た 召 使 は小 説 に な る だ ろ う。

オ ラ ン ダ人 は清 潔 さ に こだ わ っ た 。きれ い 好 き で,家 庭 や 街 を清 潔 に した 。 それ は,国 家 的意 味 を もっ た 。 国 家 の 中 心 は家 や街 で あ り,女 性 が 担 っ た 。

レ ン ブ ラ ン トの 肖像 画 の女 性 は,中 流 ・上 流 で あ るが,ぜ い た くな服 装 は し な い。 しか しカ ル ヴ ィ ニ ス トの そ の規 範 が ゆ る み 始 め た。 フ ェル メ ー ル の 時 代 に は,美 しい 衣 装 を 楽 し む よ う に な っ た 。17世 紀 後 半 は,色 彩 豊 か な ぜ い た くな衣 装 を つ けた 。 スペ イ ン支 配 下 で は黒 の衣 服 が 好 まれ て い た 。

上 流 階 級 は姿 勢 を よ くす る こ とを心 が けた 。 近 代 初 期 の ヨー ロ ッパ で は首 と背 を伸 ば し,直 立 した 姿 勢 を保 つ こ と は,マ ナ ー を知 る人 間 の き わ め て 重 要 な要 件 と な っ た 。 中 流 も これ を真 似 した 。 よ い服 装,よ い 姿 勢 が 求 め られ た 。

17世 紀 す ぎ の オ ラ ン ダ で は,旺 盛 な起 業 精 神 が お とろ え,蓄 わ え た富 をい か に楽 しむ か が 考 え られ た。

フ ェ ル メ ー ル の絵 に手 紙 は 多 い 。手 紙 は,公 文 書 に 限 られ て い た が,17世 紀 に神 聖 ロー マ皇 帝 の 認 可 を受 け て タ ク シス 家 が 全 ヨー ロ ッパ の 通 信 網 をお

さ え,一 般 の 私 信 に も使 わ れ る よ う に な っ た 。特 に17世 紀 初 に,オ ラ ンダ は

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近 代 的 な郵 便 制 度 を つ くった 。17世 紀 初 に,私 的 な手 紙 の や り と りが 始 ま っ た 。 商 業 用 の 手 紙 を 除 け ぼ,ほ とん ど恋 文 だ った 。 長 い 間,手 紙 は公 開 さ れ る こ と を想 定 さ れ て 書 い た 。 絵 や 文 学 で,17世 紀 半 ぼ す ぎ か ら,手 紙 が モ テ ィー フ に な った 。 オ ラ ン ダ絵 画 で は,テ ル ・ポル フ が そ の 先 鞭 をつ けた 。 オ ラ ン ダ で16世 紀 末,全 土 で初 等 教 育 の学 校 が 設 け られ て い た 。プ ロ テ ス タ ン トは聖 書 を読 む こ と を訴 え た。17世 紀 に65%が 就 学 し て い た 。字 を読 め な い人 は10%で あ っ た 。 字 が 書 け る人 は,男 が57%,女 が32%で あ っ た 。

裁 縫,レ ー ス あ み は,17世 紀 オ ラ ンダ 風 俗 画 の テ ー マ で は,人 気 を 呼 ん だ 。 そ れ ら は女 性 の 最 も重 要 な仕 事 だ った 。そ うい う女 性 は有 徳 の 人,と され た 。 人 々 は,勤 勉 で あ る こ と を教 育 の 目標 に した 。

若 者 の男 女 交 際 は か な り自 由 だ っ た 。1666‑1730年 に,結 婚 後7カ 月 以 内 に 生 まれ た 子 供 の 比 率 は14.3%で あ った 。

専 門 の画 商 は少 な か った 。それ は19世 紀 フ ラ ンス を待 た ね ば な らな い 。画 家 自身 が,額 縁 職 人 とか,人 が 集 ま る宿 屋 や 居 酒 屋 を 兼 業 して い た 。

