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レ ッ シ ン グ と シ ェ リ ン グ に お け る 自 然 的 宗 教 に つ い て

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(1)

レッシングとシェリングにおける自然的宗教について

諸    岡    道

比 古

  世界にはキリスト教以外にもそれに匹敵する多種多様な宗教が存在する︑という事実は︑大航海時代等︑地理的視野の拡大をもたらした時代を経ることにより︑ヨーロッパの人々に知られるところとなった︒彼らはまた宗教改革を経験し︑宗教の判断基準は一つではない︑ということを理解していたことにより︑彼らの間には︑彼らの伝統や教会制度等々︑一切の権威から解放され︑自由に︑多種多様な宗教が宗教と呼ばれるその理由︑それらの宗教を宗教たらしめるもの︑つまり宗教の本質を探究しよう︑という機運が生じ始めた︒教祖・教典・教団組織等は言うまでもなく︑祭式や衣服立ち振る舞いに到るまで相異なる宗教諸現象から宗教の本質を抽出しよう︑というこうした思潮は︑﹁宗教という現象を合理的に理解しようとする宗教学的努力

言い換えれば︑﹁宗教の諸形式や諸表象の世界には類似なものが

die na türl ich e R elig ion

﹁自然的宗教﹂を探究する運動ともなった︒(2)﹂に結実するとともに︑(1) 存在するし︑またその類似なものを把握することが重要なこと

のなかにある︑という・・・合理的な宗教研究 であり︑﹁諸現象の本質は諸現象が互いに共通に持っているもの ﹂(3)

究する学派や立場によっても異なるものである 教諸現象から抽象され導き出された宗教にほかならず︑宗教を研 あって︑現実的に存在する宗教ではない︒それは︑あくまでも宗 自然的宗教は哲学者や宗教研究者によって考え出された宗教で 言うまでもない︒自然発生的に成長する自然宗教とは対照的に︑

die N atu rre lig ion

生え的ないわゆる﹁自然宗教﹂と異なることは 宗教たらしめる﹁自然的宗教﹂は︑山川草木などを神と崇める地 てきたものが︑自然的宗教である︒諸宗教の根底にあり︑宗教を ﹂から産み出され(4)

(5)

  本論はこのような思潮に属する哲学者としてレッシングとシェリングとを取り上げることにする︒レッシングは︑ヴィンデルバントが述べるように︑﹁ドイツ観念論の父であり︑歴史の運動の

(2)

なかに神の意に基づく完成への計画的努力を見る歴史的世界観

の哲学﹄や﹃啓示の哲学﹄を講義していた時代のシェリング を確立した人物である︒それに対し︑シェリングは︑特に﹃神話 ﹂(6)

ドイツ観念論の完成者と評されている哲学者である は︑(7)

という視点から解明することにする︒ 思想を比較検討することによって︑彼らの宗教思想を自然的宗教 レッシングとシェリング︑彼らが懐いている自然的宗教に関する 論の系譜に連なる最初期の人物とその最晩期に属する人物である ︒ドイツ観念(8)

      一

  シェリングは﹃啓示の哲学

13 -19 4

出来うる限り合理化すること﹂︵︶が当然のこととされた︒ 宗教の歴史的内容を排除することによって︑啓示に基づく宗教を

13 -19 4

ものすべてが剥奪されること﹂︵︶︑つまり﹁啓示に基づく

13 -19 4

言い回し﹂︵︶と見なされ︑﹁理性宗教との相違を構成する しかも﹁啓示に基づく宗教に固有なものすべてが︑・・・単なる 教である合理的な理性宗教と啓示に基づく宗教とに分類された︒ を宗教の源泉として持つ︒そこで宗教一般は︑いわゆる自然的宗

13 -19 0

二つの源泉だけ︑つまり理性あるいは啓示のいずれか﹂︵︶

13 -19 0

宗教と理解﹂︵︶されていた︒その場合︑人間は﹁宗教の の産物である限りでの宗教と理解・・・︑一言で言えば︑合理的 的宗教ということで︑・・・単なる理性や学問の︑あるいは哲学

die na türl ich e R elig ion

然的宗教が対比され・・・︑その際︑自然

die ge off enb arte R elig ion

によれば︑従来﹁啓示に基づく宗教に自 提示する︒そのために︑彼は従来の宗教分類に言及している︒彼 ﹄において宗教の新しい分類方法を(9) 先駆けとなった人物がレッシングである 宗教を合理化する従来の思潮に対し︑ドイツにおいて異を唱える えられていたのである︒宗教をこのように二つに分類し︑その上︑ 啓示に基づく宗教は合理化され理性宗教化されるべきもの︑と考

﹃賢者ナータン 思想を検討するには︑彼の考えが明確に示されている晩年の著作 ︒そのレッシングの宗教(10)

﹄や﹃人類の教育(11)

と思われる︒ ﹄を取り上げるのが最適である(12)

  レッシングは﹃賢者ナータン﹄において︑ユダヤ教︑キリスト教そしてイスラームのうち︑いずれの宗教が真の宗教であるか︑と尋ねる場面︵第三幕五場

で︑ナータンには不利に働く ために仕組んだ策略である︒どの宗教を真の宗教と答えたところ   ンサラディンが富裕なユダヤ商人ナータンから金を巻き上げる ドラマの構成上では︑この問いは︑国庫の資金が不足したスルタ

l.3 29 -33 6

してくれ﹂︵第三幕五場︶︑と問いかけたことに始まる︒ ・・・よりよいものを選んだ結果であろう︒・・・その理由を聞か ついた場所に留まってはいないだろう︒もしそうだとしても︑ であり得るのは一つのみだ︒あなたほどの人が︑たまたま生まれ ダヤ教徒であるナータンに﹁これら三つの宗教のうち︑真の宗教 ルタンでありムスリム︵イスラム教徒︶であるサラディンが︑ユ -七場︶を設定している︒それは︑ス

宗教に関するレッシングの考え方を明瞭に示すところとなる︒ けに答えようとする︒ところが︑この三つの指輪の話は図らずも に︑ナータンは三つの指輪の話を持ち出し︑サラディンの問いか ︒そこで︑その策略にのらないため(13)

  三つの指輪の話とは︑以下のようなものである︵第三幕七場︶︒大昔のことであるが︑東方の国に︑親愛なる方から値踏みも出来

(3)

ぬほどの指輪を貰った男がいた︒その指輪は秘密の力を備えており︑嵌めている者をして︑その人を﹁神と人間とに愛される者にする

vo r G ott un d M ens che n a ng ene hm zu m ach en

﹂︵

l.3 99 -40 0

︶︒また︑その指輪は最愛の息子に譲り渡され︑その指輪の力により︑その息子を﹁家の長

der Fü rst des H aus es

﹂︵

l.4 11

︶にするものでもあった︒父子相伝されたその指輪は三人の息子を持つある男に伝えられ︑その息子達のいずれかに相伝されるはずであった︒ところが︑人のいい気の弱さから︑この男は三人の息子すべてにこの指輪を譲る約束をしてしまい︑死期が迫ったとき︑どうしたものかと困惑し︑取り急ぎ︑金に糸目をつけることなく精巧な模造品を細工師に二つ作らせた︒それら三つの指輪はどれが本物であるか︑まったく識別ができないほどの出来映えで︑その男すら︑もとの指輪がどれであるか︑まったくわからなかった︒指輪を貰った息子達は︑その男の死後︑自分たちこそ家の長である︑と言い合い︑裁判をする羽目に陥った︒裁判官は三人を前にし︑誰が最も愛されているかを言いなさい︑と言ったが︑誰も答えなかった︒そこで裁判官は彼らに︑﹁自分の指輪に付いている宝石の力を現すように励み合いなさい︒・・・柔和な気持ち︑心からの協調性︑善行

