岡山県における中学校「特殊学級」の歴史的研究 : 1960年代の職業に関する指導について
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(2) 目 次 序 章 問題の所在と研究の目的. 1. 1 問題の所在. 1. 2 研究の目的と分析視点. 3. 第1章 特殊学級教育の概観. 9 9. 第1節. 戦後の特殊教育の概観. 第2節. 岡山県における特殊教育の概観. 21. 第3節. 1960年代の量的拡大と対象の分化. 35. 第2章 能力観の変遷と在籍生徒の実態. 39. 第1節 行政施策の変遷. 39. 第2節 在籍生徒の変遷. 44. (1)岡山市の場合. 44. (2)倉敷市の場合. 49. (3)津山市の場合. 56. 第3節 在籍生徒の実態. 61. (1)岡山市立石井中学校の場合. 61. (2)岡山大学教育学部付属中学校の場合. 64. 第4節 進路状況の変化. 68. 第5節. 77. 能力観を形成するもの. 第3章 教育課程の実態と職業教育に関する問題 第1節. 中学校特殊学級における職業教育. 第2節教育課程の変遷. 82 82 87. (1)岡山市の場合. 87. (2)倉敷市の場合. 104. (3)津山市の場合. 110. 第3節教育内容を支える理念. 117.
(3) 第4章 個別指導の実態と展開 第1節 個別指導の定義と意義 第2節. 個別指導の実態. 122 122. 126. (1)岡山市立石井中学校の場合. 126. (2)岡山大学教育学部付属中学校の場合. 131. (3)倉敷市立玉島東中学校の場合. 138. (4)津山市立北中学校の場合. 143. 第3節個別指導における方法論. 第5章 特殊学級担当教師の資質に関する問題. 149. 152. 第1節. 行政施策と特殊学級担当教師の資質. 152. 第2節. 管理職・保護者・担当教師の意識. 156. 第3節 特殊学級担当教師の資質を決定するもの. 163. 終 章 研究のまとめと今後の課題. 169. 文献一覧. 175. 巻末資料 謝 辞.
(4) 序 章 問題の所在と研究の目的 1.問題の所在. 北欧で始まったノーマライゼーションの思想は、1981年の国際障害者年を きっかけとして我が国にも広まっていった。その一方で、アメリカ合衆国を中心と した個性重視の考え方が、我が国においても見直されている。このような潮流は、. 教育現場にも時代に即した教育の実践を迫ってきた。その中には、本人参加やライ. フスタイルの重視といった事柄も内包されている。中学校特殊学級の現場でいえ ば、適切な教育をいかに提供し、本人や保護者の信頼を得るかということが重要な 課題であると思われる。しかし、現実には改善すべき課題が少なからず存在してい るのではないかというのが、中学校特殊学級を5年間担任した筆者の実感である。 それは、就学指導体制が各学校でまちまちであり、適性な就学が困難であること。 評価やカリキュラムも含めた学級経営が、交流の問題とも絡んで複雑であること。. 自信をもって教育内容や方法を提示できないこと。その背景にある担当教師の資質. の問題、或いは担当教師を決定する際の管理職の意識等、特殊学級を取り巻く人 的・物的環境は、必ずしも満足のいくものではない。宮崎(1995)は、近年の特殊 学級在籍生徒数の減少原因として、全体の生徒数の減少と共に特殊学級に対する不 信感をあげており、現場の実態として「学級経営は特殊学級の多様化のため経営目 標も様々、教育課程の編成もむずかしく、授業においても能力差、少人数により問 題が山積ということで、特殊学級担任教師の理念は、かなりしっかりしているもの の日々の学級経営や授業はままならないというのが現状である。」としている1)。. 中学校特殊学級において適切な教育をいかに提供し、本人や保護者の信頼を得るか ということは、在籍生徒の多様化等により困難ではあるが重要な課題であると思わ れる。. 戦後、我が国の教育に決定的な影響を及ぼした米国教育使節団報告書の背景的思 想には、個人に基底的な重要度を与える思想、つまり教育における個人重視の思想. があった2)。そして戦後50年を経た現在、文部省は「障害等の状態などに応じた. 一1一.
(5) 適切な教育を行うことが重要」3)とし、個に応じた教育が再び重視されようとして いる。. わが国の特殊教育は、その教育内容・方法の幾多の変遷により、教育現場の混乱. を招いてきた。1950年代半ばに隆盛をきわめた作業学習や職業教育を中心とし た経験:主義教育が、1960年代になって教科教育の志向という立場から批判され た。63年に出された「養護学校学習指導要領小学部・中学部 精神薄弱教育面」 は、教科中心教育が指向され、同時に生活経験を重視した教育も行うことができる よう配慮されたものであった。日本教職員組合は、発達保障の観点から生活単元学 習や作業学習を批判し、旧ソビエトの障害児教育における発達論やS・カークの影響. などにより教科教育が指向されていった。また、算数教育において水道方式を唱え た遠山啓は、知的障害児と普通児の発達は異質なものではなく、量的なちがいであ るという発達観から「原数学」とする考えを提起し、教科教育の重養性を主張した 4). Bしかし、1971年の養護学校学習指導要領:の第1回改訂では、生活科や養i. 護・訓練が新たに設けられ、79年度より養護学校義務制が実施されるに及び、重 度児への教育内容や指導方法の模索が行われるようになった。そうした中で生活単. 元学習や作業学習が再評価され始め、1989年の学習指導要領改訂に伴い、高等 部に職業科の設置が認められた。これにより、再び作業学習や職業教育重視の傾向. が広まりつつある。渡辺(1997)はrr生活』か『教科』かという論争は、その強 調点や表現方法はことなっていても今後ともこの教育においては継続される」5)と している。. そのような教育内容・方法をめぐる問題は、生徒・「障害」の理解という問題と. 密接に関わっている。WHOの定義する障害の3側面のうち、教育は特にdisabihty に対してアプローチするとされている6)。しかし、この生徒「障害」の理解が不十. 分なために教育内容・方法にも困難をきたしているという点で、在籍生徒の実態を つかむことは必要不可欠であり、個別教育の必要性が説かれる所以でもある。また. 「特殊学級教育で最も大切なことは、校内において人望があり、教科等の専門知 識・技能を持ち、しかも指導技術を持った教師が担任となることである。」7>とさ. 一2一.
(6) れる通り、直接生徒に接する教師の問題は、その影響力の大きさから、特殊学級教 育を考える上で大きな要素である。「インテグレーションの問題を考えてゆくと、. 個々の子供の教育的ニーズに合わせた柔軟な指導形態を採用できる条件を整え、担 当する教師が指導法についての専門性を高めることの必要性が明らかになった。」 8). ノもかかわらず、特殊学級教師は、現在においても教育職員免許法付則24に. よって養護学校教員免許状を所持していなくても特殊学級を担当することができる ことになっており、障害児教育についてなんら基礎的な知識をもたない教員が配置. される可能性を残存させている9)。また、学校教育法施行規則第73条の19では 「小学校または中学校における特殊学級に係る教育課程については、特に必要があ. る場合は、第24条第1項、第24条の2及び第25条の規定並びに第53条第1 項及び第2項、第54条及び第54条の2の規定にかかわらず、特別の教育課程に よることができる。」とされている。つまり、特殊学級においては、「学級の実態 に応じて特別の教育課程を編成することが法令上認められているわけである。」10). 特殊学級の経営は、各学校にある程度任されているということができよう。それは 特殊教育諸学校と異なり、特殊学級担当者に教育内容が大きく左右されることが考 えられるということでもある。どの様な専門品をもつ教師に教えられているのかと いうことは、特殊学級の場合、特に大きな問題であるといえる。. 以上の様に、生徒「障害」の理解と、一人一人に応じた適切な教育内容・方法の 提供ということが、重要かつ困難な課題である上に、特殊学級を取り巻く人的・物. 的環境の問題、社会情勢の変化等が加わり、現場は混乱をきたしているものと考え られる。. 2.研究の目的と分析視点. 1945年忌ら59年頃までは、特殊教育行政も教育現場も特殊学級教育に力点 を置いた。国は、特殊学級担当教員の資質の向上にも力を入れ、いわば「特殊学級. 教育の時代」であった11)。1959年頃から特殊学級の計画設置が政策的に開始さ. れ、70年代前半には「精神薄弱特殊学級」を中心にして学級数も生徒数も急増す. 一3一.
