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「 ア リ ス 」

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(1)

「 ア リ ス 」 か ら 「 ア リ ツ ィ ニ ャ 」

侶「アリツィ二ャ」

ここに二冊の本がある。ALJCE'SADVENTURESZNWqDNDERLAND(一八六五)および、AL[TJ[]N

DREAMLAND=ALZTJJWANGURATRJKURMA

NKUNTJALA(l九九二)である。前者は日本にも愛

読者の多い﹃ふしぎの国のアリス﹄(以下「アリス」)の

原著である。

後者は、「ドリームラソドのア‑ツィニャ」(以下「7

‑ツィこャ」)であり、「アリス」をオーストラ‑ア先住

民アポ‑ジニーズの三一口語であるピッチャソチャチャラ

語に翻訳した版である。アボリジニーズは石器文化を発

達させ、文字はもたなかった。本書に印刷されている文

字は、英語のアルファベットを借用したものである。

編集者の覚え書によればテクストは一九七四年に完成

し、バイロソーウェルの挿絵をつけて出版されてい

る。しかし白人の手になるアポ‑ジナル風の挿絵であっ

たため、Es

ee m s in ap p

ropriatelohaveartwork

b

ya

百 々 佑 利 子

nonIAbori

gin at to itt u s

tr

ate th e P itj an tj

atjaratext.'

アソバラソスな感触がまとわりついていたそれか

ら一八年後に、アポリジナル画家を迎え挿絵を新たにし

て刊行された。

ほぼA四版を横にし、絵本の体裁をとった本書は、副

題に「AnAboriginatve

rs io

nofLEWISCAR

E

)L,L'S

ALJCEJSADVENTURES[NT440NDERLAND」とあ

る。クレディットの隣頁が'目次である。向かって左に

KAMPA、右にC

O N

TE

N

TSとあるように、目次から

本文まで、ピッチャソチャチャラ語と英語が併記されて

いる。但し英語のテクストのほうは原著のそれでな‑、

ピッチャソチャチャラ語テクストの忠実な英訳である。

タイトルも同じで、ALZTJ[[NDREAMLANDは英語

のタイトル、AL,Z

T JJ N

YANGURATRJKURMANI

KUNTJALAはピッチャソチャチャラ語のタイトルとい

うことになる。英文テクストの内容は、ピッチャソチャ

チャラ語で語られる物語の完訳である。その内容は小文

28

(2)

で章毎に紹介する。

「アリツィニャ」はl

O

章にわかれており、

G to

s

sa ry

を除いた本文は一

〇 〇

頁あり、そのうちおよそ三分の一

が挿絵に割かれている。「アリツィニャ」のテクストは、

「ア‑ス」のテクストのおよそ三分の一という抄訳ある

いは翻案である。

小文では、「アリツィニャ」の成立について述べたの

ち、アポリジナル版アリスと原著「アリス」を、章を追っ

て比較したい。誕生以来二二

年強を経た「7‑ス」が、

いまはマルティカルチュラリズムの先進国であるかつて

の英植民地オーストラリアの先住民文化に'そして北半

球とはまるで様相を異にする豪大陸の風土に如何に移植

されているかをみるためである。と‑に「アリス」文学

の生命である'「言語の遊び」、ノソセソスの面白さが如

何に理解され生かされているかを考察しなければならな

い。

回「アリツィ二ャ」の誕生

「アリツィニャ」の産みの親ともいうべき「アリス」

の成立はよ‑知られている。児童文学者の間では運命の

時のように思われている一八六二年七月四日のL

in th e

g ol d e

naftemoon'に、オクスフォード大学クライスト

チャーチ・カレジの数学の教師チャールズ・ラトウィッ ジ・ドジスソ(一八三二‑一八九八)は、同カレッジの学

寮長‑デル氏の愛娘三人'ドジスソいわ‑Lc

ru

etT

hr ee !

'

を、テ

ムズ川の舟あそぴにつれだした。舟の上で三人

は、ドジスソ先生にお話をせがむ。そのときに、

言 he re w itt tx! n

onsen

se in

it!'と予言者のようにいったのが

中の娘にて物語の主人公となる当時一

歳のアリス・

リデルだった。アリスは、自分が活躍するノンセソス・

テイルズをいたく気に入ったに違いない。即興に語られ

た物語を文学で綴るように'ドジスソをせかした。ドジ

スソは物語を書き下ろし、苦心して自身の挿絵までつけ

た手作りの本を、アリスに啓上した。AZ,JCE'SADVI

EN T URE SUN D ER GLD UND

(一八六四)である。こ

の原本自体が長い旅路を経た末に世に出るのだが'それ

は我々にはもう既知の旅である。

「地底のア‑ス」を少女アリスにプレゼソトした一年

後、世界中で読まれてきた

A L

/CEJSA

DV EN 7V R ES

/NT4qDNDERLANDが'ドジスソあらため筆名ルイス・

キャロル(LewisCarroE作'サー・ジョソ・テニエ

ル(JohnTenコieこの挿絵で刊行された。作者が死亡

し一九

七年に版権が消滅すると、「アリス」は、抄訳

版をはじめ様々の版で出版されるようになった。画家の

想像力を大いに刺激するアリスの物語とあって'挿絵を

手がけた画家も数多い。編集者がALJCEZNMANY

(3)

TON

G U

ES(ゥィスコソシソ大学出版局、一九六四)の

リストで調べたところによると、「ア‑ツィニャ」の初

版(一九七四)は、四四番目の言語による翻訳になる。

さて「アリツィニャ」である。「7‑ス」という英名

は、ピッチャソチャチャラ語で発音されると、英文タイ

トルからわかるように、「7‑ツィ」となる(英名が日

本風に発音された場合と同程度の〟変化〟である)。「ア

リツィニャ」は、アリツィにもっとも近いピッチャソチャ

チャラ語風の女の子の名前である。小文は、ピッチャソ

チャチャラ語からの英訳を基にするので、「アリツィこャ」

でな‑「アリツィ」としなければいけないのだが、アポ

‑ジナルの読者が読む物語という意味をこめて「アリツィ

ニャ」版と表示してお‑0

翻訳を手がけたのは、ナソシ

・シェパード(Nancy

S h ep p ar d )

であり、一九九二年版の挿絵画家はナ・

レズ‑ィ(D

o

nn

a L e s‑ ie )

