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ウ ィ リ ア ム ・ モ リ ス 解 釈 の 新 段 階

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(1)

木  村  正  身  

+  

おそらく他の研究の場合混もそうかもしれないが︑好事家的な眠からみれば︑社会経済史や思想史の個別問題紅  

かんする研究の前進と転回の様相軋も︑ちょっと探偵小説じみたところがある︒われわれが犯人を当てそこなう  

場合︑その原因は︑推理がただしくてもそのデータがじゅうぶん揃っていないためか︑あるいはデータほ揃ってい  

のような冷静な眼恍をなかなか払わかに備えがたい︒純粋な数学的・パズル的推理の場合ですらそうであるが︑社   ㌃がそれについての吟味がふじゅうぶんなために推理があやまったか︑めどちらかなのだが︑しかしもし読者の眼   光がするどければ︑前者の場合にも︑与えられていないデータほ既存のデータと反しない態のものとしてその存在   が可能なことの見当がつくし︑また後者の掛合に︑小定のデータほいろいろの相反する解答におなじように役立つ   のだから︑理窟からいえは︑可能な色々の場合をあらかじめ着想しうるはずである︒しかし実際は︑われわれほそ   

会史や思想史の研究では︑欝﹂に︑そもそも必要なデータを揃えることが山とおりの業でほゆかない − したがっ  

で︑われわれの問題意識払おうじで︑あらかじめ見当をつけてデータを逮択的に析出するはかない ー だけでなく  

第二に︑もっとも大切な点は︑データを上おして解答毯見抜く眼が︑たんなるディレッタンートの眼であってほなら  

ないことにある︒つまりそれほ︑たとえばラフリー・クイーンが埋もれた短篇群を掘りおこす︑そしてたまたまその  

なかにディケンズの小粗の珠玉を発見する︑といった腰のものでほない︵努力の過程ほべつとして︒この過程では  

︵四二九︶ ‖ ︼    ウィリアム・モリス解釈の漸段据   ウィリアム・モリス解釈の新段階  

(2)

︵四三〇︶ ニ   第二十九巻 第五号 

たしかに﹃第三者にはおよそばかげてみえる三味境﹄が必要かもしれ禿い︶︒そこではわれわれほ︑たんなる骨董的  

な発見をたのしんだり頭脳の遊戯をおこなうのではなくて︑われわれ自身の切実な問題意識の反映として︑データ  

解釈の水準をつくりあげる︒この点で︑じつは探偵小説の推理と思想史の研究過程とほ︑まったく本質的に異ってい  

る︒われわれがシャーロック・ホームズとなって見当をつけたデータにあたり︑それからただしい解釈1を・ひきだす  

までには︑あらかじめ真に歴史的・社会的巷安当な問題意識がわれわれ白身のうちに熟して︑磨ぎすまされていな  

ければならない︒ここでは︑ただしい犯人空言いあてるのは︑数十分ではなくて︑数十年を要しかねないのである︒   

ところで︑社会史や思想史の研究の前提となるぺきこのような問題意識の小般的高まりほ︑第二次大戦後︑国際  

的規模をもっ七顕著にみ紅れ︑とりわけ歴史の諸画期にかんすぅまた歴史の開拓者たちの限界状況との対決・苦  

斗の意義にかんする評価の水準は︑いちじるしく高められたということができるだろう︒しかしながら︑よく注意  

してみると︑個々の特殊問題どとに︑研究水準の凹凸や問題意識の精粗がいなめないようである︒  

いまこれをイギリス十九世紀ヴィクトリア期の思想史の特殊問題の研究についてみる場合︑第〟に︑その前提と  

して︑すでに功利主義思想ないし社会改良思想を中心之する踏みならきれた途が︑安定した近代産業社会の背景の  

もとに担々と展けていて︑その通史はととのい︵ベア︑コール︑アレブィ︑ステイーヴン︑フェイなど︶︑また個々  

の運動や思想家についてはそれぞれ権威ある資料や伝記が準備され︑それらにたいするパースぺタティヴも二十世  

紀初頭にほおおむね完成したかに争え︑したがって思想史家は︑この期についてほもはや拾うべき多くの問題を見  

出さないかにみえる?すなわちこの腺に従うなら︑この期の思潮の主流の動きはまことに明らかであって︑ペンタ  

ム主義の上に堅固に築かれた﹁ヴィクトリアン⁝\ドル・クラス﹂的知性は終始弾力的・漸進的にトトcOmp;mise︒の  

精神を発揮しっつ平和裡に展開伸張して︑選挙法改正は穀物条令轍廃と︑槻械は労働立法と︑新救貧法ほ植民地か  

ぬ   

(3)

らの富にもとずく﹁登ヱと︑それぞれ﹁交換﹂され︑やがて〝レり/セ・フエール〟ほ1社会改良﹂に無事軋接ぎ   木され︑フェイビアソ的社会改良は異端たる﹁講壇﹂的社会改良√の良きを採り悪しきを捨てつつ︑熟練労働者の要   求と体よく融けあわされ︑また救貧をやがて社会保障へと止揚サる◇こうして思想史の﹁イギリス型﹂︑﹁社会主義﹂   のイギリス版が成立することとなるが︑他方︑みぎの結果として︑功利主義や自由放任のアンチ・テーゼとしての   ヴィクトリア的ロマン主義が後述のように二重の意味でもつきわめて重要な音義は陰蔽されて︑後期ローマン派は  

その予言や社会改良の提案や晩年の苛ノスの不可解な活動をぺつとすれば︑たんなる審美的・回顧的な芸術患潮の   珍重すべき嘉として︑衆人黙許のもとに傭よく文学史の枠のなかへ押しゃられ︑こうして思想史と芸術史との︑   その意味で二野堅思想史と社会史との︑無視できぬ断絶がもたらされたのであった︒したがって言ファ言前派﹂   の人々やカーライルやラスキンやモリスが近代イギリス思想史において占める意味二椴は︑﹁近代﹂ヨーロッパ的研  

究水準においてはかえってますます顧みられないままにすぎたといわねばならないだろう︵第二次大戦終了までの  

わがくにでは︑この点についての問題意識の水準は︑山︑二の研究宜ぺつとして︑さらにそれ以前になる︶︒   

第二に︑いまとくにウィリアム・モリス︵Wi旨mMOrrisこ00監⊥翼︶についていえば︑まずかれがイギリス・  

グィク1r∵=ノア期の突然変異として︑かれの特異な多血的・ボヘミア的情熱から︑気の向かぬ牧師職への希温を振り   すてて︑幼時からのロマンス欝耽読の収獲をもとぬ︑作詩・絵・彫刻・装飾工芸などの復古的芸術実践に身を投じ︑   ついでやがてラスキンなどに偶然に刺戟されるや傾かにふたたびボヘミア的心情を締りたてて︑復古的﹁人道主義﹂   社会改良家に豹変し︑しかしまもなくハインドマンらの﹁科学的社会主義﹂に直面して感興がさめるやたちまち引退  

して好きな中性的芸術の領域竪止ちもどり︑貞ewsf岩mN︒Where︒などの空想的社会主義小説と印刷芸術への没   頭をもってむなしく生涯を終える︑といった風のモリス伝記の理解が︑上述のヴィクトリア社会史の理解と並行し  

︵四三こ  三    ウィリアム・モリス解釈の新段階  

(4)

︵3︶   

ところが︑昨年出たE・P・トムプスンゐ労作ははじ也て︑ただに上述のような諸問題点にたいして見事に黎  

したひとつの徹底的解答をあたえてくれただけでなく︑周到に準備されたドキふメンテイジョンとす︑るどい史眼を  

もって︑たん紅モリスにかんしてのみでなく︑イギリス思想史仰般︑さらに社会思想史一般に関連して︑豊富な新  

尊実を明らかにし︑この方面の研究のおくれを一挙に灘回してくれた︒滞÷に︑それ軋よれほ︑モリスは二八八三    第二十九巻 第五号  

卜・  

︵四三二︶  四  

て山般におこなわれてきた︑ということができるだろう︒しかしこのような解釈によってほ︑第ふに︑モリスの生  

涯は社会史とまったく偶然的にしかむすびつかず︑第二に︑モリスの生涯のいわば三期を連絡する思想的な環は謎   ヽヽ   のまま紅残されざるをえない︒そして欝三に︑肝腎のモリスの社会思想ないし﹁社会主義﹂の特質ほどうなのかが︑   

