777
アーサー・シュレジンガー∴ンユニアほ︑何故近代以降政治的り−ダIの積極的な役割が正当に取り上げられて
二なかったのか︑という問いに対して興味深い指摘を行っている︒シュレジンが−によれば︑今日まで政治的リー
ダーシップの問題が例外的なものとしてしか扱われていない理由は︑西洋社会において影響力を持ち続けてきた﹁古
典的民︑享主義﹂論が依拠している﹁暗黙の前提﹂に求めることが出来る︒すなわちそれは︑﹁多数の人々︵nuヨerica−
ヨajOrities︶は︑英雄的リーダーシップに対する代替物を提供する﹂という前提に他ならない︒したがって︑リーダ
ーシップの必要性についてあまりに思い煩うことは民主主義を死滅にむかわせる︑という政治的志向がそこに存在
凶C九
じ め に
はカリスマ的リーダーシップ論の射程
はじめに
第一車 力リスマ的リーダーシップと制度
第二車 力リスマ的リーダーシリブの位置
田 前
開 法(40−3・4) 778
四一〇
l一 しているというのである︒
イギリスとアメリカを念頭におきつつ民︑干王義の現実がま 他方そうした理論的状況に対し︑シュレジンガーは︑
ったく異なった道筋を辿ったことを主張する︒実際のところ︑﹁その初発より︑民︑享王蓑は︑強い個人が人々の傾向
を体現L明らかにする場合にのみ︑そのエネルギーを協調させ︑その野心を集中することが可能﹂ であった︒しか
しながら︑そうしたリーダーシップの必要性をはっきりと捉えていたハミルトンやエマーソンの洞察にも関わらず︑
政治的り−ダーに対する態度は決して転換されたわけではなく︑いまだに民︑享王義論はりーダーシツプの現象に困
惑し︑﹁優柔不断な﹂ ︵irresO︼ute︶態度が続いている︒それ故︑政治的リーダーシップの問題は︑現在に至るまでそ 一つ﹂ の現実的重要性に比して理論的には等閑視されてきたのである︒
当然のことながら︑このような理論的状況は︑カリスマ的リーダーシップ論に対してより一層妥当するものであ
るといえよう無論︑シュレジンガIの指摘にみられるような︑政治的リーダーシップに対する﹁ペンミう丁イク r3︶ な見解﹂か︑慈恵的で専制的なリーダーに対する︑ある意味に於いて止当な﹁不安﹂に基づいたものであったこと
は否定できない︒けれどもそうした傾向の中で︑政治的リーダーシップの問題は︑ますますリーダーの活動を可能
な限り制度的に抑制するという方向に導かれてゆくこととなってきたJ そして︑まさにカリスマ的リーダーシリブ
は︑そうした制度的機構と全く相容れないり−ダーシツプとして扱われてきたのである︒
それ故︑とりわけ非合理的なカリスマ的り−ダーに対して多くの批判が集中するだけでな︿︑カリスマ的リーダ
ーの意義を全く問題にすらしないという傾向が支配的になったとしても何ら不思議ではない︒しかも︑ウェーバー
が近代社会における﹁指導者民︑享王義﹂ の問題を﹁カリスマの反権威主義的解釈変︑三という観点から把握し︑民
主主義的なリーダーシップとカリスマ的り1ダーシップとを明確に区別しなかったことが原因となって︑カリスマ
的リーダーシップに対する道徳的・イデオロギー的批判が輩出したのであった︒その結果︑カリスマ的リーダーは︑
779 ヵリスマ的リーダーシップ論の射程
十分な論理的検討を経ることなく︑専制的り−ダーや全体主義的リーダーと同視されることがあたかも自明の理で
あるかのように見倣されてきた︒けれども︑シュレジングーの議論は︑これまで往々にして﹁規則による支配﹂に
相違された﹁人物による支配﹂という視点から把握されてきたウエーバIのカリスマ諭が︑実はそうした二分法に
還元されない意義を有しているのではないか︑ということを示唆しているのである︒したがってわれわれは︑現代
におけるカリスマ的り−ダーシップの可能性を︑更にその意義を否定し去ることが︑果たして妥当なのか否かを理
論的に検証しなければならない︒
ところで︑現在もなお︑カリスマ的り−ダ1︑ンップの理論を展開するためには︑ウェーバーのカリスマ論を再構
成するという作業を避けて通ることが出来ない状態にあると言ってよい︒もっともそれは︑ウェーバーが社会学の
領域でカリスマ論を最初に定式化した理論家であったからだけでなく︑またそれは︑カリスマ研究にとってウェー
バーの議論がきわめて豊かな素材の源であったからだけでもない︒むしろそれは︑多くの論者にとって︑ウェーバ
ーのカリスマ論自体がウェーバー以降の理論的な混乱の源であると思われたことに起因しているのである︒われわ
れは︑そうしたウェーバーのカリスマ論に内在している問題の中で︑﹁政治的リーダーシップ﹂の観点から以下の二
点を取り上げたい︒
まず第一に︑ウェーバーが﹁カリスマ的支配﹂と﹁カリスマ的リーダーシップ﹂とを明確に区別して論じていな
いという問題点である︒このように支配とり−ダーシツプとを等置するというウェーバーのカリスマ論の難点は︑
﹁合法性﹂の信念に依存している現代の大規模な社会集団たる﹁合法的社会﹂において︑﹁カリスマ的リーダノンソ
⁚5一 プ﹂ の存在をきわめて不明瞭な位置にとどめるという論理的帰結を招くこととなっている︒したがって︑まず第一
に問われるべきは︑いったい現代社会において﹁カリスマ的り−ダーシツプ﹂と﹁支配﹂あるいは﹁制度﹂とは︑
どのような関係にあるのか︑という問題である︒
四一一
開 法(4ロー3・4二 780
四一
そして第二に︑ウェーバ1はカリスマを定式化するにあたってその間念の中に多くの特徴を混在させているけれ
ども︑それらの諸特徴の中で︑一体どの特徴が必須条件であり︑どの特徴が付随条件であるのかが鮮明でないとい
う問題点である︒Lたがって︑それらの中で何を強調するかによって︑多様なカリスマ的リーダーシップ論とカリ
スマ的り−ダー保とが導かれることとなる︒しかも見逃Lてならないのは︑これまでウェーバーのカリスマ論を考
察する場合に︑ウェーバーが近代社会にぉける﹁政治的リーダーシップ﹂ の問題を﹁カリスマの反権威主義的解釈
変︑主として論じていたことが軽視されている点である︒したがって︑第二に問われるべきは︑いったい現代社会
においても存在可能なカリスマ的リーダーシップとは︑どのようなり−ダーとフォロワーとの関係を意味するのか︑
という問題である︒
以上指摘してきた︑カリスマ的支配とカリスマ的リーダーシップの関係の問題︑カリスマの ﹁認定問題﹂ならび 八人り
に﹁カリスマの反権威主義的解釈変︑三 の問題︑これらは︑相互に関連してはいるもののそれらが議論されてきた
領域は微妙に異なっている︒すなわち︑第一の問題は︑主として支配社会学の分析において︑第二の問題は︑主と
してカリスマ的リーダーシップ論の領域において︑そして﹁指導者民主主義﹂ の問題は︑主とLて﹁政治理論﹂ の
領域において論じられてきた︒しかしながら︑政治的り−ダ\・シリブの枠組みにおいてカリスマ論の意義を把握す
るためには︑二れらの問題を総休的に考察する必要があるだろうい
われわれは︑本稿において︑ウェーバー並びにウエーバー以降の成果を踏まえつつ以上の問題を考察することに
よって︑現代におけるカリスマ的リーダー︑ンリブあ位置を把握し︑カリスマ的り−ダーシツプの射程の一端を明ら