である。初版の挿絵画家シー

ウェルについては、ルイス・キャロルのコレクターであ

る白人画家、アポリジナル絵画の研究者であったとしか

データがない。

翻訳者ナソシ

・シェパードは、赤い砂が支配するオー

ストラリア中部

7‑ス・スプリソグズに近い7

ナベ

ラで、1九五五年から十年強'アポ‑ジナルの子どもた

ちが通う学校に勤めた。その間にピッチャソチャチャラ 部族の人々と交流し、その言語を学び、部族の領域の自

然や動植物に親しんだ。ピッチャソチャチャラ部族は'

現在の行政区画を借用すれば、南オーストラリア州西部

から、西オーストラリアおよび北部準州にまたがる広大

な地域をテリトリーとして栄えていた。創世神話や伝説

をあまた伝承してきた文学性豊かな人々である。シェパー

ドも伝承に接する機会に恵まれ'何話かを英語に訳した

り、逆に英語の教材をもとにピッチャソチャチャラ語の

教材を部族の子どもたちのために作ったりした。教職か

ら退いてのちは南オーストラリア州の都会アデレードに

移り住んで、アデレ

ド大学と協力して、アボリジニー

ズの文化復興、とりわけ子どもたちのためにストーリー

テリソグの場を復活させるために尽力している。

挿絵を描いたドナ・レズ‑ィは三

代初めの若い画家

であり、ガミレロイ部族に属し、ニュ

・サウス・ウェー

ルズ州西部に生まれて育った。メルポルソで美術と教育

学を学び、個展を何回も開いた実力の持ち主であり、大

地と人間の結びつきを絵筆で蘇らせたとの定評を得てい

る。カラフルな挿絵を紹介できないのは残念だが、ピッ

チャソチャチャラ部族のテリトリ

の大半を占める砂漠

の赤土が絵本の基調になっている

少女アリツィニャは

裸だが、タスマニア島など雪の降ると‑に寒い地域以外

では、裸がアポリジナルの普通の姿だった。髪は黒‑'

30

(4)

目鼻立ちもアポリジナルの少女のそれである。ピッチャ

ソチャチャラ語のテクストとその英訳が最初に世に出た

のは一九七四年であり、テクストは楽しみのもととして

も教材としても使われ続けてきたが、ドナ・レズリィが

挿絵を付けてはじめて、「アリツィニャ」はアポリジナ

ルの子どもたちが楽しめる絵本として誕生した。

回「アリツィ二ャ」の冒険

「アリス」に親しんだ読者なら、表紙をめ‑ったとき

に、タイトル頁の装丁に逆さまにぶらさがったフルーツ

コウモリが登場するのを見て面食らうかもしれない。オー

ストラリア大陸に育つ子どもならば、人種を問わず、親

近感を抱‑だろう。果樹園の実りが豊かになるときまっ

て大群をなして飛びかい、ぎゃあぎゃあとうるさ‑鳴き

たてる有袋額である。

二言語併記の目次の左側のクレディットの頁には'宇

宙人というか'ばい菌を漫画仕立てにしたというか、ラッ

キョウ型の面をかぶった緑の生き物が三人、とぼけた顔

をして並んでいる。両わきの二人は、槍をもっている。

い忙しえのアポリジナルの狩人が使った槍だ。しかし軽

いタッチと線でユーモラスに描かれた緑の三人組は、ゆ

るやかな衣服の輪郭がドットでなぞられている以外、ア

ポリジナル風の絵とはいえない。タイトル貢とクレディッ 卜頁を通過した読者は、ご‑身近なオーストラリアの大

地を舞台に、欧米のものともオーストラ‑アのものとも

測りかねる、だがユーモアがふんだんに詰まっている物

語が展開されるのだなと予感を抱‑だろう。

その次の頁には'物語の前奏曲となる絵がある.一貫

の中央をピソクの流れが横切る。そこに座る二人の、肌

が褐色の少女たち。向かって左には、真っ白のカソガルー

が'網袋と杖をもってはねている。前景は緑の草地、遠

景はユーカリ樹がそびえる赤土の原野である。これから

先は「アリツィニャ」版のスト‑リを、章を追ってみて

いきたい。ピッチャソチャチャラ部族の子どもたちは、

赤茶の囲みに入っているピッチャソチャチャラ語のテク

ストを愉しむだろうが、小文ではその横に印刷されてい

る英訳を用いて比較をすすめる。

早「Dow⊃the一eL

「ア‑ス」の章題は、DowntheRa

b bi T H o︼ e

であ

る。オーストラリアにはもともとウサギがいなか

たの

で、ピッチャソチャチャラ語には、ウサギという言葉が

ない。訳者は章題から「ウサギ」をとり、アリツィこャ

は、白ウサギでなく、自力ソガルーを追いかけて穴に飛

び込むことになる。

退屈しているアリツィニャはーRohdear↓ohdeary

(5)

me.Ⅰ﹀m‑ate∴‑といいつつ走り過ぎる自力ソガルーを 追い、'neverstoppingtothinkhowshewo

u t

dget

outagain∴と、向こうみずにも穴に飛び込む。この筋

は忠実に原著に沿っている。異なるのは、小道具であり、

アリツィニャの置かれた環童である。

アリツィこャはつまらなそうな本を読んでいるお姉さ

んの側で退屈しているのではな‑、えんえんと物語を語

るお姉さんの横にいて退屈している。アポリジナルは文

字をもたなかった。語りの場は、伝説、歴史、民話を知

る図書館として、神聖ですらあった。子どもたちは、「語る」修行を長年させられる。修行がアリツィニャの

ようにまだ幼さを残しかつ活発な女の子にも面白いかど

うかは、また別の次元の問題である。

白ウサギの配役をもらった自力ソガルーは、扇や手袋

をもった白ウサギがwaistcoaTpock

et

からwatchを取

り出してアリスを驚かせるように、白い毛皮をまとい、

diy‑bagとdigging‑stickというアポリジナルの暮し

に欠かせない道具をもっていて、ア‑ツィニャを驚かせ

る。チョッキを着たウサギがいないのと同様、純白のカ

ソガルーはいない。ディ‑1バッグは、草を編んだ袋で、

採集した食糧を入れるもの。掘り棒は、植物の根元の土

を緩めて根っこなどを掘り上げる道具である。

「7‑ス」の愛読者がこの章で喜ぶ箇所、例のThe Antipathiesに続‑ア‑スの独り言の中にオーストラ‑

アは登場する。地球を突き抜けて落ちてしまい、反対側

の(逆立ちをして歩いている)人たちに会ったときに㍉.isthisNewZeatand〜OrAustratia?"と質問しても

いいのかしらと自問する場面である。ニュージーラソド

やオーストラリアの読者は'ダウソ・アソダーとか、逆

さまの国とか、ギャグめいた言い回しを自虐的に楽しむ

すべを心得ている。しかし差別が差別でなかった一九世

紀の英国の上流家庭の娘アリスに比べて、差別に苦しん

できた先住民の二

世紀末に生きる娘は'逆さまに歩‑

人々と同化しようとする。"imustfattrightthroughtheearthsoon,

an d

thenHsha‑1cometosomeotheradomosphere.