W oh ltu n

︑神へのひたむきな帰依をもって︑・・・﹂︵

l.5 27 - 53 1

︶︑と忠告する︒さらに︑﹁宝石の力がおまえ達の子供の子孫において現れたならば︑数千年後のその時に︑再びおまえ達を召喚しよう﹂︵

l.5 32 -53 5

︶︑と述べ︑その時には︑より賢明な裁判官がこの席に座って︑退廷して良い︑と判決を下すであろう︑と語った話である︒これが三つの宗教のうち︑どれが真の宗教であるか︑に対するナータンの答えである︒言い換えるならば︑最初 一つであった宗教が︑その後三つの宗教となり︑それらのうちで︑真の宗教であろうとした宗教は︑数千年後に︑真の宗教であることが証明されるであろう︑という話である︒しかも︑指輪はそれを嵌めていればよいのではなく︑それ相応の努力をした後に初めて︑本物であることが証明されるように︑各々の宗教においても信者はただ信心ぶっていればよい︑というものではない︒これに関しては︑第一幕第二場でナータンが娘に対して語ることが参考になる︒それによれば︑天使に感謝したり祈ったり施しをしたり断食したりすることは出来るが︑それらはすべて虚しいこと

All es n ich ts

であり︑それらによって天使の栄光が増したり天使が金持ちになったり太ったりはしない︵

l.3 08 -31 7

︶︒また︑﹁善き行動をすること

Gu t h and eln

より︑信心深く夢想することはずっと簡単なことである・・・︒ただ善き行動をしなくてもいい様に︑・・・最も怠惰な人間は好んで信心深く夢想する﹂︵

l.3 59 -36 4

︶が︑﹁神は善に報いる︒この世でなされたことは︑またこの世で報われる﹂︵

l.3 58 -35 9

︶︑と︒ナータンが語るように︑ひたむきな神への帰依を装うような信心ではなく︑善行を︑善き行動を伴う信心が真の宗教であることに必要となる︒

  このようなナータンの答えはサラディンの策略を巧みにかわしたが︑その一方で︑レッシングの宗教思想には︑以下の点があることを明らかにした︒それらは︑宗教現象にはある目的を持った歴史的展開があることと目的達成には善き行動が必要であることとである

も︑同様な見方から︑一層明確に宗教について論じている︒ ︒﹃賢者ナータン﹄と同時期の著作である﹃人類の教育﹄(14)

(4)

      二

  レッシングは﹃人類の教育﹄の﹁編集者の序﹂において︑﹁すべての積極的宗教

alle po siti ven R elig ion en

のなかに︑あらゆる土地に住む人間悟性がひとえに︿それに沿って展開しうる道程

Ga ng

︑さらに一層それに沿って発展するであろう道程﹀を探知しよう﹂と述べることにより︑積極的宗教

類においては啓示である﹂︵§ る︒レッシングによれば︑﹁個々人の教育に当たるものが︑全人 る︒その方法は︑啓示を教育との関連で捉えることによってであ の意義を認めようとす(15)

人間に与えない﹂︵§ が自分自身のうちからは手に入れることの出来ないものを何も︑

1

︶︒しかも︑この﹁教育は︑人間

により容易に与える﹂︵§

4

︶︒教育はただ︑﹁人間にそれをより迅速

︵§ は思い至らないであろう何ものをも︑人類に与えはしない﹂ それ故︑レッシングによれば︑﹁啓示も︑人間理性が自分自身で

4

︶ことが出来るにすぎない︑とする︒

ならない︒ り迅速により容易に﹂手に入れることが出来る︑ということに他 れを獲得するよりも︑それが啓示されることにより︑人類は﹁よ 啓示は与える︑ということになる︒しかも︑理性自身が自らでそ

4

︶︒言い換えるならば︑理性が自らで獲得しうるもののみを︑

  このように︑教育と啓示との関係を考えるレッシングは︑教育という観点から人類の歴史を振り返る︒﹁最初の人間がただちに唯一神の概念を賦与されていたとしても︑しかしながら︑獲得されたのではなくて伝達されたこの概念は︑長い間その純粋性を保つことが出来なかった﹂︵§

史を振り返る︒自分自身のうちからのみ真理を手に入れることが

6

︶︑ということからレッシングは歴 ﹁各々の部分に名称﹂︵§ を加え始めるや否や︑自身で理解できるものに解体し︑その 出来る人間理性は︑未だ未発達であったため︑唯一神の概念に手

とく︑多神教や偶像崇拝﹂︵§

6

︶をつけることによって︑﹁当然のご

と考えた︵§ すために︑神は人間理性に一撃を与え︑よりよい方向へ進まそう 多神教や偶像崇拝に陥った人類を再び唯一神という考えへ引き戻

7

︶を生じさせることとなった︒

特別な教育を施すためにある一つの民族を選び﹂︵§ もはや出来なかったし︑そうすることを望みもしなかったので︑

7

︶︒そこで︑﹁神は個々人に自らを啓示することが

︵§ られ︑そのため自分たちの神すら分からなくなってしまっていた た奴隷である彼らは︑エジプト人から礼拝に関与することを禁じ 隷生活を送っていたイスラエル民族に他ならない︒蔑視されてい 一から出直すことにした︒その民族こそ︑エジプト人のもとで奴

8

︶だし︑

彼らに自らが唯一神であることを教え︵§ を脱出させたり︑カナンの地へ導いたりする等々の奇跡を通じて︑

9

︶︒神はまず彼らの祖先の神として現れ︑エジプトから彼ら

念に慣れさせた︵§

12

︶︑唯一神という概

思惟に未熟﹂︵§

13

︶︒このとき﹁たいそう粗野で︑抽象的な

た教育は︑﹁感覚に直接訴える罰と報い﹂︵§

16

︶であったイスラエル民族が啓示により受け

ている︑というものであった︵§ 世で幸せを希望できるか否かは︑律法を遵守したかどうかに係っ

16

︶であって︑この

Le ben

﹇来世﹈﹂︵§

die U nste rbli chk eit der Se ele da s k ün ftig e

の不死﹂や﹁将来の生 た教育を受けたにすぎない︒そのため︑彼らはより高尚な﹁霊魂

17

︶︒彼らは悟性の発達程度にあっ

た︒しかし︑これらの教育によって悟性がある程度発達すると︑

17

︶に関する啓示や概念を持つことはなかっ

(5)

彼らは自らの唯一神を︑自分たちより繁栄している他の民族の神々と比較し︑自らに利益を与えてくれそうなバール神など他の民族の神を次第に信じるようになり︑自らの神を見捨てるところとなった︵§

せ︵§ ア人によって彼らをバビロンへ連行させることで自らの地を去ら

35

︶︒そこで︑神は彼らを囚われの身とし︑ペルシ

中︑彼らは︑﹁理性の光の下で自らの道を歩んでいた﹂︵§

19

︶︑次の教育を受けさせることにする︒バビロン捕囚期間

と対比﹂︵§ ルシア人から︑自らの唯一神を﹁あらゆる存在者のなかの存在者

20

︶ペ

を読み解いた﹂︵§

35

︶することを学び︑﹁理性が突然以前の啓示の意味

のうちで最も偉大な神ではなく︑神﹇そのもの﹈﹂︵§

36

︶︒そして自らの神を﹁あらゆる民族の神々

み嫌い﹂︵§ するとともに︑﹁この神についての感覚的表象すべてを極めて忌

39

︶と認識

とを確認し︑初等教科書である旧約聖書を手放すこととなる︵§ 族は︑旧約聖書のなかにも神について同じことが記されているこ

39

︶始めた︒そののち︑帰郷を許されたイスラエル民

38

︶︒

  旧約聖書を手放す際︑イスラエル民族が道徳的行為

die m ora lisc hen Ha nd lun gen

をするために必要としていた﹁この世での報いと罰より︑一層高尚で一層価値のある動因﹂︵§

ほかならない︵§ 師であって︑レッシングにとっては︑新約聖書でありキリストに 必要とされた︒それを教えるものが新しい教科書であり新しい教

55

︶が彼らにとって

れるべき真実の生﹂︵§

64

︶︒キリストは︑﹁この世の生のあとに予期さ

自らが復活することにおいて﹁霊魂の不死﹂を教えた︵§

57

︶にこの世での行為が影響することや︑

人が行為するにしても︑従来のように︑行われた行為を外面的に しかしながら︑その教えは︑真実の生や霊魂の不死を前提にして

58

︶︒ 性﹂︵§ 見てその善し悪しを問題にするのではなく︑﹁心胸の内的な純粋

があの﹇真実の﹈生においても罰せられる﹂︵§

61

︶を問題にするものであった︒外面的に﹁悪しき行為

は︑旧約聖書ではまったく説かれていなかったものの︵§

61

︶︑ということ

書﹂︵§ リストの﹁これらの教えを少し後になって纏めたものが新約聖 内面性を問題にするところにキリストの教えの斬新性がある︒キ 多くの民族ではキリスト以前から信じられているところであり︑

