企業目的と利潤説の限界
その他のタイトル Business Purpose and the Limit of Profit Theory
著者 鯰江 城夫
雑誌名 關西大學經済論集
巻 12
号 4
ページ 333‑353
発行年 1962‑10‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15467
333
企 業 目 的 と 利 潤 説 の 限 界
企業者が自己の投下資本の利潤の極大を目的として経営指導を行なうものである事は一応目明の理とされるとこ
ろであるが︑然らば経営経済学に於ても斯かる収益目的を企業一般を指導する統一理念として認め︑或いは経営学
の基本原理︑選択原理として之を承認し︑その研究対象に於ける企業と経営との関係に付てまで此方法を貫徹する
ものであるかと云うに問題はしかく簡単ではなく相対立する諸説が見受けられる︒
即ちその代表的な主張として
は︑先︑資本主義体制下に於ける市場経済社会に活動する個人企業家の唯一の行為規準は個別資本の法則に支配さ
れる利潤原則であるとするものである︒
右の主張に対して他方︑利潤原則を否定し国民経済的︑財貨︑用益の給付︑調達︑或いは社会公共目的を全面的
に強調し︑或いは営利性︑収益性に代えて経済性︑経営合理性︑生産性を基本原理として主張し︑此経済性︑生産
性に於て体制無関連的基準を見出し︑資本主義的経済秩序と社会主義的経済秩序に於ける個別経済を統一的に把握
せんとするもの︑更に之等の中間的主張︑利潤をも含めた経営成果なる経済量を措定するもの︑利潤を環境的条件 論
文
企業
目的
と利
潤説
の限
界︵
鯰江
︶
鯰
江
城
夫
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第四号
と見るもの︑利潤原理と経済性原理の共通性を強調するもの等︑猶幾多の主張が見受けられ︑之等︑企業︑経営目
的︑並びに経済性︑生産性︑収益性の関係に付ては未だ統一的見解に到達して居らず論者によって異った見解が見
られるが以下に於ては之等の諸説を検討する事により問題の整理と理論の適用に於て現実の把握に一歩接近せんと
するものである︒
先︑素朴に考えて企業の目的に飽迄利潤を肯定せんとする説と︑他方︑之を否定し︑又は経済性︑生産性を主張
する説に関しては︑経営学に於ても経営の基礎理念︑経営を指導する規範を考究する概論の場合に於ては収益性
原理︑利潤概念を排除︑又は制限せんとする傾向強く︑又他方︑現実の経営指導を対象とする各論︑技術論︑政策
論の立場に於ては利潤概念︑収益性概念︑損益計算︑利益管理等より出発する事が現実であり︑之等を調整するも
のとして︑経営者の社会的責任を論じ︑又は私経済的利益と国民経済的利益の統一を考え︑或いは営利性と経済性
との対立を︑経営成果なる経済量に於ける程度の差と考え︑而かも現実の経済環境の分析より之が一致するに至る
事を説く等の諸説が︐何れも企業に於ける利潤の追求を中心課題として採上げ︑論究する処の︑その根底に潜む観
念には︑果して経営学が営利性の追求を︑価値を実現する為の手段的性格の科学として︑その存立を認める事を至
当とするか︑或いは又︑利潤の追求は経営学をして単なる︑資本に奉仕し︑企業者階級の利益を代表する﹁金儲け
の為の技術論﹂に堕さしめ︑経営学を堕落せしめるものとして之を飽迄︑排除せんとするか︑更に若し経営学が利
335
潤の追求を統一的目標とした場合︑
︵ 所
謂 ︑
原料高の製品安であって而も此事は通常景気循還に伴う普遍的常態である︶生産を経過せずとも原料の転売を行い︑
又は原料資材在庫量を投機目的の為︑過大に保有する事の方が︑政策的に営利性の追求を貫徹する為には︑より合
目的的であり︑ 若し原料価格の騰貴が見られる際︑
︵実
際︑
最近
企業
の多
角経
営に
於て
本業
以外
の部
面に
発展
︑経
営の
重点
が置
かれ
る事
が多
く見
受け
られ
る︶
之等
の場合︑経営学に於ては如何に指導すべきか︑或いは又︑生産活動自体が反社会的であり︑生産物が直接︑社会に
害毒を与える場合︑青少年の勤労意欲を殺ぎ射倖心を誘発するが如き企業の場合︑或いは資本主義機構の宿命的性
格としての競争より独占に至る過程に於て︑営利経済としては必然の競争手段により競争当事者︑取引関係者︑中
小企業者等に与える諸損害︑個別経済的には妥当ながらも国民経済的に大なる浪費となる場合︑殊に近代的産業構
造が財政投融資等政治との接触の分野を大にする時︑公正なる企業競争︑経営合理化に努むるよりも寧ろ政治と結
托する事に努力を尽す事が営利性を貫徹する為には合目的的である場合の如く︑企業の利害は常に必ずしも社会公
( 1 )
共の利益︑国民経済の利益とは一致せず国民経済に不利益︑損害を生ぜしめ︑或いは反社会的︑反公共的︑反道徳
的な効果︑影密を生ぜしめる場合︑経営学は果して技術的性格の手段科学として終始する事に於てその存立価値を
完うし得るものであるか︑或いは既にその科学性をも失うものに非ざるかとする反省︑経営学をも含めて経済学が
経済的諸条件︑経済水準の向上︑国民経済の発展を通じて究極的に社会福祉に貢献すべき使命を有する楊合︑若し
経営学の目標とする処のものに於て反社会的であり国民経済的に不利益を生ずる場合︑経営学の存在理由とその科
学性に付ての反省が当然生じ︑弦に経営者の社会的責任観念の導入によって︑之等利潤追求に伴う諸弊害を制限︑
排除する事によって経営学の妥当性を貫徹せしめんとし︑或いは経営学の指導理論の中から企業に於ける営利性そ
企業
目的
と利
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の限
界︵
鯰江
︶ 例えば財貨の生産を業務とする企業が︑
慮する時は依然︑資本による支配を肯定せざるを得ない︒﹁利潤最大の原理が経済性原理に対立して資本主義的 機は逢も変革されるものではない︒ しているものと思料される︒ 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第四号
