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企業の目的と社会的責任

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(1)

企業の目的と社会的責任

桜井克彦

目    次 一 序

二 企業目的と社会的責任 三 社会的責任の必然性 四 社会的責任と価値分析

一 序

現代の大企業の経営者が企業の伝統的な所有者たる株主の利益のみを必ず しも追求しないことは,多くの論者が指摘するところである。経営者はしば しば自己の金銭的・非金銭的な利得を重視するといわれる。また,かれは株 主以外の関係者の利益をも指向し,社会の利益の促埠のために企業資金を提 供するといわれる。たしかに,伝統的な経済学の観点からは必ずしも利潤指 向的あるいは利潤関連的であるとは考えられないような活動を現代の企業が 行なっていることは明らかであり,そうした活動の主要なものの一つにいわ ゆる社会的責任の追求を挙げることができる。

企業による社会利益指向活動ないし利他的活動とみなされるものを社会

的責任追求活動と呼ぶならば,社会的責任なる概念は企業活動の現実におい

て作用するに至っているといえよう。この意味では社会的責任というものは

もはや,現実にはその実践が疑わしいような単なる抽象的・理念的概念とし

て理解することはできず,それは企業において実在するところの客観的・具

体的な事実現象として刑縄れねばならない1)。問題はかかる活動の意味を

どう解するかである。それは,企業の目的とどのような関係にあるのであろ

うか。それはなにゆえに出現するに至っているのであろうか。本稿では,こ

うした問題を中心に諸論者の見解の幾つかを眺めることによって,責任本質

(2)

66  経 営 と 経 済

の解明への一助としたい。

1)

イールズらも事実としての社会的責任を強制する

(Richard Eells  and  Clarence C.  walton, Conceptual  Foundations  of  Business, revised  edition, 1964, p.  191  f

f . ) 。

二 企業目的と社会的

J

主任

資本主義経済社会の構造が大企業の登場と

T1T

坊によるコントローノレの減少 に伴って変化するにつれ,企業による営利追求が自然調和的に社会の利益を 促進せしめるという伝統的な経済倫理の非現実性が明らかとなったが,乙乙 から生じてきたものが企業による社会的責任の引き受けへの社会による要詰 であり,乙の意味では,社会的責任なる概念はもともとは,利潤追求と対比 され区別されるような概念であるとみてよし 社会的責任の概念が大企業中 心の経済秩序が普通的となる以前にも存在していたというととは否定しえな いが,かかる概念が論者の関心を集めるに至ったのは,巨大株式会社企業の 出現に伴ってであり,経済秩序の変化につれて,営利追求とは対比的な社 会的責任の概念が論義の対象となるに至ったのである

D

こ の よ う に み る と

き,企業による社会利益への配慮行為を社会的に責任ある活動と呼び,社会 的責任を利潤追求と区別することはひとまず妥当であるといえよう

O

むろ ん,所有と支配が分離し企業の所有者としての株主への企業責任もまたあら ためて論議されるに至っている現代にあっては,社会的責任をそのようにの み理解することは必ずしも適切ではないが,乙乙では一応,社会的責任を利 潤追求と区別して理解する乙とにする。

このような社会的責任が企業によって追求されるに至りつつあることは明 らかであるが,それは企業目的と理論的にどのような関係にあるのであろう か。乙の乙とを尋ねることは,社会的責任の本質を解明するうえで有益であ ると思われるのであり,木節では社会的責任の定義をめぐるジョンソンの所 説

1)

を手掛りに,責任と目的との関述を考察したい。

ジョンソンは社会的責任がなにを志味し,いかなる操作的内容をもつかを

(3)

尋ねる

o

かれによると因襲的な知識では,社会的に責任ある企業とは,複数の 利益をその経営陣が均衡させる企業である

d

株主のための利潤追求にのみ努 力することに代って,責任ある企業は従業員,仕入先,デ、イーラー,地域社 会,および国家をもまた考慮に入れる。

1970

年代の困家的問題に関しては,

それはゲットーの貧因者を雇い,大学に寄付し,水の汚染を減少せしめ,交 響楽団と美術館の財政に援助をする。ジョンソンはかかる社会的責任の特質 というものを,社会心理学,および経済学の効用理論の両者を用いつつ四つ の方法で表わしうるとみており,それらの方法について検討を加える。以 下,四つのアプローチについてのかれの検討を眺めてみる

O

第一のアプローチば,社会文化的文脈の中で企業をとらえるものであって ジョンソンはつぎのように説明する。

このアプローチにおいては企業の社会的責任とは,特定の企業役主

IH

乙存在 する社会規範にかなうことを通して,社会経済的日根を追求す・ることであ る。すなわち,企業ば社会文化的システムの中に位置しているのであって,

かかるシステムは,特定状況への対応の方法を規筒と企業役割という形で 示しており,企業活動の仕方を規定しているのである。企業がこうした規範 にそむくならば,それは ,

ñ現存の~失やストライキ,政府干渉というような

制裁を通じて処罰されるのである

O

規符はまた,法休系によっても支えられ ており,法体系もまた平日々の制裁を課している。規路違反への制裁の多くは 市場を通じて行使される

O

このアプローチによれば,社会文化的環境の規定する枠内で企業の芯志決 定が行なわれるならば,社会的に責任ある企業行動は存在するのである。こ の定義は,事業を営み続けており少くとも正常な利潤を挙げている企業は,社 会文化的規恒にかなっていることを合志している

