奈良教育大学学術リポジトリNEAR
視聴覚的方法の機能と限界
著者 太田 静樹
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 8
号 1
ページ 73‑81
発行年 1959‑02‑15
URL http://hdl.handle.net/10105/4867
視聴覚的方法の機能と限界
太 田 静 樹
1.は じ め に
視聴覚的方法は今日、学校教育全般にわたって盛んに用いられるようになったが、もちろんそ れは教育方法における万能者でなくしてその一部であるが、やゝもすれば歓迎者からほ過大視せ られ、敬遠者からは過小視せられる傾向があり、その適正な位置付が望まれるのである。故にそ の機能と限界を明らかにする必要があるが、こ1では主に保育と学校教育との比較においてみて いきたい。それは保育(こゝでは幼稚園の教育を意味する)と学校教育(こゝでは小学校以上の 学校教育を意味する)とにおいて子供の発達段階の相異からくる教育の方法、内容の相異は当然、
視聴覚的方法の利用においても異なったものが出てくるはずであるし、それによって視聴覚的方 法の機能と限界が明らかにされると思うからである。こゝで保育と学校教育といっても夫々その 特質的なものを比較しているのであって学校教育の低学年の段階においては保育と共通の点が多 分にあることは言うまでもない。故にはっきりと線を引いて両者を区別するのでもないけれども 一応こゝではその特質的なものを把えて考える。それは学習という点についてであるが両者共に その教育は学習であると言ってよいのであるが、保育が専ら生活学習であるのに対して学校教育 においては教科的な知的な学習がその中心をなしているということである。すなわち前者におい ては教材を取扱ってもその為というよりかほ生活、遊びの為のものであり、後者においては教材 の学習を中心に展開する。もちろん生活学習も重要なことであり重んぜられているのでほあるけ れどもその比較においてはやはり以上のように言うことができると思う。
こゝで保育における視聴覚方法についてみてみるとその利用効果については今日実践的研究か らかなり詳しく論じられているけれどもそれに終始していて乗に視聴覚方法が保育においてどの ような意義を持っているかについては明瞭にされていない。この点では学校教育においては理論 的な研究も相当に進められているのに保育においてはそれが等閑視されている感がある。そのよ
うな点からもこの視聴覚的方法の機能と限界をはっきりとさせる必要がある。故にこ上では保育 におけるそれについて推究していくのであるがその為には先づ保育の本質を考え、次に視聴覚的 方法の機能を考え、そこから問題になるところを見出しながらそれを学校教育と比較するという
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方法で進めていきたい。
2.保 育 の 本 質
保育では幼児の生活を全面的に充実させることである。すなわち幼児の生活経験を豊富にし有 意義にすることである。しかしこれでは学校教育についても全く同様に言えるのであるが学校に おいてはそれを教科的な学習を中心になそうとしているのに対して保育でほ幼児の遊びを中心に
した生活活動を通じてである。このことは視聴覚的方法を利用する際に第一に考えておかねばな らないと思う。同じ学習であると言ってもその主眼点が異なっているからである。以下この経験 を豊かにすること及びそれを有意義にすることについて考えてみたい。
(1)経験を豊かにすることについて それはどういう経験が生活を豊かに するものであるかということであるが、それについてはデールほ豊かな経験の事例を多くあげて 説明している。それは感覚的な経験、新奇な発見的な新鮮な経験、感情に訴える経験、種々な経
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験の集約や充実、個人的な完遂的な経験であるとしている。確かにこれは幼児についても同様に 言えるのであって豊かな経験と言えば先づ第一に種々な具体的な感覚的な経験があげられるが、