のものを否定し︑国民経済への貢献にのみ直接結び付き得る︑共同経済的︑国民経済的利益なる目標を企業目的に
設定する事によって最初から経営学の反価値的な側面を排除することにより矛盾を克服しその科学性を完うせんと
先︑飽迄経営学に於ける選択原理として企業に収益性原理の適用を認める説の論旨を観れば︑資本主義体制は企
業の自己責任体制に他ならず企業者の経営目的は自己資本所得︑利潤の最大である︒此利潤原則が市場経済社会に
於て活動する企業者の唯一の行為規準であり︑経済活動推進の動機ともなるものである︒今日の資本主義は利潤が私
的資本の支配下にあるものでなく又利潤は経済活動推進の動機でもなくなって居り︑企業行動を規定するものは利
( 2 )
潤の極大よりも︑長期に亘って利潤を安定せしめる事を通じて企業を安定的地位に維持する事にあるとの主張もあ
るがそれは利潤の形態的変化であり︑資本主義の性格が︑経営計画の長期化︑企業維持原則の確立によって利潤勁
資本主義的企業行動を客観的に観察すれば仮令︑企業維持原則と雖も結局は長期的利潤確保が問題の核心であ
り︑資本による利潤造出の基本的企業原則が変更されるものではない︒又利潤が私的資本の支配下にあるか否かの
観点から︑利潤の相当部分が租税の形で財政に寄与し︑之は国民一般の福祉に還元される事よりその私的資本によ
る支配を否定する考方もあるが︑財政支出が階級的性格を有するものである事︑及び租税の消費者への転嫁等を考
経営形態に於ける経営活動の最高の指導原理として貫徹し︑而も生産手段を最も節約的に使用する具体的な方法こ
そ︑体制関連的事実と体制無関連的事実が融和して︱つの経営体となり資本主義的企業と称せられる形態を成立さ
ニ四
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︶
二五
( 3 )
せるものであり﹂︑﹁市場経済体制はあらゆる個々の企業が投下資本に対し最大可能の利潤を継続的に獲得せんと試
みる場合に︑国民経済的には財と用役の最も好ましき供給が達成されるものであり︑かかる体制の下に統制がなく
とも国民経済の諸生産力を発揮し︑最大量のしかも質的に需要に最もよく適合する社会生産物を産出せしめる全体
( 4 )
︵
5) 的な自動機構が発展するものである︒﹂曽て著名な利潤肯定論者のリーガーが主張した如く︑現実に於て企業がそ
の利潤の極大化に努めるものである事は疑う余地がなく︑又他方︑経済性は具体的に測定する事が不可能である︒
技術的経済性は測定する事が出来るが経済全体に対する効用を測定する事は殆んど不可能である︒之に比較して収
( 6 )
益性は正確に測定する事が出来る︒即ち収益性は一般に経済性の有用な尺度なのである︒又経営の経済性は経済原
則に従うのであるが︑之は企業の経済性たる収益性に下属すべきものとされる︒経営の経済原則は企業から利潤目
的を与えられる事によって始めて具体的に作用する︒企業者は資本主義思考の担い手であり︑彼は貨幣理念と営利
理念を追求する︒斯様な利潤迫求目的は企業が資本主義社会の構成分子たることから必然的に生ずる客観的事実で
( 7 )
あり︑好むと好まざるとにかかわらず経済組織的必然として認めねばならない︒又シェアーも商概念の規定に於て
﹁資本主義的企業形態としての商業は︑商品の購買と販売によって︑又は貨幣価値ある給付と反対給付に関する他
の契約により︱つの貨幣資本をば回転させ所有者に利潤を得させて再生産させる事にある﹂と︑利潤目的を認め︑
( 8 )
ディーンも企業は利潤を稼く様に企図された︱つの組織であり︑利潤はその企業の成功の第一次的な尺度である︒
事業の成果の社会的基準は通常︑生産物の質︑発展の速度及び価格行動に関係をもっている︒然し利潤は個々の企
業の実際の成果の酸性テストである︒又各大会社の経営者は計画を立案し決定するに当って所謂利潤テストを利用
要であるとも述べている︒ する︒収益が会社の実際の成果と未来への期待とに対する究極の尺度である以上︑絶えずこの尺度を見守る事が肝
以上企業を指導する理念に飽迄利潤を肯定せんとする説は要するに現時に於ける資本主義的経済機構下の私企業
が個別資本の自己増殖の論理に支配され生産及び配給の最も一般的︑支配的担い手として存在し︑且利潤がその存
立と発展のための不可欠の基礎的要件として追求が行われ︑又は企業の維持に必然的に収益性の究極の尺度として
利潤が利用される事は私企業を主要な研究対象として有つ経営学に於て利潤性︑収益性の原理を統一的指導理念と
して設定しなければならない事を結論づけるものであり︑要するに資本の優位と資本主義経済体制の必然とより基
本的に凡ゆる政策モーティヴの底にプロフィット・モーティヴを演繹せんとするものである︒
註
(1
) 私企業の利益と国民経済的利益とが一致せざる問題に付ては関西大学政治経済研究所﹁生産性向上の諸問題﹂森川太郎
五ページー'六ページに於て﹁物量生産性の増大は国民経済的観点からは常に望ましい善であるが企業の観点からは時に価格の下落を惹き記して価値生産性を害する危険を含むことになる••…・国民経済的観点と企業的観点の相剋があること
を注意せねばならぬ﹂﹁価値生産性の増大は物量生産性の増大とは無関係に例えば産出物価格の引上げ︵多くは独占価 格の形成にある︶または賃銀の切下げ等によってこれを実現し得る︒企業が利潤追及に急なる余りこの様な方法によっ て価値生産性の増大を図ることは国民経済的立場からの生産性増大の目的に合致しないこと敢えていうまでもないであ
ろう﹂と指摘されている︒
(2 ) 企業目的を企業の維持に求める点に関しては特にドラッカーが次の箇所に於て強調している︒
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1959
p.