Isupposet'ttseeadifferentsun,outbeyondthisearth.Andthere

m

i

g

htevenbepeopteI

peoptewhowatkup

sid e‑

dow

n ,

perhaps,inthat

otherISideptace.HowshaltIspeaktothem?

PerhapsrttbeupsideIdow

n ,

too!"

ア‑ツィニャはー地球の反対側で逆立ちして歩‑人々

に会ったら、私も逆立ちしてものを尋ねようと思うので

ある。

アリスが猫のダイナの餌を心配するあまり、子ネコと

コウモ‑の順序がごっちゃになってしまう場面で、7‑

32

(6)

ッィニャは、餌のほうを言い変えて、

‑iz za rd

とgi

zz ar

d

を混乱して言い間違える。ここは原著通りcatと

ba t

もよかったのではないか。オーストラリアには野生の猫

もコウモリも多数生息しているのだから。

一章のクライマックスは広間で身体が大き‑なったり

小さ‑なったりするアリスの受難である。地下広間のア

イディアは、アポリジナルにとってさほど珍しいもので

はない。アリス・スプリソグズのあたりにも、地上であ

れ地下であれ洞窟は沢山ある。アポ‑ジナルが住居や避

難所に利用していたらし‑、岩壁画も残っている。ウサ

ギをカソガルーに替えたのは、地上を勇壮に跳ねてい‑

カソガルtLか知らないと、突拍子もない変改のように

思えるが、洞窟に描かれた壁画を見ればわかるように、

洞穴カソガルーが生息していた。

アリツィこャが落ちたのは地下洞窟のひとつで、木の

根っこを伝って登れば外界が垣間見られる。だが、開口

部は、アリツィニャが外へ出られるほど大き‑なかった。

そのときアリツィニャは洞窟の中に置かれた自生のトマ

トを見つけて、それを食べる。すると身体がどんどん縮

んでい‑。いざ根っこを伝って登ろうとするが、身体が

小さすぎて根っこにつかまることすらできない。ところ

がまたまたヤムイモを見つけたのでロに入れる。

「7‑ス」では'「わたしをおのみ」とか「わたしを お食べ」という指示が現れる。見張られ命令され操られ

て行動するのは'不気味である。「アリツィニャ」版に

は、その不気味さがない。困ったときに適切な贈物が湧

いてくるのは、安易すぎる。もっともアリツィこャが、

受身の少女という設定では無論ない。"Nowst

op

that.

You'rejustacry

‑ b ab

y."と自分を叱りつける強さは

継承している。日常の事の成行きは退屈だから、まあ変

化があっていいかなと思うア‑スほど'アリツィニャは

積極的ではないが、㍉

.in th

isp一

ac e so m an y str a

nge

th in gs h

a

a h ap pe

nedthat

o

n

e ex pe ct s

{

he

maE

th e tim e

."と我とわが身を納得させる程度には前向き

である

二 章 「1 he

Po〇

f le

ars

この章では、三メートル近‑身体が伸びてしまったア

リスがだぶだぶ涙を流し、涙の池でネズミなど動物たち

といっしょに泳ぐ話が綴られる。

アリスが途方に暮れて泣いているときに通りかかった

白ウサギは、アリスに話しかけられてびっ‑りし'扇と

手袋を落として逃げてい‑。「アリツィニャ」版で自力

ソガルーが落とすのは'ウ

メラである。ウ

メラは、

うなり板とでも訳すのだろうか'板に人間の毛を編んだ

紐が結びつけられていて、投げると、うわーんというよ

(7)

うな共鳴音を発する。ピッチャソチャチャラほか、

メラが投げられて落ちた瞬間に生ずる変身の伝説を伝え

る部族は幾つかある。ウ‑メラを握ったまま、アリツィ

こャはどんどん小さ‑なってい‑。アリツィニャがウー

メラを拾って変身をとげるのは、アポリジナルの視点に

立てば理にかなっている。

アリスが自信を喪失しかけて、四五の十二、四六の十

三と、間違ったかけ算をする場面は、九九を習いたての

小さい読者に人気がある。読者は自分が優位に立てるだ

けではな‑、独りぼっちで見知らぬ土地にいながらなお

自我を保とうとする強い少女が少々自分のレベルにおり

てきたような'安堵感を得られるからだ。しかしかけ算

のないアポリジナル文化には、九九は登場しない。「ロ

ソドソはパリの首都で、パリはローマの首都で‑」の箇

所は、次のように変えて語られる。

"

Le

t

m e se e , Itj in p iri is

t

o th e w e st an d W ami k

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a

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m be

r

'

アリツィニャも混乱している。ウルルを忘れるとは。

ウルルは、英語名をユアーズ・ロック、世界最大の一枚

岩である。ウルルがク‑1ク(季節的に干上がる川)に

かかっているはずがない。ウルルは、中央砂漠をテリト リーとするアポリジナル部族にとって宗教的に神聖な地

とされており、アポリジナル部族の成員ならばよほど精

神に混乱をきたさないかぎり、ウルルの場所を忘れるは

ずがない。アリツィニャは、本当に気が動転していたの

である。

そこへネズミが現れる。アリスは、フラソス語の初等

教科書にある文章「

O tA es t

machatte?Jと口走って

しまう。天敵である猫の名を聞いたネズミは震え出す。

同じ場面で発するアリツィニャの不用意な言葉は、現代

のオーストラリアの子どもたちでなければわからない。

"

It (H op p in g M ou se ) do es

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p ea k

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se n te nc e in h er P iti ja n tja tja ra Le ss on . (t m ea n t : "

Wh

er e

isthedog?