しかし経験は量的にも質的にも考えられねばならない。すなわち単に感覚的な経験というだけで なくしてそれが幼児にとって新鮮なものであり、情意に強く訴えるものであり、想像を盛んにす るものであり、内容を深めるものであるならば間接的な経験でも充分できることである。幼児に おいては直接経験ほど貴重なものはないが、しかしそれだけではその範囲や量は狭く限られたも のになろう。しかし幼児はその想像力の旺盛さによってそれを克服している。児童には本を読む という道が開けているけれども幼児においてはお話をきく、絵をみる等のことによって自由に想 像の世界へ飛躍出来るのである。それによって幼児は実に多様な生活を間接的ではあるけれども 経験することができるのであって、幼児はそれによって人生を経験していると言う人もある位で ある。又そのような経験によって情緒的にも知的にもその欲求を充分満足さしているのである。
このようにみてくると幼児の経験を豊かにするものは単に感覚的な経験であるということでなく してむしろ情意に強く訴えその活動を盛んにする間接的な経験でも大いに考えられるということ である。
(2)経験を有意義にすることについて 経験を豊かにすることについては 量的な豊かさと共に質的な豊かさについてのべたが、これらはいずれも既に幼児にとっては有意 義であることを前提としているのであるが、有意義とは保育の上からいって幼児の自発的な活動 を盛んにし望ましい発達の方向に進めることである。どんな経験でもよいのでなくしてやはりこ のような線が考えられねばならない。すなわち内容的にはその発達段階に即して教育目的にも適
しているものであり、方法的にはその自己活動によるものであり又それを促し盛んにするもので あることである。このことは学校教育についても同様に言えるのであるが、児童ほぞれを自覚的に 目的的に進めることが出来るようになるのに反して、幼児においては気まぐれ的であり強く要求 できないことである。前述のように経験を豊かにすることの中に既にこのような自己活動的な要 素を含んでいると言えるのであるが、その上内容が教育目的に指向したものでなければならない。
その日的とは経験を豊かにしてそれを充分に生活に活用することである。むしろそのように経験 を活用していくことが重要である。それは普通経験を一般化することと言われる。豊富な経験も 必要であるが、それが目的でなくして早く有効に利用できるようになることである。一つ一つの 経験が有意義であるとはその一般化への過程に連なっていきつゝあることを示すものである。自 己活動とは試行踏誤的にやっていくことである。しかしこの過程は中々難しいものであり、知的 にも学習できることが必要である。そのことから言って幼児においては経験を有意義にするとは 前述のように出来るだけ、その方向に自己活動化していくことであるといってよい。それは幼児 にとって生活的な経験活動を深めていくというか、身につけていくことに外ならないのである。
(3)幼児の経験について 幼児の経験について考えるのにその特色は自己 中心的であり、又想像的であり情緒的であることである。幼児は言語、文字によって抽象的に理
解し深めていくというのでなくしてすべて、きく、みる、さわる、動かす等の感覚的な経験を基
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にして自己流に会得していく。習得する言語でさえも自己中心的な傾向を強く持っている。自己 中心的とはまだ主客末分的であることであるが、幼児においてはその為情緒的に強く影響され想 像性に富んでいる。そのことは幼児は環境の力によって支配され易いということである。これは 保育において環境による教育の重要性を示すものである。従って経験を豊かに有意義にするとい うことは幼児の自発的な活動を促すような刺戦に富んだ環境を豊かに構成するということになる。
出来るだけ自由な楽しい雰囲気(環境)の中においてこそ幼児の活動を盛んにすることが出来、
好ましい影響を与えるものである。そのような環境は人的にも物的にも考えられ、その影響は直 接的にも間接的にも考えられるが、それらをどのように構成するかということが幼児の経験に関 連して重要となる。しかしそこでは幼児の活動が主体となるべきものであって外から与えるもの になってほならない。例えば教師が恩物を幼児に与えてその指示通りに構成させるということは 昔、大正時代に普通に行われたことであるが、たとえ、それを自由に幼児に構成させたとしても 余り好ましい幼児の活動であり環境ではなかったろう。それは形式的なものであり幼児の豊かな 活動として展開しなかったからである。幼児の自己中心的な活動はこの時期に大いにその特色を 発揮してその諸性能を豊かにしなければならない。その際教師は重要な役割を果す。何故なら教 師の指導如何によって幼児の活動は大いに左右されるからである。すなわち教師のあり方は幼児 にとっては常に強い環境因子になっているのである。保育が苔から教師中心主義になり易いのも その弊害の表れである。保育においては特に幼児の経験中心が唱えられながら、や上もすると教 師中心主義になり易いのは学校教育において言語偏重主義に陥り易いのと同類であるが、これは いかに教師が正面に出て強く働き幼児の経験が自主的に生かされてこないことが分る。保育の本 質から言って幼児が中心になって活動しなければならないことは言うまでもない。このような中 に視聴覚的方法はどのように取入れられるか。