不明なままに棄ておかれ七しまうこととなった︒これら牒甜点ほ当然に︑みぎのような夕車プの年代記の無価値さ  

をわれわれに悟らしめ︑あらためてかかる年代記のかげにかくれているモリスの真の活動と思想の実証的精査をわ  

れわれに要請するほずなのだが︑この要請と本格的に対決した研究は︑モリスの毎誕百年を記念した洲九三四年の  

当時はもちろん︑どく最近にいたるまでついに現われなかった︒   

その直接の理由は︑なによりもまず思想史学徒の怠慢に帰せられねばならないだろうが︑仙つ軋ほ︑後述すると  

おり︑鑑来の圧倒的な通俗モり/ス解釈が︑マッケイルをすらじゅうぶん読まないで勝手なモリス像をこしらえあげ  

てきたため︑そもそもアカデぺックな研究意欲をそそら庵かったということがあるだろう︒モリス伝として〝スタ  

︵1︶  

ンダード″だといわれるマッサィルの労作︵一八九九︶は︑まれにみる力作で︑たんなる伝記を超えた重要な著述  

︵2︶  

であるが︑以後のモリス研究︵とく紅′グレイジア︶はついに︑愛すべきヴィクトリア朝装飾家ウィリアム・モリス  

を鑑賞する風潮をつくりだし︑折角のマッケイルの〝ワールズ・クラシックス〟版︵仙九五〇︶も︑もろもろのモ  

リス風の調度品がそうだ   たように︑おおくはいたずらに中産階層人士たちに独占されているにちがいない︒  

(5)

年にイギリス社会主義の開拓者たちとの接触するや白発的にマルクス﹁資本論﹂を苦心して読み︑とくにその歴史  

的部分を完全に理解し︑以後言葉の真実の意味で実践的な科学的社会主義者となり︑かつ死ぬまでとの立場を変えな  

かった︒ハインド′マンは似而非マ′ルクス主義者にすぎなかった︒しかし︑モリスほボヘミアンの気まぐれで俄かに  

偶然的に革命家となったのでほなく︑社会史の必然的所産としての後期ロマン主義の反抗的批判精神︵︒R︒manti︒  

Re邑tこ︶の伝統を基礎に︑かれ特有の明るい斗志菜践カ・それ監品裕な遺産を手伝わせて︑﹁希望﹂に向ってのなが  

い格斗のうちに︑ついに到達すべくしてこれに到達したのである︒1さらに第二に︑いまこの結論ほどシあろうと  

もその論証と問題把握の仕方そのもの笹おいて︑モリス研究の水準が画期的段階転入ったものといわねばならない︒   

︵1︶ J・W・Mackai−u→Fe盲eOfW21amMOrris一帖⊥言済∫LOngmanS︸Green甲C〇・ゝOndOD−篭・〇莞邑亡me  

editiOnこ㌶N.WOr−d㌦C訂sicseditiO欄︵Hntr︒・bySirS苫neyC︒Ckere声−讃〇・以下の引用ほ一九二二年版によ  

る︒なおマッケイルほDicti昌aryOf▼雷ti昌a−Bi︒graphy︸ぎL H舛ヨ︵S雇p−ementざー巨e︶こ買・にも﹁モリス﹂  

の項を寄せた︒   

︵2︶ J・BruceG−a∽誉︸Wi−−iamMOrrisand−b2由a号DaysOf−h2SOCialistMO諾m2nt・L呂gmanS・LOndOn−琵・   

︵3︶ E●P→FOmp⁝・W≡iamMO邑∽⁚ROman−ic−ORe星u−iOnary︸Law12nCe紆Wi旨→−ゝ邑On−野営p・   トムブスンは︑リーヅ大学の成人教育・校外研究学部のチューター︑一九二四年生れの新進学徒で︑︑あきらかにマルク   呈義のエ義にたち︑尤大な本書聴かれの処女作ながら︑ひさしい準備を経たものといわれ︑筆致はマッケイルの名文  

にくらぺるとさすがに見劣りがするが1率直で情熱に曽買︑きわめて明快な論旨を展開する︒  

こ   

いったい先進国イギリス匿おける後期︵すなわち︑産業革命終了以後の︶ローマン主義−−⊥リ・G・ロセッティ  

︵四三三︶ 五    ウィリアム・モリス解釈の新段階  

(6)

第二十九巻第五号   ︵四三四︶ 六  

を中心とする﹁ラファエロ前派﹂︵thePre−Rapha2−i−es︶の人々︑トマス・カーライル︑ジョン・ラスキン︑それ  

にモリ云︑ら賢って代表される思想の系譜をいちおうこ㌧呼んでおく−が思想史の前進にたいしてもつ役割に  

は︑積極的・消極的の二つの面があるようにおもゎれる︒   〇〇〇    第−払︑この時代の支配的な思潮だっ窟利主義︵ベンタム主義︶思想が︑十九世紀をつうずる新興産業ブルジ   

ョアヤ十ト∴あゆる貞idd−eC−aÅes︶︸−fのイング琴/ンド型︵ランカ㌢ヤ型︶の圧倒的イデオロギーだったの 一︑  

に対抗して︑︵いましばらく︑基本的にほベンタム主義とマルサス人口論に師事するロバァト・オクエン‖フラン  

ジス・プレイス=エドウィン・チ′ヤドゥィック的な社会改良や︑大土地所有者の利害を直接に代表する議会主義的  

0000へ1︶ 人道主義=トーク主義の思想は︑体制批判ではなく︑根本でほベンタ︑︑\ズムに順応するものである意味紅おいて︑  

しばらく問題外とする︒後者紅ついていえば︑たとえばコヴエントリ・バトモアの場合のように︑′ロマン主義者と  

表見的に同野みえる詩人もあるが︑その詩にみられる領主的自己満足峰批判的精神を表明せず︑ロマン主義の本  

︵2︶  

質たる蓮2邑t︒の療神とまったく異質のものである︶︑そのおなじ﹁中産階級﹂にいまは吸収されること紅よって  

生残し㌧つつも︑あのスコッ上アンド的プレスビタリアンの系譜を帯びた強烈な情緒と批判的精神を欠きえない壷  

の知識人層のイデオロギ=㌣﹂こでほかえってアングロ・カトリレズムに転形しっつ並行的に内包きれていて︑トト  

かってはイングランドの形成期産業資本の要請もだしがたく無産労働力とともに導入されたスコッ上フンド的知性  

と創造的精神へ︒菅OttisF訂teごect︒−SpiritOf︷nPrOjectOrS︒=− アダム・ス︑︑\ス・ウィリアム∴パタスン︑ジョ  

ン.ロオを想起せよ︶ほ︑ここでは・︑︑\ドル・クラス・イデオロギーの異端児に転形するー これらの知識人たち  

Jは︑いまや自分らの所属している新中産︵商工業︶階級の君臨する新社会が︑じつは十八世紀半ばまでのコンヴェ  

ンショナルな世界と根抵では変ら︑ないどころか︑自然と人間を圧殺するマンモンの腐敗した富によって従来よサい   

(7)