かにしたい︒
︵1︶ ArthurS︹h︼esingerJr.一︒○HerOi︹Leadershipご∴n内実茎ミミ−㌢−莞芦p.サ
781カリスマ的リーダーシップ論の射程
第二早 カリスマ的リーダーシップと制度
現代社会の政治領域においても活用可能なカリスマ的リーダーないしカリスマ的リーダーシップの概念を定式化
Lようとする試みは︑今日まで様々な批判を浴びてきたと言ってよい︒そうした批判に於いて再三再出指摘されて
きたのは︑﹁カリスマ﹂という概念自体が多義的であり︑その正確な意味内容を把握することが極めて困難である︑
ということであった︒事実ウェーバーによるカリスマの定式化の中には︑カリスマの特徴として様々な要素が組み
込まれているだけでなく︑後に述べる﹂・で﹁に︑そこには︑一見して相互に矛盾すると思われるような要素が含まれ
ている︒しかも︑こうしたウェーバー自身の定式化が学む問題に加え︑ウェーバー以降﹁カリスマ﹂概念がほとん
ど﹁大衆人気︵pOpu−arity︶ ﹂ と同義の日常的用語として広範に用いられるようになり︑ますますその本来の意味
四一三 aコdLeadership︒∵nBarbaraKeニermaコ︵ed︶一ど計ぎ峯甘∵ぎき貧要挙さ莞こぜ名栗ぎ軍らewJersey﹂若干B︼Onde−一阜 C叫㌻pp.㌫・g.空○コde−一きミ㌣訂已慧∴ヒ計数旦六訂宅≡萱ミ㌻ヒ岩き旨毒こぜき一LOコdOコ﹂芸P ︵宮沢健訳﹃指導者 たちの世界﹄三嶺書房︑一九八四年︶︑高橋直樹︑﹁政治的リーダーシップ理論の再検討﹂︑﹃政治学の諸問題H﹄︑専修大学法学 研究所紀要︑九︑︵一九八四年︶ を参照せよ︒
︵5︶ J.G.才lerqui弓﹁学芸姿さ一室料 ぷ丈宅∴︸ぎ:ぎ乱打シアぎ∴⊇等qミごぶ号罫書 LOコdOコ﹂器01P.岩㌣WO−訂aコ叫
MOヨmSeP3訂岳苛鼠bぎ呂5月.こぎ掌呈ざ:羞罫こ竺ぎ已少邑旨窄ミご旨二寿ぎ LO邑○コ﹂篭サpp.器f.︵得永
新太郎訳﹃官僚制の時代 マックス・ヴェーバーの政治社会学﹄未来社︑一九八四年∴Caユ↑Friedri︹h一︒才t山ca−﹁eadership
呂dt訂PrOb−eヨOftheCharismati︹POWer︒∵nヨ灯nb〜へ⊇已 lもきミ訂Nい﹂浣−も﹂の.
︵6︶ 例えば︑K﹂.Ratnam∵dharisヨa aコdPO≡ica−Leadership︒一iコbF︑注記︑短〜已叫票−N一−岩山.を参照せよ︒
4 3 2
︑訂札こp∴.
JeaコB−○コdelⅦ︑ゴ︑註へミト竃告ヽ㌫甘㌧ヨ喜邑sゝC⊇n言︑b喜ざ針■L呂dO−︼こ慧り.p.忘.
こうした経緯については︑評rbaraKee﹁ヨaコ∵−LeadersEpAsAPO≡i︹a一Ac﹁.∴Bruthu︹eMaNニ阜︒HistOrアPsychO−品︶1¶
同 法(40¶3 ▼ 4) 782
四一四
内容が曖昧になってきたという事情によって︑﹁カリスマ﹂概念の有効性に対する疑念によリー層の拍車がかけられ
ることとなった︒
かかる状況の下で︑最も厳格にカリスマ概念を解する立場によれば︑そもそも世俗化が進展した社会にぉいてカ
リスマの概念を論ずること自体がすでにカリスマ概念の誤用に他ならないと見放される︒すなわちその立場は︑﹁恩
寵の賜物︵Gl︼adengabe︶﹂という原義が示すように︑﹁カリスマ﹂の核心的な特質をその呪術的・宗教的性格に見て
取り︑呪術的社会ないし宗教的社会の外部におけるカリスマ的人物やカリスマ的り−ダーの存在を否認するのであ
る︒もっとも︑こうした立場に対しては︑カリスマ概念を定式化したウェーバー自身が世俗的なカりスマ的リーダ
ーをその範暗に加えていたことを指摘することができるし︑そしてまた︑現実に︑﹁呪術から解放された﹂社会にお
いても︑フォロワ1が宗教的な﹁熱狂﹂や﹁崇拝の態度﹂を示すような政治的り−ダーが存在していることを指摘
することもできるであろう︒とはいえ︑当然のことながらそうLた反論によって︑﹁カリスマ﹂を厳格に解するべき
だとする見解の論拠が否定されるわけではない︒
しかしながら︑他方で︑かかる﹁カリスマ﹂概念の多義性に対する批判的立場は︑重大な難点を抱えているとい
っても過言ではない︒というのも︑こうした立場は︑﹁カリスマ的り−ダーシソプ論﹂の観点からみれば︑カリスマ
の重要な意義に対する配慮が欠けている︑という批判を免れないからである︒その問題点を鮮明にするためには︑
以上のような立場に代表される︑複数の要素を携えている﹁カリスマ﹂ の概念を出来る限り厳密かつ一義的に把握
しようとする試みが理論的に何をその帰結とするのか︑という点に着目する必要がある︒確かに︑﹁カリスマ的支配﹂
の純粋な形態を正確に把握することが﹁カりスマ的り−ダーシツプ論﹂を展開する上で必要な作業であることに異
論はないけれども︑その際︑﹁カリスマ的り−ダーシツブ﹂の問題がそうした純粋型に留まらない射程を持っている
ことを見落してはならない︒ところが︑り1ダーシップ論の観点からみれば︑様々な特質を担ったカリスマの概念
783カリスマ的リーダ山シソ7D論の射程
を理論的により正確に把握しようとする正当な意図から出発しながらも︑カリスマの概念に様々な限定を加えよう
とする試みは︑結局のところ︑カリスマ的リーダーシップをますます例外的なリーダーシップとして位置づける結
果をもたらすこととなっているのである︒
ところが︑ウェーバー自身は︑﹁合法的支配﹂や﹁伝統的支配﹂と同格の支配類刑土として﹁カリスマ的支配﹂を概
念化し︑これらの ﹁理念刑土﹂ の多様なヴァリエーションを考慮しっつ政治的現実を把握しようとしていたのであっ
た︒したがって︑ウェーバーの ﹁カリスマ﹂概念を他の支配形態から分離してその概念だけを精緻化しようとする
方法を取れば︑不可避的に︑﹁伝統的支配﹂や﹁合法的支配﹂の多様な在り方に対して﹁カリスマ﹂が与える重要な
影響を過小評価するという帰結を招かぎるを得ない︒それ故︑﹁カリスマ的支配一以外の支配形態︑とりわけ﹁合法
的支配﹂との関係を配慮しっつ︑カリスマの概念の論理的可能性を視野に収めることが ﹁カリスマ的リーダーシッ
プ論﹂を展開する際に重要な意味を持ってくる︒なぜなら︑こうした手続きによってはじめて︑ウェーバーの﹁カ
リスマ﹂概念の持つ意義を﹁カリスマ的リーダーシップ﹂論に於いて十全に汲み取ることが出来るからである︒そ
れ故われわれは︑以上の議論を考慮しっつ︑ウェーバーのカリスマ論を政治的り−ダーシップ論として把握してゆ
かなければならない︒
ところで︑ウェーバーのカリスマ論を考察する際に多くの論者にとって囁きの石となってきた第一の要素は︑ウ
ェーバーが﹁カリスマ的支配﹂と﹁カリスマ的リーダーシップ﹂とを︑判然と区分して論じてはいなかったことで
ある︒そもそも︑ウェーバーのカリスマ論におけるカリスマ的り−ダーシップの位置が問題にされてきたのは︑﹃経 り上 演と社会﹄ においてカリスマの諸形態が︑すべて﹁カリスマ的支配﹂ の範噂で論じられていたことに起因する︒も
っとも︑こうした区別は︑ウェーバーがあ︿まで社会的行為の次元において﹁支配関係﹂を考察していたことを考