22

︶︑

︵§ にせよ︑他のいかなる書物にもまして人間悟性を啓蒙してきた﹂ ・・・人間悟性自身が新約聖書のなかへ持ち込んだ光にすぎない

64

︶であり︑その後﹁一七○○年もの間︑新約聖書は︑

︵§ ての教えを学ぶために︑新約聖書すら徐々にいらなくなっている ために︑旧約聖書を必要としないように︑﹁霊魂の不死﹂につい

65

︶︑とレッシングは述べる︒そして今や︑神の唯一性を知る

真理に結びつけることを覚えた﹂︵§ が他の確実な真理から導き出し︑その﹇見つけ出された﹈確実な

72

︶︑とする︒というのも︑人類はこのような真理を︑﹁理性

と﹂︵§ 直接的に啓示された真理として︑しばらくの間教えられていたこ ・・・理性真理をより迅速に広め︑より強固に基礎づけるために︑ ば︑﹁神が単に理性真理に他ならないものを直接に啓示すること︑

72

︶からである︒逆に言え

と﹂︵§ とするならば︑啓示されたその真理を理性真理へと完成するこ い換えれば︑﹁人類にとって啓示された真理が役立つべきである 教育され︑悟性を啓蒙されてきた人類に残されていることは︑言

70

︶があるからにほかならない︒このように啓示により

は確実にやって来るであろう︒・・・そのときには︑人間は︑善

76

︶である︒この﹁完成の時は来るであろう︒完成の時

(6)

を為すことで恣意的な﹇自分に都合の良い﹈報いがあてがわれるからではなく︑善であるが故に︑善を為すであろう﹂︵§

レッシングは語る

85

︶︑と

る途上﹂︵§ に﹂到達し︑今や理性自らの力によって﹁人類がその完全性へ到 理性が獲得することの出来る理性真理に﹁より迅速により容易 やキリスト教︑言うなれば︑﹁積極的宗教﹂を介して︑人類は︑ ︒要するに︑啓示に基づく宗教であるユダヤ教(16)

93

︶にいる︑とレッシングは言うのである︒

  ﹃人類の教育﹄におけるこのような考え方は︑﹃賢者ナータン﹄におけるそれと符合するものである︒﹃賢者ナータン﹄において明らかとなった宗教現象には歴史的展開がある︑という点は︑唯一神という概念が理性にまず与えられていたにもかかわらず︑その展開が上手くいかず︑多神教や偶像崇拝などを生み出したため︑神が人類を再度教育し直すために︑啓示に基づく宗教が人類に与えられ︑人類は理性真理を啓示された真理として迅速かつ容易に獲得した︒このような教育に応じて︑人間悟性や理性も成長し︑今や旧約聖書は言うに及ばす︑新約聖書をも必要としなくなり︑人類は自らの理性による人間完成の途上にある︑という主張のなかに見ることが出来る︒しかも宗教現象の歴史的展開はその目標を人類の完成に置いている︑と言うことが出来る︒また︑為すべき行為も﹁心胸の内的な純粋性﹂︵§

なく︑善であるが故に︑善を為すことが目標達成には必要である︒ る︑というものではない︒ひたむきな神への帰依を装うことでは り︑律法を遵守すれば︑この世での幸せや来世での幸せが得られ

61

︶を問題にするものであ

  このように︑﹃人類の教育﹄と﹃賢者ナータン﹄とにおける宗教思想は一貫し類似している︒この宗教思想で説かれる宗教現象 の歴史的展開は歴史的宗教であるユダヤ教︑キリスト教そしてイスラームを︑特に前二者を対象にしたものであり︑展開の始まりやその行く末での宗教についての言及は曖昧なものである︒また何をもってキリスト教とするかも不明瞭である︒レッシングの語るところに耳を傾けるために︑﹃理性のキリスト教

づく宗教の成立 ﹄︑﹃啓示に基(17)

﹄や﹃キリストの宗教(18)

﹄に目を転じることにする︒(19)

      三

  ﹃賢者ナータン﹄︑﹃人類の教育﹄や﹃キリストの宗教﹄はレッシング晩年の著作であるが︑﹃理性のキリスト教﹄や﹃啓示に基づく宗教の成立について﹄は成立年代ははっきりしないものの︑青年期に属するものである︒﹃啓示に基づく宗教の成立について﹄は︑﹃人類の教育﹄との関係において︑宗教現象の歴史的展開や自然的宗教に関する極めて興味深い示唆を与える︒﹃啓示に基づく宗教の成立について﹄冒頭でレッシングは︑﹁ひとりの神を認識すること︑この神についての最も価値ある概念を自らに与えようとすること︑私たちのあらゆる行為や思想においてこの最も価値ある概念を考慮することが︑自然的宗教すべての最も完全な総括概念﹇神髄﹈

der vo llst änd igs te I nb egr iff

である﹂︵§

の自然的宗教へと向けられ結びつけられている﹂︵§ べる︒続いて﹁あらゆる人間は︑自らの能力の程度に応じて︑こ

1

︶︑と述

間の自然的宗教も異なっているであろう﹂︵§ らゆる人間においてその程度が異なり︑したがって︑あらゆる人

2

︶が︑﹁あ

のは好ましくない︑と考えられ︑この自然的宗教を人々にとって の程度の差があるが故に︑人々の生活状態において不利益が出る

3

︶︑と語る︒能力

(7)

共通なものにするのは善いこと︑とされた︵§

‒ 3

§

が用いる﹈ある種の慣習的な事柄や諸概念に付与し﹂︵§

Re lig ion s-W arh hei ten

が自身自らで持つ重要性や必然性を︑﹇人々

die na ürli ch erk ann ten

で﹁宗教の自然的に認識された諸真理

4

︶︒そこ

た﹂︵§ ゆる人間のもとで普遍的に等しい作用を与えることが出来なかっ 通なものにしようとしたが︑しかしながら︑自然的宗教は﹁あら

4

︶︑共

︵§

Re lig ion de r N atu r

から積極的宗教をたてねばならなかった﹂

die

を解消するために︑人類は﹁自然﹇人間本性﹈の宗教

5

︶︒そこで︑普遍的に等しい作用を人々に与え︑不利益

とって自然的宗教を実現するために﹁必要不可欠なもの﹂︵§

5

︶︑とレッシングは語る︒この意味で︑積極的宗教は人類に

状態に応じて変更され﹂︵§ て︑自然的宗教があらゆる国家においてその国家の自然的偶然的 なもの﹂というわけではない︒というのも︑﹁積極的宗教によっ であるが︑だからといって︑積極的宗教が全面的に﹁必要不可欠

7

とともに︑同じように偽なるものである﹂︵§ ゆる積極的で啓示に基づく諸宗教は同じように真なるものである た積極的宗教という形態を取るからである︒したがって︑﹁あら

7

︶︑自然的宗教はその状態に見合っ

﹁積極的宗教の内在的真理﹂︵§ のであり必要とは言えない︒言い換えるならば︑自然的宗教が ある面では真なるものであり必要であるが︑他の面では偽なるも

8

︶︒積極的宗教は

いては﹁どの積極的宗教においても同じ﹂︵§

7

︶として含まれ︑その部分にお

自然的宗教に最小限の慣習的な付加物を伴ったものであり︑自然 て︑﹁最善の︿啓示に基づく宗教﹀すなわち最善の積極的宗教は︑ 限りで︑真なるもので不可欠なものであるからである︒したがっ