つそう不動に築かれてゆく事実︑ナ﹂れ払おうじて中産階級のイデオロギー︵〝レ刃/セ・フFル〟とベンタム主義  

とマンチ土スター的楽観・妥協︶があまりにも圧倒的︒発展的である事実︑㌻ら賢のようなWhigg2苛と対決す  

るはずのトーリ主義もけっきょくは大土地所有者の新時代での妥協の理念にはかならないし︑さればとて﹁希望﹂  

を託すべきはずの労働者も︑その上層は妥協に巻きこまれ︑その悲惨な下層扱いまだあまり紅も無組織・額刀・無  

智でありラダイト運動やチャーチイズムもベンタム主義には歯がたたないという事実︑を﹁イギリス人﹂としてほ  

もっとも早く鋭敏に感得し︑根抵からの反逆を禁じえないが︑しかもあまりにも圧倒的な︑︑\ドル・クラス・イデオ  

ロギーの珍透と自分らの階級所属の束縛とは︑かれらが直接に社会に対決しょうとする意識をプラストレイトさせ  

てしまう︒この矛盾から脱出するためにほ︑ただわずかに近代産業の発達のかげに揺曳している自然の美や︑また  

それを素朴に享受した過去の直接に社会的な︑去すきとおるように簡単な﹄人間関係を︑古代建築やロマンス譜の  

申に透視し︑これらを吟いあげ︑描き︑刻むことによって︑かくてただ最後の砦たる芸術の世界を死守すること紅  

よって消極的に反抗を表明し︑いっそうあたらしい社会階層︵労働者階級︶へめ批判任務の伝達を試みるはかなかっ  

た◇ ところでかれらほその点で立派な先縦者たちをもち︑その適作にインスパイアされたのである︒︵この先縦者  

群!いわゆる﹁前期ロマン派﹂の人々︑すなわちブレイク︑バイロン十ワーヅワス︑レ㌻ィ︑︑キーツなどー  

は︑﹁イギリスにおけるフランス革命﹂の動向に感奮し︑アレグザンダァ・ポクプ=﹁スぺクティタァ﹂的な十八  

世紀産業社会のコングェンショナリズムの圧倒的支配への反抗の斗いを︑詩のうちに見いだしていた︒︶   ヽヽヽヽヽヽ1ヽヽ一ヽ︑︑︑ヽ︑ヽ    Lうしてかれらは芸術への実践をつうじて︑ペンタム主義にたいするこの時期の唯一の強硬な体制批判者として  

登場したのであった︒1モ﹂で︑もう一度イギリ 

と無智という点︑したがって労働者階級自身にこの批判の任務を直接に社会が授与するというLとはいまだ不可能  

︵四三五︶  七    ウィリアム・モリス解釈の新段脛  

(8)

第二十九巻 第五号   ︵四三ハ︶八  

だったという点︵チャーチイズム瓦解後の状態︶を︑じゆうぶん確認しておくことが必要であろう︒−さてトか  

れらのこのような社会意識がかれら自身に自覚され明確に表明されたか︑それともついに潜在的なままにとどまっ  

たか紅よって︑カーライルやラスキンやモリスと︑ロセッティやバーンジョクンズとの︑ひらきができる︵これほ  

ゴドク﹂ソと↓前期ロマン派﹂詩人たちとのひらき檻照応︶︒しかしかれらがこのような社会意識を目覚し陽表化  

0000ヽヽ する場合にほ︑二つの条件が働い︑ていたことが注意される︒第岬ほ︑この陽表化が体制批判となるためにほ︑芸術   ヽヽ   が労働とむすびあわなければならなかったこと︒これほもちろん︑フィリスタイニズムの体制による労働の疎外︑  

人間の疎外を︑芸術との 

業資本制の秩序があまり紅も肇固で発展的なために︑これにたいする直接曙批判を︑その批判が体制的であればあ  

ヽヽヽ るはど︑一見貴族的・回顧的・または予言的なかたちでしか︑表現できなかったこと︒以上二条件をみたして︑ほ  

ぶめて批判が紐判として外面的紅成立しえたのである︒つまりかれらほここでは︑まず産業主義の絶対に入りこみ  

えぬ∵葺rニOrart㌦sake︒の世界を超現代的にまず確保し︑つぎにしかもなおその芸術を労働めよろこびとむす  

びつけることによって批判を現代につな㌢とめた︒この操作によってかれらほしかし︑間接ながらかえっ㌣そのゆ  

え正二層根本的な社会体制批判をおこなったものとみることができよう︒いまこの事態を一括して︑支配的な功利  

主義思潮にた・いする﹁ロマン的反抗﹂︵トムブスン︶と呼ぶことがで居るとすれば︑カーライル︵前期︶やラスキ  

ンやモリス ︵前期︶ の活動は︑まさにそれをあらわしている︒こうしてかれらほ詩的・復古的なターム紅訴えるこ  

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ   とによって︑じつほ労働と人間と芸術がおたがいに疎外しあわない限界状況を衝き︑当時としてほ国内で可能な唯  

︑︐0 0 ︵﹀◇  

︵3︶  

山lの体制批判の精神を維持したものであることが︑ふかく注意されねぼならないだろう︒そしてこのようなロマン  

的批判形態は︑則般にそれが異端的状況のもとで思想家の社会的長心のすべてを賭けてマージナルに真剣・不断に   

(9)

つづけられ継承されるとき︑やがて社会史の成熟におうじ真紅あたらしい積極的・︑進歩的な社会思想が誕生してぐ   

る発条となる点で︑思想上重要な意義をもらものなのである︒  

㊥  

・¢    00〇  しかし第二紅︑そのようなものとしてのロ▲マン主義の特定形態は︑あくまで独白な社会史の局面でとらえられね   

ばならないのだから︑社会史のうごきにおうずるあたらしい﹁希望﹂と進歩的な思想の成立の契機としての役目を  

ヽヽ    ヽヽ  終えるか︸またほ異端でほなく公認となるやいなや︑骨邑t・の精神を喪失し︑その中産階級的系譜のゆえに︑反  

も動的なものとなってしまう︵後進国ドイツのロせン主義はト国際的には異端だが国内的にほはじめから公認という   

かたちであらわれる点に注意︶︒すなわち︑イギリス十九世紀のロマン主義は︑それが︑アトムとしての対等・自   

由な個人があつまって山元的につくりあげるものとしでの﹁市民社会﹂︑そこで﹁功利の原理﹂︑が無条件に作用す 

るものとされる社会軋おいてこそはじめて︑知識人の最左翼の立場において体制的批判の異端精神となりうるが︑   

国際的にみれば︑すでに資本制の秩序がべ︑つの秩序にとってかわられる可能性が判明したととにも出づく革命的情   

勢と︑これに対抗する現体制擁護のうどきとの対決を背景とし七いたのだから︑そのダイメソジョンから二束的に 

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 〜 〜 1 1 〜 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ︑ 1 1 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑    眺めるなら︑あの批判的栢神ではなくてその形散として陽表化された中世的身分観や空想的社会改良や審美観だけ   

が︑︵ラスキンの痛切な戒め紅もかかわらず︶内外のブルジョアジ﹂によって安全なものとして利用され︑フェイビ      ︵  4︶    アン的および﹁講壇﹂的社会改良︵とくに後者︶とかたく結合され︑その﹂巽.と化され去ってしまう︒逆にまた︑   

イギリスのロマン主義者たち乱身が︑山方では﹁芸術のための芸術﹂の限界を悟り︑他方では自分らの中産階級的   ヽヽヽ    系譜を処理しないままにして︑ひとたび自由放任の社会への直接の批判を有数に︵妥協的に︶おこなおうとすれば︑ 

史限喪失という致命的代個を払って後進国の反動的ロマン主義イデオロギー紅助力を求めなければならなくな㌢﹂   

とも︑事実である︒カーライルやラスキンのドイツ的理念への志向としほしぼの帝国主義への傾斜は︑まさにこの  

︵四三七︶  九   ウィリアム・モリス解釈の新段階  

し 

(10)

第二十九巷 第五号  

+  

︵四三八︶  仙○  

矛盾とかれらの必死の苦悩をしめしている︒︵カーライルが老ゲーテとのル文通によって文壇にスタートし︑フリー  

︵5︶  

トリヒ大王への心酔をもっておわった経緯︒ラスキンが普仏戦争のときプロイセソ軍にしめした期待︒ひとり真の  

実践家モり/スの場合には︑必要におうじての中産階級的きずなからの敢然たる大飛躍によって︑この矛眉が解消さ  

れるトーーPOetLaureateごからの解放︒だからこそギリスだけは︑由家社会主義や帝国主義にも断乎と反対でき  

たのだった︒︶   

さていま︑思想史の前進紅たい七てヴィクトリアソ・ロマンティシズムのもつ以上二面の役割をはっきり区別し︑  

かつ共にじゅうぶん把握しておくととが︑きわめて重要である︒﹁ロマン主義﹂といえば︑われわれほシュレーダル  

的用語法をハラァやアダム・︑︑\ユヲァと結びつけて想起するため︑市民的観点から山義的に︑﹁ロマン主義﹂即﹁反  

動主義﹂だと理解しゃすく︑この公式を他の国の場合にも類推しやすいが︑問題は︑﹁近代的﹂にロマン主義〟般を  

無差別に棄却することにあるのではなくて︑各国ごとの社会史の山定段階における特殊なイデオロギーとしてのロ  

︵6︶  

マン主義の具体的形態の意義と役割を明らかにすることでなければならないだろう︒この間題意識の欠除は︑社会  

思想史的観点からするヴィクトリアン・ロマンデイジズムの研究をおくれざせ︑モリヌ研究をおくれさせた︒その  

結果︑社会主義者クィリアム・虻リスの像のもつ意味もはとんど検討されないままできたのである︒モリス研究の  

新段階がイギリス紅お宣ずれ︑それがついにイギリスにおけるロマン主義と科学的社会主義の兵の結節点を発見す   

るという業績を挙げたとすれば︑それほひとつにほこのような一般的反省を基盤としての実の一りある成果なのにち  

がいあるまい︒  

では︑あたらしいモリス解釈の内容はどうか︒またその前提となるモリス解釈の沿革ほどうだったのか︒   

︵1︶ オクエンと︑ベンタムおよれベンタム主義の妥協的関係についてほMar笥etCO−eリRObe﹃tOwenOf冨wLanarkリ   

屯  

︒ 

﹂  

(11)