慮するならば︑とりたてて問題視するべき理由は乏しいように見えるかもしれない︒けれども他方ウェーバIは︑
川二五
開 法(40−3・4) 784
四ハ
カリスマ的支配を︑きわめて非制度的で非経済的な共同体を輿刑言する︑﹁社会構造形態﹂としても把握していキ
トたがって︑もしもウェーバーの議論を厳密に解するならば︑﹁カリスマ的リーダーシップ﹂の問題は︑かかるカリ
スマ的な﹁社会構造様式﹂を備えた原初的集団ないし宗教的・政治的小集団におけるリーダーシップの借題に限定
されてしまうこととなる︒
こうした難点を克服するためにベンディクスは︑﹁支配の行使が徹醜徹尾︑具体的な人物ならびにその人物の特殊
な資格と結び付いている﹂か否かという基準から︑﹁カリスマ的り−ダー∴/ップ﹂と﹁カリスマ的権威﹂による支配
とを明確に区別した︒すなわち︑彼は︑その少なからぬ影響を与えた著作において︑ある個人に対するフォロワー
の同一化から生ずるりIダーシソプに基づ︿権力を︑確立された権威に基づく権力たる﹁合法的支配﹂や﹁伝統的
支配﹂︑さらには日常化された ﹁カリスマ的支配﹂とも異なる次元に位置づけたU こうした区別によってはじめて︑
カリスマの存在とカリスマの日常化過程とは︑特定の時代に限定されるものではな︿て︑歴史のあら㈹る時代にお
いて﹁常に現れうるもの ︵OmコipreseコtpOSSibities︶﹂として捉えることが可能になったのである′り 二こで重要な
ことは︑ベンチィクスが︑ある社会や集団の構造の基礎にあるカリスマ的要素からりーダーシップ関係におけるカ
リスマ的要素を識別する基準を︑いわば﹁具体的な人格的結合﹂として明確に把握している点にある日 というのも︑
こうした基準がその後しばしば曖昧にされていることから︑多くの混乱がもたらされているからである︒
この区別を前提とすれば︑偵初的集団や宗教的・政治的小集団のような既成の社会関係の枠組みを著Lく欠如さ
せた団体における﹁カリスマ的支配﹂が︑そのもっとも典型的な事例と目される理由を論理的に明らかにすること
が出来る︒つまり︑こうした﹁カリスマ的支配﹂に於いては︑リーダーとフォロワーとの関係のみならず︑その集
団の構造自体が﹁カリスマ的リーダーシップ﹂に全面的に依有し︑いわば︑﹁カリスマ的人物﹂自身がその集団の存
立を支︑えているといってむ過言ではないからである︒それと比較するならば︑王制や教会などの ﹁世襲カリスマ﹂
了85カリスマ的リーダMシソ7r論の射程
や﹁官職カリスマ﹂による日常化された﹁カリスマ支配﹂においては︑そうした﹁カリスマ的り−ダーンップ﹂が
全く欠落Lたとしても︑﹁世襲カリスマ﹂や﹁官職カリスマ﹂がその正統性を維持し続ける限り︑﹁カリスマ支配﹂
は何等変容を被らずに存続し得るであろう︒したがって︑ウエーバーが両者を区別Lていない主因は︑﹁カリスマ的
支配の純粋型﹂に於いて﹁リーダーシップ﹂の問題をその支配形態の問題から分離することが出来ないからである︒
けれども︑それ以外の場合には︑両者を分析的に区別することによって︑ある社会の制度体系とは異なる次元から
リーダーシップの問題を分析する必要があるだろう︒
しかしながらこうした区別は︑他方で︑﹁合法的支配﹂と﹁カリスマ的り−ダーシリブ﹂S関係を考察する際に︑
新たな問題を提起することになる︒すなわち︑一体﹁カリスマ的リーグ﹂ンップ﹂の人格的な特質と合法的社会の
非人格的な﹁制度﹂とはどのような関係にあるのか︑という疑問が生じて︿るのである︒なぜならば︑現代の合法
的社会に於いて︑カリスマ的人物が制度的機構から全︿独立した存在であることは極めて稀であり︑現代のカリス
マ的リーダーは既成の社会的制度の外部からというよりもむしろその内部から生ずる可能性のほうが高いと言わぎ
るを得ないからである︒けれどもその場合︑そうした制度的機構の地位を占める﹁りIダー﹂に基づく政治的リー
ダーシップとは︑人格的なカリスマに基づ︿リーダーシップとLてではなく︑合法的制度ないし制度的なカリスマ
に基づ︿﹁日常化された﹂リーダーシップとして把握すべきであるように見える︒だとすれば︑果たしてそうした
リーダIをカリスマ的リーダーとして解することが妥当なのであろうか︒
この問題に対する立場は︑三つの見解へと集約することが出米るであろう︒まず︑第叫の最も厳格な立場は︑﹁制
度﹂と﹁カリスマ﹂とを排他的な関係にあるもSと見倣し︑﹁合法的社会﹂におけるカリスマ的リーダ1の存在を否 卜 定する見解である︒つぎに︑第二の立場は︑﹁制度﹂と﹁カリスマ﹂との関係よりも﹁危機﹂と﹁カリスマ﹂との関
係を強調し︑﹁合法的社会﹂においてもそうした危機的状況においては︑カリスマ的り〜ダーが存在し得るとする見
四一七
岡 法(40−3・4〕 786
四一八
∵′︑ 解である︒そして最後に第三の立場は︑﹁制度﹂と﹁カリスマ﹂とを積極的に結び付け︑たとえ常態の﹁合法的社会﹂
︵ においても︑カリスマ的リーダーの存在を認めようとする見解である︒われわれは︑これらの見解を順次検討する
ことによって︑﹁カリスマ﹂と﹁制度﹂との関係を︑そして︑現代における﹁カリスマ的リーダー﹂の意義を考察し
てゆきたい︒
まず︑﹁合法的社会﹂における﹁カリスマ﹂と﹁制度﹂との関連を否定的に解する立場によれば︑カリスマの概念
は本質的に制度的機構と全く対立するものであって︑ある社会や集団の秩序形成期や根本的な秩序変革期において
のみカリスマ的リーダ1は登場しうると主張される︒したがって︑カリスマ的り−デーは︑現代社会の﹁日常的な﹂
リーダーとは明確に区別されるべき︑﹁非制度的な﹂リーダーに他ならない︒したがって︑この立場によれば︑現代
の合法的社会に於ける支配が︑事実上︑全く人格的な要素によって構成される可能性がない限り︑そこには︑本来
の意味におけるカリスマ的リーダーが存在する余地はない︒
その点を捉えて︑ペンスマンとギヴァンスは︑現代社会におけるカリスマの概念の誤周を批判しっつ︑﹁現代のカ
リスマは︑ウェーバーがカリスマの属性と見倣した本来のラディカルな制度化に抗する︵deinstitutiOコaニNin巴力と︑
﹁q∴ もはや関連を持ってはいない﹂︑と述べている︒つまりここで彼らが論難しているのは︑﹁合法的支配﹂と.カリス
マ的リーダーシップ﹂との共存を承認する立場が︑﹁カリスマ﹂が元来有していたその﹁変革的要素﹂とその﹁非制
度的要素﹂とを脱色してしまうことによって元来の ﹁カリスマ﹂ の持つ意味を無視してしまっている︑という点に
他ならない︒というのも︑彼らによれば︑純粋な﹁カリスマ﹂ は︑不可避的に︑あるいは︑定義的に︑社会の秩序
を攻撃する性質のものであり︑まさしく日常的秩序の ﹁外部﹂に立ち現れてくるものだからである︒したがって︑
現代においてカリスマと称されるものは︑本来の ﹁カリスマ﹂ の ﹁非合理的な性格﹂を模倣しっつ実際には合理的 ﹁ 10︶ に︑ないしは︑制度的にしつらえられた︵manufactured︶︑﹁疑似カリスマ ︵pseud?Charisma︶一に過ぎないから
787 カリスマ的リーダーシップ諭の射程
である︒