O

米同の場合,経済 l ζ求め られる社会的結果は,従業員の民主的な監杯から環境汚染減少にわたってお り,ひとびとは物質的な生産物と社会的なそれとの両者をその経済に求めて いるのであって,社会的 l 乙立任ある企業とは,物質的財貨をのみならず,経 済的な正義と平勺,安定的 ) T f [

m

~lil 人の {~~~i;'t , 守:の社会的結果をもJirk

  J ; ¥ す

るものであるの。

(4)

68 

経 営 と 経 済 ジョンソンはかかるアプローチは,社会的責任に対する幾つかの興味ある 洞察を提供しているとする。それらはつぎのようである。

第ーにそれは,営利的行動と非営利的行動の問のいわゆる対立は存在しな いということを示唆する

O

手 l J

i

回目的が他の目棋のために消え去えるというこ とはなく,両者はともに追求され達成されるのである。

第二にこのアプローチは,企業のさまざまな環壊の交点が図

13)

のように,

一点というよりはむしろ一つの区域を形成し社会的に責任ある企業は政策策 定に際して幾らかの自由を有することを示唆する。

I

円E は経済的に可能な諸代替案を表わす。円

L

は法相

1

的 に可能なそれらを,円 Nは規範的に可能なそれらを,そ

して円

Pは物理的に可能なそれらを表わす。

(5)

第三に,社会文化的環境の強調は,特定の方法と特定の理由でビジネスの ゲームが演ぜられるということを想起せしめる

O

すなわち,利潤指向は金も うけの本能から生じているのではなく,利潤追求を是とし奨励する社会文化 的枠組みから生じているのであって,責任ある行動を要詰している文化的文 脈は必ずしも営利否定的なものではない。

他の結論は,文化的文脈とは企業行動の安定的な環境ではなく,されば,

責任ある行動についての永続的な定義を作りえないということである

o

責任 ある行動についての定義の変化は,多くの諸力によって生ずる。経済がより 生産的になれば,その社会的目標はより広範となるし,企業をはじめとする 種々のインタレスト・ク勺レープの聞の対話もしくは対立もまた,定義を変化 せしめるのである。的

ジョンソンは社会的責任についての第ーの定義に関して,以上のように説 明する

O

社会環境のなかの存在として企業を眺める見 )J からは,その根本目 的は利潤であるとしても企業の目的は必然的に複数となり,社会的責任もま た目的のーっとなるのである

o

つぎにかれは,社会的責任を長期利潤最大化 としてみる見方をとり上げる

o

それはつぎの如く示される

O

第二の定義は,企業は利潤を増すために社会的プログラムを遂行するとい うものである。それによると顧客と,労働・設備・原材料・配給施設といっ た諸インプットの所有者とは,企業とのその取引に際してさまざまな貨幣的 ならびに非貨幣的な結果を要求するが,企業者はそのような要請の受け入れ が,最も利潤をもたらす行動コースたることを知っており,かくて,責任あ ると考えられている活動は,長期利潤最大化のための巧みな努力とみなしう るのである。この定義によれば,企業者は社会的に望ましいことをば,それ を積極的に選好するがためでなく,米国の社会が一一インプット所有者と顧 客を辺じて一一ーより低い利潤なる干すしを与えているがために行なうのであ る

O

乙の定義は図 I I

5)

に例示される

D

利潤と慈詩的寄付との関係を示す TNZ

r~~ は,購買および労働提供という形で米国文化が克大な寄付者 l 乙報酬を与え

(6)

70  経

1 : t

と 経 済

JHHd

手法

v  z 

慈善的寄付 図

II

るという怨定のもとに引かれている。利潤最大者は N で最適化する。現実に は , T から N への利潤増大は慈善プログラムの革新者に対し一時的にのみ存 在し,利潤と慈善との関係、は他企業の参加に伴い, Tl 

V

線へと移行する であろう

o

乙の場合,企業は

J

の代りには

T1

に勤きうるに過ぎない

6)

かくの如き第二の定義が与える分析的洞察について,ジョンソンはいう。

この定義は,実際には第一の定義であり社会文化的環境の作用をより明示的 に述べている

O

しかし,第二の定義は,特定の社会風土では責任はペイする であろうということを述べているに過ぎない。

第二の定義はまた,企業の性質と目標との概念をめぐっての組織論者の見

解(それは企業を多くの参加者の連合体とみ,貨幣的・非貨幣的なインセン

ティプが組織の目標を形成するとし,経営者を戦略的な参加者とみる)と経

済学者のそれとの間の共通点と差異を幾らか明確ならしめる

o1

1f幣的・非貨

幣的な諸支払の存在を認める点では両見解とも,現代企業の行動の認識につ

いて軌を一つ l こするのである。もっとも,経済学者は利潤最大化という企業

者の目標を通じて全体的な交渉過程が整合されるとみる一方,組織論者は企

業の目棋をば非体系的な集合もしくは他の参加者の制約下での経営者目的と

みる点では呉るが

7)

(7)

社会的責任に対する第三のアプローチとは,社会的責任を効用最大化の観 点から把握せんとするものである。それは以下のような内容をもっ

o

まずジョンソンは,かかるアプローチは企業の主たる動機づけが効用最大 化であり,また企業が最大利潤のみよりもむしろ複数目標を追求すると想定 するという

o

この場合,効用最大化についてかれは,各個人は効用関数をも ちそれを最大化するような形で行動しでいるという概念が消費者の行動につ いての効用理論で普通に用いられており,そうした考えに従えばすべての人 間行動は効用最大化行動であること,しかしながら効用関数には広く三極の タイプが存在することを指摘する

8)

関数のタイプについていえば,一つは

U..=f(p..