"

)

ピッチャソチャチャラ部族に属する子どもでも、幼い

ときから自然にピッチャソチャチャラ語を聞いて覚える

子は多‑ない。古来の部族生活が崩壊したいま、先住民

文化復興運動の恩恵を受けて、小学校であるいは中等教

育であらためて母語を教わるのが現状である。その初等

教科書(ナソシー・シェパードが作った教科書かもしれ

ない)の冒頭にある文章の一つが、犬はどこですか‑な

のである。犬は、琴猛で嫌われものの山犬ディソゴのこ

34

(8)

とだろう。ディソゴは氷河時代に浅いイソドネシア海域

を渡ってきたといわれる。ディソゴの人なつこさをアポ

‑ジナルの人々は知っているが、ア‑ツィニャがt.

he.sawonderfutkanngaroocatcher."というように、

他の動物たちにとってディソゴは恐ろしい存在だ。ネズ

ミが震え上がったのも無理はない。

Gettin

g D ry

a

n

dtheLo

ng T

a

一e

コーカス・レースが

章題から抜けている。英国の政

治用語であるコ

カスにあたるピッチャソチャチャラ語

は無い。代わりに章題に使われた「身体を乾かすこと」

は'もともとコーカス・レ

スの目的である。

三章では'岸に上がった動物たちとアリスが、身体を

乾かすという目的は‑つながら、歯車の合わないやり取

りをする.ネズ,,,のいう"..thedriestthingIknow."

に続‑だらだらとした話は'ウィリアム征服王について

の無味乾燥な(まるで歴史の教科書の一節のような)記

述である。それが「アリツィニャ」版では次のようにな

JhavesomethingtosaythatwiEmakeatldr

y .

⁚HntheerybeginningweaEhaddrysca‑yskin,)ikethelizard."

"Ugh."saidthePortLincotnParrotwitha shier.

「いちんはじめのとき、わたしたちはみな‑・」は、

キャンプ・ファイアを囲んだ語りの場における定型の出

だしである。「いちばんはじめのとき」とは、「夢の時

代=ドリームタイム」を指す。「アリツィニャ」の英文

タイトルにある「ド‑1ムラソド」は、創造神話中の先

祖たちが夢を見ていた土地である。ド‑1ムタイム(ピッ

チャソチャチャラ語では'アルチャリソガ)にあっては、

ものみなが人間だった。ところが様々の事件が起きて、

ある人間は鳥になり、ある人間はカソガルーになり、あ

る人間は岩や島になった。変身に至る過程の行動が'ド

‑ソグである。ドリームタイムが終わった瞬間から、

変身は永遠に不可能になった。アリスが夢から覚めたと

きと同じである。鳥になった人間は鳥のまま、カソガルー

になった人間はカソガルーのまま'永遠に人間の姿をと

り戻すことはできな‑なった。しかし人間のままで残っ

た人々は、足元に、樹上に、水中に、昔の仲間たちを見

ることができるし、自然界の諸々を慈しむことによって'

仲間たちを慈しむことができるのである。「アリツィニャ」

版に使われた懐かしい語り初めは、読者あるいは聞き手

たちを、臨場感に満ちたド‑1ムタイムの物語に誘いこ

む効果を発揮する。

ネズ‑の話が終わっても、身体がちっとも乾かないと

(9)

不満をもらすアリスに、ド‑ド‑鳥は、コーカス・レー

スをしようと提案する。「アリツィニャ」版でも、固有

名詞を抜かした"a

ra ce in a

ci

rc l

e"を、ド‑ド‑鳥が

提案する。

三章で読者の目をひ‑のは'ネズミの長い尻尾の形に

‑ね‑ねと書かれたネズミの身の上話だろう。「アリツィ

こャ」版は、法廷や裁判の話が語られる「アリス」版で

な‑、元本つまり「地底のアリス」のそれを採用してい

る。改変は「地底のアリス」の中で「マットの下のネズ

ミ」と語られているのを、「地面の下のネズ‑」と言い

替えた部分だけである。この詩の内容は、オーストラリ

アのネズ‑の境遇にも違和感なくあてはまる。同じこと

は、二章のワニの詩についてもいえる。「アリツィニャ」

版に「ア‑ス」からそのまま使用可能なものには、詩が

多い。

四章「T

he

w

hit e

K

a

n

g a

r

oo se nd s

in

a

LittleTin

ka

ウサギについて家に入

たアリスの身体がまた大き‑

なってしまい、腕をにゅっと窓から突きだす始末だ。外

からその腕を見た白ウサギは、あの腕邪魔っけだと、ト

カゲのビルを煙突から下ろし(ビルは7‑スに蹴飛ばさ

れて吹き飛ぶ)、次に石をアリスに投げつける。石がお

菓子に変わったので、アリスはそれを食べて小さ‑なり、 外へ出てキノコの上にいるイモムシと出会う。

アリツィニャは'自力ソガルーの住まいである樹皮と

草と枝の家にはまって出られな‑なった。屋根から下ろ

されたのは、小さなティソカである。ティソカは'ピッ

チャソチャチャラ語で小トカゲを指す。ティソカはトカ

ゲのビルのように、アリツィニャの膝で蹴上げられ、死

にそうになる。四章の「アリツィニャ」版は、練瓦の家

が樹皮の差しかけ小屋になっただけで、「アリス」とほ

とんど変わっていない。ただし最後にアリツィニャが見

るのは、キセルを吸っているイモムシではない。

'.

Sh e g az ed in to a

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c

h e

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in g m in gk u tp a , o bt iv io u s o

f

h er p re se n ce

.