現代の保育の特色は視聴覚的方法を豊富に取入れることが可能になってきたことである。これ は大正時代のそれと比較して明瞭であって当時教師の談話としてお話されていたものが今日にお いては十何種類かの方法(視聴覚的)でその内客を伝えることが出来るのである。当時、幻灯や 紙芝居もあることはあったけれども余り利用せられず普及もしていなかった。しかし患物のこと は詳しく論じられていた時代である。それだけ現代は保育内容も豊かになったと言えるのである が問題はその利用の方法であって利用出来るということだけで幼児の生活が豊かに有意義になっ たとか、幼稚園が近代的になったとは言えないのである。すなわち視聴覚的方法の現代的意義を
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よく考えてその効果的な利用を考えねばならない。
3.視聴覚的方法の機能
こゝで視聴覚的方法とは視聴覚的教具によるもの及び視聴覚的活動と称せられるものを含めて 考えており、保育に於ても学校教育における場合とほとんど変りない位に豊富に用いられている。
視聴覚的方法は近代以来の直観教授の現代的発展形態として把えられ論じられている。すなわち 始めの段階としてほ直接経験の代りに、或は直接経験不可能なものを経験可能ならしめるという
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ことであるが、より本質的には一般的な認識を可能ならしめる為のものとしてである。すなわち 始めの方は経験をより豊かにする為のものであり、後の方は経験をより一般化する為のものであ
る。これらは共に学習の為には必須の条件過程として考えられるものであるが、これが保育に対
してほどのような関係作用をもってくるか。
(1)経験を豊かにすることについて。 現代の視聴覚的方法においては高 度に発達した機械によって今までとうてい経験出来なかった微少、極大、遠隔の世界の事物事象 を眼の前に生々と明瞭にもたらすことが出来る。それだけ経験の範囲を拡大して豊かにすること であり学習の為に大いに有効なことである。その特色は機械によって非常に正確に写実的に現実 を把えることができることである。それを科学性というならば視聴覚的方法はその科学性を太い
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に発揮して現実の経験領域を拡大するものと言える。しかしそれには子供にそれを受入れるだけ の能力がなければならない。すなわち時間、空間、数等の諸観念が確立されていない時にはいか に秀れた科学的な内容のものでもその用をなさないし、かえって害であることもある。
幼児について言えばまだ時間的にも空間的にもその観念の不充分であることは知られている通 りであってそのことが視聴覚的方法の科学性を受入れるまでに至らない。事実、幼児は正確な写 実的なものよりも、お謡や紙芝居の方がよいのである。これはその自己中心性の故に知的な分析 的な内容のものよりかほお話的な想像的なものが好かれるのであって、このことは学校教育と保 育の差とも言える。故に知的な学習でない保育において事物事象を科学的に提示しても余り効果 ないのであって(幼児はその提示されたものの意味が理解できない)従ってこのような方法によ って幼児の経験を豊かにするということは期待できない。それが出来るようになるのは学校教育 の段階において実証的な態度の出来る中学年からであろう。(すなわち童話の時期を離れる頃か らである。)しかし経験を豊かにすることとは前述のように間接経験であってもその内容が新鮮 であり、情意に訴え、想像を盛んにすることである。幼児に対してそのような役目を果している のがお話であるが、視聴覚的方法はそのようなお話的なものを幼児に提供するという点において も秀れた機能を持っている。元々お話は幼児の情緒、想像を盛んにし豊かにするものであり古来 重んぜられてきたものであるが視聴覚的方法はその構成や内容において人のお謡以上の力を発揮 する。視聴覚的方法は色彩、音楽、リズム、効果音、等の要素を豊富に持ち、(紙芝居、スライ