フ ェル メ ー ル は地 図 を多 くか い た 。 地 図 は航 海 ・ 商 取 引 に 欠 か せ な か った 。 フ ェル メ ー ル は,死 後,名 前 を忘 れ られ た 。 し か し作 品 は高 く買 わ れ た 。 19世 紀 に フ ェル メ ー ル が 記 述 され 始 め る。200年 後,1866年,フ ラ ン ス人, 批 評 家 トレ=ビ ュ ル ガ ー が,「 デル フ トの フ ァ ン ・デ ル ・メー ル につ い て の 覚

え 書 き」 を発 表 し て,彼 が 復 活 した 。 トレ=ビ ュ ル ガ ー は,本 名 が テ オ ドー ル ・トレ とい い,美 術 評 論 家 で あ る。1848年 革 命 に参 加 ・亡 命 し,国 外 追 放 さ れ る。ベ ル ギ ー に滞 在 し,オ ラ ン ダ17世 紀 の絵 画 に着 目 した 。初 め フ ェ ル メ ー ル に否 定 的 で あ っ た が,そ の 後 絶 賛 した 。 そ れ は画 商 と して の 利 もあ っ た(13)。

19世 紀 の フ ラ ンス 市 民 社 会 で,パ リの市 民 が オ ラ ンダ の 市 民 絵 画 に特 別 の 偏 愛 を示 した 。 フ ラ ンス 絵 画 に 次 ぎ,オ ラ ン ダ絵 画 が 売 られ た 。格 が 高 い と

い う歴 史 画 よ り,身 近 な主 題 の風 俗 画 が 好 まれ た 。

フ ェ ル メ ー ル に は 同 名 が 他3人 い た 。 ユ トレ ヒ トの フ ァ ン ・デ ア ・メ ー ル,

ハ ー レ ム の フ ェ ル メ ー ル 父 子 で あ る。

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ネー デル ラ ン ド ・近 代 プ ロテ ス タ ン ト絵 画 41

フ ェ ル メ ー ル の 絵 で は,風 俗 画 の 第1作 が 「取 り持 ち 女 」1656年,で あ る 。 そ の 後 の 初 期 風 俗 画 は,「 眠 る 女 」 「窓 辺 で 手 紙 を 読 む 女 」 「兵 士 と笑 う 女 」「牛 乳 を 注 ぐ女Melkmeisje」(1658‑60頃,ア ム ス テ ル ダ ム 国 立),で あ る 。「紳 士 と ワ イ ン を飲 む 女 」 も あ る 。 こ れ ら は1656‑1660年 の も の で あ る 。 一 方,50 年 代 末 か ら60年 で は 「デ ル フ トの 小 路 」(ア ム ス テ ル ダ ム 国 立)が あ る 。 ま た 「デ ル フ ト眺 望 」(c.1660‑61,マ ウ リ ツ ・ハ ウ イ ス 美 術 館),「 画 家 の ア ト リ エ 」 が あ る 。 「青 い タ ー バ ン の 少 女 」(マ ウ リ ツ ・ハ ウ イ ス 美 術 館)は 最 も 有 名 な 絵 で あ る 。 「デ ィ ア ナ とニ ン フ た ち 」(同),「 手 紙 を 読 む 若 い 女 」1657 頃(ド レ ス デ ン 国 立)が あ る 。 「恋 文 」(1652‑54,ア ム ス テ ル ダ ム 国 立),「 真 珠 の 首 飾 り」(c.1664,ベ ル リ ン絵 画 館),「 絵 画 芸 術 の 寓 意 」(1665‑66,ウ ィ ー ン),「 水 差 し を 持 つ 女 」(1664‑65,NYメ ト ロ ポ リ タ ン),「 青 衣 の 女 」(ア ム ス テ ル ダ ム)が あ る 。