この見解は︑既に述べたように︑カリスマ的り−ダ﹂ンソプの特殊性を強調することによって︑﹁合法的社会﹂に
おける﹁カリスマ﹂の意義を過小評価する傾向に樺さしている︒すなわち︑ある社会の政治的権威基盤とカリスマ
的り1ダノンップの基盤とを同視することによって︑結果的に︑﹁合法的社会﹂内部においてカリスマ的り−ふて−の
存立する可能性を排除してしまっているのである︒しかしながら︑現実の両者の関係はより複雑なものであって︑
既成の﹁合法的制度﹂と﹁カリスマ﹂とは︑必ずしも背反するものではありえない︒ランシマンの次のような指摘
は︑その両者の関係を明瞭に把握していると言えるだろう︒ランシマンは︑﹁官僚制的ないし合法的・合理的システ
ムのもとで︑カリスマ的リーダーシップがいまだその表現を見出しうる状況とは︑リーダーかその個人的模範的な
∴∵ 資質によって︑その規定された職務を超えて行為する更なる正統性を創出するような状況である﹂︑と述べている︒
この記述によって示されていることは︑とりもなおさず︑現代社会における﹁合法的な﹂制度的地位を占めるリー
ダーもまた︑その個人的なカリスマに﹁集団成員によって自発的に権威が与︑ろられる﹂ことによって︑既成のリー
ダーとしての﹁役割﹂や﹁地位﹂を超えたりⅠダ﹂ンツプを発揮しうる可能性が存在している︑という点に他なら
ない︒
ここで注意すべきことは︑このカリスマ的りIダーに対するフォロワーの承認が︑﹁具体的で個別的な人物﹂如何
という基準に基づいて行われることにある︒したがって︑たとえ﹁合法的社会﹂のり−ダーであっても︑リーダー
の資質に対するフォロワーの認証行為によって︑カリスマ的リーダーシップの生ずる余地があると解するべきであ
ろう︒それでは︑そうしたカリスマ的り−ダーシリブは︑いったいどのような過程を経て発生するものなのであろ
うか︒それに答えようとするのが︑第二の立場である︒
第二の立場は︑既成の﹁制度﹂や﹁組織﹂が十分に機能しなくなるような状況において﹁カリスマ﹂が現れる点
四一九
同 法(40 ■3・4) 788
四二〇
をとらえて︑カリスマ的リーダ1と﹁危機﹂との関係に着目する︒すなわち︑この立場は︑現代社会に於いてカリ
スマ的リーダーが存立し得るとすれば︑それが︑社会的な﹁危機﹂に於いて登場する﹁非日常的な﹂リーダーであ
ることを重視し︑カリスマ的リーダーシップの発生の原因をそうした﹁非日常的状況﹂に求めようとする︒
例えばブリードランドは︑あらゆる社会状況において︑﹁原カリスマ的人物︵iコCipientcharisヨa︶が見出される﹂
が︑その原カリスマ的人物が真正のカリスマ的人物として現れうるまえに︑﹁かれらのメッセージが人々にとって重
要で有意味なものとなる状況が存在していなければならない﹂と主張する︒したがって︑危機的状況こそが底力リ
スマ的人物を真正カリスマ的人物に転化する主因である︑と解される︒けれども︑この見解の鞍点はカリスマ的り
−ダーシップの出現が︑リーダーやフォロワーの主休的行為とは必ずしも関係なi︑危機の強度によってカリスマ
的リーダーシップの発生が導かれたり︑抑止されたりすることを認めぎるを碍ないことに存在する︒
他方カ︑ミックは︑﹁カリスマ的人物﹂の披日常的資質への帰依の根拠は︑﹁∧自我∨が様々な欲求に対して受動的
になる時︑諸個人が無力となる時︑当該の満たされない欲求を満たす人物は︑特別のもの﹂すなわち﹁カリスマ﹂ ‖ となることにある︑と主張する︒したがって︑心的な危機状況におけるフォロワーの側の様々な非日常的欲求こそ
がカリスマ的帰依を生じさせる主因である︑と解される︒けれども︑こうした見解の雉点も︑カリスマ的リーダー
シップの出現が︑リーふて−やフォロワーふツ主体的行為とは必ずしも関係なく︑フォロワーの非日常的欲求の強度に
ょって︑カリスマ的り−ダー︑ンツプの発生が導かれたり︑抑止されたりすることを認めぎるを得ない点に存在する
のである︒
結局︑たとえそうした苦難の状況や非日常的欲求がカリスマの前提条件として存在しなければならないとしても︑
﹁.d. より重要なことは︑1なぜリーダーが︑他ならぬある時点で生ずるのか盲いう点に︑換言すれば︑そうしたカリス
マ的関係がどの様にして形成されるか︑という点にある︒なぜなら︑もしも社会的状況や人々の心的状態がカり′ス
789 カリスマ的りMダーシップ論の射梓
マ的帰依をもたらす原因であるとするならば︑かれらはほとんどすべての強力なリーダーの呼掛︵appea−iコg︶に対
してカりスマ的な感情をもって応ずるはずであり︑ウィルナーが指摘するように︑何故同じ状況においても特定の
リーダ1だけがカリスマ的であり︑それ以外のリーダーがカリスマ的でないのか︑ということを説明し得ないから 5 1 である︒確かに︑危機的状況が︑そこに登場するリーダーのカリスマ的な傾向を助長することは少なくないけれど
も︑そのり−ダーがカリスマ的か否かは︑最終的には︑﹁具体的な人物﹂の資質とそれに対するフォロワーの応答と
に依存していると解するべさであろう︒
しかもウェルナーによれば︑この危機は決してカリスマの必要条件といいうるものでさえない︒ここでウェルナ
ーは︑カリスマ的り−ダ1の決定的な主体的役割を指摘する︒﹁ウエーバ1派の定式化は危機の存在がリーダーの役
割から独立した要因であり︑おそらく後者に先行するものであると考︑ろられている﹂︒それ放その過程は︑つねに︑
リーダーと教義が生じる前に危機的状況が存在していると見放され︑人々はこの危機的状況故にリーダーとその呼
掛に影響され易くなると理解されている︒だが︑そうした見解に対してウィルナーは︑危機的状況をり−ふイー自身
が創出しうる︑という事実を投げかける︒実際︑たとえ﹁客観的な﹂状況が一定であったとしても︑﹁カリスマ的人
物﹂ の言葉や行為によって﹁カリスマ的﹂な感情が大いに鼓舞される二とが少なノ\ない︒この場合︑カリスマ的人
物とカリスマの呼掛とは︑危機的状況の結果ではなく︑まさしく危機的状況の原因に他ならず︑リーダー自身が危 16︶ 機の発生以前にカリスマの形成を促しているのである︒
したがって︑結局のところ︑﹁危機﹂もその危機的状況における﹁心的状況﹂もカリスマ的り−ダーシップを発生
させる核心的な安閑であるとは言い難い︒というのも︑﹁危機﹂やフォロワーの﹁非日常的欲求﹂を︑カリスマ的リ
ーダーシップの促進要因であると見徹すことは出来ても︑カリスマ的リ1ふイーシップの発生要凶であると見徹すこ
とは出来ないからである︒もっとも︑この第二の立場は︑﹁危機﹂的状況を重視することによって︑誤謬を犯してい
四ニー
開 法(40−3・4) 790
四二二
るという訳ではな︿︑むしろ︑﹁カリスマ的リーダーシップ﹂に対する視座が狭すぎる点にその問題がある︒それ故︑
単にその社会状況や心理状況に着目するだけでは︑カリスマ的り−ダーシップの発生の過程を捉えるには不十分で
あり︑その為には︑カリスマ的リーダーの行為に対する理解が不可欠なのである︒それでは︑そうしたカリスマ的
リーダーは︑どのような作用によってカリスマ性を持ち得るのであろうか︒それに答えようとするのが︑第三の立