,q

..

, 

r..

, 

S..

,……

z..)

と いうようなタイプである

D

ここに

a

はある個人を

P

q

, 

r

, 

S

,……

は多様な財貨を表わす

o

この関数では個人が受けとる効用もしくは前足は単 にかれの消費,所得,もしくは利潤の関数である。かかるパーソナリティのタ イプは厳格に利己的,もしくは快楽主義的と呼ばれうる。ビジネスの文脈で は個人の満足はかれの利潤から

(U..=f(π..))

,もしくばかれの所得から

(U.. =f(y 

..))から生ずることになる

o

第二のケースは,

U..=f (P..

, 

q..

, 

r..

s..

,……,

z..

, 

Ub

, 

Uo

, 

Ud)

で表わされるものであり,個人

a

はもしかれ

自身の消費と他のひとびと

(b

c

, 

d)

の厚生との両者が増大するなら ば,かれの厚生を増すというものである。ビジネスの背景では,個人の効用 は他のものがその所得と利潤を増すにつれ増大するのである

D

すなわち,

U..=f(n..Yby

,,.)もしくはU..=f(

Y..Yb+YO)

として示しうる。その

ような効用関数によって劫機づけられるひとの行動は,手

JI

他的もしくは協同

的と呼びうる。もしくは,かれは単に利己的もしくは快楽主義的とも呼びう

o

第三のタイプの関数は,

U..=f(U..‑Ub

, 

U..‑Uo

, 

U..‑Ud)

という

形をとるものであり,個人は自己の満足と他者のそれとの聞の差を最大化せ

んとする

o

かれは競争的なパーソナリティをもっとして特質づけられるので

あり,他者が自己の受領分より少く受領する限り,より少い財を受領するであ

ろう

D

この程のひとはまた利己的であり,おらく,厳格に利己的である

O

くて,第一のタイプは,かれ自身の地位の改普を芯図し,他者の厚生に閃し

(8)

72  経 営 と 経 済

ては中立である

D

第二のケースでは個人の厚生は他者がその地位を改善する につれ改善されるのであり,第三にあっては,かれの満足は他者が不利益を 受けるとき増大するのである

D

つぎに,複数目標的な企業モデノレについてはジョンソンは,経済学者は競 争市場での企業行動の説明と予測のために,企業による利潤最大化行動を仮 定しているが,経済学においても利潤最大化モデル以外にも多くの多目標的 企業モデノレも同時に提示されてきているとして,アルチァンとケッセルのモ デノレ

9)

およびウィリアムソンのモデノレ

10)

を例示している

D

アノレチァンら は企業者のための効用最大化を仮定しており,効用関数における変数のうち 非利潤目標として,経営陣雇用に際しての人種的差別,家者な経営者室,大 なるスタップ援助,および,経営者のための究大なフリンジ手当,等への選 好を挙げる。そして,企業者の諸目標は競争的産業であれ,独占的産業であ れ同じであるとともに,独占下の企業者は競争下のそれと具り,過剰利 j 聞を 営業費の方に振り向けうるがためにより容易に非営利目標を達成させうるこ

とを示唆する

11)

。ウィリアムソンは因襲的な経済用具と,組織理論とを用い てており,所有者でなく経営者に焦点を当て,かれの個人的目椋も組織の目 的を形成するとみるとともに,過剰スタッフ,高額の旅費,事務所改善,およ び,手Ij潤最大化水準を超える経費勘定への経営者による選好を意味する組織 スラックを想定している口かれの経費選好概念はアルチァンらの非金銭的所 得希求概念の拡大であり,かれは威信,保障および権力のような目標からそれ の充足手段たる諸経費へと注意を移すことで非利潤的・非金銭的目的を厳密 なモデノレに導入している。かれのモデ、ノレはその予言に関しては,例えば,ス タッフ数がコストや需要の変化に拘らず比較的に安定的であるとはみないと いった点で利潤最大化モデノレと具るのである

12)

かくしてジョンソンは,社会的責任についての第三の定義をつぎのように

展開する

3

すなわち,この定義は,社会的に責任がある企業者もしくは経営

者とは第二のタイフ。の効用関数をもつようなそれ,つまり,自分自身の厚生

にのみならず企業の他のメンバーの厚生および仲間の市民の厚生にも関心を

もつようなそれであると述べる

D

定義は,社会的 l こ推奨されるような非利潤

(9)

目標を効用関数変数の形で,利潤と並んで事業家が追求することを含んでい るのであって,されば,企業家の効用もしくは選好関数の変数が社会が望ま しいとみるものと一致するならば,社会的責任は存在するのでる

D

そうした 利他的効用関数をどこで経営者がとり上げるかという疑問は,社会心理学の モデルにおいて答えられているョ経営者は米国文明による社会化から免疫で はないのである