27
p.
28
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.3
8
(3 )
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B et r i eb s w ir t s ch a f ts l e hr e ,
p.
32
9
市原季一﹃西ドイツの経済と際営﹄一八八ー九ページ参照 (4 )
Gu
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nb
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g,
a.a.o••
p.
33
0
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第四号
二六
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市原季一前掲書一九
0ページ
(5 )
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g i n d i e a r i va t w ir t s ch a f ts l e hr e
1928 ,
市原季一﹃ドイツ経営学﹄︱一三
I ‑
︱九ページ
高田馨﹃経営共同体の原理﹄ニーニー七︑二七一ーニ八八ページ参照︒
(6 ) K a rl Ha x
﹁第二次大戦後におけるドイツ経営経済学の問題﹂
森田哲弥訳﹃ピジネス・レビュ.ー﹄七巻四号︑十一︑十ニページ
(7 )
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e H a nd e l sb e t ri e b sl e h re ,
1911
(8 ) J oe l
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1959
格の社会性︑公共性︑国民経済に対する財貨の供給目的を強調し︑
二七 斯様な飽迄企業に於ける営利性を肯定し貫徹せんとする主張に対して之等資本主義的利潤追求を否定し︑企業性
その営利性︑収益性に代わるに経済性︑生産性
を主張する説の主要な論点としては︑先第一に個別経済をその所有形態を中心として営利︑非営利に区別し︑
その
指導原理を異にする事に異論を有つものであって営利︑非営利を問わず之等両者を同一原理によって統一せんとす
るものである︒即ち現在の資本主義経済機構の下に於ては営利を目的とする個別経済が国民経済内に於て大なる比
重を占める事は認めつつも︑猶且︑国家︑地方自治団体の他︑各種営団公団等公企業︑組合の他必ずしも営利を目
的とせざる個別経済が各種存在し︑而もその分野を拡大しつつあるのが現状である︒従って経営学が之等の中︑特
に営利経済のみを対象として最大利潤の獲得をのみ中心課題として研究する事に終始し︑それ以外の個別経済とは
何等の関係を認めない事の誤りであるは論を侯たない処であろう︒之等の個別経済が外部に於ける利潤獲得を目標
企業
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︶
企業の運営が為される事は不合理となり︑事実上株主総会に於て取締役の選任をする場合と雖も経営者の支配下に
あり︑取締役会は実質的には株主に非ざる︑経営者により選出された者達により構成され︑仮令株主の利益的観点
から信託機能を与えられ︑経営者集団の行動を監督する機構をとりつつもそれは形式的に過ぎず経営者の管理機能
を抑制する事は不可能である︒出資者である株主は資本を供給し︑資本危険の負担をするが経営には機能的支配は がヽ
関西
大学
﹃経
済論
集﹄
第十
二巻
第四
号
或いは具体的な事実の中から主張する説もある とする事の有無とは無関係に個別経済一般に対する原理を統一的に適用されるものでなければならぬ筈である︒而して此統一目標として採るところのものが経済性原理である︒而して此点に付てこそ体制無関連的に資本主義経済体制であると︑社会主義経済体制であるとを問わず統一的に経営学が適用され得る共通の基盤を見出さんとするものである︒随って営利目標は個別経済一般に対する普遍性を有しないが故に経営学に於ける統一的指導目標とは為
次に営利性を否定する第二の論点は資本主義経済の発展が企業経営の形態とその実質を根本的に関するものであ
る︒即ち資本と経営との分離により現代企業に於ては資本酸出者の地位は高度に経営より分離し︑経営体の活動に
とっては利害関係者集団の一っとなっているものであるが︑斯くなる場合には企業の目的は唯︑投資家の為の利潤︑
配当を大にする事にあるものではない︒此事実は第一に企業に於ける資本性格の変化︑第二に経営職能の分化︑第
三に近年の企業環境に於ける従業員︑労働者の地位の変化︑第四に企業目的に対する具体的表現から考察する事が
出来る︒即ち第一の点に付ては猶未だに資本性格の変質を認めず依然として企業に於ける資本の優位と資本の支配
を資本の生産能力と稀少性︑ し得ないと主張する︒