7

︶であり︑その 的宗教の善き諸作用を最も制限しないものである﹂︵§

うことになる︒

10

︶︑とい

  このように︑レッシングは﹃啓示に基づく宗教の成立について﹄において啓示に基づく宗教に関して語っている︒彼の言う﹁啓示に基づく宗教﹂である﹁積極的宗教﹂は︑自然的宗教を実現するために︑﹁自然﹇人間本性﹈の宗教﹂つまり自然的宗教から必要に応じて作り出されたものである︒しかも︑人類の状況に合わせて︑多様に作り出された積極的宗教は︑できうる限り慣習的な付加物を伴わず︑自然的宗教に近いものが望ましい︑とされている︒逆に言えば︑自然的宗教が自らを実現できれば︑積極的宗教は必要がなかったのである︒しかし︑積極的宗教は現に存在している︒その積極的宗教は︑自然的宗教が国家の自然的偶然的状態に応じてユダヤ教やキリスト教等々という形態を纏ったものであり︑積極的宗教から偽なるものである覆いを取り去れば︑自然的宗教が導き出せることにもなる︒この点において︑レッシングは宗教現象を合理化しようとする啓蒙主義的な宗教研究の思潮に属していると言える︒しかし︑自然的宗教から積極的宗教を展開させ︑積極的宗教を媒介にして自然的宗教を実現しようという点において︑言い換えれば︑歴史的宗教の歴史的内容物を捨象し合理的宗教を獲得しようとするのではなく︑歴史的宗教をある面で承認し︑それらの歴史的宗教により自然的宗教を実現しようとする点に︑啓蒙主義的な宗教研究を凌駕し︑現に存在している宗教を承認する視点を見て取ることが出来る︒

  宗教学的な視点の問題は別として︑﹃啓示に基づく宗教の成立について﹄で語られる自然的宗教と積極的宗教についての関係を

(8)

﹃賢者ナータン﹄や﹃人類の教育﹄で展開された宗教思想に当てはめてみると︑両者に違和感が生じないばかりか︑むしろ宗教現象の歴史的展開を一層解明するものとなる︒﹃人類の教育﹄において︑唯一神の概念が最初の人間の理性に賦与されていたが︑その展開に失敗し︑多神教や偶像崇拝が生じた︑と述べられていた︒これは﹃啓示に基づく宗教の成立について﹄で展開された自然的宗教に関する考え方に対応するものである︒というのは︑

また するとともに︑その概念を思想や行為に反映させることにあり︑ 的宗教の神髄は︑ひとりの神を認識し︑その概念を形成しようと 1)自然

宗教へと向けられ結びつけられていることからである︒さらに 2)あらゆる人間は︑自らの能力の程度に応じて︑この自然的

3)

自然的宗教は人間本性の宗教であるとともに︑宗教の自然的に認識された諸真理を提示するものであるからでもある︒このような自然的宗教は︑﹃人類の教育﹄において最初の人間に賦与されていた唯一神の概念を持った理性が生み出す宗教と考えることが出来る︒というよりは︑むしろ︑最初の人間に賦与され︑程度の差はあれ︑あらゆる人間に賦与されているものが人間本性の宗教である自然的宗教であって︑この宗教が唯一神の概念を持っていた︑と言うことの方が適切であるように思える︒

  このように考えると︑﹃人類の教育﹄において述べられた宗教現象の歴史的展開は︑以下のように述べることが出来る︒人類には自然的宗教が賦与されていたが︑その自然的宗教を人類は展開し実現することが出来ず︑多神教や偶像崇拝等を生み出すとともに︑積極的宗教であるユダヤ教︑キリスト教︑イスラームといった唯一神を信仰する啓示に基づく宗教を生み出すこととなった︒ これらの積極的宗教を人類は信仰し︑これら積極的宗教の信仰を通して人類は教育され︑今や啓示によって示された真理を理性真理へ転換しながら︑人間完成の途を歩み︑いずれの日にか︑自然的宗教を実現する途上に立っている︑と︒﹃賢者ナータン﹄における宗教現象の歴史的展開に沿って言うならば︑最初一つの宗教が存在していたが︑それから三つの宗教が作り出され︑それらのうち︑真なる宗教であろうと努力したものが︑いずれ︑真の宗教として明らかとなる︑ということであるが︑それは︑人間には最初に自然的宗教が与えられていたが︑その神髄を実現することができなかったため︑自然的宗教からユダヤ教︑キリスト教︑イスラームという三つの宗教が生じることになり︑いずれ︑それらのうちから真の宗教が現れ出てくることになるであろう︑と言い換えることができる︒この場合の真の宗教とは︑レッシングにとって︑キリスト教であるのだろうか︑それとも自然的宗教であるのであろうか︒

  レッシングは最晩年の著作である﹃キリストの宗教﹄において︑﹁キリストの宗教

die R elig ion C hris ti

とキリスト教

die ch rist lich e Re lig ion

とは二つのまったく異なった事柄﹂︵§

ある﹂︵§ 教であって︑あらゆる人間がキリストとともに共有しうる宗教で リストの宗教は﹁人間としてのキリストが自ら認識し実践した宗

2

︶であり︑キ

ある﹂︵§ してその崇拝の対象にすること﹀︑を真なるものと見なす宗教で 間以上のものであったこと﹀︑︿キリスト自身をそのようなものと

3

︶︑と述べる︒一方のキリスト教は︑﹁︿キリストが人

なかに見いだすことは難しいし︑福音書のなかですら︑両者は

4

︶︒これら二つの宗教の教説や原則をある同じ書物の

(9)

まったく別なものとして保持されている︑とレッシングは語り︵§

はっきりとした言葉で保持されている﹂︵§

6

︶︑﹁キリストの宗教は福音書のなかに最も明瞭な極めて

げることは難しい﹂︵§ 人間が︿同じ考えが表明されているとする箇所﹀を一箇所でもあ は﹁不確かで多義的な言葉で保持されているので︑・・・二人の

7

︶が︑キリスト教

レッシングは︑彼が神学的論争期の著作である﹃編集者の抗弁 教を否定している︑といってよいかもしれない︒というのも︑ 音書のなかにキリストの宗教は認めるものの︑いわゆるキリスト

8

︶としている︒するとレッシングは福

が経過していた 時間が経過していた︒正典全体が成立する以前に非常に長い時間 が存在していた︒彼らのうちの最初の者が書いた以前にかなりの

das C hris ten tum

書記者たちや使徒たちが書いた以前にキリスト教 ・・・︒また︑聖書が存在する以前に宗教が存在していた︒福音 ・・・聖書は宗教に属するもの以上のものを明らかに含んでいる で﹁文字は精神﹇霊﹈ではない︒しかも聖書は宗教ではない︒ ﹄(20)

ホルト・エフライム・レッシングの必要な答え ルクの主席牧師ゲッツェ氏の非常に不必要な問いに対するゴット いとし︑否定しているからである︒このことに関しては︑﹃ハンブ のよりどころとしているキリスト教をキリストの説く宗教ではな ﹂︑と述べるように︑聖書に範をおき︑聖書を信仰(21)

Gla ub ens leh re

仰論すべてのこと

Sy m bo li

教教会の最初の四百年の信条のなかに保持されている信

die C hris tlic he Re lig ion

ト教ということで理解するのは︑キリスト ﹄で︑﹁私がキリス(22)

る︒この信仰規範は︑﹁使徒たちが生きていた時代における最初

Re gu la fi dei

父たちのもとで﹁信仰規範﹂と言われていたものであ(24) ﹂であり︑その信仰論とは古代教(23) にとって完全に十分なものと見なしていた

das C hris ten tum

最初の四百年間のキリスト教徒たちも︑キリスト教 のキリスト教徒たちが満足していたばかりでなく︑すぐ次に続く

はそれでない もこの﹁信仰規範はキリストの教会が建てられた礎であり︑聖書 ﹂ものであった︒しか(25)

え クの主席牧師ゲッツェ氏の非常に不必要な問いに対する必要な答 ﹂︑とレッシングが語っている︒また彼は﹃ハンブル(26)

伝承された真理である であり︑﹇正統信仰を持った﹈父祖たちに先祖から子孫に忠実に ﹄において︑この信仰規範は﹁キリストから直接由来する真理(27)

キリスト教は・・・存立しえない

chr istl ich e R elig ion

の唯一の教説の根拠である︒聖書なしには︑

die

﹂︑と述べている︒﹁聖書はキリスト教(28)

のである であるのではなく︑彼らはキリスト教徒であるが故に︑そうする はあるが︑﹁聖書を信じ聖書に信頼をおくが故に︑キリスト教徒 ゲッツェとは異なり︑レッシングは︑カトリック教徒についてで ﹂と語るレッシングの論争相手(29)

das C hris ten tum die R elig ion C hris ti

︑で表された宗教︑レッシング

die C hris tlic he Re lig ion

とは明らかである︒すると︑真の宗教は︑

die ch rist lich e R elig ion

的宗教としてのいわゆるキリスト教でないこ 求められた真の宗教は︑それがキリスト教である場合でも︑歴史 はない︑としている︒このように見てくると︑﹃賢者ナータン﹄で 教とする︒しかも聖書を信じるから︑キリスト教が成立するので 宗教を変質させ成立しているものを歴史的宗教としてのキリスト け︑キリストの宗教に宗教であるその正当性を認め︑キリストの