場である︒
第三の立場は︑﹁合法的社会﹂に於いて﹁カリスマ﹂と﹁制度﹂とが密接に関連していることを強調する︒この立
場によれば︑たとえ﹁合法的社会﹂における制度的地位に基づいたリーダーであっても︑そうした人物がカリスマ
7 的な性格を帯びていることを否定する事は出来ない︒というのも︑ウェーバーがカリスマ的なるものを本来的には 反制度的なものとして特徴づけていたにも関わらず︑非人格的な制度によって規定された権力的地位なるものは︑
1 ﹁カリスマの効果と似た現象の源である﹂︑という特徴を有しているからである︒換言すれば︑制度的な権力保持者
といえども︑フォロワーに対し︑カリスマ的な畏敬の念を呼び起こす可能性が存在しているからである︒
こうした世俗的な権力が有するカリスマ性を理論的に考察したのは︑シルてのカリスマ論であった︒シルズによ
れば︑あらゆる社会の中心的な制度や秩序自体に︑人々の畏敬の念を喚起するカリスマ的要素が存在しており︑そ
うしたカリスマ的要素は︑その社会の地位の体系や威信の体系に︑そしてひいてはその職位保持者に弱い形態で分
散化されている︒Lたがって︑王制や教会といった﹁カリスマ的支配﹂のみならず︑﹁合法的支配﹂として機能して
いる現代国家や現代社会においても︑かかる﹁カリスマ的要素﹂が制度自体に内在しているのである∪例えば︑現
代の制度的リーダーである﹁大統領﹂という地位が威信を帯びたものであって︑その地位の保持者に対してフォロ
ワーたる国民が畏敬の念を抱︿という事実は︑かかる﹁カリスマ的要素﹂が存在することを証明している︒それ故︑
この立場によれば︑ある社会に於いてその価値の重要性を承認されている指導的地位は︑その地位の保持者に対し
了91カリスマ的りMダーシップ論の射程
8 r1︶ てカリスマ的な性格を授ける作用を持っていることとなる︒
このシルズの主張の根拠は︑カリスマ的な要素の根底に︑ある社会を秩序づける力が存在し︑それが人々のカリ
スマ的感情を喚起する︑という点にある︒王制や教会の官職保持者にとってのみならず︑現代のり−ダーにとって
もまた︑その地位がどれだけ安定したものであるかは︑こうした﹁秩序付与﹂ の力がどれだけ社会的に実効性を持
ち︑その価値を承認されているか︑という点に依存していると言ってよいであろう︒こうしたンルズの論拠に基づ
いてスペンサ1は︑世俗的り−ダーがカリスマ性を有する根拠を︑﹁統制力︵ヨaStery︶﹂と﹁表象力︵representatiOコ︶﹂
とに見出しているのである︒ここで︑﹁統制力﹂とは︑ある秩序をもたらす能力を︑他方︑﹁表象力﹂とは︑そうし
た秩序に価値的な意味内容を与える能力を意味する︒そしてスペンサ1は︑世俗的なカリスマ的り−ダーはこのい
︵拍︺ ずれか︑ないし︑両者を示すことによってそのカリスマ性が承認されると主張する︒
このスペンサーのカリスマ的り−ダーシツプ論が明らかにしているのは︑カリスマなるものが決して反秩序的な
存在ではなくて︑むしろ逆に﹁秩序化﹂をもたらす存在であるということに他ならない︒﹁統制力﹂とは︑混沌とし
た世界に形態を与える力であり︑﹁表象力﹂とは︑無定型な価値に形態を与える力である︑と考えてよい︒それ故︑
カリスマ的リーダーシップは︑決して既成の秩序の破壊をその最終的な帰結とする過程ではなく︑更に︑新たな形
で秩序を再構成しようとする過程を意味しているのである︒
ところが︑こうした秩序の付与という視点からみれば︑﹁日常的な﹂リーダーと﹁非日常的な﹂リーダーは必ずし
も対立する概念では有り得ない︒スペンサーによれば︑﹁王﹂ ︵国王︑首相︑首領︑市長︑皇帝︶ は︑日常的な運命
を秩序づけることによって﹁統制力﹂を示す世俗的カリスマであり︑他方﹁革命的り−ダー﹂は︑自らの示す未来
のビジョンが到束するべきことを支持者に確信させ︑未来を秩序づけることによって﹁統制力﹂を示す世俗的カリ
︵釦﹀ スマだからである︒したがって︑常態に於いて秩序付与を行う﹁日常的な﹂リーダーであれ危機に於いて秩序付与
四二三
開 法(40−3・4) 792
四二四
を行う﹁非日常的な﹂リーダーであれ︑いずれもが同一のカリスマ的り−ダーの範時に属する結果になる︶
だとすれば︑この立場の難点は︑第一の立場とは逆に︑一般的なり−ダーシップとは異なるカリスマ的り1ダー
シリブの特殊性を見過ごし︑カリスマ的リーダー︑ンップ独自の発生過程を捉え損ねている点にあると言わぎるを待
ない︒われわれほ︑この第三の立場においてはじめて﹁カリスマ的り−ダー﹂と﹁制度﹂との関係を排他的な関係
としてではなく︑横転的な相互作用を持ち得る可能性を学んだ関係として捉える視点を見出すことが出来たのであ
る︒にもかかわらず︑この見解によっては︑﹁カりスマ的リーダー﹂特有のカリスマ性の特徴を提握することが出来
なくなる︒なぜなら︑ある社会の秩序が何らかのカリスマ性を有することは確かだとしても︑そのカリスマ性は︑
これまで二百及してきたように︑カリスマ的リーダーシップの源泉であるり−ダーの資質とその資質に対するフォロ
ワ1の認証とは全く無関係だからである︒
ここでわれわれは︑以上の議論を踏まえて︑カリスマ的リーダーシーソプの位置づけを試みようじ結局︑問題の焦
点は︑﹁合法的社会﹂における﹁カリスマ的リーダシップ﹂に関して︑実際のリーダーの権威が極めて複合的な惟
格のものであることに帰着する︒それは︑ウェーバーか現代のカリスマの例として掲げたクルト・アイスナ1に関
する︑以下のようなコーエンの指摘の中に端的に示きれているりすなわち︑﹁アイスナーのフォロワーを導く能力は︑
政党ヒエラルキーに於ける彼の役割並びにイデオロギーに対する考慮 ︵すなわち︑彼のメッセー∴ンに対するフォロ
ワ1の反応︶ によってもまた影響されていたのではないかっ そして︑その間老はいずれもカリスマ的要素ではない
のである﹂︒つまり︑二こでコーエンが述べているのは︑現実のカリスマ的り−ダーンリブが︑カリスマ的人物の人
格に対する信仰に加えて︑カリスマ的人物の地位とカリスマ的人物による﹁放いの教義﹂とによって構成されてい
るということ︑したがって︑本来のカリスマ的要素とは異なった制度的要素や理念的要素によってもまた支︑ろられ
ているということである︒
793 カリスマ的リーダーシいノプ論の射程
こうした複合的な権威に基づいたリーダーシップを︑第一の立場のように︑それが非人格的な制度的要素を含ん
でいるが故に本来の ﹁カリスマ的り−ダーシリブ﹂とは見倣し得ないと主張する事も可能であろう︒そしてまた︑
第三の立場のように︑﹁制度的リーダー﹂であれ﹁非制度的リーダ1﹂であれそのいずれにおいてもその人物がなん
らかの秩序化をもたらすならば︑﹁カリスマ的り−ダーシップ﹂と見徹し得ると主張することも可能であろう︒しか
しながら︑第一の立場は︑﹁カリスマ的人物﹂と﹁制度﹂との二分法にとらわれ︑﹁合法的社会﹂における﹁カリス
マ的リーダーシップ﹂の射程を閉ぎしてしまっているし︑他方︑第三の立場は︑﹁カリスマ的人物﹂と﹁制度的カリ
スマ﹂との相違を軽視し︑﹁カリスマ的り−ダーシツプ﹂の特性をリーダーシップ一般の特性に解消してしまってい