13)

そしてかれは,社会的責任についてのこの解釈を企業による慈善,および 雇用政策に関して図で説明している。図1II

14)

は利潤と慈善的寄付との関係、

を示している。 T M Vは利潤と慈善との聞のありうる関係を示している

o

も し寄付を行わないなら,

OT

の利潤をキープして所有者に分配することがで きる

O

もし企業者の効用関数が第一のクラスに属するなら,かれはそうす る。他方,効用関数が第二のタイプであれば,企業は幾らかの利潤を他者の 厚生の増加のために引き渡すことによってその満足を最適化するであろう

o

乙の積の

UJ

用関数は欲求

o

H ‑‑‑‑そこでは企業は利潤と慈善との両者を極大 化する一ーを生ずるかもしれず,

O H

を出来るだけ遠く昇ることで

M

で最適

利 潤

III

P

慈善的寄付

(10)

経 営 と 経 済

労務費総額

74 

C

解雇人員総数

化がなされるであろう

D

税控除可能な会社慈善の実際の支出額が少ないこと は,現実の世界における解決が T 点に近いことを示唆しており,社会的責任 の哲学は経営者の効用関数を寄付の方向へ向わしめてはいないようにみえ る。雇用政策における社会的責任は図町

15)

に例示される。図はとりわけ企 業のレイオフ政策に焦点を当てる

o

E  点を越えるレイオフは,過度のレイオ フが新規従業員の採用と訓練のための高い経費を結果することを意味する。

E 点が最適点である。かれの効用関数 利潤最大化に事業家が関心をもてば,

が利潤変数と労働力配慮変数とをもてば,経営者の欲望線は

xx

であり,

で最適化する。そして現実は,従業員配慮変数のごときものの存在を示すよ

乙の定義にあっては,社会的に責任ある経営者 も,合理的,計算的,最適化的人間であると考えうる

16)

うにみえるのである。なお,

レキシコグラフィック

(lexicographic)

効 用 理 論 の 立 場 か ら の 社 最後は,

会的責任の把握であって, ジョンソンは以下のごとく論ずる

O

そしてその 以前の諸種の定義的アプローチは,企業が複数の目椋をもち,

あるものが社会的に責任あると呼ばれるかもしれないという乙との有望性を 数種の観点から強調している

o

効用最大的定義,長期利潤最大的それ,組織 しかしながら,

および社会文化環境的企業観はいずれもそうである。

理論,

(11)

複数目標に焦点を当てるとき,多様な目標を実務家がどう扱っているかとい う問題が出現する。効用最大化理論では,目標は効用なる単一尺度へと還元さ れるのであり,意志決定者は目標を同時に評呈する。組織理論は他方,目標は 事業家のための重要度の序列をもたず,かれはそれが達成されなかったとき にのみ処置をとるとみる。他の方法は,目標が重要性の!日乙ランクされうる とするものであって,辞典における項目ランクづけからその名を得ていると ころのレキシコグラフィック効用理論がそれである

o

目的はランクづけさ れ,各目的にターゲットが設定されのであり,そのような水準がひとたび達成 されるや民事業家は注意をつぎの最も重要な目標に移すのであって,かかる 移行は先の目的が満足に達成されたときにのみ行なわれるのである

17)

不安定な顧客への資金貸付けに際しては保証の確保が利子率の決定に絶対 的に俊先するというような例は,個人が目,限の同時的探究をよりは目標の階 層を有することを示唆するが,かかるレキシコグラフィック目

151

在日が社会的 に責任ある行動を扱う仕方についていえば,対照的なケースを考えうる

o

す なわち,企業者の目標は重要性の順にランクされ,過去の経験等に基いて夫 々にターゲットか設定されるのであるが,いま,侵先性のステートメントが つぎのようであるとする

O

1 .   流動性(預金もしくは流動比率の見地から定義)

2. 

Ili'

閏(純投資もしくは株主持分への利益率)

3. 

売上収入

4. 

好芯的なノ

f

プリックの評判

ここでは,流動性および、利潤が最も重要な考慮事項であり,それらが達成

されたあとでのみ,企業者は他の目 *~ll

!乙関心をもつであろう。ガ、ノレフ、、レイス は,大会社の目標を,利潤,売上収入,技術的優秀性,および社会的に責任 あるというイメージとして順次挙げているが,それは上述のケースに似る口 また利

ilmf!JIJ

約下での売上最大化というボーモノレの理論も実際にはレキシコグ

ラフィックである

O

なんとなれば,上のケースは,企業は充分な預金と正品、

資本利益率,および,あるレベソレの売上収入という制約の下で社会的立任へ

の評判を求めつつあるとも,述べうるのである。他方,社会的に責任ある行

(12)

76  経 営 と 経 済

動が第ーに来,流動性および利潤が第二,第三の順位に位置するようなケー スも考えうるのである

18)

かかるアプローチの分析的忠義であるが,上の諸ケースは社会的責任の意 味に対して二つのことを合意する。第ーに乙のモデルは,最も霊要な諸目 標に対して多数の行動択一案が望ましい結果を与えるとき択一案の最終的な 決定は,優先順位において劣る目応によって決定されるのであり,従って,