資本主義経済機構の必然からして︑
一般的には資本と経営の分離現象に伴う︑資本の企業に対する支配の変遷と退化とを認め︑株主代表者により
ニ八
3 41
動機が強く作用するものと云うべきである︒
二九
及ばず︑従って企業の利潤はすべて株主に帰属する事はなく︑論理的には資本調達の為には株主が企業に続けて資
本を投下し︑企業の必要とする新しい資本要求に応ずる誘因になるべき程度の利益配当が為されればそれで充分で
あり︑又実際に経営職能を担当する経営者は殆んど重要な株主利益を有せず︑従って利潤が経営者の行為を支配す
るものであるとの利潤動機説は妥当しない事となる︒要するに企業に於ける自己資本家の作用力は減少して行かざ
第二点の経営職能の分化に付ては企業に於ける基本職能は出資職能︑管理職能︑作業職能に三大別されるが︑職
能未分化の段階には企業者が之等すべての職能を遂行するものであるが資本主義経済の発展に伴い︑企業者は出資
職能をのみ分担し︑管理︑作業職能は之を経営者に委譲する事から事実上の経営支配権を喪失するに至るものであ
る︒かくして管理職能に付ては資本危険を負担せざる専門的経営者階級が制度的機関として自主的組織的に之を担
当し︑而も彼等の企業を指導する目標は企業を制度として継続的に維持する事にあり︑利潤動機を有するものでは
ない︒下部の管理者は特に然りである︒勿論究極的には企業利潤の増減に支配されるべく︑その増大は経営者︑従
業員の俸給︑賃銀を増加せしめる筈であるが︑実質的には之等給与と雖も一般給与水準によって決定され︑企業収
益とは直接の関係を有たない確定費用的性格を有するものであり︑利潤の多寡により左右される部分は比較的僅少
である︒此限りに於ては利潤原則よりも却って権力欲︑名誉欲︑事業拡張欲等︑更には非合理的感情等︑非経済的
次に第三に更に右の様な企業に於ける資本並に経営職能の変化に伴う収益性への制約に対応して近年に至り労使
関係に付ても特に人間関係論の胎頭︑従業員の組織化等の社会的要因に基き従来は従業員︑労働者を生産の手段と
企業
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鯰江
︶
るを得ないのである︒
もって獲得されるか﹂
而して又第四の企業目的に於ける具体的表現に付ても実際従来からも企業の目的を営利に捉えず例えばフォード により︑良質廉価なる財貨︑用役の提供なる目的が唱導された事があるが最近は特にドラッカーの︑経営なる組織 の存続︑所謂︑企業維持原則の主張以下︑経営学者︑並に経営指導者から利潤は経営活動の能率︑有効性とその健 全性を測定する尺度としてのみ利用され︑最終的企業の目的とする処は消費者︑社会公共への給付義務︑労使の共 益等が唱えられているのが現状である︒又最近の会計学の分野に於ても企業を資本のみの組織として見ず︑資本と 労働との組織として把握し︑その両者の経営成果を測定せんとする事が生産性会計の唱導に於て見られるものであ
( 1 )
る︒以上の如き諸点からして企業目的を飽くなき利潤の追求にのみ求める事は誤りであるとして然らば次に︑収 益性に対立するものとして主張される経済性︑生産性とは如何なるものか︑殊に経済性は理性的活動︑合理的行為 の実践原理であるがその具体的内容︑収益性との関係如何というに︑先︑之等の学説の代表的なものとして通常掲
( 2 )
げられるシュマーレンバッハの説を観るなれば︑彼は﹁経済的成果は如何にして経済的価値の可及的最少の費消を し得るか︑如何にして最も合目的に需給を調整し得るかにあり﹂
て私経済的経済性ではない︑或工場主が儲けが多いか少いかという事ではなく不経済的な作業により財貨が消費さ
れない様にする事﹂
( 3 )
性を与える﹂と述べている処より︑ るに至っている︒
﹁方向を指示するものは共同経済的経済性であっ
してのみ考えていたものが資本醜出者管理者と共に彼等と同等の地位︑資格を有つ経営の構成主体として把握され
﹁問題は如何にして多く儲けるかにあるのではなくして︑如何にして最も経済的に財を生産
﹁不経済的であると判った企業を経済的な企業にするか︑中止し︑経済的な企業へ発展の可能
シュマーレンバッハの経営目的としての経済性とは共同経済的生産性が目的で
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一般的技術法則としての経済原則の経営に於ける具体的対象化を求めんとしているものであり︑又ドラッカ
あり
︑
( 4 )
ーに於ても﹁利潤は動機ではない︑それは結果であり︑しかもマーケティングや革新や生産性向上などの実際活動
の結果である﹂﹁企業体の理論的根拠︑行動︑政策及び意思決定の何れも利潤動機と何の関係もない﹂
産業生産の終極的かつ決定的な指標であるという事は企業者の利潤意欲とは何の関係もない︑まことにそれはいか
なる個人的動機とも無関係である⁝⁝
﹁利
潤性
が
利潤性は産業生産と産業経済の客観的な必要性と目的の内に見出されるの
﹁企業体の経済的側面に於ける管理的職能が生産性であり︑最少の努力で最大の成果をもたらす生産要素
間の均衡を意味する﹂と述べている処よりしてもドラッカーの利潤性概念は技術法則としての生産性概念である︒