'

オーストラ‑ア以外の土地で暮らす読者にと

チェティ・グラブは、何も意味しないだろう。これは蛾

の幼虫で、オーストラ‑アの土中や木のうろの中にいる。

大人の男性の手のひらの差渡しほどの長さの、ク‑1ム

色をしたイモムシである。アポリジナルの重要なタソバ

ク源でもある。

枯れ木をとんとんと地面に叩きつけると、うろの中か

らぽろりと生きたイモムシがころげ落ちて‑る。それを

焚火の残り火に埋める。しばら‑してから灰をかき分け

ると、表面のけば(毛)が焼け落ちてつるつるになった

36

(10)

イモムシが現れる。外側だけほんのり焦げている。これ

を食べるのである(私事になるが、アリス・スプリソグ

ズのアポリジナル・キャソプで、ウィチェティ・グラブ

を賞味する機会があった。チーズのような味わいと聞い

ていたが、ちょっとぴりっとした香ばしさがあって'な

かなか美味だった)0

四章から五章に移る前の挿絵を見ると、白‑てふんわ

りふ‑らんだイモムシが措かれている。白い体のてっぺ

んに、白い眉毛に大きな目玉の顔が乗っている。顔の擬

人化は少々安易で、おいしそうな感じが半減する。町住

まいのアポ‑ジナルが増え'画家もイモムシを食用とみ

なしていないのかもしれない。

「アリス」のイモムシは、テニエルが後ろ姿しか描い

ていないので、おいしそうかどうかは判らない。しかし

テニエルもキャロルも、よだれを垂らしてイモムシを見

つめる読者がいるとは夢にも思わなかっただろうから(知ったら、逆立ちして歩‑よりもっと奇妙な風習だと

思ったにちがいない)'どんな顔か判らな‑てよいので

ある。

五章「A

dv ice

fro

m

aWitc

hety

Grub

身体の大きさが‑る‑る変わるので、自分が誰だかわ

からな‑なってしまったと嘆‑7‑スに、イモムシは、

.Y ou ar e ol d ,

FatherWit

ta m '

を暗唱するようにいう。

7‑スが長い(ゥ‑アムという固有名詞は使われて

いないが、この詩もほほそのまま「7‑ツィニャ」版に

登場する)を暗唱し終えると、イモムシとア‑スは次の

ようなやり取りをする。

"Thatisn

o

t

s

aid

right ," s

aid

th e C a

terpittar.

"N

o

tqui

te rig h t

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同じ箇所が「アリツニャ」版では次のようになって

いる。

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1日に何度も大きさわるア‑スにしてみれば、こ

のように答えざるを得ない。自信喪失しているのである。

それに引き換えアリツィニャのほうは'おずおずながら、

合っているところだってあるわよ、と言い返す強気の口

調である。びしゃんと否定するイモムシの姿勢はどちら

も同じだ。アポリジナルの伝承物語では、変身はお手の

もの、あるいはどの話でも変身が登場人物たちの主たる

(11)

行動である。若者が鷺に変身する、あるいは若い女が小

島に変身してしまうその変わりようの激しさから思えば、

サイズの変化など些細な出来事である。7‑ツィニャの

遠慮気味ではあれ自信に満ちた口調から、アポリジナル

の女にふさわしいメソクリティーが伺われる。

キノコを食べたア‑スは首が長‑なって(自由に‑ね

らせることもできて)、おまえさんは蛇だと、鳩にいわ

れる。7‑ツィニャは、ミッスルトーの北側の枝と南側

の枝を食べわけて伸びたり縮んだりを操作するが、やは

り蛇のように首が‑ね‑ねと長‑なり、

れてしまう。鳩とアリツィニャによる、

取りは、アリスと鳩とのそれと同じで、

な語り口がそのままに生かされている。 鳩に蛇だと思わ

私は誰‑のやり

キャロルの微妙

Bandicootan

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ltunpaRootJ

「7‑ス」では章の冒頭で、魚顔の召使が蛙顔の召使

に、女王から公爵夫人への伝言を伝える。「アリツィニ

ャ」版では、それが次のようになる。

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召使という職業はアポ‑ジナル社

にはないから、た

だの男になっている。但し、外見は原著と同じである。

女王は、ピッチャンチャチャラ語で、「クソカバ(魔女

霊、と‑に少女を悪意の対象にする)」に、公爵夫人は

「ピリイチャニャ(北風霊)」に変わっている。クロー

ケ‑遊びの代わりであるコロボ‑1は、アポ‑ジナル文

化のなかでもっとも特長的な祭儀である。大きな火を焚

いてその周りに集い、祭儀の目的にふさわしい踊りや歌

が披露され、例えば成人式などの儀式が執り行われる。

煙は合図ののろLであり、煙の高さや強さを調節して、

兄弟部族を呼び集めたりする。赤土(オーカー)を塗っ

た巻毛が絡み合うが、アポ‑ジナル社会では、コロボリー

開催など特別な行事の前に髪や身体に赤、白、黒などの

粘土を塗ったり決められた意匠を腕や胸や腹に描‑。ア

ポリジナルの髪は、直毛あり巻毛あり、色も黒から薄茶

まで多様である。金髪の赤ん坊もいる。成長するに従っ

て'色が濃‑なってい‑。登場人物や集まりの名称は替

えられているものの、言語遊びの愉快で滑稽な味わいは

そのままである。

38

(12)