るのである︒
ここで問題の核心は︑以下の点にある︒すなわち︑両者の立場に共通して曖昧にされ︑しかも第二の立場におい
ても見過ごされているのは︑﹁カリスマ的りIダーシりプ﹂にとっては︑あくまでも﹁誰がリーダ1であるのか﹂と
いう点が決定的な重要性を持っている︑という二とである︒というのも︑まず︑制度的地位に基づくカリスマ的要
素は︑その地位を占有する人物が具体的に﹁いかなる人物であるか﹂ ということとは︑無関係に派生する︒すなわ
ち︑そのカリスマ性は︑既成の制度自体に対するフォロワIの帰依から生ずるものである︒そしてまた︑イデオロ
ギーとしての ﹁救いの教義﹂が持つカリスマ的吸引力も︑それが具体的に﹁いかなる人物によって語られるか﹂と
いうこととは無関係に派生する︒すなわち︑そのカリスマ性は︑その教義が体現する﹁価値﹂ に対するフォロワ1
の帰依から︑あるいは︑フォロワーの価値判断から生ずるものである︒無論︑それは︑﹁カ=⁚スマ的リーダー﹂が︑
そうした﹁地位﹂や﹁教義﹂と無縁だという意味ではない′り むしろ︑そのような﹁地位﹂や﹁教義﹂を﹁カリスマ
的り−ダー﹂が無意識的に︑あるいは︑意図的に活用する二とは十分有り得ることである︒けれども重要なことは︑
﹁カリスマ的リーダーシップ﹂ の本質にとって︑そうした﹁制度﹂ の価値や﹁教義﹂ の価値が︑﹁カリスマ的人物﹂
四二五
岡 法(40−3・4) 794
四二六
自身の存在に比して二義的な問題でしかありえない︑ということに他ならない︒
たしかに︑現実のカリスマ的リーダーは︑フォロワーによる﹁教義︵救いの定式︶﹂への考慮によって影響を被ら
ぎるを得ない︒しかしながら︑最終的に﹁カリスマ的リーダーの救いの定式の効果は︑カリスマ的リーダーのパー
︵32= ソナリティの効果と区別することが出来ない﹂のである︒というのも︑カリスマ的フォロワーは︑けっして﹁教義﹂
が表現する価値に対して無媒介的に結びついているのではなく︑それを語る﹁カリスマ的人物﹂に対する帰依によ
って間接的にそうした﹁佃値﹂と結びついているからである︒しかも︑このことは︑カリスマ的り−ダーとリーダ
ーが掲げる教義とが︑制度が依拠している︑そしてまた︑フォロワーが依拠している﹁諸価値﹂や﹁利害﹂を超え
る﹁価値﹂を象徴化し得ることを意味している︒
それ故にこそ︑カリスマ的り−ダーは︑フォロワーの帰依とリーダーの示す﹁価値﹂とを媒介することによって︑
新たな﹁秩序化﹂を導︿ことが可能なのである︒その点を捉えて︑ウィルナーは︑新興諸国の ﹁カリスマ的リーダ
ーシップ﹂に就いて以下のように述べている︒﹁地域的な結束と個別的な目標とによって分裂している社会では︑カ
リスマ的リーダーシップが多様性を克服する唯一の象徴であり︑問題に関するコンセンサスを生み出す主要な手段
なのである︒いまだどこか理解を超えた忠誠を捧げるための何か知覚可能な対象を必要とする多くの人にとって︑ ︵23 彼は来るべき国民国家の眼に見える具現なのである﹂︑と︒無論︑こうした状況において︑もっとも劇的にカリスマ
的リーダーの作用が現れているとはいえ︑現実のカリスマ的り1ダーの作用は︑必ずしも既存の秩序の崩壊状況や
危機的状況に限定されるわけではない︒そしてまた︑カリスマ的り−ダーは︑﹁新しき秩序﹂を掲げることもあれば︑
﹁古き秩序﹂を掲げることもあり︑必ずしも﹁革新的な﹂リーダーに限定されるものでもありえない︒けれども他
方でカリスマ的リーダ1の作用は︑スペンサーが主張するように︑単なる﹁秩序付与﹂ という作用に還元されるも
のでもありえない︒スペンサ1が見落としているのは︑カリスマ的リーダーによる秩序化が︑制度的な秩序に基づ
795 カリスマ的リーダーシップ論の射程
いた﹁秩序付与﹂ではなく︑﹁カリスマ的人物﹂を経由した﹁再編成された秩序化﹂である︑という点なのである︒
こうした考察によってわれわれは︑﹁カリスマ的り−ふイーシップ﹂と﹁制度﹂との関係を定式化することができる︒
すなわち︑﹁カリスマ的リーダーシップ﹂とは︑既成の﹁伝統的制度﹂や﹁合法的制度﹂が存在するかしないかに関
わらず︑また︑外的・内的危機が存在するかしないかに関わらず︑リーダーの呼掛とそれに対するフォロワーのカ
リスマ的認証によって常に存在可能な︑フォロワーの個別的な﹁利害﹂や﹁価値﹂を越える可能性を学んだ﹁再秩
序化﹂ の過程に他ならないのである︒
︵1︶ JOSephBensヨanaコdMichaelGiくant∵.CharismaandMOderコity⁚↓heUseaコdAbuseOfaCOコCePt︒一iコR.M.G訂ssmaコ
aコdW.F SwatOSJr.︵eds.︶−9§首長出家3:夢二ぎ計.ぎ薫きぶCOnneCticu﹇﹂冨か.p.いー.
︵2︶ MaxWeber一貢ぎさざヰミ邑︹訂乱打官軍丁旨ingen﹂笥か.S.誓f.
︵2︶ ﹂挙註.
︵1︶ ReinhardBendiメ≧ざで蚕ぎ∵ざこ暴法象賀こぎき註 NewYOrk﹂女声pp.N麗f.︵折原浩訳﹃マックス・ウェーバー
その学問の全体條﹄中央公論社︑T九六六年︶
︵5︶ 適叫軋二p.︺N↓.
︵6︶ Friedrichこ尽.rF︑Sch−esiコger二単二邑∴出ensヨanaコdGiva已:尽.c叫㌣
︵7︶ W.H.・Fried︼and∴.FOrAS〇Ci〇︼Ogica︼COnCeptOfCharisヨaごコ哲c計︑苫買取昂−諾やRObert.C.↓ucker∴↓he↓heOr︶︑
OfCharisヨatic Leadership︒一iコbbh臼トート加害﹂器加﹀ders∴竜ersOna−ity and P01itica−Leadership︒−in〜丈叫叫符已幹叫3C屯
曾落さ浩﹂3♪GeOrge Deノ1ereuX㌧Charisヨatic Leadership and︹ユ軋sパin Warner MueコSterbergel and Sidne︶1
Axe︼rOad︵edsし︐︑ぜcぎ§a百計§乱酔c叫已斡叫莞C声NewYOak一−器ひ一
︵8︶ Edward S≡s∴.Charisヨal Order一and Status=山コゝS恥計・聖∴ぎ諷き乳訂︑き岩野一︺P︻窯∽︑nerS︒COnCentratiOn aコd
Dispe﹁監○コOfCharisma∴−ノheirBearingOコPOnOヨic POcyin Underde諾−OpedCD亡ntries︒∴−Charisヨa︒∴.Ceコter aコd
Peユphery︒inders▼C§ざ:軍札訝息罫3・.打h卓Ⅵ叫遷ゝ計c⊇竃C叫已︵導−ChicagO﹂笥ひ
︵9︶ 出ensヨaコandGi<a声阜cデp.uド
四二七
同 法(40−3 ▲ 4)796
第二章 カリスマ的リーダーシップの位置
ウェーバーのカリスマ論を考察する際に多︿の論者にとって囁きの石となってきたもう一つの要素は︑カリスマ
的り−ダ1の資質とカリスマ的フォロワーの承認との間に︑一種の緊張関係が存在していることである︒というの ︵14︶ ﹁15︶ ︵10︶ ■︑ ︵12︶ ︵13︶
23 22 212019181716
四二八
享年も.u00一P.ミ.