又収益性に関しては﹁一国の全体経済は個々の経営がいかによく操縦されているかということに依存している﹂
経済的経営は国民経済の一構成分子であり︑国民経済の職分の一部を︑自己の分として引受ける義務がある︒分業
的な国民経済の構成分子としての経営はそれから原料並に其他の給付を受け︑それに対して製品やその他の給付を
国民経済に戻すのである︒そこに剰余価値がえらねばならない﹂
らな
い︑
この剰余価値は物自体から発生する剰余価値である︒商人がこの剰余価値を自己のものにするか︑或いは
企業が収得するか︑国家又は自治体の財源となるか如何かは比較的︑第二次的の事である﹂とする︒又シュマーレ
ンバッハは経済性に付ても私経済的経済性︵私的営利性︶と共同経済的経済性とを区別し︑経営学は此後者のもの
を目標とする事に於ても明かなる如く︑私的な営利性を経営学より排除せんとするものである︒唯然し彼は論理的
に利潤を全く否定すのものではなく財貨の生産が如何なる程度に経済的に実現されたかは之を損益計算に求め︑
経済性の表現としての利潤﹂と唱える如く利潤を以て経済性の指標と考えている︒要するに彼等は利潤を全く否定 で
ある
﹂
‑‑‑,
﹁剰余価値は費用と収益との間に残らなければな
‑‑‑,
するものではなく利潤を以て企業にとり存︐続に欠く可らざるものであり︑経営者の社会的責任は利潤を得て企業を
維持運営する事にあるが︑唯︑企業の要件としての利潤は認めつつ︑極大利潤の追求を目的とする事に付て反対を
( 5 )
している︒即ち利潤は企業の目的ではなくそれを制約する︱つの要件と考え或いは利潤は経営に於ける有効性のテ
( 6 )
ストなりとする︒姦に彼等の必要最低利潤︑或いは適正利潤なる観念が得られ︑利潤極大化に付ては極力之を経営
( 7 )
目的から排除せんとしている︒
之等の説は何れも結局企業の目的に於て営利を主張する説に対して真向より反対し︑それに全く代るものとして
経済性概念を主張するものと云うよりも寧ろ企業に於ける直接の指標としては利潤を認めるが之が国民経済とその
利害を対立せしめる点に付て之を制約し︑企業の利益を国民経済に貢献せしめる点に限定せんとし︑随って経済性
の内容としては国民経済に於ける財貨の給付義務︑具体的には生産性に於て之等を統一せんとするものである︒企
業が唯個別経済としての利潤極大のみを求める性格に止まらずその内部の指導理念に付ても国民経済を構成する分
子としての地位と国民経済とのつながりにまで視野を拡大せしめ個別経済の総和としての国民経済的範囲に於ける
余剰性を経済性と理解するものである事は例えばレーマンが﹁費消と給付の関係であり︑生産性と収益性を包括す
るものが経済性である﹂と述ぺ︑又︑ハックスは﹁企業の経済性を増進しそれを通して経済全体の生産性を高める事
( 8 )
であり︑社会的福祉を意味する﹂又﹁経営の原理は収益性にあり之が社会的福祉によって制限されて出て来るもの
( 9 )
が経済性である﹂と云うころよりしても明かであろう︒本来経済性とは経済原則に合致する度合︑即ち最少手段に
よる最大目的の達成を意味するものであり従って生産に於ける経済性は如何にして経済的に財を生産するかにかか
るものであって一応は生産性と等しい性格を有つと共に他方具体的内容としては国民経済的領域に於ける余剰性を
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第四号
31'5
意味するものである事はシュマーレンバッハの共同経済的経済性の概念を始め多くの論旨に明かな処であろう︒随
って経済性説を唱える学説も結局︑営利性のみを企業目的とすることに反対するものであり︑之を更に拡大し︑営
(10) 利性に加えて国民経済的領域に於ける経済性︵余剰性︶をも企業目的の中に導入せんとするものに他ならない︒而
して斯く考えるならば経済性説も結局はその具体化の方向に於て以下に述ぺる処の︑最初より営利目的を否定せ
ず︑目的の一側面として理解しそれをも包含した目的を掲げるものと本質的差異を見出し得ないものと思われる︒
( 1 1 )
即ち先第一に経営を成果としての生産性向上を目標とするものとする説は︑企業は生産性を第一目標とし︑之を通
じてのみ更に︑より高次の︑例えば営利性を始め︑国家︑公共性︑社会性等の目的を達成する事を得るものである︒
営利性と生産性との関係は営利を否定して生産性を対立せしめるものではなく生産性を営利性の手段と解し︑而も
企業目的を営利性のみに限定せず︑営利性の他︑社会性公共性をも同時に同列に企業目的として把握するものであ
る︒経営は生産機能を遂行する組織体であり︑国民経済に良質なる財貨︑用役の提供︑雇傭︑税配分等により社会︑
公共に奉仕すると共に他方之等の基盤となるべき成果の増大︑生産性の向上を目模とするものである︒経営体は此
生産性を手段としてのみ公共性にも営利性にも貢献し得るものである︒経営体が本来手段組織である以上︑手段た
る生産性をそれ自体の目的とするが︑生産性の増大は直接営利とは無関係である︒営利は生産成果の配分の際生ず
るものであり︑此限り生産性は営利の否定を意味するものではないが又必ずしも肯定とも無関係である︒営利性は