ド、ラジオ、映画、テレビ等をみても分るように)それだけで或はそれらを組合せて秀れた情緒 的な空想的な情景を作り出すことが出来る。それを芸術性というならば視聴覚方法はその芸術性 を大いに発揮して幼児に対してはお話的なものを提供することによって経験内容を豊かにするこ とができる。そのお話的なものの内容も昔話的なもの、生活的なもの、音楽的なもの、リズム的 なもの、社会自然的なもの等々種々なものを含んで人のお話によるよりもはるかに豊かに構成す ることができる。すなわち今までの談話としてのお話よりも音楽的、リズム的、立体的に構成さ れてそこから自然に豊かなお話的な環境が設定され幼児はその中に浸って楽しみ味うことが出来 るのである。視聴覚的方法はこのように芸術的な環境を構成し楽しい雰囲気の中に幼児にお話的 なものを提供するという点において独得の機能を発揮する。今まで教師の口(個人的なもの)に 限定せられていたものが多種多様の形態において豊かな秀れた内容を提供出来、従ってその効果 も著るしいものがある。このような芸術的な環境によって幼児を教育するということは幼稚園教
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育の始めからの願いになっているのであって、それは単に自然的物的な面においてのみならず、
遊びの場面場面においても考えられねばならない。その芸術性も子供の発達に応じて程度の高い ものが提供されることになる。
(2)経験を一般化することについて。 視聴覚的方法の本質が経験を一般 化することにあること。すなわちいろいろの経験を多くつむ許りでなくてそれを早く確実に概念 的な認識にまでもたらすことに狙いがあるわけであるが、経験を豊かにすることはその前提にな
るものである。一般化の為には豊かな経験が必要であり、それを再組織して学習活動を一般ノ化の 方向に進ませねばならない。その点について視聴覚教材は現代的なもの、程機械化されており、そ れがかえって種々の要素(音、音楽、絵、話等)を自由に使って内容を分醗抽象化して戎冒的の 下に編集構成できるのが特色である。映画もラジオもテレビもすべてこれ機械によって現実を一 旦ばらばらにして再び或まとまった内容として構成したものである。その結果、より現実的であ
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りながら一般化を助長するものとなる。このように経験の.一般化を進める為に現実を自由自在に 構成できる点はその中に科学性も芸術性も含めて学習の為に有効な手段となる。殊に科学的な社 会的な複雑な内容については知的な理解が重要であるだけに必要となる。これが保育の場合にお
いてはどうなるか。
保育は学校教育の前段階にあるものであるが、経験を有意義にするといってもまだ一般化を目 的的にすることはできない。デールほ具体的なものから抽象的なものへ、抽象的なものから具体
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的なものへとあの三角錐を上ったり下ったりすることを説いたが、幼児にはまだそれが意識的に 出来ない。前述のように幼児の場合において経験を有意義にするとは出来るだけ自己活動化して いくことである。例えばお話をきいてもきく度に深く味うようになり、或はそれを実行できるよ うになり、或は劇化できるようになることである。又音楽やリズムが自然に表現できるようにな り、或は同じ音楽をきいても一層深く味うようになることなどである。すなわち経験を質的に深 めていくことである。その為には内容が秀れたものでなければならないし、何度も繰返し、経験 することが必要である。そこに視聴覚的方法がその持てる芸術性を発揮しなければならない理由 がある。視聴覚的方法が幼児にとって興味深く魅力的であるのは劇化(ドラマ化)できることに ある。単なる説明や対話では幼児はすぐ飽いてしまうものが、劇化されたものになるとたちまち にそのとりこになってしまう。劇によってお話が力強く立体的に盛り上ってくるからである。視 聴覚的方法はそのような劇的構成の点において豊かに自由にできる秀れた機能を持っている。又 いろいろの方法を適合し合って益々環境豊かなものにすることができる。(例えば紙芝居と録音 テープ・スライドとラジオや録音テープなどである。)それらによって幼児の自己活動を盛んに しなければならないが、これは一般化にどう向っているものであろうか。幼児はそれを直接、目 的的に取上げえないと言ったが、それが出来ないというわけでなく、むしろ経験的に行ってきて