W.G.Runcimaコ㍉ChaユsヨaticL品itiヨaCyand011eJPart︶1Ru−eiコGhana︒一inゝ言已完Sh丈⊇宮詣衣料哲c㌣き乳凡や忘悪−
P﹂畠.
Fried︼aコd一竜.c叫㌻p.Nリ
ChaユesCaヨic㌧Charisヨa⁚ltsノ1arieties▼PrecOコditiOコS﹀aコdCOnSequeコCeS−▲﹂コ∽Qへ計︑馬首已︑羞S.卓川戸−悪声p∴.非
日常的欲求を強調するものとして︑DOtlald McIntOSh一=Weberand Fre亡d⁚○コ︷heNa︻弓eaコd SO⊂rCeSOf AuthOri︵y︒∵コ
ゝヨへ3.C旨哲c㌻︑毒㌣一致∵芦芦爵≠∴忘︵石霊︶こerrO︻d M.POSt∴−Narc︻ssisヨandtheChaユsヨaticLeaderFOOWerRe︼atiCl†
ship︒∴n.芋︑註︹乳房ミ〜已︵専一﹃︵忘票︶
↓J〇⊇aSE.DOW∴.TheTheOryOfCharisヨa︒∵︻こ㌢註温計よ官爵−ヰーニL纂u.p.望遠.
AココR亡thW≡コer﹂蜜ふミ茸鼠算.■C訂をき註こざ宗旨こ打落き長一New Hea言−︼LCndOコ﹂諾やpp.巴・いぃ.
︑守札こpp.巴f.
↓ucker﹂﹄芸二畠.c叫㌻p.ごP 拙稿1カリスマと秩序−ウェーバーとシルズー﹁Ⅰ・Hこ ﹃政⁚宿続柄史学﹄二七〇サ︑二七二サ︵パ九八八年一を参照せよ=
MartinE.SpellCer∵▼Wha二sCharisヨaり︒こn知立針︑〜官等⊇已旦哲へ訂︑へ応︶︑N︷﹂篭Ppp.u︷ひ空中
︑悪札.一P.ピ蒜.
D.L.COheコ∵↓heCO宍ept OfCharisヨa aコdthe Aコa宣sis〇Jeadership︒一iコき︑註c已∽︑邑訂N戸−票N
↓ucker﹂課00﹀与.卜・F−P.謡−.
AココR亡こJ W≡コer and DOrOthy Wi−−neJ■↓he Rise and RO−e O︻Charisヨatic Leaders︒∵コL曽〜罠冴へ斗︑︑罵㌦ご莞3.冠︑〜
﹂こ︑へゝミ.〆 lヽ︑ミ\︑︑三︑ミミ.√三.︑︑﹁′﹁︑こミ∴こ才一害い二十羊.
797 カリスマ的リーダーシ、ノブ論の射程
も︑り工−バーによれば︑一方で︑カリスマ的人物はそのカリスマ的資質の故に﹁超自然的な︑または超人間的な︑
または少なくとも特殊非日常的な︑誰でもが持ちうるとは言えないような力や性質﹂を恵まれていると評価され︑
﹁リーダー﹂として承認される︒しかし他方で︑カリスマ的支配関係にとって決定的なのは︑その資質が実際に存
在しているか否かではなくて︑カリスマ的フォロワーの側にり−ダーの資質に対する﹁信仰﹂が存在していること
であると論じられる︒したがって︑ウェーバーは︑カリスマをある個人の特殊な資質として規定しっつ︑そのカリ 一 ︑
の非呂常的資質に依拠しているのか︑それともフォロワーの認証に依拠しているのか︑という疑問が生ずることと
なったのである︒
この間いが重要な意味を持つ理由は︑﹁カリスマ的り1ダーシップ﹂においてリーダーの主体的行為とフォロワI
の主体的行為とが一休どのように関連してり−ダーンップ過程を形成しているのか︑という問題と結びついている
からである︒もしも﹁カリスマ的リーダーシりプ﹂において︑フォロワーによるカリスマの﹁承認﹂を重視するな
らば︑カリスマ的リーダーに対する服従をあくまでフォロワーによる主体的行為と見徹すことが出来るであろう︒
というのも︑カリスマ的支配関係が正当な支配関係であるのは︑リーダ1の﹁個人的カリスマが証しによって﹃妥 りし 当している﹂−すなわち︑承認を見出しているし範囲内で︑またその間だけ﹂に過ぎないからであ告それ故︑
被支配者︵フォロワ⊥ に何等の幸をももたらさず︑﹁袖に見捨てられ﹂︑あるいは︑指導者資格に対する信頼が失
われた人物は︑カリスマ的リーダーの地位を剥奪されるべきものなのである︒
この点に着目すれば︑カリスマ的フォロワ1のり1ダーに対する優位を導くことが可能であるかのように思われ
る︒それ故︑しばしば︑カリスマ的り−ダーの認証が︑カリスマ的フォロワーの例の認知に依存している点が強調
されてきたのである︒例えば︑カミックは︑いかなる人物であれ︑ア・プリオリにカリスマ的であるような人物は
四二九
開 法(40h3・4) 798
四二〇
存在しない︑と主張する︒それを例証するのは︑同一の人物がある人々にとってはカリスマ的であると見倣され︑
他の人々にとってはカリスマ的ではないと見徹されるという事実︑また︑ある時期にカリスマ的と見徹された人物
が︑別の時期にはカリスマ的ではないと見徹されるという事実︑そして︑同一の人物が様々な理由でカリスマ的と
︿3一 見仮されるという事実である︒換言すれば︑カリスマ的り−ダーは︑決して無制約なり−ダーではなく︑フォロワ
ーの範囲と︑フォロワIをとりまく状況と︑フォロワーの重視する価値とによって限界づけられている︒それ故︑
リーダーのカリスマ性を認定しうるのは︑そのり−ダーを承認するフォロワー以外のものではあり得ず︑カリスマ
の非日常的資質の内容を何らかの﹁客観的な﹂資質に特定することはできない︒ウィルナーの言葉を借りれば︑カ
リスマの妥当性にとって決定的なのは︑リーダーの実際の姿︵whattheleaderis︶ というよりも︑リーダーが彼の
丁†︶ 権威に従う人にどのように見徹されているかという点にある︒
けれどもこうした考察は︑結局のところ︑﹁様々な人物が様々な理由と様々な状況に於いて特殊である﹂というこ
︹5一 とを語っているに過ぎず︑カリスマ的リーダーシップの特質は依然として不明瞭で多義的な状態に置かれている︒
しかも︑より重大な問題は︑こうしたフォロワーの位置づけからは︑次のようなカリスマ的リーダーシップの性格
を説明する事が出来ないことである︒というのも︑ウェーバーは︑カリスマの的人物に対するフォロワーの服従が︑
決してフォロワ1の任意的な判断にゆだねられる性質のものではなく︑まさしくフォロワ1にとっての﹁義務﹂ で
▲b あると述べている︒さらにまたウエーバーは︑カリスマの後継者の選出が︑決して ﹁選出者の意志﹂ の顕現を示す
︵7一 ものではなく︑候補者の中からのカリスマを発見する過程であることを強調してもいる︒したがって︑フォロワー
の承認がカリスマ的り−ダーシツプの不可欠な要素を構成﹂ていることは疑いないとしても︑フメロワーはむLろ
徹底してカリスマ的リーダーの存在に依存しているのであって︑フォロワ1による承認の必要性は︑決してリーダ
ーに対するフォロワーの自立性や優越性を意味するものではありえない︒だとすれば︑逆に︑一度カリスマ的りI
799 カリスマ的リーダーシップ論の射程
ダIが登場したならば︑カリスマ的フォロワーは︑リーダーに対する全面的な服従を余儀なくされている存在に過