BatcFwOrtbPress−LOnd.﹂誤∽.p.票.を︑労働立法の推進者プレイスの思想はGraFamWa−−as一TheLifeOf句rancis  

P︸ace.どndこー00⁝芦 およびSt.J.G.Erまne∵胃ancis憎訂ceこ訂Taiす○叫C訂ring CrOSS−LOnd・こ2N︵Fabian  

Trac−苦・−宗︶∵を︑トーリ主義社会改良の代表レヤフヅベリィ伯の無思想ぶりについてほA・ヂDicey﹀Lectures  

On t訂RelatiOn betwee㌣Law and P仁blic OpiniOn inEn的−andV LOnd:−㌶O ed・︶ pp・N∽○−N∽−・を aトぎOnSter  

inFumanshape.﹀と置られた﹁新救貧法﹂の立役者・官吏チャドクイックの典型的ベンタム主義についてほC・′カ・Fay︸  

㌣ife and LabO占ぺin the冥neteenthCent誓y⁚Cambri厨e︸−¢N〇.pp.彗−謡いG●D●H◆CO−e︶ A SFOrt謀stOry Of  

t訂BritisF WOrkin?C訂ssMOぐement−遜りーー芝↓.LOnd:n2Wred・−澄00■p・諾・のはか︑とくに注自すべき力作  

S.E∵F訂r.TFeLifeandTimesOfSirEdwinCFadwick︸Metぎeヨ︸LOnd・︐−欝N・をそれぞれみよ︒  

︵2︶ Cf.宮rekPatきOre︑T訂EfeandゴmesOfCO諾ntryPatmOre﹀サ訂wYOrk︶〇・U・P・V−慧声とくにその欝十六章  

をみよ︒  

︵3︶ このような批判精神はジ々−ロット・プロソテなどにもあらわれる︒Cf・A・L・MOきn∴deniusOntbeBOrder・︒The  

Mar払stQuarter−y一く○−.1Ⅰ.2〇.∽﹀Ju首−欝研●  

︵4︶ ドイツ﹁講壇社会主義﹂の〝倫理ルとイギリス的〝芸術〃との相互補完関係誓いては︑H㌢ichWae孟︶Wir−邑a−−  

亡nd同仁nSt.Jena−実学 SS.の−余−たーff.  

︵5︶ Cf.W.G.C011ing琶阜丁訂LifeOfJOFnRuskinu−−tFed・−¢NN﹀pp∵N︻麻−N−∽・  

︵6︶ これをドイツ国内についていえば︑問題の力点は逆となる︒プロイセソ絶対主義官僚のイデオロギーとしてのレユレー  

ダル=ミュヲァ的ロマン主義の圧倒的支配ほ周知のようにすでに検討ずみの問題であって︑ここではむしろプロイセソ  

絶対主義に反抗する異端的精神がどういう構造をとってあらわれたかの方が︑近代ドイツ思想史の中心課題なのである︒  

したがってカーライル=ラスキンと︑︑\ユヲァ==ハラァの類似ではなくて相異を分析することの方が︑ほるかに畢要だと   

︵四三九︶     ウィリアム・モリス解釈の新段階  

(12)

第二十九巻 第五号   ︵四四〇︶ 三  

いわねぼならないであろシ︒たとえばわれわれはむしろ︑︒Pr?Raphae≡e守OtherF00d︒に対応するものとして︒J仁n?  

hegel仙aner;を悪賢したいのである︒  

三   

トムブスンの書物によって代表されをモリス研究の新段階は︑筆者の自身の言葉でのべるならば︑つぎの諸点に       人  1︶   関心を集中するもののようである︒第一に︑.モリスの伝記の理解についていえほ︑Hモリスにおけるロマン的精神  

軋ついて︑をれをモリ㌢の気まぐれな多血的鬼気質や多額の道産に支えられた放縦の偶然の表現としてよりも・︵も  

ー ちろん︑その面もみとめるが︶︑むしろその背後の︑かれの生涯をつうずる社会的点心︑の貰的・必然的表現とし  

て︑しかもそれ眉身はイギリス十九世紀社会史の必然的な意識形態の問題として︑理解かつ論証すること︒したが  

って⇔モリスの処女単行詩.︷↓heDef2nCeOfGu2n2諾re︒執筆・発刊︵一八五八︶ないし結埠︵翌年︶から七〇  

年代末までの﹁絶望﹂との苦斗の過程︑とりわけて六〇年代末から七〇年代初の家庭的苦悶期や八両年前後の思想  

的に〝謎″の時期についても︑これをみぎのロマン的精神と後年のかれの社会主義実践との断絶と解釈するのでな  

く逆に前者が後者の不可欠な母胎七して潜在・潜勤してこれがモリスの実践を支えているものと理解しかつ論証  

すること︒第二に︑後年に毛リスの到達した社会主義の内容は︑これまたけっし望首ぐれな空想的なものなので  

なく︑透徹した歴史観︑の確立め上に︑もっとも科学的な立場にもとずいて形成され︑かつそれは仙旦形成されて・後.  

は︑政治活動上の失敗があっても︑モリスの死まですこしも掃がなかったことを精細なデータをもって実証的に論  

証すること︒第三に︑縫来のあやまった種々の形態のモリス解釈にたいして︑徹底的な批判をくわえること︒  

筆者はここでほ自分なりに︑ラ欠キン研究に関連して平素から上記第∴・二節のようにかんがえてきたことを中  

心として︑筆者白身のタームで︑トムブスンかわれわれをどうみちぴくかを︑検討してみよう︒   

(13)