ネ ー デ ル ラ ン ト の 画 家 に は,ヤ ン ・ス テ ー ン(ラ イ デ ン),FransHals,ラ イ ス ダ ー ル が い る 。 こ の こ ろ は,リ ア リ ズ ム,観 察 の 時 代 で あ っ た 。

4ピ ー タ ー ・ ブ リ ュ ー ゲ ル

16世 紀 か ら フ ラ ン ドル の ブ リ ュ ー ゲ ルBrueg[h]el,父Pieter,(c.1530‑

69),子 ・次 子Jan,(1568‑1625),長 男Pieter,(1565‑1637)の 農 民 画 が あ っ た 。 次 子 の 代 表 作 は 「花 瓶 の 花 」 で あ る 。

ピ ー タ ー ・ブ リ ュ ー ゲ ル(父)は,隠 れ プ ロ テ ス タ ン トだ っ た 。 農 民 出 身 で,故 郷 の 村 の 名 を 姓 と し た 。 ベ ル ギ ー に い な が ら,カ ト リ ッ ク を 憎 ん だ 。 街,風 景,狩 人,ス ケ ー ト遊 び,農 民,農 民 の 婚 礼 を か い た 。 「雪 中 の 狩 人 」 (所 在,ウ ィ ー ンKunsthistorischesMuseum)な どが 有 名 で あ る 。 「農 民 の 結 婚 式 の ダ ン ス 」 は,長 男 ピ ー タ ー の 模 写 も あ る 。 こ れ ら は プ ロ テ ス タ ン ト的 で あ る 。 一 方,「 イ カ ロ ス の 失 墜 」は,彼 の 唯 一 の 神 話 画 で,ギ リ シ ャ神 話 の 話 で あ る か ら,ル ネ サ ン ス 的 で あ る 。だ が 絵 中 で は,墜 落 し た イ カ ロ ス に 人 々

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は 関 心 を 示 し て い な い 。 彼 は 宗 教 画 も か い た の で,全 くプ ロ テ ス タ ン ト ・ブ ル ジ ョ ア 的 と は 言 い 切 れ な い が,ル ネ サ ン ス 的,プ ロ テ ス タ ン ト的 と い う べ き で あ ろ う。

オ ラ ン ダ 絵 画 は,フ ラ ン ドル 地 方 か ら移 住 し て き た 画 家 た ち の 活 躍 で,ユ7 世 紀 に 黄 金 時 代 を 作 っ た 。15,16世 紀 に フ ラ ン ド ル で 風 俗 画 が さ か ん だ っ た 。 17世 紀 は じ め フ ラ ン ドル か ら,画 家 た ち,そ の 親 た ち が,移 住 し た 。 風 俗 画

の フ ラ ン ス ・ハ ル ス(c.1580‑1666)が い た 。

5バ ロ ッ ク と して の ル ー ベ ン ス

フ ラ ン ドル の 画 家 に は,ヤ ン ・フ ァ ン ・ア イ ク が お り,主 作 品 は 「若 き 商 人 夫 妻 」 で あ る 。 た だ し プ ロ テ ス タ ン ト的 で は な い 。

17世 紀 の イ ギ リ ス 画 派 は,ネ ー デ ル ラ ン ト人 で あ っ た,最 大 の 例 は,フ ァ ン ・ダ イ ク で あ る 。 た だ し彼 は プ ロ テ ス タ ン ト的 で は な い 。