Ch rist i die ch rist lich e R elig ion

﹂といわゆる﹁キリスト教﹂とを分

die R elig ion

てはまる︒要するに︑レッシングは﹁キリストの宗教 ﹂︑と述べるが︑その文言はレッシングの立場にまさ当(30)

(10)

が考えるキリスト教︑ということになるが︑必ずしも︑そうであるとは言い切れない︒確かにレッシングは彼の考えるキリスト教を真の宗教と考えていたと思われるが︑キリストの宗教は︑﹁キリストが人間として自ら認識し実践した宗教

すなわち最善の積極的宗教 な付加物を伴ったもの﹂であれば︑﹁最善の︿啓示に基づく宗教﹀ るからである︒キリストの宗教が﹁自然的宗教に最小限の慣習的 レッシングが述べていたところの自然的宗教と考えることが出来 彼と共有しうる宗教とされていたことを考えると︑真の宗教は︑ ﹂であり︑誰でもが(31)

﹁積極的宗教の内在的真理 キリスト教そしてイスラームが形成されたが︑それらのうちには れえなかったため︑歴史的な宗教としての三つの宗教︑ユダヤ教︑ どを加味すると︑はじめに自然的宗教があり︑それが展開実現さ ない︒﹃人類の教育﹄や﹃啓示に基づく宗教の成立について﹄な ﹂にすぎず︑もちろん自然的宗教では(32)

態に到るであろう︑とレッシングは考えていたように思われる︒ 最終的に実現され︑人類は善であるが故に善を為す人間完成の状 いずれの日にか︑積極的宗教という形態を拭い去り自然的宗教が ﹂として自然的宗教が含まれており︑(33)

      四

  自然的宗教と積極的宗教の双方にその役割を認め︑啓蒙主義的な宗教研究とはひと味異なるレッシングの宗教理解に対し︑シェリングの宗教理解はどのようなものであろうか︒シェリングは﹁啓示に基づく宗教に自然的宗教を対比﹂︵

13 -19 0

︶し︑宗教の源泉を啓示と理性に求める従来の宗教二分類法に対し︑﹁理性は︑間接的にせよあるいは直接的にせよ︑認識すべての源泉であり︑ 格別宗教的認識の源泉ではない﹂︵

13 -19 0

︶のであるから︑﹁人間自身のなかには理性以外のいかなる宗教の源泉もないならば︑・・・人間には宗教の固有な原理がまったく欠ける﹂︵

13 -19 0

︶ことになるとして︑宗教独自の原理を理性以外のものに求める︒その際︑シェリングは︑啓蒙主義的な合理主義的宗教に反対する同時代人のシュライエルマッハーのような立場は取らない︒シュライエルマッハーは﹃宗教について︱宗教軽蔑者たちのうちの教養ある人々への講演︱

29

対するこの﹁直観と感情が宗教の本質である﹂︵︶とし︑シュ

13 4

化されて﹂︵︶︑その直観が示されているからである︒宇宙に の宗教的集団を形成し︑ユダヤ教︑キリスト教等々として﹁個体 成するからである︒つまり︑同じ直観を持つ人々が集まり︑一つ よって捉えられる捉えられ方に従い︑多種多様な積極的宗教を形 ある︒というのも︑宇宙に対する直観は︑人間それぞれが宇宙に

29

により捉えられ充たされた﹁宇宙に対する直観と感情﹂︵︶が て示しているものであり︑この中にこそ︑人間が宇宙の働きかけ

13 5

豊かな懐から展開したあらゆるもの﹂︵︶を有限な形態におい

13 5

特定の宗教諸現象である﹂︵︶積極的宗教は︑﹁宇宙の永遠に

vo rha nd en

を求めなければならない︑と述べる︒﹁現に存在する

13 5

な憎悪の対象である﹂︵︶積極的宗教の中に︑宗教固有なもの て︑自然的宗教ではなく︑教養ある人々にとって﹁とりわけ格別

13 8

哀れな理念にすぎない﹂︵︶︑と自然的宗教を批判する︒そし

exs itie ren

は決して本来的に存在しえない無規定でみすぼらしい

13 5

来的な輝きを失っている﹂︵︶し︑﹁自然的宗教はそれ自身で され︑哲学的でしかも道徳的な作法を心得ているので︑宗教の本 ﹄で︑﹁自然的宗教は概してたいそう洗練(34)

(11)

ライエルマッハーは感情

考え方を否定する︒ であり︑宗教の固有な原理ではない︑とシュライエルマッハーの

13 -19 0

いもの︑個別的なもの︑曖昧なるものに対する器官﹂︵︶ たが︑シェリングは︑﹁感情は・・・偶然的なもの︑変わりやす うことで︑理性とは異なる宗教固有の原理が与えられたかに見え に宗教の固有な原理を求める︒感情とい(35)

  シェリングは理性でも感情でもないものに︑宗教の固有な原理を求める︒彼は﹁人間のなかにある自然的な宗教的原理︑つまり

nat ura su a

﹇自己の本性によって﹈神を定立する根源的な原理﹂︵

13 -19 1

︶に︑宗教の固有な原理を求める︒言い換えれば︑﹁あらゆる思惟や知以前に︑人間を根源的にいわば神にしっかりと結びつけている︑神を定立するこの自然的原理﹂︵

13 -19 1

︶のみが︑宗教の固有な原理であって︑﹁自然に生み出される宗教︑すなわち神話を説明するものである﹂︵

13 -19 1

︶︑と述べる︒人間の本性に基づき︑自然に生み出される宗教こそ︑シェリングにとって自然的宗教であり︑従来語られてきた合理的宗教としての﹁自然的宗教という概念は︑神話に返還されなければならない﹂︵

13 -18 9

︶とする︒つまり︑以下のようなことである︒人間はあらゆる思惟や知を働かす以前には︑﹁人間のなかにある自然的な宗教的原理﹂︵

13 -19 1

︶によって神と直接的関係を持ち︑神にしっかりと結びつけられていた︒ところが︑﹁私たちすべての中に生き続けているあの一人の人間﹂︵

13 -35 2

︶︑すなわち﹁最初の人間﹂︵

13 -38 2

︶によって︑神とのこの直接的な根源的関係が破棄され︑人間は﹁堕落﹂︵

14 -54

︶することになる︒けれども︑この自然的な宗教的原理は破棄された根源的関係を回復しようとして︑自らの意識 の中に︑修復のための過程を発生させる︒こうして生じたものが神話の宗教にほかならず︑神話の宗教こそ︑自然に生まれた宗教であり︑人間に内在する自然的宗教と呼ぶに相応しいものである︑とシェリングは語るのである︒

  神話の宗教は︑最初の人間が神との根源的関係を破棄することから生じるものであり︑﹁意識の異常な状態﹂︵

13 -18 5

︶である︒しかし︑その修復のための﹁過程は︑人類にとって自然なもの﹂︵

13 -18 6

︶であり︑自然的過程である︒というのも︑病気は人間にとって異常な状態であるが︑その治癒過程は人間にとって自然的過程であり︑その意味で︑意識の異常な状態を修復する過程も自然的過程であるからである︒この神話の過程は﹁宗教的意識の修復﹂︵

13 -18 6

︶であるが︑﹁神﹇であること﹈

Go tth eit

そのものにいかなる関与も転嫁されない﹂︵

13 -18 6

︶自然的過程である︒

  自然に生まれるこの神話の宗教に︑シェリングは啓示に基づく宗教を対比させる︒シェリングによれば︑異邦人の救いに関して使徒パウロが異邦人の宗教︵神話︶とユダヤ教︵啓示︶とを野生のオリーブと栽培されたオリーブになぞらえ︑前者を切り取り後者に接ぎ木すると︑根から豊かな養分を受け取るようになる︵

13 - 18 6

︶と説明するように︑自然に生じる神話の宗教と啓示によって生じた宗教とが自然的宗教と超自然的宗教という関係において説明される︒それは︑﹁啓示が何か超自然的なものと一般的に見なされ﹂︵