出資者が自己資本の増殖を意図するものであるがその支配関係は成果の配分を通じて為さるべく︑勿論私企業に於
ては必要資本の調達︑維持の為︑出資者の利益を度外視する事は許されず︑その限り営利性は追求されるも之は常
に生産性の向上を通じて為され︑生産成果の配分に於て他の社会︑公共目的と同等の関係に於て調整されるべきも
企業
目的
と利
潤説
の限
界︵
鯰江
︶
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第四号 のである︒従って企業に於ける第一次目標は直接には生産性のみでありそれ以外のものではない︑営利性は手段と しての生産性の向上を通じ他の同列の目的と共に求められるに過ぎない︒目的達成の為の共通基盤︑手段は飽迄生
産性である︒
之に対しての第二の説は従来の最大利潤追求原理は企業者の唯一の行為規準とされていたが今日の如く資本と経 営の分離︑其他︑環境︑条件の変化は株主が経営機能を担当せざる限り企業利潤が投資家に帰着する論理は妥当せ ず株主が企業に資本を継続投下し︑企業の必要とする新資本要求に応ずるに足る誘因としての利益配当が行われる 事で充分であり︑経営者の行動の基礎は企業を制度として継続︑維持する事にあり︑勿論収益性なくして企業の維 持は許されないとするもそれは唯︱つの条件として考慮されるに過ぎず︑目的のすべてとする事は誤りである︒随 って利潤の職能としては日経営成果の究極的指標︑経営努力の効果性︑健全性の測定尺度となる事口変動する市場 経済に於て需要の変化︑陳腐化︑設備更新︑価格変動による市場危険︑不確実性に対する危険保険料としての費用 国企業の留保利益からの自己金融の手段によって直接或いは新しく外部資本を導入する事によって間接に革新︑拡 大に必要な未来資本を調達を確保するものである︒以上のすべては企業の存続に必要な最低利潤であり︑
( 1 2 )
化とは何の関係もないものである︒
次いで第三の主張は経営の目標を利潤よりも更に範囲の広い経営成果を考えるものであり︑
その極大
その代表的主張は二
ックリッシュ︑及びレーマンに見る事が出来る︒即ち彼等の主張は経営共同体の思想を基本理念として有し︑従っ て先根本的に企業を単なる資本の組織と理解せず︑労働と資本との組織として把握するものであり︑具体的には
H
経営的に生産性が如何に高いか︑又向上しているかを計算すること口生産成果が労働と資本との間に如何様に配分
四
347
て適用するものであり包摂の関係にある事を知るものである︒
一 五
されて居り又如何様にする事が適当な配分があるかを考えるものである6即ち経営成果は単に資本に帰属する資本
成果︑利潤のみでなく︑労働力の提供者に帰属する労働成果をも含むものであり︑原価の中には賃銀︑俸給を含め
しめない処に特徴が見出される︒従って此事は数量的に於ては経営成果原理は利潤をも含むが資本成果と労働成果
は相互排除的でありながら結局に於て経営成果以上に自らを拡大する事が不可能であり︑且経営成果の両者への分
配率を一定とすれば経営成果率の極大に通じるものであり随って経営成果計算は利潤計算を否定せず︑之を超える
関係にあり︑而も此関係は同時に賃銀と経営成果との関係にも妥当するものである︒故に実質的に経営成果原理と
利潤原理との相異は経営費用節約の場合に端的に現われるもので利潤原理を採る場合には賃銀俸給も費用として節
約の対象となるが経営成果原理の場合に於ては賃銀俸給は仮令損益確定前に支払われた場合と雖も之は成果分配の
前払と見倣され何等節約の対象とならず︑専らそれ以外の原価構成項目に対する節約に止まる事となる︒尤も此関
係は実際上は経営成果の相対的に減少しつつある時は賃銀も経営成果の一部分である以上利洞の減少と相応して低
下せしめられ︑又は利潤原則の場合に於ても利潤が比較的に増大する場合は賃銀も増額されるべきであり︑此限り
に於て経営成果原理も利潤原理と接近する事となるが論理的には両者は全くその対象を異にするものである︒
以上要するに之等営利原則の主張と経済性原理の両主張は論理的には対立する処のものの如くであるが実は両主
張の現実に於ける適用︑実際問題に覆って之を考察する場合両者は全く相容れざるものではなく殊に経済性原理は
利潤を否定するものでなく却って利潤を︑或いは生産性を媒体としつつ経済性原則の中に含め︑又はその指標とし
而して之等の事は実に資本主義経済の発展とそれが企業の形態︑内容を根本的に変革せしめ︑又国民経済に於け
企業
目的
と利
潤説
の限
界︵
鯰江
︶
る企業の地位︑環境︑諸条件の変遷に伴い︑理論も亦発展すべきものであるが此場合現段階を如何に理解するかの
註
(1
)
例えばドイツの
M.
R.
Le hm an n 山上達人訳﹃
Vーマン生産性測定と創造価値計算﹄
(2 ) E ug en c S
hm
al
en
ba
ch
﹃技術論としての私経済学﹄斉藤隆夫訳
( 3 )
同 上
﹃ 動 的 貸 借 対 照 表 論
﹄ 土 岐 政 蔵 訳 七 三 ペ ー ジ 以 下
.
( 4 )
D
ru
ck
er
̀T he pn ac ti ce of Mg a gement,
19
59
p .