ピ ー タ ー ・パ ウ ル ・ル ー ベ ン ス は,ベ ル ギ ー で 活 躍 し た 。 彼 は カ ト リ ッ ク で,物 語 作 家 で あ っ た 。 キ リ ス ト教 や 従 来 型 の テ ー マ,英 雄 を え が い た 。 「東 方 三 博 士 の 礼 拝 」(2種 類 あ る)「 キ リ ス トの は り つ け 」「キ リ ス トの 昇 架 」 「キ リ ス トの 降 架 」(14)が有 名 で あ る 。ル ー ベ ン ス の 絵 は,リ ア ル で あ り,大 作 が 多 い 。 そ し て 裸 体 を 描 い た 。 注 文 が 多 い の で,弟 子 に か か せ た 。 「こ れ ぞ 絵 画, ワ ン ダ フ ル!」 と い う も の ぼ か り で あ る 。 だ が,大 き さ と題 材 か ら,そ れ ら は 市 民 向 け で は な い,つ ま り プ ロ テ ス タ ン ト的 で は な い 。 そ れ ど こ ろ か,バ ロ ッ ク 芸 術 と は,プ ロ テ ス タ ン トに 対 し て,カ ト リ ッ ク の 側 に ひ き つ け る 必 要 が あ っ た も の で あ り,人 々 が カ ト リ ッ ク か ら プ ロ テ ス タ ン トへ 替 わ ら な い よ う に す る 芸 術 で あ っ た 。ル ー ベ ン ス は,バ ロ ッ ク=反 宗 教 改 革 の 大 家 で あ っ た 。 彼 の 絵 を 買 う の は,殿 様 や 教 会,大 金 持 ち で あ っ た 。

ル ー ベ ン ス と近 代 ネ ー デ ル ラ ン ト・プ ロ テ ス タ ン ト絵 画 と は 全 く違 う 。ル ー ベ ン ス は,芸 術 的 に は 反 プ ロ テ ス タ ン ト,つ ま り バ ロ ッ ク で あ っ た 。 プ ロ テ

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ネ ー デル ラ ン ド ・近 代 プ ロ テ ス タ ン ト絵 画 43

ス タ ン ト的 な レ ン ブ ラ ン ト,フ ェ ル メ ー ル,ブ リ ュ ー ゲ ル と は,全 く違 う の で あ る 。

結び

こ う し て,レ ン ブ ラ ン ト,フ ェ ル メ ー ル,ブ リ ュ ー ゲ ル を,近 代 ネ ー デ ル ラ ン ト ・市 民 派 と し て 見 る べ き で あ ろ う 。 レ ン ブ ラ ン ト は プ ロ テ ス タ ン トで

あ り,作 品 の 半 分 は市 民 派 で あ る 。 フ ェル メ ー ル は便 宜 的 カ ト リ ック で あ っ

た が,作 品 は 市 民 派 で あ る 。 ブ リ ュ ー ゲ ル は 反 カ ト リ ッ ク で あ っ て,作 品 は

市 民 派 で あ る 。

(1)ヒ ル 『イ ギ リ ス 革 命 』 未 来 社 。

(2)羽 仁 五 郎 『ミ ケ ル ア ン ジ ェ ロ 』 岩 波 書 店 。

(3)テ ィ モ シ ー ・ウ ィ ル ソ ン=ス ミ ス 『カ ラ ヴ ァ ッ ジ ョ 』 西 村 書 店 。 (4)石 島 晴 夫 『ス ペ イ ン 無 敵 艦 隊 』 原 書 房 。

(5)R.R.Palmer,JoelColton,AHistoryofTheModernWorld.N.Y.3rd.ed.

1965.

(6)グu一 チ ウ ス 『戦 争 と 平 和 の 法 』 全3巻 、 巖 松 堂1950‑51。

(7)私 の 『ハ プ ス ブ ル ク 歴 史 物 語 』 『グ ロ ー バ ル 資 本 主 義 の 物 語 』。 共 に 、NHKブ ッ ク ス 。

(8)Joseph‑EmileMuller,Rembrandt.LondonParis.1958.Trans1.intoEnglish.

Amsterdam[n.d.],p.7.

(9)OP.cit.,P.8.

