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資 料
純 理 経 濟 學 の 批 評
(其二・完)手 塚
書冊
郎
三
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將來の経濟學は今までの純理纒濟學が考へなかつた経濟心理を重親せねばなら澱︒
所謂心理學派の経濟學は心理的原理を少しも取h入れてゐない︒心理學派の内容を誤解せしめπ
こと甚しい︒通常心理學派と云はる\填太利學派は経濟心理を少しも考へてゐない︒ゴツセソの法
則に從て合理的に働く経濟人しか知らない︒故に懊太利學派は古典派の傾向を押しつめ得る所まで
押しつめて行つπ者なのである︒彼らの理論は論理的であつて︑心理的ではない︒彼らは或原理を
純理経濟學の批騨四四七
商學討究第二巻(下)四四八
與へられた竜のとして其論理的結論を押し詰めて行つたに過ぎ澱︒彼らにとbては最絡利用の限度
と各の財にようて得らる\享樂のみが考察の封象であつた︒此黙から見ればヂエボンスの理論は寧
ろ填太利學派のそれに優つてゐる︒なぜならヂエボンスは螢働の不利用α︒︒︒&一凶鼠を認めるからで
ある︒近代伊太利の大経濟學者司臼轟塗も又填太利學派に優つてゐる︒彼はメンで‑一派の人々よ
うは邊かに深く人の心理を解剖し︑不利用を再生産費の一要素としてゐる︒
バラドクサルな事であるが︑藪學派は恐らくは心理學派と云はる\填太利學派ようは縄濟心理を
考慮してゐる︒殊に最後の形に於ける藪學派に於て然うである︒(註)此黙に關して数學派経濟學は
ワルラスの稀少性口︒︒﹁︒鼠よリパレトの周8a9肇ぎ象8ωへの興味ある進展を示してゐる︒なる程
メレトは純理経濟學から心理的關係を切う離しπ︒メレトは其組織を築くに︑人間は財を選びとる
ヘへに或組み合せを他の組合せようより有意義なうとして撰揮するし︑撰揮の個人的理由の如何を問は
ず其組合せの系列が市揚に於ける個人の作用となつて現れると云ふ客観的事實を以てする︒そして
パγトは云ふ︑己のシステムは人間の行駕の動機が禁欲主義にあるにせよ又は純粋愛地主義にある
にせよ適用され得ると云ふ︒経濟心理の如何は問ふ所でない︒
(註ー課者)勺碧︒δ"冨帥建巴幽.伽8・oヨ凶o℃o︼三虐︒以後のロドザンヌ學派奄指す︒但し︾§自80の立揚は古いo
であるからバγトは機械的形式的なる理論を立つる古典派の加くであるように見える︒かつて
囚碧訂は云ふ︑﹁スミス以來の新説の特長は物質的要因のみを考ふる︒砦一=︒︒一く一︒︒ヨ︒び三巨である︒
從て経濟學の建設者らは國民の経濟的政治的道徳的精棘的要因を無覗しカのである﹂と︒(註)
(註)客︒口帥N・↓言︒﹃即︒冒巳o︒ω巳昌一gεα窪乞彗︒§5ぎ冨︒三のL︒︒β紳・#℃・もN・
現今に於てはワルラスの弟子なるシユンペーターは此古典派の特長を愈々強く取り入れてゐる︒
彼は均衡のシステムに於て商品の均衡しか考へない︒﹁我らに與へられπ竜のは諸商品の量であ
め︑我らの問題は此ら商品の一つの量が灘花するとき︑此ら商品の量が如何なる愛化をなすかを知
るにある︒我らの構造が與へられπものである以上︑我らは孤立せる個々人が所有せる商品の量の
獲化を考察するに止らざるを得ない︒﹂(註)此狭い見方は誤である︒
(註)ω095℃o冨5類o器昌菖露国雲讐ぎゲ巴け庫2酔oo屋け詰︒ゲoづ2"ま昌巴αぎ昌o巨ρ℃℃・目ωい・H尭・9智u︒臨導.此著にば後の﹁経濟
襲展の理論﹂に見らろ﹂ような濁創の見はほとんどないo
だが経濟均衡の基礎としてのメレトの冑9§一・蕊‑ぎ隻8ωのシステムは均衡が個人の心理にようて
愛化する乙とを示してゐるのである︒(註)メγト自ら云ふ︑﹁均衡は欲望と其障碍物との劉立よう生
ず﹂と︒π讐ローザソヌ學派の誤は欲望を與へられπものと考へた黙にある︒實は此欲望乙そ眞の
純理輝濟學の批騨︑四四九
商學討究第二巻(下)四五〇
問題となるのである︒
(註)聞§・ρご蕊‑ぽ隻︒窃の思想により︑パレトが眞に如何なる進歩な経濟學に齎らし六か︑何故に祉會學に於て此態度な捨て六
かに就てにO冥口巴︒畠oσq冒08コO§一ω帥計回鷺↑コO﹂・に於けろパyタナレナニの研究な蓼照o
もへ経濟の籔學的取扱に封しては欲望の性質は意味をもπ澱︒代藪に於て用うる記號の値が無關係な
ると同様に︑歎學涙経濟學は欲望の性質如何を問はない︒然し實は此欲望こそ縄濟均衡の基礎なの
である︒少しく注意して事實を観察すれば︑將來の経濟學が商品の均衡よbも心理的均衡を考慮せ
ねばなら綴≧とが了解せられると思ふ︒人間の精騨状態が根本であつて︑経濟事實は其結果であ
う︑貨幣現象は其附帯現象である︒個人叉は集團の諸心理にようて具膿的均衡が如何なる眞相を現