(7) る。量的な拡大に伴って学級の実態は多様化し、混乱期を迎える。1971年の養 護学校学習指導要領第1回改訂により生活科と養護・訓練が新設され、79年から 養護学校が義務制となるに及んで、特殊教育の中心は中重度児に移る。文部省は義. 務制実施後の問題として、特殊学級や通級学級のことを早手回しに準備し、78年 「軽度心身障害児に対する学校教育の在り方」を報告するが、義務制実施にかかわ. る問題により、特殊学級への新たな施策を実施するには至らなかった。その後、学. 級数、生徒数:は減少し、90年以降、学級の小規模化が進行、1995年度は小・ 中学校平均で1学級3人を割った12)。. そうした学級や生徒数が変化する中で、教育内容や方法も幾多の試行錯誤を繰り. 返してきた。そして「1990年代に入り、学習指導要領解説などを根拠にして 『生活単元学習』 r作業学習』中心の教育が、そして「個別指導」を機軸にして教. 育方法が展開される様相を示している。」13)また、国際障害者年をきっかけとし. て、共生の思想が世界の大きな流れとなるに及んで、交流教育の問題がクローズ. アップされる。1993年度以降、通級制度が実施されたが、割合から言えば最も 多い知的な障害をもつ児童生徒が対象外となった。制度面での柔軟な対応も含め、. 教育現場は子どもに合わせたより適切な指導内容・方法を検討することが求められ ており、時代と共に変化してきた特殊学級教育は、制度的にも新たな時代を迎えよ うとしている。現在、特殊学級教育は転換期にあると言える。. 特殊教育は、その教育内容・方法の幾多の変遷により、教育現場に混乱を来した という苦い経験をもっている。そして、それは現在も継続している。位頭(1982). は「個別化を取り入れない統合教育は、30年前に逆戻りであり、それは統合教育 とはいえないまったくレベルの低い別のものである。」14)としている。今後の特殊. 学級教育を考えてゆく上で必要なことの1つは、特殊学級とは何なのか、その教育 学無意義を明確にし、理念に根ざした実践を積み重ねてゆくことであろうと思われ る。 「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となる。」 (ヴァイッ. ゼッカー)という言葉の通り、特殊学級教育の方向性を考える時、歴史的な経緯を. 一4一.
(8) 無視するわけにはゆかない。「どこへという疑問はなぜという過去へ向けての問い に結びつく」15)のである。. 地方教育史研究の意義の1つは、 「特定の地方の教育事実をとらえながら、事実 の把握をとおしてその時代の教育の本質を解明しようとするもの」である16)が、そ. の中でも特殊学級に関する歴史的な研究は数少ない。特に、戦後の特殊学級史研究 は、宮城県・茨城県・徳島県・名古屋市・北九州市等のものがあるにすぎず、まし てや、全国的な通史的研究は皆無といってよい。 「特殊学級の役割の大きさや問わ. れている問題の重要さを考えたとき、戦後特殊学級史研究の担うべき課題は大きい といえる。」17>. 岡山県の場合、戦前のものとしては、迫の研究18)等があるが、戦後を扱った研究. は見られない。1963年の岡山県教員組合第12次教育研究集会の記録の中にも 「『つみあげ』ということばはあっても真にその名に値するものがあるだろうか。. 討議の中にはほとんど数年来の教研で解決されたものだと考えられるものが今年も また、熱をおびて語られていた。これなどはいわば『つみあげ』に逆行するものと いえよう。」19)とある。現在の問題を考える時、過去の経緯を無視するわけにはい かない。まして、 「特殊学級」というつかみどころのないものを研究の対象とする 場合、歴史的な経緯そのものを研究の対象とする必要があるものと思われる。. そこで本研究では、岡山において特殊学級の在籍生徒が急激に増加し、その実態. もさまざまで、教育方法の模索期であった1960年代という歴史の中から、在籍 生徒の実態、教育内容、教育方法、教師の資質という視点で調査をすすめ、特殊学 級そのものの教育学的認識を深める。そして、当時の特殊学級教育から今後学ぶこ と、改善すべきことを明確にし、今後、一人一人に適した教育を提供し、本人や保 護者から信頼されるために、特殊学級はいかにあるべきか検討することを本研究の 目的とする。. 相対的20)とされる特殊学級の教育学的意義を明らかにするにあたって、その構成. 要素を明らかにしておく必要があると思われる。中学校教育現場に限定してその要. 一5一.
(9) 素を考えた時、大きく分類して、どのような生徒に、どのような内容を、どのよう な方法で誰が教えるのか。換言すれば、在籍生徒、教育内容、教育方法、教師とい う要素が考えられる。分析の視点を以下の点に絞り、研究をすすめる。 (1)在籍生徒. 能力観の変遷と特殊教育対象児の移り変わりを明らかにする。岡山市、倉敷市、. 津山市における在籍生徒の変遷を分析する。また個々の事例から、教育内容や教育 方法を展開するにあたってどのような生徒が特殊学級おいて教育を受け、どのよう な進路をとったのか、教育の実態に関する文献資料とインタビューから調査し、当 時の教育行政との比較検討を行う。. (2)教育内容. 中学校特殊学級で最も大きな問題のひとつに進路の問題があげられる。自立とい うことが強調され、かつての学校工場方式に代表されるような、就職して働く力を つけることに力を入れる教育が主流を占めた時代があった。障害をもつ生徒の進路 問題は、行政面での整備も加え、徐々にではあるが改善されてきている。しかし、. 長期的展望のもとに教育が必要とされる障害をもつ生徒達が、早くから自立して働 く力をつけることを強いられている現状が残存していることも事実である。社会情 勢との密接な関わりにおいて障害児をめぐる教育内容はどのように変化してきたの か。教育課程の変遷を明らかにすることで、職業教育の意義と問題点について分析 する。. (3)教育方法. 現代において、その重要性が指摘される一人一人に適した教育という観点かち、. 授業場面において、どのような教育方法がとられていたのか、在籍生徒との関わり から検証し、個別指導のありかたについて考察を加える。 (4)教師の資質. 行政施策として行われた教師の養成、研修の実態を明らかにし、行政の考える望 ましい教師像、保護者の考える教師像という面と、実際の教師の資質や教師本人の 意識という面を比較し、教師に関する問題点と調査研究の限界について考察する。. 一6一.