上のケースのはじめの方のように,手lJ

i

閏を強く指向する企業が社会的責任が 重要な目標たるかのごとく行動する場合もありうるとみる。社会的責任に 対 す る レ キ シ コ グ ラ フ ィ ッ ク 効 用 理 論 の 第 二 の 合 意 は , 拡 張 的 市 場 で は,はじめのケースのようなレキシコグラフィック企業と利潤最大化企 業とは異なった行動を示すであろう一方,衰退的市場では両者は同じ行 動を示すであろうと思われるのであって,ウィリアムソンの詳細な発見に 加えるにたまさかの経験主義は,経済的環境の変化につれて行動を変える 上述のレキシコグラフィック企業像が企業行動の合理的な説明であることを 示唆するとい

5

乙とである

19)

ジョンソンは社会的責任への四つのアプローチを以上のように示してい る

D

そしてかれは要約として,社会的責任を描写する多数の方法が利用可能 であって,その強いイデオロギー的色彩にも拘わらず社会的責任なる現象は 経済学と社会科学の語集で記述しうること,更には,こうした定義的アプロ ーチは幾つかの点では矛盾しあうようにみえる一方,それらは本質的には,

同じ実態を眺める補完的な方法であることを指摘する

O

伝統主義者は第一お よび第二の定義を強調するであろう。しかし,第四のアプローチも依然利潤 に強く焦点が当てられている以上,伝統的な経営概念と鋭くヨ

JEll}jt

するもので はない。第三の定義は,最も新規な責任の分析概念であり,伝統主義者には具 常に思われるかもしれないが,因襲的な効用理論と社会心理学の諸貢献がよ り広い企業行動概念を立証するであろうということは明らかなようにみえる のである,と

20)

以上,社会的責任の定義の仕方に関するジョンソンの所説を順を追って眺

(13)

めてきた。かれは,社会的責任に関する幾つかの見方をとりあげ,利潤目的 と社会的責任の関係を中心にそうした見方の整理・掘り下げを行なっている が,かれの説明は,企業目的と責任との関係の理解に対して幾つかの示唆を 与えてくれる口それは,企業が社会環境の所産であり社会的責任は現代の私 企業経済制度の不可避的・必然的な要素であって,ここから,企業の本来的 な目的たる利潤追求と並んで社会的責任が企業の目的となりつつあることを 示唆する

O

それは,企業にお庁る意志決定が最大化原理に基づいて行なわれ るにしろ,また満足原理に基いて行なわれるにしろ,手 J I

i

閏と社会的責任とは いずれも目的として位置づけうることを示唆しているのである

O

企業目的をどう理解するかについて種々の見解が存在することは,周知の 如くである。一つの見方は,目標を最大化原理の観点から把えるものであ り,この場合,伝統的な利潤最大化的理解が依然としてみられる一方,効用最 大化の立場から目的を把えるアプローチも出現してきている。最大化原理の 観点にあっては,社会的責任は利潤の制約もしくは手段として位置するか,

効用関数中の一変数という形で目的のーっとして位置する乙とになる。目的 についての他の見方はそれを満足原理によって把握するものであり,ここで は社会的責任は,それ自体一つの目的として位置するとされる

O ジ ョ ン ソ ン

の挙げる前述の四つの責任概念のうち,はじめの三和は企業目的を最大化原 理の観点から理解する。企業目的を最大化原理によって把えるべきか,また は満足原理によって把えるべきか,更には,立任を独自の目的とみるべき かは,必ずしも明らかではないにしても,今日の論者の見解は,社会的責任 というものが利潤と並んで,そして,ときには相互に促進的な形で,また,

ときには相互に対立的な形で,またときには,相互に中立的な形で,本格的 な企業目的を形成するに至っていることを指示する方向にある。手 J I 潤と社会 的責任とを判然と隔絶しうるかは問題であるとしても,両者はともに企業の

目的体系の中枢に位向:する方向にあるといえよう

o

U:.1)  Harold L. Johnson, Business  in  Contemporary  Society: Framework  and Issues, 1971. 

2)  Ibid., pp. 51~52.

(14)

78 

経 営 と 経 済

3)  Ibid.

, 

p.  32. 

4)  Ibid.

, 

pp. 52~54.

5)  Ibid.

, 

p.  55.  6)  Ibid.

, 

pp. 54~56.

7)  Ibid.

, 

pp. 56~58.

8)  Ibid.

, 

pp. 59~60.

9)  Armen A. A

1 c

hian and Reuben.A. kessel

Competition

, 

Monopoly  and  the  Pursuit  of  Money

, "  

in  Aspects  of  Labor  Economics:A  Conference, 1962. 

10)  Oliver Williamson, The Economics of Discretionary Behavior: Mana‑

gerial Objectives in the Theory of thc Firm, 1964  11)  H. L. Johnson, op.  cit., pp. 64~65.

12)  Ibid.

, 

pp. 65~66.

13)  Ibid.

, 

p.  68.  14)  Ibid.

, 

p.  69.  15)  Ibid., p.  70.  16)  lbid.

, 

pp. 69~71.

17)  Ibid.

, 

pp. 7l ~72. なお,ジョンソンはかかる効用理論に関する文献として,

例えば,

]ohn S.  Chipman

Foundation of  Uti1ity

, "  

Econometrica

, 

Apr

,   i 1

1960

,等を挙げる。

18)  H. L. ]ohnson

, 

op.  cit.

