究
厚 生 経 濟 學 史 の 一 節
9 8 団 幣 ﹃言 と 耐 會 的 孚 圃
手
塚壽郎
一八八八年に︑98国津昌凶は﹀昏魯紹民国︒ら窪と題する一書を著して︑ドイッの各地の大學に學位講求論
文として提出したが︑それは何れの大學の受付くる所ともならなかつたのみならす︑また多歎の讃者を見出す
ことも出來なかつた︒深き失望の感に打たれた図郎膏は一八九三年︑右の著述の縢̀日伽である囚弩3厨目霧
傷巽宕観鐘窪◎︒ぎき日斧(閑︒昌εを公刊して︑自らの所読に封する世人の注意を喚起せんと努めたが︑世人は衡
厚生経濟學更の一館9δ更ご窟と肚倉的争囲一
厚生経濟學史の一節98国藩﹁言と祉會的孚圖二
之を顧みなかつた︒ドイッの諸大學に於て受付けらる玉d駐①壁昏昌が如何なる出來榮えの業績であるかを知
る私共は︑訂り彗雷σq8貯日8伽8昌︒ヨ5きψの序文に於て国訣巽冒が悲憤に満ち充てる言僻を以てドイツ諸大學戦投
らの學問的良心を罵倒し去つてゐる態度(註一)を理解することが出來る︒然しながら︑国津膏は此らの事情に
屈することなく︑一八九七年︑︾﹁げ昏g邑閑&窪を改版し︑分冊となし︑債格を驚くべき廉債となして︑所読を
世人に訴へた︒(註二)だがこれも無釜であつた︒けれども奇しきは国津昌凶の運命である︒猫逸學界に於て全く
顧みられなかつた彼の著作は︑佛蘭西に於て先づ現O︒頴σq︒自︒団冨昌8の敢授O冨匙$ぎ亀臼によつて︑︑︑に
超匂・拓ヨo傷層国津﹃冒霧斤ユ︑菩9窪.亀o賊二︒且器く剛磯o霞︒巽ρ三聾響寓︒耳伽唱o自8蕊捧⊆︒Hきo伽83邑︒唱o臣ρ器醤Noり"(註
三)と最も高︿評債せられ︑次いで﹀山︒ぢ冨ピ彗侮蔓代議士によつて甚だ高く評便せられると同時に︑屡々論評
の封象とせられてゐる︒ピ9巳越の批評に從つて︑修正すべきものを修正し︑固執すべきものを固執しつ︑︑一
九〇六年︑国津醤は佛文を以てピ窃§雷㈹︒昌冨ヨ窃伽88ヨ置器︒・を公刊してゐる︒此公刊から既に二十六年の歳月
が流れたに拘らす︑今も術頃剛︒旨Rの所読は知らる曳こと多くはない︒
(註一)国験昔し・︒い凶三9︒mo三いヨ①器︒8︒邑虐β﹀<碧けもδ℃o伊唱・目!2国浄巨N㍉b℃昌三℃2)8毛ξむ︒δ︒§5琴℃㍗ひp
(註二)国頃窪N弘・窃暫三pσq8一いヨ$伽88巳ρ器9レ養馨・箕o℃03℃・令
(註三)ヨ算M男誌厨8αoO穿鎖二窪﹀乙♂び℃.H<.
た穿少数の專攻學者のみが彼の所読の學問的便値を充分に認むるに至つてゐるのであるが︑少くとも彼の思
﹁
へ
想は其著想に於ては甚だ重要なものであると思ふ︒ピ鎖民越の傑作ピ.昌霞審︒・︒魯δ号蜀肩︒箕一伽忠冒島言含亀︒は其
オリヂンを︾き簿§住国︒傷窪の讃書と共批判に獲するものであり︑叉私の直観的なる印象によれば︑i誰明
は︑他日これをなす機會を作るであらうービグーの≦バ聾ゲ彗傷≦‑舞舞ρおHトっ.の著想はい9巳藁を通して
国津昌Nにオリヂンをもつものであり︑ピ︒円㌶の=o昌臼ヨ窪飢巴6暮田9傭o匿櫛議oHヨ騨980巳βHO旨・はビグー︑
ランドリーを通して褐穿﹁冒に世ハオリヂンをもつもの瓦如くである︒私の国穿#N研究は︑從つて︑厚生経濟學
読史研究への一寄與をなさうことを目的とする︒たΨし︑こ玉での研究は︑国穿昌凶の所読の全面に組織的に燭
れようとするのではなく︑経濟に現はる﹂杜會的孚岡に就いての彼の所論と其批評とのみに關するつとは云