(10) 註 1)宮崎直男r障害児教育改革論』明治図書、p.48、1995。 2)小出進監修・名古屋恒彦著『生活中心教育・戦後50年』大三社、p.14、1996。 3)文部省『一人一人を大切にした教育一障害等に配慮:して一』大蔵省印刷局、p.2、 1996。. 4)渡辺健治「戦後知的障害児教育方法史の研究」 『障害者問題研究』第24巻 第4号、p.331、1997。. 5)前掲書4)、p.334。. 6)山口薫・金子健r特殊教育の展望』日本文化科学社、pp.15−16、1993。 7)宮崎直男「通級学級教育が始まる」明治図書、p.51、1992。. 8)成田滋・緒方明子・本木章喜・中川辰雄「アメリカ合衆国の特殊教育」 『欧米. 諸国における特殊教育の実態と新しい展開に関する比較分析的調査研究』平成 3年度科学研究費補助金(国際学術研究)研究成果報告書、p.153、1991。 9)谷川邦宏「教員養成」 『発達障害白書』日本文化科学社、p.86、1996。. 10)文部省『精神薄弱特殊学級教育課程編成の手引き』海文堂出版、p.6、1992。 11)前掲書7)、p.1。. 12)戸崎敬子「戦後における『特殊学級:』の展開」 r障害者問題研究』第24巻 第4号、p.361、1997。. 13)前掲書4)、p.333。 14)位頭義仁r交流教育の実際』教育出版、p.18、1982。 15)県内謙『現代史を学ぶ』岩波新書、p.10、1995。. 16)名倉英三郎「地方教育史研究の現状と問題」 『教育学研究』第31巻第3号、 p.52、 1964。. 17)前掲書12)、p.345。. 18)迫ゆかり「戦前・岡山県の社会事業にみられる済世制度の役割と影響につい て」 『就実論叢』第23号、就実女子大学、1993。. 一7一.
(11) 迫ゆかり「岡山県における戦前の障害者処遇」r日本特殊教育学会第28回大会 発表論文集』、1990。. 迫ゆかり・清水寛・志賀金充「岡山県における『精神薄弱児』教育問題の成 立・展開課程(その4)倉敷小学校特別学級の成立背景と展開要因について」 r日本特殊教育学会第26回大会発表論文集』、1988。 迫ゆかり「明治期の岡山県にみる公的障害者処遇の研究」 r日本特殊教育学会 第24回大会発表論文集』、1986。. 迫ゆかり・清水寛「大正新教育下における岡山県の『劣等児・低能児』教育の 特徴」 『特殊教育学研究』第27巻第3号、1989、等。. 19)岡山県教員組合編『岡山の教育一第12次教育研究集会一第19分科会(特殊教 育) 』、p.322、1963。. 20)玉村公二彦「障害児学級研究の動向と若干の問題」 r障害者問題研究』第64号 p.2、 1991。. 一8一.
(12) 第1章 戦後の特殊学級教育の概観 第1節 戦後の特殊教育の概観. 第2次世界大戦の影響により、戦前までの特殊学級はほとんどが廃止されてい. た。1946年に東京都渋谷区大和田国民学校補助学級が復活する。同年、第1次 米国教育施設団報告書により、障害児教育機関の設置と義務油化が指示される。翌. 47年忌は、教育基本法、学校教育法が公布される。これにより、心身障害児に対 する義務教育の機会の保障が初めて原則的に確立され、学校教育法第75条に基づ き特殊学級の設置が認められる。しかし、同時に学校教育法第23条によって就学 義務の猶予、免除も規定された。また文部省教育研修所内に東京都品川区立大崎中. 学校分教場として特殊学級が設置される。この学級は1950年に東京都に移管さ れ、東京都立青鳥中学校、57年に青鳥養護学校となる。. この頃、文部省は、初等教育課に特殊教育担当視学官(三木安正)を設置。総指. 令部民間情報局(CIE)の指導のもとに特殊学級の普及に努め、更に同局の支援を. 得て、特殊教育教員再教育講習会を開催している。この講習会は、1950年より 特殊教育研究集会となる。日教組が結成され特殊教育部ができたのもこの年であっ た。戦後の窮貧の中で、新制中学校の整備に手一杯という状況の中、教育内容・方. 法としては、教科内容の程度を下げて指導するいわゆる水増し教育が行われてい た。しかし、次第に作業学習的な教育が行われる様になり、コア・カリキュラム方 式といった経験を基底に据えた教育が全盛となった。しかし、それらの経験主義教 育は学力低下の問題を生み、 「はいまわる経験主義教育」と批判を受けるにことに. なる。その一方で、生活中心教育は独自の教育内容・方法を指向し、青鳥中学校で 行われたバザー単元学習は全国に影響を及ぼし、その後、学校工場方式と呼ばれる. 職業教育へと発展していった。1948年に中学校特殊学級数は17校、49年に は26校、50年には49校と増加してゆく。しかし、実態は、学力低下を補う能 力別学級編成の1つとしての混合学級であり、障害種別にはなっていなかった。社 会的背景による長期欠席、非行対策としての性格があったのである。また、第2次. 一9一.
(13) 米国教育施設団報告書によって、できる限り通常の教育計画により、障害児も教育. を受けるべきと勧告があった。1951年には異常児鑑別基準作成委員会が発足 し、第1回全国特殊学級研究協議会が開催される。特殊学級教育は内容的な確立が 図られ、混合学級は精神薄弱特殊学級に漸次整備されてゆき、55年前後には精神 薄弱特殊学級が主流を占めるようになる。51年当時は、障害児の権利保障にも言 及した児童憲章が発布された年だったが、生活難から児童福祉法違反事件(人身売. 買)が激増した時期でもあった。52年には精神薄弱者育成会(手をつなぐ育成 会)が結成され、文部省初等中等局に特殊教育室が設置された。. 1953年、文部省は中央教育審議会答申を受けて「教育上特別な取り扱いを要 する児童生徒の判別基準」 (文型特昇303号)を文部事務次官通達で通知した。こ の判別基準において、 「精神薄弱者」に関する定義、基準、教育的措置は以下のよ うに規定された。. 【定義】 種々の原因により精神発育が恒久的に遅滞し、このため知的能力が劣. り、自己の身辺の事がらの処理および社会生活への適応が著しく困難な ものを精神薄弱者とし、なお、これをその程度により、白痴・痴愚・魯 鈍の3者に分ける。. 【基準】1.白痴 言語をほとんど有せず、自他の意思の交換および環境への適応 が困難であって、衣食の上に絶えず保護を必要とし、成人に なってもまったく自立困難と考えられるもの(IQによる分類を. 参考とすれば、25ないし20以下のもの) 2.痴愚 新しい事態の変化に適応する能力が乏しく、他人の助けにより ようやく自己の身辺の事がらを処理しうるが、成人になっても. 知能年齢6、7歳に達しないと考えられるもの。(IQ 20ない. し25から50の程度) 3.魯鈍 日常生活にはさしつかえない程度にみずからの身辺の事がらを 処理することができるが、抽象的な思考推理は困難であって、. 成人に達しても知能年齢10歳ないし12歳程度にしか達しな. 一10一.