でほ第一に︑われわれはモリスの伝記をどう把握すべきか︒ウィリラム・モリスが一入三四年一一首泣︑当時エセ  

ックスのうつくしい田舎町だったウォルサムストク︵現在ほイースト・ロンドンに属する郊外地︒当時もすでにシ  

ティ・メソの理想的住宅地︶のエルム・ハウスに︑そ﹂に移ったばかり牒父︵ロンバード衛の事務所にステイジ・  

コーチでかよう富裕なビル・ブローカーで︑典型的シテ.ィ・マン︑子と同名ひその家系ほウェールズ系の目立たぬ  

中産階級につらなり︑先代はクルスタ一札いて︑後ロンドンに移る︒出身は牒コッ上アンドでこそないが︑環境は  

ラスキンの父と似る︶と︑旧家の娘たる母︵エマ・シェルトン︒同家ぼヘンリ七世時代バーミン㌧ガムで織物商とし  

て産を成し︑十七・八世紀には大地所をもち︑クルスクーに居を構えてい空との問に生れ︑エビング・フヵレス  

トのうつくしい自然に接しっつゆたかな中産階級の生活に幼年時代をすごしたとき︑さら紅また︑支配階級の刻印  

を押されるぺくマルバラのパブリック・スクール︵その入学直前︑父は所有の銅山株の値上りによる大きな遺産を  

のこして死んだ︶︑′′さらにオクスフォドのエグゼタ・カレ汐に入れられ︑牧師生活に入るぺく運命づけられていたと  

き︑そもそもなぜかれは安定した将来を放鮮して︑ロセッティの徒輩のなかに飛びこんだのか︒ここでモリス解釈  

はほやくも分裂しうる︒ひとつはこれをモリスのポヘ︑\\アンな性格と父の富のもたらした自由にもとづくとする︑  

音rs牒−;in−2rp12−a−iOnである︒われわれはもちろんそういう蘭を全然否定はできないだろうが︑しかし青年モ  

リスの言動を仔細に観察す石なら︑そこにほ社会史の動きにこたえるかれの社会意識のうちに︑断乎とした二貰性・  

堅実性があることが気づかれる︒・トムブスンによれば︑をれこそは︑イギリス固有の表︒manticRe邑t︒の伝統で  

あった︒フランス革命と産業革命の疾風怒涛下に開花したイギリスの前期ロマゾ主義の︑旧社会にたいする熱情的・  

ー  

詩的な反抗精神は︑新社会への﹁希望﹂の幻滅とともに文芸界でも思想界でもその歴史的柁目を終えて休止し︵パ  

イロン死︑山八二四年︒ノブレイク死︑一八二七年︒シェリィ死︑仙八二二年︒キーツ死︑劃八二山年︒コールヅ汐  

︵四四こ 山三    ウイリアム・モリス解釈の新段階  

(14)

︵四攣一︶ 劇四   第二十九巻 第五号  

死︑山八三肝年︒ゴドゥィンの没落と人に知られぬ死︑一入三六年︒ワーヅワ曳ほ活動を休止︑死山八五〇︒︶︑そ  

れらの人々︑わけてもシェリィとキーツの通し冬作晶にみられる反抗の精神は︑ヴィクトリアニズムというおそろ  

しい諸にたいする抵抗の努力として︑青年モrリスをつよく感動させ︑それほ.↓訂DefenceOfGuene謹話ざ二八  

五八︶ となってあらわれる︒   

ここでは︑すでに粗野・食欲な工場主バクソダピィ軋・とってかわった洗練されたヴィクトリアンの実業家グラッ  

ド  たちの嘆きと憤りというかたちを採っだ︒だがこれで最後として︑薄紅おける反抗ほ一見まったく消失し︑モリス  

白身や詩ほもちろん︑テ土スンやプラクユングその他のコンテ.ソポラリた唱の詩は漸次ますぜす逃避的・耽美的・  

ノスタルジア的傾向をおびるようになることは︑事実である︒けれどもこれによって問題そのものをついに絶望的  

に放棄するかぜぅかは︑個々の思想家の環境や能力やの問題であると同時に︑なによりも見限と社会的良心の問題  

である︒すなわち︑限界状況に追いこまれたロマン主義運動家の一人一人が︑批判精神を届くため軋は﹁芸術のた  

︵ 

宅耽美主義によって防止しょうとするたとどセったか偲︑それぞれ特殊な事情に左右されたであろう︒しかしかれ   めて理解するのでなければならぬという社会意識を獲得できたか︑それともつい紅自分個人だけの自分からの疎外   

むの社会的良心︵批判精神︶が目ざめつづけるかぎり︑社会史のうどきほ︑徐々ながら必然的に前の途をかれらに  

指示した︵いかにそれが︑ヴィクトリアニズムの支配するあいだほ﹁挫折﹂■の途だったにしても︶︒カーライルやラ  

スキンやモリスの場合がそうであった︒しかしその場合にも︑かれらが所属するヴィクトリアン・ミドル・クラス  

の現状とかれらがとう対決したか︑つまり︑これに絶望しっつもついにその中に踏みとどまってたんなる﹁文化﹂   

(15)

批判者となりおわるか︵カーライル︑M・アーノルド︶︑完宣すすめて好個主義者に転落するか︵晩年のカーライ  

ル︶︑それともミドル・クラスからの離脱のための絶大な苦斗・努力をしめしながら︑ついに抜けだせずヴィクト  

リア言ムと錯乱のいたましい犠牲となるか⊥ラスキン︶︑それともあるいは︑社会状況の推転におうじてついに  

apieceOfぜeciOuSロeSS︸−になやみつつも︑この離脱を見事に敢行するか︵モリス︶︑の相異がある︒    ウィリアム・モ・リスの場合︑㌻八宜八年から七八年にいたる絶望との苦斗の年月軋もかかわらず︑けっして上述  

の詩にもかねて表現された反抗の精神が立消えて八十年代に入ってから気まぐれにべつの社会主義の火が燃え上  

ったのでほなく1親友E・バーンジョウ/ソズとの終生の相互激励ヾロセッティの資重な示唆︑カーラLィルの社会批  

判︵オクスフォド時代に2as−and2r2Sen−を読む︶︑ラスキンによる芸術と社会批判の垂範統合︵とく紅The  

stOneSOf言niceを読んで感奮︑ラスキンの使徒となる︶等ほ相侯って︑ヱesserarts﹀Yへの転進による芸術と労   働の実践的接続秒確保とそれによる批判的精神の積極的維持という独創的な途をモリスに指示し︑以後モリスはこ  

の途を歩いて倦むことを知らなかったが︑まさにこれこそモり/スの社会主義の成立基盤だったのである︒この過程   では︑幼時からのかれの終始好んだ中世的ロマンス轟が素材となるし︑ヴィクトリアニズムとの対決もいわほ﹁馬  

上試合﹂的形態をとったにもせよ︑これをもってモリスを︑家庭事件で妨げられなかったかぎり︑自己満足したボ   ヘミア的復古主義者と解するのは︑まったくモリスの本質を見失う庵のといわねばならない︒この堅実な批判的精  

神の展開があってこそぎtilSc−ap2二﹁古代建築保全協会﹂︶をつくらせたのとおなじあの云−バリ告への痛憤  

が︑同塵転人々をしいたげるトルコやアイルランドでの圧制︵﹁東方問題﹂とアイルランド土地問題︸ への痛憤と  

なり︑モリスをすでに実践的社会主義者たらしめたのであり︑さらに︑ようやくヴィクトリアン・ブルジョア汐−  

の支配がゆらぎ︑完八二年にイングランドおよぴスコットランドで最初の近代的社会主義者群︵亡命者アンドレ  

︵四四三︶ ∵五    ウィリアム・モリス解釈の新段階  

(16)

第二十九巻 第五号   ︵四四四︶ 一六  

アス・ジョイをほじめ︑H・M・ハインドマン︑E・B・バックス︑エドワド・アヴュリング︑エリナァ・マルク  

ス︑スコットランドでほとくに1・L・マホーンなど︶が大陸からの刺戟で登場しほtめるや︑モリスほただちに  

かれらと疲蝕して第山線の指導者の列に加わり︑バックスとともに︑おそまきの勉強と難解さに頭を悩ましながら  

もみずから本格的紅マルクス﹁資本論﹂︵常山巻︑仏訳︶を読み︑ついに科学的社会主義者となる︒   

そのさい︑モリスにおける以上の堅実な必然的成長の結実と︑現実の社会主義運動への帰依の直接の勤槻とは︑  

僅意して区別されなければならないであろう︒このことほ︑かれみずからこの事情を説明した一文﹁いかにして予  

︵2︶  

ほ社会主義者となったか﹂を熟読すれは明瞭となる︒直接の動機としてほモリスは︒︑J・S・︑︑\ルの社会主義にか  

んする遺稿︵T八七九年にTheFOrtnight−yRe5.eW誌に四回紅わたり掲載︶を読んだことが︑﹁資本論﹂研究や  

アナーキストたちとの接触とならんで﹂その仙つだと告白している︒﹁資本論﹂研究については後述するとして︑し  

かし︑ベルの遺稿は︑あきらかにながい準備期間を経て成熟したモリスの社会主義への志向︵㌔二gp20fth2記a−i・  

SatiOn Of myidea−Jを︑画竜点晴的に具体化する触媒にずぎザ︑モリスは無政府主義者たちに教えられて無政府  

︵3︶  

主義を否定したと同様︑﹃あきらか紅︑︑\ルの裁決に反して票ショオ︶社会主義者紅なったのであって︑ミルの﹁社  

会主義﹂がな北か1は︑いうまでもない︒慎重なマッケイルほ︑モリスの告白をいぶかりつつ︑けっきょくそれをそ  

のまま敷彷して︑\︑\ルとマルクスと﹁モリスの方へ動いてきた社会主義﹂とを並列的に挙げたが︑モリス白身の内  

︵4︶  

面的な準備を神秘的にとりあつかうにとどまった︒だが︑背後に終始脈打づ鮮烈なロマン的批判精神に支えられて  

つい紅は社会主義に到達するところの︑芸術と労働の関係のただしい実践的︑歴史的理解の進展をみないでは︑モ  

リスの本領はつかめないであろう︒   

さて︑トムブスンの書物もまた︑その第㌻第二部においてまさに以上の点を詳細に明らかにしてくれたようで  

一 −・−   

(17)