13 -18 5

︶ているからである︒しかし超自然的なものと言っても︑自然的なものとの関係において︑それは初めて﹁超﹂自然的なものである︒﹁超自然的なものはいつでも現存している

das eyn

が︑光が暗闇を引き裂くことによってのみ光が認識される

(12)

ように︑・・・自然的なものの克服において認識されるにすぎない﹂︵

13 -18 7

︶︒つまり︑﹁啓示において︑超自然的なものとして現れ出て作用する原因あるいはポテンツは︑神話の中において自然的なものとして存在しているのである︒それ故︑この原因あるいはポテンツは︑それが自分自身を自然的なものとしていわば表出の材料のために持たなかったならば︑超自然的なものとして現象しえない﹂︵

13 -18 7

︶︒言い換えれば︑﹁まず自然的宗教が存在し︑それに超自然的宗教が続くことができ︑そうして自然的宗教は超自然的宗教に素材を与えることが出来るのである﹂︵

13 -18 7

︶︑とシェリングは語るのである︒わかり易く言えば︑こういうことである︒﹁ある同一の神が存在し︑この神は神話の意識にとってはその諸ポテンツの分離と相互の対立において現象するが︑啓示によって啓発された意識にとってはその根源的統一において現れる﹂︵

13 -18 7

︶︑ということである︒つまり︑人間が堕落以前に自然的な宗教的原理によって結びついていたこの神は︑自らの中に生じた創造すべきものの像を現実化しようと自ら意志し︑自然の創造を行う︒それは︑自らの三ポテンツ

13 -34 8

﹁何か超実体的なものとして・・・存在している﹂︵︶﹁精 しての人間は自由な存在者であり︑自由な存在者としての人間は の全力を受け入れ︑両ポテンツから自由となる︒最高の被造物と き起こしていたポテンツ間の緊張も解消され︑人間は両ポテンツ 造の目的である人間において創造という運動は完了し︑運動を引 機物︑植物︑動物そして人間を創造する︑というものである︒創 ンツが子のポテンツをどの程度受け入れたかにより︑無機物︑有 分離・緊張が解消される程度において︑言い換えれば︑父のポテ を分離・緊張させ︑その(36) 関係こそ神との直接的な根源的関係である︒

34 9

︶であり︑人間は精神的存在として神に直接対峙する︒この

13 -35 7 13 -

神であり生命﹂︵︶である︒まさに﹁生成した神﹂︵

  人間は︑三ポテンツの統一を保持している限りにおいて︑生成した神であるが︑人間は思い違いをして︑この統一性を破棄し︑再びポテンツを分離・緊張させ︑この状態を解消するための運動を意識の中に引き入れてしまう︒自然の創造においてポテンツを分離・緊張させたのは神であるが︑意識の中でこの運動を引き起こしたのは人間であって︑この運動に神はいかなる関与もしない︒あくまで人間が引き起こした自然的過程である︒この過程において︑作用するポテンツは﹁創造において持っていた機能とは別のいかなる機能も持ってはいない﹂︵

13 -37 0

︶﹁わずかに自然的ポテンツとしてのみ振る舞う﹂︵

13 -36 8

︶ものであるが︑作用するポテンツそれぞれに人間は○○神という名称を与えることにより︑各々の神話において︑それぞれ特徴的な神々の名がつけられることになる︒それ故に︑﹁神話の意識には転倒した一神教つまり多神教が・・・存在する﹂︵

13 -18 7

︶のである︒すなわち︑﹁ある同一の神﹂は堕落以前には一神として︑堕落以後には﹁転倒した一神﹂つまり多神として現象する︒これらの多神は︑宗教的意識が修復される過程において︑最終的には一神を︑乳飲み子として描き出される﹁未来の世界の支配者﹂︵

13 -51 7

︶を暗示することとなる︒この未来の支配者が登場することによって︑神話の過程は一応終了する︒しかし︑それだからと言って︑神との関係が真に回復されたわけではない︒というのも︑人間により引き起こされたポテンツ間の分離・緊張が︑つまり人間の意識の中で作用して

(13)

いた自然的ポテンツの作用が止み︑ポテンツに統一がもたらされ︑宗教的意識の修復が為されただけであるからである︒神と人間との関係回復を真に行うには︑人間が意志して根源的関係を破棄したのであるから︑﹁ある同一の神﹂の意志との関係回復を行い︑それにより︑人間によって定立された自然的ポテンツそのものを破棄しなければならない︒

  神話的過程で定立された神々はある同一の神に取って代わった神々であり︑﹁神の姿で存在しているが︑﹇真の﹈神ではない﹂︵

14 -56

︶︒シェリングによれば︑神話的過程の最高段階にあるギリシア神話においてすら︑神々は人間の姿をしてはいるものの︑﹁あたかも純粋な想像による存在者であるかのように存在﹂︵

13 - 40 6

︶しているにすぎない︒このような神ではなく︑﹁人間に面と向かって話をする﹂︵

14 -26

︶神が︑人間と人格的に対面し︑自らの意志を人間に語りかけ啓示する神が︑真の関係回復には︑必要である︒つまり︑人格神として︑生身の人間として︑人間に対面する神が必要である︒この人格こそ受肉した神︑イエス・キリストである︒この神は神話的過程において未来の支配者として描かれ暗示されていた神でもある︒イエス・キリストと人間との関係が﹁直接的で人格的な関係﹂︵

14 -26

︶であり︑この関係においてのみ︑神との根源的関係が真に回復されうる︒この関係において神の意志が啓示されるが︑シェリングはレッシングのように啓示を捉えることはない

ものとする︒この啓示の内容は︑最初の人間によって人類に堕落

14 -6

たちに与えられる知という一般的なカテゴリーに属する﹂︵︶

14 -6

︵︶とし︑﹁啓示によって獲得された知識は︑経験を通して私 ︒シェリングは啓示を﹁独自の特別な認識源泉﹂(37) ることになるのである ともに︑十字架の死に到ることによって︑真の関係回復が為され ストが﹁神の姿﹂を捨て﹁僕の姿﹂になり︑人間の姿で現れると

徒への手紙﹄第二章六節八節に記されてように︑イエス・キリ ツそのものを破棄するのである︒言い換えれば︑﹃フィリピの信 した﹁神の不満﹂を引き受け︑人間の意識のなかの自然的ポテン とシェリングは述べる︒まさにこの意志こそが︑人間が引き起こ

Flu ch 14 -58

の存在や人類のうえに置いた神罰を廃棄する﹂︵︶︑

14 -58

にする意志﹂︵︶を必要とする︒この意志こそ﹁神がすべて るばかりでなく︑・・・神の外にある神としての自己自身を犠牲 の外のポテンツであり︑この﹁神の外の存在を克服する意志であ ツは神そのもののポテンツではなく︑自然的ポテンツであって神 り︑堕落によって人間が神の名称を与えることになった諸ポテン けではなく︑この﹁神の不満﹂を解消しなければならない︒つま 真の関係回復には︑自然的過程によって異常な状態を修復するだ

Un wil le 14 -25 2

﹁神の不満﹂︵︶において引き起こしたものであり︑

W ille 14 -25 2

神の意志に反して︑つまり﹁神の意志﹂︵︶ではなく を神が意志していた︑というものである︒神話の過程は︑人間が

14 -11

意識を破壊せずに︑人間を元の関係に﹁連れ戻る﹂︵︶こと 話という必然的過程を生じさせた上で︑神から遠ざかった人間の が導き入れられてしまったにもかかわらず︑人間の意識の中に神

(38)

  このように︑シェリングは自然的宗教と超自然的宗教との関係について述べ︑自然的宗教と超自然的宗教とが相互に依存し補完し合いながら連続し︑一神から多神そして一神へと展開すること示す︒そして最初の人間によって人類へと導き入れられた︑神と

(14)

の根源的関係の破棄が︑いかにして回復されるかを明らかにする︒これら自然的宗教と超自然的宗教とをシェリングは﹁非学問的宗教﹂︵

13 -19 3

︶に分類をする︒非学問的宗教とは﹁学問によっては生み出されない宗教﹂︵

13 -19 3

︶であり︑見てきたように︑自然的な出来事や超自然的な出来事によって生み出された宗教である︒非学問的宗教には︑当然のことであるが︑神話の宗教と啓示に基づく宗教とが属する︒この非学問的宗教に﹁学問的宗教﹂︵