(14) いと考えられるもの。 (IQ 50から75の程度). 付1境界線児前項と正常児との中間にあるもの。 付2 現在、精神疾患、脳疾患を有する精神遅滞。. 【教育的措置】1.基準1に規定した程度に該当するものに対しては、就学免除を 考慮する。. 2.基準2に規定した程度に該当するもののうち、遅滞の高度のも のは就学猶予を考慮し、軽度のものに対しては、養護学校に就 学させ、または特殊学級に入れて指導するのが望ましい。. 3.基準3に規定した程度に該当するものに対しては、養護学校に 就学させ、または特殊学級に入れて指導することが望ましい。. 4.基準付1に規定した程度に該当するものに対しては、状況に応 じ、養護学校または特殊学級または普通学級に入れるかを決定 することが望ましい。. 5.基準付2に示すものに対しては、就学猶予を考慮し、医療にゆ だね、その結果により適宜な措置が望ましい1)。. この基準は、62年に一部改正され、養護学校の対象となるべき者の障害の程度 が新たに規定される。また53年には「特殊学級増設方策について」 「全国学齢児 童生徒中の精神薄弱児実態調査」が出され、出現率を4.25%とした。また同年、 総理府中央青少年問題協議会が「精神薄弱児対策基本要項」答申の中で、特殊学級 設置の年次計画を盛り込んだのもこの年であった。 義務設置の対象とする学校の規模. 設置すべき学校数 設置学校数. 設置学級数. 1955年度. 児童生徒数1900人以上. 1学級 472. 427. 1956年度. 〃 1600∼1899人. 〃 527. 527. 1957年度. 〃 1400∼1599人. 〃. 619. 619. 1958年度. 〃 1300∼1399人. 429. 468. 〃. 2学級. 2600以上. (39). 2047. 計. 2086. (文部省『特殊教育百年史』東洋館出版社p.3831978). 一11一.
(15) 1954年、 「中央教育審…議会が文部省に答申した『特殊学級およびへき地教育 振興について』の中で、盲者、ろう者以外の特殊学級について、次のように述べて. いる。 『特殊学級は、終戦幽すでに、1,800ほど存在したのが、今日は約900 に減じていて、この面では後退こそあれまったく進展をみせていない。したがって 特殊学級の設置のための年次計画をたて、これが促進のために必要な教員および設. 備につき財政上の措置を講ずること。』この答申は、特殊学級増設の引金となっ た。」2)同年、養護学校、特殊学級教員養成講座(初心者講座)が開始され、55 年からは、特殊学級奨励のための教室建築費補助等の助成も開始された。また、同. 年、文部省は、養護学校、特殊学級整備促進協議会を発足させ、翌56年には、初 等中等教育局に初等特殊教育課が設置される。57年には「精神薄弱児の学齢児童 生徒に関する就学について」という通達により、中重度児の就学義務猶予・免除を. 規定した。また同年、精神薄弱児特殊学級の実態調査を実施している。また、19. 58年学校教育法施行規則が一部改正され特殊学級の教育課程について制定され た。この年より特殊学級を担当する教員に調整額が支給される運びとなった。また 学校保健法が公布され、就学時健康診断の実施について規定されるとともに、文部 省体育局長通達「就学時の健康診断について」が出され、知能検査重視の傾向が高 まることになった。. 1959年には、第14回国連総会において児童の権利宣言が採択された。同 年、中央教育審議会は「特殊教育の充実振興について」答申を出し、 「その程度の. 重い児童・生徒は主として養護学校において、軽い児童・生徒は主として特殊学級 において教育を行うのが望ましい。」という養護学校と特殊学級の各対象を障害の 程度で区分する考え方が明確に提示された3)。同年、総理府中央青少年問題研究会 は「精神薄弱児対策の推進について」という意見具申を総理大臣に提出。その内容. は「市町村に対しては速やかに年次計画をもって、小、中学校の特殊学級の設置 を、及び都道府県に対しては養護学校の設置を義務づけるとともに、これが設置に. 当たっては、国はその補助を従来の2分の1から3分の2に引き上げるべきであ る。」というものだった。. 42一.
(16) 1960年文部省は、学習指導要領中間報告をもとに、教育内容の分類様式(6 領域)について議論を重ねた結果、 (1)各教科による分類形式を採用しても、既. 存の各教科の概念にとらわれずに精神薄弱教育にふさわしい教育内容を盛り込むこ と。 (2)各教科で教育内容を分類しても授業は教科別に進める必要はなく、各教 科等の内容を合わせて行うことができることを決定した。. 翌61年に文部省は、精神薄弱特殊学級を計画的に設置してゆくために5か年計 画を開始する。しかし、3年後の64年には、当初の計画を上回る設置がなされた ため、第2次5か年計画を新たに開始。特殊教育振興方策を発表し、養護学校、特 殊学級の設置を各県に要請した。第2次5か年計画の概略は以下の通りである。 ・人口1万人未満の町村においては、小、中学校各1学級。. ・1万人以上3万人未満の町村においては、小、中学校各2学級。 ・3万人以上5万人未満の市町村においては、小、中学校各3学級。 ・5万人以上は、5万人増すごとに小、中学校各1学級増設する。. 奨励設置280学級 計画設置1,012学級 養護学校につては、1962年から精神薄弱養護学校及び病弱養i護学校の奨励設 置も含め、毎年合わせて16校ずつの増設計画を推進した。 その結果、特殊学級及 び養護学校の増加をみることになる。 「しかし、こうして設置された学級の中には. 児童・生徒数の減少に伴う教員定数減を防ぐ目的で設置されたものもあり、学級維. 持のためにいわゆるr行政精薄』を生み出す原因となった学級も少なくなかっ た。」の. 1962年、学校教育法が1部改正され、特殊教育の対象となる児童生徒の範囲の 明確化等が行われた。これにより、1953年の文部事務次官通達「教育上特別な 取扱いを要する児童生徒の判別基準について」は失効することとなった。また同 年、学校教育法施行規則第37条の10も改正され、 「教科の全部又は1部につい て、これを合わせて授業を行うことができる。」とされた。さらに、学校教育法施 行令の改正により、白痴、痴愚、魯鈍という用語を重度、中度、軽度に改め、判別 には医師などの専門家を含む委員会を設けるよう求めた。. 一13一.
(17) 1963年、文部省は「養i護学校小学部・中学部学習指導要領精神薄弱教育編」を 作成した。これは、各教科の内容をIQ 50∼60程度の子供達を想定して構成され たものであった5>。学習指導要領が制定されるまでは、教師の判断で子供達の興 味、関心、能力、特性などを考慮して活動させていたが、制定後は、指導要領に示 されている目標や内容の定着を図らなければならなくなった。そのためには授業研 究が必要になったが、在学者の重度重複化が進み中重度の子供中心の教育に拍車が. かかった。同年、全国特殊学級(精神薄弱)実態調査が実施され、学校教育法の1. 部改正によって特殊学級対象児の明確化がなされた。 「(昭和)20年期、30年 期の精神薄弱教育は、軽度の者の教育を対象にして発展した。学習形態、学習内容 とともに指導法の推移は、軽度の者に期待できる可能性の開発をめぐってなされて きた。」6>といえる。. 1965年、文部省は「心身障害児の判別と就学指導」を作成。その中で米国精 神薄弱学会AAMDの定義を紹介し、同時に情緒障害という用語を初めて使用した。. 同じ年に心身障害児判別・就学指導講習会を開催している。66年からは特殊教育 内地留学制度を実施。翌67年には第2回目の全国学齢児童生徒中の精神薄弱児実 態調査を実施し、出現率を2.07%とした。適性な就学指導を中心とする地域社会 の具体的活動を通して、特殊教育振興を進めるための拠点として特殊教育推進地区 の指定をはじめたものこの年であった7)。. 1969年文部省は「特殊教育の基本的な施策のあり方について」という報告を 行う。その概要を以下に示す。. ○障害をもたない普通児であっても心身障害児であっても学校教育の目標において 変わるところはないが、…とくに教育上の配慮を加えたり、適切な教育的取扱い を行う必要に答えるために特殊教育が用意されるべきこと。. ○したがって、心身障害児のひとりひとりの能力・特性等に即応し、その能力を最 大限に伸ばすための教育を施すためには、どのような教育上の配慮や適切な教育 的取扱いを行うか、また心身障害児に最もふさわしい教育の場をどこに求めるか は、学校教育全体を通じて考慮すべきであること。. 一14一.