ぎないのであろうか︒
以上のようなカリスマ的リーダーの優越性とカリスマ的フォロワーの承認との問の二律背反を整合的に理解する
為には︑﹁反権威主義的に解釈変えされたカリスマ﹂の議論を考察することが有効な手がかりを与えてくれるであろ
う︒というのも︑大衆民主主義状況に於けるこの ﹁カリスマ的リーダーシップ﹂ の形態において︑もっともフォロ
ワーの意義が鮮明に示されるであろうからである︒それ放︑われわれは︑その議論の中から︑リ1ふイーの行為とフ
ォロワーの行為との関係を把握することによって︑カリスマ的り−ダーシリブの過程を明かにしてゆきたい︒
それではまず︑﹁反権威主義的に解釈変えされたカリスマ﹂の特質はいったい何処に存在するのであろうか︒それ
は第一に︑リーダー選択権が︑フォロワーの側の政治的な判断に委ねられている点にある︑と解してよかろう︒と
いうのも︑この形態のカリスマ支配においては︑被支配者によるカリスマ的人物の義務的な承認が︑カリスマ的支
配者の正統性の ﹁結果﹂ではなく正統性の﹁根拠﹂と見放され︑それをウェーバーは﹁民主主義的正統性﹂と呼ん
﹁ロU﹀ でいるからである︒ウエーバーによれば︑﹁自らのカリスマに基づいて正統性をもっていたヘルは︑被支配者の恩寵
によるヘルに転化し︑彼らはヘルを︵形式的には︶ 自由に︑自分たちの好みにしたがって選挙し︑任命し︑場合に
︵qこ よっては︑罷免もするようになる・・・ ヘルは︑今や︑自由に選挙された指導者に転化する﹂︒それ放︑このカリ
スマ的り−ダーシップの形態においては︑一見政治的リーダーシップの主導権が被支配者の側に移行したかのよう
に思われることとなる︒
ところがウェーバーは︑その﹁反権威主義的に解釈変えされたカリスマ﹂ の下位類型たる﹁指導者民主主義﹂に
ついて以下のように語っている︒すなわち︑﹁∧人民投票的民主制>−指導者民主主義のもっとも重要な類型−は︑
その真正な意味からすれば︑l種のカリスマ的支配である︒それがカリスマ的支配であるということは︑被支配者
四三一
開 法(40y3・4)800
四三二
1∩∵ の意志から引き出され︑この意志によってのみ存続する正統性という形式の背後に︑隠れている﹂と/∪ ここでウェ
ー バーが指摘しているのは︑l見被支配者の意志に依存しているリーダーが︑﹁実質的な﹂観点からみれば︑自らの
意志に基づいたカリスマ的な支配を遂行している︑ということに他ならない︒それがカリスマ的であるというのは︑
り1グ1の支配が︑フォロワーのリーダーの人格それ自体に対する非合理的な帰依に依拠しているからである︒こ
のことは︑﹁カリスマの純粋刑土﹂と同様に︑第一の特徴であるフォロワーの側のリーダー選択権の存在が︑決してフ
ォロワーのリーダーに対する自立性と優越性とを意味するものではない︑ということを示している︒したがって︑
﹁反権威主義的に解釈変えされたカリスマ﹂ の第二の特徴は︑やはり依然として︑リーダーシップ関係における主
導権が圧倒的にリーダー個人の側にある︑という点に見出される︒
当然のことなから︑政治学者たちはこの大衆民主主義的状況下におけるリーダーシップの実質を﹁カリスマ的支
配﹂と把握するウェ㌧ハ1の理論構成を放置することはできなかった︒ かれらの批判は︑こうした人民投票的な﹁カ
リスマ的り−ダー一が﹁全体主義的リーダー﹂ へと通ずるものであるという点に集中し︑その批判においてとりわ
け問題視されることとなったのは︑﹁カリスマ的リーダーシップ﹂がフォロワIの非合理的で無批判的な服従を導く
という点であった︒事実ウェーバーによれば︑カリスマ的支配者とカリスマ的被支配者との関係はきわめて非合理
的で情緒的な性格のものであり︑カリスマ的人物は︑﹁あらゆる個々の生活様式や﹃現世﹄一般に対する一切の態度
−︑ のまった︿新たな志向を生み出すことによって︑信条や行為の中心的な方向を変革する﹂︒カリスマ的リーダーは︑
そうした﹁内的変革﹂をもたらす程の︑フォロワーのリーダーに対する強い情緒的コミットメントによって︑絶対
的ともいえるような服従を獲得することが可能なのである︒それ故︑例えばモムゼンが最も批判するのは︑﹁人民投
票的指導者民主制﹂ の情動的性椅によって︑大衆の信任を得たカリスマ的リーダーがフォロワーから無条件の服従
を引き出すという点であり︑﹁組織された利害を超えて大衆に情動的に呼びかけることは︑とりわけ大衆の従臣化を
801カリスマ的リーダーシップ論の射程
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目的とする場合には︑−少なくとも純粋形態においては−全体主義的支配形態に至る道である﹂からであっか︒
したがって︑多くの論者が︑カリスマ的リーダーシップの特殊性を様々な形で際立たせることによって︑﹁反権威
主義的に解釈変えされたカリスマ﹂ のもつ全体主義的な傾向から逃れようと試みたのは不可避的な経緯であったと
言えよう︒Lかしながら︑その結果︑リーふイーシップ論の観点からみれば︑カリスマ的色彩をどれだけ払拭するこ
とができるか︑という点にカリスマ的リーダーシップの問題は縮小されていったのである︒けれども︑カリスマ的
り−ダーシツプがそうLた否定的な意義しか担っていないのか否かを判断するためには︑一見矛盾するように思わ
れる第一の特徴と第二の特徴とを一方を切り捨てることな︿検討しなければならない︒
それでは︑ウェーバーは何故﹁指導者民主主義﹂を﹁カリスマ的γ−ダ﹂ンソプ﹂の一形態とLて捉えたのであ
ろうか︒この間題に対しては︑一般に︑﹁カリスマ的り−ダーシップ﹂がり−ダI個人の自由な活動を最高度に保証
する政治形態である︑という理由が挙げられる︒確かに︑周知のようにウェーバ1は︑﹁人民投票的拾尊者民主制﹂
をなによりもまず現代の﹁合法的社会﹂ における﹁官僚制化﹂の趨勢に対抗するものとして主張していた︒すなわ
ち︑現実の支配の所在を﹁日常生活における行政﹂ に見て取ったウエーバーは︑強力な権力本能と権力者にふさわ
Lい資質とを備えた人物を指導者に据︑え︑そうした政治指導者に官僚的な統制から自由な政治活動の場を与えよう
3ノ とLたのである︒こうした﹁指導者民主主義﹂ に関するウェ﹀バーの見解の背後にある意図を取り出して︑モムゼ
ンは︑﹁彼はカリスマ的突破よりも沈滞と硬直化とが時代の真の危険物だと考えた︒彼の見解によれば︑政治におけ
るダイナミズムと政治の可能性とが致命的に失速していく状態は︑その対立物である﹃カリスマ的リーダーシップ﹄ 4 −1 によってのみ︑回復されるであろう﹂︑と述べている︒したがって︑カリスマ的リーダーシップの意義は︑まずもっ
て︑それがりⅠダー個人の自由な政治的活動を保証する点にあると言ってよい︒
それに加えて︑ビーサムは︑ウェーバーの政治的り−ダーシソプの強調が︑単に官僚制の進展と近代政治の大衆
四三三