アリスは(アリツィニャも)家に入る。入ったところ

はキッチソで(炉辺で)、あたりに煙が立ちこめている。

北風霊は赤ん坊に乳を飲ませ、料理女が(べつの女が)、

プを(イツニパ、臭いのきつい根菜を、ビリ

缶の

中で)煮ている。ビリー缶は、オーストラ‑アを代表す

る料理道具である。といっても大ぶりの空缶にすぎない。

紅茶だけはどんな辺寛の地にあっても飲まずにいられな

い英国系の開拓者たちが、焚火の上に渡した枝に針金の

取っ手を引っかけて湯を沸かした。当然ながらアポリジ

ナルの石器文化にはなかったものだが、いまでは、キャ

ソプを張るアポリジナルもどリー缶を使って湯を沸かす。

7‑スとチェシャ猫は、「ア‑ス」の中でとりわけ愛

されている組合せだが'「アリツィニャ」版ではただの

にやつ‑猫になっていて、固有名詞が欠けたぶんイソパ

クトが弱い。ただし歯をむき出したオーストラ‑アの山

猫の絵には'凄みがある。「アリス」で赤ん坊が変身し

た子豚は、オーストラリア固有のげっ歯頬であるソディ

クートに変わっている。バソディク

トは、ネズミより

小さ‑、草食だが穿猛ですばしこい

子豚と赤ん坊には

サイズも含め頬似性がな‑はないが、バソディクートと

アポリジナルの赤ん坊を例え一瞬であれ見間違うとは考

えに‑い。豚は'一八世紀に開拓者が連れ込むまではオー

ストラリアにはいなかった。 アリスとチェシャ猫の問答は、7‑ツィニャと山猫の

問答になる。人間界の常識を揺さぶるふしぎの国(夢の

国)の論理の展開は同じである。ところが山猫は「Hatter」

と「March

H ar e

」ではな‑て、「H

o

rse」と「St

oc km an

のいる方角を教える。ここで「アリツィニャ」は

アポ

リジナルが占有していた頃のオーストラリアの物語から、

後任者が入り込んだのちの物語になってしまう。馬は、

開拓者が一八世紀に持ち込んだ生き物であり、スーツク

マソ(牧童、白人もアポリジナルもいた)は、白人の牧

場に属する人間である。

馬や牧童は、アポリジナルのドリーミソグからの覚醒

を象徴している。もっとも覚醒は、すでにビリー缶の登

場から示唆されている。だが「アリツィニャ」は、ドリー

ムラソドを離れてしまってよいのだろうか。いっぽう

「アリス」は帽子屋と三月ウサギを媒介にしていよいよ

伝承の世界に、不思議を超えて不条理の世界に深入りし

ていき、最後にクローケ‑・グラウソドと法廷というク

ライマックスの二場面に突入するのである。「アリツィ

ニャ」は明らかに逆の方向へ動いている。その成行きを'

次章で見ていきたい。

(13)

七章「B≡yTe

a a

n

d D a m pe

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章題にある

リー缶は

オーストラ‑アの茶会(椅子

やテーブルがな‑ても)の主役である。ダソパ

は、イ

ネ科の植物の種を石で叩いて粉にし水を混ぜてこね、焼

石の上で焼いたものの英語名である。アポリジナルも、

同じような食べ物(ナルクソチャ)を作った。眠りネズ

ミは、コアラに変えられている。コアラは、催眠性のあ

るユーカリの葉を食べてうつらうつらするのが身上だか

ら、うってつけの役柄である。

アリスがブドウ酒を(ア‑ツィニャが、肉片を)勧め

られ'何も無いじゃないの'失礼ねと抗議したところ、

招待されないのに来るおまえのほうが失礼なやつだとや

りこめられる。この‑だりはそのままである。三月ウサ

ギが時計を紅茶に浸す場面は、道具立てが、原著と「ア

リツィニャ」ではまった‑異なる。

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「アリス」で、時計の働きについての人間の常識(い

までは何年かまでを時計は示して‑れる!)が述べられ

る場面で'アリツィニャは濡れてしまったライフルは役

立たないという。ひねりのない応答ではある。

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「時」問答は、会話から会話へ流れてい‑アリスの物

語をひときわ輝かせる。「時」ほど万人が共有するもの

はないのに、「時」の命題ほど人によって答えが異なる

ものはない。「時」の重要性に比してへ「ライフル」の

機能は些末である。しかしアボリジニ

ズは銃によって

全滅させられそうになったし'銃は伝統文化も破壊した。

異人種間のコミュニケ‑ショソが全‑なかった時代の、

オーストラ‑ア開拓初期のアポリジナルは'離れていて

も人の生命を瞬時に奪うことができる「銃」を、白人の

「神」とみなしていた。その意味でいえば、この場面の

馬と牧童とアリツィニャは、「神」の命題について問答

をしていたともいえる。

「アリス」が時(と、時計)を一貫して追究するのに

比して、「ア‑ツィ:ヤ」では、ライフルから太陽(チユ

40

(14)

チヌ、物語のはじめで7‑ツィニャが髪にさしていた、

ヒナギクならぬ赤い実のチソツと音がかけてある)へと

話の穂が継がれる。会話は一貫性を欠き、散漫になる。

アリツィニャは、例によって(7‑スのごと‑)「みん

なのいうことって、さっぱり意味がわからない」といい

放つが、登場人物の多彩さと命題の神秘さゆえに紅茶の

味わいも特別になるティ

・パーティが、なぜ神秘性を

豊かに内臓しているアポリジナルの伝承文化と結びつか

なかったのか判断に苦しむ章である。

この章には、子どもたちがよ‑知っているきらきら星

の替え歌が使われている。「アリツィニャ」では、オー

ストラリアの国民歌である「ウォルツィソグ・マティル

ダ」の替え歌が使われる。「マティルダ」の主人公は、

渡り牧童である。羊泥棒(当時の私刑は、絞首刑)をし

たあげ‑'殺されるよりはと大池に身を投げる。自由気

ままな暮らしを命より愛する男の気迫がこもっていて、

大人にも子どもにも愛唱されている。「マティルダ」の

渡り牧童は白人だが、牧場から羊を盗んで私刑されたア

ポ‑ジナルは数えきれないほどだった。大地を気ままに

歩きたいという「マティルダ」の切ない願いは、アポリ

ジナルこそよ‑分かちあえる。

ビリー缶から「マティルダ」まで、読むほどに開拓時

代のオーストラリア社会が顔を出して‑る。「アリス」 が当時のヴィクト‑ア社会を映しだしているのを受けて、

「アリツィこャ」は同じ頃のオーストラリアを舞台にもっ

てきたのだろうか。ピッチャソチャチャラ語の初等教科

書も新しいオーストラリアの象徴である。訳者は、アボ

リジニ

ズのみが大陸を占有していた時代を、郷愁をもっ

て振り返っているのではないようだ。ピッチャソチャチャ

ラ語と英語の両方のテクストが併記されているのは、英

語しか知らない現代のアポリジナルの子どもたち、ある

いはアポ‑ジナル文化に関心をもつ非アポリジナルの子

どもたちを視野に入れているからだろう。異なる文化を

背負った子どもたちがとりあえず共有しているのは、開

拓時代のフォークロアである。アポリジナルの夢の時代

に限定しなかったのは、共有伝承でもってオーストラ‑

アの子どもたちの心を結びつけたい意図があったとの解

釈も成り立つ。

<章「T

he

Witch

S

pirit'sGa

m

e

冒頭で

トラソプのカードが白バラを赤く塗り替えて

いるところへ、アリスが来る。ハートの女王と王も来て、

ハリネズ‑をフラソミゴの槌で叩‑クローケIが始まる。

「7‑ツィ:ヤ」版では、葉っぱの子どもたちが、赤

土(オ

ー )

を花に振りかけている。魔女霊が主催す

るゲームは

ハリモグラ(エキドナ)をコウノト‑の槌

(15)