いるのである。例えば言葉などほ幼時より生活学習的に習得してきたものであって自由自在に使 用できるのは一般化していると言える。遊びにおいても例えばごっこ遊びにおいて、いろいろの 理解を交えながら問題解決的に(教師の指導も入れながら)進めていくことが出来、段々上手に 出来るようになる。叉プランコもやっている中に上手に乗りこなせるようになる。これらは何れ も経験的にその要領を会得していったもので一般化しているわけである。日常的な繰返しの中に 身につけてきたものである。その学習の特色は行動的、楽しみ的、想像的なものであることであ る。そうでなければ幼児の学習は永続きしない。まだ表象の独立が充分でなく表象相互の関係判 断から学習を進めていくことは出来ない。しかるに一般化の為の学習においてはその過程に応じ
て半具体的半抽象的な内容の学習が随時諜せられるわけであるが、前述のように時間的空間的観 念さえはっきりしていない時にはそのような学習の展開はできない。一巻の科学映画をみてもそ れが真に理解できないということになる。やはり幼児には学習といってもそれが行動的であり、
楽しみ的であり、想像的なものでなければ活発にならない。それでは中々一般化には達しない。
結果として達することはあってもそれは自覚的なものでなく刺戦や暗示や繰返しによるものであ る。教師として自然そうなることは狙っても幼児の自覚を促すことは難しい。故に幼児の経験を
有意義化することは自己活動化することであるといったが、視聴覚的方法はその活動に内容と刺 戦を与えるものではあるけれども、それは感化によるものであって段階的な学習ではない。幼児 は学習の内容として受取るのでなくして楽しみ、遊びとしてであり、それを理解する為には自分 で何回も繰返したり行動化しなければならない。始めから理解の為のものとして受取ることは出 来ない。故に劇化などによってお話を提供し直接的な間接的な感化を狙うことが第一義とされる のであってそれは芸術的な方法と言うものである。これは情意に直接間接に訴えるものであって 幼児にも充分達しえられるものである。
(3)結局保育においては視聴覚的方法の科学性を知的学習におけるように利用するのでなくそ の芸術性と自由な構成を用いて内容豊かなお話的な環境を構成しようとするものである。大体に おいて視聴覚的方法は近代社会のマス・コミから応用せられてきたものであり、それは本質的に は一方において写実的、現実的な面(報道性など)と他方において想像的、情緒的な面(娯楽性 など)を持っており、これを科学性と芸術性といったのであるが、保育においてはこの芸術性の 面を主に利用しようとするものであり、それはお話的な世界において最も真価を発揮するもので ある。故に保育においては経験を豊かにする為には最もよい方法となるものであるが、学校教育 においてはむしろ一般化の方に重点がおかれるのは子供の学習や経験の発達の段階によるわけで ある。もっとも知的な学習においても視聴覚的方法は多くは話の形をとるけれども、それは学習 の目的を意識しているのに対して幼児においては視聴することそのことを楽しみ(すなわち遊び である)ながら、その中に自然と習得されるように狙っている差異がある。いかにお話的な、劇 化されたものの感化が強いかは例えばどこの幼稚園でも最も歓迎される放送番組が「お話でてこ い」であり、又学校放送においてであるが、児童が永年種々の番組をきいた中で最も感銘深く残 っているものは劇化された文学作品であったということをみても分るのである。
4.間 題
以上述べてきた視聴覚的方法について今まで余りふれてこなかったが重要なものとして教師の 働きがある。又幼児自身がどのような受取り方をするかというようなことや、内容自身について
の批判がある。今までこれらのことについてその実際については保留しておいて保育や視聴覚的 方法のあり方について考えてきたが、実際においてどのように取扱われ受入れられているかとい うことは見逃すことの出来ないことであって以下これらの三つのことについて考える。
(1)教師の働きについて。 視聴覚教材は幼児に対して秀れた芸術的作品 でなければならないと言ったが、その際教師はいかなる働きをなすべきかということである。と