(18) ○教育上の配慮や適切な教育的取扱いについては、可能な限り幅広くかっきめ細か に考え、柔軟な運用が図られるべきこと。. ○普通児とともに教育を受ける機会を多くすること。 (アメリカなどで行われてい. るいわゆる特殊教育におけるインテグレーションの動向に反映しているといえよ う). ○普通学校に在籍し、特定の時間、特別の指導を行うことによって普通児とともに 学習することが可能な心身障害児については、その障害の種類・程度等により、. 必要な施設設備を普通学校に配置し、専門の教員の配置を図るなどの措置を講ず ること。. ○精神薄弱には通園による指導は適切ではない。原則として、主として特殊学級に おける指導を行うことが大切。. この報告は、具体的な提言として、今なお文部省特殊教育課の施策の下敷きと なっている画期的なものであった8)。これを受け、翌年より統合教育、巡回教育、 交流教育、通話学級教育等について研究指定を設けて研究依頼をしている。. 1971年に文部省は「養護学校小学忌中学部学習指導要領精神薄弱教育編」の 第1回改訂を行う。その結果、生活科と養護・訓練が新設され、重度化、重複:化を. 考慮した内容となった。この頃より重度障害児への施策に傾斜がかかり、教育現場 は重度障害児教育へと関心が移っていった。 「このため、特殊教育の場の多様化を. 指向しつつも、特殊学級教育や通信学級教育には、日の目を見ない時代となってし まった。」9). このような重度重複化を考慮し、この年に国立特殊教育総合研究所が設立され、. 国連総会では「精神薄弱者の権利宣言」が採択された。 1972年には、精神薄弱. 特殊学級在籍者が約120,000人となりピークを迎える。文部省は、養i護学校整 備7か年計画、特殊学級増設をその内容とした「特殊教育拡充整備計画」を開始. し、情緒障害特殊学級設置10年計画を策定する。73年頃から特殊学級在籍児童 生徒数は減少傾向を見せはじめる。文部省は「精神薄弱特殊学級教育課程編成の手. 引き」を刊行し、特殊学級特別設備の補助を開始する。1973年には、79年の. 一15一.
(19) 養護学校義務制に向けての予告政令である「学校教育法申、養護学校における就学 義務及び養護学校の設置義務に関する部分の施行期日を定める政令」 (昭和48年政. 令339号)が公布される。同年、厚生省より「療育手帳制度実施要項」の通達が出. される。その後、文部省は「養護学校学習指導要領解説」の刊行(74年)や「重 度・重複障害児に対する学校教育の在り方について」の報告(75年)等、養護学校. 義務制に向けての方策をたて続いて行う。1975年は、精神薄弱特殊学級数が 17,500学級でピークとなるが、その後、減少傾向をたどる。養護学校の拡張に より、比較的障害の重い児童生徒は養護学校へ行くようになり、障害の程度の軽い 児童生徒は、できる限り普通学級で指導しようという気運が出てくるのもこの頃で あった。. 文部省教育課程審議会は、1977年、特殊教育部会を設置する。同年、厚生省 は「1歳5か月児健康診断の実施について」通達を出し、障害児の早期発見体制の 強化を図ろうと考えた。. 文部省は、1978年に「軽度心身障害児に対する学校教育の在り方」という報 告により、 「養護学校義務制実施後の問題として特殊学級や高級学級について早手 回しに準備をすすめた。」10)その要約を以下に示す。. 教育措置基準については、現在、精神薄弱特殊学級には、精神発達の程度が中度. 以上の精神薄弱者や、精神薄弱者と認められない境界線児が入級している。従っ て、今後精神薄弱特殊学級の対象者は、極力、精神薄弱特殊学級対象者に限定する ことが望ましい。また、境界線児についは、通常の教育課程を履修することが著し く困難ではないと考えられるので、通常の学級において留意して指導することが望 ましい。. 指導内容及び指導形態については、個々の生徒の実態に応じて、小学校又は中学 校の学習指導要領のほか、 「養護学校小学部・中学部学習指導要領」を参考として. 教育課程を編成することが望ましい。特別活動などについては、通常の学級の児 童・生徒との交流の機会を設けることが大切である。. 境界線児の指導に当たっては、学級編成及び教育課程の編成等への配慮のもと. 一16一.
(20) に、通常学級において指導するほか、必要に応じて特別な指導の場を設けることが. 望ましい。この場合、特に校内の協力体制の確立、教材教具の工夫等のほか、児 童・生徒の社会的適応性の把握に努め、その実態に即した適切な指導を行うことが 大切である。. なお、この報告をまとめるにあたって考慮された点は以下の3点である。 ○障害の状態に応じた教育形態の多様化 ○小、中学校の通常学級における教育との関連 ○養護学校義務制実施後の特殊学級の在り方u). 1969年の報告をより具体化した各論であったが、精神薄弱教育については出 尻による指導等には言及していない。大きく分けると教育措置基準と指導内容及び 指導形態について示された内容であった12)。. 以上のように、この報告は普通学級内の軽度心身障害児の取り扱い、つまり通級 学級の設置,運営,巡回による指導の充実、交流教育の実施と特殊学級の正常化、. 指導の充実等について述べられたものであった。しかし、義務制にともなったさま ざまな問題を抱え、特殊学級への新たな施策を実施するまでには至らなかった。こ の点について宮崎(1992)は、 「この軽度心身障害児に対する報告は、昭和54年度. からの養護学校教育の義務制実施後の施策として非常にタイミングよい時期を選ん だが、養護学校教育の義務制実施のための移行に傾斜をかけていたため、軽度障害 児に対する施策の実施に関し着手が遅れた。」13)としている。同78年、文部省は. 77年度の初等中等教育局長通達「教育上特別な取扱いを要する児童・生徒の教育 措置について」を廃止する。また、文部省特殊教育課長補佐が就学先について「親. の希望は問題とならない」と発言するなど、就学についての問題が各地で頻発し た。. 1979年、さまざまな議論を呼んだ養護学校の義務制が実施された。毎日新聞 は、養護学校義務化に伴い、全国で6,200人もの児童の養護学校への転校という 事態を報道した。同年、精神薄弱養護学校学習指導要領の第2回改訂が行われ、総 則において小、中学校と特殊学級との交流を促進するように示し、社会自立を目指. 一17一.
(21) した職業教育の充実、訪問教育を養護学校教育の一環とすることなどが述べられ た。精神薄弱特殊学級は、これまで以上に多様化し、教育課程の一元化が無理な状 況へと追い込まれた。特殊学級担任教師は、学習指導要領:に準ずる指導内容を小、. 中学校の学習指導要領や精神薄弱養護学校の学習指導要領を基に選択、組織しなけ ればならなくなった14)。この年、文部省は就学指導委員会委員研究協議会を発足さ. せ、翌1980年に「就学指導の手引き」を作成している。. 1981年には国際障害者年、83年より国連障害者の10年が始まり、 「共 生」を理念とした交流教育や地域福祉についての審議や施策が行われ始めた。82 年には「心身障害児に係る早期教育及び後期中等教育の在り方」という報告によ り、統合教育や厚生サイドとの連携や高等部の設置促進、青年学級の開設、高等部 のみの養護学校の設置、特殊学級卒業生の高等学校や高等部での受け入れ、進路指. 導、教員養成や研修、施設での受け入れ等について述べられた。84年に文部省 は、心身障害児適性就学推進校を指定し、就学資料の作成を始める。臨時教育審議. 会が発足し、87年忌第3次答申において「特殊学級については、障害の実情等を 考慮し、通級学級における指導体制の充実を含め、その整備に努める」ことを確認. し、続く第4次答申では「障害者が、家庭や地域社会から孤立しないで、障害の種 類と程度に応じた適切な教育が受けられるようにすることを基本とする。医療・福 祉・教育が一体となって機能する地域センターの設置の推進、就学相談等の充実な ど障害児教育を充実する」こと等が述べられた。この年、心身障害児交流活動地域. 推進研究指定が行われている。翌88年には、教育課程審議会答申が出され、三級 学級の教育条件の改善と整備、教科書・指導書等の充実、教員の養成と現職研修、. 交流教育と障害者理解の教育、医療・福祉等の関係機関との連携、家庭教育と社会 教育との連携等が盛り込まれた内容になっていた。. 89年には、小、中学校学習指導要領の第5回改訂と精神薄弱養護学校学習指導 要領第3回改訂が行われた。その結果、小、中学校では小学校低学年に生活科が新 設され、それに伴い理科と社会が廃止された。道徳を4つの観点から再編成し、個 に応じた指導を通して確実に身につくようにするとした。文部事務次官通達で「学. 一18一.