へ︑此解読と批判とは︑彼の所読の全面的理解に充分に役立ち得るであらうと信する︒けだし彼が謬審㌫房
肋a︒♂斡ρ口霧の研究をなすこと多しとするも︑それは肚會的争闘の理解と規定への準備に他ならないからであ
る︒また彼がo︒aoぎ頓器の實践に關する部分を取扱つてゐても︑アンタゴニズムが生するのを如何にして防
ぎ︑叉はアンタゴニズムの結果を攣化するには如何様に干渉すべきかをしか︑問題としてゐないからである︒
田︒N言はアンタゴニズムの研究を︑古代のドラマに於ける︒彗翼3嘗︒に相懸するものであると云ひ︑国暑伽臨窃
の研究を其n昌巳ρまに︑此ら利釜の衝突に於て害せられたる利釜に封して與ふべき保護を象昌︒ρ§再に相慮す
ると云つてゐる︒(註)而して6彗鐘3筈︒こそはドラマ申の宕陶算︒巳ヨ冒彗けであり︑肚會争圖の研究は肚會學的
研究の最高頂をなすのである︒・
厚生煙濟學史のM節98国濤言と杜會的箏圖三
厚生煙濟學史の一節9仲o国漆N言と祉禽的争圖四
(註)国津肖欝鴇ピ畠碧討㎎︾三︒・§①u伽8昌o目5ロ︒・nも℃●旨ー﹃・
ところで﹀具鎧o昌断ωヨ・とは如何なるものであるのか︒此問に答へんがためには︑先づ利釜と利釜との間に存
在する關係を考へて見なければならぬ︒そこには調和的關係︑即ち二つの利釜が同一方向に攣化する關係があ
のり得る︒また二つ利釜が互に反樹の方向に攣化する關係があり得る︒これがト葺9σq︒駐ヨ︒である︒或學者は
︾三茜︒駐已︒や︾薮ぎ忌︒やO︒三壁臼9凶8の間に何らの匿別をなさないのであるが︑此らの間には同一覗すべ
からざる匠別がある︒﹀昌ユ昌︒ヨ冨は︑例へば二つの経濟量が反封の方向に攣化する關係を表はすに止り︑二つ
の利釜が反樹の方向に攣化する關係を表はすとは限らない︒相反的なる關係をもつ二つの量が利釜である場合
にのみ︑﹀葺き該︒は同時に﹀葺茜8騨B︒であり得る︒またOo旨§亀鼠︒昌は思惟のうちにのみあるのであっ
て︑實在のうちにあるのではな・い︒矛盾は人々の思惟のうちに現はれた8昌ぼωご昌から生ずるものである︒從
つて矛盾は常に誤謬を含んでゐる︒之に反し﹀&き慧︒もぎ齢茜8ぎ・も實在のうちに存在する︒(註)
(註)国穿旨噂H﹂o︒︒β・冨鍵σqo巳︒・目o︒︒伽8召慧虐3℃b象・
﹀目冨σq︒駐B︒は利釜の間に存在する背反的關係であるから︑杜會的アンタゴニズムには︑四つの観黙から匿
別をなすことが出來よう︒
μ・卜8彗雷讐島ヨ8︒昌︒翻自窪伽器譲9虜.(異れる種類の利釜のアンクゴニズム)
悼症9艮9碧昌尻目8︒鼻器冨葺伽匙窃謹9︒尉2麗雷酵●(眞實の利釜と想像的利釜のアンタゴ昌ズム)
G︒・冨,︒5雷σq︒駐ヨ86三旨寓侮一穿器昌富¢口蒼ω.(異れる人々叉は主髄の間の利釜のアンクゴ昌ズム)
↑蜜9暮茜︒易8$窪9騨島唐巽睾窃需目蜜(異れる時間の間の利釜のアンタゴ昌ズム)(註一)
だが国津旨凶が︑︾膏ぼ5傷廓&窪やピ窃彗富喀昌置§窃伽8召ヨ5賃$に於て問題としたのは︑経濟的利釜の背反で
あるから︑彼の所読は自ら左の如きものに限られた︒のみならす︑ランドリーが注意して︑︑.ピ.o昌露マ碧客驚
く︒穿ρ8雷昌駐ε.嵩窪︒霞㈹巴①8蕊養鍵弩.ぎα︒駐彗審碧巳9窃傷︒冒"3曾︒昏ま9"⑦寅誘昌喜岸①魯巳ド8鼠寒
♂ o ̀ 茜 o o 幽器 ◎o ◎ b 曽 σQ $ い 自 ぼ 凶 ︒︒ ロ 津 貯 亀 o 心 U 僧 ロq 8 唱 o 自 円 伽 2 自 自 0 8 ヨ ① 旨 窃 8 昌 津 器 ら 9 蕊 ド ︒︒ 0 9 評 伽 8 0 即巴 聾 o . ( ︾ み o 律 ロ 昌 " 剴 a 呂 嚇