⑩ 現 在(1970年 代)で も オ ラ ン ダ 紙 幣 は レ ン ブ ラ ン トが 印 刷 さ れ て い る 。 市 の 繁 華 街 に は レ ン ブ ラ ン トの 銅 像 が あ り 、 そ こ は レ ン ブ ラ ン ト ・プ レ ー ン(広 場)と

呼 ば れ て い る 。

⑪ 映 画 『レ ン ブ ラ ン トの 贈 物 』=ビ デ オ 『レ ン ブ ラ ン ト』、 ビ デ オ 『レ ン ブ ラ ン ト』

(RembrandtHuis)。

(12)小 林 頼 子 『フ ェ ル メ ー ル の 世 界 』NHK出 版 。 (13)メ ー ヘ レ ン の 贋 作 の 話 。

修 復 家 ウ ェ イ ン ハ ー ル デ ン が 、1923年 に 、 メ ー ヘ レ ン と共 謀 し た 。 フ ラ ン ス ・ハ ル ス を 真 似 て 、 「上 機 嫌 の 兵 士 」を か い た 。 美 術 家 フ ロ ー トへ 持 ち 込 ん だ 。 フ ロ ー ト は ハ ル ス だ と 鑑 定 し た 。 競 売 会 社 が 高 値 で 買 う こ と に し た 。 だ が 美 術 史 家 プ レ デ ィ ウ ス が 偽 物 で あ る と指 摘 し た 。 会 社 と フ ロ ー ト は 裁 判 を し 、 フ ロ ー トが 負 け た 。 そ の 絵 を 自 分 で 買 っ て し ま っ た 。 な お メ ー ヘ レ ン ら は 、 フ ラ ン ス ・ハ ル ス 「喫 煙 す る 少 年 」 を か い て 、 フ ロ ー ト は こ れ を 買 っ て い た 。

1932年 、メ ー ヘ レ ン は ま た1人 で 偽 作 作 り を し た 。プ レ デ ィ ウ ス に 目 を つ け た 。

(24)

時 に 彼 は マ ウ リ ッ ツ ・ハ ウ イ ス 美 術 館 長 だ った 。 メ ー ヘ レ ン は 「ス ピ ネ ッ トの 傍 の 男 と女 」 を書 く、 プ レ デ ィ ウ ス は、 こ れ を フ ェル メ ー ル だ と し た 。 ニ ュ ー ヨ ー ク の 画 商 は偽 物 だ と い っ た 。 ボ イ マ ン ス 美 術 館 が こ れ を買 っ た 。 こ こは プ レ デ ィ ウ ス の 弟 子 が 館 長 を して い た 。

メ ー ヘ レ ン は 「エ マ オ の キ リス ト」 をか く。 フ ェ ル メ ー ル だ と言 っ た 。 名 声 の あ る プ レ デ ィ ウ ス らが 絶 賛 し た 。1938年 に、 フ ェル メ ー ル 作 品 だ と い う こ とで 高 額 で ボ イ マ ン ス 美 術 館 が 買 っ た 。そ の後 彼 は フ ェル メ ー ル な ど の贋 作 を か い て 儲

け た 。

1945年 、 ア メ リカ 人 大 尉 が フ ィ ッ シ ュ ボ ル ン城 で 、 フ ェ ル メ ー ル と さ れ る 「キ リス ト と悔 恨 の 女 」 を見 つ け た 。 ナ チ の 元 帥 ゲ ー リ ン グ が そ の 妻 に手 渡 し た もの が 、 そ こ に あ っ た 。 ゲ ー リ ン グ へ の 売 り手 の元 を た ど り、 メ ー ヘ レ ン に た ど りつ い た 。 彼 は捕 ま っ た 、 そ して 彼 は 自 白 した 。 そ の 作 は フ ェ ル メ ー ル で は な く、 自 分 が か い た 贋 作 で あ る 、 な お 、 有 名 な 「エ マ オ の キ リス ト」 な ど も そ うで あ る 、 と。 ち な み に、 エ マ オ の キ リス ト と は 、 キ リス トの 死 後 、 墓 を見 て 、 キ リス トが い な い と見 た 人 た ち が 、エ マ オ へ 行 く途 中 、あ る 若 い 人 物 と会 っ た 。彼 と連 れ だ っ て 共 に 村 に 帰 っ た 。 彼 は イ エ ス ・キ リス トだ っ た 、 とい う新 約 聖 書 中 の話 で あ る 。 メ ー ヘ レ ン は裁 判 で 、 実 際 フ ェ ル メ ー ル 風 の絵 を か い て 見 せ た 。彼 は入 獄 した 。 ど う して ご ま か せ られ た の か 。戦 争 中 で あ っ た 。 フ ェ ル メ ー ル の絵 を 実 地 検 討 し つ くせ な か っ た 。研 究 が 進 ん で い な か っ た 。 フ ェ ル メ ー ル の 全 作 品 は現 時 点 で32 点 あ る 。 しか し、 二 、 三 、 意 見 の 別 れ が あ る。36点 説 も あ る。