(22) 校教育法施行規則第73条の19第1項の規定により小学校又は中学校における特 殊学級において特別の教育課程による場合は、小学部・中学部学習指導要領を参考 として実施されるよう願います。」とされた。その後、通級制に関する審議が重ね. られ、1992年に「通級による指導に関する充実方策について」報告がなされ る。それは、通級に関する概念規定、通級が適切な者、教員定数上の措置、市町村 や学校の就学指導委員会の充実、実験学校の設置、学習障害に関する基礎研究の充 実等について述べられたものであった。同年、学習障害等の指導法に関する調査研 究協力者会議が発足した。. 1993年に通級学級制度が始まった。学校教育法施行規則の1部が改正され 「通常の学級に在籍している児童生徒についても、通級による指導を受ける場合に は、教育課程の特例を認める」とされた。しかし、精神薄弱児は対象外とされた。. 翌年の調査で通級による指導は80%が言語障害であり、情緒障害、難聴と続く。. 他校通級が多く1998年には全国で1,717名の教員加配を予定していると発表 した。. 一19一.
(23) 註 1)文部省『特殊教育百年史』東洋館出版社、pp.392−393、1978。. 2)宮崎直男r交流の多い特殊学級教育』東京書籍、p.11、1983。 3)前掲書1)、p.390。 4)荒川勇・大井清吉・中野喜達『日本障害児教育史』福村出版、pp.175−176、 1976。. 5)宮崎直男r通級学級教育が始まる』明治図書、p.13、1992。 6)望月勝久r戦後精神薄弱教育方法史』黎明書房、p.453、1979。 7)前掲書3)、pp.211−212。 8)前掲書5)、p.22。 9)前掲書5)、p.22。 10)前掲書5)、p.23。 11)前掲書5)、p.117。 12)前掲書5)、pp.l17−119。 13)前掲書5)、p.117。 14)前掲書5)、p.35。. 一20一.
(24) 第2節 岡山県における特殊教育の概観. 岡山県における障害児対策の第1は盲ろうあ児教育であり、第2は特殊学級の開. 設であったとされる。戦後、学校教育法が制定され、1948年より盲学校聾学校 の義務化が実施されることになった。岡山県には戦前から岡山県立盲唖学校があ り、48年を機に県立盲学校と県立聾学校が設立された。また、障害児対策として. 大きな役割を果した施設に旭川荘がある。これは、1954年、川崎病院長川崎祐 宣の総合医療社会福祉センター計画から始まる。戦後、岡山県は民生部に児童課を 新設し、戦災孤児や浮浪児対策として岡山県中央児童相談所を設置し、 「一時保護. 所」を設けた。しかし、身体に障害を持つ児童の援護については放任され、満足な 施設もなかった。その様な背景から旭川荘設立が進められた。設立にあたっての趣 意書には「社会福祉事業の発展は、社会の民度(文化)の高さに比例するが故に、 民意が高くなれば認識する問題は多くなる。」とある1)。このように民間からの熱 意に呼応する形で行政施策も進展を見せていった。. 岡山県において、特殊学級が最初に設けられたのは笠岡市立金浦中学校(1949年 11月目である。戦後の社会的混乱と学制改革による変動の続く中で、生徒達の能力 差が大きいことと、遅れのある生徒のため、学力不振を取り戻すために開設された 学級であった2)。しかし、そのための教員も予算もつかず、校長(毛利章一)と担 任(藤原マサ)の熱意により学級は成り立っていた3)。入山生徒の判別についても. 基準はなく、 (文部省が判別基準を示したのは1953年)基礎学力を中心に32名を 選出して編成した。指導内容は、 「日常生活と関係の深い時事問題や興味をひく ニュースを取り上げ、それに関連する教科の内容をあわせて指導する」4)生活単元. 学習と、国語・数学の基本を中心にした基礎学力の強化であった。1955年に は、文部省補助による特殊学級1教室(22坪)が建築された。 「このように、戦後. 最初の特殊学級は学力の不振を取りもどすための学級であって、現在の障害児学級 とは質的な違いはあるが、これが今日の発展の基礎になっている」5)ということが できる。. 一21一.
(25) 1950年には、岡山大学付属小学校に学習不振児、中間児4名の特殊学級が編 成され、翌51年には、下津井東小学校に精神薄弱特殊学級が開設される。当時、 付属は特殊学級という言葉は使用しておらず、 「養護学級」と呼んでいた。これ. は、1938年(昭和13年)岡山県師範学校付属小学校において学級が設置された 際に命名された名称であった。命名の趣旨は「昭和13年、戦時下の日本において は、r国民一人一人の鉄のような身体こそ、もっとも大切な日本の力である』とい うのが一般の考え方であった。人間の価値評定の尺度が何よりも体力によってなさ. れる時代であった。このため、教育の中で占めるr健康』の比重は決して小さくは なかった。健康な児童には、より優れた体力を、虚弱な児童にはより優れた体力を というのが当時の重要な教育目標の1つであった。」6)という内容にのっとってお り、初代の担任であった才野俊匡は次のように語っている。 「大東亜新秩序の建設. を目標とする支那事変の進展は我々に幾多の教訓をもたらせた。その中に於て強く. 感ぜられたものの1つは『健康』ということであった。我が身体は私のものではな く、大君の御楯となるべき我が身体である。八紘一宇の皇国の使命を実現するが為 には何よりも先ず健康であらねばならないということである。この点から見て健康 第一の教育を施し、学習に於ても普通学級以上の効果を上げて、心身の健康を図ら んとするの目的で設けられたのが、養護学級であります。」7)この養護学級は、そ. の後「国民学校施行規則」の中で法制化されたが、第2次太平洋戦争が始まった1. 940年に閉鎖された。. 1950年当時、岡山県の特殊学級は、笠岡市立金浦中学校と倉敷市立中州小学 校、それに岡山大学付属小学校のみで、 「全国的に最低の学級数」8)であった。付. 属小学校は当初、IQが70∼80で、成績の向上しそうな児童を15人程集めて教育す る予定だったが、保護者が敬遠したために予定を変更せざるを得なかった。当時の 担任であった山田卓示教諭は次のように述べている。 「学級の構想については、初. めての試みであり、まずIQ 70∼80の児童を中心に15人程度集めるところがら 出発しようということになった。…私たちは人数は確保できると思っていたが完全 にあてがはずれた。連日市内の各小学校の職員会議に出向いて説明し、さらに該当. 一22一.