ある︒トムブスンほモリスの結婚の幻滅と︑モリス=その妻ジェイン=ロセッティの三角関係についてもけっして 

サイコアナリシスという分析武器の使用を遠慮するわけでなく︑モリスの七〇年代初の沈滞と︑晩年を貫いて消え  

ぬ一線のsen朝e︒f菖溜︒牽この角度からも︑従凍の研究成果聖霊て整理しているが︑しかしむしろジェイン  

の思想︵ヴィクトリアニズム︶と中セッティの思想喪失紅注目し︑ 

しさ﹂を信条として立ちあがるモリスの積極面が勝利すること︑この勝利はかれの社会的実践によってもたらされ  

たこと︑さらに晩年のモリスは︑けっして失意・後退であるどころか︑いまや社会主義の立場紅たってのあたらし  

い︑かれらしい実践と希望の年月だったこと︑を明らかにしている︒髄来︑伝記研究は骨董いじりに類するものだ  

との見解が相当有力におこなわれてきた︒このような見解の危険なことについてほ筆者もかってつよく指摘したと   

︵5︶  

ころだが︑いまわれわれはトムブスンの労作において︑まったくあたらしい視点にたつ鮮烈な伝記叙述をみるので  

ある︒   

︵1︶ トムブスソの本は全部で四部および附録から成る︒ 

活動・思想を社会史的視点を重点としながらあと 

その末裔としてのモリスが2T訂Defence Of Guene諾reごをかいて結婚八五九︶するまで ︵約山00ぺージ︶︑第二  

部ほ︑以来苦斗の年月を重ねつつ実践的社会主義者に転回してDemOCratic句ederatiOnに参加するまで︵約二〇〇ぺ一  

望︑第三部ほ社会主義者としての活動を︑SOCialist Leagueの歴史と並行させつつ︑かれの死まで︵約四〇Gぺ一望︑  

をそれぞれ取扱う︒あとはど叙述が詳密となってゆくのは著者の立場をしめす︒東四部は︑現代的視点からするモリス  

解釈上の諸問題点を︑二番らためて払出的に分析している︵約︼00ぺ一望︒︑附録は四点で︑H罪三部関連資料として︑  

モリスが起草しバックスと共同署名したThe Manifest00f t訂SOCia−ist訂a閃仁eの原文︑⇔J・Lマホーンを中心と  

してF・エンゲルス︑エリナァ・ノマルクス︑E・アブエリシグの三人の間との往復書簡二十二過︵原物はモスクワの如・  

ウィリアム・モリス解釈の新段階  

︵四四五︶  劇七   

\   烏Y  

(18)

︵四望ハr一八   ・第二十九巻 第五号  

E・L研︑︑所蔵︶の應文︑㈲J・F・ヘンダースン宛のモリスの書簡五通︑およびモリスを偲んだへンダースンの詩が  

掲げられ︑最後紅︑囲J・B・グレイ汐アのモリス研究にたいする峨烈な論争的反駁と︑モリスにおけるマルクレズム  

の正統性の論証とをふくむ小論文が附加されて′いる︒  

︵2︶ かれは︑自分の理解する﹁社会主義﹂社会の意味︵それはじゅうぶんに前望的であって︑けっして中世的でなく︑﹃主人   ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ   も従者もない﹄ことが一条件とされている︒︶を規定してのちに言う︑?⁝・さて現在予の抱懐しまた抱懐したままで死  

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 〜 〜 1   1 1 1 1  1 1  1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ︑ 1 1 1 1 ︑︑  ︑︑︑︑︑︑   にたいとおもっているところのこのような﹁社会主義﹂勧は︑ヰれをもって予の出発したところでもある︒予は移行期を   ヽヽヽヽヽ   もたなかった︒もっとも︑そのあいだに予の理想がじゅうぶん明白となりながらなおその実現の希望がなかったあの政  

治的ヲディカリズムのすこぶるみじかい時期をば︑諸君が︑それだと言われるのなら︑ぺつである︒それほ予が︵当時の︶  

D・Fに参加する数カ月前におわった︒ノこの団体に加入した意味は︑われわれが︑予の理想の実現の希望をもった︑と  

いうことである︒どれだけの希望をか? 当時生き︑活動していたわれわれ社会主義者たちがそれに向ってなにを達成  

できると予がかんがえたか? またほ︑社会の表面に変化がみられるのほいつか? と諸君が予にたずねられるなら︑  

予は︑わからない︑と答えるはかない︒ただ言えることほ︑予は予の希望をも︑またそれが当時予に滝たらしたよろこ  

びをも︑ともに測定などしなかったということだけである︒:⁝﹄︵傍点聾者︶ 宅i≡am MOrris\貞OW︻Became a  

SOCia−ist;︵J宏tice∴冒葛−O二等P︶−NOneSuCFeditiOn﹀p⁚祭∽◆ これにつづいてモリスは直接の諸動機を説明して  

いる︒ 

︵3︶ E..R.P訂se−The HistOryOftFeFabian哲ciety−巨Ond・−¢−のーp・N伊¢︵AppendiH I・MemOranda by謬rnard  

SFaw∵dntheHistOryOfFabian野OnOmics・J◆ショオのコンテキストは︑ウェブ以下の初期フェイビアンたちが後  

期の︑\\ルの教えをうけて社会主義者になったという説︵E・パーカァ︶を誤りだとするビーズの叙述を支持して︑いふ  

ほ死ぬまで個人主義者で︑社会主義とは関係がない︑したがってフ土イビアン社会主義とも関係がない︑ウェブがミル 

(19)

を社会主義者になって死んだとおもったのは感ちがいだし︑ミルが︑誤って︑つくつた社会主義者といえばへ ただひと  

り︑モリスだけだ︑というのである︒ショオの説明ほモリスについてはただしぐ﹂フェイビア芸ムについては独断的  

である︒   

︵4︶ J.声Mackair凸冒Cit・ニー.pp・∞か一声ちなみに︑﹂歩をすすめてモリスの非妥協的・内面的貫性を注目しつつ  

も︑それを社会史と切りほたしてサイコロジカルにかんがえるというのが︑マッケイル以後一般のモリス伝記勧なので  

ある︒ここでほヰリスの理想︵社会主義︶む︑主観的なものにすぎなくなる︒たとえばモリス研究の先覚の一人ジヤク  

スンの戦後の労作︵資料的にグレイジァに拠る︶HO旨00k JacksOnTDrea雇r00邑 

−望汝Century Idea訝属唱−筐00.pp.−墾Tl−笥.をみょ︒   

︵5︶ 拙稿﹁社会思想史の内容および方法についで﹂︑本論攣天巻四号︒  

四 

第二に︑かくしてモ‖ノスがついに到達した﹁社会主義﹂の内容は︑どのようであったか︒もちろん︑モリスがDemO  

cratie FederatiOnに参加︵山八八三︶してからSOCia−ist reagueを退く︵一八九〇︶までのあいだは﹃マルクス  

主義を宣伝指導した﹄ということは︑モリスの伝記をしらない人にもあまねく知られている事実である︒しかしそ  

れほほたして冷静となったときのモリスの本意だったのか︒晩年のモリスはなにになって死んだのか︒すべては︑  

愛すべきポヘ︑︑︑アン=モリスの誤謬だったのではあるまいか︒ − ここで亡き偉人の基にささげる花輪の争奪戦が  

展開することになるのたが︑それは後述するとして︑とりあえず通説の要点をいえば︑モリスの中世的な伝説詩・  

北欧辞へのかわらぬ愛好や︑晩年の空想小説=A Dream Of lOFn Ba−−︑∵へ貞ews frOm NOWhere︑−などから推し  

て︑またマッケイルが︑ときとしてもらすあやうい言葉から推tて︑さらにはまた正統のマルクス主義はハインド  

︵四四七︶ 一九    ゥィリアム・モリス解釈の新段階  

■  

(20)