13 -19 3

︶をシェリングは対置し︑宗教一般を非学問的宗教と学問的宗教とに分類する︒学問的宗教とは﹁直接的には理性認識と同一ではないが︑自由な哲学的認識の宗教﹂︵

13 -19 2

︶のことである︒この哲学的認識の宗教をシェリングは﹁哲学的宗教

die ph ilo sop his che R elig ion

﹂︵

13 -19 3

︶と名付ける︒いうなれば︑哲学的宗教は﹁精神の中に神を認識し︑崇拝する﹂︵

14 -33 2

︶﹁自由な精神的宗教﹂︵

13 -19 4

︶である︒

  シェリングによれば︑この﹁哲学的宗教は存在しない

exs isti rt

︒しかし哲学的宗教は︑その位置により︑理性や哲学に依存しない先行する諸宗教を把握する︑という使命を持った

宗教・・・である︒・・・啓示は︑人類が盲目的で不自由な宗教 的宗教はそのものとしてまた必然的宗教︑盲目的宗教︑不自由な 教であって︑人類のある時代にとって普遍的な宗教である︒自然 である︒この真の関係とは﹁自然的宗教は始まりであり最初の宗

13 -19 3

し︑﹁その真の歴史的関係において描き出される﹂︵︶もの 話の宗教﹂と﹁啓示に基づく宗教﹂とを媒介するものとして存在

14 -77

的宗教﹂と﹁超自然的宗教﹂︑すなわち歴史的現象としての﹁神存在する・・・真の宗教﹂︵︶である︒ 実現されるべき宗教である︒言い換えれば︑哲学的宗教は﹁自然あって︑﹁世界﹇の始まり﹈から︑つまりあらゆる時代を通して

13 -52 4

﹂宗教であって︑との根源的関係を回復する﹁全人類に共通の宗教﹂︵︶で(39) 教が把握されることになる︒またこの哲学的宗教こそが︑真の神 を指している︒このように歴史を解釈することにおいて哲学的宗 した際に述べた︑一神から多神を経て一神へ戻るというあの歴史 とであり︑それは︑先に自然的宗教と超自然的宗教について説明

14 -30

シェリングの言う歴史的なものとは﹁高次の歴史﹂︵︶のこ ベリウスの治世下に死んだ等々のことと解釈することではない︒ なものを例えばアウグストゥスの治世下に創設者が生まれ︑ティ

13 -19 4

回しとして説明﹂︵︶することでも︑キリスト教の歴史的 的なものを真に理解するとは﹁神話の歴史的なものを単なる言い 宗教とを媒介し︑それらの意味を明らかにする宗教である︒歴史 される︒この意味で︑哲学的宗教は︑神話の宗教と啓示に基づく るものを真の意味において捉えることにより︑哲学的宗教が把握 を排除する﹁いわゆる自然的宗教﹂ではない︒むしろ︑歴史的な 語る︒したがって︑哲学的宗教は︑諸宗教から歴史的なものなど

13 -19 4

由な精神的宗教が初めて可能になる﹂︵︶︑とシェリングは から解放される出来事である︒それ故︑この出来事によって︑自

      五

  シェリングはユダヤ教を含めたキリスト教と神話とを﹁世界史的現象﹂︵

14 -78

︶として捉え︑そこに人間と神との和解の歴史を︑つまり救いの歴史を見て取る︒しかも︑その歴史を成就するためには哲学的宗教を実現することが必要であるとする︒この哲学的

(15)

宗教は︑歴史的現象を捨象し︑合理的に理解できる限りでの宗教の本質を追究した﹁いわゆる自然的宗教﹂ではないが︑ある意味で宗教学で言う自然的宗教に分類することが出来る︒というのも︑以下の理由からである︒神話の宗教は﹁人間のなかにある・・・神を定立する根源的原理﹂︵

13 -19 1

︶から自然に生まれた自然的宗教である一方︑キリスト教はこの自然的宗教を前提したうえで存在する啓示に基づく宗教であり︑最初の人間の堕落によって破棄された根源的関係の回復を目指す宗教である︒これらの宗教は﹁人間の生存の根底に何か宗教的なものを肯定する

教に分類されるものであるからである︒ 両宗教の根底にある哲学的宗教は︑楠が主張する積極的自然的宗 それ故︑これら両宗教を媒介するものとして哲学的に認識された︑ ﹂ものであり︑(40)

  この分類はともかくも︑レッシングの自然的宗教もシェリングの哲学的宗教もともに︑人類にとって実現すべき宗教であることに変わりはない︒レッシングが考える自然的宗教は︑ユダヤ教やキリスト教など積極的宗教を媒介にして実現されるべき宗教である点において︑言い換えれば︑現実的に存在する宗教の媒介を承認する点において︑歴史的内容物を捨象し合理的宗教を求める啓蒙主義的な宗教研究とは異なる視点を示している︒しかし︑レッシングは国家の事情に応じて生じた積極的宗教には﹁積極的宗教の内在的真理

教と︑この神話の宗教を前提したうえで︑神との人格的関係を築 の本性に内在する宗教的原理に基づいて自然に発生する神話の宗 究の立場に立つ︒それに対し︑シェリングの哲学的宗教は︑人間 導きだせるとする点において︑彼は基本的に啓蒙主義的な宗教研 ﹂が含まれており︑覆いを取り除けば自然的宗教を(41) 点で啓蒙主義的な立場を否定する︒ は啓示を特別な認識源泉とし︑経験を通して与えられる知とする 性真理に還元する啓蒙主義的な立場に立つのに対し︑シェリング シングもシェリングも啓示に言及するが︑レッシングは啓示を理 うまでもないことである︒また︑積極的宗教に言及する際︑レッ 限りのことであり︑彼が描き出す神話やキリスト教であるのは言 ではなく︑神話やキリスト教がそれぞれポテンツ論を担っている が現に存在している神話やキリスト教をそのまま承認しているの 点でレッシングとは大きく異なる︒とはいうものの︑シェリング は神話の宗教も啓示に基づく宗教もそれ自体で認め前提している 宗教の実現を支える︑ということにおいてであるが︑シェリング のは︑﹁内在的真理﹂を積極的宗教が包含している限りで自然的 た宗教とは異なる宗教である︒積極的宗教をレッシングが認めた 意味を明らかにする宗教であって︑啓蒙主義的な宗教研究が求め き神との関係回復を行う啓示に基づく宗教とを媒介し︑それらの

  このように︑レッシングの自然的宗教とシェリングの哲学的宗教の特徴を挙げてみると︑啓蒙主義的な宗教研究の立場に近いか否かで︑対照的立場に立つことが分かる︒しかしながら︑ヴィンデルバントが言うように︑レッシングが歴史の中に持ち込んだ﹁神の意に基づく完成への計画的努力を見る歴史的世界観

とした考え方にも通じるものである︒まさにこの点において︑ 悪を道徳的宗教により克服し︑いずれの日にか幸せに与りたい︑ すべき到達目標と言ってよいものである︒これは︑カントが根本 的宗教もともに人類が実現すべき宗教であり︑人類の歴史が実現 う観点からすると︑レッシングの自然的宗教もシェリングの哲学 ﹂とい(42)

(16)

ドイツ観念論の基礎をおいたカントやドイツ観念論を完成させたシェリングにも共通する︑ドイツ観念論の通奏低音になる考え方をレッシングが与えた︑という意味で﹁ドイツ観念論の父﹂という言葉がまさに当てはまる︒それはともかくも︑レッシングの自然的宗教であれ︑シェリングの哲学的宗教であれ︑ともに哲学者が考えたあるべき宗教であり︑彼らにとって理想の宗教であることには変わりはない︒これらの宗教には教会もなければ儀礼もない︒いずれの日にか︑同じ考えを持つ人々が集まり教会を作ることがあるとしても︑おそらく祭典は作られないであろう︒これらの宗教はあくまでも哲学者が考えた宗教であり︑ヴィンデルバントが言うように︑ある意味で信仰告白に留まるものであろう︒