(26) の家庭を訪問し説明したのですが父兄はr普通学級にいて、どうにか卒業すれば成 績の少々悪いことなどわからない。だがそのような学級にはいれば、世間に向って 知能の低いことを明らかにし将来こどもが不利になりはしないか。』ということを. 危惧し容易に承諾してくれなかった。結局1か月おくらせて、開会式を行った時に は、教育学部長 坂元、学校長 柴山、教頭 卯野、教務佐藤、岡山大学 江草、. 沖の諸先生をはじめ、付小職員が列席したのに、児童は僅か3人というありさまで. あった。」9)その後、1953年には比較的IQの低い生徒を集め、精神薄弱特殊学 級に編成替えをし、55年には2学級となった。. 1952年には児島市立下津井小学校特殊学級が開設され、54年には、玉野市 立宇野小学校と児島市にあった由加学園内に特殊学級が設置される。その後、中学. 校特殊学級は、 「57年からは毎年2∼4学級の増加を示し、62年から66年ま での5年間には109学級という驚くべき増加」10)を示す。. 1950年に発足した岡山県特殊教育研究連盟は、53年忌岡山県特殊教育研究 会と改称し、県下の特殊教育振興に中心的な役割を果たしてゆくことになる。54. 年に全日本特殊教育研究連盟に加入。62年には会報「つばめの子」を発刊、これ は、自主教材の紹介など、教育現場で役立つ情報を提供することを目的とした冊子. であった。また、66年には「精神薄弱教育〈指導計画例〉」、67年には「精神 薄弱教育〈学級経営・学習指導〉」がそれぞれ刊行される。68年まで岡山大学付. 属学校に事務局がおかれ、センター的役割を担っていた。1955年には付属申学 校に特殊学級が開設される。57年には特殊学級を新設する市町村に対して設備費 の補助が開始され、岡山市に石井中学校、倉敷市では西中学校、玉野市の日比中学 校に特殊学級が開設された。また、旭川療育園内に岡山市立血石小学校、岡北中学 校の派遣学級として肢体不自由特殊学級が開設された。. 1955年には、岡山大学付属学園長の小松原が中心となり、岡山精神薄弱者育 成会(現在岡山県手をつなぐ育成会)が結成され、付属小学校特殊学級の親24 名、鹿田小学校特殊学級の親15名、岡山市内小中学校長約30名、県内特殊教育. 研究会員約30名、計100名が付属小学校講堂に参集した。育成会の資料. 一23一.
(27) によると「当時、この子たちの教育に当っていて、まず気がついたのは,たいてい の親が悲しい思いに沈み、この子たちを世間から避けがちになっていることであっ たと言われている。親たちの閉ざされた気持ちを開き,地域との交りを深めること が,この子たちの教育にとって最初に取り組まねばならない課題と考え、まず親同 士が遠慮なく話し合える機会が望まれ、これにこたえるものとして生まれたのが育. 成会であった。育成会が結成されたころは、毎月1回川崎病院北隣りのりパティホ ールで、担任者の話しを聞いたり、近江学園・信楽学園などの様子を知らせても らったりして、特殊教育のあり方を探っていた。」11)とされる。1959年、岡山 市を中心とした育成会活動が発展して、岡山県精神薄弱児育成会が発足する。県下 の代表120人が、二六小学校講堂に集まり発会式を挙行した。. これまでに地域の育成会や親の会は,岡山市・笠岡市・玉野市に設けられてお. り、59年から62年までには倉敷市・井原市・旭川学園・総社市・玉島地区・成 羽町・熊山町などに設けられた。特殊学級が普及し育成会が活発になるにつれて親 たちの自覚が高まり、障害をもつ子供達の生涯にわたる福祉や中・重度の子供達の それが課題となってきた。この動きは,特殊学級の教育を核として地域民へ発展し. た育成会とは別に、親たちだけの会を作ることも必要となり,61年、倉敷市に 「手をつなぐ親の会」が結成され、漸次各地域へ波及する。60年、「この子この 人の理解を社会に求める運動」として「愛の10円」募金を始めた。この募金は,各 方面の支援を得て県下小中学校児童生徒及び高等学校生徒で行われ、県育成会の精 神的経済的支柱となっている。. 事務局は県教委指導課にあって、特殊教育担当指導主事が事務に当っていたが,. 事務が急増したために1963年、付属中学校長を退職した小松原が事務局長に専 任され,事務所を中央児童相談所の一室に開設することとなった。そして県福祉会 館の建設、県市養護学校設置運動、会報の出版等の活動に尽力した12)。育成会創設. 期から会長として活躍し、現在岡山市手をつなぐ育成会会長の小若氏は「まだ学校 にも行けずに家で困っている人に呼びかけて誘ってあげようということで、家を自. 転車で回っていた。現在の相談員のようなことをしていた。家で泣いている. 一24一.
(28) お母さんに声をかけて学校へやるようにしょうということでやっていた。」と語 る。. 岡山県における特殊学級の整備は、この育成会の学級増設運動によるところが大 であった。育成会の会報によると「県教委の指導課では、文部省の意向をうけて、. 特殊学級設置を急速に進めることを考え、その方策として、精神薄弱児育成会の組 織を全県下に急速に拡大することを計画した」13)としている。. このように、特殊教育研究会は育成会と協力しながら、特殊教育振興のための活 動を続けていた。. 1963年度における岡山県特殊教育研究会の主な研究活動は以下の通りであ る。. ○第2回岡山県特殊教育精薄研究大会の開催. 岡山県下の精神薄弱関係者などおよそ400人が集まり、研究発表や各自の実践 をもとにしての話し合いが行われている。なお、その際に開かれる分科会は下記の 通りであった。. (1)小学校・中学校特殊学級の管理、運営について (2)小学校・中学校特殊学級の指導計画、学習指導法、および評価について (3)特殊学級の新設置について ○研究誌の発刊. 次の3点について調査をもとにまとめられている。 (1)各特殊学級の予算について (2)各特殊学級の自作教具、備品について (3)各中学校特殊学級の職業指導の際に行っている作業の内容について14). このような動きの中1特筆すべき事項として、全国初の試みとして岡山市立内山. 下小学校に難聴学級が設置されたことがあげられる。1960年、岡山大学医学部 教授高原滋夫(耳鼻科)の努力と熱意が実を結び、岡山大学医学部耳鼻科教室、岡 山ロータリークラブ、岡山市立内山下小学校】7rAなどの援助と協力によって誕生し. 一25一.
(29) たとされる15)。また、同年、弱視学級が岡山市立南方小学校に、69年には岡山市. 立旭中学校に開設された。1961年には児童福祉法一部改正によって、情緒障害 児短期治療施設がつくられることになり、岡山県は全国に先がけて県立津島児童学 院を設置している16)。. 育成会の事務局が児童相談所内に移転した1963年、岡山市立石井中学校を会 場として、第2回岡山県特殊教育研究大会が開催される。同校は、県下の中学校特 殊学級としては、笠岡市立金浦中学校に次いで2番目に設置された学校である。翌 64年には、県下で最初の養護学校となる倉敷市立養護学校が開設される。. 1965年忌は岡山大学に養i護学校教員養i成課程が設置され、県下において特殊. 教育の専門家の育成が開始される。同年、付属学校に1950年に設置された小学 校特殊学級、59年忌設置された中学校特殊学級は、岡山大学教育学部付属養護学 校となる。その経緯について岡山大学第6・9代教育学部長だった中江は「全国の 付属学校の中で岡山の付属の特殊学級はもっとも早くからおかれたものの一つで、. そのため特殊学級として深く根をおろし、ある意味で養護学校として誕生するのに は過熟児の状態でなかなかの難産であった。」17)としており、初代教頭の金重は 「付属養護学校が養護学校になりきるか、特殊学級の性格を加味するかにいつも悩. んでおりました。県下の数多くの特殊学級との連携を考えたとき、わたくしとして はできるかぎり後者の立場をとるように努めてまいりました。」18)としている。そ. の背景として、創設期に岡山大学教育学部教授であった坂元彦太郎の影響が考えら. れ、1958年の「精神薄弱児研究No.6」において「精薄児の教育は普通の学校に おける特殊学級で行うことを本体とすべきである」19)としている。. 岡山県教育行政の重点施策として「特殊教育の振興」があげられるのは1967 年差ある20)。同年に県教育庁指導課が出した「学校指導重点目標」によると、 「精. 神薄弱特殊学級の指導は、養護学校学習指導要領(精神薄弱教育編)を参考にして いるが、精神薄弱の特性から、具体的な指導計画作成の段階では、いろいろと問題 が多い。それは、精神薄弱の特性が、その出現の原因等によっていろいろな類型に わけられ、類型によって特性に著しい差異がみられるからである。そのために指導. 一26一.