, 

pp. 73~74.

19)  Ibid.

, 

pp. 74~76.

20)  Ibid.

, 

pp. 76~77.

三 社 会 的 責 任 の 必 然 性

社会的責任が利潤目的と並んで企業の目的を構成するに至る方向にあると

とは,前述のジョンソンの分析のうちにも明らかである。現代の資本主義経済

社会は,企業による利潤追求を是認するものの,それはさまざまな形で企業に

よる社会的利益の追求を不可避的たらしめている

O

企業は所有者の利益への

(15)

配慮と並んで,他のグループの利益の追求を意識的に,ならび 1 乙無意識的 l 乙 行なうに至っているのであり,その目的は多元的となっているとみてよい。

ジョンソンが挙げていたところの,社会的責任に関する社会心理学的接近 は,社会的責任のこのような企業目的化への傾向を明らか l とするが,社会的 責任の本質に関するペティット

1)

の分析はかかる接近をより具体的に説明 するといいえ,本節ではかれの所説を追うことで社会的責任の不可避性と目 的化についての理解を深めることにしたい

D

ペティットは,伝統的な企業の理論が企業について行なっているところの 基本的な仮定,すなわち,利潤郡大化,完全な合理性,完全な知識,企業と企業 家の同一性,および企業行動に対する唯一の外的な影響力としての市場競争 という諸仮定に対する批判が論者の間に出現してきている乙とを指摘する。

すなわち,利潤極大化に対する批判や,確実性の下での企業行動の概念への

批判,また,生物学的モデノレとしての企業把握は乙うした動向の例である

が,利潤最大化の否定についていえば,多くの論者が,企業は利潤以外にも

幾つかの目標をもち, レジャー,威信,企業への支配,財務流動性,人種差

別的雇用,等のうちのあるものをも利潤と並んで目的としており,利判長大

化は放棄されるとする

o

また,企業と企業者の同一視の否定に関しては,所

有と支配の分間

fE

に基く経営者の自律性の概念が経営者企業の理論において反

閲されつつあり,経営者の非金銭的劫機に注目する理論や,経営者の金銭的な

らびに非金銭的な目的をすぐれて,企業の目的とみる理論が主張されてきて

いるのである。乙うした理論傾向は,社会的責任の概念が経済学の領域でも

とり上げられるべきことを示唆しているが,ペティットは,社会的責任を担

論的に説明せんとする動きが二つの方向で存在するとみる。その一つは,前

記のジョンソンにみられるところの社会的責任を効用極大化として扱おうと

いう試みである

o

それは,社会的責任の概念を既存の経済学の概念と図式で

説明せんとするものであり,経営者の一般的選好関数の中の変数として社会

的責任をとり

l

二げんとするものである。こうした方法に対してペティット

は,そればなぜ経常者が社会的責任をもつかを明らかにしていない点で問題

を有するとみるのである

2)

(16)

80  経 営 と 経 済

かくて,ペティットは,企業環境が企業の行動に及ぼす影響に焦点を当て ると乙ろの企業の行動理論の立場から,社会的責任を説明しようとする

o

か れは,市場競争のみが企業に作用する唯一の外的な力であるという伝統的な 見方を否定する。そして,社会がさまざまな方法によって企業をコントロー ノレしていることを述べるのである

o

すなわち,かれは企業なる組織の行動は 人聞によって,つまり企業をコントロールする経営者を迫じて決定されるこ とを述べたあと,社会は企業経営者を通じて企業を間接的にコントローノレし ているのであり,社会的責任なる現象もそうしたコントローノレのー形態たる

乙とを以下のように指摘する。

まずかれはいう

o

ひとをコントロールするためには,かれの主観的な知党 のフィーノレドに働きかけるととが必要である

o

各個人は,宇山についてかれ 自身の特殊な意識的および無意識的知党を有するのであり,社会心理学者は それをそのひとの心理的フィールドと名付けるのである

O

社会がひとをコン

トロールする方法には四程のものがある

O

(1) 

無意識的なフィーノレドのコントロー

l

レであり,明白な意図なく他人の フィーノレドに働きかけることである

O

( 2 )   操作的なフィー

J

レドのコントローノレであり,報酬および損失に関する 刺激の操作によって意図的に他人のフィーノレドに働きかける乙とである。

( 3 )   命令,つまり,罰の脅しのもとに下位の者の反応をコントロールする 乙とであって,操作的なフィーノレドのコントローノレの特殊なケースであ る 。

( 4 )   相互作用,つまり,二人以上のひとびとが,相互に指令的もしくは操 作的なフィーノレド・コントロールによって作用しあう乙とである

O

乙の場合,無意識的なフィー

J

レド・コントロー

j

レはコントローノレのー形態

とはときに考えられず,自由と矛盾しないようにみえるが,合理的な社会的

行為の最も重要なテクニックの一つである

O

それは,それから逃れる乙とが

困難であるという意味で専制的である。ひとは,無意識的なフィーノレド・コ

ントローノレによって,いたると乙ろで一一家族,隣人,同僚,等の間で一一

回まれており,また,無意識的なフィーノレド・コントローノレによって分配さ

(17)