2 7
(5
) 村本福松教授は古くより利潤を以て企業目的を達成する為の条件と主張されている
( 6 )
D
ru
ck
er
,
Th
e P r ac t i ce of a M
na
ge
me
nt
, p .7 8・ (7 )
同様な主張が
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fr
ed
Wa
lt
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田島壮幸︵経営学会三六回報告︶にも見られる︒即ち﹁企業は本質的に危険を随伴する ため︑利潤を獲得し得るときにはそれを積立てて将来の損失に備えねばならないが故にすぺての企業は利潤追求を行わ ねばならずしかもこの利潤追求は長い間には企業維持の最低要求と決して矛盾するものではない﹂﹁企業は第三者のた めの給付生産という課題を果すことによって自己の存立を危うくすることがあってはならないから︑給付生産から生ず る財産増加は少くともその為の財産減少と等しくなければならず︑企業維持が最低要求である﹂
(8 ) K
ar
l H ax 森田哲弥訳﹁第二次大戦後におけるドイツ経営経済学の問題と傾向﹂﹃ピジネス・レビュー﹄七巻四号一七
ページ
(9 ) ハックス教授がエアハルトの説として述ぺている﹁最近の経営学関係書と問題の動向﹂川崎文治︑六一ページ参照︑︵
長崎大学﹃経営と経済﹄八四号︶
( 1 0 ) 唯此︑経済性と利潤との相剋については
He
in
ri
ch
Ni c k li s c h ̀ W ir t s ch a f tl i c he B et r i eb s l eh r
︑e
1 92 2 . S . 8 3 .
﹁ 年
i競0母ナと却溢四否定論﹂八六︑七ページ︑武村勇︵神
戸外大︑十二巻四号︶が﹁利潤が経済性の尺度であるとの論議があるが全く反対である︒経済性が利潤にとっての尺度 である経済性は労働過程から生ずるが︑利潤は労働成果の分配成果から発生する︒しかも労働成果の市湯価値が変動す れば︑利潤額から経済性の度合を推測することができなくなる﹂と述ぺている事に注目すべきである︒
認識とその立場の相異に基因するものであろう︒
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第四号
Hハ
349
企業目的と利潤説の限界︵鯰江︶
( 1 1 ) 例えば山城章教授﹁経営政策﹂四九ページ以下 ( 1 2 )
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Pr a c ti c e o f M
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5
七
'本来︑経済性とは人間の合理性︑合理原則追求の一部である︒人間は理性的判断に基き一切の目的行動を行うも
のであるがその合理原則の一部たる経済原則に合致する度合を一般に経済性と云うものである︒即ち人間は単に経
済活動のみならず其他一般の目的行動を行う場合には常に目的と手段とを対応せしめ︑その目的と手段との間に余
剰がある時にのみ目的性︑手段性が規定され︑合理的目的諸活動が行われるものである︒人間が目的活動を行うが
為には此︑余剰の存在を絶対的条件とし︑此余剰を追求する事を原動力として出発するものであるが︑此場合その
目的を達成する為に要する手段と︑達成すべき目的との間の余剰追求に付ては基本的合理原則の一部たる経済的合
理原則︑経済原則︑即ち最少の手段により最大の効果を挙げるが如く努力すべき事︑が作用するものである︒人間
の目的行動一切には此︑目的と手段との間に於ける余剰の存在が基本的要件であり︑而かも此余剰追求に付て経済
性が作用するものである︒随って目的追求に関する人間の活動一切に付ての基本的原理が経済性であり︑生産性︑
営利性︑収益性の総てを包括する概念である︒基本的には経済性に含まれる処のものを特定の観点から之を抽象し
た場合︑現われるものが生産性であり営利性であると理解するものである︒例えば営利性とは本来的には基本原理
としては経済性であるものを特に利潤獲得なる観点を中心に考えた場合であり︑利潤を中心とする点に於て生産性
とその範疇を異にする︒即ち生産性は等しく経済性の一部面である点に於て営利性と共通の基盤を有つものである
四
性を同次元に於て検討する事は本来不可能である︒ る ︒
個別経済の利益と全体経済︵国民経済︶の利 が利潤の有無とは全く無関係︑別個の概念であり企業の概念よりも経営概念が中心であるc生産性は高度でありな
がらも利潤は低率なる場合あり又その逆もあり得る︒而して又営利なる観念は企業を前提とし貨幣数量的観念を含
むと共に主体的意図及び経営成果が企業外部に於て実現する過程の観念をも併せ含むものであるが故に︑之等の諸
点に付ても亦他のものと区別し得る特別の範疇を有するものである︒等しく利潤の追求なる観念に於ても自己資本
を中心とした場合と︑或いは経営資本︑総資本をも含めての利潤の場合︑或いは等しく自己資本に於ても所有と経
営との一致する場合と所有と経営が分離する場合のそれとは標識により区別し得る筈である︒之等は総て範疇を異
にするものであり区別標準を異にするものを同次元に於て比較或いは討論する事は無意味︑不可能と云うべきであ
斯かる立場を採る限り之迄検討を続けた諸説に付ても経済性と営利性との対立は本来有り得べきものではない︒
両者は包摂の関係にあるものと思料する︒経済性の中にありながら特に利潤の存在を区別椋識とする場合は等しく