(30) 計画は、こどもの実態や、地域の実情を考えて作成することが必要であり、各地域 共通のものはないともいえる。」21)としており、特殊学級の学習指導として次の点 を考慮するようにある。. 1指導計画作成のさいは、個々のこどもについての具体的な目標、学級全体の目標 を考え、実態に応じた学習活動を考えておくこと。 2こどもの実態を知識だけでなく、行動の特性からもとらえておくこと。. 3一斉指導、個別指導等の学習指導の形態を、こどもの実態に即して考えておくこ と。. 4具体的な指導場面は、こどもの日常生活や、生活習慣などから選定されているこ と22)。. 1968年には県下で最初の言語障害特殊学級が岡山市立出石小学校と倉敷市立 倉敷東小学校に開設され、その後、玉野市や津山市、笠岡市等の小学校にも設置さ れた。. 翌69年には、全日本特殊教育研究連盟第8回精神薄弱研究全国大会が「精神薄 弱教育の進むべき方向を求めて」というスローガンのもとに岡山県で開催された。. 開会あいさつの中で、当時、全日本特殊教育研究連盟理事長であった三木安正は 「特殊学級の量的拡大に対して、質的進歩が伴っていないことは、すでに以前から. 指摘されていますが、教育対象となる精神薄弱児については、軽度から中度、重度 にいたる障害の程度およびいろいろな類型に応じた教育のあり方が、あらためて問 題にされてきています。軽いほうについては普通教育との関連、重いほうについて は福祉施設への収容との関連といったこともあり、また、その生涯の生活の問題に ついて、彼らの働く場はどうあるべきかというような社会生活への参加の様態など を究めてまいりませんと、学校教育段階における教育方針、教育内容なども確立で きません。」23)と述べている。岡山市立石井中学校坂本校長が大会実行委員長、同. 校特殊学級担任杉原教諭が大会事務局長であり、この大会より公開授業を取り入れ. ることになった。石井中学校は第2回大会に続き、会場校として中心的役割を果し た。この大会に参加した神奈川県特殊教育研究会長は「岡山大会は綿密なる企画、. 一27一.
(31) 周到なる運営、真摯なる研究によって多大な効果を収めた」29としている。. 1971年には、育成会事務局が岡山市福祉文化会館に移転し、県立の精神薄弱 養護学校としては初めての誕生寺養護学校が設置される。育成会は、岡山・津山・. 倉敷・高梁という4つの教育事務所単位に県立の養護学校を設置してもらいたいと いう運動を続けていた。育成会の資料によると「県教委は、積極的に取り組もうと するのですが、知事が難色を示すので、県教委はわれわれに希望をもたせながらな. かなかにえきらなかった」25)としており、その結果、倉敷市は1964年、市立養. 護学校設置に踏み切ったという背景があった。1961年に開校した肢体不自由養i 護学校である県立岡山養護学校は別として、岡山市における精神薄弱養護学校は、. 1965年に開校した岡山大学付属養護学校以来、76年に県立西養i護学校が開校 するまで、11年間設置されなかった。岡山市における県立の精神薄弱養護学校設 置が遅れた背景として、76年の育成会資料には次のように記されている。 「岡山の養護学校設置は明るい見通しがたったのです。…ところが、津山は、美 作地方振興協議会という政治団体が養護学校問題をとりあげ、知事と交渉して、久 米南町が敷地を寄付することで、誕生寺設置を決めてしまったのです。それは、そ れでよいとして、許せないのは『岡山に設置しない』と言明したという放言です。. 岡山の期成会は、県教育長・市長会長・町村長会長・期成会長の四者会談を開い て、話し合いをつけたうえで活動を続けてきたのです。そうした活動を無視し、教 育委員会の権限を無視して、誰かが重要な教育行政を独断で決めたらしく、まこと に越権であり、民主政治を破壊するものであると思いました。そうしたあとで、教 育長は更迭されて、教育行政を誰かの手中に納めることを計画したようです。育成 会は、県議会を通じて抵抗を試みたのですが、岡山の養護学校はまだ設立されない ままになっているのです。」26). 岡山県が養護学校設置よりも特殊学級教育に力を入れた理由の一つに、上記のよ うな事情も関係しているものと思われる。. 1967年の文部省特殊教育推進地区の設置をうけて、井原市が72年から73 年度まで特殊教育推進モデル地区に指定される。 「同市では『井原市特殊教育推進. 一28一.
(32) 協議会』を作り、対象児の適性な判別相談と就学指導の徹底、地域への啓蒙啓発活 動などを行った。」27>とされる。同73年には県立総合社会福祉センターが開設さ れ、県内各地や同センター内の精神薄弱者施設「由加学園」に入所していた児童・. 生徒が教育を受けることになった。そのため、肢体不自由養護学校である県立岡山 養護学校の派遣学級を設けた。また、この年は、文部省より「学校教育法中、養護 学校における就学義務及び養護学校の設置義務に関する部分の施行期日を定める政. 令(昭和48年政令339号)」が事務次官通達で公布され「各都道府県は、昭和54 年からの養護学校における教育の円滑な実施を図るため、この教育の対象となる児 童・生徒の実態を把握して、これに基づき、養護学校のための年次計画を策定する などして、計画的に設置すること。」28)とした。これをうけて岡山県教育委員会教. 育長は、翌74年に岡山県心身障害児教育研究協議会を設置する。同年「心身に障 害をもつ児童・生徒の教育振興を図るための教育体制整備の方途について」という 答申を出す。以下にその概要を示す。 【教育体制整備の在り方】. 障害児の教育は、教育の全ての分野で取り組む必要があることや、生涯にわたっ て続けられる必要があること、さらに、障害をもたない者に対して、その理解を深. め、行動を促すための教育も必要であると述べている。そして、当面の課題とし て、義務教育段階を中心とする心身障害児の教育体制整備の基本的な考え方として 次のような内容を示した。. ◇在宅、福祉施設入所など、居住状況の区別なく、すべての児童、生徒の障害の種 類と程度に応じて、それぞれ適切な教育体制を整備充実する必要がある。. ◇可能な限り、障害児も小学校、中学校教育の中で一般児と交わり、地域社会の一・ 員として教育を受けるのが望ましい。. ◇教育実施のための経費は、公費をもってあてるのを原則とする。. ◇昭和54年度からの養護学校義務化を待たず、できる限りの早期に障害児全員の 就学を図る必要がある。. ◇在宅障害児のための教育は、当面、訪問指導員制度の拡充に努めるとともに、将. 一29一.
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