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いうのは現代的な視聴覚的方法程、斎藤氏も指摘している通り、教師はその作品の構成にタッチ せず、その利用中にも正面に表われないこと、すなわち現代的視聴覚的方法は教師をその正面的 地位から退かしめるという作用をもつことが注目せられるのである。それは現代的な視聴覚方法 程、複雑な高度の機械化とスタッフの組織化によって(例えばNHKの如きもの)作品を作り出 すのであって現場の個々の教師のとてもたち打ち出来るものではない。しかしそれによってこそ 秀れた作品が出来るとも言えるのであり視聴覚的方法が秀れた専門家を教室にもたらすことが出 来ると言われるのもそれである。故に秀れた作品を必要とすると言っても、それはその製作関係 者達に要求せられることであって教師は精々希望や意見を前後に伝達する位のものになる。教師 の主要な仕事はそれをいかに利用するかということになる。ところがこゝにおいても利用してい
る時は教師は正面から退いて幼児をして直接教材に当らしめるのである。スライドや紙芝居にお いては教師は語るにしても背後にあって画面をして語らしめるようにするし、映画、ラジ′オ、テ レビにおいてはこれら自身が教師の代りに語り示してくれるのである。このことは幼児をして直 接その環境に入れて幼児をして自由に活動せしめることであり、考えようによっては保育の本質 的な方法であるとも言える。教師の指導が不必要になるというわけでなく、むしろ背後において 強く働いているけれども正面には出てこないということである。今までの保育において教師中心 になり易かったといったが、それを是正する方法であるとも言える。視聴覚的方法が単に教師の 教材の追加的利用に留まるべきでなくして新しいというか、本来の教育方法としてその本質に迫
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るものがあることが論じられているが、保育においてもあてはめて考えられる。この傾向はテレ ビの出現によって一層高まってきたし問題になってきた。教育観、教師観を考え直す時期である と言える。
しかしこのことは逆に視聴覚的方法の過大視になってはならない。視聴覚的方法はいかに精巧 になっても全的に教師そのものにとって代ることは出来ない。その内容をいかに生かして用いる かということは教師の指導によらなければならないのであって教材白身にも子供自身にも出来な い。個人差に応じて指導することも出来ない。いかに秀れた方法、内容でもその時と所を得なけ れば用をなさない。それをなさしめるのが教師である。これは視聴覚的方法の限界にも関係する ことである。又教師の指導といってもそこにはやはり個人的な限界と偏狭があることを知らなけ ればならない。教師の個人的な強さ、子供との独得な人間関係を認めながらも、それに栢ること
によってかえって欠点を暴露することにもなる。それを是正する為にも視聴覚的方法は必要とな る。もし現在の保育が視聴覚的方法を用いないとすれば教師も幼児もその活動は非常に貧弱なも のになってしまうであろう。
(2)子供を受動的にならせることについて、 幼児の活動でも自分から求 めてなすもの、例えば物を作ったり、ごっこ遊びをする時はいかにも活気と工夫に満ちたもので あることはよくみられることであるし、反対に外からの刺戦によってみる、きくして楽しむもの は遊びの一種でも自発性の少ないようにみえる。外観からほ幼児は唯見入っている、きゝ入って いるだけであって幼児白身の活動がみられない。これを嫌って視聴覚的方法を敬遠し教師との直 接の話合いを専らよしとする論もある。しかし幼児の活動を外観からだけで判断することは危険 である。幼児がお話の世界に夢中になっているのは無念無想でなくして実は心捉らし想像をたく
ましうしているのであって次から次へと自己の世界を展開しているのである。このことは幼児が 何かの遊び事をしている時と同様である。唯手足を働かしているかいないかだけである。遊び事 をしていてもぼんやりとしておれば、すなわち精神的な活動がなければ豊かな活動とは言えない。
前には経験を量的のみならず質的に豊かにすることを考えたが、活動の能動性、受動性は外に 表れた形の上にのみあるのでなくしてその働きにおいて見なくてはならない。このことはデール の三角錐の各段階についてもよく言われることである。故に音楽を静かにきいてもその感動はそ