で叩‑というもの。人喰い霊を従える魔女霊を先導する

のは、兵士ではな‑、通過儀礼を経たばかりの大人の仲

間に入れてもらう資格を得た若者たちである。挿絵の魔

女霊は、真っ赤な髪に真っ赤な身体、貴重な赤土をふん

だんに使える身分であることがわかる。

ゲームのやり方、首をちょんざれとのべつわめ‑魔女

霊、猫の出没など、この章は、トラソプというユニーク

な道具立ては消えているものの、大きな改変はない。人

間アーチとコウノト‑の槌を握るアリツィニャの挿絵は、

躍動感に溢れている。但しピソクの禿頭の人喰い霊(ロ

はすご‑大きい)はできのよ‑ないsF漫画だし、魔女

霊の絵には「女」らしさが全‑ない。もっともハ‑ーの

女王のほうも'衣装をはいだら女には見えないだろう。

九章「T

he

K

a

ng

a

r

u rt te 's s

tory」

原著のこの章の冒頭

つまり公爵婦人とア‑スのちっ

とも譲りあおうとしない問答が、「アリツィこャ」版で

は順序が次のように変えられている。カットされた部分

も多い。しかし少女のしっかりした気質は、そのまま保

たれている。

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ニセ海亀を知らない7‑スは

女王に連れられてグリ

フォソのもとへ行き、こセ海亀に会う。アリツィニャは、

エミュ

のもとへ連れられて行き、カソガラ‑トルとい

う空想上の動物に会う。カソガルーとタートルの合成語

である。カソガラートルの身の上話は、T

o rt o is e

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の言葉遊びから始まるが、その後は省略され

て、いきなりCha

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ダソスの場面に飛んでし

アポリジナル社会には制度化された教育機関はなかっ

たが、教育の場はあった。男の子は狩猟を教わり、女の

子は採集を教わった。他に神話、伝説などを暗記させる

大事な時間がもたれた。この場面こそ、現代の子どもた

ちに、アポ‑ジナルの古来の教育現場を、ユーモアとジョー

42

(16)

クをキャロル風にふんだんに交えて描いてみせるべきで

はなかったかと思う。もっとも七章の項で述べたように、

現代と未来に視点を置けば'こういう構成にならざるを

得ないのだろう。

ニセ海亀とグ‑フォソは、アリスのまわりを廻りなが

らタラの歌を歌う。アリツィニャが聞かせてもらうサソ

リとカソガラ

トルの歌の詩もまた'流暢でちょっと悲

し‑て美しい。水辺の葦の問に生息する生き物たちが並

んで、滑るように優雅に水草を避けつつ泳ぐという'ア

ポリジナルの言伝えが想起される。

ニセ海亀はスープを想像させるが'(カソガ)ル

ー ・

プは、オーストラ‑アのごちそうの一つである

十章「AlitjiAwakes

法廷の場面である「アリツィニャ」版では、アポ‑

ジナルにとって家庭でもあり裁きの場でもある焚火の脇

で裁判が始まる。魔女霊と人喰い霊が焚火に近いところ

にいて、動物たちがそれを囲み'周りの木々の枝には'

カササギ、鷹、オウム、イソコなどオーストラ‑ア固有

のあらゆる鳥が止まっている。自力ソガルーもいる。

「ア‑ス」でどたばた調に活躍する無学な陪審員は残念

ながらいない。馬と牧童が入場する。牧童はバクつきパ

ソならぬダソパーと、紅茶茶碗ならぬど‑

1

缶をもって いる。彼は死刑の脅しにうろたえて、ビリ

缶をかじっ

てしまう。そのとき、アリツィニャの身体がまた大き‑

伸び始め、コアラは窮屈に感じる。≡"Youhavenorighttogrowhere,Saidthe

Koa‑a.こ"whatnonsense,saidAtitji,morebotdty.tYouaregrowingtoo‑youknow㍉ll"Yes,butIgrowatareasonabtepace,saidtheKoa‑a.

牧童は'帽子屋が逃れたように、罰を逃れる。根菜を

煮ていた女が尋問されたあと、自力ソガル

はアリツィ

ニャの名を叫ぶ。大き‑なった少女は、動物たちをなぎ

倒して立ち上がり、本件について何も知りませんという。

人喰い霊は、空の星に届‑ほど背の高い者は出ていけと

命令する。

それから唐突に(唐突、はこの物語の特徴でもあるが、

Theytold

y o u h ad

beentoher.の詩の場面が省略

されて)'馬泥棒を引ったてよ'首をちょん切れと魔女

霊がわめ‑。アリツィこャは、牧童はついさっき馬に乗っ

て帰っていったでしょと思いださせようとするが、魔女

霊は、黙れと怒鳴る'黙らないわよⅠと7‑ツィニャは

怒鳴り返し、決定的な言葉を吐く。この場面のアリスの

言葉は次のようである。

(17)