してゐるか︒これが藪學派経濟學が未だかつて答へ得ざうし問題である︒何と孜れば藪學派にとう
ては欲望は與へられたものであるからである︒
一例を爲替の理論にとる︒敷科書の爲替論の要素となつてゐるものは債格や商品の量や支彿の手
段等である︒然し余の見る所によれば︑此理論は+歎年前には眞理であつカらうが︑今に於ては誤
である︒然るにも拘らず理論家は古いシエーマを其懐\信じてゐる︒我らは心理的要因の考察にょ
りて此理論を修正せねばなら汲と思ふ︒偶替の例は均衡の實際問題に於て藪學派の考へ得なかつた
精沖的要素の働きが如何に大なるかを示すに足ると思ふ︒要するに余の見る所によれば︑.総ての経
濟學殊に丈學的経濟學は貨幣現象に過大の重要さを置いて誤つた︒反封に総ての経濟學殊に純理経
濟學は人間の心理が肚會の均衡に及ぼす働きを忘れて誤つπ︒前古典派の経濟學者は却て此黙に於
ける正しい理解をもつてゐる︒(註)我らは此前古典派の思想に蹄らねばなら諏︒
(註)殊に9艮自o戸
現今與へられπ國に於ける駕替相場の愛動は大部分心理的要素︑経濟人が此國の貨幣に封して竜
つ信頼叉は疑惑∩2出9コ6?α飴撃8なる要素に因るのである︒故に商品︑用役又は支彿用具との均
ヘ ヘ ヘ へ も へ も
衡を考ふるを要するのみならず︑精神状態の均衡を導き入れねばなら澱︒此表現は甚だ奇怪であるが︑事實に合する︒マルクが下落して濁逸の資本が流出しπとき︑もしマルクの縢貴に劉する投機
がなかつπら︑マ川クの下落は一層甚しかつπであらう︒一層よい例は國際聯盟が填太利に干渉し
始めπ時の填太利に見らる\︒一九二二年入月二十五日︑一金クローネは一萬七千クローネ紙幣で
あつて流通紙幣は約一︑二〇〇ミリァルであつカ︒國庫への貸付は+一月末に至つて初めて停止し
禿のであるが︑其間流通紙幣は二倍以上殆んど三倍に壇加しπ︒(+一月末日三︑四〇〇ミリァル)
然るに劃外駕替は恢復して一金クローネは十一月末日一萬四千五百クローネとなつπ︒(註)初期に
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於ては疑惑なる心理的要素と反封の心理的要素とが均衡し得なかつ泥︒此均衡せざる力が爲替に働
き物慣の騰貴を惹き起しカ︒第二期に於ては心理的要素のうち信頼のみが存在し︑反封の心理的要
素は均衡を生ぜしめ得なかつカ︒故に人が欲すると否とに拘らず︑経濟均衡は物質的要素とは蓮つ
π要素にも依存するのである︒
(註)じd︒蕊虐︒び図辞3躍養筍︒昌ヨ︒口陣巴器留一.﹀暮臥︒ゴρ
右の例は他の理由にようて竜興味深い︒即ち経濟理論は永久不愛ではなく︑経濟事實の愛化に順
慮すると云ふ例に竜なる︒現今の駕替は一世紀前︑否+五年前の爲替とは異る︒(註)
(註)翻o霧碧︒計国・︒︒・鼻︒げ唱一富属州・然しく罠22くo占pおo∋o昇u甲剛⁝舞9器山︒一︒90ぎヨ冨℃o毎βロρ蕊H全戸Hお℃●い這に次の
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第二の例を貯蓄の問題にとる︒文學的経濟は此問題をほとんど取扱はなかっ允︒文學的経濟學に
とうては貯蓄とは或物を貯藏して置く個人的行駕である︒それは全く物質的作用である︒かつてメ
シトは此説をとつ穴︒﹁貯蓄は個人が消費を差しひかへ穴る経濟財よう成る︒かくて構成せち
る\貯蓄は貸付くる乙とも出來れば︑貸付けざることも出來る︒貯蓄の形式と貯蓄の貸付とは全く
別な作用である︒之らを混同すべきではないLと︒(註)余は信ずる︑此バレトの奮説は全く事實に
反する︒
(註)勺碧卑PΩuロ誘告.伽8きヨげ℃包三咤P朋齢轟困◎︒地念o●
ローザンヌ學派はこれに一歩を進めてゐるが︑左程の進境を示してゐない︒バレトは云ふ︑貯蓄
ヨは資本叉は貯蓄資本国℃碧σq二?︒9・M)冨一に愛じ得らると︒乙れは要するに眞に存在するものは物質で
あり︑人間は之を他の物に愛化すると云ふ思想である︒ワルラスの資本化の方程式も生産の方程式
の一揚合に過ぎないことは此間の消息をよく物語つてゐる︒つまう問題の心理的方面は全然取扱は
れてゐないのである︒然し此心理的方面こそ本質的なのである︒
加之︑歎學派は資本の市揚と貨幣の市場を同一に見てゐる︒余の考へでは︑たとひ第一の近似法
に於ても爾此れは許し難い主張である︒リスト敷授の論文は余の説を裏書するものである︒(註)
(註)空呂剛・.書母げq器"ω2暮伽雷巳︒・∋︒︒・o︒芭g℃︒︒鷹ぎざびq5鐸⑦臼コq・鼠口︒ぐロ①山o冨傘掌・℃ξ頓団ρ器簿竃o琶ρお配・
貯蓄も一概に論じ得られない︒一自然縄濟に於てはバレトの云つπようなシエーマは眞である︒(
ロビンソン・クルソーは其食物の全部を浩費せず︑其一部を貯蓄する︒次いで後日には食物を得る
純理縄濟學の批評四五三