れる報酬および損失の多くは,愛と憎悪,愛情と敵意,友情とにくしみ,尊 敬と軽蔑の如く,ひとにとって基本的に重要である。なお,社会的コントロ ーノレの上述の四技術は社会のどの分野でも有効であるが,それらは事象の望 ましい状態をもたらすのに必ずしも十分ではない。それらは規制すべきひ と,あるいはグループに直接に作用するが,そうした直接的コントローノレは 他の迂目的コントローノレ方法によって補われる必要がある

O

それらは,

(1)

ーソナリティに影響を与えることであって,刺激が望ましい反応を起すよう ノマーソナリティを変えることであり, ( 2 ) 役割に影響を与えることである,つ まり刺激に対する反応が役割の期待に大きく依存するがため役割の内容を変 えることである,と

3)

そして,ペティットは,非公式的・非権威的な社会的コントローノレの機構 を選好する米国社会では,無;立識的なフィールド・コントロー

j

レが最も好ま れるのであり,ここから経済のコントロー

j

レの主要形態として競争がとられ てきたこと,および,製品差別化と価格支配によって競争が重要性を減す、る につれ,それを補うために他の無芯識的なフィーノレド・コントローノレが発注 してきた一ーただし,反トラストと公益企業規制の法の如き命令的コントロ ールや,公共投資計画の如き操作的なフィーノレド・コントロー

j

レも幾らか伴 って一ーのであって,ここから経営者の役割の遂行として社会的責任が解さ れるべきことを指摘する針。

すなわち,かれは責任引き受けの理由を中心につぎのように論ずる

O

社会 とは,互いに関述をもっ多くの地位からなる社会体系であり,その地位のお のおのには役割が結びつけられている。役割とは一群の規範であり,役割遂 行者に期待される行r

UJ

を示す一組の行動標準である。役割遂行者は,多くの 異る下位体系(家族,教会,企業,等)で,多くの他の役割遂行者と接触す るのであり,かれらはかれのフィールドに働きかける

O

すなわち,かれが規 則的に段触するひとびとは,かれに操作的なフィールド・コントロールを 及ぼすとともに,規則的な出触をしないひとびとは,かれに?足立識[ド

j

なフィ ード・コントロー

j

レを及ぼす

o ~ìt~ ~J}-企業,銀行家,政 J(f役人,ツJ組JE 導者,

」氏iすi 役会メンバーは経常者に操作(!'~なフィーノレド・コントローノレを及ぼし牧

(18)

82 

経 営 と 経 済 師,教授,ジャーナリスト等もまた,無意識的にかれのフィールドに作用す るのである

O

経営者はもしかれが社会の変化に逆うならば,結局はその地 位,権力,威信および収入を失なおう。したがって,行動的理論観点、からする場 合の,社会的に責任があるということの怠味は,経営者の地位に付与された さまざまの責務を果たすことで社会の指図に従うということである。なお,

経営者が社会的に責任を負う理由を,経営者による損失回避と報酬獲得とみ るなら,そうした見方は効用極大化のー形態としての社会的責任の理解であ るが, しかしながら,これは短期的見方である

O

長期的 l こは,われわれはす べて社会化されているのであり,社会は,重要な地位を充すために必要な程 類のひとびとを作り出すのである

O

迂回的なコントローノレの方法は,経営者 が無意識的なフィー

J

レドのコントロールに対して反応するよう,そのパーソ ナリティに変化をもたらすのであって,済営者は,報酬とは別に,自ら責任 をもちたいと望むが故に社会的に責任をもつのである,と。

乙のようにペティットは,社会的責任を経営者の選択の理論によって眺め るところの効用紙大化アプローチの代わりに,社会的責任を社会的コントロ ーノレの理論で眺めるところの,社会的責任への役割遂行アプローチを拾定す るのである。

以上のようなペティットの社会的責任観は,社会的責任をば現代の企業に おける目的たらしめているところの要因ないしメカニズムを適切に説明して いる。現代の資本主義社会にあっては経済の迩営はその一部は政府の意志の 下に置かれるにしてもその大部分は民間の手にまかされるのであり,社会は そのことを選好する。社会は政府による怠識的・主体的な経済運営という形で の操作的なフィーノレド・コントロールを経済に対して部分的には行なうが,

それは基本的には,市場における企業問の競争や企業による社会的責任の実 践という形での無怠識的ないし非中央的フィーノレド・コントロールに依存す るのである。

企業は,その内外をめぐる多様なインタレスト・グループによる操作的コ

ントローノレの下でその権力に相応した社会

1

'i':J責任をまた不可避的に受け入れ

ざるをえない。同時にそれは社会による辻凹的コントローノレの下にもあり,そ

(19)

の経営者は無意識的に責任を受け入ざるをえない。そして,このような諸コ ントローノレによって企業は社会的責任をば目的のーっとするに至りつつある のである

D

1) Thomas A. Petit

, 

The Moral Crisis  in  Management

, 

1967 土屋守

ZE

訳,企業モラノレの危機,昭和

44

年) . 

2)  T. A. Petit

, 

op.  cit.

, 

pp. 108~116 ベティット,前十日訳者, 153

166

頁)

3)  T. A. Petit

, 

op.  cit.

, 

pp. 118~121 ペティッ卜,前犯訳書, 170

174

頁)

4)  T. A. Petit

, 

op.  cit.