第二十九巻 第五号   ︵四四八︶ 二〇  

マンが︑マルクスとの不和こそあったが継承したのであり︑モリスほ最後紅かれと訣別し︑さらに無政府主義者と  

¢ も別れたのだから︑・けっきょく空想社会主義老ないしせいぜいギルド社会主義老のようなもの︑いずれにしても実  

質的にはマルクス主義をきらう﹁イギリス型社会主義﹂者へじっは社会改良家︶ であったにちがいない︑というの  

である︒もしそうなら︑モリス物語によってイギリス・ブル汐ヨアジーはいよいよ安堵し︑本質的には﹃偉大な装  

飾家﹄七なってしまっ料安全なモリスはそのwa音apeぷやオクスフォド・ユニオンの壁画によってかれらに記念  

されるはかほない︒  

二﹂.こでほ問題はさしあたり︑ただしいドキふメンティレヨン紅もとずく証拠の明示紅かかっている︒いまトムプ  

スンの指摘するとエろを聾者の言葉で要約するなら︑これらの通説の成立した根拠は︑Hスタンダードな伝記︵マ  

ッヶィル︶における︑脚次贋料︵モリス自身の書きのこしたもの︶からの︑ハ文脈をまったく無視した引用と︑⇔プ  

ランタを埋めるための偏見にみちた二次資料の活用︑にある︒でほ逆に︑モリスが真実の科学的社会主義者となっ  

︵1こ  

たという証拠はどうか︒トムブスンによれば︑それはつぎのとおりである︵多少筆者が整理した︶︒  

〃打㍗   ヽヽヽヽヽ   H消極的証拠︒山一次資料紅よればへモγスはマルクスまたは科学的社会主義にたいして︑その基本的諸理論に  

反するこどを述べ︑または示唆したことほ︑二軍もない︒闇マッケイルは︑﹃予は若干の良心をふるいおこして︑   ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  社会主義の経済学的側面を学ぼうとつとめ︑マルクスにとりつきさえした︑もっとも︑白状せねばならぬが︑.﹁資   ヽヽ   ヽヽヽ   ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ   本論﹂の歴史的部分ほ完全にエンジョイしたが︑この偉大な著書の純粋経済学せ読お正は︑頭脳の混乱にくるしん  

だ︒﹄というモリスの言葉︵︒ロOWI Bec巴ne a SOCia−ist㍉︑Justice−00芝.︶/を︑不当にも傍点部分を抜いて引用して ︵2︶      外         ㌦   いる︒  いろいろの点からみて︑これはモリスのためマイナスでなくプラスの磨料である︒㈲プリティシュ⁚︑︑ユ汐  

アムのAdditiOna−MSS.中のモリスの日記中のニスによると︑モリスは一八八五年以後︑ジョソ⁚カラザァズの   

(21)

桟械的な労働者観︵﹃商業社会では労働者はたんに費用のいちぬ道具にすぎないひ﹄の影響をうけているらしく︑そ  

の場合のモリス軋よれほ︑.マルクスの水準からいうと労働者が資本制機構の二部紅すぎないというかんがえほ異端  

だが︑それの方がすっきりしている︒労働者が反抗的なら︑鋤や土地が反抗するというのとおなじではないか︑と  

いう︒労働者の改良斗争を無視するこの解釈は︑マルクス主義内部匿おける左翼的機械論または生産力論への偏向  

︵4︶ 

をしめすも臥となるにしても︑マルクス主義者としての地位を放棄するものとはいえない︒二次資料であるが︑グ  

︵4︶  

レイジァが目撃したと山九二仙年の回想で伝えるところによれぼ︑⊥八八四年夏のグラスゴクのS・D・Fスコッ  

トラツイ支部の会合に出席したモリスが︑ロンドンでの分裂の直後のため書記ネ㌢ンズから語間され︑返答するく  

たりがある︒グレイジァによれば︑モリスは︑マルクスの価値論を知っているかときかれて﹃患ったく正直のとこ  

ろ︑マルふノスの価値論とほどんなものか知らない︒また︑知りセいなどと︑とんでもない︒﹄と答え︑また﹃本当  

をいえほ︑わたくしほマルクスの理論を理解しょうとつとめたが︑経済学ほどうも苦手で︑その大部分はどうもつ  

まらぬがらくたのようにもおもわれる︒がそれでもわたくしはやほり社会主義者であろうとおもう︒怠惰な階級が  

まずしいこと︑富者は蚤老から奪うから富んでいるのだということを知るだけで︑経済学はじゅうぶんである︒⁝  

⁚﹂﹄とつけ加えたという︒グレイジアの猛烈な晩年の偏見︵マルクス嫌い︶ とその記憶力の様子︵死の床で書いた  

どいう︶とから推して︑この貴重なはずの二次資料は信憑度がきわめて低く︑つぎの圧倒的な山次資料革よって︑  

くつがえされてしまう︒︹たとえモリスがそういう意味のことをいったとしても︑かえって︑モリスの正直・謙遜  

・実践的な態度をしめすだけであるとの解釈も成りたつ︒︺・   ヽヽヽヽヽ    ⇔積極的証拠︒伽モリスは二八八‡年初︑﹁資本論﹂︵男山巻︶・をみずから仏訳で熱心鱒読み︑︵英訳は二八八六年  

まで出篭かった︶︑すべなくとも第∵巻の歴史的叙述の部分軋は栢通した︒自分でそう述懐している︵上述参照︶  

︵.四四九︶︑二一   ウィリアム・モリス解釈の新段階  

︵3︶   

(22)

︵四五〇︶ 仙二山   第二十九巻 第五号  

だけでなぐ︑史的唯物論をじゅうぶんに理解していたことの無数の証拠がその講演録・論文・書簡群にみられる︒  

闇モリスはマルクス=エンゲルスの労作をふかく噂敬し︑公然之科学的社会主義またほ共産主義の立場にたつと言  

っている︒以上二点を特殊にしめす証拠としては︑旧﹁資本論﹂にかんするモリスのノート︵タオルサムストクのモ  

リス・︑︑︑ユ汐アム蔵︒なお未発表のマホーン文書中にも﹁資本論﹂についてのメモがあるらしい︶︒闇ハインドマ  

ンと一八八四年にかいたSum旨ary Of tFe Princip−es Of SOCia詳m・における言及︒畑↓分裂﹂後︑およびS・  

L脱過後の新聞記者会見︵とくに山八九六年仙月のもの︶での︑自分がマルクスおよび科学的社会主義の立場をと  

ることのくりかえしての弁明︒㈲蘭演・論文におけるマルクスおよびエソゲルス︑およびかれらの労作︑とく軋﹁資  

本論﹂ へのかわらぬ賞讃的言及︵れガreat︒︶︒モゾスはめったに人や著作を覚めるときこの語は用いなかった︒㈲山  

八八六・八七年にべルフォート・バックスと共同執筆した q㌢mOnWeal誌上の二回分戟論文∴へ哲cia−ismf;m  

theR00tUp㌧−COmmOnW2a−−Oct・芦−党革∵蟄洛.∽こ琵弓り︶︒これはエンゲルスの﹁空想から科学へ﹂フラン  

ス版︹葵語版は当時未刊︺に主として拠りつつ科学的社会ぎ萄の主内容を伝えたもので︑空想社会主義が批判され  

ているらしいことがとくに注目を惹く︒一八八七年︑同誌にはおなじくバックスと共同でかいたすくなくとも七個  

の論文が﹁資本論﹂第仙巻の分析・紹介にあてられている︵Ibid.∵Feb.裟MarcF−N−−March浣﹀ Apri−∽○∵  

June−00︶ Ju−y 琵一Au望St功.−00彗.︶︒グレイジァによれば︑これらの論文は ﹃すこぶるふじゅうぶん﹄︑か  

つおそらくモリスでなくバックスがかいたのだろうとするが︑プリデイジユ・︑︑︑ユジアムの AdditiOna−MSS.申  

のモリスの日記︵山八八七・二・二三附︒マルクスの貨幣論にかんしてバックスと苦心して共同研究に成功したこ  

とを示唆する︒︶の記述と︑これら諸論文の文体があきらかにモ㌢ス固有の特徴をしめしている事実︑また死の三  

年前にこれらの論文を骨折って慎重に改訂の上山本として出版している ︵SOCia−ism⁝Hts GrOWtF andOutcOme.   

