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目的の合理的評価の可能性と限界 塩野直之(

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目的の合理的評価の可能性と限界

塩野直之(Naoyuki SHIONO)

東邦大学理学部

実践的推論とは目的から手段への推論だというアリストテレスに帰されるテーゼは、

ヒュームを経て現代に至るまで、実践理性に関する標準的な見解の位置を占め続けて いる。この見解は、目的を実践的推論の大前提として位置づけるため、目的自体が合 理的か否かは理性的検討の対象とならない。このことは、たとえばヒュームの有名な 言葉「指を掻くことを全世界の破滅より選んだとしても、理性に反することにはなら ない」に端的に見られるとおりである。

だが、この標準的見解への異論もわずかながら存在する。中でも、“specificationism”

と呼ばれる立場の代表的論者であるヘンリー・リチャードソンの著書 Practical Reasoning about Final Endsは、その異論を最も本格的に展開したものである。リチ ャードソンは、目的自体も合理的な評価や正当化の対象となりうると主張し、行為主 体の持つさまざまな目的は互いに整合的であるべきだという「整合性」と、いかなる 目的も実践的推論のプロセスを経ることにより改訂されうるという「改訂可能性」を、

その主張の二つの拠り所としている。本発表で私は、このリチャードソンの考察を敷 衍しつつ、目的がいかにして合理的な評価の対象となるかを検討するとともに、その 立場の限界をも見極めたい。

次のような事例を考えてみよう。ただしこれは、リチャードソンの議論で重要な役 割を担う“specification”概念の定義を厳密に満たすものではなく、むしろ彼の挙げ る幾多の日常的な事例を参考にしてアレンジしたものである。太郎は少し遠くにある 会社に就職し、そこに自宅から通うことになった。通勤の経路として可能な候補をい くつか検討し、ある地下鉄の路線で通うことに決めた。ここまでは、通常の目的から 手段への推論である。ところが実際に毎日通勤してみると、地下鉄に乗っている時間 をただぼんやりと過ごすのは無駄ではないかと思われた。そこで太郎がこの時間の有 益な使い道を考えたところ、タブレットで将棋を指すのがよいとの結論に達した。こ の推論は、目的から手段への推論と捉えることも可能だが、むしろ手段から目的への 推論と理解する方が適切である。さて、毎日通勤時間に将棋を指しているうちに、太 郎の腕前は上達し、将棋への熱意も高まって、休日も戦法の研究に費やしたり段位の 取得を目指したりなど、将棋は彼の生活の中で一つの目的として確固たる位置を占め るに至った。

この例を吟味すると、ここでは、当初は通常の目的から手段への推論として始まっ た一連のプロセスが、最終的には新たな目的の確立に至っている。そしてそのプロセ スを経たことにより、新たな目的は、会社に通うという目的と整合的で、合理的と評 価しうるものとなっている。また、こうして新たな目的が確立されたことは、太郎が それまで持っていた他のいくつかの目的の改訂を促すこともありうる。その意味でこ の例は、一見したところ、アリストテレスやヒュームの標準的見解への強力な反論と なり得ているように思われる。

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以上の議論にはさまざまな批判や疑問が想定できる。本発表ではそのうち二つを検 討したい。第一に、上の例で太郎がたどった実践的推論のプロセスは、確かに目的か ら手段への推論としては理解できない部分を含むが、それは実践理性に関するもう一 つの伝統的見解、すなわち効用や幸福の最大化という「最大化モデル」を適用すれば、

十分に捉えられるのではないかという疑問がありうる。これについてはまず、最大化 モデルに関する二つの見方を区別する必要がある。第一は、太郎の実際の選択や行動 を所与として、それを効用の最大化として記述することを可能にする効用関数が存在 するという形式的な見方である。第二は、太郎は実際に、最大化を目的とする合理的 な思考プロセスを経たのだという実質的な見方である。私は本発表で、第一の見方は 取り上げず、主に第二の見方に関して、太郎がそのような思考プロセスを遂行したと 見ることは説得力に欠けると論じたい。

第二の疑問は次のようなものである。太郎は上の例で、通勤中に毎日ひたすら指を 掻くという目的を採用することもできたのではないだろうか。だが直観的には、将棋 を指すことは追求する価値のある目的だが、指を掻くことはそうでないように思われ る。すると、整合性や改訂可能性を手がかりとして目的の合理性を評価するアプロー チは、将棋と指を掻くことのあいだにこうした価値の違いがあることを説明できるの だろうか。言い換えると、リチャードソンのような“specificationism”的見解は、目 的の価値の源泉は何かという問いに答えてくれるのだろうか。私は本発表で、この疑 問に肯定的に答えることは困難だと主張したい。それゆえリチャードソンの立場は、

目的の合理的評価という課題に取り組む意欲的なものではあるが、ある目的がなぜ価 値を持つのかを合理性の観点から説明できるわけではなく、したがって目的とは究極 的には恣意的に決められるものにすぎないというヒュームのテーゼを覆す射程は持た ないように思われる。

参照

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