経済性の中の他の部分と明瞭に区別し得るものであり︑随って其等の部分との抽象︑分析︑比較検討は充分に可能
であり︑又︑他の区別標識によるものとの得喪に付て立論は可能であろう︒乍併︑包摂の関係にある経済性と営利
本稿に於て之迄検討をつづけた経済性と営利性の問題は実は全体と個体との閲係である︒問題は個別経済に於て
利益とされるところのものが個別経済の総和としての国民経済に於ける利益と脊反︑相剋する点にあり︑此事は全︑︑︑︑︑︑︑体と個体との存在し得る︑凡ゆる場合に生ずる普遍的課題でもある︒即ち営利性と経済性との対立ではなくして企
業︵個別経済︶の経済性と国民経菜︵全体経済︶の経済性の相剋であり︑ 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第四号
八
351
︳ 九
済性の意味と理解する事によって︑主体に於ける個体と全体との問題に還元し得︑又営利性︑経済性は表現を異に
するも意味は同質的に理解すべきであるC斯く解してこそ始めて討論の場を共通と為し得るものである︒
而して之を結論的に云うならば個別経済の立場に於ては︑或いは個別経済を研究対象とし之を指導する経営学の
立場としては飽迄︑営利性を貫徹する事に於て終始すべきである︒個別経済の目的行動の貫徹が全体経済の利益を
害うとも個別経済の立場に於ては︑而も営利のみを抽象された次元に於ては︑飽迄営利を追求すべきであり︑営利
経済を指導すぺく抽象された私経済学に於ては営利に徹底すぺきであり︑例えば企業目的の内面に国家目的︑社会
公共目的︑国民経済的目的︑公共の利益等を導入すべきものではない︒又何等︑価値判断︑倫理道徳畿念は営利と
直接︑同一平面上に於て結び付き得るものではない︒企業目的としては営利を貫徹すべく倫理的営利性は存在し得
曽て上段に於て営利を指導すべき経営学の立場に於て営利性を貫徹する事が直接社会に損害を与え︑反道徳的影
響を生ぜしめる場合に於て経営学がその科学性に対する反省︑危惧のある事を顧慮したところであるが純粋に科学
性を完うする為にこそ営利性を貫徹すべく︑之等の営利追求の結果︑国民経済の利益を害する部面︑反公共的影響
に付ては経営学者も他の観点から︑他の科学性に於て︑例えば︑より上位の経済学︑社会科学︑科学一般の性格よ
り制約︑指導を行うべきであって︑経営学︑企業論の内部に於て企業目的を歪める事があってはならない︒又企業
が財貨の生産︑配給を行う場合︑之を以て企業の目的を財貨の供給︑需給の調整なりとする事も亦誤りである︒財
な
し
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企業
目的
と利
潤説
の限
界︵
鯰江
︶
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
︑︑︑︑︑︑︑︑上述の諸説に於ける営利性とは個別経済に於ける営利が問題であり︑経済性とは全体経済︵国民経済︶に於ける経 益との相剋の問題である︒
一すべきであると主張されるに至った背景︑条件に付いての認識︑
即ち企業がその内容に於て資本と経営との分
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第四号 貨の供給︑需給の調整は社会的機能の分担であり目的ではない︒蓋し企業とは本来的に営利追求なる観念によって 抽象されたものに他ならず︑結果的に果す処の︑職能とは何等無関係であるからである︒企業の社会的職能︑国民 経済への貢献は努むべき課題であるとしても企業目的とは別個の問題であり︑企業目的としては飽迄︑営利性又は
( 1 )
一般に経済性に於て貫徹すべきものと思料される︒
唯︑此場合に於ても従来の利潤説によってすべての個別経済を指導する事は不可能であり︑経済性慨念によって統 離︑借入資本の相対的増加と共に漸次︑資本の機能的支配力︑利潤動機が後退し︑他方構成主体の構造変革︑
規模の巨大化︑公共的性格の増大︑は等しく資本主義体制の下に於てもその初期に於ける場合と︑近代に於けるそ れとは著しい性格︑地位に於て差異があり︑利潤追求に対する制約の︑増大する関係に付ては︑充分なる認識が必
要であろう︒
次に非営利的個別経済に対しては利潤原理を適用する事を得ないとする主張があるが︑営利を目的とせざる経済単 位に於ても経営活動の成果を価値的︵貨幣数量的︶に計測すべき事は絶対に必要であるのみならず︑その成果の掃 属︵利潤の支配︶を経営活動の動機に導入し得る体制が之亦絶対に必要である事も前段経済活動の本質の理解に於 て既に明かにした処であり︑此事が体制無関連的に社会主義諸国にも適用されるべき原理である事は︑
( 2 )
も最近斯の主張が見られる事実に徴しても明らかであろう︒
註
(1 ) 本考に於ては収益性を本質的に経済性に含ましめ対立するものと認めない立湯をとるからである︒
(2
) 斯様に利潤原則を体制無関連的に︑社会主義諸国に於ても適用されるべぎ事を主張する例としては
その
ソ連に於て 四0
353
企業目的と利潤説の限界︵鯰江︶四 ハリコフ技術経済研究所のリペルマン博士が﹁計画︑利澗︑プレ︑へ︑アム﹂なる論文をプラウダ紙上(‑九六二︑九︑九︶発表し︑企業活動を評価する基本的な指標を利澗ー採算性に求め計画立案に対する企業の自主性を強めることと︑より多くの奨励金を企業に与える事の必要を説いた事が報瑯され︑︵三七︑一0︑ニニ朝日新聞︑海外経済週報︶スルミャンツ
ェフの社会主義企業管理原則論︵大島国雄︑﹃ピジネスレピュー﹂五巻四号一ー六ベージ︑一橋大学︶も︑生産発展に対す
る物的利害関心と独立採算性の強化︑に於てソ連に於ても漸次利潤原則の適用が広範に考應されている事が紹介されてい
る ︒