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次に、「アリツィニャ」版。

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そのとたん

ものみながコウモ‑に変わりアリツ

ニャ

めがけて飛びかかって‑る。恐怖と腹立たしさにやたら

腕を振り回しながら、アリツィニャは、そこで目を覚ま

した。ひらひら舞い落ちて‑る葉を優し‑払いのけて‑

れるお姉さんに、妹は不思議な夢を語る。

「アリス」ではこの後に妹の見た夢を姉も見て、長じ

て大人になった妹が幼子たちに物語を語るさきの日々に

思いを馳せる。「7‑ツィニャ」版ではそこはカットさ

れている。

回「アリス」から「アリツィ二ャ」へ

一八世紀末、流刑囚が涙に‑れて船に揺られ運ばれて

いった彼方のオーストラリアには、五万年以上も石器時

代の文化を継承してきた先住民がいた。将来性のある広

大な土地を前にして流刑囚の涙も乾き、ここに英国の土

地持ち紳士階級の暮しが夢でな‑なった。牧場に開拓し

たい土地をうろつ‑邪魔っけな先住民は、白人の神であ る銃によって殺された。赤子の首をひねるよりあっけな

‑。そう'先住民はある意味では、赤子同然だったので

ある。白人を見たとき、先住民は先祖が戻ってきたのだ

と思った。死者はいつかこの世に戻って‑ると信じられ

ていた。星の彼方からの長い旅路に疲れ果て'血の気も

失せて、真っ白になって。死者が飼育を始めた牛や馬や

羊は、先祖からの自分たちへの贈物だと解釈し、勝手に

捕らえて食べた。それがまた虐殺の原困となった。伝説

はまことではなかった。アポ‑ジナルも、戻ってきた白

い人々は、先祖ではな‑て、悪霊だったことを悟る。夢

が覚めて、抵抗と争いと死と和解の試行錯誤を辿る歴史

が続いてい‑。

そんないきさつを経た人々が、一九六七年を壁にやっ

と一つの国民となった。他民族社会を機能させるのに、

様々なアプローチが多方面から為されている。訳者ナソ

シー・シェパードと画家ドナ・レズリィの共同作業は、

若い読み手たちに、文学が示す道こそ、人間が人間と自

然を理解するのにもっとも近道であることを示したのか

もしれない。現代の老いた日本と違って、オーストラ‑

アは言霊の威力がまだ残っている若い国なのである。

抄訳、意訳、改変、改悪などと、「ア‑ツィニャ」の

テクストを決めつけることは容易である。しかし決めつ

ける前に、「7‑ス」の真髄である「言語の遊び」が

44

(18)

「ア‑ツィこャ」にも生きているかどうか検証しなけれ

ばならない。

言語の遊び、つまり言語による精神の解放は、ひとえ

に音声に、耳が捉える面白さにかかっている。しかし

「アリツィニャ」はピッチャソチャチャラ語で書かれて

いる。筆者はル

ルに従って一語ずつ読むことまではで

きるが、ピッチャソチャチャラ語の抑揚やリズムや音の

流れを愉しむのは不可能である。従って音声を計算した

魅力については棚上げせざるを得ない。

しかし「アリツィニャ」版は、アポ‑ジナルの子ども

たちの教育現場で、語りものとしてまず取り上げられた

経験がある。歌と踊りが中心にあるアポ‑ジナル文化の

洗礼をそれなりに受けて初めて、書き下ろされた。「ア

リス」の収めた成功を分かち合っているとは言えないが、

聞き手の満足感をある程度得た実績が、訳者に自信を与

えただろうとは想像できる。

オ‑ジナル音声の「翻訳」の困難は、翻訳作品総てに

共通しているのではないだろうか。独語版であれ仏語版

であれ声に出して読んで比較、判断するには、英語力と

独語力、あるいは仏語力とがともに優れていなければな

らないが、近縁の言語であっても、音声効果はひど‑輿

なるはずだ。黙読して完壁な訳に思える何通りかの日本

語版「アリス」でも、声に出して読んで笑える箇所は希 である。ピッチャソチャチャラ語をさらに学んでも「7

‑ツィニャ」版の音声効果を判断する努力は、無駄かも

しれない。原著を超える「アリス」は無いのである。

章を追う際に用いたのは、英訳された「ア‑ツィニャ」

である。「言語の遊び」の音声以外の要素、言葉の意味

の無視や取り違えや連想、造語、鞄語、しゃれなどは、

英訳版をもとに判断できる。

アリツィニャが代表する人間界で通用する言葉の意味

と、人間界の約束事を無視するものどもの道理の落差が

掛合いになる部分は、そのままピッチャソチャチャラ語

に訳されていることが、英訳版からわかる。それは章毎

に見てきた通りである。パロディーは、きらきら星なら

ぬウォルツィソグ・マティルダの替え歌で、鞄語は、

K

an ga ru rtte

の例で分かるように、健在だ。

訳者も編集者も、キャロルの真髄である「言語の遊び」

心を汲み上げることに腐心した。その成果は七章のコア

ラ(眠りネズミ)の三人の少女の話によ‑表れている。

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(19)

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「アリス」では三人の少女の名前は‑デル姉妹の名

前のアナグラムである。ピッチャソチャチャラ風の三人

の名前の中で、アナグラムは、Itjtia、つまりアリツィ

だけである。イルツィは、エルシーのピッチャソチャチャ

ラ語式の発音で、「砂漠」の意味もある。「7‑ス」の

ティリーに似た名前のティ‑は、「炎」あるいは「たい

まつ」を意味する。タソクは、ピッチャソチャチャラ語

ではタソカとなり、雨水を溜める容器である。

話の三人の少女たちは溜め水の中に住んでいた。ピッ

チャソチャチャラ部族などがいた大陸の中央部には、身

体を休め病いを癒すのに、ウォーターホールに入る風習

があった。「アリス」で、糖蜜の井戸を医学的な効果の

ある水が湧いている井戸に掛けているのと同じである。

アリツィニャは、水中に住んでいる少女たちが何を食

べているのか、気になって質問する。するとコアラは、

火を通した食べ物、と答える。水中で、どうやって煮炊

きができるのと驚‑7‑ツィニャに、コアラは思い出さ

せる。だって、中にいる一人はティリ‑炎、なんだぞ、

と。これは、抄訳を与儀な‑させられる絵本という条件

の中で、計算に基づ‑キャロルのノソセソス精神の深み

を、理解し継承しょうと訳者が努力した実例である。 小文で見てきたように、原著の登場人物や道具立てや

舞台がヴィクトリア朝英国の社会現象であったり英国史

に言及した箇所や英国の風土色が濃い箇所が、「アリツィ

こャ」版では大幅に改変されている。「ア‑ス」を読み

親しんでいる読者には、暴挙とみなされる危険性をはら

む作業である。そういう無謀な作業に訳者を駆り立てた

ものは何だろうか。訳者や挿絵画家が「ア‑ス」の魅力

に捕らわれたという段階が、第一にあるだろう。そして

「アリス」とアポリジナル・ド‑1ミソグの探似性も、

訳者や挿絵画家にアポリジナルの子どもたちにこの物語

を紹介したいという動機を与えただろう。

アリスは、夢を見た。アポリジナル文化の基調は、ド

リームタイムの語りにある。ドリームタイムは、創世神

話の時代である。夢の時代に虹蛇が山河を形作った。(人間は、動物が形作った大地から一歩も出られないの

に、自然を征服する夢を見ている。)夢の時代、人間は、

自由自在に変身できた。アリスも(サイズだけだが)変

身を体験するし、アリスが出会ったなかには、服を着て

話をするウサギや魚や蛙がいれば、笑ったり消えたりで

きる猫もいるし、グリフォソやニセ海亀など想像上の生

き物もいる。不可能が可能だった時代をもつアポ‑ジナ

ルの伝承と呼応するものが、キャロルの描‑子どもの世

界にはある。少女が出会う動物たちとその背景は、互い

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参照

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