    註

⑴ G.Mensching, "Geschichite der Religionswissenschaft", Universität-Verlag, Bonn, 1948, S.43. ⑵ebenda.⑶ G.Mensching, ibid., S.44.⑷ ebenda. なお︑メンシングはその典型をイギリス理神論に認めている︵S.44︶︒またイギリス理神論の主張した自然的宗教についてと同じ思想をドイツ啓蒙主義︑特にライマールスのなかに見ている︵S.47︶︒﹁本質は普遍的なもののなかにあり︑特殊なもののなかにはない﹂︵S.49︶という啓蒙主義の特徴を克服する人物として︑メンシングは﹁歴史的諸宗教の軽蔑と︑非合理的で生き生きとしたものを決して把握することの出来ない抽象へ向かう啓蒙主義的な傾向とに反対﹂︵S.51︶したレッシングの名前を挙げている︒しかしながら︑克服者として名前を挙げられたレッシングの思想は︑﹁まだ多くの点において合理主義にとらわれている﹂︵S.50︶︑としている︒ ⑸楠正弘﹃理性と信仰﹄︑未来社刊︑昭和四十九年︑五-三四頁︒同書で楠は自然的宗教を消極的自然的宗教と積極的自然的宗教とに分類し︑前者にはハーバート︑シャフツベリー︑カントなどが︑後者にはシュライエルマッハー︑オットー︑シェーラーなどが属する︑としている︒前者は﹁哲学や道徳の領域から︑宗教を基礎づけ﹂︵28︶︑﹁哲学や道徳を通してのみ宗教に到達しうることを主張﹂︵28︶するものである︒それに対し︑後者は﹁人生の究極の︑さしせまった場面でとらえられる場合︑人間の振舞は︑何にもまして宗教的である﹂︵29︶と考え︑﹁人間の生存の根底に何らかの宗教的なものを肯定する﹂︵29︶ものである︒

⑹ W.Windelband, Die Geschichite der neueren Philosophie, Bd., 1, Breitkopf &Härtel Verlag, Leipzig, 1922, S.549. 精確には﹁道徳的な意味でレッシングはドイツ観念論の父であり︑歴史の運動のなかに神の意に基づく完成への計画的努力を見る歴史的世界観の創設者である﹂︒

⑺シェリング哲学の時代区分については︑拙著﹃人間における悪﹄︑東北大学出版会︑仙台︑平成十三年︑一三一頁

-一三三頁︒

⑻例えば︑

﹇ "Die Vollendung des Deutschen Idealismus in der Spätphilosophie Schellings" WW. Schulz, ・シュルツの著書の題名に見ることも可能である︒ 念論﹂の定義に関しては︑同書一六頁 Nesske, Pfullingen, 1975. また前掲拙著︑二二三頁参照︒なお﹁ドイツ観 W, ・シュルツ﹃シェリングの後期哲学におけるドイツ観念論の完成﹄﹈

-一八頁を参照されたい︒

⑼ F.W.J.Schelling, "Philosophie der Offenbarung", Erster Band und Zweiter Band, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt, 1983. 引用頁は息子編集の全集版による︒二巻にわたるため︑第一巻︑第二巻をそれぞれ︵13-000︶︑︵14-000︶と表示する︒

⑽ G.Mensching, ibid., S.51. 本論註⑷も参照︒

⑾ G.E.Lessing, "Nathan der Weise", in: G.E.Lessing Werke in drei Bänden, Bd.

行った︒ の幕間番号︵幕・場︶で行う︒邦訳を参照したが︑引用はドイツ文から Ⅰ, Deutscher Taschenbuch Verlag, München, 2003. 本書の引用はドラマ

⑿ G.E.Lessing, "Die Erziehung des Menschengeschlechts", in: G.E.LessingWerke in drei Bänden, Bd.

H.B.Nisbet, "Lessing Philosophical and Theological 著作について︑ 本書の引用は節番号で行う︒なお︑レッシングの哲学的著作や神学的 Ⅲ, Deutscher Taschenbuch Verlag, München, 2003.

(17)

Writings", Cambridge University Press, Cambridge, 2005. を参照した︒

⒀例えば︑イスラームが真の宗教である︑と言えば︑なぜ改宗しないか︑と問われる︒ユダヤ教だと言えば︑サラディンの信じるイスラームを貶めることになり︑キリスト教と言えば︑イスラームを貶めるとともに︑ユダヤ教を信じている根拠が無くなる︒どのように答えようと︑ナータンは苦境に立つことになる︒

⒁ W.Windelband, ibid., S.552. ヴィンデルバントは﹁詩人レッシングが﹃賢者ナータン﹄のなかに述べた詩的信仰告白﹂を読み取ることは容易であり︑レッシングが﹁未来の福音は単に道徳のそれである﹂としており︑その考え方は﹁啓蒙哲学の先頭に立つ人々が・・・宗教の真の本質を徹底的に道徳性の本質に解消しようとした﹂のとまったく軌を一にしている︑とする︒

⒂ die positiven Religionenの訳には既成宗教︑実定宗教などがあるが︑いわゆる自然的宗教に対して︑﹁現にある﹂︑﹁歴史的な﹂︑﹁肯定的な﹂︑﹁啓示による﹂等々の意味を含めるために︑適切とは思わないがとりあえず﹁積極的﹂と訳しておく︒

⒃この点にレッシングとカントの親近性を見ることは簡単である︒カントが唱える﹁自愛の原理﹂と﹁道徳性の原理﹂との葛藤を参照︒vgl. I.Kant, "Die Kritik der praktischen Vernunft", Felix Meiner, Hamburg, 1967, S.25, 28, 39, 74. さらに︑レッシングが﹃人類の教育﹄の§

92から§ 述べる思想︑特に§ 100で ると指摘することも理解できる︒本論註⑹を参照︒ ンデルバントが﹁道徳的な意味でレッシングはドイツ観念論の父﹂であ と符合する︒この関係については前掲拙著︑第一章第六節参照︒またヴィ の存在﹂とを要請し︑道徳的宗教により根本悪の克服を希望したこと を歩むことを力強く助ける﹂ということも︑カントが﹁霊魂の不死﹂と﹁神 97で述べる﹁永遠の報いへの眺望が﹇完成への﹈途

⒄ G.E.Lessing, "Das Christentum der Vernunft", in: G.E.Lessing Werke in drei Bänden, Bd.

1753ibid., S.751﹁遅くとも年には存在していなければならない﹂︵︶︒ は節番号で行う︒成立年代ははっきりしないが︑編集者の註によると︑ Ⅲ, Deutscher Taschenbuch Verlag, München, 2003. 本書の引用

⒅ G.E.Lessing, "Über die Entstehung der geoffenbarten Religion", in: G.E.Lessing Werke in drei Bänden, Bd.

1995. 本書の引用は節番号で行う︒成立年代ははっきりしないものの︑ Ⅲ, Artemis&Winkler Verlag, München, 出版したことにより生じた神学的論争期より︑以前のものである︒ ﹃理性のキリスト教﹄の成立よりは遅いが︑ヴォルフェンビュッテル断片を

⒆ G.E.Lessing, "Die Religion Christi", in: G.E.Lessing Werke in drei Bänden, Bd.

で行う︒ Ⅲ, Deutscher Taschenbuch Verlag, München, 2003. 本書の引用は節番号

⒇ G.E.Lessing, "Gegensätze des Herausgebers", in: G.E.Lessing Werke in drei Bänden, Bd.

Werke in drei Bänden, Bd. sehr unnötige Frage des Hrn. Hauptpastor Goeze in Hamburg", in: G.E.Lessing G.E.Lessing, "GOTTH. EPHR. LESSINGS NÖTIGE ANTWORT auf eine ibid., S.327. Ⅲ, Deutscher Taschenbuch Verlag, München, 2003.

Bd. Herrn Hauptpastor Goeze in Hamburg", in: G.E.Lessing Werke in drei Bänden, G.E.Lessing, "Der NÖTIGEN ANTWORT auf eine sehr unnötige Frage des ebenda. ibid., S.549. ebenda. ibid., S.548. Ⅲ, Deutscher Taschenbuch Verlag, München, 2003.

宗教の本質は﹁小児のような受動性をもって宇宙の直接の影響に捉え ihren Verächtern", Felix Meiner Verlag, Hamburg, 1970.  F.D.E.Schleiermacher, "Über die ReligionReden an die Gebildeten unter ibid., 7.§ G.E.Lessing, "Über die Entstehung der geoffenbarten Religion", 10.§ G.E.Lessing, "Die Religion Christi",3.§ ibid., S.554. ibid., S.553. ibid., S.558. Ⅲ, Deutscher Taschenbuch Verlag, München, 2003, S.548.

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