(23)

ー∞冨︶という事実は︑グレイ汐アの見解の皮相なことをしめサバ  

J   ヽヽヽヽヽ  斡傍証的証拠︒モ㌢スの主張する社会主義の内容を検討するとへ山一次資料はモリスの経済論・政治論産史観が   明確・絶対的紅マルクス主義の伝統に■たぢ︑けっして空想的でなく︑科学的であることをしめす︒とくに難解なマ   ルクス労働価値論と搾取との関係の説明に苦心努力している︒②教条的でなくきわめて創造的で︑とくに社会主義   灘会における生活の建設にかんする独創的見解を開拓していること︒これらの内容の点については︑こまかい論証   をさら虹要するので︑ここでほ立ちいらな・いが︑トムブスソはその努力を多くの問題点について深く試みている︒   

トムブスソの以上の論証ぶりはまことに情熱的だが︑しかしモリスが﹁資本論﹂の〝理論的″部分に不得意だ.っ  

空﹂とはいなめないようだし︑当時の状況下では︑たとえ古戯派経済学に通じている人でキ容易には儲読できな   

かったに・ちがいない︒五十才台でほじめて社会主義者となったかれが︑生れてほじめて読む難解庵経済理論ぬ辟易  

したとしても不思議はなく︑またその点についてかれを導く社会主義者たち︵アンドレアス・ジョイ︑E・アグご  

り/ング︑E●バックス︑㌔ヨン・カラザァズ︶ の槻械的または神秘化的な﹁資本論﹂解釈が︑かれにいろいろな   . ︵5︶   磋決をおこさせがちとなっ告﹂とは︑トムプスンも指摘するとおりであろう︒それ紅もかかわらず︑モリスの絶大  

転つはみは︑芸術・政治の実践できたえた直観力と︑︑﹁資本論﹂や﹁空想から科学へ﹂をつうじて獲た歴史=社会史  

への基本的で絶対ゆるがない理解とにあったにちがいない︒ここから︑晩年のモリス︵エンゲル女をおもぁせる︶   ︑ヽ   亀 の本質についても︑おのずから回答がでてくるのではないだろうか︒モリスが晩年かならずしも後退や妥協をした  

︵6︶  

のでないことは︑じつはマツダイルの伝記中の豊富な資料を吟味するだけでもあきらかなのであるが︑﹃社会主義  

︵7︶  

者をつくる﹄ために只e−mscOtt SOCia−ist許ciety設立紅はじまってaunitedS︒Cia−ist Party虹むかうモリス  

の晩年のおだやかな努力が︑政治斗争の経験から得た理論斗争と実践斗争の二面の認識紅もとずく円熟した境地に  

︵四五一︶ 二三    ウイリアム・モリス解釈の新段階  

(24)

カ      少   

(    /■    (      (      (      ( 6  5  4 3 2、1   

)      )    \_/    )    、、./    )  

︵四垂〇 二四   第二十九巻 第五号  

︵8︶  

はかならぬ︑とするトムブスソの解釈は︑あながち我田引水ではないようにおもわれる︒   

最後に︑この期のかれのユートピアニズムについていうなら︑およそ一度でも﹁資本論﹂を熟読したものなら︑  

復古的な﹁空想的社会主義者﹂などになれるものではないだろう︒ニNews frOm NOWFere︒は︑マッケイルが解釈  

するよ︑1乾︑ベラミィの本の普及にヒントを得て︑﹃社会主義者をつくる﹄ために︑あわせてかれの生来の詩情を       ︵9︶   満足させるべく︑かるく手ずさみにかかれたのにすぎないとみることは︑半面の真相を伝える紅すぎず︑モリスほ  

まさにこの労作によって︑ベラ︑︑︑ィの機械時代のふート∴ビアが人間の﹁疎外﹂をなんら解決していないことにチャ  

レンジした点で︑重要な思想史上の意義をもつものである︒らなみ紅︑モリスはけっして工場や機械そのものの存  

在に反対したのではなく︑機械の資本制的搾取への利用とそれによる人間疎外に反対したのであることほ︑かれの  

︵10︶  

一論文が明確にこれをしめしている︒モリスのユートピアこそはあたらしい真の社会主義の未来像−−⊥たれも知ら  

ないかぎり︑モリスはこれを自分の大好きなロマンス繹のタームでかくはかはない1﹃ユートピア的でない最初  

︵11︶  

の旦−トピア﹄ハ﹃イギリス風エートビア像の弁証法的展開の最後の汐ソテーゼをなすもの﹄︵A・L・モーーン︶  

にはかならなかりたのではないか︒  

TFOmpSOロ﹀ Op.Cit..pp● 監ヨ∴ヨ受f︸ 遥Of−葛ヂ空軍伽戻ff●  

Mackai√ Op.Citこ IL p●.思● 

JOぎCa∃uthers︸COmm喜a−a邑COmmerCia−︑EcOnOmy︶−0000∽一pp.㌣=岩∴準  

G−aひier−Op.Cit: pp.山−−N.Cf.TFOmpSOnリ Op.Citこ pp.A±?主−−.   

ThOmpSOn.ibid.﹀ pp.重器−00諾.   

Mackai︼﹀ Op.Cit.﹀ l−h pp・N酷−Nひ00﹀N望﹀ N笠1箋一∽○∽−ピ∽.   

(25)

では第三に︑モhノス解釈史の様相ほどうであっただろうか︒   

まず︑すでにモリスの死の二年前︑アイマァ・プアラン又は︑モリスからその社会主義的見解を重視するとの条 ︵ 

\  

1︶   件のもとに伝記執筆の希望を叶えられ︑その約束をよくまもる草なふぐむ最初のモり了ス伝を十八九七年に出した︒  

ヽ このさい︑プアランスはモリスの死去を報じた諸新聞のモリス観につき︑それが二つの組にわかれ︑﹃山つほウィ  

リアム・モリスにたいし︑.その社会主義への憎悪のゆえになんら特別の美点をみとめようとせず︑仙般にかれの人  

物・活動にひどい嫌悪を感ずる向きであり︑他は︑都合のわるい面はできるだけ背後に押しかくし︑それはたんな  

るエピソードでかれが不幸にし′て陥った弱点にすぎず︑その他の点ではモリスはきわめてすぐれた有能の人物だっ  

︵.2︶  

たとする向きで﹄あることを指摘した︒ヴアランスの言葉は以後続出する︷岳Orrismyth︒のプロトタイプをする  

どくしめすものである︒モリスの死後あらためて決定的伝記執筆の公けの任を帯びたマッケイルは︑E・バーンジョ  

クンズの特別の配慮で当時判明のモリス関係資料を十全に利用し︑慎重な準備のもとに〝スタンダードな伝記〟を  

かいた︵T入九九︶︒後期ヴィクトリア的な謹厳・堅確さと流暢な文体でかかれたマッケイルの本は︑ちょうとヲ  

︵四垂ニ︶ 二五    ウィリアム・モリス解釈の新段階  

︵11︶  

(      (      (    /■、 10 9  8  7   

Cf.ibid.︼ pp.N㌫・ム畠.  

TFOmpSOn.〇p.Cit◆.もp・彗○−詔N・  

Mackair Op.Cit.†ⅠⅠ.pp■ 璧黒丁トリ  

w∵MOrris\トAFactOryaS−tMigFtBe.ズlustice一−∞00ふ︶誉◆−00・︶−pub・aSapampEet︸−害↓・この論文ほモリス  

A.L.MOユOn一丁訂En隻sFU什Op訂.Law蒜nCean中毒i各art︐−誤N一pp︐−澄Lヨ・      ︶  

全集にふくまれていず︑コクル編の選集に入?ている︒後述参照︒  

五  

参照

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︵原著及實鹸︶ 第ご 十巻   第⊥T一號   ご一山ハ一ご 第百十入號 一七.. ︵原著及三三︶

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

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〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」