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の人特有の立派な創造的活動であって決して既製のものでも他人のものでもない。視聴覚的方法 によって提供されるお話が、いつでもそのような幼児の自発活動を促すものとはいえないが、そ
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うあるべきものである。唯幼児においては視聴覚的方法の独得な寛力的な作用によって容易にあ たかも自分がそこにあるように、それをなしているように思わせる。それはあくまでお話である とした客観的な態度でなくしてそれに投入してしまう態度である。これは鑑賞的態度とも異なっ て幼児独得のものといってよい。とにかく視聴覚的方法はその強さの故に幼児をしてそのとりこ
にし受動的にする危険は多分にあることも事実であって、それはその使用における教師の指導、
心構え如何ということになってくる。
侍)教材の刺戟の強すぎることについて。 視聴覚教材は刺戟が強すざる から教育的でない。故に紙芝居やスライドも平生はみせないという論がある。刺戟が強すぎる教 材があることは事実であるが、それは比較的短かい時間にまとまった内容を一般的な対象に訴え ようとする為である。多くの者が、誰が視聴してもそれから興味と注意を離さないように工夫し なければならないからである。刺戟が強いとは過度に色彩、形、音楽等で以て感覚に訴えること であると言えるが、特にスライドや映画がそうである。暗室にすることでそれだけで幼児の精神 を緊張させ陳でも画面に集中させるからである。しかし暗室でやってこそ独得の美しさも表現で きるのである。もちろん適度の刺戦は避けなければならないが映写的な教材も見るに馴れて楽し めるようにすることは現代生活の必要事でもあり、幼児においてもそれが出来ることはそれだけ 経験を豊かにするものであり、文化の恩恵を受けることになる。(映画をみてその風景、動植物 の美しさに感銘するだけでもよい)一面、それに馴れて一層刺戦の強いものを求める弊害に陥っ ても困るが、こ上でも要はその作品と指導によると言わなければならない。その他放送教材(ラ ジオ、テレビ)においても前述のように、その魔力に幼児だけにかえって容易にとりつかれてし まうことになるわけであるが、それに対して唯恐れをなして遠ざけるというよりかほ、むしろそ れを積極的に利用できるものは利用していく態度で望むことが必要であって(それでこそ進歩が ある)幼児にあっても同様である。幼児といえどもこれらのマス・コミの中にあって(環境)日 々その影響を受けて暮しており、それから逃れることが出来ないのである。たゞしその指導につ いては家庭を大いに啓蒙しなければならないことは言うまでもない。
5,視聴覚的方法の限界
前述してきたところからも視聴覚的方法の限界にふれてきており、以下多少重複するところも あるが、第一にその機能としての科学性及び芸術性は学校教育においてはいよいよ高度に適用発 揮されなくてはならないが、保育においては科学性の適用は充分出来ないということ、そこに保 育における限界がある。幼児がお話を好むことによって視聴覚的方法はその為に秀れた内容と構 成によってその芸術性を発揮することが出来た。幼児はそれを楽しんで視聴している。これは学 習的な理解態度と異なる。知的な学習においては主観的から客観的になっていくことが必要であ ってその過程を合理的に推理判断していかねばならない。ところが幼児においては随時飛躍がな され現実と空想、主観と客観の混同が平気でなされている。このことが科学性の適用を妨げてい るのであって、この科学への道がいかに打破されていくか問題であるが経験と学習の発達によら ねばならない。
次に教師及び子供についての問題のところでふれたが視聴覚的方法は子供の実践そのものにと って代ることはもちろん出来ないし、教師についても一時はその役を務めてもまだ全的にとって 代るのでほない。子供によって視聴せられるものであり、教師によって導入指導されるものであ ることである。
子供がお話を視聴している時はあたかもその世界にあるように、あたかも自分がそれをなして いるようになっているけれども、それはあくまでそういう世界においてであって現実の経験では ない。それだけに経験の甘さがあるとも言える。が笑は現実に経験できないようなことがその世 界で果されているのであってせれほ又子供の強い欲求満足でもあり、お話的なものの功徳の一つ