酔 ﹄ ﹂ 箸 ・ bρ も9 q l Q◎ O 庶 ρ 目 H " 署 ・ ◎︒ 恥 i メ ) ピ ︒ ︒・ ︒ 三 彗 雷 映 o 昌 両︒︒ ヨ ︒ ρ 気 ︒ 風 ︒・ 言 負 き q︒ 討 ︒・ o 象 蒜 8 0 竃 幽 g ρ o .聾 ℃ 弓 自 二 耳 8 嵐 ρ 巳 欝 謬
脅 蜀 づ 舞 塞 o 自 窃 炉 ︒ B 日 2 ・ .. ( 註 二 ) と 云 つ て ゐ る や う に ︑ 国 津 ﹁ 日 は 維 濟 的 ア ン タ ゴ ニ ズ ム の 研 究 を ︑ ブ ル ヂ ヨ ア 肚
■
會のそれに限つてゐる︒
一︑眞實の利釜と想像的利釜とのアンタゴ昌ズム
ニ︑現在の利盆と將來の利釜とのアンタゴ昌ズム
三︑個々人の利釜のアンクゴ昌ズム
四︑個人の利釜と紅會の利釜とのアンクゴニズム(註三)
私はこ玉では此ら最後の二つのアンタゴ昌ズムのみを︑国歳窪貸の読明のうちに眺めて見たいと思ふ︒(註四)
(註一)両津慧N℃H・oψ9︒昌鼠喀昌尻目om伽8昌oヨ凶紹oい℃ヤお凱・・
厚生経濟學史の一節9ε卑h︒旨と杜會的争翻五
(誰二)
(註三)
(註四) 厚出幽縄濟學‑更の一箭㎜O篠o国欝艮Nと赴會一的孚團桝山ハ
ζづ山薫.H.暮崔篇89巴o自oポ窟o℃臨傘伽ぎ伽三含o昌o℃で●轟ひρ
国h瀞壇黄ピo︒・"導謎g尻旨o凱①8ロo日凶ρg伊喝.蕊い願
98国穿叫9の學説にもと工り︑彼の生活事實も殆んど全く我國の學界に知られてゐない︒欧来の學界に於ても同
様であらうoこ﹂には︑Oげ9為藷O崔oが肉oくqoqぶ︒oロo旨8℃o§5琿o℃回Oい♪℃℃.◎◎い1釣に載ぜ☆男oo8ご管o闘ピo
智o瀞沼o霞9ε国h盆門〜に撮りて︑彼の生活の概観ななして置く︒
彼は︑ドイツ入を父とし︑和蘭人な母とし︑一入五六年U自器髭︒襯に生れてゐる︒署學な修め︑馨師となつto
紹セ2ず世界の各地な旋行し︑南アフリカ︑メキシコに住み︑メキシコぞに五ケ年な土人の小屋で過してゐる︒此小
屋の中ぞの生活申に︑藪學上の問題な取扱つt︾箆o塁︒琶画卜筐9昌①なろ一書た著してゐる︒欧洲大戦中に或和蘭
の汽船會壮の船磨となり︑和蘭と蘭領Oξ碧oとの間な屡々繧復してゐた︒たまくO舞伽oげ娼︒島に寄港し六と
昏︑ドイッ入五ろ故な以て︑捕虜として佛蘭西に逡られ︑初あω巴耳・属"鑓団器に︑次にO鼠話a⑦に︑嬬和の時まで
約四ケ年間監禁ぜられた︒ヂードとラyドリー代議士の蓮動があつたに拘らず︑何ら特別の便宜が與へられなかつ
た︒監禁中にも︑ラテy語な以て数學の小冊子の原縮な書き上げれと云ふ︒
然し国穿N臼がなした研究の主六るものに︑馨學でもなく︑殿學ぞもないoそれに縄濟學であつ六︒彼の笛ヨげ窪8
に経濟撃の教授として大學の講壇に立ち六いことそあつたoだが此野心に少しも満足ぜしめられなかつおoドイッ
の諸大學の敏授に浴ぜかけ索罵署と批騨とに︑彼をしてドイツの諸大學に近づくな得せしめないやうにしおoげれ
ども︑巴里大學の法學部は一九一二年自由講座な開いて︑国hけM窟なしてHげロo℃ξu︒δ︒黙剛︒な講ぜしめt︒彼の喜び
に大であつ六であらう︒一九二一年Ho同島㊦大學(和蘭)に︑二二年から講義心なすべき許可な国鴇巽富に與へ六︒
かくて彼に永い間望んでゐお彼岸に達し得六わけであろが︑不幸にも二一年の十一月永眠し表o