(14)「 イ ギ リス 文 化 史 ノ ー ト」(『言 語 セ ン タ ー 広 報 』10)。 「フ ラ ン ダ ー ス の 犬 」の 項 。

文献

『世 界 の 歴 史 』7教 養 文 庫

『絵 界 の 歴 史 』8中 央 公 論 文 庫

石 坂 昭 雄 『オ ラ ン ダ 型 貿 易 国 家 の 経 済 構 造 』 未 来 社1971 大 塚 久 雄 『近 代 欧 州 経 済 史 序 説 上 』 弘 文 堂 、 岩 波 書 店 永 積 昭 『オ ラ ン ダ 東 イ ン ド会 社 』 近 藤 出 版1971 PieterGeyl,TheRevoltOftheNetherlands.2vols.London1932 岡 崎 久 彦 『繁 栄 と衰 退 と』 文 春 文 庫1999

シ ュ テ フ ァ ン ・ツ ヴ ァイ ク 『エ ラ ス ム ス の 勝 利 と悲 劇 』 み す ず 書 房 ヨハ ン ・ホ イ ジ ン ガ 『レ ン ブ ラ ン トの 世 紀 』 創 文 社1968

ヨハ ン ・ホ イ ジ ン ガ 『中 世 の 秋 』 創 文 社1958 C.ウ ィ ル ス ン 『オ ラ ン ダ 共 和 国 』 平 凡 社 シ ラ ー 『オ ラ ン ダ独 立 史 』 岩 波 文 庫1949 今 来 編 『中 欧 史 』 山 川 出 版1971

A・ デ ュ マ 『黒 い チ ュ ー リ ッ プ 』

戯 曲 ゲ ー テ 「エ グ モ ン ト」(『ゲ ー テ 全 集 』3人 文 書 院)

『オ ラ ン ダ ・ベ ル ギ ー 』 新 潮 社

司 馬 遼 太 郎 『オ ラ ン ダ 紀 行 』 朝 日文 芸 文 庫 ブ ロ ー ル 『オ ラ ン ダ 史 』 白 水 社

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ネー デ ル ラ ン ド ・近 代 プ ロテ ス タ ン ト絵 画 45

小 林 頼 子 『フ ェ ル メ ー ル の 世 界 』NHKブ ッ ク ス マ イ ク ・ダ ッ シ ュ 『チ ュ ー リ ッ プ ・バ ブ ル 』 文 春 文 庫 ポ ー ル ・ケ ネ デ ィ 『大 国 の 興 亡 』2巻 、 草 思 社 Edwards,HogoGrotizas.Chicago1981

『レ ン ブ ラ ン ト』 平 凡 社1979

NederlandineenHandomraai.UitgeverijBalans[1999]

ErstvanWetering,Rembrandt,AmsterdamUniv.Press2000

『レ ン ブ ラ ン ト』 小 学 館

『フ ェ ル メ ー ル 』 小 学 館 Israe1,TheDzatchRepzablic.Oxford.

J.L.Motley,LzfeandZ)eathoflohnofBarneveld.2vols.London.

参照

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