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でもある。故に視聴覚的方法によって現実の経験の代用と考える時には経験の質が違うから問題 であるが、そのような経験を与えることが必要であると考える時にはむしろそれで望ましいもの になるのである。
次に教師の問題として紙芝居、スライドから映画、テレビに至るほど段々教師がその正面的地 位から退くことを述べたが確かに利用中においては教師は視聴覚的方法によってその地位をとっ て代られている。しかしそれは教師の全体的な計画、指導の中で働いているということであって 視聴覚的方法の自動的な働きではない。これは子供自身が自作自演の場合においても同様である。
教師という要(カナメ)がなければばらばらになってしまうのであって学習は個々の自由学習と いうことになる。そのような学習形態も社会教育においては普通にあることであるが、学校教育 において教師の地位を考える時、子供のそれに対する態度は主観的から客観的、批判的へと進ん でいかなければならないが、そのようにする教師の指導をゆるがせにすることは出来ない。視聴 覚的方法がそれをなすことは難しい。何故なら視聴覚的方法は秀れた内容を提供することに主眼
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がおかれており、もちろんその附随学習ということも考えられるが、それがどのように用いられ るかは教師に委ねられた形で提供されているのであって向うから勝手に呼びかけてくるわけには いかない。たゞしそれは前述したように視聴覚的方法の特質を生かして教師の代用というよりか ほ教師の為し難い或はその欠陥を是正するような機能を発揮するものとしてである。古い教師中 心、主義の中に入れられるのでなくして新しい教師の機能を開拓する為のものである。その意味に
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おいて用いられるのであって視聴覚的方法は旧来の方法を圧迫排除するものではない。苦からの 言語的方法や経験的方法は今日においてもやはり重要な不可欠のものである。唯従来においては 歴史的にみても分るようにやゝもすれば一つの方法に偏してきたのが実情であって(主知主義や 経験主義の教育の流行をみても分る。)古い方法を打破する為には新しい方法が強調されねばな らなかったことは当然にしても角を矯めて牛を殺すことになってほならない。視聴覚的方法が近 代以来の自然に従う教育や直観教授からの伝統を持っているとはいえ、今日の新しい方法は現代 社会、科学の発達に由来するものであって昔日同様に論ずることは出来ない。今日及び将来にか けてふさわしい方法として確立されねばならない。
〔註〕
(1)波多野完治、心理学と教育、1956.PP.203−221、こゝでは幼児の視聴覚方法について幼児におけ る認識移行の問題が論ぜられている。
佗〕Edgar Dale,Audio−VisualMethodsin Teaching,1955.PP.27−28
(3)Jean Piage,臨床児童心理学1 ̄ 児童の自己中心性(大伴茂訳)1955.自己中心性については議 論のあるところである。山下俊郎、改訂幼児心理学、1956,
匝)上野辰美、幼稚園における視聴覚教育、第三回視聴覚教育研究協議会記銀、1956.P.165 こゝ では幼稚園の近代化とか幼児の認識のレディネスについて問恩にされている。
(5)富田竹三郎、直観と視聴覚的方法、第三回視聴覚教育研究協議会記録、P.157
(6)James S.Kinder,AudiopvisualMaterials and Techniques,1950.PP.61−62
(7)荘司雅子、幼児教育学、1955.PP.32.92.
(8)斎藤伊都夫、近代的視聴覚教材の特質とその問題点、岡山大学教育学部研究集録第5号、1957.P・25
(9)Edgar Dale,Op・Cit・,PP・34=−37
囲 斎藤伊都夫、同上書、P.28.
の 関野義雄、映画と教育、視聴覚教育、1957・8月号、P.16.
個 諸井三郎、音楽教育、岩波講座、教育 第5巻、1952.P.299.
的)Leo Bogart,The Age of Television,1956.PP.26.32.
(14)西本三十二、シリーズ放送と継続学習、第一回放送教育研究協議会 記録、1955.P.25.
(15)日本放送教育協会、放送教育、1958.10.11.12月号、こゝではテレビ教師論について論じられてい る。 〔昭和三十三年十月三十日受理〕