, 

pp.  118.....124

ペティット,前掲訳書,

174

180

頁)

社会的責任と価伯分析

これまでのところでは,企業による社会指向的活動を社会的責任追求とし て一括し,かかる社会的責任もまた利潤と並んで企業の某本的な目的を形成 しつつあることを眺めた。立任

ω

このような傾向はペティットも指摘するよ うに,社会のひとびとが企業に対して抱くところの期待に,ひいては社会の ひとびとが有するところの価値によって規定されるのであり,社会的責任 の不可避性の認識,更には責任内容の把握のためには,社会の価値の内容と 動向の分析が必要である

O

社会的責任問題に対する価値分析の主要性を強諭する論者の一例としてエ

j

レピングら

1)

を挙げる乙とができるであろう。エルピングらは,巨大会社の 登場は現代の産業市命としてひとの力に巨大な進歩をもたらしたが,それは 企業と人間の聞の関係について,すなわち,手段としての企業と,人間価値 の枠組みとの調和について問題を提示しているという

O

かれらはそうした問 題を企業の価値問題

(valueissues)

と呼ぷが,かかる問題の幾っかとして

はつぎのようなものが挙げられる

2)

その一つは,社会の

11

削i r [ に対する,明大する会社規机の影響の問題であ

o

大企業は資本市場から解放される傾向にあり,社会的影響をもっ問題の

(20)

84 

経 営 と 経 済 決定が少数のものの子中に属するに至っているのであって,規校の増大の是 非が問題となっている

O

他の問題は,個人労働者の生活に対する大会社の影響であり,階層的組 織,オートメーション,人間関係論プログラム,差別,等は,従業員の取扱 いのあるべき状態をめぐる価値問題を生じている

O

企業の 社会的責任"なる問題全体はむろん,価値問題である。汚染,殺 虫剤,タバコの広告,自動車の安全対策をはじめ,映画やテレビ娯楽の基準等 にわたる問題についての企業責任をめぐり論議が行なわれており,責任を意 識して多くの会社が慈善,財団,等への援助をまた,建物の美化や,市民活 動への経営者による参加を行ないつつある

O

社会的責任のあるべき性質とは なんであるのか。

また,仕事の遂行に際しての経営者の個人的道徳のあり方や,政府と企業 との関係、のあるべき状態,更には,外国での企業活動のあり方も,価値問題 として存在しているのである

O

エノレピングらは,上述の問題すべては,それらが必然的に道徳的もしくは 社会的な菩に関するなんらかの評価を伴うが故に,およびそれらは,望ま れることに関する概念をのみならず,望ましいことに関する概念を合志する がために,価値問題と呼びうるとみる

O

すなわち,かれらは,価値なる語を

望ましいことに関する概念"として用いる。そしてかれらはこうした価値 問題を適切に取り扱いうるためには企業を社会的システムとみるような理論 的枠組みが必要であるとみるのである

3)

最後の点について更に触れるなら,かれらは,企業は,それを純粋に経済

的‑技術的システムとしてみる経済的モデノレでは適切に把握しえないとす

る口すなわち,それは,社会的なシステムでもある

O

すべての経営行為は社

会への応答であり,社会的な意義と結果を有するのであって,企業は社会的

諸関係の生産者で、あり,社会の価値の形成者なのである

O

そして,企業を社

会システムとして認識する乙とは,つぎの乙とを志味する

O

その一つは,企

業活動を超道徳的とみることの放棄である

u

企業は諸種の社会的相互作用の

ネットワークであり,企業行動は人間価杭

ω

促進もしくは抑制に関係してお

(21)

り,道徳的次元をもつのである

O

第二は,価値問題を末

m

的問題とみること

の放棄である。すべての経済的活動は社会的活動であり,されば,企業の道 徳的性質は広がっている

O

第三は,市場のみが社会価値の仲裁者ではないこ との認識である。財の交換の場としての市場の外部にも,多くの社会的交換 が,ひいては価値の仲裁が行なわれているのである

O

第四は,経済的活動も しくは経済的考慮は社会的考慮と孤立して行なわれうるという考えの放棄で ある口最後は,企業の社会的影響は,経済的モデルなる狭い見地からは,す なわち,経済的福祉や国富の見地からは計りえず,経済的要素のみを室祝す る社会的価値の枠組みは不適切であるということである針。

要するにエノレビングらは,企業を経済の中の企業としてのみ把握すること を脱して,より広く社会の中の企業として

J

包括することが,企業の社会的芯 義をめぐる諸問題を考察するためには不可欠であるとみているといえよう

O

こうしたかれらの見解の根底には,いわゆる近代組織論者によって主張され るような,さまざまなク勺レープのシステムとしての企業仰が存在することは 明らかである

D

以上のようなエノレピングらの見解は,社会的責任の問題がすぐれて価値問 題であること,そして責紅・の木質の探究のためには社会価値の分析が必須で あることを示している。企業の目的休系およびそこにおける社会的責任の内 容についてその劫向を明らか l こするためには,価値分析の観点から現代の企 業社会への接近が試みられねばならないといえよう。

注1

) Alvar O. Elbing and Carol 

J .  

Elbing, The Value Issuc of Business,  1967. 

2)  Ibid., pp. 3 ~ 3)  Ibid.

, 

pp. 7 '""''8.  4)  Ibid., pp.77"'79. 

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